
碧巌録を読む−2
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これは「碧巌録を読む−1」の続き。前回同様、面白そうな所のみ拾って、私の気のままなコメントをのせておきます。禅の心がいかに伝わってくるかと言うのが、もともとの私の問題意識(遊び心)です。サブタイトル(副題)は気ままに(とびとびに)つけました。深い意味はありません。原書は岩波文庫です。これらの元はヤフー掲示版、創造性のトピに2007年3月―2007年5月にのせたものです。何かのご参考になれば幸いです。
洲崎清
前三々後三々
p。50
ーー
鳥の声が聞こえる。ピーピー。
草が風に揺れる。サラサラ。
どうだった?
まあまあ。
何したの?
なんにも。
お元気?
見りゃわかるだろう?
==
はじめは芳草に随ってゆき、
また落花を逐って帰る。
p。57
ーー
朝は日ののぼりとともにおき、
夜は星の光を見て休む。
川はそのせせらぎを忘れず、
鱒は水面の餌をとって、そこに跡を残すのを知らず。
ああ、ここに花が咲いている!
風が草をなびかせる。
不思議を見る・知る不思議。
その不思議の現成するこの世界の不思議。
おお。
ああ。
。。。
==
三界無法何処にかこころを求めん。
p。65
ーー
おーい。
求めると求まらないよー。
きりないぞー
気をつけてねー
はーい
==
南泉庭前の花をさして、いわく「時人、この一株の花を見ること、夢のごとくに相似たり。」
p。99
ーー
どうせ見るならいい夢見てね!
眼が覚めたら、しびれるよ。
ああ、ああ、ああ、ああ、
一株の花!
空の星、流れる雲、、、、
当たり前が当たり前でない不思議。
==
趙州:大死底の人、却って活するとき如何。
投子:夜行を許さず、明けに投じて須らく到るべし。
p。107
注)夜中に行くことは禁ずる。しかし夜明けには到達していなければならない。
ーー
そのままですべてがととのってます、というようなものだね。
あるいは、行こうとする前にもう着いていますというようなものとするかな。
みんなほとけになるまえに、既に仏さんなんだね。
感謝、祈り、感謝、祈り!
==
好雪、片々別所に落ちず。
p。114
(注)見事な雪だ。一片一片が別のところに落ちない。
ーー
これだから、まあ、ひっくり返りの気づきが大事と言うわけなのだろうね。
別のところに落ちても、別のところに落ちてないというわけだ。
あってないとか、橋が流れるとか、隻手の音声とか、無をもってこいとか、いろいろあるもんだ。
まあ自在の境地は「そこ」にある、ということにしておこう。
==
眼裏もまた雪、耳裏もまた雪、正に一色辺に住在す。
またこれを普賢の境界一色辺のことといい、又これを打成一辺という。
p。120
ーー
この辺かっこいいね。これ道元も読んだのかな?大拙は無論読んでいるのだろうけど。
それと裏というのがうがっていていいね。
ひっくり返りの裏返し。
おっと気づけば、
雪ばかり、
というようなものかな。
(それにしても私のようにほとんど漢文の素養がないものはちょっとややっこしいけども、まあ、直観で読むしかないな。)
==
僧、洞山にとう、「寒暑到来せば、いかにか回避せん」
p。123
ーー
この僧わかってきいているのかな?物騒、物騒。
絶体絶命の時どうする?
==
僧、趙州にとう「万法は一に帰す、一は何処にか帰す」
「布七斤」
p。141
ーー
こういう答えがぱっと出るのは、趙州がそのときのこの僧を知り、(外境)それが趙州の内の働きとあいまって、ひらめいた、ということなのだろう。
だからこの答えはそれだけで普遍性があるとともに、この僧(ないし、似たよう問いをもっているもの)に対して何か指し示すものがある、というわけ。
具代的なだけ意味に深みがある。これを色即是空、空即是色、といったらインド的になっちゃう。そこで、目の前のもの、周りのもので料理するというのが趙州の(禅の)やり方と言うことだろう。
==
山はこれ山、水はこれ水。
p。147
ーー
なんてことはなかった。
それらは、そのままで、自ずから然りだった。
ふらふらせずに、丁寧に。
あるがままをあるがままと見、為すべきを為す。
(前に出た、「はじめは芳草に随ってゆき、また落花を逐って帰る。」と対になっているみたいだ。)
==
これは山はこれ山、水はこれ水。
ないし一切万法、ことごとくみな現成して、はじめてこの無事底の人となるべし。
p。147
ーー
これは無事禅とは違うのだろうな。往環、回互、などいうとめんどくさく成るが、無事底からの智慧あるはたらきを「展開したい」ところではある。
(それとも、そんな展開は「自ずから然り」であえてどうこういうな、とするか。)
==
「門外これなんの音ぞ」
「雨だれの音」
「衆生は顛倒して己をみうしない、ものを追う。」
p。149
ーー
少林窟の井上老師と同じ手口だね。
まあ、引っかかるなよ、という老婆心としておくのがいいのだね。
でも、馬鹿になったら、そして平等が「わかったら、」ちゃんとひっくり返って、差別・言葉もうまく使えないといかんだろうね。
おい、あれ何の音だ?
雨が降って山崩れ、土砂がこっちに突っ込んでくる音だ!危ないからよけなさい!
(そういえば、前に「南泉庭前の花をさして、いわく「時人、この一株の花を見ること、夢のごとくに相似たり。」があったね。」
==
いかなるかこれ法身?
六収まらず。
注)六は六根、六識など。
p。156
ーー
収まったら、面白くもなんともない。
(それにしてもこういう問答きりないね。ご苦労さんだ。)
==
わずかに是非あれば、紛然として心を見失う。
階級に落ちざれば、又模索する事なし。
p。187
ーー
上の言葉、盤珪の不生、沢庵の不動智につながるようだね。
あるいは信心銘も同じ。
ありがたいことだ!
ここはコメントなしに、そのままうけとる・うけがう、しかないね!
==
明眼の漢はカキュウなし。
物をしりぞくるを上となし、物を遂うを下と為す。
(注:カキュウ云々:紋切り型、方どうりの方式。
物をしりぞくる、云々:枠づけされた事物を受け付けないのが上根で、それに付いて回るのは下根である。)
p。196
ーー
この51則の公案のポイントはこれだろう。
大拙に言わせれば「それはそれとして」だ。
枠づけされた事物を受け付けないのが上根で、、、とあるが、枠づけされた事物をそのまま受け付けてこだわらないのが、、とみたい。
基本は鏡の心、応無所住而生其心であろう。つまり、透き通っているのである。引っ掛かりがないのだ。
どうしようもないつまらないものは、ほっとけ(そのままゆるす)というのが智慧(大悲)ということにも成るのだろう。
==
祖いわく、汝昨日はいずこにか心をとめし
丈いわく、今日は鼻頭又痛からず
p。211
ーー
「鴨が何処に行ったのか、」
「飛びすぎちゃいました。」
では心が今此処にない、というところなのだろう。
そこで、鼻を捻る。
「いたいいたい、」
「なんだ、まだここにいるじゃないか。」
ということで今此処の感覚(Awareness)の重要性をいっているのだろうが、(⇒少林窟と同じ手口)
今此処の感覚を持ったまま(鏡の心)「飛びすぎちゃいました。」でもいいだろう。
それでなきゃ、人間の社会性というものが出てこない・働かない。
==
とわいえ、臨済の「即今、目前、聴法底」などが思い浮かばれる。そこで臨済のいろいろな表現をひろってここにリストアップしておく:
「即今目前聴法底の人を識取せよ」(今そこで法を聴いているそのものをつかみ取る)
「目前聴法底の人(今ここで説法を聞いているその当のお前たち自身)、火に入って焼けず、水に入って溺れず」
「なんじが目前歴歴底」
「若し生死去住、脱著自由ならんことを欲得せば、即今聴法する底の人の、無形無相、無根無本にして、活撥撥地なることを識取せよ。」
今此処、只管、喝、不動智、鏡のこころ、などと皆つながっているのだね。
==
ある家に至って弔慰す。
漸源、棺を打っていわく、「生か、死か」
道吾いわく、「生ともいわじ、死ともいわじ」
「なにゆえにかいわざる」
「いわじ、いわじ」
p。220
ーー
これ不生を示していると見えるね。
生といったら間違いだし、死といっても、いいつくせない。
不ニの法門だ。
こういうふうな所で、すーと、引っかからないなら、まったくの安心だね!
そう、こういうのは少林窟でも現成公案とみるだろうね。
==
そこで、「いわじ」でなくて、、、
喝、
棒でたたく、
素手でひっぱたく、
指を上げる、
ぞうり(靴)を頭の上に載せて去る、
坐禅する、
鸚鵡返しで「生か、死か」
あるいは「君はどうか?」
でもいいだろう。
これでは、禅はむごい、情け容赦ない、というようなものであるが、それは、「そのこと」を知らないことこそ「むごい」という見方に立っているともいえるね。
(あとで「そのこと」を知った漸源は、今はなき道吾に感謝したという。)
==
諸仏かつて世にでず、、、もとより時人了せず、外に向かって追いもとむ。殊に知らず、自己足元の一段の大事因縁。
p。231
ーー
これだから難しいといえば難しいのだね。
もともと答えがあるのを外に向かって答えを探す。
分別の働きの元を調べないといけないのに、
業の働きの原理に目を向けないといけないのに。
足元を照らして一歩一歩歩きたいものだ。
脚下照顧
==
僧、趙州にとう「至道は難きことなし、ただ揀択を嫌う。」と、いかなるかこれ不揀択。
趙州いわく「天上天下、唯我独尊」
僧いわく「これはなおこれ揀択」
州いわく「でんしゃぬ(田舎もの)、いずこかこれ揀択」
僧、語なし。
p。240
ーー
公案は時として、冗談見たいなのが多いね。
まあ、人を小馬鹿にしているみたいだけど、しょうがないか。
ばかもん!
何がしょうがないものか!
しょうがないのはしょうがないのだ!
==
当軒の布太鼓
注)堂々たる無功用の呈示
p。243
ーー
音を出そうとして苦労するけど、苦労してもそんなものに関係ない。
ご苦労さん。
でも、布太鼓はそこいらじゅうにある。
気づけば、そこいらじゅうでなっている。
隻手の音声のようなものだね。
(そういえば今はなきマーチン・ヒューズと言う臨済宗の僧がいたな。彼は布太鼓だった。)
==
活句に参じて死句に参ぜず。
P。287
注)上は南泉が「そなたがいたなら猫を救ったであろうに」というのに対し趙州がぞうりを頭に乗せて出て行ったという話しに付いて、解説した言葉。
ーー
そうだそうだ。一々ああだったこうだったというような人の話しに付き合っていたらニッチもサッチもいかない。死句はほっとくのがいい。ぞうりをはくというのは、言葉(手段)を正しく使うということ。趙州は南泉の弟子ではあるが、ここでは弟子が教えるということになったわけだ。
(ちなみに私も10年ぐらい前であろうか、ある老師と話しをしていて同じような場面に会った。ぞうりはつかわなかったが、、、、おっとっと。そんな話しは、ほっとこう)
==
家山に帰り到って即便ち休す。
さて家山はいずこにかある。
便ち打つ。
p。290
ーー
ははは、
活句に参ずると、痛いね!
どこどこ?
馬鹿、ポカ!
御前さんが探している時、御前さんは一体どこにいるんだ?
==
疑義してさらに思量せば、君のなおまだ徹せざるを知る。
p。294
ーー
なるほどね。
一つ一つ、スパッときるんだね。
==
いまのひとは多く無に落在し、しからずんば有に落在して、
ひたすら有無のところにおいて両頭に走る。
P。298
ーー
中道というのは波乗りに似ているな。
微妙なバランス(両頭を突き抜けたもの)を見る目、表す体、言葉を見出していきたいね。
ところがそれが、いわば、あたかも何にもしないでなんでもできる、という名人芸につながっているのだね。
それが両頭に走ると、ニッチもサッチもいかないからご苦労さんになるね。
その辺の呼吸がどうか、だね!
==
妍醜分かれて迷雲開く、
慈門いずこにか塵埃を生ぜん。
p。300
ーー
分かれると、何とかしないと収集がつかないと、、、
苦労する。
母子のようにわかれてなけりゃ、迷いがはいる好きがない。
たとえ迷っても、まっさらの迷いだけだ。
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