
はい(受動性)
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ここに載せたものは2007年5月〜2007年7月に、ヤフー掲示板、東洋哲学のカテゴリー、瞑想のトピに書きしるしたものです。妙好人、おその、のハイ(お差支えなし)が思い出されます。
合掌 −洲崎清
これあれ、はい
好き嫌い、はい
上下、はい
あれこれ、はい
右左、はい
いい、悪い、はい
きれい汚い、はい
元気、疲れた、はい
おいしい、まずい、はい
はい!
ありがとう、はい。
感謝、祈り、感謝、祈り!
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ああ、「はい」が、そこいらじゅうに聞こえると、
これはもう、はいはいはいのありがた不思議の世界だね。
で、その「はい」はどこからでてくるの?
はい、それは不思議の国からでてきます。
そしてそれは宇宙にいつもこだましているのです。
では、そのはいを聴くというのはどうするとできるのですか?
はい、それは、その「どうすると」をやめると、すでに聞こえているのです。
感謝、祈り、感謝、祈り!
(私はそのとき、ただ、ただ、ひれ伏すばかりです)
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おーい
はい
おーい
はい
おーい
はい
きりないのう
はい
ありがたいのう
はい
くるしいのう
はい
そのままだね
はい
そうかそうか
はい、そうです
よいよい
はい、ありがとうございます
感謝、祈り、感謝、祈り!
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はい、
は又、小欲知足だね。
耳従うだ。
ところで、孔子の「六十にして耳従う。七十にして心の欲するところに従って、矩を踰えず。 」があるけど、
今、59歳の私、はたして、どんなものかな〜
中道も上の感じと同じだな。
又、戒定慧もおなじ。
おっとっとの油断しませんように!
感謝、祈り、感謝、祈り!
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大拙全集7巻p。367にこうある。
個を究極の実在であるかのごとくに考えて、それに従って行動することがすなわち罪である。。。
ーー
これのもとは東洋的一と言う本でそのうちの佛教生活と受動性というセクションにあるもの。
心にしみいる言葉がいろいろある。
そう、、、しみいるというのは(これも又はいであろう)、ひっくり返って業が抜ける(⇒透脱)というのにつながるのだろう。暫か頓かはべつとして。
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ワーズワースは歌う。
然しー私はこう考える。
自然と私達の心を動かす力がある。
ただひたすらにこれにしたがうと、
私達のこの心が成長していくのだ。
君よ、
永遠に語りとめない、
このおおいなるもののすべての中で、
一としてみずから生ずるもののないことを思え。
それでもなお、
私達は何かを外にもとめねばならぬのであろうか。
だから、、私がここで一人かたっているとしても、
どうして御前は古い苔むく石にすわって、
むなしく時を過ごすのかとたずねるな。
p。368−9
ーー
ああ、鳥が鳴いている。
日が照っている。
この静寂の中に
不思議な働きがある。
いったい、どうなっているんだ。。。。
不思議、不思議、不思議。
うーん。。。
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真宗の学匠の「そのままお助けくださるのじゃ」、、という言葉・教えには多くの落し穴があるので、健全な理論と強い道徳感をもってこれを調理しなければならない。「生命のことを思い煩うな」とか「明日のことを思い煩うな、明日は明日自ら思い煩わん」というような教訓は誠に立派なもので、仏教徒もまたここに含まれる真理には心からの支持をこばまぬものであるが、同時に我々はこの種の現実主義が、空の鳥、野の白百合の生活と本質的に変わらぬ生活であり、一歩誤ると、無自制主義の深淵のなかにまっさかさまに転落する可能性が潜んでいるということを認めなければならない。
だから真実の宗教は常に絶対主観主義を避ける、又そうすることが正しい。
p。375
ーー
以上の点、微妙なところであり、大事なところだ。いろいろなケースがおもいうかぶが今はそれに付いてはコメントしない。
畢竟、人として生きるうえでの社会性に付いて、また、人というものへの深い洞察ができるかどうかと言うことだろう。
釈迦の言う中道も、無論この辺を見ていると私は思う。
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>畢竟、人として生きるうえでの社会性に付いて、また、人というものへの深い洞察ができるかどうかと言うことだろう。
>釈迦の言う中道も、無論この辺を見ていると私は思う。
山にこもってただ一人、受動=能動で社会性なし、まさに滅なら、それはそれ、仮にこれを小乗のいき方といっておこう。
そうでなくて布袋さんではないが、娑婆に戻って社会性の、あるいは穢土の、あるいは趙州の言う地獄の真っ只中での働き、こいつがなかなかの所なのだ。悩みがあって悩みがない、維摩の病いがどうかという事だ。
修業せい、修業せい!
そしてそのまま証せよ!!!
それができたら、感謝、祈り、感謝、祈り、で世界を満たせ!
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うちわけて申しますと、、、私の魂は神といわばひとつになってしまって、私の意志がまったく神の意志の中に消えているのです。。。
存在するあらゆるものの中に、私は神をみるのであります。作られたるすべてのものは無であり、神がすべてであります。
その状態は常に受動的または受動的能動となるものであります。
大拙全集7巻、p。377−8
ーー
そうだ、はいって出る、というようなものだ。
あるいは消えて、つまり無一物、そのまま無尽蔵も同じだ。
ああ。おもしろいな。。。
不思議だな。。。
感謝、祈り、感謝、祈り!
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聖化せられた魂はそれ自体の意志をもはや持たぬのでありますが、厳密な意味で何の働きもをも持たぬのでは決してないのです。
p。378
ーー
そうだ、そうだ。
消えてなくなって生まれ変わるというようなものだ。(Rebirth)
これをどちらかと言うと、かたい言葉で色即是空、空即是色というか、
あるいは無一物中無尽蔵というか、
そんなことはどうでもいい。
宇宙の意がでるか、働くか、、、、、
さあ、
どうかな!?
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疑うことは自殺する事であり、求めることはすなわち否定することで、佛教の言葉で言うと、永劫に生死の大海に沈没することである。
p。383
ーー
アップアップ、沈没ご苦労さん。
身を投げないと浮かばれない、、、ということばがあったような気がするが。
やはり受動、ほっとく、はい、で、、、
ありがとう、だろうな。
そしてそこから出てきた能動は、、、、
鍛錬された、、、いわば火を通ってきた、
宇宙の意のむき出し、だろうな。
疑うのも、求めるのも、意識の範疇ですべき時はあるが、
その先のものを疑い求めると、これはきりがないからね。
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そのままおたすけくださるのじゃ。
。。。
そのままおたすけくださるのじゃ。
。。。
そのままおたすけくださるのじゃ。
p。384
ーー
坐禅でも瞑想でも真宗のなむあみだぶでも、
「そのままおたすけくださるのじゃ。」
が納得できれば、それでちょんだ。
みんな同じ所をみているのだよ。
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知性的作用が宗教者に不評判なる理由はこうだ。知性的作用は実在それ自体を与えることなく、ただその表現・形象・説明・参照を示すのみであり、常に私達をして自己そのものからはならしめ、思索と想像の果てしもない業林の中に迷い込ましめ、その結果、われわれの中になんらの内的平和と魂の休息とを生じせしむることがないからである。知性は、、、内観の存在を忘れて常に外を見る。
p。387−8
ーー
そうなのだよね。
只、一言付け加えると、知性を捨てろといっているのではないので、うまい使い方を(智慧をもって)しなさいということ、つまり中道のポイントを見ろということがあるのだね。
それでないと、馬鹿になっちゃう。
馬鹿は楽で、くつろいで、
例のFool on the Hill見たいなもので、
その「川」の反対側にいるものの知らないのんきな、雄大な、
Ignorance is Bliss.の境地がなんともいえないというのはある。
だけどそこにもとどまらない、というのが
また、微妙なところなのだろうな。
* 「はい」は一回その知性のわくをはずしてすべてをそのまま受け取る、と言う所を見ているともいえるだろう。
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佛教経験はあらゆる自我中心的努力と先入的な形而上学的立場を拒否する所にその本質を有するものだ。これは意識本来の清浄性、すなわち絶対空あるいは絶対無をたもつことで、換言すると、心を小児のごとく純真ならしめ、学問と自負とに充塞せらるることなきものとすることである。
p。388
ーー
>あらゆる自我中心的努力と先入的な形而上学的立場を拒否する、、、
頭の使い方をまちがえるな。さらにいえば、使わないほうがどんなによいか知れないということがいかにも多いようである。
>意識本来の清浄性、すなわち絶対空あるいは絶対無をたもつ
その時まさに自在なのだよね。
>心を小児のごとく純真ならしめ、学問と自負とに充塞せらるることなきものとすること
いろいろ点数つけたり、アレがいい、アレはダメ、というようなこころの癖ばっかりつかって(根源の所にふれずに)一生を送るというのは、まあもったいないのではないか、と言うことだね。
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受動性の生活は、一面では無自制主義におちいる傾向があり、他面では人事に超然たる態度を示すようなことにもなる。
ただしながら、受動性の経験から生ずる実際的な徳がある。。。
佛教では、、、生じた徳を一般に六つとし、波羅蜜と称している。すなわち布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若である。
p。392
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>一面では無自制主義におちいる傾向があり、
無責任ということかな。自由奔放はいいが、まわりに迷惑ではいかんのだね。
>他面では人事に超然たる態度を示すようなことにもなる。
独善ということかな。人を見下しちゃあいかんのだね。
>布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若
布施、持戒、忍辱、精進、を戒とし、禅定、を定、般若を慧とすると、戒定慧とつながる。
布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若どれも受動が元になっているのだね。
そこで、、、
>無自制主義におちいる傾向があり、他面では人事に超然たる態度を示すようなことにもなる。
は本来、慧でそのいい加減さをチェックしてしかるべきなのだろう。
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自力が自己を実現しつつある間は、魂に他力の入るべき余地はない。
p。401
ーー
まったくそのとうりだね。
自力=他力の自力でないと。。。(つまり、ひっくり返りだ)
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宗教的な意味における最高の受動性は、自己または相対主義のかたいからを打ち破り、法性の無限の中に溶け込むことである。
この溶け込むことが心理的には受容の気持ちとして感ぜられ、神学的には絶対憑依の感情ということになる。
p。408
ーー
だから最高の受動性は無我になり、自在につながり、自ずから然りになるのだな。
矛盾も何も、通り抜けちゃう。つまり透脱だ。
また受動する主体もなくなって、全機現となるわけだ。
あったものがなくなって、すべてがそのまま、そのまま、、、、
溶けて、光り輝いて、言葉を超えた体験が体験するという体験だ。
==
無功用の生活が受動性の完成と成る。
p。408
ーー
まあ死んだというようなものだな。
無難至道の「生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき」というところだ。
。。。
ここを趙州に言わせると、あるいは維摩にいわせると、「いや地獄ではたらくのだ」というかも知れないな。
あるいは、行ったりきたりが中道であろうな。行ったものは行ってかえってこないのでなくて、戻ってくるのだろうから。
つまり、受動が「智慧、大悲」→能動に展開するのだろう。これは、ほおっておいてもそうなるようにできていると思う。つまり、冷徹な目もあるかもしれないが、いかんせん、あたたかい目を持っているのであろう。
はい。
そのまま、
ありがとう。
感謝、祈り、感謝、祈り!
合掌。
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