The Way of Inquiry

 

 

『観想の方法』

 

 

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目次

 

はじめに(訳者よりのコメント) 2

前文. 3

序文(Foreword) 4

はじめに(Introduction. 6

ガイド(GUIDE. 8

§1 ((訳者注:観想の姿勢)) 14

§2 ((訳者注:目覚めへの第一のステップ)) 17

§3 ((訳者注:三つの観察の仕方)) 21

§4 ((訳者注:怒りを例にとって)) 26

§5 ((訳者注:智慧の発現のプロセスー体験談)) 30

§6 ((訳者注:最後のステップ:囚われの知覚・直視→智慧)) 36

§7 ((訳者注:気づきの性格に付いて理解を深めるということ)) 38

§8 ((訳者注:注意すべきこと)) 43

§9 ((訳者注:まとめ)) 45

§10 ((訳者注:自己の変革について)) 49

最後に(訳者よりのコメント) 52

 

  

 

 

はじめに(訳者よりのコメント)


    私はこのパンフレットの著者(Wilbro氏。本名は匿名としておきます)とは、始めネットで出会っていろいろな会話をしましたが、その後、何度もお互いの家を訪問しあい、意思の疎通を図ったなど、かなり深いレベルで連絡を取り合い、体験ベースの微妙な話しを、お互いに理解し合えたと感じています。ちなみにネットで行われた我々の会話は私のホームページ(英語)に載せてあります。

 

    もともと、このガイド、「観想の方法」は英語で読んでも微妙な表現が多く、難しい意味もあるのですが、ひょんな縁で西方法界さんとネットで知り合い、そのときの話の流れでこのガイドを推奨したのがきっかけで、まず西方さんが日本語に訳し、次にわたしがほとんど全面的に手を入れて、いまある形になったものです。ちなみに、タイプのフォーマットが青だったり黒だったり、背景が異なっていたりしていますが、それは訳をする過程でそうなったもので、内容の意味合いには関係ありません。ただ、色合いなどを統一するのにかなり手間がかかりそうなのでそのままとしました。(西方さん、オリジナルのものにかなり手を加えてしまいましたが意を汲んでいただければ幸いです。西方さんのブログ、「独りよがりの窓」はここにあります。ご参考まで:  http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/ )

 

    もとをただせば、私がこのガイドを始めて読んだのは7〜8年前とおもいます。何度も読み直し、Wilbro氏と話をして疑問点などの確認しました。また、その後、特にヴィパッサナの体験などを含め、キルケゴール、クリシュナムルティ、道元、荘子、パタンジャリ、カビアなどいろいろな方面から私なりに調べを進め、これらの件についてもWilbro氏とも連絡を取り合っていろいろと確認を進めたという経緯があります。従って日本語訳は意訳した所も多くありますが、紛れはほとんどないとおもいます。 

 

    括弧内(。。。)には、ことによると余分であるという事を覚悟の上、間違った受け取られ方を避けるべく、説明的な意味合いのコメントを挿入してあります。

 

    二重括弧内((。。。))には、これもことによると不必要であり、目障りかも知れないということを覚悟の上、幅広い理解を深める事を願い、私の個人的な体験や見所に基づいたコメントを書きました。不必要と思われる方は飛ばし読みしてくださってもこのガイドの趣旨は充分伝わると存知ます。

 

    §1〜10のサブタイトルは原文にはないですが、便宜上つけたほうが良いだろうと思い、勝手にそれらしいサブタイトルをつけました。 

 

    Inquiryという言葉は観想、とか内観と此処では訳しています。直訳は「調べる」「尋ねる」といった意味ですが、ここでは意識・無意識あるいは心身に何が起こっているのかを調べるという意味合いを持っているというふうにご了解ください。従って、観想や内観は心身をあるがままに観ること、といった意味あいです。ただ、何もせずに、意識を働かせずに、観ずるという事です。

 

    念のために、この日本語訳が終わった時点でWilbro氏と会い、特に二重括弧内((。。。))のコメントに付いて逐一話をしましたが、内容的にはそのまますべて問題なく、またその狙いもよくわかってくれましたので、変更なしにすべてそのまま残すことにしました。

 

    微妙な内容のものを日本語に訳すのに大分苦労しましたが、このガイドがここを訪れた方の何らかの役に立ちますようお祈り申し上げます。  

 

2007年11月7日 洲崎 清記

 

前文


This Guide is exactly that, a guide.

 

このパンフレット(小冊子)は、とどのつまりは単なるガイドでしかありません。

 

I make no pitches and I make no promises.. I simply offer it for whatever purposes you wish to make of it.

 

ですから私は、あなたに何かを売ろうというわけでもないですし、何のお約束もできません。ただ、あなたがそれが何のためであれ、つかって役に立てればよいと思って書いたものです。 

 

Well, maybe one small pitch.

 

とはいえ、すこしだけ説明をしましょう。

 

If you are a seeker, and have been seeking "IT," here is just another way to go about it.

 

もし、あなたが『それ』(つまり、自己の解決)を求めており、また求め続けてきたのであるならば、『それ』について普通とはちょっと違う方法がここにある、というわけなのです。

 

Ok, and one small promise.

 

それともうひとつ。

 

This way goes nowhere for it stays around to see what is going on with the search itself.

 

ここで私のはなす道(方法)は、何かを求めるというその事態の成り行きをただ観察をするだけなのですから、実はどこという目的地にもいきつかないものなのです。

 


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観想の方法(THE WAY OF INQUIRY)
        
    -----   己事究明への道しるべ(A Guide to Self-Clarification  ----

 

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序文(Foreword)
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If I only could be this or that, get this or that, change this or that, all would be well.

 

もし、自分が(思い通りに)どんなものにもなることができ、どんなものをも手に入れることができ、どんなことをも変えることができるならば、万事めでたしめでたしである。

 

All of us have entertained such thoughts, and most of us know, from experience, that the fix does not work.

 

我々は、誰しも、こういった思いを持っているが、経験上それは困難なことであって、そううまくはいかない、ということもわかっています。

 

We continually move from one answer to another in search for the final answer.

 

それにもかかわらず、我々は、休みなく、究極的な解決策をもとめて、右往左往しています。

 

Doesn't it then make sense to stop looking long enough to turn and see what the problem is?

 

もしそうならば、それはもう十分にやったのであるから、探そうということをやめて、目を転じて問題の本体を見極めたらどうでしょうか。

 

Instead of seeking peace of mind in this or that, let's uncover and remove the disturbance.

 

これとかあれという何かに心の平安を求めようとするのはやめて、不安の正体そのものを明らかにし、それを取り除いてみようではありませんか。

 

If we do, we may find that the problem is one of being caught up in our thought process, and that the answer is one of untangling ourselves from it.

 

そうすれば、問題は、我々の思考過程に、とらわれがあり、解決というのは、そのとらわれから我々を解放することということがわかるはずでしょう。

 

It is a practical problem with a practical answer.

 

はやいはなし、そうすることが実践的に解決しなければならない問題に対する実践的な解決という事になるというわけです。

 

The Way of Inquiry is a guide toward that end.

 

この『観想の方法(THE WAY OF INQUIRY)』は、その目的達成のための道しるべ(ガイド)なのです。

 

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はじめに(Introduction
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The way of inquiry is something I stumbled into.

 

ここにいう観想の方法は、私があるとき突然出会ったものなのです。

 

Perhaps the only thing I bought to it was a natural curiosity about the why's and wherefore's of things.

 

ただ、どうしてこの方法にいたったかというと、なぜとか何のためというように、事物の根源的な有様(ありよう)というものに、私自身もともと好奇心があったということなのでしょう。

 

Somewhere around the age of forty, I reached what might be called burnout.

 

私は、四十歳くらいの時に、 精魂尽き果てた、とでも言うべき状態(バーンアウト)に至りました。

 

I had moved from cause to cause, relationship to relationship, job to job, from answer to answer, in the attempt to find The Answer; but to no avail.

 

私は、あれこれやったり、いろいろな人と関係をもったり、仕事を変わってみたり、あるいは、いわゆる解決方法といわれているものをいろいろ試すなど、いわゆる究極的な解決策を見いだそうとしましたが、結局は駄目だったのです。

 

The last move I made was to sell all that would not fit into a backpack and take off for the promised land; Europe.

 

そこで最後にやったことは、リュックサックに入らないものは、すべて売り払い、夢がかなうであろうヨーロッパに旅立ったです。

 

The old life was to be put behind me and the new life was to begin.

 

そうすることにより、それまでの生き方と最後の決別をし、新たな生き方をはじめようとしたわけです。

 

In transition, I sat on the stern of the ship and saw its wake as the umbilical cord to be cut when I disembarked.

 

そういったわけで、実際に船の航海を始めたとき、私は船尾で、跡に残る波があたかも、母親と子供をつなぐ『ひも』がズタズタにちぎれていくように消えていくのを見たのです。

 

The new me was to be.  

 

このとき、まさに新たな『私』が生まれようとしていた、といえるでしょう。

 

I had brought the dream of the final answer into full living color.

 

そのときの感じは、究極の答えを得るという夢が、まさにあたかも総天然色で生き生きと息づいていたというようなものです。

 

On the day I landed in Lisbon, I found myself on the ramparts of the castle that overlooks both the city and the sea.

 

リスボンに到着した日、私は眼下に町と海とを眺望できる古城の城壁に登りました。

 

I saw the sun settling into the sea as the period that would bring my old life sentence to an end.

 

太陽が水平線に沈んでいくのをみるのは私のこれまでの生き方の有り様(ありよう)に終止符がうたれることを暗示しているかのようでした。

 

So strong and so ideal was my dream of a new beginning that when I saw pigeons gathering at my feet, my first thought was one of disbelief; they were part of the old, not the new.

 

新しい始まりへの夢は、たいへん強く、高々と掲げられたものだったので、ハトが私の足下に集まってきたのを見たときに私が思ったことは、とても信じられないことでした。つまり、そこでみたものはなんら新しいものではなく、なんと昔のままの私のありようだったのです。

 

The feeling, which came upon me as I awoke from the dream, was one of absolute emptiness; and with it came the realization that it was myself I was trying to escape, and that such an escape was not possible.

 

あたかも夢から覚めた時に感じるあの感じのように、それはまったく空虚な感じでした。そして、それとともに、そこで気づいたのは、私は私自身から逃げようとしたということ、そして、あたりまえのことですが、とても自分自身から逃げようとしても逃げることはできないということなのです。

 

Resigned to my fate, I wandered Europe for two very memorable years.

 

そしてこの自ら荷なった宿命を受け入れ、私はその後の忘れもしない2年間、ヨーロッパを歩き回ったのです。

 

From a distance that seemed to be a mixture of resignation and curiosity, I watched myself recreate old patterns of action against a new background.

 

はたからみれば、私の旅の経緯はあきらめと好奇心の、いり混じったものといえるでしょう。私はたんに昔から培った自分のこころの癖が働いていくのを新たな環境において再現されていくのを静観したというわけです。

 

It was thus that I came upon what I will call release insights and the Way of Inquiry.

 

このようにして、私は 『とらわれからの解放をもたらす方法』あるいは、ここでいう『観想の方法』と呼ぶものに出会ったのです。

 

The way of resignation is not necessary; it can be replaced by the look of inquiry, a sharper and more direct approach to the release insights.

 

つまり、あきらめによる解決は必要ではなく、そのかわりに『観想』があればいいのです。それがはるかに明確かつ直接的な解放(つまり知慧)をもたらす方法というわけなのです。

 

It is a fact that to see through and understand the turmoil that is oneself, one must look from a quiet center.

 

いってみるのなら、混乱の正体(それは自分自身であるのですが)を見抜き、理解するためには、あたかも静かなる中心と言うような場から、何がおこっているのかを眺めようということです。

 

The guide was written as a practical, hands-on solution to the problem of oneself.

 

そういったわけで、このガイドは、われわれ自身の問題に関しての実践的な解決法となるべく書かれたものです。

 

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ガイド(GUIDE
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There is a group of problems that beset us whose solution comes down to the idea that something needs changing.

 

結局のところ、何かを変えなければ問題が解決しない、というような問題があります。

 

On the next to bottom line, it is something other than ourselves that we think needs changing; our job, the other person, the world, where we live, and so on.

 

最後の一歩手前の段階では、変えなければならないものは、仕事やつき合いやわれわれのいる所など、とにかく自分自身以外のなにかである、とわれわれは考えます。

 

On the bottom line, it is ourselves that we think needs changing; whether we see that change as one of acquiring a new self-image, raising our self-esteem, finding our true self, being assertive, becoming enlightened, and so on.

 

しかし、最後(究極)のところでは、変わらなければならないと思われるのは、結局のところ、この自分自身なのです。そしてその変化は、新しい自己イメージを獲得することであるか、自分自身の価値を高めることであるか、真の自己を発見することであるか、自身をもって自己主張ができるようになることであるか、悟りを得ることであるか、などといったものでしょう。

 

The point of this guide is that what we have assumed to be the bottom line, that it is our "self" which needs changing, is a confusion that results from being caught up in thought.

 

このガイドの要点は、ある考えに囚われていることが原因となっておきている混迷(迷い)を最終のものと考えている我々の『自我』そのものが変わらないといけないというところにあるのです。

 

It is a fact that we need to change, but that change must be from one of being caught up in thought to one of not being caught up in thought.

 

実際問題として、我々自身が変わらなければならないというのは真実です。しかし、かわれなければならないのは、思考に囚われている状態から、囚われのない状態へ変わる、ということなのです。

 

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However it came about, we have the power to reason.

 

過去のいきさつがどうであれ、我々は考える力を持つようになりました。

 

We can look at what is, imagine what should be, and come up with a way of making the change.

 

この能力によって我々は、今なにがどうなっているかを見ることができ、どうなって行くべきかを思い描くことができ、そのための変革の方法を見出すことができます。

 

In using thought, we have a guide to action.

 

思考を働かすことにより、我々は、行動への指針や方向付けを見出します。

 

A very powerful tool, this; the ability to change what is into what should be.

 

この思考というのは、たいへん役に立つ道具であって、いまある状態を、あるべき状態へと変える能力を意味します。

 

Unfortunately, it came without instructions on how and when to use it.

 

ただ、あいにく我々がこの能力を持ったとき、それがどのように、またいつ使われるかに関しての処方箋なしにそれがあたえられたということです。

 

If it is true that the problem we have been trying to solve is one of being caught up in thought, then maybe all we have been doing is playing with the notion of change, and not solving anything. 

 

もし我々が解決しようとした問題が、実は我々が何らかの考えにとらわれているということそのものなら、我々が今までいろいろやってみたことは単に変化という観念をいじっているのみ(つまり、思考の組み合わせをいろいろ変えてみるというような具合)で、その実は、なんらの解決にもなってないのではないだろうかという事です。

 

The bottom line is then a practical problem that requires a practical solution.

 

ですから究極的には、実践的に問題をとらえ、それを実践的に解決すべきだろう、というわけです。

 

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There is a problem, which by the nature of its solution we may call the psychological problem.

 

ある種の問題は、その解決した内容の性格から見て、心理的な問題ということができます。

 

Its solution begins when we move ourselves into a state of attention by means of an awareness of our inattention, and through that, attention to the way we react to what is going on.

 

その解決法は、まず、我々が不注意であるということに気づくように、我々自身を目覚めた状況(気づきの場)におくことにより始まります。これはまた、目の前に起こっていることに我々がなんらかの反応・反発をしているということそのものに、注意を払うというわけです。 

 

In doing so, we move ourselves from an "after the fact" awareness of our reactions to a "with the fact" awareness" of them.

 

そのようにすることにより、我々はものごとが起こった後で”(つまり『事後的』に)注意を向けるのではなく、ものごとの起こっているその流れにそって(つまり『即事的・渦中的』に)、そこで何が起こっているのかに注意を払うのです。

 

Here, through insights, we begin to fall out of the problem state, and in doing so, acquire a feel for what the problem is.

 

ここで、そういった内観(つまり、今ここで、何が起こっているかというところに注意をはらうこと)から生み出される智慧によって、我々は(我々自身のおかれた)問題的な状態(つまり、たとえば煩悩や心理的葛藤など)から離脱し始め、その過程で、何が(本当の)問題であるかに気づくというわけです。

 

Again, we move from "after the fact" to "with the fact," and to a recognition of the problem state while we are of it.

 

このところをもう一度いうなら、『事後的』認識ではなく、ものごとの起こっているその流れにそって(つまり『即事的・渦中的』に)、我々自身のありかた、(つまり我を推し進めるということ)がそもそも問題であるということを認識するということです。

 

With that recognition, we step out of it, and, as the recognition clarifies, the less and less we find we are of it.

 

このような問題(我々自身のありかた)の認識ができると、我々はその問題(我々自身のありかた、つまり我のはたらき)の外に出ることになります。そして、その認識が明確になるにつれ、次第に我々がそういった問題の渦中にいることが少なくなります。 

 

The whole of the solution is of a learn-by-do nature, like learning to ride a bicycle, and may be described as a psychological movement whose end is to put us in the position to both recognize the problem state and have the ability to step out of it.

 

ここでいう解決は、実際にやってみることによってのみわかるのです。それはちょうど自転車に乗るための練習と同じです。いわば、心の働かせ方であり、最終的には我々は問題状況(問題的なありかた)を認識しながらも、かつその外に離脱することができるようになるのです。

 

There are difficulties in coming to recognize the problem state, but its recognition becomes intuitive.

 

問題的な状況((訳者注:これを煩悩、あるいは煩悩の働く場と見ても良いでしょう))を正しく認識できるようになるには、いくつか乗り越えるべき難所がありますが、この認識(気づき)は次第に直感的になるのです。

 

The understanding of what the problem is, is silent in that it is recognized without description.

 

問題状況の理解は、(頭で)言語化されることなく認識されるというわけで、そのとき頭の中は(なんら動揺がなく)静かであり、説明の必要なしにわかるという意味で直観的です。

 

Yet, there is the desire to describe what it is one recognizes, almost as if one must find the words, and develop the language, to complete that other way of knowing it.

 

しかしながら、それがどういうものであるかということを、直観以外の方法でわかるようにするために、なんとか言語的にも表現してみたくなります。

 

One such description could be: Following an insight into the problem, there is an awareness of having been caught up in something.

 

そういった表現の一例は、「問題となっている事態を内観する(つまり、今ここで、何が起こっているかというところに注意をはらうこと)と、心が何かに囚われていたことに気づく」というようなものです。 

 

The more one observes that something, the more it looks and feels like the thought of "what is" and "what should be" creating motions and emotions.

 

このような観察が進めば進むほど、われわれの行為と感情を生み出しているのは、「今どうなっている」と「本来どうなるべきであるか」、という事(関係)についての思いに絡んだものと見えてきます。

 

It is the act of judgment and comparison creating problems on one hand and solving problems on the other hand.

 

つまり一方では判断と比較の働きが問題を作り出すというわけですが、他方では、判断と比較の働きによって問題を解決しようとするわけです。

 

It is being caught up in it on one hand and not being caught up in it on the other hand.

 

一方は囚われており、他方は囚われていないというわけです。

 

The problem easily generalizes as one of not only being caught up in our thought process, but also suffering for that fact until the insight process provides the means to solve it.

 

問題は、思考過程において囚われているということであるだけでなく、内観のプロセス(つまり智慧)が成立して、その問題状況を解決できるまで悩み続けるということなのです。

 

The clarity with which we can see things sometimes depends upon where we are standing.

 

我々が、どのくらいはっきりと事態を認識することができるかということは、我々があたかもどういう位置(見方)に立ってそれを見ているかということによります。

 

If something blocks our view, we can move.

 

もし、我々の視界を遮るものがあれば、我々が(見える位置まで)動けばよいのです。

 

In the psychological world, the move we must make, if we are to bring clarity to our thought process, is the one that allows us to slip out of the net of thought.

 

心理的世界(内的な世界)において、我々が我々の思考の過程を明晰(まぎれのないもの)にしようというのなら、我々は、「思考の葛藤(網)」の外に身を置く必要があるのです。

 

This Guide is written toward that end.

 

このガイドは、その目的達成のために書かれたものです。

 

I suggest you reads it through until you get a feel for the sense of it, then let that sense start you in the Way of Inquiry.

 

ですから、その感覚がつかめるまで、このガイドをよく読むことをお勧めします。そして、その感覚でもって実際に観想の方法の実践を始めて下さい。

 

It may well be that you have already started, that all you need is a guide.

 

ことによると、あなたは既に(気づかないで)このことを実践されており、必要なものはガイドということかもしれません。

 

It may also be that you have a better way of describing the process.

 

また、人によっては、ここでいう方法を、もっとわかりやすいやり方で説明することができるという事もあるかもしれません。

 

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§1 ((訳者注:観想の姿勢))
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The psychological movement to the solution of the psychological problem is powered by the inquiry, "Let's see what is going on."

 

心の問題を解決するための心理的対応の仕方は、『何が起こっているのかありのままに観察しよう』という観想の姿勢からはじまります。

 

The inquiry sets the condition for the movement both to begin and to be maintained.

 

さらにいうなら、始めも、そのあとの維持の時でも、常に、この(、『何が起こっているのかありのままに観察しよう』という観想の)姿勢によってその(解決の)働きの場が提供されるというわけです。

 

In a sense we do nothing about the problem except observe it. 

 

いってみるのなら、我々は、それ(そこで行われていること)を観察するという事以外は、問題に関して何もしないのです。

 

It is the state of observation itself that allows us to move from "after the fact" to "with the fact" of it, where a solution is then possible.

 

物事が起こってからどうこうするというのからはじまって、ものごとの起こっているその流れにそって何がそこで起こっているのかを(即事的=渦中的に)観察をするというその状態そのものが問題解決を可能にするのです。

 

This approach to the problem seems passive when compared to the usual way of seeking out what we think are the solutions to the problem, but necessary if the movement is to take place.  

 

我々が思考によって解決を図ろうとする通常の方法と比べると、この観想の方法は受動的であるようにみえます。しかし、そこで(我々の思考自身に限界があるときに)解決のための働きが必要ならば、この受動性が必要なのです。

 

Let me illustrate the resistance to entering the Way of Inquiry that derives from its seemingly passive approach.

 

このように、観想の方法は(それが大変重要なことにもかかわらず、驚くほど)受動的にみえるので、そのことに対して抱かれそうな抵抗・反発についてすこし触れておくことにします。

 

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Suppose you come to me and say there is another way to solve my problem.

 

仮にあなたが、私のところにやってきて、私が既に知っているやり方と別のやり方で私の問題が解決できる、と言ったとしましょう。

 

Since I have had no experience with the passive approach, I will assume your way is just another way, among ways.

 

私はそんな受動的な解決法の経験が全くなかったので、あなたのやり方はいろいろあるやり方の中でも、ちょっと違うやり方だと思うでしょう。

 

I have tried many of them, and just maybe yours will be the one that finally works.

 

あるいは、私はいままでいろいろなやり方を試みてきたので、ことによるとあなたのやり方が使いものになるやり方だと思うかもしれません。

 

As long as I can fit what you are saying into an active framework, something I can seek, there is no resistance, but when you get to the passive part, I will resist.

 

ここで、あなたのおっしゃることが私の探している能動的な枠組みの中にぴったり収まっている限りは、私は何の抵抗感もありません。しかし、あなたが受動的な部分に立ち入った瞬間に私は抵抗を覚えるでしょう。

 

"You are telling me to stop trying and just look at myself? No way! get out of here with your negative ideas. "

 

「あなたは、私になにかしようとすることをやめて、ただ自分自身を見つめろ、というのですか。とんでもない、やなこった。もういいから、ここから出ていってくれ。」

 

"I might as well be dead. I'd be stuck. "

 

「(あなたの言う通りにしたら)私は、死んだも同然だ。行き詰まって、どうにもならなくなるだろう。」

 

"Besides, I don't have time to just watch."

 

「その上、見ることだけしかしないようなことをしているひまもありません。」

 

" There are more important things to do."

 

「他にもっとしなければならない大事なことがあるのです。」

 

If you finally do convince me that there is an active part, the setting of the condition, I will again react.

 

もっとも、(受動的であれ、という)解決のための基盤を設定することに能動的な役割がある、ということが最終的に納得できたとしても、私はそれでもまだ反発します(。。。つまり)。

 

"But to what end? Where does all this doing nothing lead?"

 

「しかし、なんの目的のために、そうするのですか。何もしないということで、どうにかなるのですか。」

 

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The way around this resistance is practical.

 

このような抵抗の状態を離れて、それがはっきりと何を意味するかを知るためには、実際にやってみる(実践する)ことです。

 

The first step of the clarification process has a practical end.

 

己事究明の最初の段階には、実践的(現実的)な目的があるのです。

 

When we think we are fully awake, yet still are startled by that unexpected noise, it shows that we are that little bit asleep.

 

我々は自分が完全に目覚めていると思っていても、予期しない雑音に驚いているというようなときは、まだちょっとばかり眠っている(つまり目覚めていない)のです。

 

Moving to the state of attention not only removes that bit of sleep from our eyes, but also shows us that the movement of clarification does occur.

 

そういう状態から気づきの状態にうつることによって、そのちょっとばかりの眠りを取り除き、そして己事究明ができる(つまり問題解決可能な)状態になるのです。

 

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§2 ((訳者注:目覚めへの第一のステップ))
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The first step is to move to the state of attention.

 

第一のステップは、目覚めた状態にうつるということです。

 

The active way is to "pay attention."

 

注意を払うということに"意識をはたらかす"のです。

 

There are two difficulties with that approach, aside from the fact that it does not work; one is the fact that we will soon forget to pay attention, and the other is the fact that when we are trying to pay attention, our attention is tied up in the trying.

 

ただし、これを実行するに際し、そもそもこれがうまく行かないわけですが、目覚めているという働きから逸れてしまう二つの問題があります。そのうちの一つは、我々はすぐに目覚めているということを忘れてしまうという事であり、もう一つは、目覚めていようとしていても、そうしようということにばかり注意が働いて実際にはその働きが停止してしまうということです。

 

The passive way is to turn our attention toward the problem, towards inattention itself.

 

ですから、ここでいう受動的な方法というのは、問題のおこっている事態に対して目を向けるということ、つまり目覚めてないという状態に対して注意を向けるということです。

 

If we want to bring inattention to an end, what better way than to give it attention?

 

そもそも目覚めてない(注意をしていない)ということをやめる(解決する)には、そのことに注意を払う以外によい方法はないでしょう。

 

A good example of inattention is when we are lost in our thoughts and unaware of what is going on in the world around us.

 

目覚めてない(注意してない)ということのいい例は、我を忘れて思考に没頭してしまい、自分の周囲で何が起こっているのかに全く意識が向いていない場合です。

 

We have lost our place, as it were. We are no longer aware of what our senses are presenting us.

 

そのとき我々は、自分が置かれていた状況を全く見失ってしまって五感の情報に対して全く目覚めていない(気づいていない・注意をはらってない)状態になっています。

 

The first fact to notice about your loss of place is that you are aware of it only after the fact.
ここで、気づいてないという状況に気づくということですが、これは(見失った・気づいてない、という)『事実の後に』はじめて、そのことに気がつくということです。

 

The rules of awareness are such that you can be aware that you were unaware, but you can not be aware that you are unaware.

 

目覚め(気づき)に関する法則は、目覚めていなかったという過去の事実に対しては、(後から)気づくことはできるけれど、目覚めていないという現在の事実には、気づくことが出来ない、ということです。

 

Being aware that you were not aware, you can look back into that space of inattention and see what goes on in it.

 

このようにして、もし、あなたが目覚めていなかったということに気づいたのであれば、今度はその不注意の状態を振り返ることにより、そこで何が進行していたのかを見ることができます。

 

When you turn your attention toward inattention, you will find that either you were absorbed in thought or lost in fantasy.

 

このように注意を不注意の状態に向けると、あなたが思考に没頭していたのか、あるいは空想に耽っていたのか、そのいずれかということがわかります。

 

Distinguish between the two and see if you can remember, or be aware of, the shift into fantasy from thought.

 

この思考と空想の二者をよく区別して下さい。そして、思考から空想に転換したときのことを思い出すことができるか、そのときの状態に気づくことができるか、調べてごらんなさい。

 

As you drift out of inattention, be aware of what seems like a between state, where you have returned to your senses, yet are unfocused.

 

不注意の状態から抜け出しながら、自分の感覚を取り戻しはするが、まだ焦点がどこにもあってないというような中間的状態と思えるところに目を向けてごらんなさい。

 

Experiment with that unfocused awareness by letting your eyes move over the surface of things and letting sounds come to you.

 

この焦点の定まっていない(いわば心の自在におかれたところの)覚醒状態というものがどんなものであるかということを、目はその辺の物の表面を動くに任せながら、また音は耳に入って来るに任せながら、調べてみなさい。((訳者注:此処がヴィパッサナとつながる所。今此処で働いている知覚を鋭敏に!)

 

You will find that between state develops into a place where you can come to rest in your senses.

 

この中間状態((訳者注:目覚めの状態、非思量、応無所住而生其心、達磨のいう不識、赤ん坊の世界といったもの))に親しむようになると、それは自ずと自分の感覚の中で(つまり、あるがままの感覚そのままに)安らげる状態であるというのを見出すというのがわかるでしょう。

 

Another may think you are off in thought, where in fact you are simply aware of what your senses are presenting you.

 

ある人は、あなたは思考から離れて(空想の世界に)いると思うかもしれませんが、そのとき、あなたは単に感覚器官から送られてくる情報に単純に目覚めているのです。

 

This is a quiet time you can take anywhere.

 

これは静寂(安楽)の時ですが、あなたはこの時を何処にでも持っていけるのです。

 

As you move into the study of your inattention, you will find signs that you are moving into a state of attention.

 

あなたが不注意の状態にあるかどうかを調べはじめると、それに伴って、あなた自身が注意((訳者注:目覚め、上で言った中間状態に同じ。))の状態に入っていくという兆候に気づくことができるでしょう。

 

One sign of inattention is the startle when you are suddenly awakened from being caught up in thought or fantasy.

 

不注意のひとつの兆候は、思考や空想に囚われていた状態から突然目覚めたときに起こる驚きです。((訳者注:修行者に対しあたかも目覚めを起こす引き金をひいてやるようなやり方に、禅者の棒喝がある))

 

When the state of attention is, you will notice you are no longer startled by unexpected noises.

 

しかし、覚醒状態(目覚めの状態)にあるときには、このような予期しない不意の雑音に驚かされないのです。((訳者注:道元のいう透脱がここにあてはまるようだ))

 

It is as if noise passes through without touching anything.

 

その状態は、あたかも、雑音がなにものにもさわらずに通り過ぎていくようなものです。

 

When you do startle, the noise feels like a wave, or impulse, as it passes through.

 

驚いた場合には、その雑音の通過は波や鼓動のような波乱をもたらします。((訳者注:つまり意識に引っかかる))

 

Inattention begins with absorption in thought, and can continue with a drift into fantasy.

 

不注意の状態というのは、始めは思考の中に引きずり込まれ、続いて空想の中に漂うというような格好で進みます。

 

In the move to attention, you will find that thought no longer absorbs you.

 

しかし、覚醒(目覚め)の状態に移っている時には、あなたはもはや思考の中に引きずり込まれることはありません。

 

In other words, you can think and not lose the world your senses present you.

 

別の言い方をすれば、(覚醒の状態では、)あなたは思考しながらも感覚があらわす世界(体験)を失うことはありません。((訳者注:これが全機現に相当すると思う。あるいはこれを鏡の心の働きといってもいいだろう。西田のいう絶対矛盾の自己同一もこのポイントを示すと観ます。))

 

You will discover that in order to be lost in fantasy, you first must be absorbed by thought, and since you have awakened to your thoughts, you have moved into a state of attention.

 

あなたは、空想の中に埋没してしまうためには、まずは思考の中に引きずり込まれないといけないという発見をするわけですが、すでにあなたは自分の思考の動きに目覚めているのですから、すでに覚醒の状態に入っているわけです。

 

It is still possible for you to lose your place, but this will occur very rarely.

 

こういった場合でも自分の場’(つまり覚醒の状態)を保てなくなることはありますが、そういうことはだんだん起こらなくなるでしょう。

 

With this step, we have moved into a state of attention by being aware of our inattention.

 

こういったわけで、我々は我々自身が不注意かどうかに注意を払うことにより、覚醒の(目覚めている)状態まで来たことになります。

 

In the next step, we will move into the solution by being aware of the problem.

 

次の段階においては、(目の前の)問題に目覚めていることによって、その問題を解決するというところまで進みます。

 

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§3 ((訳者注:三つの観察の仕方))
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As we begin, our only access to the problem is through the way we react to what is going on, so that means we begin by observing our reactions to what is going on.

 

まず始めに知っておくべきことは、我々のもっている問題への対応は、ただ目前で展開する事態に反応するというそのことを通してのみ可能ということです。ですから我々は目前で展開する事態に対する我々の反応そのものを観察するわけです。

 

The stance of observation we set to begin the movement becomes both the means to step out of the problem and the means to clarify the recognition of the problem.

 

この観察の立場を保つことによって、我々は我々自身をまず問題の外に置くことができ、その結果、問題の明瞭な認識をすることができます。

 

We will consider the setting of the stance from three aspects; the in-common aspect, the self-aspect, and the inquiry aspect.

 

ここで、我々は次の三つの角度から、観察の仕方(観察の立場の設定)を考えてみます。つまり、万人に共通ということからの見方、自我的側面からの見方、そして観想です。

 

The common-aspect is based upon the fact that when we are caught up in ou thought process, we are all in the same boat.

 

(まず第一番目ですが、)思考の過程で囚われが起きる仕組みは、誰でも同じですから、万人に共通という事をもとにした見方というものが導き出されます。

 

We can use this fact to good effect in that it can be used as a mirror in which to see our individual faces.  

 

我々は、これをうまく使えます。すなわち、それは、他人を見てわが身を振り返るという具合に使うということです。

 

For instance, say that you are observing inattention, or defensiveness, or the ways we seek to be the center of attention.

 

例えば、今、自分自身が不注意であることとか、自己防衛しようとしているとか、いろいろなことをしてみんなの注目を浴びたいというのを観察するとしましょう。

 

Watch the way of it in others, then turn the common-aspect mirror on yourself.

 

その事を自分以外の人がやっているのを観察し、それからその共通の鏡を自分自身にてらしてみるのです。

 

It is a fact that we do have the talent to see things in others before, if ever, we see those things in ourselves.

 

このとき、我々には、自分自身の内面に起きている事態を観察するのに先立って、他人の中でその事態がどのように進行しているかを観察する能力が備わっています。

 

Also, as it becomes clear to you that we are indeed in a common boat, the poor-me of the problem loses much of its sting.

 

また、我々は誰しも、同じ共通の仕組みにできているのだということがはっきりわかれば、「どうして私だけが、、、」といった見方から引き起こされる問題はその影響力がうすらぐでしょう。

 

The self-aspect relates to the fact that when we are observing ourselves, we are both the observer and the observed.

 

(第二番目の)自我的側面からの見方は、我々が自己観察をする場合、自分が観察者として観察の主体であると同時に観察される対象でもある、という事とかかわりがあります。

 

There must be some self-interest involved, if for no other reason than our desire to understand the problem.

 

我々が直面している問題を知りたいという欲を満たしたいのでないならば、何らかの自分の利害が関係しているにちがいありません。

 

The self-interest to be set aside is the one of self-judgment.

 

ここで自分の利害をとりあえずほおっておくというのも、自分自身での判断ということになります。

 

Simply becoming aware that a particular self-judgment is operant will suffice here.

 

ある種の自己判断が働いているということに気づいてさえいれば、ここでは十分です。

 

In other words, when we catch it in the act, we are with the fact of it, and in the spirit of the movement.

 

別の言い方をすれば、(自分の判断などの)行為の最中にそれを捉えているならば、我々は、『即事的=渦中的』であり、内観の心の動きになっています。

 

For example, suppose you have turned your attention toward the reaction that is anger.

 

例えば、怒りという(こころの)反応(反発)に注意を向けたとしましょう。

 

You are observing it and catch yourself thinking, while angry, that you should not be angry.

 

あなたは、自分が怒っているという状態を観察し、怒りながら、かつ、自分は怒るべきでないと自分で考えていることも捉えることになります。

 

Awareness of the secondary reaction will stop the chain of reaction that might have gone on.

 

このように、二次的な反応を意識した結果、もしそうでなかった場合に引き続き起きたかもしれない反応の連鎖が切断されることになるでしょう。

 

You could have gone on to get angry at yourself for getting angry, and even more angry at what got you angry for getting you angry in the first place.

 

ここでいう反応の連鎖とは、あなたが腹を立ててしまったということに対してさらに腹を立てたり、最初に腹を立ててしまったという事に対して腹を立てたという事に、もっと腹を立てたりする、というようなことです。

 

This firestorm of anger keeps feeding on itself, and even after the storm is over, all it takes is one thought to set it off again.

 

怒りの嵐は、自己増殖し、拡大し続けます。その上、いったんはその嵐が去っても、その後、思い出して再爆発します。

 

This catching and setting aside of judgments is something you learn by doing.

 

このように自分の判断する瞬間をとらえ、相手にせずほおっておくというやり方のこつは、実際にやることにより、だんだんと体得していくことができます。

 

Notice that the should and should-not's of judgement have a feeling to them that comes to an end when you set them aside.

 

次のことをしっかりと見極めるのです。すなわち、こうあるべきとか、こうあるべきでないとかの判断には(良い悪い、正しい正しくない、怒り、歎きなどの)感情がくっついていて、その判断を相手にせずにほおっておけば、その感情も一緒に消えてなくなるのです。

 

The inquiry aspect pulls the stance together in a singular way of observing reactions.

 

(第三番目の、)観想は、以上のような見方をひとつにまとめて、(われわれの)反応を(あるがままに)観察するのです。

 

We will call it the Way of Inquiry.

 

これが、(このガイドの表題になっている)『観想(内観)の方法』です。

 

At this point in the guide, we are setting the condition for the movement to the solution, so let's look ahead and allow the way we will be moved by the inquiry to help define the condition for the inquiry-aspect.

 

ここでは、我々は解決へ向けての働きがおこるようなコンディション(条件・環境)をつくります。そこで、観想的見方が出来るようするための土台を明確にするために、観想がどう働くかを見て見ましょう。

 

We began with an "after the fact" recognition of inattention, and moved to a "with the fact" attention.

 

我々は、まず不注意の(目覚めてない)状態を事後的に認識する(気づく)ことから始めて、そして『即事的=渦中的』に注意をはらう事へと進みました。

 

We continue with an "after the fact' recognition of reaction and move to a "with the fact' recognition.

 

そして事後的に(われわれの)反応そのものを認識するとともに、『即事的=渦中的』認識(あるがままに何が起こっているかを知覚するということ)へと進むのです。 

 

Being "with the fact" of our reactions, which means an awareness of them as they arise, we come upon an insight process that both reveals the problem and releases us from the problem.

 

反応に対して『即事的=渦中的』であるということは、反応が起きているときに(その反応の変化がそのまま知覚されるというように)目覚めているということです。このとき、我々は事態を正しく把握し、問題状況から我々を解放する内観の(つまり内観によって智慧の発現する)プロセスにいたっているのです。

 

Insight is something that comes to us.

 

智慧(気づき)は向こうからやってくるものです。

 

This means that we will not know what we will see until we see it, and that means we have another reaction to set aside; namely, conclusions.

 

ですから我々はそれを現に見る(気づく)までは、何を見る(気づく)ことになるかわからないのです。したがって、ここで我々はもうひとつの反応、これはいわゆる(一般には、何かを得たという)結論ですが、をそのままに、ほおっておく(つまり結論がでたという反応にかかわらないという)事になります。

 

Again, just be aware that you are reaching conclusions, and any secondary reaction that you should not reach conclusions, and you will be in the spirit of the movement.

 

再度いいますと、ここであなたが結論に到達しようとしているということ、あるいは(そうでなく)どんな結論にも到達してはならないという二次的な反応(意識の働き)に気づいているなら、(つまり気づいていて、その反応意識の働きーをほおっておくのなら)あなたは、ただしい内観というしかるべき境涯にいるということです。

 

The Way of Inquiry is the means, and the movement is a sharpening of the means to the point of being the solution.

 

観想の方法は手段です。そこで起こるものはなにかというと、この手段に鋭く磨きをかけることにより(いわば自動的に・自然に)、解決に至るというものです。((訳者注:これがいわば定慧に相当する。また戒定慧の戒は定慧の働きのために余計な事、つまり法に背いたことをせず。定慧の働く場を整えるといったふうに見ても良いでしょう。)

 

It begins with the intent to understand, through observation, what is going on in the relationship between you and yourself and you and the world.

 

観想の方法は、自分と自分自身の関係で進行する事態(つまり自分の中で何がどう働いているのかを知る・知覚すると言うこと)、と自分と周囲の世界との関係で進行する事態(つまり周りの事柄にどう自分自身が反応しているのかを知る・知覚するということ)を、観察を通じて理解しようとしたときに成立します。

 

It is a state of observation whose goal is to see what is going on, as it is going on, and that means an observation unclouded by judgements and conclusions, which means being aware of them also.

 

観想の方法は、一つの観察状態なのであり、それは事態の進行中に、その進行する事態を(『即事的=渦中的』に)見ることを目標にしています。そしてそれは、(過去に培ったこころの癖によって引き起こされた)判断とか結論によって汚染されていない、そこでおこっていることそのままの観察であり、それはまた、それらのこと(つまり自分が判断しているとか結論を出そうとしているとかに)に気づいている(目覚めている)ということでもあります。

 

If, at this point, you have the sense of not knowing what to make of all of this, you have the spirit of the inquiry; your mind is not cluttered with ideas.

 

もし、あなたが、この時点で、観想の方法についてのあらゆる事柄が最終的に何をもたらすのかということについて、何もわからないという感覚を持っているならば、あなたは既に観想の精神(境涯)を持っており、あなたの心は妄想(など余計なアイデア)で乱されることはなくなっています。

 

((訳者注:ここは前に述べた達磨の「不識」に相当。意識を働かさなくても心が落ち着いており、知覚は良く働いており、目覚めている。意識・無意識が全機している。))

 

In the next step, we will focus upon only one reaction, and clarify the task.

 

次の段階では、一つの反応だけに焦点を当て、すべきこと明らかにしてみましょう。

 

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§4 ((訳者注:怒りを例にとって))
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When we are not caught up in our thought process, thought acts as a guide to action.

 

思考過程に囚われがない場合には、思考によって(つまり思考がガイドの役をはたして)行動が引き起こされます。

 

When an action requires thought, we think first, then act.

 

行動が、思考を必要とするとき、我々は、まず考えてから、それを行動に移します。

 

The thinking about the doing and the doing are two separate matters.

 

何かすることについて考えることと、行為そのものは、別個の事柄です。

 

Just thinking about doing something does not get the doing done.

 

何かをすることについて単に思考するということは、その行為を完了するには至りません。

 

On the other hand, when we are caught up in our thought process, thought does get into the act as the conditioned reaction.

 

一方、思考過程に囚われがある場合には、思考は、その囚われによって条件づけられた反応として、((訳者注:そのひずみをもったまま、解消せずに))行動の中に入り込んでいきます。((訳者注:このことが心身一如のひとつの意味合いであり、悩みが体の自律の働きに影響を与えるということにもつながるわけでしょう。))

 

The reactions that rise out of the tangle will provide access to it.

 

このようにして、心の(囚われなどの)葛藤から引き起こされた反応は、((訳者注:それに気づいてしかるべく「対処」するのなら))それそのものが(問題を解く)きっかけとなるのです。

 

In effect, we will work our way into and through the symptoms of the tangle to the core of it, and there affect a cure.

 

早い話、我々は(葛藤という現象に焦点を当てる事によって)その葛藤の現象(面だけに気をとられているという状態)から葛藤の中心へと入り込み、そこで解決を引き起こすのです。((訳者注:これは絡み合った蔦がほどけるといった感じに似ています)

 

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In this step, we will turn our attention towards a reaction that is very accessible; namely, anger.

 

怒りは、非常に観察しやすい反応ですから、ここで目を、怒りに向けてみましょう。

 

Anger, whether it be a small annoyance or a full-blown rage, arises from the judgment that "what is" is not "what should be."

 

怒りというものは、それが、ちょっとしたいらだち程度のものであれ、堰が切れたような激しいものであれ、現状がこうあるべきという姿ではないという判断から起きるものです。

 

Begin by watching the way of anger in others, then turn the common-aspect mirror upon yourself.

 

始めに他人が怒っている状態をよく見、その後、そこで得られた共通の見方を自分の場合にあてはめてみましょう。

 

Your key is to be aware of it whenever it arises.

 

大切な点は、いつそれが起きようとも、そのことに目覚めていることです。

 

Two particular faces of anger, defensiveness and impatience, are a good pair to investigate.

 

自己防衛と(もう我慢ができないというような)いらいらは、怒りの典型的な特徴であるので、この二つのケースを調べるのがいいでしょう。

 

They each highlight a different aspect of anger.

 

 

 

この二つのそれぞれに、怒りの異なる姿がはっきりと示されてます。

 

As you begin the observation of your anger, your first awareness of it will be one of being caught up in it.

 

自分の怒りを観察し始めたとき、まず最初に気がつくのは、怒りに(自分自身が)囚われているということ(状態)でしょう。

 

Watch the way you react to being caught up in it.

 

自分がなにかに囚われて反応する状態をよく見つめることです。

 

Start being aware of your thoughts as they rise in reaction to being caught up in it.

 

なにかに囚われて反応したときに起きる自分の思考に目覚めているようにしなければなりません。

 

At first, there may be a jumble of thoughts, but see if you can group them.

 

はじめは、いろいろな思考が混乱しているかもしれません。しかし、それをまとめて整理できるかどうかをやってみなさい。

 

Be especially aware of control thoughts.

 

特に、こうすべきというような思考 に目を向けなさい。

 

Set aside the judgement of whether you should, or should not, react in such a manner, and move to a recognition of the physical feel of anger as it rises.

 

どのように反応すべきか否かの判断には立ち入らずに、怒りが起こるときに巻き上がる身体感覚をつかむように努めるのです。((訳者注:例えばヴィパッサナのねらう所に相当))

 

Here, you are moving to a with the fact recognition of anger.

 

こうすれば、あなたはここで怒りの『即事的=渦中的』認識状態を体験するといった場(状況)に置かれるのです。

 

There may be times when the anger breaks as it rises, flooding your senses with energy.

 

ときとして、怒りが怒涛の如く湧きあがり、あなたの感覚を怒りのエネルギーでいっぱいに満たしてしまう事もあるでしょう。

 

At other times, you may just step out of it.

 

そうでないときには、あなたは(いわば関与せずといった具合に)そのようなエネルギーに関わらないかもしれません。

 

The goal here is not one of trying to do away with anger, which is a symptom of the problem, but to get at the core of the problem.

 

ここでの目標は、怒りを取り除こうと試みることではありません。というのも、そういうふうに(意識を働かせて)試みること自身がここで問題とする現象そのものであるわけで、大事な事は(そういう試みにかかわずらうことないままに内観をとうして)問題の核心にせまることだからです。

 

When we do get out of the act, we remove a self-centered quality from anger, giving it an altogether different quality.

 

このようにして、我々が(我々の意識がもたらすいろいろな試みという、あるいは我のもたらす)行為の外に離脱したとき、怒りから自己中心的にみる性格が取り除かれて、それは、今までとは全く違った性格を持つに至るのです。

 

In all of this, you will find it very helpful to begin listening to your own voice, as you are speaking.

 

こうしたなかで、あなたは、自分が話している最中に、同時に自分自身の声を聞くことが、どんなに役に立つことであるかということを学ぶことになります。((訳者注:これがなぜかというと、その自分の声を聴くということは我々の注意が思考の囚われという枠の外に出て、あたかも第三者が観察しているような客観性を生み出すというような意味合いなのです))

 

This "with the fact" contact accelerates the movement, helps you to recognize hidden feelings by the feel and sound of your voice, and also allows you to clear your speech of unnecessary noises and phrases.

 

このように『即事的=渦中的』に事実に接触し続け(そこで起こっている働きに身を任せ)ていると、やがては自分の声の感触と声色から、自分が今まで気づかなかった感情まで捉えることができるようになります。さらには、自分の話の中から、敢えて言う必要がない余計な文句が消えてなくなってしまうのです。

 

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§5 ((訳者注:智慧の発現のプロセスー体験談))
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The move to "with the fact" of the reaction brings you into new territory, for it is here that the insight process begins.

 

事態に対する反応に際して『即事的=渦中的』な対応が出来るようになると、新たな段階に入ることになります。なぜなら、ここで内観による智慧(の発現)のプロセスが成立するからです。

 

The emotional content of the reaction is contingent upon your being caught up in thought.

 

(此処で知るべきことは)思考にどのように囚われているかによって、事態への反応にどのような感情がともなうかが決まるのです。

 

When you move to a "with the fact" relationship with the reaction, the emotional content of it is removed.

 

反応と連動して『即事的=渦中的』な対応をするようになると、それに伴った感情(の部分)が消えていきます。

 

The following account, written by a friend, will be helpful here.

 

ある友人が書いてくれた以下の説明がここで役に立つでしょう。

 

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"There was difficulty in understanding the idea of having angry thoughts but no feeling of anger.

 

《 始めはなかなか理解しがたいことだったのですが、怒りの感情を持たずに、怒りの考えのみ(つまり怒っているという思考のみ)を持つことができるのです。

 

I was told to watch my anger, be aware of it, understand it, and it changes.

 

私は、怒りに目を向け、それを見つめ続け、理解しろ、そうするとそれは変化するのだといわれました。

 

This translated to no longer react with anger.

 

これはもはや怒りをもって事に反応しないという事を意味します。

 

No anger under any circumstances?

 

どのような環境下でも怒りが起きないなんてことがあるのか?

 

But surely some actions are anger provoking.

 

しかし、確かに怒りを誘発する行動がまったくなくなるわけではないだろう。

 

How about the other side of the coin; no lows, no highs?

 

ところで別の見方はどうなんだ?つまりそういう状態と言うのは感情に起伏がないということか?

 

Or always sitting on the sidelines with no involvement of any kind?

 

それとも、ずっと傍観したまま全く無関与でいるということなのか?

 

Certainly, understanding yourself, and becoming aware of your reactions is productive, but let's stop before going too far is noninvolvement is part of it.

 

確かに自分自身を理解し、そして自分の反応に目を向けているというのは意味があるだろう、しかし、まったく関与しないというようなことがあるのなら深入りする前にやめたほうがいいだろう。

 

Watching ? observing those around you.

 

ただ見るということ?自分の周りを観察するということ?

 

Listening and finding phrases that are repeated by the same person duplicated by others.

 

よく耳を傾けて、同じ人によって何回も繰り返される言葉や他の人たちが口にする同じような言葉づかいに気づくということ。

 

If they all say and do the same things, can I be different? Watching my anger, hatred ? then something happens.

 

もし、彼らすべてが同じ事を言ったり、したりするとして、私だけが、違っていられるのだろうか?自分の怒りや憎しみを観察することって、どういうこと?そうするとなにかが起こる。。。?

 

I hear myself saying the words of anger, but something is different this time.

 

私は、自分が怒りの言葉を発しているのが聞こえる。でも以前とはなにかが違う。

 

I hear the words, a listener probably does not know something has changed, but I am not feeling anger.

 

私は、自分がいったその言葉が聞こえる。おそらく、聞いている人は以前と違ったことが起きているとは思えないだろう。しかし、私は怒りを感じてはいないのである。

 

Almost like an actor reciting a role because it was expected of me, but I was not deliberately doing it; it was being done to me.

 

役者が自分に与えられた役を演ずるようなものだけれど、ただ自らそうしようとしてしているのではない。そうなっている自分をただそこに見る(発見する)というようなものだ。

 

It even begins to feel like being fun!

 

そして、それを楽しいとさえ感じはじめる。

 

Like a game to say the angry words and laugh inside at the same time.

 

それは怒りの言葉を口でいいながらも、同時に心の中で笑っているゲームをしているようなものだ。

 

Certainly possible, since the thoughts and feel of anger have no connecting wire.

 

「自分は怒っているという認識」と「怒りの感情そのもの」の連絡(結合)はないのだから、確かにこういうことが起こりうるわけだ。((訳者注:これはあたかも鏡に何かが単に映っているというような感じでもある。))

 

Could this possibly be what I mistook for deadness?

 

ことによると、当初私が、「死んでいるのと同じ状態だ」と勘違いしたことは、このことだったのだろうか?

 

I certainly do not feel dead, dull, noninvolved, or disinterested.

 

(しかし、体験してみれば)確かに、私は死んでしまったような感じないし、馬鹿になったという感じもないし、無関心でもないし、そこに起こっている事に興味がないわけでもない。

 

But of course, deadness to feelings is not the outcome.

 

とはいえ、もちろんのことだが、いままであった感情が死んだようだというのでもない。

 

Descriptions of intangibles like thought, feelings, and emotions are very difficult, and understanding can only come with actual experience, not through another's teachings."

 

観念・感情・情緒というような、とらえどころのないもの(微妙なもの)は、それについて記述することがたいへんにむずかしい。したがって、こういったものについての理解は、実際の体験によってのみ得られるのであって、他人から教えてもらって理解するというわけにはいかないのだ。》

 

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The first paragraph is a good example of the resistance thoughts you may have about moving with the Way of Inquiry.

 

この友人の記述の最初の段落部分は、この『観想の方法』を試みるに際して生じる反発感・抵抗感のよい例です。

 

These self-concern thoughts naturally occur whenever we enter something new or different.

 

このような自分に囚われた(自分を守ろうとする)思考は、新しいこと、あるいは異質なことをはじめてしようとするときには、自然と起こってくるものです。

 

We will cover this more fully when we get to the recognition of the problem as the problem way of being, i.e., a problem way of thinking, feeling, and acting.

 

後ほど、問題に気づくということは問題を内蔵した(我々の心身の)あり方、つまり問題を含んだ考え方、感じ方、行為の仕方、を認識するということであるということについてさらに包括的に検討することにします。

 

Notice in the account how she began by watching the way of anger in others, then turned the mirror on herself.

 

ところで、彼女は、初めは他人の怒っている状態を観察することから入り、そこで見出された共通の鏡を使って、今度は自分自身に観察の目を向けるという手順を踏んだ、と説明している点に注目すべきでしょう。

 

She then went on to describe her first experience of being "with the fact" of a reaction.

 

それから、反応についての『即時性=渦中性』の最初の体験について話し続けました。

 

The thought-conditioned action went on, but she was no longer of it.

 

とらわれた思考にもとづく行動(つまり怒りの言葉をはいたと言う事)は続いたのですが、そういったなかで彼女はもはや、問題状況の渦中にはいなかったのです。

 

 

 

 

 

The sense of not being caught up in the reaction may be described several ways, depending upon how you care to interpret it.

 

反応しながらも心がそれに囚われていないという感覚は、あなたがそれをどう解釈するかにもよりますが、いくつかのやり方で表現できるでしょう。

 

One way, usually the first way, is the sense of being taken for a ride, or just riding along with it.

 

ひとつの表現は、これは普通始めに感じるものですが、(乗馬のように)何かにのって運ばれているといった感覚、あるいは単になっているといった感覚です。((訳者注:この辺、意識と無意識の関係を馬と騎士の関係にたとえた大拙の表現と対応しているようです。))

 

Another way, which may develop, is the sense of observing the reaction from a still center.

 

もうひとつの表現は、これは更に体験を進めるとともに感じられるものですが、あたかも寂滅の(場の)中心から、反応を観察する感覚といったものです。

 

Another way, which is self-reflective, has the sense of self-transformation about it.

 

さらに、鏡のように自分(のこころの動きを)を映し出せる場合には、自己変革の(つまり自分自身が変わってしまったという)感覚があります。

 

That last one could lead to a trap and will be discussed later.

 

最後の(自己変革といった感じをもたらす)ものは、自ら(自分自身を引っ掛ける)わなを作っているようなもので、後にこれに付いてお話しする(注意を喚起する)こととします。

 

When you reach this point in the movement, you will find that there are times when your usual reaction of anger is no longer present, times when you will react without the emotional content, and times when you can simply set the reaction aside.

 

とにかく、あなた(の行う観想の方法)がこのポイントにまでいたったのなら、その時あなたは、1)既に怒りに対しての反応はなくなってしまった、2)あるいは感情を交えずに反応する、3)あるいはまったく反応するという事にかかわずらわない、といったいろいろな体験があるでしょう。

 

In this, the calm center, or silent observer, becomes your state of attention.

 

このようにして、穏やかな(場の)中心、あるいは寂静なる観察者が、目覚め(気づき、観想)の場を生み出すのです

 

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§6 ((訳者注:最後のステップ:囚われの知覚・直視智慧))
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The last step put us in the position to turn our attention directly upon the ways we are caught up in our thought process, and more importantly, in the position for the insight process to occur.

 

最終段階においては、我々は自分の思考過程での囚われを直視する位置に至ります。そして、さらに重要なことは、この位置は智慧のプロセスが成立する位置でもあるわけです。

 

The next step comes upon the core of the problem.

 

すなわち、この段階で事態(問題状況)の核心部分に面するわけです。

 

It begins as we come upon the insights that show us the way we are caught up in thought.

 

それは、我々が自分の思考に囚われている状態に気づくという事から始まります。

 

Through this, we gain the ability to recognize the problem while we are of it, and it is this "with the fact" recognition that releases us from it.

 

この内観を通して、我々は、我々自身のありかた、(つまり我を推し進めるということ)がそもそも問題であるということを認識するのです。そしてこの『即事的=渦中的』な認識が問題(であるありかた)から解放をもたらすのです。

 

The more we learn of it, the sharper our recognition of it becomes.

 

内観を習熟すればするほど、鮮明に事態の把握ができるようになります。

 

We come to recognize it in a general sense as a problem way of being, and we can recognize when we are being that way; there is a "me" sense about it that gives it away.

 

我々は、(特殊の感覚というのでなく、いわゆる)通常の感覚で、問題となるあり方を捉えることが出来るようになります。そして我々が、そういったあり方になっているとき、そこには「私の」といった感覚があり、それがそれ自身を放下する(消えてなくなる)事を知るのです。

 

We begin this step by turning our attention to the reactions as feelings that center in our chest.

 

この段階の最初において、まずすべきことは、我々の注意を、事態に対する反応として胸の真ん中にわき上がる感情((訳者注:がいかに体に働いているのか))に向けることです。

 

At first, they may center in our stomach as knots or nausea.

 

初めは、そういった感情 は、胃の中に溜まっていて、凝り固まってむかむかしているように感じられるかもしれません。

 

When it centers in the chest, it may be felt in different ways.

 

それが胸の中に溜まっている場合は上とは違った風に感じられるかもしれません。

 

It may feel like a hollow ache, or at times just an empty spot.

 

うつろな痛みというか、時として、空っぽなところがあるように感じられるかもしれません。

 

It may feel like a band around the chest, or at times like a pressure.

 

胸の周りを帯びで締められるようか、あるいは圧迫感を感じかもしれません。

 

The only rule here, whether it appears in the stomach or chest, is to stay with the sensation when it comes upon you.

 

ここで守るべきただ一つの事は、こういった感覚が胃なり胸なりに、どのように現れたにせよ、、(ジタバタせずに)その感覚のままを受け止めて、じっとしていることです。

 

Watch the ways you try to escape it and the thoughts that rise about it.

 

そこから逃れ出ようとする心の有様とそれに伴って起きる思考を、じっとよく見つめるのです。((訳者注:上述の6〜7行、ヴィパッサナの言うところに同じ。))

 

When it breaks, you will discover that the feeling is a self-concern thought.

 

そうしていると、突然転じて(閃いて)、そのときの感情は自我的な思いであるということに気づくようになるでしょう。((訳者注:これが定慧の意味合いの例え))

 

When you are "with the fact" of it, the feeling will come and go as the thought of self-concern comes and goes, and provide the insight that thought creates it.

 

あなたが『即事的=渦中的』なありかたをしていれば、(覚醒している意識の中で)自我的思いが去来するのにともなって感情も去来するでしょう。そして、(自我的な)思いがそういった感情を引き起こしているということにも気づくでしょう。

 

You will come to recognize the unnecessary self-concern thoughts for what they are and step out of feelings they produce.

 

こうすることによって、必要のない自我的思考を、あるがままの姿で捉えられるようになり、そういった自我的思考が作り出す感情から離脱できる(つまりかかわずらわない)ようになります。

 

During this step, develop an awareness of resistance, control, and self-judgement thoughts.

 

この段階においては、何かに抵抗する、コントロールする、あるいはこちらの都合のいいように判断するといった(我によって巻き起こされる)様子に対する気づきの要領を体得するようにするのです。

 

When you find yourself caught up in worry thoughts, don't try to turn your minds off; instead, let the thoughts go on and become the observer of them.

 

あなたがあなた自身葛藤の中にいると気づいたときは、その思いを消そうとしてはいけません。そうしないで、その思いをそのままにしておいて、じっとそれを見つめるという観察者の立場をとり続けるのです。

 

Discover how this allows you to disengage from them, and how they will spin on their own for a time, then die out.

 

そうすると、あなた自身は、自然とそこから解き放たれることができ、葛藤は葛藤でしばらくは空回りしているが、そのうちに消えてなくなってしまうのを見出すでしょう。

 

When you stop feeding them, they starve and wither away.

 

すなわち、葛藤は、それを相手にさえしなければ、自然と萎んでいって、最後にはなくなってしまうのです。

 

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§7 ((訳者注:気づきの性格に付いて理解を深めるということ))
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Let's now look at the difficulties that may be created by the dual function of an insight into oneself.

 

ここで自分自身を内観する場合に、そこで自己に関して二重の働きをしている気づきの性格とでも言うようなものに付いて調べて見ましょう。 

 

A good example of this dual function may be seen in the solution to any problem where confusion is the problem.

 

この二重の働きのよい例は、(こころの)混乱そのものが問題というような問題の解決に見ることができます。

 

Before the solution, there is only confusion, while with the solution, there is both a release from the confusion and a seeing of what the factor of confusion was.

 

解決に至る前段階では、混乱があるだけです。しかし、解決したときには、混乱からの解放と、混乱の要因が何であるのかについての理解というの二つ(二重の働き)の認識があります。

 

In the release from the problem way of being, and the insight into it, the experience of release may be taken as the whole point of the movement.

 

つまり解放体験は、当該問題の有様(ありよう)からの解放と、それに対する気づきという二つを網羅するいわば全体的な動き(働き)として体験されます。

 

Release experiences are not all the same.

 

 とはいえ解放体験は、すべてがすべて同じというわけではありません。

 

Some are simply the feeling of having lost a burden, of coming to rest, while others may be so intoxicating that it is very easy to assume you have found IT.

 

たとえば、重荷(悩み)から解き放たれて、休息を見出したという感覚もあれば、ついにこれまでずうっと探していたものを見出した((訳者注:例えば父母未生以前の本来の面目に出会った=見性体験))とでも言えるような甘美な体験もあります。

 

In the latter, the senses may come alive in such a way that there is no sense of separation present; all seems to be one.

 

後者の場合には、いわばすべての知覚が生き生きとよみがえり、感覚が分断されているというのではなく、(体験)すべてが一つ(の体験)であるように感じられます。

 

The notion that you have arrived, found your true self, been enlightened, and so on, not only resets the problem way of being, but also turns off the Way of Inquiry.

 

ただし、ついに到達すべきところに至り、真の自己に出会い、悟ったなど、という思いは前にいった問題状況のあり方の再構成をするということであり、それとともに『観想の状態』は消えてしまうのです。

 

If you have found it, whatever you think you have found, there is no longer any need to look.

 

あなたが何を見つけたにしろ、あるいは何かを見出したと思ったとしても、もはやそのことに焦点を当てる必要はないのです。((訳者注:この辺、「悟りくさい」つまり悟りに囚われている人は心して納得すべき所と思います。既に言った達磨の不識、あるいは沢庵の溶けた心などの意味合いを知るべきでしょう。))

 

There is the need, however, to defend your finding, for losing what you have found might uncover the same old problem again.

 

しかしながら、その発見を擁護する必要はあります。というのもそこで見出した(悟った)「もの」を失えば、再び同じような昔の問題状況が現れるかもしれないからです。

 

Somewhere in the insight process, it is likely that you will get caught up in the notion of having arrived.

 

内観のプロセスを進めるうちに、そのどこかにおいて、あなたはついに至り得た((訳者注:悟った))という観念に囚われてしまいがちなのです。

 

This will occur because, in a practical sense, there is an answer.

 

というのも、このことは、現実的な意味合いで(実際に解放体験をしたという)体験的答えがあるから起こるのでしょう。 

 

In the psychological sense, you learn to throw the "finder" away, i.e., set the feeling of knowing the answer aside.

 

心理的な意味合いでは、あなたは「見出した」(悟った)というその観念を捨てる、つまり、答えを知ったという感じを、いじらずにほおっておく、という事を学ぶ(べきなの)のです

 

There is something about the thought of "I know" that tags it as belonging to the problem way of being.

 

(というのも)知っている(あるいは「悟った」)という思いは、そのように意図しないでも、(いままでここまで、丁寧に、また細かく調べてきた)問題的なあり方にくっついてしまうからです。

 

This, of course, you must discover for yourself.

 

もとより、このことは、自ら気づかなければなりません。

 

The balance between knowing, in a practical sense, and not knowing, in a psychological sense, is something you learn by doing, and becomes an art.

 

(解放体験により)実践的な意味で(自分の正体を)知るということと、心理的な意味で知っていないということ((訳者注:自分は悟っているという思いを捨て去ること。達磨の不識))の間にみいだされるべきバランスは、実践することによってまなんでいくもので、だんだんとそうすることが直観的になるでしょう。(究極的には、それはいわば芸術、つまり無意識にそうなるという域に達するまでみがかれるべきでしょう。)

 

Another difficulty arises from the fact that each release experience must come to an end.

 

此処でのもうひとつの問題(注意点)は、各人の解放体験はいずれ終わらなければならないという事から起こるものです。

 

The energy caught up in the tangle must finally dissipate.

 

葛藤の中で囚われたエネルギーは、(その体験で)最終的には解放されます。

 

Since each experience is, at the least, a sensation of being set free, the experience is naturally sought again; it felt good.

 

それぞれの解放体験は、少なくとも、(自己がその枠から)解放されるという感覚をともなった体験ですから、もう一度その体験を求めようとするのは、もっともです。つまり、それは、心地よかったからです。

 

The goal now becomes one of finding it again.

 

すると、再びそれを見出すということが、新しい目標になるというわけです。

 

The experience is the result of a release from a particular activity of conditioned thought, and if that activity then becomes one of seeking the release experience, the release will only occur when you step out of it.

 

上で言った体験はそもそも何らかの囚われた考えからの解放を意味していたわけですが、もしその囚われが解放という体験を求めるという囚われになったのなら、囚われからの解放はそういったあり方をやめる(はねだす、飛び出る、ほおっておく)ことによってのみ起こるのです。

 

 

 

In other words, the only way you can get what you are looking for, in this case, is to stop looking for it.

 

別の言い方をするならば、このような場合、探し求めているものを手に入れる唯一の方法は、それを探し求めることをやめることです。

 

Then to get it again, you must start and stop again.

 

ですから再び解放体験を得るには、もう一度原点に帰って、そして(探し求めることを)やめなければならないというわけです

 

It's like binding yourself to get the pleasure of the unbinding.

 

(言ってみるなら)これは解放の喜びを得るために自らを縛るようなものです。

 

Since these two difficulties are created by taking the release as the important point, and thereby missing the insight provided, one way of keeping the release experience in perspective is to allow the experience to pass through as an experience.

 

ここでみられる二つの問題点は解放の体験を重要視することによって生じ、又そのために、そのときに得られた智慧に気づかないということなのだから、この解放の体験をしかるべく認識するためには、その体験を単なる体験として、ほおっておく(気にとめない)ということです。

 

This is the practical way of viewing any experience; all that is kept of them is the lesson provided.

 

ここでいった事が、どんな体験であれ、それを見る際の実践的な見方であり、体験がどんなものであれ、そこで学んだことを今後に役立てていけばいいのです。

 

Release experiences all have lessons within them, especially those where divisions created by thought, and thought to be real, come to an end.

 

およそ解放体験には、すべてなんらかの学ぶべきことがあります。殊に、思考によって作り出される分断的な見方や考えられたものが実在であるという感覚はなくなってしまうということです。

 

((訳者注:例として、自分自身と周りの関係に気を遣う:私があってあなたがある。私があって痛みがある。私はお金をたくさんもうけた。あの人は頭がいい、など、というのが意識にひっかかるというのでなく、それらの像・体験が実在化して見えるという事がなくなる。つまり、鏡に映ったそれらの像が、あるいは静寂の場から見た景色が、ただ変化して見えるといったぐあい。道元のいう透脱、あるいは透徹、そして身心脱落の意味合いはこの辺にも絡むと思われる。))

 

When we are caught up in thought, we keep an unnecessary part of the experience.

 

思考に囚われているときは、不要な経験を手放さずにいます。((訳者注:あたかも心理的に不必要な荷物をしょっているといった具合))

 

Uncover for yourself that unnecessary sense of self you carry.

 

(ですから)自分が背負っているそのような不必要な自我意識を自ら暴き出す(そして捨てさる)ようにしなさい。

 

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§8 ((訳者注:注意すべきこと))
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When we have moved to the point where we recognize the sense of self, or problem way of being, we have reached the goal of the movement, i.e., the means to solve the problem.

 

自我意識を認識する、あるいは問題をもたらす事態をあるがままに認識するという地点()にいたったならば、我々は観想の目的地にいたったということです。すなわち、そこが問題(であるというあり方)を解決できる場なのです。

 

We are in what might be called mental shape, and, just as with physical shape, if we don’t use it, we lose it.

 

このとき我々は、 (観想の方法で鍛錬した)「こころのあり方」とでもいうべきものを見出したわけですが(スポーツなどで鍛錬された)「肉体のあり方」とおなじように、使わないと、なくしてしまうでしょう。

 

Keeping in mental shape means keeping the release recognition sharp, and that means staying in the Way of Inquiry.

 

この(観想の方法で鍛錬した)「こころのあり方」を保つということは、解放体験での認識を鮮明に保っているということで、それはとりもなおさず、観想の状態であり続けるということです。

 

The common-aspect of the inquiry, and the listening to your own voice will be very helpful in this matter.

 

観想の万人共通の側面(を働かすということ)と自分自身の声を聞くことは、この点でたいへん役に立つでしょう。

 

The latter, once you get into the swing of it, becomes a natural part of your awareness and provides "with the fact" feedback.

 

後者の自分自身の声を聞くことについては、いったん出来るようになってしまえば、自然に使うあなたの知覚の一部になって、『即事的=渦中的』なやりとりに力を発揮するでしょう。

 

The common-aspect of the inquiry is a constant reminder that there is a problem that needs solving.

 

観想の万人共通の側面(を働かすということ)は、解決を必要とする問題状況があるということを、いつも思い出させてくれるでしょう。

 

There is another way mental shape can be lost, even when the Way of Inquiry is doing its thing.

 

観想の状態が働いている場合でも(観想の方法で鍛錬した)「こころのあり方」が失われてしまうもう一つの場合があります。

 

Conditioned action is habitual action.

 

条件づけられた(そしてそれに束縛される)行動は習慣的行動(つまりなんらかの癖のあらわれ)です。

 

A habitual way of being is a very deeply ingrained habit and will reset just out of habit.

 

習慣的なあり方((訳者注:これを業といってもよい))というのは、たいへん根の深い問題で、その習慣が問題的なあり方(煩悩)を再現することは充分ありえます。((訳者注:だからこそ釈迦も達磨も修行中といった箴言が残っているわけでしょう。)) 

 

There will be times, when for no recognizable reason, you will feel caught up in the problem way of being.

 

つまり手がかりがつかめないまま、問題的なあり方にあって、なにかに囚われていると感じることがあるでしょう。((訳者注:例えばこのポイントを調べるのに坐禅、ヴィパッサナが役に立つ。つまり気づきに至る知覚を鋭敏にしておくということ。))

 

It might only be a sense of tension, a tightness across the chest, or a sense of confinement, but you will know that you are again of it.

 

それは緊張感、胸にある張りつめた感じ、あるいは、閉じこめられた感覚とでもいうべきものかもしれません。しかし、そこで、あなたは、またしても、自分が問題状況の渦中に置かれているということがわかるでしょう。

 

Do nothing but observe the way you are reacting to it.

 

何もせずに、ただそれに対する自分の反応をただ観察しなさい。

 

Ride with it, and, as the habit weakens, you will find that your are less and less visited by it.

 

その状態でいなさい。そうすれば、習慣が弱まっていくにつれ、次第にそれに悩まされなくなっていくことに気づくでしょう。((訳者注:業の根を抜くというのに相当))

 

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§9 ((訳者注:まとめ))
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Let's step back and look, at the process that begins and ends with the Way of Inquiry.

 

ここで、もう一度、初めから終わりまで、『観想の状態』に始まり、『観想の状態』で終わっているプロセス全体を振り返ってみましょう。

 

The key thing to notice is that the solution to the problem is a condition, a state of inquiry, and that it is both the goal and the means.

 

ポイントがどこにあるかというと、(心理的な)問題の解決は(その問題のおかれた)状態、すなわち観想の状態にあり、それが目的であり、手段でもある((訳者注:つまりあるがままですべてが整っている))ということです。

 

Set the solution state and a problem state is revealed.

 

解決の状態()にいたれば、問題の状態は明らかになるのです。((訳者注:これを禅の言葉で言うと煩悩即菩提))

 

The problem state revealed may be described as a problem way of being; a way of thinking, feeling, and acting that has its roots in a misunderstanding, or confusion, within our thought process.

 

この明らかになった(つまり顕在化された)問題状態は、問題的なありよう(あり方)というふうにいえるでしょう。そして、それは、思考・感情・行動のありよう(あり方)であって我々の思考過程にある、誤った理解(妄想)ないしは混迷にルーツを持ち((訳者注:ルーツ無明))、そこからから生じてくるのです。

 

Set the solution state and a problem state is revealed by the dissolution of the problem state; that which is now missing was the problem.

 

解決の状態()を作れば、問題的なありようが消えていくことによって、問題的なありようが明らかになり、その消えてなくなったものこそが問題であったのだというように気づくわけです。((訳者注:このとき、光がやみ、つまり無明、を照らすというような感覚がある。))

 

It is the experience of the dissolution that makes the solution difficult until we come to an understanding of it.

 

此処の理解がえられるまで、この(問題が)消滅するという体験が、解決(したということの理解)を難しくしているといえます。

 

((訳者注:例えば盤珪禅師が悟りの体験の後に旅をし、いろいろな人を訪ねて確証をえようとしたというのもこの辺の所によっているのではないかと思えるのです。又道元の言う、「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず。しかあれども諸仏なり、仏は証しもちゆく」(現成公案)はこのポイントと示しているといえるでしょう。))

 

In the struggle with the seeing and not seeing of the problem way of being,  where we bounce back and forth, a second seeing, as an understanding, is gained, namely, that the Way of Inquiry itself is the answer.

 

でたりはいったりといった問題の状況(我々の煩悩のありよう)を見たり、見えなかったりする、といった葛藤を通して、(それ全体を見るという)言わば第二の(より高次の)見方(気づき)が得られます。それは何かというと、観想の状態そのものが解((訳者注:つまり手段=目的))である、というものです。

 

((訳者注:これは定慧と同義とみえる。また、ここで、悟りという言葉が思い浮かぶが、既に述べられたように、言わば答えというのは答えではない、という(般若即非の)場を忘れると、道元のいうように「悟に大迷なるは衆生なり」というところに陥るというワナが待っているということでしょう。ということで、いわゆる「悟りくさい人」というのはこの辺の消息がまだ納得できてないというように見えるわけです。))

 

Somehow, when we fall asleep to the inquiry, the problem way of being takes on substance.

 

いわれはそれとして、我々が観想の状態を忘れた時、問題の状況(煩悩)はその実体をあらわにするのです。

 

((訳者注:意識が無意識の観閲を得てない時、つまり観想の場を失った時、意識が一人走りして、問題を引き起こすといったもののように見えます))

 

My guess is that when we identify with the problem way of being, we give it life, which is the same identity that the process of the Way of Inquiry both negates and reveals through the negation.

 

私には、我々が問題の状況と一つになるとき、つまりそれが我々の意識の上で実体化されたとき(我々自身がその問題の主体、つまり中心・核心にあると思った時)その問題の状況(煩悩)があたかも(新たに)いのちが吹き込まれたかのように燃え上がるように見えます。ただし、この実体化されたものは、観想の状態のプロセス((訳者注:つまり、受動的に、いじらないで、あるがままに静観するというプロセス))がそういったこと(実体化)を否定しており、また否定することによって(その実態が)明らかになるものなのです。

 

((訳者注:大拙の言う般若即非の論理はこのポイントに相当するものでしょう。A(実体化された煩悩)Aでないつまり(否定されるべきである)、ゆえにA(それは正しく認識されたA=煩悩)である、というわけです。ですから、般若即非とか定慧は、このガイドでいっているすべてを一気に表現していると見られるようにもおもいます。))

 

The solution to the problem way of being can then be seen to be the same solution to the problem of inattention.

 

従って、問題の状況のありよう(煩悩)の解決は、不注意であるという問題を解決することと同じである、と見ることができます。

 

((訳者注:ここがわかるようでわからないという微妙な感じのところ。言わば英語でCatch-22というが、わかるものはわかるが、わからないものはわからない、といった感じ。これはまたスポーツや芸術などでいうコツとか、勘、直観、という分野の話につながるようです。つまり、上の文をいいなおすと、煩悩が煩悩なのはそれが煩悩であると気づいてないからだ、というようなもの。あるいは目覚めていれば、つまり、観想の状態を見失わなければ、煩悩には囚われない、といった意味合いでもあるでしょう。Wilbro氏は老婆心でいろいろと説明を続けますが、ひとつには、言葉でできる限りの説明はしたのだから後は頭でいじくるというのでなく個々人が感じをつかむという意味の修練をしなさい、ということでしょう。つまり体で覚えるということ。そしてそのためには、発心、発心、又発心なのです。))

 

Let's follow this parallel and equate the problem way of being to a second level inattention, where instead of being lost in thought, we are tangled up in a thought identity.

 

ここにみられたことをさらに追っかけて、つぎに、問題的な状態を二次的な(高次な)レベルでの不注意とみてみましょう。つまり、そこでは、われわれが考えの迷路に入ったというのでなく、考えの主体が混乱しているのではないかということです。((訳者注:これは考えの基盤あるいは主体がどうかという事で、言わば自我が考えの主導権をとるとおかしくなるということを指していると見られます)) 

 

In both cases, we do not try not to be either, or escape the situation, but simply observe the way of it.

 

いずれの場合においても、(つまり迷路でも、混乱でも)我々はどちらでもないようにしようとするのではないし、あるいはその状態から逃げようとするのでもありません。つまり単にその状態を観察するのです。

 

In each case, we move from "after the fact" to "with the fact."

 

どちらの場合も、我々は事後的(なあり方)から『即事的=渦中的』(なあり方)に移るのです。

 

The only difference is in awareness.

 

唯一の違いは、覚醒の具合(内容)です。

 

While we can not be aware of not being aware, we can be aware, or come to be aware, of our identity problem, as it were.

 

我々は、目覚めていないということに目覚めるということはできませんが、我々は目覚るか、((訳者注:そうでなければ、もっと根本的な))自我の問題に目覚める(気づく)か、のどちらかといったものです。

 

Throughout the process, it is one movement working on different aspects of the problem.

 

以上のようなわけで、このプロセス(つまり観想の方法)を実践するどの場合においても目覚めへの動き(の性格)はひとつ(同じ)であり、ことなるのは問題の性格(内容)だけというわけです。

 

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§10 ((訳者注:自己の変革について))
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Let's end the guide with a look at self-change in light of what we have exposed of it.

 

我々がこれまで説明してきた事柄を使って、自己変革について概観しながら、このガイドを終えることにしましょう。

 

Conditioned action is patterned action and some conditioning is necessary if we are to make our way around this complicated world.

 

我々の条件付けられた行動というものはパターン化されたもので、この複雑な世界に生きていくためには、ある程度は必要なものでしょう。

 

((訳者注:そもそも意識ができた、あるいは言葉ができたというのは、因果関係をある論理でつなぎ、それを生きるうえで役に立てるべく、パターン化したものと見る事が出来ます。従って、人間として意識・頭・言葉を使って生きていくのなら、これは人間の生活、社会生活に切っても切れないもので、文明の進化もそのかなりの部分はこの要素によっているわけで、とてもないがしろにできないものでしょう。ですから、そういったパターン化されたものをいかに智慧を使って生かしていくかということが問題であろうと思うわけです。))

 


The conditioning the Way of Inquiry exposes is the unnecessary conditioning whose only end seems to be one of making our lives miserable enough to send us on the search for peace of mind.
 
観想の方法を体得する(つまり観想の方法になれる・習熟する)と不必要な条件付け(つまり心の囚われ、悪い癖など)を暴き出す事が出来ます。(この方法を使ってみて、ふりかえってみるなら)それら(こころの囚われ)は我々を苦しみに陥れ、ついには心の安楽、平和をみいだすように我々を駆り立てるものであったということかもしれません。

 

The fact that conditioning is patterned allows us to come to see the unnecessary patterns and set them aside.

 

条件付け(習慣づけなど)はパターン化されているので、我々は不必要なパターンを見いだし、それを取り除くことができます。

 

Since the pattern of search is a very broad pattern, let's open it up for inspection.

 

 

 

ただ、見出すといっても、その対象となる類型は、たいへん広範なものですが、ここでちょとそれを調べてみましょう。

 

The search may be thought of in terms of its experience of fulfillment.

 

ここでは生の充足感をもたらす体験という観点から、それを探してみましょう。

 

If this would happen, all would be well.

 

そう、これができれば、万事うまくいくのです。

 

If I could get this, or reach this, or be this, or change this, all would be well.

 

あるいは、これを手に入れ、ここに至り、こうなって、ここを変えることができるならば、万事がうまくいくのです。

 

There are two ways to satisfy that thought; imagine it satisfied or actively seek its fulfillment through the experience of it.

 

こういった考えを満たすやり方に二つあります。ひとつは成功して満たされたときのことをイメージするということ。もう一つは、その体験による満足を得るためにがんばるということです。

 

When it does come about, there is the experience of satisfaction, and all is deemed well, even if the actualization did not live up to its imagined one.

 

それが起きれば、満足でしょう。たとえそれが、当初イメージしたところと多少食い違っていたとしても、それはそれなりによいでしょう。

 

This movement of want moves from one goal to another in the search for the final goal, each getting old in its time.

 

その時点で得られたものは、どんどん古くなるので、この作業は究極の到達点をめざして限りなく続きます。

 

There are the problems of getting and the problems of keeping.

 

つまり、そういったことでは、(究極の到達点に)至りえないということと、(得られたものは)保ち得ないという問題があります。

 

There are the problems of more and not enough.

 

もっと、というのは残っても、これでよいということはないということです。

 

Then there may be burnout and/or depression when the never-ending circular way of it is seen; for it goes nowhere.

 

そこで、決して終わることのない円環状態になるとわかったとき、精魂尽き果て、落胆するかもしれません。というのも、これ以上どこにも行きようがないからです。

 

If you find that is the way of it, why not stop looking for the answer in the future long enough to turn and look directly at the problem as it is?

 

しかし、そうであったとしても、なぜ(いつ来るかもしれないという)将来に向けて答えを見つけだそうという努力をやめないのでしょうか?そして問題を直視すべく見方を変えないのでしょうか?

 

Wouldn't we be in a better position to solve it?

 

そうするのが、よりよい答えを得られる場をわれわれに提供するのではないでしょうか?

 

Suppose all we have been doing is running away from a problem that must follow us wherever we go?

 

我々がやってきたことは、我々がどこに行こうと、永遠につきまとってくる問題から逃げ出そうということではないでしょうか?

 

If we were the problem it must follow every step we take in trying to get away from it.

 

もし我々自身が問題であるならば、問題は我々がそれから逃げようとしても何処までも追いかけてくるといったものでしょう。

 

((訳者注:Wilbro氏がリスボンで気づいたのはこのことだったのでしょう:「ハトが私の足下に集まってきたのを見たときに私が思ったことは、とても信じられないことでした。つまり、そこでみたものはなんら新しいものではなく、なんと昔のままの私のありようだったのです。。。それはまったく空虚な感じでした。そして、それとともに、そこで気づいたのは、私は私自身から逃げようとしたということ、そして、あたりまえのことですが、とても自分自身から逃げようとしても逃げることはできないということなのです。」))

 

This guide, as I have presented it, is drawn from the experience of only a few.

 

ここに書いたこのガイドは、ほんのわずかの人の体験をもとにして書かれています。

 

The route needs more exploration, and the guide needs adding to by those explorations.

 

ですから、この道は、今後もさらに調べを進めていかなければならないし、またこのガイドもそれらによって、さらに書き加えられていかなければならないでしょう。

 

I found it necessary to write this guide as a step by step affair in order to expose the movements within the process.

 

このガイドは(智慧の発現が起こる)プロセス内での働きを明らかにするために段階的に書かざるを得ませんでした。

 

In reality, it is a much more complex process of self-clarification within a single movement.

 

とはいえ、現実にはそれは一瞬の働きではありながらも、もっと複雑な己事究明のプロセスなのです。

 

((訳者注:最後の文の「複雑、云々」は、業の働きがいろいろに現れるということ。それに対するただしい処理(観想)をする時にともすれば見失う、微妙な落し穴がありうるということ、などを示しているようです。))

 

 

 

最後に(訳者よりのコメント)


「このパンフレット(小冊子)は、とどのつまりは単なるガイドでしかありません。ですから私は、、、何のお約束もできません。ただ、あなたがそれが何のためであれ、つかって役に立てればよいと思って書いたものです。 」で始まったこのガイド。そしてWilbro氏との出会い。それは私にとっては、鈴木大拙さんと(の本を通して)の出会い、中山正和さんとの出会い、道元との出会い、ヴィパッサナとの出会い、などと並んで道を究めるという意味で大事な出会いであったと思う。

 

今、これらとの出会いを振り返ってみると、ひとつ共通するものがある。それは何かというと、どれもある種のきらめき、直感がそこに感じられ、どれもが私にとって、そう、道を歩む上でのガイドになったということ。これらのほかに、私のホームページにはいろいろな出会い、例えば妙好人、いろいろなお経、などを載せてあるが、こういったものすべてが、私にとってのガイドであり、、、そう、法の働き、そのありがたさを示してくれるコンパニオン(道を一緒に歩む同行)といった感じなのである。

 

ここまで書いて、ふと過去からの流れを振り返って、「あーそうなんだった」と、思った。それは何かというと、このガイドも、大拙も、中山さんも、道元も、ヴィパッサナも、、、みな、始めはそれこそ鉄の塊をしゃぶるようなもので、何かは、つまり何か大事なことを指し示しているというのは、直観で感じられたけれど、味わいはなかなか伝わってこなかったのである。そういったわけで、私はわからないままに何度、同じ所を読んだだろうか。

 

それがいつしか、そこここでの(目覚め・気づき・くつろぎの)体験とあいまって、私のなかのものと共鳴したのだ。つまり、もともとあったものが、、、隠れていたものが、、、あっても気がつかなかったものが、そこここで聴いた心にしみとおるような言葉、感じた境涯などを通じ、あたかも殻を破って青空のもとに出てきたというようなものだ。あるいは、あまりに当たり前で、忘れ去られていたものが、、、闇に隠れて、不必要に押さえつけられていたものが、すべての条件付けを突き通って自在な活動をする場を得た、といったふうなのである。

 

とはいえ、こんなことはしょせん、個人ベースの体験であり、そんな事をいくら書いてもはたで聴くものにとって何の意味があろうかといった感じもする。けれど、Wilbro氏がここでやったように、そしてほかのいろいろな人がそこここで書き残したように、その意味がないかもしれないものが、大いなる意味をもたらすことがあるのである。

 

また、たとえここに書いたものが、ほんの少数の人の眼に留まるだけであり、かつ、ここに書いたことの意味合いが、すんなりとわからないとしても、そこに言葉に言い尽くせない重大な意味があると言うことは、私自身の体験からも否定できないのだ。

 

確かに言葉には限界があるようだ。けれども、それが(その言葉に共鳴する知覚を養うことによって、あるいは智慧の眼を持つことによって)本来の意味合いが現れ出でて、我々の生をより意義あるものにするであろう事を願って、ここに筆をおきたいと思う。

 

                                                    2007年11月7日   洲崎 清記 

 

 

 

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