佛遺教経楞伽経、大乗起信論

 

 

 

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はじめに. 1

佛遺教経. 2

楞伽経. 24

悟りにとらわれるな. 24

楞伽経(大拙による英訳) 25

分別について(英文) 31

色即是空、(英文) 31

意識について (英文) 35

楞伽経(英訳)ここまでのまとめ. 40

楞伽経(大拙全集より) 42

神秀と慧能. 42

大意. 45

大乗起信論さとりの体と相ー鏡のたとえ. 49

 

 

はじめに

 

ここでは以下の三つのお経を調べています:

 

1)佛遺教経釈迦仏が入滅に臨じて、その遺言として教誨を垂れたもの。禅宗では特に重んじて仏祖三経(仏説四十二章経  仏遺教経  潙山警策)の一つとのこと。とても短いお経です。

 

2)楞伽経:達磨はこの経を慧可に伝えて如来心地要門はここにあるといったという。このお経は維摩経などに比べるとわかりにくい、無味乾燥といった感じがありますが、いちおう研究はしておくべきだろうとおもい調べたものです。ちなみに大拙はこれを英訳しています。ここでは英語のものを一部読んだ後(かなり厄介です)、大拙全集からこのお経の大意を調べました、

 

3)大乗起信論「さとりの理の体と相―鏡のたとえ」:これは別途HPにまとめた「鏡の心」に付いて大乗起信論での解釈を調べたものです。数ページですが確認のための参考になります。

 

これまで、私の(修・証の)体験の確認をするために、いろいろな調べを進めてきましたが今回はこれら三つが目に付いたものです。それぞれが違った狙いで書かれているわけですが、維摩経、般若経、華厳経なども併せよんでみると、当たり前ですが微妙な違いもありいろいろ味わい深いところに気づきます。リバースエンジニアリングと言うのがありますが、表現はいろいろあってもその元の体験の意味するところに如何に気づくかというのが大問題、いわば公案、であり、そのために苦労するというのは、そうあって然るべきと思うわけです。

 

古人の智慧をこういう形に残していただいてまことにありがたいと思っております。時?!として慢心や迷いにおちいる私ですが、こういったところからも突っ込んで修・証のきづなとしたいと願うところです。

 

                                                2008年 2月15日 洲崎清記

 

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佛遺教経
http://www.scn.tv/user/terao-ji/tera65.htm

佛遺教経
《姚秦三蔵法師鳩摩羅什繹…… 訓訳》

1、釈迦牟尼仏は、最初の説法(初転法輪)において、五比丘(僧侶)のひとり阿若キョ陳如を最初に救われ、[八十歳のこの日]最後に訪ねてきたバラモンの阿若キョ陳如に教えを説いて救いました。まさに救うべき縁のある者はみなすでに救いおわり、一株から二本生えている沙羅の木の間において、いままさに涅槃に入ろうとしていました。それは夜半であり、だれひとりとして声を立てるものはありません。仏陀は弟子たちのために略して教えの要をお説きになりました。

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注)大般涅槃経をウイキペディアで調べると次のものがあります、、、

大乗に至る過渡期のものとして、数種の涅槃経が漢訳として現存する。たとえば遺教経(ゆいきようぎよう、鳩摩羅什訳、仏垂般涅槃略説教誡経、略して仏遺教経などとも)では、釈迦仏が入滅に臨じて、その遺言として教誨を垂れたものである。ちなみに禅宗では特に重んじて仏祖三経の一つとしている。

 

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2、あなた方僧侶方よ、私が入滅後においては、波羅提木叉を尊重し、敬いなさい。そうすれば、闇夜に明かりを得、脅しい人が宝を得たように救われるでしょう。まさに知るべきです。これこそ、あなた方の大師なのです。たとえ私がこの世に生きつづけたとしても、この波羅提木又と別物ではありません。[だから私をあてにしないで、自らを頼りにすべきです」浄らかな戒(慎み)を保とうとする者は、販売や貿易をしたり、田畑屋敷を所有したり、労働者や使用人、家畜などを蓄えてはなりません。すべて農耕と財産とは、火の穴を避けるように遠く離れるべきです。「なぜなら、所有欲は煩悩の根源だからです」草木を伐採し、土地を耕し、薬を調合し、吉凶の占いをし、星の占いをし、月の満ち欠けで月日をはかり、暦を計算したりしてはなりません。それらは、苦しみからの解脱を求める人にはふさわしくありません。身に節度を保ち、ふさわしいときに食べ、こだわることなく清らかに自立して命を養いなさい。世間の政治に参画し、敵味方の間に立って調停したり、まじないや霊薬をつくり、高貴な人にとりいり、おべっかを使うなどはあってはならないことです。それらはいずれもふさわしいことではないからです。まさしく自ら心をただし、正しい思い(正念)にして救いを求めるべきです。心のなかに自我の瑕庇(きず)を内包し、異様な行動をし、仲間を惑わすことがあってはなりません。飲食・衣服・臥具・医薬の四種の供養を受けたときには、必要な量の限度を心得、満足することを知るべきです。わずかな供養を受けて、蓄えをしようなどというさもしい心を起こすべきではありません。ここにすなわち略して戒を保つ在り方(相)を説明しましょう。或は、正しい解脱の根本です。それゆえに<別解脱>と名づけられるのです。この戒をよりどころにすれば、いろいろな落ち着き・静けさ(禅定)および苦を滅する智慧を生みだすことができるのです。それゆえにあなた方僧侶は浄らかな戒を保って、壊し欠くことがあってはなりません。もしも人がよく浄らかな戒を保てば、[真実と徳という]善き教えがあります。もし浄らかな戒がなければ、さまざまな善き功徳はみな生まれてこないでしょう。このゆえにまさに知るべきです。或は、第一番に穏やかな功徳のすみかであるということを。

注ーネットで調べたもの)比丘の二百五十戒の条文だけを律蔵から抽出したものを、「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)」または「戒本(かいほん)」と言います。

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波羅提木叉(はらだいもくしゃ)」は戒、あるいは法とみたらよいのかな。つまり法が身に付いているかどうかと言うことなのだね。

>浄らかな戒(慎み)を保とうとする者は、販売や貿易をしたり、田畑屋敷を所有したり、労働者や使用人、家畜などを蓄えてはなりません。すべて農耕と財産とは、火の穴を避けるように遠く離れるべきです。「なぜなら、所有欲は煩悩の根源だからです」

うーん。確かに物を持っている、(→あるいは物をなくすと言うのは)煩悩の根源といえるかな。出家。

まあ、これは小欲知足、とみておこう。シンプルライフだ。
コンピューターや知識も、あるいは、お金も「生き生きライフ」に役だつようにするというふうにみたい。在家

>草木を伐採し、土地を耕し、薬を調合し、吉凶の占いをし、星の占いをし、月の満ち欠けで月日をはかり、暦を計算したりしてはなりません。それらは、苦しみからの解脱を求める人にはふさわしくありません。

縁にそって、、、というのはいい。あるがまま、自然法爾でいい。
そういえば私の場合、月日、時間は(ほとんど)意味がないという感じはある。けれど、社会生活をする上では、「役」に立つね。在家。

 

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>身に節度を保ち、ふさわしいときに食べ、こだわることなく清らかに自立して命を養いなさい。

そうだね。ある意味では(森の)動物みたいな生活かな。たんたんたんたん。もくもくもくもく。

>世間の政治に参画し、敵味方の間に立って調停したり、まじないや霊薬をつくり、高貴な人にとりいり、おべっかを使うなどはあってはならないことです。それらはいずれもふさわしいことではないからです。

これはよくわかるな。
迷いが迷いを生むというのもあるしね。
取り合わず、、、
たんたん、さらさら。。。

ただ、まったくの「我関せず」でもないかな。慈悲。

>まさしく自ら心をただし、正しい思い(正念)にして救いを求めるべきです。

救いを求めるというのも、ないというのが正念というようにもみえる。けれど、我をもってもとめるのでなく、南無、、、の意味で、我を投げ出すと言うふうなことなら、それはわかるな。

>心のなかに自我の瑕庇(きず)を内包し、異様な行動をし、仲間を惑わすことがあってはなりません。

そう、おだやかであって、自ずから然りといきたいね。

>飲食・衣服・臥具・医薬の四種の供養を受けたときには、必要な量の限度を心得、満足することを知るべきです。わずかな供養を受けて、蓄えをしようなどというさもしい心を起こすべきではありません。

小欲知足だね。

>ここにすなわち略して戒を保つ在り方(相)を説明しましょう。或は、正しい解脱の根本です。それゆえに<別解脱>と名づけられるのです。この戒をよりどころにすれば、いろいろな落ち着き・静けさ(禅定)および苦を滅する智慧を生みだすことができるのです。それゆえにあなた方僧侶は浄らかな戒を保って、壊し欠くことがあってはなりません。もしも人がよく浄らかな戒を保てば、[真実と徳という]善き教えがあります。もし浄らかな戒がなければ、さまざまな善き功徳はみな生まれてこないでしょう。このゆえにまさに知るべきです。或は、第一番に穏やかな功徳のすみかであるということを。

法が身に付いているのなら、すべての行いが戒あったものとなるであろう。そうでないものは、(法が身についてないもの、智慧によって法の見出し方のわからないもの)は、名人の言われる事をそのままにするのが修業であるというような意味で、戒といわれるものを(仏の智慧によって見出されたものであるのだから)素直に実践しなさい、と言うことのように思う。

 

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3、あなた方僧侶方よ、あなた方はすでによく戒に安住しています。それゆえにこそ、眼・耳・鼻・舌・身という五根を制御すべきです。わがまま(放逸)にして、[色欲・声欲・香のこだわり・味のこだわり・感触のこだわり、あるいは財欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲(怠惰欲)という五つの]欲望に陥ることがないようにしなさい。それはたとえば、牛伺いが杖を見せて勝手放題に他人の植えた苗を荒らさせないようなものです。もしも五根を好き勝手にすれば、欲望を制限する畔がなく抑制することができないだけでなく、暴れ馬の轡を押さえて牽制しなければ、人を引きずって穴に落とすようなものです。強盗の被害は、苦しくても、この人生一代のことです。しかし、五根[による欲望]という賊の禍殃は次の世まで続き、その害毒たるや、甚だしいものがあり、慎まなければなりません。それゆえに智慧ある人は自制して[欲望に]従わないのです。この五根をもつことは賊に対するように、勝手放題にならないようにしなくてはなりません。たとえ、この五根を好き勝手にしたとしても、みな近いうちにその消滅を見ることになるでしょう。
この眼・耳・鼻・舌・身の五根は「心」を主人としています。それゆえにあなた方は心を制御すべきです。心というものの恐ろしさは、毒蛇・悪獣・敵や賊よりも甚だしいものです。大火事が手に負えないさまも喩にならないほどです。たとえば、ある人が蜜の入った器を手にもって、喜びのあまり動転して蜜ばかり見て、深い穴に気がつかないようなものです。また、狂った象に足カギがなく、猿が樹に登って跳ねまわって、とり押さえられないようなものです。だから急いで、この心をとり押さえて、わがままにならないようにすべきです。この心を好き勝手にすれば、人として書きことを失ないます。心をひとところに制御すれば、物事をわきまえないということはありません。そのゆえにあなた方僧侶はまさしく努め励んで、己の心を説きふせて従わせるべきです。

 

>3、あなた方僧侶方よ、あなた方はすでによく戒に安住しています。それゆえにこそ、眼・耳・鼻・舌・身という五根を制御すべきです。

この意味合いは、制御=囚われず、ひっかからず、冷静にそこで何が起こっているかを知ると言うこと、とみます。

>わがまま(放逸)にして、[色欲・声欲・香のこだわり・味のこだわり・感触のこだわり、あるいは財欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲(怠惰欲)という五つの]欲望に陥ることがないようにしなさい。

これも上のポイントに似ているが、問題はすばやく気づき、何もしない対処ができるかと言うこと。ただ理論でわかっても、実際に気づきがなければ、気づいたときには翻弄されていると言うことになる。とはいえ、気づいてないときにどう気づくかというのは、パラドックスである。だから、坐禅して気づきのメカニズムを「体で覚える」と言うやり方が進められる。身体で覚えるのは知覚を鋭敏にというやつ。ヴィパッサナは効果があると思います。Wilbro氏のガイドも参考まで。(HPに載せてあります)

>それはたとえば、牛伺いが杖を見せて勝手放題に他人の植えた苗を荒らさせないようなものです。もしも五根を好き勝手にすれば、欲望を制限する畔がなく抑制することができないだけでなく、暴れ馬の轡を押さえて牽制しなければ、人を引きずって穴に落とすようなものです。

まさにそのとうり!ご用心ご用心!

>強盗の被害は、苦しくても、この人生一代のことです。しかし、五根[による欲望]という賊の禍殃は次の世まで続き、その害毒たるや、甚だしいものがあり、慎まなければなりません。それゆえに智慧ある人は自制して[欲望に]従わないのです。

これは各人、とことんやるしかない。本をいくら読んでもだめ!

>この五根をもつことは賊に対するように、勝手放題にならないようにしなくてはなりません。たとえ、この五根を好き勝手にしたとしても、みな近いうちにその消滅を見ることになるでしょう。
この眼・耳・鼻・舌・身の五根は「心」を主人としています。それゆえにあなた方は心を制御すべきです。心というものの恐ろしさは、毒蛇・悪獣・敵や賊よりも甚だしいものです。大火事が手に負えないさまも喩にならないほどです。

まあ、これに気づくというのが、第一歩であり、初心であり、、、、いつまでも初心忘れるな、ということですね。うんうん。

>たとえば、ある人が蜜の入った器を手にもって、喜びのあまり動転して蜜ばかり見て、深い穴に気がつかないようなものです。また、狂った象に足カギがなく、猿が樹に登って跳ねまわって、とり押さえられないようなものです。だから急いで、この心をとり押さえて、わがままにならないようにすべきです。この心を好き勝手にすれば、人として書きことを失ないます。心をひとところに制御すれば、物事をわきまえないということはありません。そのゆえにあなた方僧侶はまさしく努め励んで、己の心を説きふせて従わせるべきです。

理論だけじゃあダメだね!!!
とことんとことん、
動中の工夫、静中の工夫だ!

一刻一刻が勝負だ!
これを一言で言うと、
目覚めよ!
ということになる。

 

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4、あなた方僧侶方よ、いろいろな飲食の布施・恵みをいただくときは、まさに薬を服用するようにいただきなさい。好みのものであっても嫌いなものであっても、あるものは多くあるものは少なくしてはなりません。最低限、命を維持することを得たらよいのであって、それで飢えを除くのです。蜜蜂が花から蜜をとるときに、ただその蜜の味だけとって、花の色や香りを損なわないようなものです。僧侶もまたそうです。人様の供養をいただいて最低限に己の悩みを解消しなさい。必要以上に求めて施主の善き心を壊し傷つけてはなりません。たとえば、智慧ある人は、牛の力に見あった荷物をおもんばかって計算し、能力以上に積んで、その牛の力をすり減らしてしまうことがないように配慮するようなものです。

 

>4、あなた方僧侶方よ、いろいろな飲食の布施・恵みをいただくときは、まさに薬を服用するようにいただきなさい。好みのものであっても嫌いなものであっても、あるものは多くあるものは少なくしてはなりません。最低限、命を維持することを得たらよいのであって、それで飢えを除くのです。

シンプルライフだね。無駄の排除でもある。余計なこと、を余計と知ると言うのも智慧だね。必要なものを必要なだけ、必要な時に、ね。

>蜜蜂が花から蜜をとるときに、ただその蜜の味だけとって、花の色や香りを損なわないようなものです。

自然のバランスは(智慧)はどうもそうなっているようだね。本来どんな生命体も微妙なバランスの上に立って生きているのだね。

>僧侶もまたそうです。人様の供養をいただいて最低限に己の悩みを解消しなさい。必要以上に求めて施主の善き心を壊し傷つけてはなりません。

小欲知足だね。微妙なバランスだ。

>たとえば、智慧ある人は、牛の力に見あった荷物をおもんばかって計算し、能力以上に積んで、その牛の力をすり減らしてしまうことがないように配慮するようなものです。

煩悩がさかんだと、この辺の微妙な所の読みができなくなる。その結果被害を蒙る、、、と言うことさえわからない。

ないというのは、ある、というのの意見合いを教えてくれる、という意味で、大事だね。

 

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5、あなた方僧侶たちよ、昼間は心を励まして人として善き教えを修行して、時間を無駄にしてはなりません。夜の初めも(中ほども)夜の終わりもまた、励みの心を廃止してはなりません。夜半に仏の教えを口ずさんで自らを確かめなさい。限度を越えて眠り、やる気を失って、大切な人生を無 益に過ごしてはなりません。まさしく無常という火があらゆる世間を焼いていることを思いだして、早く自分で救いを求めるべきです。居眠りや怠惰で過ごしてはなりません。あらゆる煩悩という盗賊はいつもスキを狙って人を殺そうとしていることは、敵よりも甚だしいのです。どうして眠りにふけって自分から気づき目覚めないでいいものでしょうか。煩悩という毒蛇は、気づかないうちにあなた方の心のなかにいるのです。たとえば蜥蜴があなたの部屋に入りこんでいるのに知らずに寝てしまうようなものです。まさしく戒を保つというカギで、急いでこれをとりのぞくべきです。居眠りや怠惰という蛇が出ていったら、それから安心して眠りなさい。出ていかないのに眠るのはそれは恥知らずです。恥を知るという服は、多くの荘厳のなかで第一番なのです。恥じらいの心は、鉄のカギのように、よく人の悪しきことを制御します。それゆえにあなた方僧侶はいつも恥じる心をもつべきです。片時も忘れてはなりません。もしも恥じる心を忘れると、さまざまな功徳を失います。恥を知る人には必ず善き真実があります。恥を知らない者はいろいろな鳥や獣と違いがありません。

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>励みの心を廃止してはなりません。

これがいわば自動的になるかどうかというようなものだな。

>夜半に仏の教えを口ずさんで自らを確かめなさい。

あるいは今此処、只、(定慧)だろうな。

>限度を越えて眠り、やる気を失って、大切な人生を無 益に過ごしてはなりません。

この辺はバランスで、そのバランスをとるというのが智慧でもある。

>まさしく無常という火があらゆる世間を焼いていることを思いだして、早く自分で救いを求めるべきです。

無常をそこいらじゅうに知覚する、というのもちえなのだね。

>居眠りや怠惰で過ごしてはなりません。あらゆる煩悩という盗賊はいつもスキを狙って人を殺そうとしていることは、敵よりも甚だしいのです。どうして眠りにふけって自分から気づき目覚めないでいいものでしょうか。煩悩という毒蛇は、気づかないうちにあなた方の心のなかにいるのです。たとえば蜥蜴があなたの部屋に入りこんでいるのに知らずに寝てしまうようなものです。

油断大敵!

>まさしく戒を保つというカギで、急いでこれをとりのぞくべきです。

あるいは目覚めていよ、というようなものだな。
「今此処、只、(定慧)」につながるね。

>居眠りや怠惰という蛇が出ていったら、それから安心して眠りなさい。出ていかないのに眠るのはそれは恥知らずです。恥を知るという服は、多くの荘厳のなかで第一番なのです。恥じらいの心は、鉄のカギのように、よく人の悪しきことを制御します。それゆえにあなた方僧侶はいつも恥じる心をもつべきです。片時も忘れてはなりません。もしも恥じる心を忘れると、さまざまな功徳を失います。恥を知る人には必ず善き真実があります。恥を知らない者はいろいろな鳥や獣と違いがありません。

「励みの心を廃止してはなりません。」につながるのだろうな。

 

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6、あなた方僧侶方よ、もしもある人がやってきてあなた方の手足をバラバラにしたとしても、まさに自分の心を内に落ち着かせて、怒り・恨みの心(瞋恚)を起こしてはなりません。また、正しく口を守って、ののしったり恨んだりする言葉をいってはなりません。もしも内心の怒りを好き勝手にすると、そのこと自体が自分の道を妨害し、功徳の利益を失います。忍耐は偉大な徳であって、戒を守り、苦行をすることなどは及びもつきません。よく忍耐する者は、それこそ名づけて「力のある人」(有力の大人)というのです。もしも悪口雑言という毒でも[縁として]喜んで忍耐し甘受して、美味しいものを飲むように受けとることができない者は、仏の道に入った智慧ある人とはいえないのです。理由はなにかといえば、怒りの害毒は、つまりいろいろな善き真実を壊し、善き噂を壊すのです。いまの人も、のちの世の人も、見たいとは思わないでしょう。まさに知るべきです。怒りの心は燃えさかる火よりも恐ろしいものです。常に口を守って、怒りの欲望に入らないようにしなければなりません。功徳を奪いとる賊のなかでも怒り以上のものはないでしょう。在家の純白の服を着て欲望のなかに住む、戒をもたない人であっても、相手への怒りを許すべきです。ましてや世間を出て修行し、欲望を離れた人でありながら、怒りを心に抱いているのは、甚だよろしくありません。たとえば、涼しい雲のなかに突然雷が起こるのはふさわしくないようなものです。

ーー

>6、あなた方僧侶方よ、もしもある人がやってきてあなた方の手足をバラバラにしたとしても、まさに自分の心を内に落ち着かせて、怒り・恨みの心(瞋恚)を起こしてはなりません。

忍辱、、、、

>また、正しく口を守って、ののしったり恨んだりする言葉をいってはなりません。もしも内心の怒りを好き勝手にすると、そのこと自体が自分の道を妨害し、功徳の利益を失います。

言うだけじゃなくて、思うも同じだね。ほっとけほっとけ!

>忍耐は偉大な徳であって、戒を守り、苦行をすることなどは及びもつきません。

忍耐=戒=苦行、というふうにも見えるな。
で、苦行は苦と感じてやってたら苦行じゃないんだね。
忍もおなじ。
戒もおなじ。
自ずから然りでないと。

>よく忍耐する者は、それこそ名づけて「力のある人」(有力の大人)というのです。

この力は人としての力じゃあないな。

>もしも悪口雑言という毒でも[縁として]喜んで忍耐し甘受して、美味しいものを飲むように受けとることができない者は、仏の道に入った智慧ある人とはいえないのです。

まあ、これがいやなら、というか、話しができないなら、意味が見出せないなら、ほっとく、あるいはどこかに行く、ということでもいいね。

>理由はなにかといえば、怒りの害毒は、つまりいろいろな善き真実を壊し、善き噂を壊すのです。

この害毒、というの面白いね。煩悩の炎、
じっと、ほっとくと、消えてなくなるね。
これ自然の智慧だね。

>いまの人も、のちの世の人も、見たいとは思わないでしょう。まさに知るべきです。怒りの心は燃えさかる火よりも恐ろしいものです。

みずからを内側からさいなむ、のだね!

>常に口を守って、怒りの欲望に入らないようにしなければなりません。

口は外向けだけということでなく、こころの口もだね。

>功徳を奪いとる賊のなかでも怒り以上のものはないでしょう。在家の純白の服を着て欲望のなかに住む、戒をもたない人であっても、相手への怒りを許すべきです。

許して、、、、いずれ智慧が出る。そうなっているんだろうな。

>ましてや世間を出て修行し、欲望を離れた人でありながら、怒りを心に抱いているのは、甚だよろしくありません。たとえば、涼しい雲のなかに突然雷が起こるのはふさわしくないようなものです。

ただ、出たものをよろしくない、というのも、ある意味ではよろしくないな。
でたら、でたで、いじらずに、ほっとくと、いずれよろしく(法にそったものに)なる。

それにしても坐禅はいい訓練になるな。

 

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7、あなた方僧侶方よ、まさに自らの意思で頭を剃りなさい。もうすでに飾りを捨てて、もとの色がわからない色の衣(袈裟)を着て、応量器(鉄鉢)をもって、乞食で自立して生きています。私を見てもこのとおりです。もしも慢心(驕慢)が起こったら、早くこれをとりのぞくべきです。慢心を増長させることは、在家の純白の服を着た人であってもあるべきようではありません。ましてや世間を捨てて仏の道に入った人は、煩悩の繰り返しから解放されるために、自らその全身をへりくだして、こうして乞食を行っているのではなかったのですか。



>7、あなた方僧侶方よ、まさに自らの意思で頭を剃りなさい。もうすでに飾りを捨てて、もとの色がわからない色の衣(袈裟)を着て、応量器(鉄鉢)をもって、乞食で自立して生きています。私を見てもこのとおりです。

シンプルライフだね。自立=(法に)頼っているけど、(あれこれという作為に)頼ってないのだね。

>もしも慢心(驕慢)が起こったら、早くこれをとりのぞくべきです。慢心を増長させることは、在家の純白の服を着た人であってもあるべきようではありません。

そうだ、そうだ!Humbleであれ!謙虚であれ、素直であれ!人に説教するなどと思うな!内から光が出るかどうか、それだけだろう!

>ましてや世間を捨てて仏の道に入った人は、煩悩の繰り返しから解放されるために、自らその全身をへりくだして、こうして乞食を行っているのではなかったのですか。

へりくだせ、、、へりくだせ、、、
無になれ無になれ!

なれじゃなくて、なっておれ。
はあ〜!

そうすると、自立は、、、
自ずから、そうなる、と言うことだね!

こりゃ、
くつろぎの自立だわいな。

 

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>8、あなた方僧侶方よ、へつらいの心(諂曲)は解脱の道とは相反します。それゆえに己が心を正して質実かつまっすぐにすべきです。まさに知るべきです。へつらいの心は、ただ欺きと偽りをつくることを。仏の道に入った人にはそのようなことはありません。それゆえにあなた方は心をきちんと正して、質実かつまっすぐな在り方を基本とすべきです。

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まっすぐに、きちんと、、、
心を正す、、、

素直と言うことだな。
いじくらずに、こねくり回さずに、

ぱ〜ん!

はい。

 

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9、あなた方僧侶方よ、まさに知るべきです。欲望の多い人は利益を求める気持ちが多いので、苦しみ悩むことも多いのです。欲の少ない人は求めるところも欲望もないからこうした心配はないのです。すぐにも欲の少ない人でさえなお修行すべきです。ましてや、欲の少ない人はさまざまな功徳を生むのですから。欲の少ない人はへつらって人の好意を欲しがることはありません。また、五根による煩悩に引きずられないのです。少欲を実践する者は、心が平らで憂いと恐れがありません。事態にふれても余裕があり、いつでも不満に思うことはありません。欲望が少ない者には静けさ(涅槃)があります。これを「少欲」というのです。

ーー

たんたんたんたん
こつこつこつこつ
もくもくもくもく

 

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10、あなた方僧侶方よ、もしもいろいろな苦しみ・悩みから抜けだしたいと思うならば、まさに足るを知ること(知足)を観察すべきです。足るを知る教えは豊かで楽しく穏やかな世界です。足るを知る人は地面に寝ていても安楽だといいます。満足することを知らない人は、御殿に住んでいても満足することがありません。満ち足りない人は物があっても、心は貧しいのです。足るを知る人は、物はなくても心は豊かです。満足を知らない人はいつでも欲望に引きずられて、足るを知る人から哀れみの眼で見られることになります。これを「知足」というのです。

ーー

求める心が、危ういのだね。
絶体絶命で安心していられるか?というのがひとつのチェックポイントだね。

例えば、ジーット座ってごらん。
あるいはなんにもしないでじーっとしてごらん。

どうかな?
こころがゆれないで、じーっとしてるかな?

そこに何がおこってる?

涅槃寂静?
それとも?

 

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11、あなた方僧侶方よ、静寂で損得を忘れた世界の安らぎを求めたいと思うなら、乱れてうるさいところを離れて一人居に静かに暮らすべきです。静かなところの人は、インドラ神(帝釈天)等の神々がともどもに尊重するところです。それゆえに自分の仲間や人々を離れて、静かなところに一人居して、苦悩を消滅させる根本を思うべきです。もしも人の群れにいたい人は大勢のために起こる悩みを受けます。たとえば、大きな樹に多くの鳥が集まると、枯れて折れる心配があるようなものです。俗世間の束縛と執着は大勢から起こる苦悩に埋没するのです。たとえば年老いた象が、泥沼に足をとられておぼれ、自分のカでは脱出できないようなものです。これを「遠離」というのです。

ーー

>乱れてうるさいところを離れて一人居に静かに暮らすべきです。

やはりそうなるのかな。

>静かなところに一人居して、苦悩を消滅させる根本を思うべきです。

瞑想・坐禅せよ、ということだろうな。

>もしも人の群れにいたい人は大勢のために起こる悩みを受けます。

やはり、娑婆、迷いのなっただなか、、、ということか。迷いの増殖地といった雰囲気かもしれないな。

>たとえば、大きな樹に多くの鳥が集まると、枯れて折れる心配があるようなものです。

綺麗な空気がなくなる、酸素が欠乏する、みんなでごっつんごっつん、といったものかな。

>俗世間の束縛と執着は大勢から起こる苦悩に埋没するのです。たとえば年老いた象が、泥沼に足をとられておぼれ、自分のカでは脱出できないようなものです。これを「遠離」というのです。

やはり、いろいろな引っ掛かりがあるから、、、
目の前のスクリーンがだんだんと狭まってきて、自然の音が、光が遠ざかるといったものかもしれないな。それの恐ろしいのは、こっちが気が付かないうちにだんだんとそうなってしまうということだろうな。

大体いい参考になる人・ものが少ないと、気づきの共鳴周波数がわからなくなるといったものじゃあないかな。

ところで今日久しぶりに雨が降ったけど、その雨だれの紋が水溜りで広がるのを見て、微妙な感じがあったな。

それがいそがしいと、そんなゆとりもなくなっていくだろうからね。。。

だから、、、「遠離」というのはそれ自身、智慧のあらわれかもしれないな。

 

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12、あなた方僧侶方よ、努め励んで心をこめて進む努力(精進)をすれば、物事として困難ということはないでしょう。それゆえにあなた方はまさに努め励んで、心をこめて進む努力をしなさい。たとえば、わずかな水が常に流れて石に穴をあけるようなものです。もしも修行者の心がしばしばやる気を失えば、たとえば火おこしの鑚をもむのに、まだ熱がたまっていないうちに疲れてやめてしまえば[すぐに冷めてしまい]、火を求めているのに、火を得ることは難しいようなものです。これを「精進」というのです。

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ふむふむ。

そこでおもしろい、ややっこしいのは、
精進しようと思う、
そしてその思いを通り超えると言うことだろうな。

発心があって、その発心が菩提になる、という道元のアレだな。

「発心・修行・菩提・涅槃は同時の発心・修行・菩提・涅槃なるべし。」

これ、さすがだね!

これもある:「しかあるに発心は一発にして、さらに発心せず、修行は無量なり、証果は一証なりとのみきくは、仏法をきくにあらず、仏法をしれるにあらず、仏法にあふにあらず。千億発の発心は、さだめて一発心の発なり。千億人の発心は、一発心の発なり。一発心は千億の発心なり。 」

だから精進はそのまま六波羅蜜につながるというようなものだな。

早い話、精進していると思うのは精進ではないということだ。

素直になれ、素直になれ!!!!!

で、素直になると自分は素直かどうかはもうわからなくなる!

うじゃうじゃ言っているうちはまだまだ、だね!

 

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13、あなた方僧侶方よ、善き導き手(善知識)を求め、善き道の友を求めたいと思うならば、心の方向を忘れないこと(不忘念)です。心の方向を忘れない人は、あらゆる煩悩という賊も入りこむことはできないでしょう。それゆえにあなた方はいつでも心の方向を内に落ち着かせておくべきです。もしも心の方向を失う人はさまざまな功徳を失います。心の方向を思うカが強く確かであれば、欲望という賊のなかに入っても、そのために欲望の危害ぽ受けないでしょう。たとえば、鎧を着ていれば戦場に入っても怖いことはないようなものです。これを「不忘念」というのです。

ーー

不忘念という言葉をはじめて聴いたが、これは盤珪なら仏心というのだろうな。非思量でもいいだろう。無心でも、、、無念でも、、、無住、無相などなど

主人公がいつもちゃんといるのがわかってる、といった具合だろう。鏡の心が働いているのだ。で、何かそこから「ずれた」ならすぐそれがわかるようになっている。

穏やかな心、というのでもいいね。何か波立ったら、ぱっと気づき、じっとしていると、しかるべく道が示されると言った感じだろうと思う。

 

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14、あなた方僧侶方よ、心の方向を内におさめている人は落ち着きの静けさ(定)に安住しています。心が落ち着き、安住しているから、世間の生死無常の姿<縁起>がわかるのです。それゆえにあなた方はいつでも励んで、いろいろな落ち着きの修行をしなさい。落ち着きの静けさを得た人は心が散乱しないのです。たとえば、水を大切にする農家が田の畔や堤防をよく管理して修理するようなものです。修行者もまた同様です。[真実についての]智慧という水を大切にするからこそ、よく坐禅の静けさ(禅定)を実践して智慧を漏らさないようにするのです。これを「(禅)定」というのです。

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>心の方向を内におさめている人は落ち着きの静けさ(定)に安住しています。心が落ち着き、安住しているから、世間の生死無常の姿<縁起>がわかるのです。

ああ、いい言葉だな。

>よく坐禅の静けさ(禅定)を実践して智慧を漏らさないようにするのです

いつも禅定、といった具合だね。
でも、おっとっとはある。
だから、もらさないように、だ。

 

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15、あなた方僧侶方よ、もしも真実なる智慧があれば、貪り・執着の心は起きないでしょう。いつでも自ら内省して、過ちなきようにしなさい。これは、私の教えのなかでよく煩悩の繰打返しからの解放を得ます。もしも、その智慧をもたない人は、もう仏道者とはいえません。また、在家でもなく、名づけようがありません。真実なる智慧の人は、老・病・死の苦しみの海を渡るしっかりとした船なのです。また、それは智慧の明かりがない闇夜を照らす大灯明です。すべて病む人の良き薬です。煩悩という樹を切る鋭い斧のようです。それゆえにあなた方よ、まさに聞法・思惟・実践の智慧をもって、自身で智慧の利益を成長させましょう。もしも人に真実なる智慧の明かりがあれば、肉体的な眼で見ているのであっても、智慧の眼で見る人といっていいでしょう。これを「智慧」というのです。

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>もしも真実なる智慧があれば、貪り・執着の心は起きないでしょう。

おきても対処できるのが智慧ということでもいいな。起こさないように、は難しいと思う。妙好人の「煩悩を取らないでくれてありがとう」はすばらしいと思う。

>明かりがない闇夜を照らす大灯明です。

明かりだけだと明かりがあることもわからない。

>煩悩という樹を切る鋭い斧のようです。

金剛、ダイアモンドの鋭さ、ということかな。
あるいは光りがぱっと照ると言う感じ!
すべてを自ずから然りに、向かいしめる法の働きといった感じかな。

 

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16、あなた方僧侶方よ、もしも、さまざまなつまらない会話(戯論)をすれば、その心汚れ乱れます。それでは、出家して世間を離れたといっても、まだ世間の煩悩を脱出していません。それゆえにあなた方僧侶は急いで、心が乱れるつまらない会話を捨て離れるべきです。もしも、あなた方が静寂・静けさの喜びを得たいと思うなら、ただただ、つまらない会話を消滅すべきです。これを「不戯論」というのです。

ーー

>心が乱れるつまらない会話を捨て離れるべきです。

そうだね。ぶっきらぼうと思われるかも知れないが、それはそれ。

あたかも坐禅していて(坐禅してなくても同じ)、ふっと起こる思いに囚われないというのと同じだ。

キラキラ光るものを見出すのは、余計なものにかまわず、、、
じっと水の澄むのを待つような意味合いもアル。

これの逆が「小人閑居して不善を為す」というやつだ。

つまらないことをなしていて、それに気づかない、というのでないように、、、ね!!!!!!

はい。

 

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>つまらない会話を消滅すべきです。これを「不戯論」というのです。

喝、棒、ポカ、只座れ、非思量、、、、

それで気づかないときにどうしたら気づくか、というパラドックスに挑戦するわけだ。

つまらない会話をつまらないと知るか?
その会話が頭の中でぐるぐるでないか?
それにどう気づくか?

どうかな?

ポカ!

ありがとうございます!

 

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17、あなた方僧侶方よ、さまざまな功徳をいただくなかで、さまざまなわがまま・気のゆるみは、敵や賊を避けるように、いつでもひたすらに捨て遠ざけるべきです。大いなる慈悲の仏の説くところのさとりの利益は、みなすでに完成しているのです。[それらを放免によって壊してはなりません]あなた方は、ただただ、努め励んでこれらを実践すべきです。山のなか、谷あいでも、あるいは大樹の下、静かなところ、静かな部屋にいても、いただいた教えを思いつづけて忘れてはなりません。いつでも自ら努め励んで、この教えを実践すべきです。人として為すべきことがなくて無益に死んだなら、あとで後悔するでしょう。私は名医が病気を珍断して薬を処方するようなもので、薬を服用するかしないかは医師の責任ではありません。あるいは道案内する人が人を正しい方向へ導くようなもので、案内を聞いても行かないのは、道案内する人の罪ではありません。

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知と行と、、、

仏道と言うのを知ると言うのはそう面倒くさいものではないと思う。

問題は実践。

そこで発心発心又発心である。

何かを読むというのはチェックの意味でしかないだろう。

まあ、ひらめきがあったなら、

それはそれとして、、、

我々の存在の原点を、、、(主人公、本来の面目)

確認して、、、

道を歩むのだ。

 

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18、あなた方僧侶方よ、もしも苦諦(苦という現実)・集諦(苦の原因)・滅諦(原因の消滅)・道諦(その方法)という<四諦>の真理について疑問のある人は、急いでそれを質問しなさい。質問があるのに決着しないでいてはなりません」このとき、仏陀世尊は、このように三回仰せられましたが、問う人はありませんでした。なぜなら、人々に疑問がなかったからです。

ーー

え〜と、これは涅槃経の最後の所を言っているのかな?

まあ、それはそれとして、、、

ここで疑問がなくてもとことん実践しているかどうかと言うのとはまたチョッと違うだろうね。

ただ、それはその人において解決せらるべきものだから、、、

まあ、ここが難しい(と言えば難しい)ところだな。

 

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19、そのとき、阿ヌ楼駄尊者は、人々の心を深く観察して、仏陀に申し上げました。「仏陀世尊よ、月が熱くなるようなことがあっても、太陽が冷たくなるようなことがあっても、仏陀のお説きくだされた<四諦>の真理に間違いはありません。仏陀のお説きくだされた苦諦の真理は真実苦であります。けして楽ということはありません。集諦の真理は確かに苦の原因です。ほかに原因はありません。苦がもしも消滅解消すれば、その原因である我愛も消滅します。原因たる我愛が消滅するから結果である苦も消滅するのです。苦を滅する<八正道>の教えは確かに真実の道です。そのほかの道はありません。仏陀世尊よ、これらの多くの僧侶たちは、<四諦>の真理のなかに安住し決着して、疑問はないのです。

ーー

という事で、後は実践あるのみ。

 

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20、この人々のなかに、もしも為すべき行いをまだわきまえていない人があったら、仏の入滅を見て悲しみ嘆くでしょう。もしも新たに仏の道に入る人であっても、仏陀の説くところの教えを聞いてみな救いを得るでしょう。たとえば、闇夜に稲光を見て、ただちに道を見つけることができるようなものです。為すべき行いをすでにわきまえ、すでに苦しみの海を渡った人は、このような思いをもつべきです。仏陀世尊の入滅は、なんとこのように早いものかと[あるがままに観察すべきです]

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>あるがままに観察、、、

こっちの都合じゃなくてね!

 

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21、阿ヌ楼駄尊者が、このように説いて、人々はみな(四諦)の真理をさとったのですが、それでも仏陀世尊は人々のさとりをより確信させようとおぼしめして、大慈悲心をもって、再び人々のためにお説きくだされました。

22、「あなた方僧侶方よ、悲しみの心をもってはなりません。もしも私がこの世に生きることが一カルパ(一劫)ほど長くても、会い遇う人間同士はいずれ死に別れるのです。会って別れないことはありえないのです。自らを利益し、人を利益する教えはみな十分そなえています。もしも私が長く生きたとしても、これ以上に利益することはないでしょう。
まさに救うべき人は、天上界の者も人間界の者もみなすべてもう救いました。そのまだ救いにあずかっていない人には、みなすでに救いの縁を結びました。いまより以後、私の多くの弟子たちが伝え伝えてこれを実践すれば、つまり如来の真実の命はいつでもどこでも実現して、なくなることはありません。
それゆえにまさに知るべきです。世間はみな無常です。会う人は必ず別れるのです。憂いと悩みをもってはなりません。それが世間の真実の姿なのです。正しく励んで精進して早く解脱を求め、智慧の明かりをもって、多くの愚かさの閤を滅ぽしなさい。世間はまことに危うくもろいものです。確かなものはありません。私がいま入滅を得ることは、悪い病気をとりのぞくようなものです。執着のもとである命は、結局、捨てるべき罪深いものです。仮に名前をつけてか身体というのです。生き死にの大海に浮き沈みしているのです。どうして智慧ある人はこれを、敵や賊を殺すようにして、とりのぞくことを喜ばないということがあるべきでしょうか。

--

>執着のもとである命は、結局、捨てるべき罪深いものです。

そうだね〜。。。

ただ、その執着を生きているうちに切って、
うまく使うと言うのはありうるのでしょうね。

 

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23、あなた方僧侶方よ、いつでもひたすらに世間の苦しみから脱けだす道を求めるべきです。世間で変化するもの変化しないものすべてはみな壊れ、よりどころとならない姿です。

24、あなた方、もうやめてください。もう、話さないでください。時はまさに過ぎようとしています。私は、完全な静けさ(般涅槃・無余涅槃)に入ろうと思います。これが私の最後の教え戒めるところのものです」

ーー

>完全な静けさにはいる

ご苦労さん!

一切皆苦
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静

ありがとう!

 

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楞伽経

 

不思議なもので、7年ほど前に書いたものをパラパラみていたら、いろいろ懐かしい思いや、「初心」がよみがえってきたとともに、こういうのもでてきた。元は英語、掲示版はここ:http://groups.yahoo.com/group/theuniverseofzen/message/2952

Lanka=楞伽経。Wilbo氏のガイドともからむところであり、又特に、悟りに囚われているものに警告を発するといったものでもあろう。

悟りにとらわれるな

 

「悟りには決まった形やものがないから、さとることはあるがさとられるものはない。

迷いがあるから悟りと言うのであって、迷いがなければ悟りもなくなる。迷いを離れてさとりはなく、悟りを離れて迷いはない。

だから、悟りのあるのはなお妨げとなる。闇があるから照らすことがあり、闇がなくなれば照らすという事もなくなる。照らすことと照らされるものと、ともになくなってしまうのである。

誠に道を修めるものは、悟って、悟りにとどまらない。悟りのあるのはなお迷いだからである。

この境地にいたればすべては、迷いのままにさとりであり、闇のままに光である。すべての煩悩がそのまま悟りであるところまで、悟りきらなければならない。」 

 

楞伽経による。 

上のものは日本語版は佛教聖典(仏教伝道協会)p。60にあります。

 

 


From p.116 The Teaching of Buddha by Bukkyo Dendo
Kyokai (22 Lankavatara-sutra) BTW, does anyone know
sutras on web?<br><br>Enlightenment has no definite form
or nature by which it can manifest itself; so in
Enlightenment itself, there is nothing to be
enlightened.<br><br>Enlightenment exists solely because of delusion and
ignorance;
if they disappear, so will enlightenment. And the
opposite is true also; delusion and ignorance exist
because of enlightenment; when enlightenment ceases,
ignorance and delusion ceases also.<br><br>Therefore, be on
guard against thinking of enlightenment as a "thing" to
be grasped after, lest it, too, should become an
obstruction. When the mind that was in darkness become
enlightened, it passes away, and with its passing, the thing
which we call enlightenment passes also.<br><br>As long
as people desire enlightenment and grasp after it,
it means that delusion is still with them;
therefore, those who are following the way to enlightenment
must not grasp after it, and if they gain
enlightenment they must not linger in it.<br><br>When people
attain enlightenment in this sense, it means that
everything is enlightenment itself as it is; therefore,
people should follow the path to enlightenment until in
their thoughts worldly passions and enlightenment
become identical as the are.<br><br

 

 

==

 

楞伽経(大拙による英訳)

 

ここから楞伽経を読んでみたい。
これは大拙の英訳によるものがネットで見つかったのでそれを基にする。日本語のものはネットにのってないのでこれを元に調べてみたい:

http://lirs.ru/do/lanka_eng/lanka-nondiacritical.htm



The highest reality is、、、 called "something that has been in existence since the very first" (purvadharmasthitita, p. 241, 1. 14), or (pauranasthitidharmata, p. 143, ll. 5 and 9). As it is the most ancient reality, its realisation means returning to one's own original abode in which everything one sees around is an old familiar object. In Zen Buddhism, therefore, the experience is compared to the visiting one's native home and quietly getting settled (歸家穩坐, kuei-chia wen-tso). The Buddhas, enlightened ones, are all abiding here as gold is embedded in the mine. The ever-enduring reality (sthitita dharmata) is above changes.

注:これはIntroductionから。

ーー

ああ、なんともいえないな。

あえて言えば、

ご苦労さん。

ああ、ありがとう。

いいえ、どういたしまして。

もともとの、

もともとですね。

はい。

うんうん。

 

==

 

The object of Right Knowledge is Suchness of things as not conditioned by the category of being and non-being. It is in this sense that ultimate reality is said to be like the moon in the water, it is not immersed in it, nor is it outside it. We cannot say that the moon is in water, for it is a mere reflection; but we cannot say that it is not there, for a reflection though it may be it is really before us. Plurality of objects is not real from the point of view of relativity as well as from the point of view of Suchness. If some one declares such reality as maintained by the Mahayana is too ethereal, too phantom-like, too unreal for our religious aspirations, the Lanka will immediately retort, "You are still on the plane of relativity." When the Aryajnana is awakened, Tathata is the most real thing and a term most fittingly applied as far as our power of designation is concerned.

(これもINTROより)

ーー

ああ、おもしろくなってきたな。

水と月でも鏡の心でも同じだろう!

 

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To realise the Cittamatra is the object of the Lanka, and this is done when Discrimination is discarded, that is, when a state of non-discrimination is attained in one's spiritual life. Discrimination is a logical term and belongs to the intellect. Thus we see that the end of the religious discipline is to go beyond intellectualism, for to discriminate, to divide, is the function of the intellect. Logic does not lead one to self-realisation. Hence Nagarjuna's hair-splitting dialectics. His idea is to prove the ineffectiveness of logic in the domain of our spiritual life. This is where the Lanka joins hands with the Madhyamaka. The doctrine of the Void is indeed the foundation of Mahayana philosophy. But this is not to be understood in the manner of analytical reasoning. The Lanka is quite explicit and not to be mistaken in this respect.

ーー

この辺、先ほど書いた(大拙のトピ):

>「心」(下記の注参照、普通言う心とは違う)即ち「一心」を二元の混乱状態の中に把握することが、禅の鍛錬の目的である。

の根本のところだな。

とはいえ、空をみて、、、

それでどうか、というところがないと、

大拙のいうように物騒・危険な落し穴が待っているというわけだ。

 

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In the Lanka all the most fundamental conceptions of the Mahayana are thrown in without any attempt on the part of the compiler or compilers to give them a system. This is left to the thoughtful reader himself who will pick them up from the medley and string them into a garland of pearls out of his own religious experience.

ーー

上手いこと言うね!

書いたほうは、何がしかの目的を持って書いて、、、

読むほうは、その作品を自分なりの体験にもとずいた芸術品として、うけとめるということだね。

 

==

 

The one significant Mahayana thought, however, which is not expressly touched upon in the Sutra is that of Parinamana. Parinamana means to turn one's merit over to somebody else so as to expedite the latter's attainment of Nirvana. If anybody does anything good, its merit is sure to come back to the doer himself?this is the doctrine of Karma; but according to the Mahayana the recipient need not always be the doer himself, he may be anybody, he may be the whole world; merit being of universal character can be transferred upon anything the doer wishes. This transferability is known as the doctrine of Parinamana, the turning over of one's good work to somebody else. This idea comes from the philosophical teaching of Interpenetration as upheld in the Avatamsaka.

ーー

これは「共鳴」と言う感じがあたっているように思う。ー>華厳:ジジ無礙。

「体験」としては、「生き生き」、「活溌溌地」でもいいだろう。

 

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All things are to be comprehended by transcending the Citta, Manas, and Vijnana as is done by thee. Thou shouldst look inwardly and not become attached to the letter and a superficial view of things; thou shouldst not fall into the attainments, conceptions, experiences, views, and Samadhis of the Sravakas, Pratyekabuddhas, and philosophers; thou shouldst not have any liking for small talk and witticism; thou shouldst not cherish the notion of self-substance,1 nor have any thought for the vainglory of rulership, nor dwell on such Dhyanas as belong to the six Dhyanas, etc.

ーー

大拙はこれらを肝に銘じながら読み、英訳したのかな。。。

 

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Blessed One, duality was discoursed upon by the Transformed Tathagatas and Tathagatas of Trans-formation, but not by the Tathagatas of Silence.2 The Tathagatas of Silence are absorbed in the blissful state of Samadhi, they do not discriminate concerning this state, nor do they discourse on it.。。。
The Blessed One said, "Lord of Lanka, tell me what you mean by duality?"
The Lord of the Rakshasas, , said, "It is said that even dharmas are to be abandoned, and how much more adharmas. Blessed One, why does this dualism exist that we are called upon to abandon? What are adharmas? and what are dharmas? 。。。" 
Said the Blessed One, "Lord of Lanka, seest thou not that the differentiation of things, such as is perceived in jars and other breakable objects whose nature it is to perish in time, takes place in a realm of discrimination [cherished by] the ignorant? This being so, is it not to be so understood? It is due to discrimination [cherished by] the ignorant that there exists the differentiation of dharma and adharma.
(→法を求めるものは法を求めてはならない、につながる)

Noble wisdom (aryajnana), however, is not to be realised by seeing [things this way]. Lord of Lanka, let it be so with the ignorant who follow the particularised aspect of existence that there are such objects as jars, etc., but it is not so with the wise. One flame of uniform nature rises up depending on houses, mansions, parks, and terraces, and burns them down; while a difference in the flames is seen according to the power of each burning material which varies in length, magnitude, etc. This being so, why (18) is it not to be so understood? The duality of dharma and adharma thus comes into existence. Not only is there seen a fire-flame spreading out in one continuity and yet showing a variety of flames, but from one seed are produced, also in one continuity, stems, shoots, knots, leaves, petals, flowers, fruit, branches, all individualised. As it is with every external object from which grows [a variety of] objects, so also with internal objects. From ignorance there develop the Skandhas, Dhatus, Ayatanas, with all kinds of objects accompanying, which grow out in the triple world where we have, as we see, happiness, form, speech, and behaviour, each differentiating [infinitely].
頭の上に頭を重ねるというやつだな。

 

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"Lord of Lanka, the differentiation of dharma and adharma comes from discrimination. Lord of Lanka, what are dharmas? That is, they are discriminated by the discriminations cherished by the philosophers, Sravakas, Pratyekabuddhas, and ignorant people. They think that the dharmas headed by quality and substance are produced by causes?[these are the notions] to be abandoned. Such are not to be regarded [as real] because they are appearances (lakshana). It comes from one's clinging [to appearances] that the manifestations of his own Mind are regarded as reality (dharmata). (19) Such things as jars, etc., are products of discrimination conceived by the ignorant, they exist not; their substances are not attainable. The viewing of things from this viewpoint is known as their abandonment. (執着無し、、否定、あってない)

"What, then, are adharmas? Lord of Lanka, [dharmas] are unattainable as to their selfhood, they are not appearances born of discrimination, they are above causality; there is in them no such [dualistic] happening as is seen as reality and non-reality. This is known as the abandoning of dharmas.
(法は法でない、それが法である、だ。)

What again is meant by the unattainability of dharmas? That is, it is like horns of a hare, or an ass, or a camel, or a horse, or a child conceived by a barren woman. They are dharmas the nature of which is unattainable; they are not to be thought [as real] because they are appearances. They are only talked About in popular parlance if they have any sense at all; they are not to be adhered to as in the case of jars, etc. As these [unrealities] are to be abandoned as not comprehensible by the mind (vijnana), so are things (bhava) of discrimination also to be abandoned. This is called the abandoning of dharmas and adharmas. Lord of Lanka, your question as to the way of abandoning dharmas and adharmas is hereby answered.
(つまり法―Dharmaは既にある、内蔵されているというようなもの。悉有仏性とにている。)

 

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分別について(英文)

"Lord of Lanka, what you speak of as past is no more than discrimination, so is the future; 。。the present, too, is like itLord of Lanka, the teaching of all the Buddhas is outside discrimination; as it goes beyond all discriminations and futile reasonings, it is not a form of particularisation, it is realised only by wisdom. That [this absolute] teaching is at all discoursed about is for the sake of giving bliss to all sentient beings. The discoursing is done by the wisdom transcending forms. It is called the Tathagata; therefore, the Tathagata has his essence, his body in this wisdom. He thus does not discriminate, nor is he to be discriminated. Do not discriminate him after the notion of ego, personality, or being. Why this impossibility of discrimination? because the Manovijnana is aroused on account of an objective world wherein it attaches itself to forms and figures. Therefore, [the Tathagata] is outside the discriminating [view] as well as the discriminated [idea]. Lord of Lanka, it is like beings painted in colours on a wall, they have no sensibility [or intelligence]. Sentient beings in the world are also like them; no acts, no rewards [are with them]. So are all the teachings, no hearing, no preaching."

(もともと分別ではおっつかない。空、一心、あるいは無分別の分別。
わかったと言うことはわかってないということ。達磨の「不識」も同じ。)

 

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色即是空、(英文)(空即是色)

"Lord of Lanka, beings are appearances, they are like figures painted on the wall, they have no sensibility [or consciousness]. Lord of Lanka, all that is in the world is devoid of work and action because all things have no reality, and there is nothing heard, nothing hearing. Lord of Lanka, all that is in the world is like an image magically transformed. This is not comprehended by the philosophers and the ignorant. Lord of Lanka, he who thus sees things, is the one who sees truthfully. Those who see things otherwise walk in discrimination; as they depend on discrimination, they cling to dualism. It is like seeing one's own image reflected in a mirror, or one's own shadow in the water, or in the moonlight, or seeing one's shadow in the house, or hearing an echo in the valley. People grasping their own shadows of discrimination (21) uphold the discrimination of dharma and adharma and, failing to carry out the abandonment of the dualism, they go on discriminating and never attain tranquillity, By tranquillity is meant oneness (ekagra), and oneness gives birth to the highest Samadhi, which is gained by entering into the womb of Tathagatahood, which is the realm of noble wisdom realised in one's inmost self."
(さらに言えば、これがないと色・分別の本当の意味合いがでないというわけだね。ここでは、そこまではっきり言ってないけれど。)

 

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マハマティの108の質問:
II Mahamati's "One Hundred and Eight Questions"
At that time Mahamati the Bodhisattva-Mahasattva praising the Blessed One with such verses as these, made his own name known to the Blessed One.
9. I am Mahamati, Blessed One, and am well versed in the Mahayana. I wish to ask one hundred and eight questions of thee who art most eloquent.
10. Hearing his words the Buddha, the best knower of the world, looking over the whole assembly, spoke to the son of the Sugata thus:
11. Ask me, sons of the Victorious, and Mahamati, you ask and I will instruct you in self-realisation.
At that moment Mahamati the Bodhisattva-Mahasattva who was given by the Blessed One the opportunity to speak, prostrated himself at the feet of the Blessed One and asked:
(24) 12. How can one be cleansed of false intellection? Whence does it arise? How can one perceive errors? Whence do they arise?
13. Whence come lands, transformation, appearance, and philosophers? Wherefore is the state of imagelessness, the gradations, and whence are the sons of the Victorious?
14. Where is the way of emancipation? Who is in bondage? By what is he redeemed? What is the mental state of those who practise the Dhyanas? Whence is the triple vehicle?
15. What is that which is born of causation? What is effect? What is cause [or that which works]? Whence the doctrine of duality? Whence does it arise?
16. Wherefore is the tranquilising exercise of formlessness? And that of complete extinction? Wherefore the extinction of thoughts? And how is one awakened from it?
17. How does action rise? Whence is the behaviour of those who hold the body? Whence [this] visible [world]? Whence the conditions? Whence the entrance upon the stages?
18. Who is it that breaks through this triple existence? What is the abode? What is the body? Where does that which is abiding arise? Whence comes the son of the Buddha?
19. Who attains the psychic faculties, the self-masteries, the Samadhis? How is the mind tranquilised? Pray tell me, O Bull-like Victor?
20. What is the Alaya? And whence the Manovijnana? (25) How does the visible [world] rise? How does it cease from being visible?


(めんどくさいので全部は読まない。ポイントとなるのは仏陀の答えだから、それを中心に見ることとする)

 

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97. You ask me such and many other questions, which are in accordance with the marks [of Truth?] and free from erroneous views.

108回の否定
98.1 I will instruct you as regards realisation and its teaching; listen to me intently; I will give you an explanation of the statements, O son, listen to me, in regard to the one hundred and eight statements as recounted by the Buddhas.
At that moment Mahamati the Bodhisattva-Mahasattva said to the Blessed One: What is meant by the one hundred and eight statements?2
 (大拙のコメントから: Birth stands against death, they are relative notions, and do not apply to a world where things are perceived in their absolute aspect. Therefore, any statement that might be made concerning birth are not at all true; birth is no-birth, death is no-death, and so on. Even of such notions as truth, realisation, self-nature, mind, paramitas, the same can be said; to make a statement about anything is to falsify it. Hence the series of negations as illustrated here. But the mysterious fact about them is the reference to so many trite subjects which are evidently in no direct connection with the teachings of the Mahayana. )

The Blessed One said: A statement concerning birth is no statement concerning birth; a statement concerning eternity is no statement concerning eternity. [The topics thus negated are as follows:1] the characteristic marks, abiding and changing, moment, self-nature, emptiness, annihilation, mind, the middle, permanence, causation, cause, the passions, desire, (35) means, contrivance, purity, inference [or conclusion], illustration, a disciple, a master, a family, the triple vehicle, imagelessness, vows, the triple circle, form, duality of being and non-being, bothness, the noble wisdom of self-realisation, the bliss of the present world, lands, atoms, water, a bow, reality, numbers and mathematics, the psychic powers, the sky, clouds, the arts and crafts and sciences, the wind, the earth, thinking, thought-constructions, self-nature, the aggregates, being, insight, Nirvana, that which is known, the philosophers, disorder, a vision, a dream, (36) a mirage, a reflection, a circle made in the dark by a fire-brand, the city of the Gandharvas, the heavens, food and drink, sexuality, philosophical views, the Paramitas, morality, the moon and the sun and stars, truth, effect, annihilation and origination, medical treatment, the characteristic marks, the limbs, arts and sciences, Dhyana, error, the seen [world], protection, dynasty, Rishi, kingdom, apprehension, treasure, explanation, the Icchantika, man, woman, and hermaphrodite, taste, action, the body, false intellection, motives, sense-organs, the Samskrita,2 cause and effect, the Kanishtha,3 the seasons, a luxuriant growth of trees, vines and shrubs, (37) multiplicity, entering into the teaching, systems of morality, the Bhikshus, the powers added [by the Buddha], the lutes. These are the one hundred and eight statements recounted by the Buddhas of the past.
    1 To avoid repetitions, the subjects alone are mentioned which are systematically negated in the text.
    2 Anything that produces an effect.
    3 A class of deities.

(ははは。。これはおもしろい!
あっという間にすべてが否定された!
要は二元の見方は実在の根拠がない、というようなわけだ!)

 

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意識について (英文)

At that moment, Mahamati the Bodhisattva-Mahasattva said again to the Blessed One: In how many ways, Blessed One, does the rise, abiding, and ceasing of the Vijnanas take place?
The Blessed One replied: There are two ways, Mahamati, in which the rise, abiding, and ceasing of the Vijnanas take place, and this is not understood by the philosophers. That is to say, the ceasing takes place as regards continuation and form. In the rise of the Vijnanas, also, these two are recognisable: the rise as regards continuation and the rise as regards form. In the abiding, also, these two [are discernible]: the one taking place as regards continuation and the other as regards form.
[Further,] three modes are distinguishable in the Vijnanas: (1) the Vijnana as evolving, (2) the Vijnana as producing effects, and (3) the Vijnana as remaining in its original nature.
[Further,] Mahamati, in the Vijnanas, which are said to be eight, two functions generally are distinguishable, the perceiving and the object-discriminating. As a mirror reflects forms, Mahamati, the perceiving Vijna a perceives [objects]. Mahamati, between the two, the perceiving Vijnana and the object-discriminating Vijnana, there is no difference; they are mutually conditioning. Then, Mahamati, the perciving Vijnana functions because of transformation's taking place [in the mind] by reason of a mysterious habit-energy, while, Mahamati, the object-discriminating Vijnana (38) functions because of the mind's discriminating an objective world and because of the habit-energy accumulated by erroneous reasoning since beginningless time.
Again, Mahamati, by the cessation of all the sense-Vijnanas is meant the cessation of the Alayavijnana's variously accumulating habit-energy which is generated when unrealities are discriminated. This, Mahamati, is known as the cessation of the form-aspect of the Vijnanas….などなど。。。
(五蘊といったかな、、、それと、阿頼耶識との関連を話しているが、あまり実践的でないのでとりあえずほおっておく事にする。)

 

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V 自性に付いて、、、スキップ
Again, Mahamati, there are seven kinds of self-nature: collection (samudaya), being (bhava), characteristic marks (lakshana), elements (mahabhuta), causality (hetu), conditionality (pratyaya), and perfection (nishpatti).1

哲学者のおちいる問題点、、、二元

。。。
Mahamati, what are these erroneous teachings accepted generally by the philosophers? [Their error lies in this] that they do not recognise an objective world to be of Mind itself which is erroneously discriminated; and, not understanding the nature of the Vijnanas which are also no more than manifestations of Mind, like simple-minded ones that they are, they cherish the dualism of being and non-being where there is but [one] self-nature and [one] first principle.
Again, Mahamati, my teaching consists in the cessation of sufferings arising from the discrimination of the triple world; in the cessation of ignorance, desire, deed, and causality; and in the recognition that an objective world, like a vision, is the manifestation of Mind itself.

外にある世界は「心」の投影 (英文)

VII 縁起ばっかり見ていると、いくらやってもおっつかない。
Mahamati, there are some Brahmans and Sramanas who assume something out of nothing, saying that there exists a substance which is bound up in causation and abides in time, and that the Skandhas, Dhatus, and Ayatanas have their genesis and continuation in causation and, after thus existing, pass away.
They are those, Mahamati, who hold a destructive and nihilistic view concerning such subjects as continuation, activity, rising, breaking-up, existence, Nirvana, the path, karma, fruition, and truth. (41) Why? Because they have not attained an intuitive understanding [of the Truth], because they have no fundamental insight of things. Mahamati, it is like a jar broken in pieces which is unable to function as a jar; again, it is like a burnt seed which is incapable of sprouting. Even so, Mahamati, their Skandhas, Dhatus, and Ayatanas which they regard as subject to changes are really incapable of uninterrupted transformation because their views do not originate from the perception of an objective world as a manifestation of Mind itself which is erroneously discriminated.。。。

 

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VIII 業の働きを知る。無明智慧 (英文)
Perceiving that the triple existence is by reason of the habit-energy of erroneous discrimination and false reasoning that has been going on since beginningless time, and also thinking of the state of Buddhahood which is imageless and unborn, [the Bodhisattva] will become thoroughly conversant with the noble truth of self-realisation, will become a perfect master of his own mind, will conduct himself without effort, will be like a gem reflecting a variety of colours, will be able to assume the body of transformation, will be able to enter into the subtle minds of all beings, and, because of his firm belief in the truth of Mind-only, will, by gradually ascending the stages, become established in Buddhahood. Therefore, Mahamati, let the Bodhisattva-Mahasattva be well disciplined in self-realisation.

IX 波と海の比喩。(英文)
Then Mahamati said: Teach me, Blessed One, concerning that most subtle doctrine which explains the Citta, Manas, Manovijnana, the five Dharmas, the Svabhavas, and the Lakshanas; which is put in practice by the Buddhas and Bodhisattvas; which is separated from the state of mind which recognises a world as something outside Mind itself; and which, breaking down all the so-called truths established by words and reasonings, constitutes the essence of the teachings of all the Buddhas. Pray teach this assembly headed by the Bodhisattvas gathering on Mount Malaya in the city of Lanka; teach them regarding the Dharmakaya which is praised by the Tathagatas and which is the realm of (44) the Alayavijnana which resembles the ocean with its waves.

Then the Blessed One again speaking to Mahamati the Bodhisattva-Mahasattva said this: The reasons whereby the eye-consciousness arises are four. What are they? They are: (1) The clinging to an external world, not knowing that it is of Mind itself; (2) The attaching to form and habit-energy accumulated since beginningless time by false reasoning and erroneous views; (3) The self-nature inherent in the Vijnana; (4) The eagerness for multiple forms and appearances. By these four reasons, Mahamati, the waves of the evolving Vijnanas are stirred on the Alayavijnana which resembles the waters of a flood.

The same [can be said of the other sense-consciousnesses] as of the eye-consciousness. This consciousness arises at once or by degrees in every sense-organ including its atoms and pores of the skin; the sense-field is apprehended like a mirror reflecting objects, like the ocean swept over by a wind. Mahamati, similarly the waves of the mind-ocean are stirred uninterruptedly by the wind of objectivity; cause, deed, and appearance condition one another inseparably; the functioning Vijnanas and the original Vijnana are thus inextricably bound-up together; and because the self-nature of form, etc., is not comprehended, Mahamati, the system of the five consciousnesses (vijnanas) comes to function. 。。。

 

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業の微妙な働きを知るということ。(波と海の関係)


(45) As the Vijnanas thus go on functioning [without being conscious of their own doings], so the Yogins while entering upon a state of tranquillisation (Samapatti) are not aware of the workings of the subtle habit-energy [or memory] within themselves; for they think that they would enter upon a state of tranquillisation by extinguishing the Vijnanas. But [in fact] they are in this state without extinguishing the Vijnanas which still subsist because the seeds of habit-energy have not been extinguished; and [what they imagine to be] an extinction is really the non-functioning of the external world to which they are no more attached. So it is, Mahamati, with the subtle working of the Alayavijnana, which, except for the Tathagata and those Bodhisattvas who are established on the stages, is not easy to comprehend; [especially] by those who practise the discipline belonging to the Sravakas, Pratyekabuddhas, and philosophers, even with their powers of Samadhi and transcendental knowledge, it is difficult to distinguish. 。。。

(46) At that time the Blessed One recited the following verses:
99. Like waves that rise on the ocean stirred by the wind, dancing and without interruption,
100. The Alaya-ocean in a similar manner is constantly stirred by the winds of objectivity, and is seen dancing about with the Vijnanas which are the waves of multiplicity.
101. Dark-blue, red, [and other colours], with salt, conch-shell, milk, honey, fragrance of fruits and flowers, and rays of sunlight;
102. They are neither different nor not-different: the relation is like that between the ocean and its waves. So are the seven Vijnanas joined with the Citta (mind).
103. As the waves in their variety are stirred on the ocean, so in the Alaya is produced the variety of what is known as the Vijnanas.
104. The Citta, Manas, and Vijnanas are discriminated as regards their form; [but in substance] the eight are not to be separated one from another, for there is neither qualified nor qualifying.
105. As there is no distinction between the ocean and its waves, so in the Citta there is no evolution of the Vijnanas.
106. Karma is accumulated by the Citta, reflected upon by the Manas, and recognised by the Manovijnana, and the visible world is discriminated by the five Vijnanas.
。。。
115. As the waves appear instantly on the ocean, or [images] in a mirror or a dream, so the mind is reflected in its own sense-fields.3
。。。
120. Establishing myself in the Dharma, I preach the truth for the Yogins. The truth is the state of self-realisation and is beyond categories of discrimination.
。。。
124. This is indeed not a mental realm to be reached by the philosophers and the Sravakas; what is taught by the leaders is the realm of self-realisation.

 

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XII 兎の角 (英文)
There are, Mahamati, those who have fallen into the dualistic way of thinking, being unable to comprehend the truth of Mind-only; they desire to discriminate a world which is of Mind itself. Mahamati, body, property, and abode have their existence only when measured in discrimination. (52) The hare's horns neither are nor are not; no discrimination is to be made about them. (あってない、というのでなく、、、あるでもないでもない、という分別を通り超える)So it is, Mahamati, with all things, of which neither being nor non-being can be predicated; have no discrimination about them!
Again, Mahamati, those who have gone beyond being and non-being, no more cherish the thought that the hare has no horns; for they never think that the hare has no horns because of mutual reference, nor do they think that the bull has horns because no ultimate substance is to be obtained however minutely the analysis of the horns may go on even to the subtlest particle known as atom: [that is,] the state in which noble wisdom is realised is beyond being and non-being. (量子力学の世界?!)

。。。 The non-existence of the hare's horns is asserted in reference to their existence [on the bull; but really a horn itself has no existence from the beginning]; have therefore no discrimination about it! Mahamati, the dualism of being and non-being as held by the philosophers does not obtain as we see in the reasoning of horns.
    1 Literally different and not-different.
Again, Mahamati, there are other philosophers affected with erroneous views, who are attached to such notions as form, cause, and figure; not fully understanding the nature of space and seeing that space is disjoined from form, they proceed to discriminate about their separate existences. But, Mahamati, space is form, and, Mahamati, as space penetrates into form, form is space. To establish the relation of supporting and supported, Mahamati, there obtains the separation of the two, space and form. Mahamati, when the elements begin to evolve [a world] they are distinguishable one from another; they do not abide in space, and space is not non-existent in them.
It is the same with the hare's horns, Mahamati, whose non-existence is asserted in reference to the bull's horns. But, Mahamati, when the bull's horns are analysed to their minutest atoms, which in turn are further analysed, there is after all nothing to be known as atoms. The non-existence of what, is to be affirmed in reference to what? As to the other things, too, this reasoning from reference (54) does not hold true.
At that time, again, the Blessed One said this to Mahamati the Bodhisattva-Mahasattva; Mahamati, you should discard the views and discriminations that are concerned with the horns of a hare and a bull, with space and form. And also, Mahamati, let you and other Bodhisattvas reflect on the nature of discrimination which they have of the Mind itself, and let them go into all the Bodhisattva-lands where they should disclose the way of disciplining themselves in the manifestations of Mind itself.
Mind=すべての(基盤のない)基盤というようなもの=空)

 

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楞伽経(英訳)ここまでのまとめ

 

楞伽経を読むのは、
まだ先がかなりあるのと、、、(今までの10倍以上)
細かく追っかけるのが、めんどくさくなったので、
すこしお休みすることとした。

ここまでの感じでは、
1)全体が統一取れていないという事(大拙の解釈)
2)元の本が三つほどあり、その間の解釈に多少違いがみられること。
3)使われている言葉がめんどくさい(あまりに知に偏った感じもする)
4)そのために、丁寧におっかけると、かえってこっちが、「芯」をみつけるのに、苦労するということ。
などがある。

掲示版には載せないで気のむくままに読み続けるとは思うが、
このお経が達磨禅とに与えた影響が大きいというのは、すこし不思議だなと言う感じがする。

一般にお経は「めんどくさい」表現が多いが、、、
このお経をここまで読んで、、、
まあ、「めんどさい」というそのこと自体が、、、
方便になっているということなのかな、とも思う。

いわば、公案のまったく逆の仕方で、
同じ目的(目的=手段)をねらっている、と見えないでもない。

言葉というものは、やっかいなものだ。
厄介でなくするために、
厄介を通り抜けるという、厄介があるというのも、、、

まあ、臨済、道元、趙州、徳山、などなど、それらなりに、、、
ということにもなるわけだろうから、、、

というわけで、大拙がやったように、、、
いわば、総括的にすべてをひっくり返して、、、

芯を確認するということは、
尋常なものではないな、と改めて思う(感心する)次第だ。

 

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楞伽経(大拙全集より)

 

おもしろいもので、一休みして、ふと周りを見たら、大拙の5巻、p。459−558に楞伽経に付いての記述があった。

これは、以前に読んでいるが、ところによって漢文がそのまま出てきたりしているのと、チョッと学術的という感じがしたなどで、あまり深くチェックしてなかったようだ。

今回は華厳、維摩、般若経そのほか、ある程度調べが済んだので、達磨がなぜこのお経を持ってきたのか、なぜこのお経が禅と深い関係があるのか、という問題意識をふまえ、興味があったわけだが、大拙の書いた部分をざっと目をとうしてみて、ひとやすみしようという感じを持った意味合いがわかったように思う。

以下に、その内容を簡単にまとめてみることとする。

ーー

楞伽経はあまり世間に知られていない経典である。。。(ただ)このお経は禅宗にとりては所依の経典とも言うべきものなのである。即ち、シナにおける禅宗第一祖なる菩提達磨はこのお経を慧可に伝えて「如来心地要門」はここにあるといった。

(それが他のお経に比べてあまり研究されないのは)なにかというに、この経はなかなか難しくて、不可解のところが多いのである。意味の上のみでなく、文字の上、句読の上でなかなかわからない所がある。

p。461−2

(その後p。475までは、三つある漢訳の比較、歴史的背景について書いてある)

 

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神秀と慧能

 

達磨が慧可に「これによりて行ずれば自ら世を度するを得ん」といって楞伽を手わたしたことは、景徳伝燈録にも続高僧伝にものっている。。。p。476

楞伽に自覚聖智の境地をとくのは、禅の直観主義に該当するので、達磨は殊に心を惹かれたと考えてよいのである。。。  p。479

神秀は禅の研究に楞伽経の必要を信じていたものと思える。。。
これに反して慧能は金剛経に重きを置いたものと考えられる。  p。483

(ただし、元は同じだから現れ方が異なったとみえるということ。。。)

つまり、楞伽は学者派に用いられ、金剛は一般民衆的の物になったのである。。。。p。485

ーー

各人の業、薫陶の関係で違いが現れているというようなものだな。

まあ根っこ(芯、信、心)がどうかというわけだ。

 

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1)話し相手は大慧菩薩ひとりだけである。
2)呪文がない。
3)いかにも抽象的にして哲学的思索に富み、宗教的瞑想にゆたか。
4)品目の区分がない。(4巻本)
5)覚書的、いかにも要旨分類的。
6)普通の仏典のように結末がない。

楞伽経全編を通じての主題とするところが、なかなか決まらぬ。
唯識、華厳、天台、禅、、、それぞれにあったポイントをみるようだ。

(以上意訳)
p。487−492

ーー

真実はいろいろな角度から見ることによって明らかになるというような言葉を仏陀が言ったと記憶するが、そういう意味ではこのようなお経があって、あたかもいろいろな角度から見て、いろいろな景色・趣が見えるというようなものであっていいようにもおもえる。

それにしても結論がない、というのが愉快、といった感じがある。結論などありようがない、と、、、つまり、達磨の不識と、通じるようだ。

 

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法蔵、、の所詮宗趣というのが楞伽経の内容を割合に概括的に記述してある。。。

1)楞伽の宗とするところはその宗なき所にある。諸法ーすなわち一切の存在を円融無礙と言う立場でみるこころは言路の規矩に当てはめるわけに行かぬ。。。
2)分別の世界を超出せん事を教える。何かの執着があるのはことごとく分別の所為である。。。
3)自覚の聖智を実際に体得すべきである。一切の存在は自心の所現で、そこに又その平等性を看取するが、かく覚知する能覚の自体もまた如如の一味である。ここには能覚・所覚の分別を許さぬ。「仏は涅槃に住せず、涅槃は仏に住せず」という経の明文は、自内証の消息をつたえているではないか。これを能所を絶した妙というのである。。。
4)一心を宗となすの楞伽だとみてよい。一切の所現は唯心の所現である事を知らなくてはならぬ。習気妄想ー識ー分別に執着すると限りがない、それゆえ、一切を唯心の上に引き戻してみる事が必要になる。が、唯心にも留まらぬようにしなくては最後の解脱が得られぬ。楞伽の帰趣は無心の心量にある。
5)俗諦(心相上の差別)、真諦(相異が尽きて一味無二の相)、、、の関係は順に逆にいろいろの方向から見られる。これを聖智の作用によりて円融自在に見る事を自得しなければならぬ。
6)三種(境地、行業、効果)の無等、、、を体得せんことを勧める。
7)四門の法義(五法、二性、八識と二空)がある。この四門はつまりひとつの思想的連鎖である。重々の関係を、、自在に説きかつ実践すること。
8)五門の相対、、がある。つまり教と義(義)、、、理と事(真性・縁起真理)、、、境と行(真俗二諦の境無二の正行)、、、証の相対(行真実を自内証の上に証する)、、、因果(菩薩の行菩提の果)
9)外道と二乗大乗の妙理
10)器の純なるものただちに真、その雑なもの方便を用いて、文字の中に密意を蔵する。

p。494−496

ーー

1)〜4)が基盤。
5)〜8)ができて9)、10)に届くといったものではないだろうか。

とくに5)と7)がしっかりしていないと、話にならない話ということがでてくるようだ。

 

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(法蔵の)引文の意味をすこし平易に解説すれば(以下)の如くである:
「、、修業の目当てはどこにあるかというに、それは自証聖智の境にはいることである。。。(それは)如実に、直覚的に、究竟の事実を経験する働きである。大乗の大士は佛教に幾多の区分や種類はあっても、その間に差等分別をすべきでなく、又附されえるものでない事を知るがゆえに、いずれの聖教によりても、その無分別の絶対境に入らん事を要する。無分別のところが大事なのである。

p。497
ーー

この「目当て」が、目当てでなく、自ずから然りになる、、、というのが修証一等、無分別の分別の意味合いだろう。

 

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大意

 

王:世尊よ、、、自証の法を説きたまえ。

そのとき、仏はその神通力によって、、、無量の宝の山を化作し、、、一一の山の上に仏身をあらわし、、、その一一の中に如来があり、、、その中の大慧菩薩が仏に向かって請問していた、そして仏は彼に対して自証智の境界を開示しておられる。

百千の妙音をもってこの経が説きおわれると、仏および菩薩衆は皆忽然として空中に消え去った。そして後に残された、、王は一人ぽかんとしてもとの宮殿の中にいるのを見出した。

そのとき王は考えた、「一体これは何であろうか、、、先に自分が見たのは誰であったか、そしてこれを聞いたのは又誰であったか、、、これは夢か幻か、、、一体これらは何の意味を有するのか」

しばらくして彼は又考えなおした、「ああ、これは一切諸法の自性である。自心分別の境界ではないか、凡夫は迷うがゆえに能見とか所見とか言うものを区別してみる、そしてそれが実相だと思惟する。が、実際をいうと、能説の仏も、所説の法も、聴聞の自分も、皆分別上の現相ではないか。分別を起こさぬ時、見える者が本当に見えるので、きこえるのが本当にきこえるのだと、分別するのとしないので、世界の自性が本当に会得されたり、誤解されたりする」と、こう考えると、自然に悟の眼が開けて、諸々の雑染を離れ、唯心の理に徹底し、無分別の境に住する事が出来た。

p。502−3

ーー

迷いを悟る、といったところだな。

 

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つまり往昔種ゆるところの善根力で一切法を如実に見ることができたのである。他によって悟ったのではない。自内智そのものの力がでたので一切の臆度邪解を自然に離れ能うのである。

ひとたびその悟が開けて、それから大修業の道が成就すると、人はいずれも大修業師となり、種々の身を現じてよく方便に達し、諸地を逐一に進み進んで常楽の境地に入るのである。

p。503

ーー

但し、向下門:衆生病む、ゆえに我病む、を忘れるなよ!
ぎりぎりに所だぞ!

>種々の身を現じてよく方便に達し、諸地を逐一に進み進んで、、

働きをあらわしめるのだぞ!

 

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法と非法とを差別するはもとより凡夫の分別で、聖智の見ではない。法と非法は相関的で、相離れて考えることはできぬ。火性そのものと火のよりて起こる薪力とは別とも言われず、又ひとつであるともいえぬ。

分別すべき点からみれば分別しなくてはならぬ。が、分別のみ追っては果てしがない。分別のよりてたつところに眼を注ぐべきである。法と非法とを超越してしかもその二つを離れぬ所のものがある。これを認めるとき、諸法をもって無性とも 無相ともいう、また諸法を如実に見るとも言うのである。又これを文字や言説を離れるともいう。

p。506

ーー

>法と非法とを超越してしかもその二つを離れぬ所のもの

やはりこれは有限=無限の意味合いだろうな。エッカートの眼だ。
鏡の心のありようだ。

>諸法を如実に見るとも言うのである。又これを文字や言説を離れるともいう。

如実に見る、、、、は意識が働いていてそれが無意識の検閲を得ている(だから両方働いている)という状態だろう。

>又これを文字や言説を離れるともいう。

これは離れて離れないという言い方でも同じと思う。言いたいのは執着無し、とらわれ無し、だから離れている。あるいは鏡にものが映るという感じだろう。

 

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文字は兎角や石女の子のようなものである。性相の執すべきものはなにもない。分別してみれば、何もないとはいえぬ。あるにはあるが、これは相関的のもので、そのままが実装ではない、実法ではない、いわば非法である。これを捨つる、即ち相関的分別はもとより相関的とみて、それに囚へられぬ。

p。506

ーー

微妙なところ。
文字に囚へられないで、文字を使う。
その時囚へられないからといって
イイカゲンな使い方をしろ、と言うことではない。

囚へられぬ、、で安心がある。
そこは自在の境地。

(大拙はここではいってないが、、、
すると、、、そこから、、、
智慧のある言葉(正思正語)が現れる、
といいたい。
つまり、とらわれぬ。で終わりでなく、、、
人としての正しい道が見出される、といいたい。)

 

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また法と言うものを非法と対立させて言う時は、この法は分別性をおびたものとなる。この法は、それゆえにまた非法とともに捨つべきものである。

この理をよく観察するを無相の智という。これが体得せらるれば、如来はそこに活現するといってよい。如来はこの智を体とし身としている。

ゆえに能分別と所分別との二境に縛せられない。我、人、衆生の相を持って如来を見るべからずというは此意にほかならぬ。

p。506

ーー

同じことを別の言葉で説明しているというようなもの。

ここで言っていることは如の定義に同じ(無相の相=如)といっていいが、概念に落ちるのを恐れながらも、言葉で説明しなければならないということなので丁寧に確認しているというようなもの。

それにしても如来とは上手い事を言ったものだといつもながら感心する。
ちまり、、、如=平等、、、が来る、ということ。

で、その時は、行深般若ハラミッタ時であり、
趙州の無である。

あたりまえだが、お経も公案も同じ所をみているのであり、その体験がわかればすべて解けるという面白い(解けるまでは、、面白くもなんともない、、、むしろ苦しい)関係がある、ということ。

ただ、「如来はそこに活現するといってよい。如来はこの智を体とし身としている。」でいいのだが、体としているだけでなく、用、つまり働きがあるということが微妙であり、さらに妙・ありがたいと言うことだ、といっておく。

それでなけりゃ、お経も公案も、日常のあり方における働きも、ありはしないのだから。。。ね。

 

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ゆえに畢竟ずるところは、業もなく、報もなく、又聞もなく、説もないということになる。これがなかなかに了知できぬ。大乗の菩薩でないと充分の体験ができぬ。なぜかというにこれは理的分別の上の話でなくて、各自が内的に実証するところである。これを寂滅ともいい、一縁ともいい、最勝三昧ともいう。

つまり、自証聖智の境界と言うのはここである。如来蔵という名でこの無分別の位を、我は此経の中にといた。そしてこの分別は皆自心を分別するのである。

p。507

ーー

寂滅云々のいいまわしは般若心経の無色、無受想行色、無、云々、、、に相当する。

>如来蔵という名でこの無分別の位を、我は此経の中にといた。そしてこの分別は皆自心を分別するのである。

そしてこの分別は皆自心を分別するのである。。。。というのがいわば鏡のはたらき、、、智慧の光り、、、ということだ。

いかんせん、自証聖智、、、であり、禅に師匠なし、、である。
まあ、とことんやると、ここにいたらざるを得ない、、、といったものだな。

そしてそれは安心の境涯であり、
一方、大悲の湧き出る、不思議な源泉といえるだろう!

 

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大乗起信論さとりの体と相ー鏡のたとえ

 

大乗起信論、岩波、p。194〜196をもとに以前から興味の対象である表記ポイントの確認をすることとする

、、、悟りの自体とその特色には4種の「大」の意味があり、その広さにおいて虚空にひとしく。その清らかさにおいて澄んだ鏡と似ている。どんな4種か。

1) 本来のあり方としての悟りは如実に空っぽな鏡(如実空観)である。それは一切の主観()客観(境界)の相を離れていて(遠理=)何物もそこにあらわれるものがない。鏡自体には何も映し出すものがないように悟りの自体はなんら現しだす(覚照)ものをもたないからである。(空即ち純粋に清浄)

ーー

空も維摩のいう基盤のない基盤もおなじでしょうね。無限でもいいし、不生でもいいし、無意識でもいいし、無の正体でもいい、趙州の「太虚」でもいい。

本来の自己というと、働きの方を感じますが、むしろ涅槃寂静の場といった感じがします。パーリ語でチッタは封筒と言う意味合いがあるようですが、それも感じとしてわかります。

言葉づかいは難しいけどまあ隠喩みたいなもので、頭の働く場といった感じ、覚めた境地をこのように現しているということだと思います。

 

2) それは衆生の内なる因として働きかける鏡(因薫習鏡)である。これは衆生の心には本来如来と同じ、煩悩にけがされていない諸徳が如実に満ち満ちていて(如実不空)それが衆生に働きかけて悟りの実現に向かわせることをいう。鏡がその前に現れたものを何でも映し出すように、この本来清浄なるこころは世間のあらゆる出来事がそのままに映し出されるが、所詮は映像であって、真実には出ることもなく入ることもなく、失せもせず、壊れもしない。真実にはただ常住なる一心があるだけである。なんとなれば悟りに備わっている一切の徳性はすべてこれ真実な性質のものだからである。従ってこの自性清浄な心の表面にあらわれるいかなる穢れもそれを汚染する言葉できないということ。(どんな影像が現れても鏡自体は汚れないごとくである。)そして悟りは智慧を本性としており、不動でありながら、そこに煩悩にけがされない諸特性を具備していて、それが衆生に働きかけて悟りにむかわせるのである。

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ひとつには阿頼耶識(あるいはその下、、、無意識といっておくか)の働きと言うイメージ、つまり智慧の発現の構造に付いてかたっている。ただ鏡は鏡、「常住なる一心」、なんら変化しない。

3) それは真実なる諸徳が汚れをはらって現れでた鏡(法出離鏡)である。これは因の内に備わる不空なる諸徳がそれを覆う煩悩と言う妨げ、および知に関する妨げを除き去って、悟りと迷いの和合した阿頼耶識の相を離れて、淳浄な明知となる点をいう。

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汚れは人としての業に因って現れる煩悩。鏡はそれに汚されない。(これを知覚する事が出来るというのが修・証の意味。)影が動いても階段にある塵は動かない。

4) これは外から縁となって衆生に働きかける鏡(縁薫習鏡)である。これは前項の不空な徳性が覆いを離れて輝き出る(法出離)のに基づいて、その結果雲をでた満月の如く、あまねく衆生の心をてらし、善根を修めさせるべく、そのこころの動きに応じて働きを現す点をいう。

これが成所作智に対応するのではないかと思う。つまり道を歩む方向がその時の状況に応じて見出されるといった具合。

以上、1)は鏡の体、2)は内からの働きの様子、3)は徳が現れるさま、4)はなすべき事が分かるという智慧、といった感じである。したがって修証するものはいわばこういった特性を持つ鏡を自らの中に発見し、その働きをいろいろな状況で確認し、その功徳を知り、それを生きるうえでの根本の原理として生きなさい、ということだろう。このプロセスを仮の言葉ではさとりといい、上はその体と用の様子をまとめたものと言うことだ。

 

 

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