頭の使い方

 

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はじめに. 1

頭の使い方. 1

体で考える. 4

自灯明、法灯明. 8

 

はじめに

 

頭の使い方とは大げさなタイトルのようですが、使い方の下手のとき、つまり、頭の無駄ずかいなど、よくあるとおもます。たとえば、つまらないことにいつまでもかかわずらう、悩む、問題が解けない、あるいは何が問題かわからないでとほうにくれる。この辺にからんで佛教では煩悩という言葉もあります。一体どうしたら上手く智慧が出るのか、あるいはどうしようもないことに悩まずに人生、生き生と生きることができるのか。ご参考に成るかわかりませんが、ここに私なりの見方をまとめておきます。私のHPのほかのファイルもこの問題に関して参考に成るとおもいます、お役に立てれば幸いです。ちなみに、ここに載せたもののもとはヤフー掲示版、創造性のトピに2007年3月―4月にのせたものです。

 

洲崎清

 

 

 

頭の使い方

 

碧巌録もいいけど、この辺ですこし上記の題に関しての整理をしてみたい。

「頭の使い方」を「智慧の出し方・使い方」と言うふうにみると釈迦の対機説法を自らの身の処し方、周りとの付き合い方などに当てはめるというようなものだろう。これが上手く実践できれば、自ずから然りの、あるいは、法そった生き生きの生き方となるわけだろうし、菩薩のあり方などもでてくるだろう。

実際問題として、諸行無常、刻々とすべてがかわる状況をふまえて、なすべきことがどうするのかという事を見出すのが智慧であろう。無論これは人によって(つまりおかれた状況、能力、好き嫌いなどによって)異なるわけだろうが、私の場合どうかというと、
ー禅、公案、真宗、大拙、の本などで調べを進める
ー坐禅する、
(これらはとりあえず内の話しとしておく)
ー今おかれた状態でのニーズを調べ、(健康、仕事、趣味、周りの人。。。)
ーやるべきことを進める。
(以上は外の話しとしておく。内と外の整合がどうかという事ではあるが。。。

そこで、上のポイントはお互いつながりがあるわけで、刻々と変わる状況にあわせていわば波乗りをするように「対処」すべきと言うこと。(とはいえ、長期的にもなんらかの方向づけもあるだろう。)

とすると、上で書いたことは私のMini-companyのアイデア(はしょっていえば、各部門が自主管理で、それぞれの顧客ーサプライアー、従業員、ボス、などとのニーズにあわせ、ヴィジョンをたて、バランス取れた経営をするということ)を自分の人生の経営に当てはめるということになるだろう。

さらに具代的にみてどうかというと、私の場合、
ー年
ー体力
ー智慧のちから、頭脳の力(シーズ)
ー周りの二ーズ

云々があり、これらを正しく見て(つまり智慧の眼で観察して)、正見、正思、云々の八正道を進めるということにるだろう。

 

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頭を使うなら何のため、という疑問があるとしよう。それに対する答えをとりあえず、「生き生き生きる」と言うふうに定義してみたい。まあ、幸福、幸せ、と言うのでもいいが、それじゃあ何が幸福かと聴くなら、こう答えてみたい。幸福とは頭で感じるものではない。感じるのは体。体全体の(すべての)細胞が生き生き、というとき、それが全機現であり、智慧の出る状態であり、胸のわくわく、であり、ようは生き生きのさまと見たいのだ。

なぜかというとこれはよくわからないが、私の場合ヴィパッサナのバンガの体験をもとに全身の細胞がうれしい、生き生きと言う体験がある。体がジーンとする、でもいいが、言葉にならない体験、体でわかる生き生きのさま、と言うことにしたい。ところで、これはなにも「宗教的な」体験でなくてもいいかもしれない。鳥の声を聴いて、野の花をみて、子供と遊んで、何か直接に体験する、といったこと、というように頭主導でなく、自ずから現れでる物を感じ取るそのとき、なにか、そう、道元にいわせるなら、「心をもてはかることなかれ、 ... 力をもいれず、心をもついやさずして、 生死をはなれ、佛となる。 たれの人か、心にとどこほるべき。」が、「それ」であろう。

 

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前の投稿で、

頭を使うなら何のため生き生き生きるため、と書いて、それは何かというと、

道元にいわせるなら、「心をもてはかることなかれ、 ... 力をもいれず、心をもついやさずして、 生死をはなれ、佛となる。 たれの人か、心にとどこほるべき。」が、「それ」であろう。

と書いた。

すると、ほらみてごらん。ここも矛盾になっているよ。

つまり「心をもてはかることなかれ、 ... 力をもいれず、心をもついやさずして、」は頭を使わないに等しい。あるいは無意識の意識、だ。

応無所住而生其心でもいい。

とすると、頭を「うまく」使うというのは、使わないこと、ということになる。

これはまた中山さんのインスピレーションの構造の話し、(ポアンカレ・岡)につなが

 

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というところでおさらいです。
以下はポアンカレ・岡説、つまり発見発明の起こる状態をまとめたものです:

1)意識的努力がなければ「発見」は起きないが、それがおきるのは努力した直後ではなくて、だいぶたった後のことである。

2)「あるとき」突然わかる。(その問題を考えていないとき、何か外の事をしている時とかぼんやりしている時)。

3)一時に全部解る。

4)間違いないという確信がある。

5)鋭い歓びを感じる。

p。11、「私の創造工学総まとめ」中山正和

 

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小さいときから周りから言葉の使い方を習い、すべきこと、しちゃあいけないこと、なども含めいろいろな薫陶を受けたり、(これをインプリントという)してこのHBC(頭のコンピューター)の回路が組まれてきた。(それらが生き生きの生き方にあっている、つまり法衣方の検閲を得ているかどうかは別として)

仏道と言うのはある意味で、ゼローベースからの再出発、「ご破算にねがいましては」、といった意味があるようだ。(心を費やさないのである、とことん、ほっといて、法にあるいは自ずから然りに、とことん任せるのである。)するといろいろな心の癖、に関わる歪が抜けていく(解脱)のである。真の姿が見えてくるのである。智慧が働くのである。(正見、ETC.

すると、細胞が生き生きとし、顔に純真な子供の笑顔があらわれ、楽に成るのだ。(中山さんにいわせるなら、道元さんの安楽説法)

「それ」は真の「くつろぎの世界」なのである!

 

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体で考える

 

頭の(智慧の出る)使い方は、畢竟、「体で考える」というのにつながると思う。(これは瞑想のトピで書い

ひとまず、それはそれとして。ポアンカレ・岡の説:

1)意識的努力がなければ発見は起きないが、それがおきるのは努力して直後ではなく、だいぶたった後のことである。

2)「あるとき」突然わかる。(その問題を考えていないとき、何かほかのことをしている時とか、ぼんやりしている時)

3)一時に全部わかる。

4)間違いないという確信がある。

5)鋭い喜びを感じる。

p。11、私の創造工学総まとめ −中山正和

ここで、1)と2)が仏教で言うなら戒定慧の定であろう。(2,3,4は慧)あるいは体で考えている時でもいい。般若心経なら行深般若波羅蜜多時である。

いわばその不思議を体得し、あるいはその不思議に身をまかす、というのが仏道の基本であろう。

 

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花びらと色と香を
そこなわず
ただ蜜味のみをたずさえて、
かの蜂のとびさるごとく
人々のすむ村に
かくひじりは、歩めかし。

法句経

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生き生きがひろがるんだね!

 

注)中村元さんの法句経 #49では、こうなってます。

ミツバチは(花の)色香をそこなわずに、汁をとって、
花から飛び去る。
聖者が村に行く時は、そのようにせよ。

 

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おのれこそ
おのれのよるべ
おのれをおきて
誰のよるべぞ
よくととのえし
おのれにこそ
まことえがたきよるべをぞえん。

p。56 法句経のこころー福島慶道

ーー

去年夏にお会いしたときにいただいた福島さんの本をパラパラ見ているんですが、本の背表紙にあった、「生き生きと生きる」と言う副題が気に入って読み直しているわけです。

ちなみに 中村元さんの本「真理の言葉」p。32ではこうなってます:
「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば、得がたき主を得る。」

この「おのれ」の正体を知りそれとの連絡を忘れない、これが常にできたら一丁あがりだろう。

 

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人もし生くること
百年ならんも
おこたりにふけり
励み少なければ
かたき精進にふるいたつものの
一日生くるにも
およばざるなり

p。61

ーー

福島慶道老師の書いた本「法句経のこころ」を眺めているのだが、老師のコメントを読む前に自らコメントして、その後読んでみると面白い。

>おこたりにふけり
励み少なければ

励みが少ないと、気づきがぼんやりだから、おこたりにふけるということになる。Catch-22.

>かたき精進にふるいたつもの

これもまたおもしろいもので、奮い立つが宇宙の意で奮い立つまで行くのが正しいのだろう。

むろんおっとっとで気がついて、意をあらたに、というのでいいのだが、その意が自分をさきに立てては(ある意味でやもうえないが)本来の意にならない。

という事で、やはり、無意識の意識の境涯を「知る」べきとみる。

(ここまで書いて福島老師のコメントを見たら坐禅修業への精進を中心に書いていた。そしてそのポイントは無我・無心、そして信じて進むというようなこと。そうですね。。。道元なら発心、発心、又発心だ。)

 

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創造性・智慧は力のうまい配分、生き生きの生き方につながるとすると、、、
その力は例のナイフの比喩と同じで、使い方によっては物騒なものに成るおそれがある。

無論正しい智慧を発揮するなら、全体・周りを見た、法にそった正しい力の入れ方と言うものにつながるであろうが、ここでも状況を見た(正見)正しい判断(正思・智慧)が望まれる。「めくら」が過信して力をつかったら、こんな物騒なことはない。

これができないのなら、たとえある種の体験(たとえば見性)をしたとて、どんな意味があるだろうか?

めくら(無明)がめくら(無明)を引っ張っていったらどんなことになるだろうか?

 

だから、、、

 

法によって生きるという事、宇宙の意によって生きるという事。

ご用心、ご用心!

 

==

 

そこで、、、

 

自らをともしびとして生きなさい。法をともしびとして生きていきなさい。

 

==

 

自灯明、法灯明

 

そういえば、NZからかえって、しばらくたつけど、どこで、何をして生きようが基本は同じだね。

基本が見えなくなるというのはいつでもありうるけど、
気が付けば、生きるということの基本は何も変わっちゃあいない。

見えなくなっても、又気づくというプロセスも同じ。

することなすことは違うようであっても、
その基盤・基本は何も変わっちゃあいない。

こいつを忘れずに、
黙々コツコツだね。

いいかな?
ハーイ!

主人公だぞ!
ハーイ。

 

==

 

それぞれが、おかれた環境において道を見出す。
常に、刻々と変わる「そこ」において主人公となり、
道を見出すプリンシプル(法・戒定慧)に従い、
為すべきを為す。

環境は異なっても、いろいろな干渉があっても、
基本と成る光・法・プリンシプルに従う。

そこに修があり、証がある。
そして道が開ける。

道が開けなくても、開けるのである!

 

==

 

たとえば、サーフィンで大きな波が来て、

難しい、怖い、と思う。

そこで、、、

それを突き抜ける。

とらわれをとらわれとして、逃げない。

すると、いつか、そのとらわれのなかにある光に気づくことがあるのだ。

その光(智慧)に従っていけばよい。

案ずるなかれ!



むー。言うのは簡単、でもやるのはどうか?

バカ。なんのかの言わずにつきぬけろ!

発心発心又発心!

 

==

 

>発心発心又発心!

終りがないね!

そう、人として生きるということはそういうことだろう。

迷いー悟りの智慧、の行ったりきたり、というようなものじゃあないか?

 

これを娑婆ー極楽、の行ったりきたり、といってもいいだろう。

そしてその道を照らす灯明がある。

おっとっと、おっとっと、

でも元がしっかりしていれば、いいんだよ。

いや元はいかんせん、どうしようもないほどに、しっかりしているんだよ。

 

==

 

とはいえ、こういう言葉があるか知らないが、他のための灯明(他灯明?!)にはなかなかなれないだろうね。

まず自が法になって、他に光を差し伸べる、というわけだろうから。

そこで一般には、めくらがめくらを案内する、と言うことに(応応にして)なるのだろう。

そこで、自灯明、法灯明に徹するということ。そしてその過程で、できることなら己のなすことが、縁のある「他」に、参考になればよい、というものなのだろう。(⇒自問自答の後、横に展開だ。ところで二つ目の自は自灯明の自。)

大拙に付いて言えば、本人、安楽でいて、かつ、上に行った所を「縁があって私の書いたものを読む人がいればそれでよい」といった感じで進めた、ということなのだろう。(私にとって彼はまさに他灯明だ!)

ありがとう、ありがとう!

(光があっても、迷っていて目の見えないものには意味がないというのがあるから。。。なんとも、、、、そう、大悲がなけりゃどうしようもない所なのだね)

 

==

 

意識「のみ」を働かすと、哲学であれ、仕事であれ、人間関係であれ、迷い、悩みであれ、なんであれ、絶体絶命に行き着くのは眼に見えているんだろう。

そこでだよ。問題は。

絶体絶命からのひっくり返りがあるんだ!(いいもわるいも絶対の肯定があるのだ)

そしてひっくり返ると、問題は意識が作り出したもので、(いってみれば)見方をかえると(自灯明、法灯明)不思議や不思議、闇が光に照らされるように問題が解決され、あるいはなくなるということに成る。

そのためには意識をいつまでもいじるのでなく、ほおっておく(定、無意識の意識)と言う境地を体得しないといけない。これが即、自灯明、法灯明であると言いたい。

(そのためには求めるのはいいが、意識にいつまでもとどめて、求め続けちゃいけないんだ。カウンターインツイティブー直観にそむくーかもしれないが、もとめると、もとまらないのだ。)

 

==

 

神秀の「身は是れ菩提樹、心は是れ明鏡台の如し、時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむること勿れ」と、慧能の「菩提本樹に非ず、明鏡亦台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」の偈に付いては前にも言及したが、もう一度おさらいをしておく:

神秀は往相、慧能は環相という感じがある。あるいは十牛の図なら1−7図と9−10図のちがいかな。もっとも慧能のいうのは1−10図すべてが「丸」(円相とでもいうのかな)でくくられているので、もともと「見失ってはいないのに、どうして探し求める必要があろう」、「勤める」という事自体おかしいといっているようだ。

ということで、これ(神秀慧能の流れ)もまた般若即非をそのままあらわしているという感じ。定慧というも同じだろう。迷いが智慧でひっくり返る。無明が光に照らされて、闇が消える。己自身を知るというのは、ここのところをとことん知り、日常の思考・行為にあらわしめるということ。

それが「わかる」と、己は他人の己でもあるのだから、深い人間性にもとづいた知情意が、つまり大智・大悲が現れるということだろう。そこで問題は、実践をともなわない頭での理解はなんら意味がないと言うこと。わかったというのはわかってないということ。言葉に引っかかるな、ということだ。中山さんもいっていたが、意識と無意識の弁証法と言うような、無意識の意識の働き、こいつがどうかというわけだ!

喝!



ということで、自灯明、法灯明は自=法であり、あるいは自ずからであり、(自=他であり)、灯明は定慧であり、般若即非であり、又鏡のこころ(大円境智)であろう。

それじゃあ、喝はというと、その智慧の働きを観た定、あるいは定慧を誘い出す働きをみたものとでもしておこう。徳山なら棒、道元なら只管打坐。大拙さんなら無意識の意識、無分別の分別であろう。

 

あとがき

 

これで頭の使い方が説明できたかな?

体験を言葉で置き換えて話すのは至難の業だ。

内容が伝わるかどうかこれも至難の業。

智慧が出ても、それを出し続けるというのも、これまた至難の業。

そこで修証一等なのだね。

まったくの説明は無理としても何かヒントでも見出されれば幸いでしょうね。

 

(松下幸之助さんに「素直な心になるために」と言う本があるが、そのなかで彼は自ら書いたこの本を何度でも読み直すといっている。基本をいやと言うほど確認して、智慧を生き生きと生かそう、と言うことなのだろうね。)

 

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