安心、感謝、祈り!

 

 我々の存在の原点を確認し、感謝、祈りに生きるいうこと

 

 

 

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はじめに. 1

信仰、出世間、体験. 2

信、安心. 2

救われる道. 3

安心とは. 3

疑わぬということ. 4

自我心が消える→三昧全機現→感謝. 5

馬鹿になる. 6

おわりに. 8

追記(まとめ:確認の確認). 9

 

 

はじめに

 

今日、私の住んでいるところでは、この季節にはめずらしく雨が降っています。いずれまとめたいと思っていたものをこの機会にまとめてみました。何らかの縁でここにこられたかたの参考になれば幸いとするものです。

 

私なりにひとつの区切り・確認を、というのがもともとのねらいですが、流れとしては鈴木大拙氏の本(全集の第26巻:「信仰と学問」という題の講演録)からの抜粋を中心に進めました。大拙はこのとき79歳ぐらいであったと思われます。私のコメントは適宜つけてあります。

 

 

                                    2008524日 洲崎 清記

 

信仰、出世間、体験

本当の信仰というは、世間の因果という外に、もうひとつ超世間・出世間の方面に超越したところのひとつの信仰、そいつを持っていることを、本当の信仰、本当の宗教というのである。こういう風に見たいのです。  26巻、p。466

そこで信仰というものは、、、世間の因果の及ばないところであるということに気をつけておかねばならぬ、こう私は思う。p。467

そういうしだいですから、宗教((信仰))というものは理屈よりもひとつの経験でなくてはなりません。 p。470

自分が直接にそれを体験したものを信仰というので、本で覚えたとか、人から聞いたとか、そういうことでなくして、自分の目に見た、自分の耳に聞いたということでなければ、信仰とはいわれない。 p。470−1

讃岐の庄松の話の中にこういうことがある。「弥陀の本願を信ずるということは、一体どういうことだ。」と人から尋ねられたら、その庄松が「お前はまだ弥陀の本願を信じたことがないだろう」という。。。それはどういう意味かというと、自分の体験ということから信仰がでてこなければならぬ。。。 p。472

――

ここで大拙は宗教、信仰というものの位置づけを、因果、分別、理屈を超えた「体験」をベースにしたものとしている。かといってその言葉で説明できないところの体験を何とか確認し、理屈でなく、頭を進めるというのでなく、その体験のとことんのところを日々の行動にあらわしめるというところ。そこを見ているのだろう。

 

信、安心

信ずるということは、そのものを向こうにおいて、、、それに対して信じようというのではなく、ものがひとつになるところに、そこに体験というものがでて、そこに本当の信仰が出てくるので、信仰というもの、宗教の安心というものはまんなかにものがない。このものとこのものがひとつになってしまう。そうなればこのひとつのものは、、、他力といってもなんといっても、どこから見てもよいのです。   p。473

――

ここでいうことは、知に偏りがちな人はとくに注意すべきと思う。つまり「わかった」ということはそれが日常の行動に素直にあらわれていなければ安心とはいえないということだ。言葉、本、概念、教理、修行の方法などは何かの確認、連絡、サポート、(→つまり、いかだの喩え)といったものとして役に立つとしても、それら(かたちあるもの)にしがみつくものは、信、安心、(そして正しい法の道をあゆむ)といった面から言うと、まだまだ、ということになる。

たとえば維摩経で坐禅について維摩が舎利弗にいっているではないか。形に出るような坐禅はだめであると。つまり何かこれといった概念などを追っかけていてはだめなのだ。

 

救われる道

そうして、私がこういうことを言うならば、そういうことを言うのは本当かなという考えがありますが、そういう考えがいっぺん浮かんだら、その浮かんだところに救われる道がある。そういうことに気がつくということは、それがだんだん芽をふいていくのである。  p。473

――

上でいう「本当かな」、、、というのは、論理、分別、云々を超えた可能性を「信じる」、、、というところにつながる。あるいはつながりえるということ。ただし頭が固いとそうはいかない。

つまり、とことんの安心にいたるものはそういった理屈、我の働き、業の働きにぶつかり、それを通り抜けないと「安心」にはいたり得ないということだ。上で「救われる道が開けていく」というのはその辺の交渉(やりとり)を見ているととればいいだろう。つまり一回安心しても常に、というわけにはなかなかうまく行かないということもあると知るべきと思う。

 

安心とは

安心というは、、どこか一定のところに心を落ち着けるのが安心だ、こういってよかろうと思う。。。((ところが))その落ち着くところは定まった地面の上でなくてもよろしい。。。つまり、落ち着く下のものは、、、その定まったものをとりますと、すてんと落ちてしまいますから、それでは安心ができないことになります。       p。477

で、その落ち着くところはいくらとってもとられぬ。ぜんぜんとられぬというところに安心しておれば、その安心は本当の安心だと思われるのです。本当の安心というものは、ここという定まったところに腰を落ち着けないのが、そこが安心だと思われます。  p。477−8

限りあるものを離れて、限りないものに落ち着き、そうして限りないものに包まれて限りないものの中に自分を見出すというところ、そこに信仰というものがある。          p。479

限りないものの中に自分はもとよりいるのに、自分は限りないものの中にいるということを知らずにおって、そして自分というものだけで、すべての限りあるものを頼っておったに過ぎないということを自覚するとき、もとより、つつまれていたものである、、、というこことに気がつくとき、それが体験で、そこに安心というものがでてくる。こういう風に見てよかろうと思います。  p。479

――

なににもたよらない安心、何が起こっても、どこにいても、、、心は騒がず、受け入れるべきものは受け入れ、自ずから然りの働きに任す。智慧が出るかもしれないし、でないかもしれない、、、いずれにしろ安心というわけ。

また「限りないもの」とは理屈の届かないところのもの(とはいえ姿・形はないのだが)、である。

==

我々はもとより阿弥陀様のなかに包まれていた、阿弥陀様の懐に抱かれていた、こういう風にみてもよい。これを自覚しなかったために、体験しなかったために、本当の信仰ができず、安心ができていなかった、こういう風に見てよいと思います。  p。479

――

阿弥陀であれ、したがって仏教であれなんであれ、私はここでいう「安心」の「体験」そのものは人類に共通のものと思っている。それは通常の言葉では表現できないとしてもである。

 

疑わぬということ

ある坊さんが桃の花の咲くのを見て悟りを開いたということがありますが、、、悟りを開いてからどういうことを言ったかと申しますと「私は一遍、桃の花の開くのを見てから、今日に至るまで少しも疑わぬ」こういった。。。この疑わぬという所へくるのがすなわち安心であると思います。

そこにすこしでも疑いということがあると、心に自力の知が出てくると思う。この自力の知が出てこないようにするには、本当の不疑ということが体験せられなくてはならぬ。。。この疑わぬというところに一遍くると、そこに安心ができるのです。  p。481

――

この表現は微妙で、自力の知がまったく出ないのか、、、出てもすぐにそれとわかり、かつすばやく対処でき、いわば安心の「場」を失わないか、というのがひとつあると思う。

私の場合、この数年はこの後者のケースを修し、証するということを狙っているわけだが、すでに十地経を読むというファイルに書いたが、いわゆる自ずから然り、孔子のことばなら、「己の欲するところに従って矩をこえず」、十地経なら89、10地にいたるべきと思っている。(道元のいう同時の、発心―修行―菩提―涅槃)

これは南泉なら平常是道:「道は知にも属せず不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不擬の道に達せば、猶太虚の廓然(かくねん)として洞豁(とうかつ)なるが如し。豈に強いて是非すべけんや。」ということだろう。

 

自我心が消える→三昧全機現→感謝

一旦、信仰というところに心持が定まってきますと、、、自分はただ自分より大きなものに動かされて働いたということになるので、自分がやったのでないから、、、力むことはなく、いわんや、、、他を見下げるというようなことはなくなると思う。本当の宗教の信仰というものはそういう自我心というもののないところにあると、、思うのです。  p。483−4

――

是は本当にそうだと思う。例の老子のリーダーシップの話(皆が自発してやったと思うという話)、、、もそうだが、スポーツでも、なんでもいわゆるゾーンに入ったというやつで、苦労しないでしかるべく物事が運ぶという不思議がそこに現前しているとあとで気づくのだ。

これが(三昧の)共鳴感、ヴィパッサナならヴァイブレーション、道元なら透脱そして全機現につながるし、何もないのに不思議・ありがとう、つまり底知れぬ、、有限が有限のままに無限に触れる・包まれる不思議、ということになる。

「これ」はまさに生き生き、活溌溌地であり、臨済の「人」でもある。いかに人の世、人の生が悲惨であれ、種々の煩悩が我々を苦しみの淵に投込むのであれ、なんであれ、こいつ(このひとつになった境涯を体験するということ)ばかりは人間だけに与えられた特権である。まさに才市の言う「煩悩を残してくれてありがとう」なのである。(というのも、そうでなければもはやありがたさは感じられないのだから。。。)

 

馬鹿になる

それで親鸞聖人にいたしましても、法然上人にいたしましても、「愚にかえらなければならぬ」と申しておられます。。。我々はあまりにものを持ちすぎております。頭の中というか体の中に物を持ちすぎているから、それを捨てて馬鹿にならなくてはならぬ。。。その馬鹿になることが本当にできましたら、それこそ結構で、信仰という上から見たらそこにほんとうの信仰ができたというて良かろうと思う。 p。484

――

ここはいろいろな意味で大事と思う。まずは、安心は前に出た「ひとつ」とぴったり、つまり、二元を離れ、仏の家にお任せ(すべてを投げ出す)ということ。つべこべ言わずにただ、そこで起こっていることをそのままに、煩悩の動きに引っかからずに、自ずからしかりで受け止めればいい。

ただし、分別知を使っていけないということではなく、いわば仏の家(無意識)からの働きを意識しながら、(→無意識の意識:つまり意識と無意識の連絡を取りながら)使えということ。(この連絡を取る、についてはたとえば鏡の心のファイルを参照のこと:http://www.geocities.jp/suzakicojp/kagaminokokoro.html )ただし、是がぴたっと決まるには長年の修証が必要と私は思っております。(禅者の例では趙州は大悟して更に参ずること30年といっています。十地経なら8910地です。)

==

私が馬鹿になって馬鹿を知るのです。だから、「仏、仏を知る」というのは、「馬鹿、馬鹿を知る」といってよい。。。我々はあまりものを持ちすぎておりますから、利口すぎていけません。やたらにものを詰め込みすぎるからいけない。。。無知文盲、ものを持たざるところに真の利口さができる。((そうでないと))私はこれをもっている、あれを持っているという風に、そのごたごたのものをいちいち勘定する。馬鹿になれば何も持っておらぬ、何もない。。。こうなると、ここに本当の超人というか、人間以上のものが出てくるんじゃあないか。。。。((、、あるいは))人間は人間でいいが、そこに本当に人間になったものがある。こうみてもよろしい。 p。484−5 (大拙全集からの引用はこれまで)

――

人間らしさは素朴さとつながるように思う。そこには暖かさがあり、深みもある。やわらかさ、おだやかさがあり、大悲、大智の働きがある。そう、もし「それ(真の人間らしさ)」があるのなら、一体そのような人は個人的に何をさらに欲しがるというのだろうか?!

そのような人は(もし神というものがいるのなら)神様の一番の仲良しではないだろうか。あるいは神と娑婆との大事なつながりをたもつ絆(きずな)として働いているのではないだろうか。(本人にそのような自覚はないだろうけれど。。。)

世の中が進むにつれいろいろな便利な道具が使える。物も安くなるかもしれない。情報も増える。しかしかえってその物と情報の中に埋もれて、われわれはあたかも眼にフィルターがかかったようなことになっていないだろうか?つまり、「シンプル・ライフ」というものの意味あいを見過ごしてはならないと思う。世の中に遅れないようにとして人間性を失うぐらいなら、世の中に遅れて(あるいは世の中を離れて)かえって本来の人間性を見出すというのはどうだろうか?! 

世の中には毎日毎日、感謝に生きる人がいる!

出世間でなくても、世間の真っ只中で、「安心、感謝、祈り」で生きる人がいる。

それどころか人にののしられ、ものを盗まれたり、たたかれたりしても、なんと、、、感謝し、ありがたがっている人さえいる。(妙好人のファイル参照)

人間は環境の産物だとしたら、、、できるだけ「正しい」環境、なるだけ参考になる「人物」「情報」「大悲・大智の働き」となじみたいものである。

、、、と書いていたらたまたま、ネットにこういうのが見つかった:

『本をよく読むことは結構であるが、咀嚼できないというと。丁度ご馳走を一杯食べて消化不良になったようなことで、自分の持っている純真な道心を、失うことに相成る。あの本を漁り、この本を漁る。あるいはあちらの禅堂に参じ、こちらの禅堂に参じておられる。これも悪いとはいわないが、挙句の果てに、何をして良いのか、誰に頼ってよいのか、わからんことになる。

こういう状態の人が多いのであります。。。

 鈴木大拙さんや久松真一先生の本であれ、禅の書物は沢山でているが、疑いに疑いをかけて、その本を通してみる。しかし、禅の体験がなければ、なんだか物足りないのである。喰えずに食うた顔をした奴。喰うて食わん顔をしている者もいる。どっちも悪い。

― 菅宗信和尚 「馬鹿になりきるの記」より 』

 

おわりに

以上、いろいろ抜粋したり、コメントしたりしたが、、、、

まあ、大拙がいった「疑いがない」、というやつ、南泉の「不疑の道に達する」というやつ。これがどうか、ということだ。虚心坦懐かどうかだ。

それが徹するということ。安心ということ。馬鹿に成るということ、死んだ人のようになれということ。柔軟心を持つということ、、、「そこ」からの働きに、、、流れに身を任すように、生きるということ、春風駘蕩ということ。。。

そう、これはまた達磨のいう、「流れに随うて性を認得すれば、 喜びもなくまた憂いもなし。」だ。

心随万境転  …… 心は万境に随って転ず
転処実能幽  …… 転ずる処(ところ)実に能(よ)く幽なり
随流認得性  …… 流れに随って性(しょう)を認得すれば
無喜亦無憂  …… 喜びもなくまた憂いもなし

 

あるいは至道無難禅師の「生きながら死人となりてなりはてて おもひのままにするわざぞよき」だ。

 

とわいえ、そこに安心があり、感謝があり、祈りがある。

 

祈りは四弘誓願:

衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願覚、仏道無上誓願成 

 

これは人として生まれたものの行き着くところにある(そしてまたその人間の生の根源にもともとある)永遠の願いだ。

 

十地経のファイルにも書いた、「己の欲するところに従って矩を超えず」。これが、、、つまり大智・大悲の働きが、「人」として、なんら作為なく、たんたんと現前していくということだ。

 

これを仏道、法の道、法に沿って歩むということ、と私は思っています。

 

合掌。(感謝、祈り、感謝、祈り!)

 

 

追記(まとめ:確認の確認)

 

終わりのない終わり、ということか。常に覚めていろということか。いろいろな角度からチェックするということか。いずれにしろ、確認の確認とでも言う意味で、すこし考えたところのものをここに書いておきます。

 

まず、大拙はこの講演を79歳ぐらいでやったということ。私は今60歳。いろいろ大拙の残したものをチェックし、そのほかいろいろなものも統合し、私の体験との連絡を確認するなどしてここまできたが、ここまでを振り返って見て、まず紛れはないと思う。

 

ただこういう見方もあろう。それは、ここで言う馬鹿に成るとか、死んで生きるという言葉は、人によっては、いかにも悲観的、あるいは虚無的に見えるのでは、ということだ。

 

だが、これは考えてどうのこうのということでない、つまり体験だということ。大拙のいう「チョコレートを食べたことのないものにその味がわかるか」というところだ。また世間の因果(理屈)のとどかないところ、というのは大拙がはじめに言ったことだ。キルケゴールのSubjectivity is truth.というやつだろう。私自身、体験をして、頭でもチェックし、確認すると、やはり、行き着くところは、ここしかないという感じ・確信がある。

 

どんな状況においても主なれ、つまり随所に主なれ、目覚めておれ、というのは安心の境涯(→溶けた心、応無所住而生其心)で大智、大悲が働いているということだ。それはまた(法にそってない)無意味なものは求めない(解脱)ということであり、その確認が常に(目覚めて)できているということでもある。

 

これはたとえば社会一般に受け止められている価値観を考えてみると、是がいい、あれがいい、あるいは悪い、という、いわばどこか知らないところでつくられた既存の、あるいはうわべだけの価値に踊らされないということ。追っかけても追っかけても、どうしようもない何かを、「周りがいい、というだけの理由で」気づかずに追っかけるようなことはしないということだ。悪業にきずき、業の根っこを抜く(つまり動中の工夫、止観、あるいは鏡の心を修証する)ということだ。

 

逆に言えば人と比べてどうこう、あるいは周りに一般に受け入れられているとおもわれるその「価値?!」の根源にまでさかのぼって、その「真実の」意味あいを確認して、つまり存在の原点から智・悲をはたらかせて物事を進め日々をいきているのか、ということだ。

 

その確認ができていないのなら、ここでいう見方、生き方が悲観的、虚無的といえるかどうかを見極める場()がしっかりしていない、根本のところまで調べられていない、洞察されてない、ということになるのではないか。

 

 

ということで微妙なところではありますが、目が覚めている、というのはそういう意味あいを含め、しっかりと我々のおかれた状況を確認し(→うちと外の両方を見るということ:エッカートの眼)一刻一刻、生きているということで、私の体験に照らす限り、ここに引用した言葉の意味するところは確かにそうだとうなずけるのです。安心、感謝、祈り、の確認を(知と行−つまり体験―において)しろということです。 何度でも何度でもです。

 

つまり「疑いはない」というのでいいのですが、それはそれとして、安心、感謝、祈り!の確認は、そして「疑いはない」の確認は、何度でも何度でも(→常に)すべきと思うのです。常に目を覚ましておれ、ということです。

したがって上述の『「ある坊さんが、、、私は一遍、桃の花の開くのを見てから、今日に至るまで少しも疑わぬ」こういった。。。この疑わぬという所へくるのがすなわち安心であると思います。』という意味あいは、私の見る限り、幾度もの確認があってのことと思えるのです。そうでなければ、何を疑わぬかというそのもととなるいろいろな体験がいい加減でない、紛れがない、ということの確証・確信が得られないからです。

そしてそれができているから、あるとき以来、今日に至るまで少しも疑わぬ、と確信をもっていえるわけです。また、釈迦が涅槃経で「私はこれまで法の領域を歩んできた」というのも、そういった確信が取れてのことであろうと思われるわけです。

 

 

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