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庶民感覚で発見 酒田の先人

「さかた」は砂潟であり坂田、さらに酒田となったのは徳川期、庄内藩主酒井家入部以後です。
最上川河口に居住した先住民族は当初最上川の南岸で栄え、
平泉文化と京都との中継地であったらしく、海と川を結ぶ基地でした。
平泉滅亡の際秀衡の未亡人が36人衆を従え、この地に落ちのびて
地侍となり回船問屋を営んだと伝えられています。

酒田には、たくさんの歴史があり、建物があり、文化があります。
そして、まだ紹介されていない偉大な実績を持った人物がいます。
この方々をみなさんと一緒になって掘り起こしたいと思います。
ただ、資料も少ないのでみなさんからの情報をもとに、肉付けしていきたいと思います。

このページに登場させたい人・建物・催し物などを推薦して下さい。

どんな事でも結構です。ご連絡をお待ちしております。

情報提供ありがとう。

 

(明治42年生まれ) ★橋 進 砂丘苺の生みの親

  庄内砂丘では、一年中おいしいイチゴが採れます。今から40年前の苺は畑の片隅にちょこんと植えてあるだけで、自分の家の食べ物でした。粒も小さく、すぐに悪くなるので売り物にはならなかったのです。当時は、ビニールハウスもなく、ただ路地畑に直植えでした。 橋進氏は、いち早く苺の商品価値を察し、全国各地を調査すると共に東大農学部の教授のアドバスや農業雑誌を調べ庄内砂丘に適した苺の品種や栽培方法を模索しました。特に、富山・熊本・広島・愛媛から苺の苗を持ってきては栽培実験をしましたが、すべて失敗しました。そこで、静岡県の苺栽培の農家に泊まり込み農業の手伝いをしながら栽培方法と品種の勉強をしました。その時、静岡に嫁いでいた娘も献身的な協力をしました。無理を言って新種の苺の苗を譲り受け、十里塚(庄内川南)にもどって三年をかけて実験を行い、庄内砂丘に適した栽培品種と栽培方法を確立しました。しかし袖浦農業協同組合(現在のJAそでうら)の協力を得ることはできず、販売経路も静岡県の農家の協力を得て全国に出荷しました。一収穫期で、200万円の売り上げに近くの農家は驚き、我先にと苺栽培を聞きにきました。橋進氏は、快く教えました。これをみて、農協は重い腰をあげ、橋進氏から苺栽培に関するいっさいを無償で譲り受けました。利益もすべて農協に入ることにしました。一年に四回栽培し、苺栽培による農家収入は稲作を抜きました。橋進氏には感謝状が一枚残されました。
 橋進氏は、出稼ぎに行かなくてもよい農業、現金収入が入る農業、快適な農業を夢見て一年中栽培できる苺を完成させました。その後、苺栽培の栽培方法は、花やメロン栽培、サクランボにも転用され、今庄内柿にも生かされようとしています。 一農民が足と努力で作り上げた砂丘地での農業は今も庄内砂丘に面々と生きています。
その活躍が認められ、JAそでうら(袖浦農業協同組合)の総代会で満場の拍手の中で表彰されました。

高橋進氏の歴史
○船頭として北海道小樽で活躍し、ニシン漁に従事し、財をなす。
○それを元手に、チャッカ(焼き玉エンジン漁船)
を購入し、樺太まで漁に出るが、使用人の不注意で沈没させ、借金を負う。
○内地に戻り、借金を支払う為に寝食を忘れ木こり・投網作りと働き、借金をすべて返済するが、家族に与えた負担は大きかった。
○初代初孫の社長から杜氏を任され、酒造りを学び工夫に工夫を重ね日本一の酒を造る。その後は、杜氏の経験を生かし、米の精米に没頭する。精米機械の購入に全国をまわり、60%の精米ができる機械を発見する。
出稼ぎに行く農民に精米技術を教え、冬季の仕事として定着させる。勤務50数年は輝かしい。

  ★ 岸  洋子 シャンソン歌手

 酒田市出身のシャンソン歌手。酒田東高校を卒業し、東京芸大声楽科を経てシャンソン歌手として活躍。1964年「夜明けのうた」、1970年「希望」で日本レコード大賞歌唱賞を受賞し、押しも押されもしない国内シャンソン界の第1人者になりました。
 酒田大火後に復興チャリティーコンサートを各地で開くなどの活躍をされました。1992年亡くなりました。1994年から岸洋子さんの功績を後生に伝えようと「希望音楽祭」が毎年実施されています。

★ 富樫 兼治郎 砂防の父 詳しくはここをクリックして下さい。

 青森から山形県庄内までの日本海北部の沿岸地方における飛砂や砂丘の移動による被害を調査研究し、それをもとに富樫式植栽法をあみだし、砂防造林を先頭に立って行い、砂防林の恩人といわれる偉大な人である。郷土が生んだ情熱的な研究家であり職人的な仕事人でありました。

【大川周太郎さんからのコメント】   
 (今日の西部日本海沿岸が存在するのは、富樫兼治郎氏の活躍によるものです。なぜなら、本間光丘氏や佐藤藤蔵氏は、江戸時代に日本海沿岸とりわけ、庄内浜沿岸に苦労の末黒松を植林されました。ところが、明治になって、その黒松林は立派に育っていましたが、度重なる飛砂や海から吹く強風によって絶滅の危機にさらされていたのです。それは、庄内浜だけでなく、青森、秋田、山形、新潟の西部日本海沿岸全域でした。
 そこで、明治の中頃、富樫兼治郎氏は東京大学を卒業と同時に、秋田県能代営林署長を皮切りに、生涯を砂防造林に捧げました。何も生えていない波打ち際から黒松林までを相手に、毎日が調査と実験の繰り返しでした。
 そして、見事成功し、富樫式植栽法を考案したのです。今存在する日本海沿岸の黒松は、富樫兼治郎氏のご尽力
があったおかげで残ったのです。)

           大川周太郎さんありがとうございました。
 大川さんは、林野庁の職員として各地の営林局署長を勤められました。 退官されてからは、「秋田県木材産業協同組合連合会」の専務理事として長い間活躍されました。

★富樫 誠 養殖漁業の立て役者

 おいしい飛島の一口鮑食べたことありますか? これは、富樫誠氏が考え、長年研究・実験をした成果です。日本海のヤリイカの生息も研究し、捕り方の方も考案しました。また、鮭の遡上を計算し、海と川両方で公平に漁ができるように調停をしました。ヒラメや鯛、サザエの養殖や活魚の販売方法など、日本海の近海沿岸での漁業の発展に生涯を捧げました。