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 ◆高熊山
 京都府亀岡市穴太にある産土の神社です。右の写真がその社殿となります。開化天皇が御祭神とされており、古くからの信仰がありました。王仁三郎も幼少のころよりこの神社に親しんでいます。

 御祭神
 開化天皇(かいかてんのう)
 彦坐王(ひこいますのみこ)
 小俣王(おまたのみこ)

 
【小幡神社の説明看板】には下記のように記されてあります。
 
 
当社は、崇神天皇の命により派遣された四道将軍のひとり、丹波地域を治めた丹波道主命が、皇祖開化天皇を主神として祀ったことに始まるといわれ、開化天皇の御子の彦坐王と、その御子小俣王の三代を奉斎しています。
 また社伝等によると、和銅元年(708)に丹波国司大神朝臣狛麻呂が霊域に社殿を建立され、延長五年(927)に編纂された「延喜式」神名帳にも記載された古社です。
 社殿の棟札によると、文和元年(1442)には管領細川政元の本殿造営と、その後明応元年(1492)を始めとする修造、屋根の葺替えが行われています。
 現在の社殿は天和三年(1683)に造立された一間社流造、檜皮葺の建物です。亀岡市内で妻に二重虹梁大瓶束を用いた早い事例であり、京都府の登録文化財となっています。また、社宝として全国に三幅といわれる円山応挙の絵馬の一つが保存されています。

※左の画像が説明看板です。
 皇道大本機関紙、【神霊界】には王仁三郎の幼少時での出来事と、小幡神社信仰の関係が記載されています。
 

 
1874年 明治7年 4歳  脾肝の病気にかかる

 王仁は五歳の時脾肝の病に罹り、腹部のみが太く、手足は殆ど針金の幽霊の如に痩せ衰えて来たので、両親は非常に心配して各地の神社や仏寺に参詣して、病気平癒の祈願を為て呉れられたが病気は日夜に重る斗りで、何の効験も現われ無かつたので、父母は人の勧むる儘に蟆蛙の肉を料理し、之を醤油の附け焼きにして毎日々々王仁に一、二片ずつ食わして呉れた。王仁が食おうとすると、腰の少し曲つた小さい爺さんが出て来て睨みつけるので、何時も喰った様な顔をして父母に隠して棄てて居つた。
 或夜の祖母の夢に祖父さんが出て来て、「孫の喜三郎には蛙の如な人間の形を為た動物を喰わしては成らぬ。喜三郎は神様の御用を勤める立派な人間に為るのじゃ。孫の病気は産土の神様の御咎であるから、一時も早く小幡神社へ連れて参れ。そして今後は敬神の道を忘れぬ如に梅吉や世根に訓えて与れ」との事であつた。祖母は夜中に眼を醒まして直ちに王仁の両親を揺り起こし、神夢の旨を伝えた。父母は其れを聞くより王仁を曳き起こし背に負うて小幡神社へ参詣し、今迄敬神を怠つて居た事の謝罪を為たのである。其の翌日から段々と王仁の重病が快方に向かい、二か月間ほど経て全快する事と成つた。「産土の神の霊験と日うものは実に偉大なものである」と、時々祖母の話であった。

   
※お化け灯篭
 上の画像はお化け灯篭といって上田喜三郎が若い頃、火を燈して本を読んでいたという逸話があります。
 王仁三郎の弟であり、理解者であった上田幸吉さんが造られたものです。  お稲荷さんです。
 南側からの入り口です。  境内内側からの鳥居です。
 若き王仁三郎はこの小幡神社において神の啓示を受けたといいます。その際の王仁三郎の言葉です。

 
本教創世記 第2章
 
 茂頴(王仁三郎の号)は牧畜にのみ従事していて、父母なり弟なりが農事についていたのでありたが、弟の由松というのが俄かに家出をして仕舞うたので、薪一荷苅りに行くものがなくなってきた。そこで父が余に向っていわるるには、「弟は彼の次第であるし、汝は牧場に忙敷から薪を、山に苅りにいく代りに、屋教の樹木を切りたおして薪にしいと思うから、鬼門に当るけれどもまさか今の世に集りなぞというような事はあろうまいから、仕事のすきに切りてくれ」との命令であった。余も「左様ですとも、そんな馬鹿なことがありますか」とすぐに同意して、長梯をカヤの大樹とムクの木とに掛けて、鋸や鎌を持って登り、カヤの木の枝からぼつぼつと切り払うた。ついにはムクの木のしんを切りはなしたが、そのしんがその傍にある柿の木と樫の木に支えられて中に止って落ちて来ない。そこで茂頴は、きりはなしたしんに飛びついて、身の重みで、大胆にも木の枝とともに落ちる仕掛をしたが、都合よくぎあー、どぎぁと大きい響がして地上に落ちた。父は余が木の枝とともに落ちたのを見て、大怪我でも仕たと思うてか、美音な顔して余が傍に立ちよりて、「怪我はないか、しっかりせよ」といわれたが、私は「なんの怪我も致しません」というたら、「そうか」というて息を継がれたが、父はその時すでに半病であってぶらぶらしておられたところであったが、その後日々に病勢が重くなってべったり床に就かれた。そこで余はとても全快は覚束ないと知りたので、なるだけの看護をしたが医薬も何もその効なく、六か月のわずらいで、とうとう国替して仕舞われたが、その時の悲歎は今に忘れる事が出来ぬくらいであった。
 
 親族なり朋友が、口々に「汝は丑寅の隅で木を切りたから、鬼門の崇りであるから七人まで集るという事であるから、早く神様へ参りて、伺うてもろうたがよかろう」という聞かない。そこで余も「人の意見に従うもよかろう」と思うて、ある占者に占うてみると「丑寅の木を切りたのと、未申の方にある池が集りておるのである」とのことであったが、茂頴は哲学思想があるので、その言を信ずることをようせなんだのであった。
 
 それから、日々業務の閑暇に神理を究めんと欲し、宮川の妙霊教会なり、亀岡の神籬教会、太元教会等へいき、種々質問してみても、何教の教もまったく不得要領に終ってしまった。それから余は、毎夜十二時から午前三時頃まで、氏神の拝殿まで行きて神教を乞い始めて、丑寮の鬼門の恐るべき事と、未申の金神の由来を聞く事を得たのであった。余の氏神は小幡神社とて開化天皇の霊を奉祀してあるのである。諭が敵対卓になるけれども、余が父の死去せられたのは明治三十年の七月の二十一首であって、行年は五十四歳であった。余の二十七歳の時であったのである。また椋の木の芯と榧の木が切離れて、余と共に地上に落下する際、隣家なる小島長太郎氏の土蔵の瓦を二、三十枚、木の極が当ってめくって仕舞ったので、早速新らしい瓦を買うて弁償する事としたのである。しかるに小島氏は意地の憩い人で、いろいろと苦情を吹き込んで大に父を困らしめので、それが為に父の病気は一層重くなった。弟の由松が十日ほど経てまた帰てきて、赤花に耽って止まらぬので、父と余と二人が百方説諭をしても馬耳東風である。そこで弟に酷しく意見をしたところが、弟めが憤怒のあまり唐鍬の刀の未だ新らしきをもって余を追い捲ってくるので、余も逃げるが双方の益と思うて庭の隅へ隠れると、弟は猛り狂うて益々乱行を恣にするのである余は三方は壁、一方は弟の鍬にて今や進退谷まったが、幸い鍋の蓋を父が投げてくれたので、それを拾って辛くも危難を免れたが、由松が切り下す鍬の刃を鍋蓋でもって受け留めたので鍬の刃先が蓋を貫徹して、二寸ばかり突抜けたのである。その間に父は、弟の鍬をもぎ取ったので、また今度は三つ又鍬を頭上に振り上げながらまたまた余を追撃した。余も一身上の防禦の為に山棒を携え、弟が打下す三つ又を支えて撃っておるところへ、また父が出て来て夜具をもって両人の得物を取って退けられたので、弟はまたもや無手となって組付てきたのであるが、ついに父にねじ伏せられて、その場は事済となったのである。弟のたびたびの凶行は、父の病をして倍々(ますます)重からしめたのである。

 本教創世記 第3章
 
 明治三十年八月下旬より、またまた産土の小幡神社に夜間窃かに参篭して神教を請いつつあったが、神は余の至誠を東新ましまして、三七日の上りに、左のごとき神教を賜わったのである。

 一、天地の真象を観察して真神の体を思考すべし。

 一、万有の運化の毒差なきを見て美神の力を思考すべし

 一、活物の心性を覚悟して美神の霊魂を思考すべし。

 
 
右の三条を余に憑りて筆に話したもうた。そこで余は謹んで、「わが神畏こし。願わくはその意義を教えたまえ」と請う。神すなわち教え諭したまわく、右三条の学則は、これ神の黙示なりい汝よく天地に附仰して観察すべし。宇宙は、この霊と力と体との三大元質をもって充たさるるを知り得んこの活経典をもって、真神の真神たる故山を知るこを得ん。なんぞ人為になれる書籍を学習するにおよぽんやいただ宇宙間にはこの不変不易たる真鑑実坤あるのみ」と教え諭されけり。余は始めてこの神教を得て、盲亀の浮木に会えるごとく喜びて、ただちに感謝を捧げ、ますます頁埋のために神の守護あらんことを祈願たりけり。
 余はあまりの嬉しさに、只今教えたまいし神の御名を伺い奉ることを忘れいたりしが、のちに巽霊彦命の御教えたることを覚悟したりけり。
 三条の天則を授かりてから、百万の味方を得たるごとく大に勇気鼓して、またまた各教の教義を探り・誤まれる宗教を改良せんと思料し、以後は営業は人任せに為し、各教を尋ね廻りつつ神示の三則を説くといえども、時黒の世は元の良教師なく可とする者も不可とする者もなく・余も頗る手持不沙汰にてありたり。また方面を替えて、地方の学識ありという人に向って説き示さんと思いて、二、三の名士を訪えども、余の貧民なればとて門前払いを喰わし、のみならず大反対を唱えて「山子」なぞと罵る者のみ。平常の親密なる朋友までも、余をうたがいて一言も信ずる者なく、かえって反対の側に立ち、種々の批評を悪にせり。然れども這決心したる余は、あくまで真理を闡明して、国家のために、人生のために、宇内哲学を一変せしめ、至粋至醇なる惟神の大迫を発揮せんことを努めて止まず。ますます幽斎を鍛練したりしが、此度は神の御告げに従いて、深夜に一週間高熊山という奥山に通い、鎮魂と帰堀神術とを一心不乱に勉強し、ついに神人感合の妙境に達することを得たるなり。
 余は神の意義について二言説明しおく必要がある。浅薄なる学者輩は、「神は果してありとするならば、その姿を吾目前に現わすべし」なぞ、尋ぬる者あれどもこれらは古流の唯物論の糟粕をなむる者の言であって、採るに足らぬ論拠である。神という義は、神典に隠身とある、「かくりみ」という意である。それで「神は幽体である」ということをまず弁えておらぬ人には、神の話はなんとなく怪しき感じが起きてきて、信ずることができないようになってくるから、神の道を求めんとするものは、第一着歩としてこの間題か解決して掛らねばならぬ。凡人の眼に隠れて見えぬゆえに、「かくりみ」というのである。
※喜三郎、小幡神社において三大学則を付与される。
 この四字をつづめて、「か」と「み」とを合せて「かみ」というのであるから、神を見んと欲する者は真智の光明でないと見ることができないのである。もし凡夫の目に見ゆるとすれば、それは幻影である。妄視の俸用である。精神の異常をきたしたるより病的に感ずるのである。人として神にまみえ奉るということは報いのである。
 余が高熊山において幽斎の修業中に、天帝の便神たる異豊彦命より伝えられたる余の使命が、いかなる者なるやを記しておく。
 余はこの山の岩穴に静座瞑目、一心に神示を祈りておると、きわめて爽快なる心持がしてそのまま神入感合の域に達したのであるが、神界には八百万の神々が厳粛に整列して余が方を熟視しておられたが、その中より白髪の老神異霊彦命は静に余を招きて、左の御教を授けたもうたのである。余は金殿玉楼の中に導かれて、神の教を請けたり、問答を試みたのであった。
 神教え諭したもうよう、「汝よろしく吾言葉を聞くべし。そもそも現し健の状皆は如何と思うぞ。真理は深く包まれて一点の光もなく、徳義は破れて人心は腐敗し、自由競争悪習は最早頂点に達したりごJのままに放任しおかんか、世界の滅亡を招くに至るべし。因りて神界より汝を卑しき農夫の家に降して、善く世の辛酸を嘗めしめ千辛万苦を与見て、世の救主と為さんとの神慮なり。汝は今まで成し来りしことは皆天の為さしめたうところなり」と教えたまいければ、余は驚きと喜びとに打たれて、暫時無言のままに神の方をのみ視守りいたりけり。