会津八一の歌
会津八一(あいづ・やいち)
 1881〜1956。新潟の生れ。号 秋艸道人(しゅうそうどうじん)。早稲田で学んだのち、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となる。その後文学部教授に就任、美術史を講じた。古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱』にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。
 奈良の仏像は八一の歌なしには語れない。歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。書にも秀で、今は高額で売買されるほどだ。生涯独身で通したが、慕う弟子達を厳しく導き、多くの人材を育てた。

           早稲田大学會津八一記念博物館           目次へ
                                                 ま行の歌
西大寺の四王堂にて  

 まがつみ は いま の うつつ に あり こせど 
                ふみし ほとけ の ゆくへ しらず も


             (まがつみは今のうつつにありこせど踏みし仏の行方知らずも )
まがつみ         
西大寺四王堂 「765年、称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のため7尺の金銅四天王の造立を発願されたのが、この寺のはじまり。東大寺に対して西に位置する故に西大寺。当初は、110もの堂宇があったが、平安時代や戦国時代に焼失、現在の堂宇は江戸時代に再建されたもの。四王堂は四天王をまつる堂」
まがつみ 「四天王が足で踏みつけている邪鬼。八一の造語。まがつびのの音の硬さを避けてとしたと渾齋隨筆で述べている。
参照
 まがつひ‐の‐かみ【禍日神】災害・凶事を起すという神(広辞苑)
いまのうつつ 「今現在 うつつ=現」
ありこせど 「あり越す、現在まで存在し続けている。下記の参照」
ふみしほとけ 「邪鬼を踏みつけていた四天王」
ゆくへしらずも 「(焼失)してなくなってしまったことよ」

歌意
 (四天王)に踏みつけられていた邪鬼たちは今も変らずこのように残っているが、仏たちは焼失して行方知れずになっている。(なんと皮肉なことだろう!)

 八一自身が言うように用語が非常に難しい歌だ。1000年余存在し続ける邪鬼達、それに対し当時の(人を救う)仏たちが焼失して今は無いことの皮肉に心を動かしているのだ。後年、再鋳された貧弱な仏たちとの対比を指摘し、作者は歌の理解のために四王堂の中に入ることを薦めている。

  ありこす (自註で万葉集の「ありこす」とは意味が違うことを述べ、以下のように展開する)
     造語は・・・許さるべきことにもあれば、ひたすら幽遠なる上古の用例にのみ拘泥し、
    死語廃格を墨守すべきにあらず。新語、新語法のうちに古味を失わず、古語、古法のうち
    にも新意を出し来るにあらずんば、言語として生命なく、従って文字として価値無きに至るべし。

             
                     鹿鳴集・南京新唱 西大寺の四王堂にて (04・12・24)   
秋篠寺にて  

 まばら なる たけ の かなた の しろかべ に 
               しだれて あかき かき の み の かず


              (まばらなる竹の彼方の白壁にしだれて赤き柿の実の数)

秋篠寺白壁
秋篠寺  「秋篠寺にて第1首 参照
たけ 「竹林」
しだれて 「(枝垂れて)細い枝が長くたれ下がって」
かきのみのかず 「沢山枝になっている柿の実」

歌意
 まばらな竹林のむこうにある白壁のところに枝をたわませて沢山の柿の実がなっていることよ。
柿
 ひなびた秋篠の里の青い竹林、白い壁、赤いたわわな柿。か行音を有効に使って、リズミカルに表現した美しい歌だ。写真は、秋篠寺の白壁と秋篠町に広がる田園に実っている柿の木。
             

    鹿鳴集・南京新唱 秋篠寺にて 第2首 (04・11・11)   
滝坂にて  

 まめがき を あまた もとめて ひとつ づつ
                 くひ もて ゆきし たきさか の みち


               (豆柿をあまた求めて一つづつ食ひもて行きし滝坂の道)

 
         
まめがき  「小粒の柿」
もとめて 「買って」      
くひもて 「食べながら」

歌意
  豆柿を沢山買って、食べながら登っていった滝坂の道よ!

 仏を繊細に詠う八一の日常における野性的な一面を垣間見ることが出来る。しかし、その時の深い感動を詩歌として表出する力は深い感受性無しにはありえない。秋の滝坂を豆柿をかじりながら登っていく作者の姿が詩情豊かに浮かび上がってくる。
 「滝坂の道としてではなく柳生街道として親しんだ」と地元の友人は言う。「やぎゅう」ではなく「たきさか」この語感を楽しみたい。
 
  滝坂第1首の自註でこう表現している)
     『大和名所図会』には滝坂を紅葉の名所とし、里人数輩が、渓流の岸なる樹下に
     毛氈(もうせん)を敷きて、小宴を開くの図を出し、その上に「千里ノ楓林(ふうりん)ハ
     煙樹深ク、朝トナク暮トナク猿吟アリ」と題せり。文字の誇張はさることながら、
     この辺に野猿の多きは、これにても見るべし。


                          鹿鳴集・南京新唱 滝坂にて 第2首 (04・8・28)         
山中高歌

 みすずかる しなの の はて の むらやま の 
                みね ふき わたる みなつき の かぜ

 
           (みすずかる信濃のはての群山の嶺吹き渡るみなつきの風)

みすずかる 「信濃の枕詞、
 三薦刈る(みすずかる)」
むらやま 「多くの山々」
みなつき 「陰暦6月」

歌意
 信濃の国の果てに連なる山々、その高い峰を吹き渡っていく6月の風はなんとさわやかなことだろう。

 早稲田中学教頭時代、学校運営をめぐる内紛で疲れた心身を癒すため山田温泉へ。その時の山中高歌10首の第1首。(大正10年)
 この歌の調べの良さも味わいたい。第1、4、5句が「ま」で始まる。「みねふき」「みなつき」の音韻の重なりからくる調べ。 

山中高歌・序 
山田温泉は長野県豊科駅の東四里の谿間にあり山色浄潔にして嶺上の白雲も以て餐ふべきをおもはしむかって憂患を懐きて此処に来り遊ぶこと五六日にして帰れり爾来潭声のなほ耳にあるを覚ゆ
山田温泉 「この歌の歌碑がある」 谿間 「けいかん、谷間」
山色浄潔 「さんしょくじょうけつ、山の
 景観が清浄ですがすがしい」
餐ふ 「くらふ、晩餐の餐。
 食べること」
憂患 「心痛、うれい」 懐きて 「いだきて、心に抱えて」
爾来 「じらい、そのときから」 潭声 「たんせい、深い谷底の水音」
なほ耳にあるを覚ゆ  「今でもその水音が聞こえてくるように思える」
                            
                              鹿鳴集・山中高歌 第1首
 (04・7・18)        
御遠忌近き頃法隆寺村にて(第4首)  

 みとらし の あづさ の まゆみ つる はけて 
                 ひきて かへらぬ いにしへ あはれ


              (みとらしの梓の真弓弦はけて引きて帰らぬいにしへあはれ)

 
         
御遠忌(ごおんき)  「仏教諸宗派で、宗祖や中興の祖などの五十年忌ののち、50年ごとに遺徳を追慕して行う法会。ここでは、聖徳太子千三百年忌(大正10年・1921年4月11日)のこと」
みとらし 「手におとりになった。は尊敬を表す接頭語」
あづさのまゆみ 「梓の木で作った梓弓。は接頭語」       
つるはけて 「弓に弦(つる)をかけて、はくとは付けること」

歌意
 聖徳太子がお使いになった梓弓に弦(つる)をかけ、引いて矢を射ればもう矢は戻ってこない。そのようにもう戻ってこない昔のことが感動を持って思われる。

 この句は初句から三句までが「ひきてかへらぬ」の序句になっているので、言葉の難しさの割には歌意は単純である。(敬愛する太子の)引き返すことがない昔が偲ばれるという意味。ただ、単なる序句ではなく、実際に二十八歳の青年八一が、法隆寺のみとらしの梓の真弓を眼前にして感動を持って歌ったものなので、厚みのある充実した作品になっている。
 写真は7月に東京国立博物館・法隆寺宝物殿で撮ったもの。弓を見てこの歌を思い出しながら、大正時代の八一と法隆寺を想った。
                           (参照 第1首 第2首 第3首
  みとらしの梓の真弓 (自註鹿鳴集より)
     作者は、当時は年二十八の青年として、この薄暗き綱封蔵の中にて、初めてこの古風なる
    弓矢を見、この優雅なる名称を聞きて、忽(たちま)ち太子思慕の情に堪えず。恍惚(こうこつ)
    として忽ちこの歌を詠みしなることを、ここに付記す。


             鹿鳴集・南京新唱 御遠忌近き頃法隆寺村にて 第4首 (05・8・25)         
法輪寺にて 

 みとらし の はちす に のこる あせいろ の 
              みどり な ふき そ こがらし の かぜ


               (みとらしの蓮に残る褪せ色の緑な吹きそ木枯らしの風)

法輪寺  「“ほうりんじ”は、奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳太子ゆかりの寺。法隆寺東院の北2kmにある」
みとらし 「手におとりになった。は尊敬を表す接頭語」
はちす 「蓮華、ハスの花」
なふきそ 「吹いてくれるな。な〜そは強い否定」
こがらしのかぜ 「落葉の季節を象徴する秋から冬に吹く風。下記自註参照」

歌意
 手にお持ちになった蓮華に残っている色褪せた緑に木枯しの風よ吹いてくれるな、消えてしまうといけないので。

 八一は古代への憧憬と滅びゆくものへの愛惜を沢山詠っている。この歌は下記の寂れた海竜王寺を詠った歌と同じ手法で詠まれている。
   しぐれ の あめ いたく な ふり そ こんだう の はしら の まそほ かべ に ながれむ 
 また、風や色彩を巧みに詠む。以下の秀歌とともに味わっていただきたい。
   はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は をゆび の うれ に ほの しらす らし
   くわんのん の せ に そふ あし の ひともと の あさき みどり に はる たつ らし も
   くわんのん の しろき ひたひ に やうらく の かげ うごかして かぜ わたる みゆ
 この観音(瓔珞)の歌も法輪寺の十一面観音を詠んだものと言われている。

  こがらしのかぜ (自註鹿鳴集より)
     秋の末より冬へかけて吹く風を「木枯」(コガラシ)といひ、また「凩」の字を宛つ。
    この風の吹き渡る時は、山野の草木一時に凋落すといふが故に、この蓮葉のみは
    吹くことなかれと歌ひたるなり。
             

                     鹿鳴集・南京新唱 法輪寺にて (06・12・16)      
中宮寺にて  

 みほとけ の あご と ひじ とに あまでら の 
                 あさ の ひかり の ともしきろ かも


                  (み仏の顎と肘とに尼寺の朝の光のともしきろかも )

中宮寺  「奈良・法隆寺に隣接する聖徳太子ゆかりの尼寺。飛鳥仏・木造菩薩半跏像と天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)で有名。 (注1)
みほとけ 「新本堂(1968年建立)の本尊・木造菩薩半跏像(注2)、その形から弥勒菩薩と言われるが、寺伝では如意輪観音。八一は“太子思惟像”と呼ぶことが正しいという」
あまでら 「中宮寺は門跡尼寺、法華寺、円照寺と並ぶ大和三門跡」
ともしきろかも 「“ともし”は乏しで光が弱いという意味だが、心惹かれると言う意味の“ともし”も含んでいる。“ろ”は意味のない接尾の助詞。八一は“かそけくなつかしきかな、といふほどの意”と自註に書いている」

歌意
 み仏の顎と肘のあたりにこの尼寺のかすかな朝の光が射し、なつかしく心ひかれることだ。

 近代的な今の本堂では味わうことができないが、当時の尼寺で、尼僧が厨子の扉を開けた瞬間の朝の光のあたる仏の姿を見事にとらえている。尼僧たちが布等で拭いたために黒光りする仏、光による顎と肘の陰影を想像してみるといい。

注1 中宮寺
 621年、聖徳太子が母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の宮を寺としたと伝えられる。創建当初は500メートルほど東にあり、現在地に移転したのは16世紀末頃と推定される。現本堂は高松宮妃の発願で1968年に建立された。
 天寿国繍帳は聖徳太子が亡くなられ(622)、妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、太子が往生した天寿国の有様を刺繍したもの。 
注2 半跏像(半跏思惟像)
 半跏思惟像は右足を曲げて左膝を上に置き、頬に右手を当ててうつむくような姿、いかに人々を救うかという思索にふける。

                          鹿鳴集・南京新唱 中宮寺にて (08・8・24)   
香薬師を拝して  

 みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の 
                やまとくにばら かすみて ある らし


              (み仏のうつら眼にいにしへの大和国原かすみてあるらし)

みほとけ  「香薬師・新薬師寺の本尊薬師如来の胎内仏、3回の盗難にあい、今はない」
うつらまなこ 「うっとりとした眼。意味において作者の造語に近い。
作者は自註でこう言う。
何所を見るともなく、何を思ふこともなく、うつら、うつらとしたる目つき、これこの像の著しい特色なり}作者が百済観音で詠んだ{うつつごころ=現実の心だが夢見心に近い}と同じ意味合いを持つ」

歌意
 香薬師のうっとりとした眼には古代の大和の国が春の霞にかすんでみえているらしい。

 八一は最初の歌集「南京新唱」で香薬師を三首詠んでいる。昭和18年の3回目の盗難で今では八一の歌や先人の描写や写真から想いうかべるしかない。亀井勝一郎は「大和古寺風物詩」で以下のように表現する。
 「香薬師如来の古樸(こぼく)で麗(うるわ)しいみ姿には、拝する人いずれも非常な親しみを感ずるに相違ない。高さわずかに二尺四寸金銅立像の胎内仏である。ゆったりと弧をひいた眉(まゆ)、細長く水平に切れた半眼の眼差(まなざし)、微笑してないが微笑しているようにみえる豊頬(ほうきょう)、その優しい典雅な尊貌(そんぼう)は無比である。両肩から足もとまでゆるやかに垂れた衣の襞(ひだ)の単純な曲線も限りなく美しい
 なお、内田康夫が香薬師盗難を素材に推理小説「平城山を越えた女」(徳間文庫)を書いている。
                   (香薬師を拝して 第2首へ)  
             
                     鹿鳴集・南京新唱 香薬師を拝して 第1首 (03・6・15)           
室生寺にて(第2首)

 みほとけ の ひぢ まろら なる やははだ の
                あせ むす まで に しげる やま かな
 
        
                (み仏の肘まろらなる柔肌の汗むすまでにしげる山かな)

<室生寺  「奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派の
大本山(室生寺にて第1首参照)」
ひじ 「肘」
まろらなる 「まるくふっくらとした」
やははだ 「柔らかな感触の肌、女性の肌」
あせむす 「汗ばむ」

歌意 
 み仏の肘の丸くふっくらとした柔肌が汗ばむかとおもわれるほど、この山の茂りは濃い。 

 室生寺をめぐる夏の山を詠ってはいるが、平安初期の密教の官能的な仏たちを表現したと言える。“肉感的な仏の柔肌、それが汗ばむ”と八一はなまめかしく捉える。その「あせむす」と「しげる やま」を結びつけるのは八一独特の感覚である。
 「ひじ まろら なる」仏とは、吉野秀雄(鹿鳴集歌解)が言うとおり、灌頂堂の丸い肘の如意輪観音と考えられる。観心寺の歌からも想像されることだ。ただ、観心寺の豊麗でなまめかしい観音に比べると室生寺の仏は、端正な顔をしている。
 原田清(鹿鳴集評釈)は、この仏を室生寺を代表する金堂の十一面観音と言う。ふっくらとして美しい十一面観音の肘を想像することも楽しい。     室生寺にて第1首へ
 
                   鹿鳴集・南京新唱 室生寺にて 第2首 (09・05・09)  
三輪の金屋にて路傍の石仏を村媼(そんおう)の礼するを見て

 みみ しふ と ぬかづく ひと も みわやま の 
               この あきかぜ を きか ざらめ や も


           (耳しふとぬかづく人も三輪山のこの秋風を聞かざらめやも)

三輪の金屋  「奈良・桜井市金屋、三輪山の南麓。下記参照」
石仏 八一は“薬師の一面が移されて2面になりしものか。”と書いている。現在では右が釈迦如来、左が弥勒菩薩と言われている」
みみしふ 「耳の聞こえない。しふとは感覚器官が働きを失うこと」
ぬかづく 「額突く、ひたいを地に着けて拝むこと」
みわやま 「奈良県桜井市の南東部にそびえる、なだらかな円錐(えんすい)形の美しい姿をした標高467mの山で、古代から神の鎮座する山、神名備(かむなび)とされて信仰の対象となっている」
きかざらめやも 「聞かないことなどない。やもは反語の意を表す」

歌意

 耳を病んで苦しんでいる里の老女が、頭を地につけてこのみ仏に祈っている。三輪山から吹き降ろす秋風の音をこの老女は聞かないのだろうか、いやきっと聞いているに違いない。

 八一が訪れた時、石仏は路傍の木立にただ立てかけられていただけ、吹き降ろす秋風のもと、耳を病む老女の祈る姿という素朴で寂しい情景だけがあった。だが、「聞かざらめやも」に込められた反語の中に、強い希望と「三輪山=神の力」を感じ取ることが出来るような気がする。
 現在の石仏は写真(下)のような頑丈なコンクリートの堂の中にあって、この歌の当時の趣を味わうことは出来ない。周辺は山の辺の道(遊歩道)として整備され、訪れる人も多い。
                          
 三輪の金屋 (自註鹿鳴集より)
     三輪山の南なる弥勒谷(みろくだに)といふところに、高さ六七尺、幅三尺ばかりの板状の
    石に仏像を刻したるもの二枚あり。・・・・路傍の木立に立てかけ、その前に燭台、花瓶、供物、
    および耳を疾(や)める里人の納めものと見ゆる形ばかりなる錐など置きてありき。・・・


  鹿鳴集・南京新唱 三輪の金屋にて路傍の石仏を村媼(そんおう)の礼するを見て (07・3・15) 
早稲田にて (四月二十七日ふたたび早稲田の校庭に立ちて)  

 むかしびと こゑ も ほがら に たく うち て
               とかしし おもわ みえ きたる かも
 
       

            (昔人声もほがらに卓打ちて説かしし面輪見えきたるかも)

むかしびと  「恩師・坪内逍遥を畏敬する古人・先人として表現する」
たく 「教壇の卓」
とかしし 「説かしし、最初のしは尊敬、最後のしは過去」
おもわ 「面輪、わは輪郭の意味で顔面のこと」


歌意 
 恩師坪内先生が、声も朗々と教卓をたたきながら講義されたそのお顔が今もありありと浮かんでくる。
          
 この歌は早稲田大学坪内博士記念演劇博物館前の逍遥の胸像の下に彫られている。ただ、早稲田には若山牧水、北原白秋、窪田空穂など有名な歌人・文人がいるのでと言う理由やその他で随分反対があったようだ。
 そのため、この胸像・歌碑の存在に逍遥と八一の強い師弟関係及び八一と作った弟子達との深い絆をうかがう事が出来る。石碑を作る弟子達の計画に「・・・私自身が大いに感動して、これは是非完成して貰ひたいと、特に強く望をかけてゐる」(私の歌碑)と70歳の八一は書き残している。  
           
     山光集・校庭 第6首 四月二十七日ふたたび早稲田の校庭に立ちて  (05・7・15)   
村荘雑事  

 むさしの の くさ に とばしる むらさめ の
               いや しくしく に くるる あき かな 


             (武蔵野の草にとばしる村雨のいやしくしくに暮るる秋かな)

武蔵野  「東京都と埼玉県の南は多摩川から、北は川越市あたりまで。雑木林のある独特の風景で知られた。武蔵野台地」
とばしる 「ほとばしる。飛び散ること」
むらさめ 「ひとしきり激しく降り、やんではまた降る雨。にわか雨。驟雨(しゅうう)」
いや 「いよいよ。ますます」
しくしく 「(頻く頻く)絶え間なく。しきりに」
くるる 「暮れる」

歌意

 武蔵野に村雨がしきりに降って、我が庭の草に飛び散っている。そうして武蔵野の秋はますます深まっていく。

 八一は大正13年に移り住んだ下落合の「落合秋艸堂」(市島春城別邸)で村荘雑事17首を詠む。3000坪に及ぶ春城別邸(宅地は500坪)は、武蔵野そのものと言っていいほどの風情があった。
 秋雨が激しくなっていく様子を急速に深まっていく秋に重ねながら、武蔵野の晩秋を詠う。選ばれた言葉のリズムが流れるような調べをつくり、暮れゆく秋へと誘う。
 先月、この歌の碑と墓碑がある東京練馬の法融寺を訪れた。歌碑は珍しい絵入りである。生前、自ら揮毫して全ての歌碑を彫らせた八一だが、この碑は幾分見難くなっている。東京近郊の住宅街と化したこのあたりに、もう武蔵野の風景はなさそうだが、静かな寺内には八一ゆかりの人たちの墓碑もあり、今では本でしか触れることのできない一時代前を偲んできた。
                          
 落合秋艸堂
    大正13年から14年間住んだ市島春城別邸(八一の遠縁)を八一は落合秋艸堂と名づけ、
   ここを拠点にいろいろの学術活動を展開する。友人、学生等が出入りし、ここで薫陶を
   受けた門下生から傑出した人物が出る。学者、歌人、画家、映画監督と多岐にわたる。

                       鹿鳴集・村荘雑事 第17首  (07・6・26)
春日野にて 

 もりかげ の ふぢ の ふるね に よる しか の 
               ねむり しづけき はる の ゆき かな


              (森かげの藤の古根による鹿のねむり静けき春の雪かな)

もりかげ  「森蔭」
よる     「寄り掛かる」

歌意
 春日野の森蔭の古木の藤のむき出た根の上に身を寄せるようにして、静かに眼を閉じている鹿。その静かな眠りを妨げないように音もなく春の雪が降りそそいでいる。

 写真は2003年1月29日、奈良の友人から送られてきた若草山の雪景色だ。写真の美しさから春日野の歌を思い起こした。
 古都の静かに眠る鹿と春の雪、調べよく春日野を歌いながら、あたたかな余韻を残している。鹿鳴集冒頭、春日野にての中の一首、こんな日に訪れて見たいものだ。        若草山頂上の鶯塚という古墳

                   鹿鳴集・南京新唱 春日野拝して 第8首 (03・02・01)