インド仏教の僧侶 佐々井秀嶺師の話

佐々井秀嶺師=インド仏教復興の父アンベードカル博士の意志を継ぎ、仏教復興のリーダーとしてインドで40年の間、改宗運動や様々な社会活動などを行なっている人物である。
2005年に「インド仏教の頂点に立つ男」という一時間番組を日本で組まれたり、2006年6月3日放送のTBS系「世界ふしぎ発見」のインド仏教特集で紹介されたりしたのでご存じの方も多いと思います。


佐々井秀麗師。インド名:Bhadant Arya Nagarjuna Shurei Sasai

私は2002年頃、山際素男氏の著作「不可触民」で佐々井師の事を知り、どんな人物なのだろうかと、とても興味を持っていた。そして2005年に4度目の渡印の際に偶然が重なり、佐々井師と個人的に会う事が出来た。

発端は、私が日本を離れてインドに着いてから一週間程、インド中央部の都市アウランガバードに滞在していた時の事。
ある晩、私が泊まっていた宿のレストランでチャイを飲んでいると、外からふらりと中年のインド人男性2人がレストランに入ってきた。
彼らは私と目が合うと「日本人か?」と尋ねてきて、「君は仏教徒か?私たちは日本の仏教に興味があるんだ」と話し始めた。私は家系的には仏教徒だが、個人的には特に何も学んでいなかったし、せいぜい仏陀に関しての本や近代インド仏教やアンベードカルの本を読んだくらい。その事を伝えると、「アンベードカルを知ってるのか!私たちは仏教徒だが彼は特別な存在だ」と真剣な顔つきで話し始めた。そして、インドでの仏教の話やアンベードカルについての話をして盛り上がったところ、「ササイジーは知ってるか?」と尋ねてきた(※インドでジーという呼び方は敬称にあたる)。私は「もちろん知ってる」と答えると、おもむろに携帯電話を取り出し「じゃあ、ササイジーに電話してみるよ。話してみるといい」と電話し始めた。
私はとても驚いたのだが、残念ながら佐々井師の事務所には夜だったためか誰もいなかったようで本人と話す事は出来なかった。彼は「電話番号教えるから良かったら電話してみて。ぜひ会ってみるといいよ」と言い、電話番号を書いた紙を私に渡した。私は突然の事に驚きながらも、数々の偶然が必然を呼ぶインドの地なので「なるほど、こういう流れなのか」と理解し、ありがたく受け取った。

それから数ヶ月後、デリーの空港から出ているエアインディアでタイへ向かうため、デリーへ行く機会が出来た。その時はデリー近郊のリシケシュにいたのだが、デリーへ向かう数日前、公衆電話から佐々井師の事務所にアポの件で電話をしてみた。何日電話しても誰も出なかったので、使われていない番号なんじゃないか、と思ったが、一週間程してやっと電話が通じた。その時、あいにく佐々井師は不在だったが、電話口に出た男性は「ササイジーは明日にはデリーに帰ってくるから携帯電話に電話にしてみてくれ」と言い、携帯電話の番号を教えてくれた。そして、私は早速教えて貰った番号に電話してみると、佐々井師は列車で移動中だったが、突然の電話にも関わらず「良かったら明後日の昼頃でも来ませんか?」と言って頂いた。もちろん私は行く事にして、私と旅を共にしたパートナーはその日の夜、夜行バスに乗ってデリーに向かった。

2日後、私たちと、ネパールで会ってデリーで再会したボランティア青年の日本人3人で佐々井師の事務所を訪ねた。私自身がインドを去る最後の日に会えた事も非常に印象的だった。事務所に勤める男性の方に奥の部屋に案内され、佐々井師と会った。師は初対面にも関わらず、「どうぞどうぞ」とにこやかに歓迎してくれて、チャイを出してくれた。

彼は元気そうだったが、ちょっとやつれた顔をしていた。なんでも、2日前に乗った列車で出たオムレツで体調を崩してしまい、前日は熱を出して寝込んでいたそうだ。40年もインドにいてもそんな事あるんだなぁ、と思ったが、オムレツが水でべちょべちょで何か混ざり物があったらしい。インドは衛生観念が本当にないので、たまにこういう事があるので困ったものだ。衛生観念に捕らわれすぎる事も問題ではあるが・・・。

佐々井師は自分の今までの人生を振り返りながら3時間も私たちに話してくれた。

第二次大戦後、日本はめちゃくちゃにアメリカにやられてしまい、師は中学を卒業後、地元の岡山を出て日本放浪の旅に出た。当時の東京もアナーキーで本当に凄い所だったそうだ。長靴のような靴で北から南からずっと歩いて、青森にも何度か行って青函連絡船にも3回ほど乗った。もちろん金は無く、無賃乗船で船底に隠れていたために、1度か2度は見つかって死ぬほど殴られた事もあるそうだ。だけど、故郷はどこかと聞かれても、故郷を汚しちゃいけないという思いがあり、何度聞かれても一度も出した事がないという。
また、山をずっと歩いて越えて寺を見つけた時は、疲れ果てていたので泊めて貰おうと思うのだが、格好が汚すぎるからなかなか行きづらい。そのため、灯りが消えてからそっと行って泊まらせて貰ったりしたそうだ。これがインドなら気兼ねする事なく簡単に泊めてくれるのだが、日本はお寺も綺麗で行きづらかった、と話していた。佐々井師は「この日本放浪時代を今振り返ると、これは禅の修行だったんですなぁ」と感慨深い表情をして話していた。

師は日本国内を長い事放浪した後、鹿児島の寺での修業、大学での仏教研究、浪曲師、易者の修業等を経て26才で高尾山薬王院で仏門に入った。そして2年の修行期間後、1960年8月、仏僧『佐々井秀嶺』と命名される。

その後しばらくして、佐々井師は師匠から推薦されてタイに仏教の勉強へ行った。しかし、師にとってタイは面白くなかったそうで、退屈な日々を過ごしていたらしい。そして、タイからインドに渡り、インド東北部ラージギルの日本山妙法寺で修行をする。ここでタイで学んだ事が大変役に立ったそうだ。
そして2年のインド滞在を経て、さぁ日本に帰ろうというある日の晩、突然、夜中に佐々井師は金縛りにあう。すると、白髪白髭の白衣をまとった老人が枕もとに現れ、「我は龍樹なり。汝速やかに南天竜宮へ行け。汝の法城は我が法城。我が法城は汝が法城なり。南天鉄塔もまたそこに在り」と告げて消えた。
これはタダ事では無いという事で、佐々井師は航空券を捨て、師匠からヒンズー語で竜宮と読むナグプールという都市を教わり、単身ナグプールへ向かった。
そうして、師がナグプール駅に着いた時、その頃、ナグプールは外国人がほとんど足を踏み入れた事が無い土地だっただが、偶然、駅長が仏教徒だったため、佐々井師は声をかけられて駅長宅に1ヶ月程滞在した。そして、その後、アンベードカルの本尊を持つ仏教徒の家に移り住み、7,8年程居候をしたそうだ。
ナグプールでは伝説と思われていた仏教遺跡を発見する。これらは、大乗仏教の創始者ナーガルジュナ(龍樹菩薩)の根本道場跡と考えられ、現在も発掘中である。また、ナグプール近郊のマンセル仏教遺跡の発掘も続けている。映像や写真でこれらの遺跡を見られた方は、世界遺産にもなっているインドのアジャンタの仏教遺跡群にも匹敵する仏教の歴史上重要な遺跡となる事がお分かりになるだろう。

佐々井師がナグプールに行った頃、アンベードカル博士が1956年に亡くなってから指導者が10年不在の時だった。そこで佐々井師は、仏教徒の指導者として布教活動を行っていった。その頃から知るインド人達は「ササイが来てから仏教が立ち直った」と言ってくれる、と佐々井師は嬉しそうに話していた。
それから仏教の復興のため、インド全国をまわった。それはやはり大変な事で、石を投げられたり、もうこれは死ぬかもしれない、という事もあって遺書を書いた事もあるそうだ。しかしインドの庶民の多くは佐々井師に味方をしてくれて、また日本を放浪した経験がここで大いに役立ったそうだ。

ところで当時は60年代後半、ヒッピー達が無一文でインドを放浪した時代である。私の知っている年配の友人でも何人か当時放浪した人がいるが、そういったヒッピー達が集まっていたゴアにも佐々井師は当時訪れている。ヒッピー達はガンジャ(マリファナ)をくゆらせて、ヘルマンヘッセの「シッダールタ」などを読んでいたと言っていた。彼らの多くは無銭旅行なので家の軒下で寝たりしていて、佐々井師自身も放浪経験があるのでヒッピーにはとても共感し、彼らには影響された、と話していた。

私は2004年にゴアに訪れたが、正直、ヒッピーの面影は無かった。「今のゴアは単なるパーティプレイスなんですよ」と話したところ、「そりゃあそうでしょう。今はヒッピーの格好していてもみんなお金持ってますから」と言っていた。ただ、インド全体では観光客は増えてもお金を落としていく年配のツアーで来る外国人が減ってしまったとの事。デリーのショッピングセンターであるコンノートプレイスも確かに寂れていてヒドイものだ。ムンバイ(旧ボンベイ)の有名なタージ・マハルホテルも売りに出されている。この原因は治安が悪くなったから、と話していたがそれだけなのだろうか。インド全体的には経済はうなぎ登りなのだが・・・。

佐々井師は60年代、70年代を仏教の復興運動およびカースト外にあたる不可触民解放運動に身を捧げた。しかし80年代に入り、佐々井師は長期不法滞在のため国外退去の危機が訪れる。ところが、仏教徒達により1ヶ月で60万人もの署名が集まり、国籍取得運動に盛り上がった民衆の声を無視できなくなったラジブ・ガンジー首相は、1988年4月、佐々井師のインド国籍取得を正式に認め、自ら「Arya Nagarjuna」の名を送った。

ところで、佐々井師に日本の仏教についてどのように思っているか尋ねてみたところ、師は、仏陀の時代から人間救済が仏教の本来の目的なのに、日本では宗派では派閥争いなどしている事などについて批判的だった。そして、「私は宗派というものは嫌いなんですよ」と話していた。
また、佐々井師は、僧侶が結婚しているのは日本だけの特殊な現象だが、ここに問題点があるように感じるとの事。もちろん、日本の仏教も昔は結婚は御法度だったのだが、明治時代に明治天皇が結婚を許すと同時に誰もかれもが結婚して、仏陀の教えよりも一時の権力者の言う事を聞いてしまった事はおかしな事だ。ここから来る世襲制に問題点があるのでは無いだろうか。日本で仏教に興味の無い坊さんが沢山いる事もこれが原因だろう。
また、日本で仏陀といえば神様だが、仏陀は人間なので、ハハーッと拝むものでは無く、自分は人間仏陀としての教えを守りたい、と師は話していた。
ちなみにヒンドゥー教では仏陀はビシュヌ神の生まれ変わりとして、ヒンドゥー教徒の間でも信仰心を持たれている。日本では仏教に神様が多い点からも、日本に渡ってきた時点で仏教はかなりヒンドゥー色が入っている事が分かる。例えば、吉祥天がシヴァ神の妻ラクシュミーであるように。

そして祖国日本については、「(現在自殺率が世界3位という現状が物語るように)物質的にどれだけ裕福になっても目的が無ければそりゃあ人間は生きられないよ」と話していた。
私も日本の一般社会の精神文化の低さには正直驚く。物質主義が最優先されると、どこに真理を求めて良いのか迷い、精神的に息苦しさが増していく。

とはいえ、精神的に豊かと言ってもインドの貧困者の現状もかなり深刻なものだ。
その点について佐々井師は、真のインドを知りたいならば、不可触民の人達と仲良くなり、彼らの結婚式などにも参加する事を勧めていた。すると貧困者の抱えている問題も良く分かる、と。
インドにはカースト制度が示すとおり、上流階級、中流階級、下流階級、そしてその下に不可触民がいる。現在、不可触民とされている人の多くは、4000年前に北方からアーリア人が侵入してくる前の原住民であったとされている。

佐々井師と話している事務所の部屋には、ダライ・ラマとインド仏教復興の父アンベードカルの大きな写真が置いてある。
アンベードカルは佐々井師が最も尊敬する人物だが、彼はカースト外の不可触民出身で幼少時代から苦渋を散々飲ませられた経験を持つ。しかし、アンベードカルは当時のマハラジャに頭の良さを買われ、留学先のアメリカのコロンビア大学では修士号、博士号を取り、ロンドンのグレイズ・イン法曹学院では経済学と政治学を学んだ。そして、インド独立時には憲法草案を担い、33億人の神が作ったとされるカースト制度を撤廃。不可触民制度も廃止した。また国旗制定については、人間平等を説く仏教の象徴『法輪』を国旗の中央に描くよう定めた。そして1956年10月14日、ナグプールで、 50万人の不可触民と共にヒンドゥー教から仏教への改宗を宣言する。しかし、その2ヶ月後、全ての仕事をやり終えたアンベードカルは病に倒れ、帰って来ない人となる。
それ以降、現在でもカーストはインドで根強く残っているが、現在、インドでは就職において形上、不可触民は差別されなくなったそうだ。また、デリーなどの大都市では不可触民もカーストヒンズーも一緒にご飯を食べるようになった。もし「不可触民」という事で差別された時は、佐々井師ら仏教徒はすぐに抗議に行くそうだ。だが、今だに農村地帯では差別は根強いという。
これは昔の話だが、アンベードカルでさえも法務大臣になって故郷に凱旋帰国した際、カーストヒンズーから大きく祝福されたが、ご馳走に出された皿は不可触民の家からわざわざアンベードカル用に持ってきた物を使われたという。日本でも西日本、特に私が住む地域などは同和差別が根強く残っていて、そういった問題は他人事では無く感じる。
インドで違う宗教同士の問題やカースト制度などは実に複雑なものだが、佐々井師は、違うカースト同士や宗教同士で結婚していく事が差別撤廃に一番良いと話していた。非常に難しい話だろうが・・。

最後に佐々井師は「社会の変革無くして貧困・差別は無くならない。そう思って私は権力と戦っているわけです!ハッハ」と笑って話していた。
師は強面のイメージがあるが、話しているととても温かいオーラがあり、すでに70才を越えているのだが、時折、子供のような屈託の無い笑い方をする。その時の表情がとても印象的だった。
大乗仏教にせよ小乗仏教にせよ、自己の内面を突き詰め、覚りを目指し、そこに永遠の平安を求める仏教はもちろん大切だが、それだけでは対抗しきれない社会面を担う佐々井師及びアンベードカルの仏教もこれからの歴史上不可欠な宗教であると思う。

現在も毎年、佐々井師はナグプールで行われる仏教徒への改宗式で演説し、ヒンドゥー教から改宗を希望する多くの不可触民を仏教徒へ改宗させたり、遺跡の発掘、仏陀が覚りを開いたとされるボードガヤの地をヒンドゥー教徒から奪還する活動など、幅広く活躍されている。

この日は結局、3時間も事務所に居座ってしまい、私たちは佐々井師の話を沢山聞かせて頂いた。帰る時には事務所の前で恐らくタイ人かミャンマー人と思われる僧侶の方々が数人待っていた。忙しいところを私たちのために時間を割いてくれた佐々井師にはとても感謝しています。この貴重な時間を胸にしまい、師の活動を日本で少しでも紹介出来ればと思う。

※今回、佐々井師にメールで承諾を頂いて会話形式で載せるつもりだったのですが、メールアドレスが変わっていたために連絡が取れませんでした。そのため文章形式で載せていますのでご了承下さい。

参考文献:
「不可触民」山際素男 三一書房
「インド仏教の再生」堀沢租門 郁朋社
「アンベードカルの生涯」山際素男 光文社新書