三方原基線あれこれ

はじまりは三方原基線

下図は三方原基線周辺の一等三角網である。赤い直線は約10.8キロあり、明治16年に基線尺で測定された。この一辺の長さが実測されたので、東の磐田にある上野巳新田と西の富幕山とでつくる三角形の辺長と角度が測量で求められた。すると上野巳新田と富幕山の辺長(水色の直線)も計算で求まる。こうして、次々に新たな一等三角点の位置が確定していき、一等三角網ができあがっていく。次に二等三角網がつくられていくのだが、一・二等三角測量では高度角の観測はされないので、標高は確定できない。三等三角網になって高度角が観測され、水準点の成果をふまえて標高も確定される。そして地形が調査されて地形図(1/5万図、大正14年全国完了)が出来上がっていった。

一等三角網

三方原基線に関するあれこれ


絵図からみえる測量のようす

三方原基線は測桿といわれる長さ三メートルの基線尺で測定された。絵図をみると少なくとも四つの基線尺(絵図の中段にある「測桿六本」で一組という記述は準備作業のことだろうが、測桿も六つだったのか?)を使ったようである。基線上を、これらを接合しては取り外すことを繰り返すのだが、全長は約10.8キロだから単純に割ると3600回接合を繰り返すことになる。しかも、測定誤差を小さくするために、何回(四回?)か測定したはずだ。

測桿での測量もだが、その前段階での準備も大変であった。基線路の開 設、つまりまっすぐな道路(三角測量法式では幅10メートル)を作るのである。幅が必要なのは、絵図にあるように、天幕の内部で測桿の接合等の作業を行うため、天幕や測桿の三脚などの運搬が必要だったからである。基線路は、おそらく松の多い山林だっただろうから、根や株を取り除くのは大変だったに違いない。また、基線路の中心近くは測桿を三脚の上に載せて繋いで行くので念入りに整地し、傾斜も少なくしただろう。

基線路の両端には櫓(やぐら)を建てた。絵図から判断すると十五メートルくらいはありそうだ。そして、基線路を十等分して、点を設けたというから標石を埋設したのだろう。三角測量法式によれば、他にも基線直線上に杭をいくつも埋設し、杭の上部に基線と一致する直線を描いておいたようだ。これらの作業には神ヶ谷の櫓から回光器または回照器(絵図で回光儀とある)で太陽の光を反射させ、その光の方向を望遠鏡でとらえて基線が一直線になるようにしたのだろう。

測桿は伸縮の少ない金属棒を木の棹に納めたものだが、三方原以外はアメリカ製のヒルガード式といわれるものが使われた。その長さは四メートル、三方原で使用したのはイギリス製で三メートルだ。絵図の記述から具体的な構造は分らない。しかし、両端には細工がしてあることや、温度についての記述があることなどから、構造はヒルガード式のものと似ていたのではないだろうか。ちなみに、ヒルガード式の測桿には、木の棹に斜めに穴を開けて水銀温度計を挿し込み、金属棒の部分に温度計の先端を接触させて温度を計り、金属の伸縮係数から長さを推定した。また、その水銀温度計自体も、測量の前には標準温度計と比較していた。

測桿の置き方は三角測量法式によれば、基線両端では必ず測桿を水平にするが、 他では傾斜してもよいことになっている(ただし水準器で傾斜を測定する) 。絵図を見ると、下段の絵図の中央下、やや右寄りのあたりで、測桿が段 違いになって描かれている。傾斜させてもいいのなら、このような状態には ならないから、三方原の測量では、常に水平に測桿を接合していったので はないだろうか。詞書にも、一番不鮮明で解読に難儀した部分だが、意訳 すると「台をあてても測桿がまっすぐにならない時には、端に錘をつけて接 合面を測る」とある。


そのころの三方原台地

三方原台地は耕作には向かず、江戸時代を通じて入会の採草地であった という。明治二年になると、気賀林により開拓が始まり維新で職を失った武士約800 人が入植するが、うまくいかず離村が相次いだという。明治6年からは茶園 (百里園) を開き、一時期は海外に輸出するほど盛んになるが、明治37年には解散している。
明治23年の地形図をみると、百里園の周囲が茶畑で、「都田村」側のほうは荒地である。また「神ヶ谷」側は針葉樹林だ。基線の跡は百里園の周囲を除いてしっかり残っている。測量から40年以上経た地図を見ると、「都田村」側のほうの荒地には、ほぼ南北の区画が出来て、針葉樹林になっている。


その後の街の区画にも影響を与えたか

高丘・他左図は上図 (一等三角網) の浜松基地と東名高速道路の間を拡大したものだ。浜松基地が東西南北を基準に作られているのに対して、湖東町、西岡町、高丘、葵西、などの区画の向きが、完全に基線と平行、または直交しているのがわかる。浜松基地南側の西山町や神原町も同様だ。普通なら東西南北になるところが、縦方向は基線北端、北東方向の「都田村」を向いている。これは基線の名残ではないだろうか。まず、松林や荒地だったところに幅10メートルの道が出来て測量が行われる。その後の開発は、この基線が基準となった・・と思うのだ。


「劔岳 点の記」と三方原基線の関係

一等三角網図でわかるように三方原基線から離れていくと一等三角点の間隔が広くなる。そのため補点というものを設置するのだが、恵那山と大無間山の間には熊伏山に、恵那山と本宮山の間には出来山に作られた。恵那山南側の下伊那地方では、そのあと二等三角点が明治35年に設置され、次に三等三角点が設置されたのだが、その三等三角点の測量にあたったのが「劔岳 点の記」の主人公、柴崎芳太郎であった。詳しくは「下伊那における柴崎芳太郎の仕事」にまとめてある。


更新日:2010年6月9日 作成日:2010年3月30日  低山(mail:woodpecker35jp@yahoo.co.jp)