酔雲庵


侠客国定忠次一代記

井野酔雲




赤城の山も今宵限り‥‥‥
あれから150年。からっ風に吹かれて、あの親分が帰ってきた。

いいか悪いかってえのはなア、見方によって変わるもんなんだぜ。お上の立場から見りゃア、お上に立てついた親分さんは極悪人だ。だがよお、百姓たちから見りゃア、違った見方になるんだぜ。悪口を言う奴らはみんな、お上の立場に立って物を言うお利口さんよ。親分さんを盗っ人呼ばわりする奴らはな、あくでえ事をして弱え者から銭を絞り取った汚ねえ奴らさ。親分さんに弱みを握られ、てめえから銭を差し出したくせして盗まれたと抜かしやがる。実際に、その目でじっくりと、本物の親分さんを見てやっておくんなせえよ。




侠客国定忠次一代記




目次




1.その目でじっくり、見てやっておくんなせえ 嘉永三年(一八五〇)十二月二十一日、上州(群馬県)吾妻郡、信州街道の大戸宿は朝早くから祭りさながらの賑やかさだった。その日は粉雪がちらつき、凍るような寒さだった。にもかかわらず、各地から人々が集まり、これから始まる見世物をそれぞれの人がそれぞれの思いで見守ろうとしていた。
2.惚れた女に振られちまったよ 赤城山に春霞が掛かっていた。粕川のほとりの小高い丘の上に寝そべって赤城山を眺めている若者がいた。粋な縦縞模様の袷を着て、黒光りした長い木刀を持っている。色が白く眉の太い精悍な顔付きの若者だった。
3.どうして、こんなふうになっちまったんだ 忠次が嫁を貰ってから一年が過ぎた。初めの頃、年下の忠次に何事も従っていたお鶴も、嫁に来て一年が過ぎると新しい生活にも慣れ、だんだんと姉さん風を吹かすようになった。母親ともうまくやり、朝から晩まで母親と共に働き続け、忠次はのけ者にされたような感じだった。
4.親分、俺を子分にしてくだせえ 武州の川越街道に面した藤久保村に獅子ケ嶽の重五郎という力士上がりの親分がいた。表向きは木賃宿をやりながら、若い者たちに相撲を教え、裏では川越一帯を仕切っている博奕打ちだった。その重五郎親分のもとに、佐渡島を島抜けした大前田村の栄五郎が隠れていた。
5.ほう、おめえが噂の忠次かい 『忠次が帰って来た』という噂は瞬く間に国定村と田部井村に広がった。忠次は散歩から帰って来たような気楽な顔して、お勝手に行くと、「ああ、腹、減ったア」と竈の上の鍋の中を覗き込んだ。母親もお鶴も夕飯の支度をしている最中だった。忠次を見ると二人とも動きを止め、ポカンと口を開けたまま忠次の顔を見つめた。
6.おめえと会えるなんて夢みてえだぜ 縞の合羽に三度笠、手甲脚絆に草鞋履き、長脇差を腰に差した忠次と文蔵は浮き浮きしながら、からっ風の吹きすさぶ中、北に向かって旅立った。紋次親分は川田村の源蔵親分宛の添え状を二人に渡し、修行を積んで来いと送り出した。
7.裏切り者は許しちゃおけねえ 島村の伊三郎は紋次の縄張りである境宿を狙っていたが、表立った動きはなかった。伊三郎の子分たちが市にやって来て騒ぎを起こす事もなく、紋次の賭場はいつも賑わっていた。紋次も子分たちに伊三郎の縄張り内に出入りする事を禁じ、喧嘩する事も禁じた。紋次の子分になって二年が過ぎ、忠次の顔も売れて来た。
8.襲名披露は派手にやろうぜ 代貸の新五郎はじっと我慢しろと言ったが、文蔵と忠次に我慢している事などできるはずなかった。二人は木崎宿に遊びに行くと言っては出掛け、三ツ木村の文蔵の家で旅人姿に着替えると、手拭いで顔を隠して島村一家の賭場を荒らし始めた。捕まれば簀巻きにされて、利根川に流されてしまう。失敗は絶対に許されなかった。
9.てめえら、さっさと出て行きやがれ 日光の円蔵の思惑通り、忠次が百々一家の跡目を継いだという事はあっと言う間に各地に知れ渡った。円蔵が福田屋栄次郎に頼み、大前田村の要吉親分を招待したお陰で、要吉親分のもとに出入りする旅人たちによって忠次の噂は各国の親分衆の間に広まって行った。
10.いい女だぜ、境名物の壷振りは 境宿のお辰とおりんの二人の女壷振りの噂は他国にまで鳴り響いた。おりんが弁天なら、お辰は吉祥天だと言い出す者も現れ、いつしか、吉祥天のお辰という通り名が付いた。二人の天女見たさに各地から旅人が集まり、親分衆までもがわざわざやって来た。弁天と吉祥天のどちらが勝ったという事はなく、伊勢屋も桐屋もいつも客で一杯だった。
11.叔父御は大した貫禄だア その年、天保三年の春、桑が芽吹く頃、大霜が降り、桑の葉が全滅して養蚕ができなかった。その後、梅雨時に雨が少なく、日照りが続き、米のできも悪く、米価は高騰した。農民たちは騒いだが、暴動にまでは至らなかった。しかし、この年の不作が日本全国を襲った天保の大飢饉の幕開けだった。
12.うるせえ、たたっ斬ってやる 去年の日照り、今年の長雨と不作が続き、とうとう暴動が起こった。赤城山麓の百姓たちが武器を手にして伊勢崎方面に押し寄せて来たのだった。各村々では若者組を中心に自警団を作って村を守った。忠次も子分たちを率いて縄張り内の村を守った。国定村と田部井村も暴徒に襲われたが、その数は少なく、追い払う事ができた。しかし、境宿は危険だった。伊勢崎町で暴れ回っている暴徒が勢いに乗って境になだれ込んで来るに違いなかった。 
13.上州に帰れねえってえのは辛かったぜ 忠次と文蔵が旅から帰って来たのは翌年の七月だった。一緒に旅立った民五郎と浅次郎は手配されなかったので、去年のうちに戻って来ている。下総方面に逃げた富五郎たちも去年のうちに帰っている。境宿が手に入ったため、人手が足らなくなり、円蔵が呼び戻したのだった。百々村に帰ると忠次と文蔵は見知らぬ子分たちに迎えられた。
14.兄弟分の仇は討たなきゃならねえ 年が明けて、天保七年となった。境の初市が立つ七日は、市の神様である天王様の御輿が町中を練り歩く『寄市祭り』と呼ばれる祭りが賑やかに行なわれた。祭りを見るため、晴れ着に着飾った大勢の人が集まり、賭場も大盛況だった。今年も春から縁起がいいと喜んでいた二日後の昼前、泥まみれになった男が息を切らせて、百々一家に飛び込んで来た。
15.八幡様の賭場を仕切って、男を売るぜ 田部井村に新居が完成したのは四月の半ばの暑い日だった。忠次は子分たちを集め、新築祝いを行なった。その日は生憎の雨降りだったが、縄張り内の旦那衆が大勢集まって来た。近所の女衆たちも手伝ってくれ、祭りさながらの賑やかさだった。お町はニコニコしながら忠次を連れて家の中を見て回り、新しい鏡台や化粧道具、衣桁に飾られた半四郎鹿の子の小袖を嬉しそうに披露した。
16.国定忠次のお通りでえ 忠次は夜明けと共に、新川村の秀吉、境川の安五郎、太田宿の日新、鹿村の安次郎、赤堀村の相吉の五人を連れて旅立った。文蔵を捕まえた裏切り者、世良田の茂吉に対する怒りをじっと堪えて、取りあえずは信州へと向かった。日が暮れる前に大戸に着き、その夜は加部安の所に泊まる予定でいた。加部安の屋敷の前まで来て、忠次は目の前の関所を眺めた。
17.死ぬ時くれえ、てめえの名前を名乗りやがれ 忠次の今回の旅は、玉村の八幡宮の祭りに来てくれた親分衆を訪ねる旅となった。文蔵が捕まった事に腹を立て、大戸の関所を破ってしまったため、一年位では帰れないだろうと覚悟を決め、遠くまで足を伸ばすつもりでいた。信州に入った忠次はいつものように権堂村に向かった。源七親分の跡を継いで女郎屋をやっている島田屋伊伝次のもとに草鞋を脱ぎ、上州の様子を探った。
18.なんで、こそこそ帰らなけりゃならねんだ 金毘羅参りをした後、美濃に戻った忠次は上州無宿の評判が悪い事が気になり、上州無宿を名乗って忠次のもとに集まって来る者たちを子分にした。子分たちに堅気の衆に悪さをするなと命じ、評判の悪い上州無宿がいると聞けば、子分たちを引き連れて、そこに出掛けて行って懲らしめた。勿論、評判の悪い親分たちも退治した。
19.しばらく、赤城山ともおさらばだ 山開きの大博奕の後も、忠次は赤城山中を移動しながら隠れ、夜になるとお町やお鶴のもとに通っていた。また、縄張り内の村々に隠れ家を作って逃げ回っていた。五月八日、伊与久村の源太郎が木島村の助次郎に殺された。源太郎は今年の正月、忠次が盃をやった子分の中の一人だった。その後、保泉村の久次郎に預けたため、どんな奴だったか忠次には思い出せなかった。
20.おめえは間違えなく男だぜ 勘助殺しの後、すぐに手配されたのは、国定村の忠次郎、日光の円蔵、八寸村の七兵衛、保泉村の久次郎、保泉村の卯之吉、下植木村の浅次郎、茂呂村の孫蔵、茂呂村の茂八、堀口村の定吉、下田中村の沢五郎の十人だった。この中で実際に勘助殺しに加わっていたのは浅次郎と茂八の二人だけだった。忠次と円蔵は首謀者として手配され、七兵衛は勘助の家の近くに住んでいたので関係ありと見られたのかも知れないが、後の者たちは何の根拠があって手配されたのか分からなかった。





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