酔雲庵


戦国草津温泉記・湯本善太夫

(2007年改訂版)

井野酔雲


今よみがえる四百五十年前の草津温泉
時は戦国、乱世を生き抜いた男の夢と女の愛
南から小田原の北条氏康が、北から越後の上杉謙信が、西から甲斐の武田信玄が、虎視眈々と上野の国を狙って攻め込んで来た時、草津温泉の領主、湯本善太夫は三日月の兜をかぶり、あの男に賭けようと決心を固めた。

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門」の前編です。



戦国草津温泉記 湯本善太夫 キンドル版



目次



1.瓢雲庵 草津温泉は強烈な硫黄の臭いのするお湯が涌き出ている湯畑を中心に昔から湯治場として栄えていた。奈良時代に行基菩薩によって発見され、鎌倉時代に源頼朝によって再興されたと伝えられている。頼朝から湯本の姓と草津の地を与えられたのが、湯本氏の始まりである。
2.ナツメ 瑞光坊の目は遊女たちの後ろで、滝を浴びている一人の少女の裸身に釘付けになった。この辺りでは見た事もない程、綺麗な娘だった。長い黒髪を両手でかき上げながら、湯の滝を浴びている。すらっとした体はまだ幼いが、やけに眩しく、見ているだけで胸がドキドキして来るのを感じていた。
3.善太夫 四月の八日、例年のごとく草津の山開きが行なわれた。瑞光坊も善太夫の代わりとして、正装して行列に加わっていた。白根明神に参拝して、光泉寺にて山開きの儀式を行なった。薬師堂から雪景色の中、湯煙を上げている湯池を見下ろしながら、ようやく、春がやって来たと皆が実感していた。
4.雷鳴 箕輪の城下から来た武士の一行を見送って、一息ついていた頃、突然、『小野屋』の孫太郎が妹のナツメと一緒に山程の土産を持ってやって来た。三年振りに見るナツメはもう一人前の女といえた。眩し過ぎる程、美しく、その笑顔に見つめられると、初めて会った時のように胸が高鳴るのを感じていた。
5.上泉伊勢守 上泉城の城主、上泉伊勢守秀綱は管領上杉氏に属して、武将として戦で活躍しているが、それ以上に、一流の武芸者として有名だった。伊勢守は愛洲移香斎の弟子だった。しかも、ただの弟子ではなく、移香斎の後継者と言われていた。
6.表舞台 身内の者たちは皆、嫁を貰っているのに、善太夫はまだ独り身だった。縁談はあるが、乗り気ではなかった。相変わらずナツメの事が忘れられず、他の娘を嫁に貰う事など考えられなかった。『若旦那』と持て囃されて、お気に入りの遊女を抱いていた方が気が楽だった。
7.瓶尻の合戦 上野の国は越後の長尾氏、相模の北条氏、甲斐の武田氏という三大勢力に挟まれた格好となり、戦国の乱世はいよいよ本格化しようとしていた。箕輪の長野業政は、長尾景虎を新しい管領と認め、飽くまでも北条氏康と戦うつもりでいた。長野氏の指揮下にあった吾妻郡の武士たちも長野氏に従う事となり、改めて同盟を結んだ。
8.真田一徳斎 永禄三年(1560年)の草津の山開きのすぐ後、珍しい男が善太夫を訪ねて来た。湯宿の準備がまだ整っていなかったので、湯宿の屋敷の方に彼らを案内した。頭を丸めて山伏の格好をしていたが、その男は紛れもなく真田幸隆だった。
9.長尾景虎 アキの誕生を祝っていた時、上野の国中が震える程の大事件が起こった。越後の長尾景虎が大軍を率いて上野に進攻して来たのだった。越後の大軍は怒涛の勢いで、北条氏の前線だった沼田の倉内城を攻め落とし、九月の末には廐橋城(前橋市)も落として、そこに本陣を敷いた。
10.羽尾と鎌原 一月遅れの正月を地元で迎え、のんびりする間もなく、三月になるとまた、出陣命令が来た。管領が今、下野の国、佐野の唐沢山城を攻撃しているので、加勢に向かうとの事だった。善太夫は至急、兵糧を集め、戦の準備を始めた。最近、戦続きで、兵糧を集めるのも大変な事だった。
11.決意 善太夫は出陣の時、三日月の前立の付いた兜をかぶった。その兜は祖父、民部入道梅雲が戦で活躍した時、管領上杉氏より賜ったもので、有名な甲冑師、明珍信家の作であった。黄金色に輝く前立の三日月は名誉ある湯本家の家紋である。祖先が鎌倉の将軍、源頼朝より賜ったという由緒ある家紋であった。
12.岩櫃城 武田信玄は再び、上野に進攻して来た。箕輪城、蒼海城、倉賀野城と攻め、北条軍と合流して武蔵の松山城を包囲した。松山城が危ないと聞いて、上杉政虎は雪の降り積もった三国峠を越えて、十二月の初め沼田の倉内城に着陣した。この時、政虎は将軍足利義輝から『輝』の一字を賜って、上杉輝虎と改名していた。
13.氷雨 吾妻郡は古くから修験道が盛んな土地だった。斎藤氏の城のある岩櫃山も岳山も修験の山であるし、薬師岳、吾嬬山、高間山、王城山と続き、信州との国境には白根山、四阿山、浅間山と皆、修験の山である。それらの山々には大勢の山伏がいて修行に励んでいた。彼らは当然、領主である武士と関係を持ち、時には戦にも参加したし、諜報活動も行なっていた。
14.東光坊 武田信玄は箕輪城を軽く攻めてから大戸に向かった。一徳斎は大戸城にて信玄を迎えて、岩櫃城に案内した。一徳斎から紹介されて、善太夫は初めて武田信玄という男と対面した。想像していた信玄像と実際の信玄は少し違っていた。噂通りの入道頭で、百戦錬磨の武将の面をしていたが、何となく、目だけが場違いのように、慈悲深い優しい目だった。
15.月見酒 桜が満開の頃、善太夫は佐左衛門の案内で長野原城下を見回っていた。琴の音色に誘われて諏訪明神の境内に入ると、桜の花の下で琴を弾いている娘がいた。桜の花びらの散る中、琴を弾く娘の姿はこの世のものとは思えない程の美しさだった。善太夫は娘の美しさに見とれ、琴の音色に聞き惚れ、いつまでも立ち尽くしていた。 
16.岳山城 唐沢杢之助が真っ先に突っ込んで行った。門を打ち破り、敵の撃つ鉄砲の玉と矢の飛び交う中をかい潜って、城内に入ると待っていたのは早川源蔵だった。杢之助は源蔵を相手に奮闘したが、ついに討ち取られてしまった。それを見ていた善太夫は久し振りに、腹の底から闘志が込み上げて来るのを感じた。
17.箕輪城 源太左衛門を鷹留城攻撃に向かわせた一徳斎は、次の日、次男の兵部丞に箕輪城を後方から攻めさせるために榛名山を越えさせた。兵部丞率いる一隊の中に、善太夫の代わりとして参戦する三郎右衛門が家臣を引き連れて加わっていた。一徳斎と共に、岩櫃城にて箕輪に向かう兵たちを見送ると、善太夫は岳山城に入った。
18.入湯停止令 一徳斎が岩櫃城を退くにあたって、一徳斎の推薦によって、岩櫃城の城代に選ばれたのが、海野長門守と能登守の兄弟だった。二人は斎藤一岩斎の旧領を与えられて、岩櫃城に戻って来た。永禄九年(1566年)の十一月の事で、二人が岩櫃城を去ってから三年の月日が過ぎていた。
19.海野能登守 能登守は以前、一岩斎の長男、越前守が住んでいた二の丸内の屋敷に住んでいた。越前守の屋敷に手を加えて、能登守らしい風流を演出していた。それ程広くはないが、池もある庭園には奇怪な形をした岩が並べられ、新築したばかりの渋い茶室が建っていた。善太夫はその茶室に案内されて、能登守の点てたお茶を御馳走になった。
20.信玄と輝虎と万松軒 織田信長の名前が関東にまで聞こえるようになったのは、桶狭間の合戦以降である。名門である今川義元が、名もない武将に敗れた事件として桶狭間の合戦は信長の名と共に関東中に広まって行った。その時、信長の名は関東でも有名になったが、その後、信長がどうなったのかを知っている者はあまりいなかった。信玄を初めとして、関東の武士にとって、信長という男はそれ程重要な人物には見えていなかった。
21.信玄西上 駿河を手に入れて、新たに水軍を編成した信玄は、再び、北条と同盟した事によって東を固め、いよいよ上洛して織田信長を倒す決心をしていた。織田信長に不満を持っている将軍足利義昭と連絡を取り、同盟を結んでいる石山本願寺の顕如上人に加賀と越中の門徒に一揆を起こさせる事も約束させた。信長を包囲するため、越前の朝倉氏、近江の浅井氏とも手を結んだ。
22.五月雨 勝頼は信玄の死後、初めての戦を見事、勝ち戦で飾っていた。勝頼が落としたのは、美濃の明智城だった。明智城は信長方の城だった。勝頼が最初にこの城を狙ったのは信長に対する宣戦布告であった。勝頼は父の遺志を継いで、信長を倒し上洛する事を目標としていた。勝頼は初戦の勝利に満足して甲府に凱旋した。
23.長篠の合戦 長篠城の北にある医王寺山を本陣として三千の兵を置き、その手前にある大通寺山に叔父の左馬助信豊、馬場美濃守、真田兄弟らを大将として四千の兵を布陣させた。滝川を越えて、長篠城の南側には叔父の逍遙軒、義兄の穴山玄審頭、山県三郎兵衛尉らを大将として五千が布陣した。善太夫ら吾妻衆は真田兄弟と共に大通寺山に布陣していた。そこからは長篠城がよく見え、それを包囲している武田の大軍が見渡せた。








「戦国草津温泉記・湯本善太夫」の創作ノート




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