酔雲庵

侠客国定忠次一代記

井野酔雲

創作ノート




浅田晃彦著『大前田栄五郎の生涯』より





◇上州に博徒がはびこった理由

  • 気候風土が明快で強烈。夏の酷暑と雷鳴、冬の空っ風。
  • 上州人の性格は、粗野で向っ気が強いが粘りがない。率直で裏表がなく、感激性が強い。強者におもねる事が嫌いで、弱者には同情と侠気を示す。こつこつ貯蓄するよりも一獲千金を夢見る。
  • 徳川幕府が上州に大藩を置かなかった。藩領よりも旗本領や天領が広く、一国が一つの藩風に染められる事なく自由であり放埒であった。封建制度の中にあっても他国人ほど権威主義の掣中を受けなかった。むしろ反骨 を呼ぶ気風があった。
  • 経済的に見ると上州に早くから貨幣経済が発達した事が博徒の発生を促した。養蚕が盛んとなって、繭、生糸、絹織物の現金収入が増大した。この産業は女性の労働力に依存する所が多く、亭主が怠け者になり、博奕に手 を出す結果となった。
  • 交通上、防衛上の要地であった事も貨幣経済の発達を助けた。上州には中山道、例弊使街道、三国街道が通過しており、関所の数が全国一多い。宿場には旅籠、茶店、飲食店が設けられ、日銭が落ちた。
  • 宿駅に置かれた伝馬宿が博徒の発生源だった。幕命によって馬何頭、人足何人と常備して置かなければならないが、宿場人足に対する法定の賃金が極めて安いために、浮浪者やならず者しか雇えなかった。そういう連中が人足宿に起居し、仕事のない時は博奕を打っていた。その賭場に一般人も出入りするようになり、賭博が蔓延して行った。
  • 賭博が街道周辺の農村に流れ込むと、まず手を出したのは小銭を持った百姓たちで、次第に中農以上の旦那たちに広がった。初めは手慰みだったが、だんだんと勝負が荒くなり、常習的にやる者が出た。それが博徒である。だから、賭博は農村の生活苦によって流行したのではなく、ある程度ゆとりのある階層でなければ賭ける銭がない。
  • 幕府は勿論、賭博を厳禁した。遊民が増えれば生産が減り、年貢収入に影響するからだった。賭博のために田畑や家屋敷を失い、村から逃散する者が出た。これは農村の崩壊につながり、武士の生活危機につながる。常習者は遠島に処した。遠島は本来無期刑で、特別な恩赦でもない限り帰れなかった。それ故、賭場を開くには厳重な警戒が必要だった。立番という見張りを要所に出して置き、その警報によって逃げ散った。音が外部に漏れず、逃げやすい構造を持った建物が賭場に利用された。
  • 博徒たちが仲間同士で取ったり取られたりしていたのではつまらない。堅気の旦那衆に加わってもらって、その金を巻き上げるのでなければならない。むしろ、勝負は旦那衆だけに争わせ、自分らは警戒や運営の方に回り、カスリを取るのがよい。こうして博徒が職業化するようになった。賭場の収入を多くするには、客に安全な事を信用させ、たとえ手入れを受けても客には絶対、縄をかけさせない事が必要である。
  • 博徒たちは自衛のために徒党を組み、親分、兄弟分、子分の血縁的な関係で結束した。親分たちはそれぞれ賭場を開く権利を持つ地域を持ち、これを縄張りと称した。縄張りは一種の領国のようなもので、これを犯せば首を切られても文句が言えない事になっていた。文化、文政の頃には全国的に境界線が引かれていたようである。親分が死ねば縄張りは跡目に相続されるが、大名と違って跡目は子分のうちに実力者が継ぐ事が多い。
  • 縄張りは広いばかりがよいのではなく、有力な寺社、つまり将軍家や大名家の尊崇する寺社を含んでいる事に価値がある。その祭日や縁日には賭博が黙認された。そのアガリが寄進されて修繕費の助けとなった。テラ銭の呼称はここから出た。
  • 上州が天領、旗本領、藩領とモザイクのように細分されていた事も博徒に好都合だった。他領に逃げ込んだ犯人は逮捕できない法則なので潜伏逃亡に便利だった。そこで八州回り(関東取締出役)という、どこへでも踏み込める権限を持った巡察官を設けたが、行き先は前以て通知し、現地で道案内を立てるというやり方だから、あまり効果はなかった。道案内にはその土地の博徒が無報酬で使われた。これを『二足の草鞋』という。道案内を何年か務めると目明かしに採用する。これがまた無給だった。目明かしには犯罪容疑者を逮捕する権限がある。それを利用して役得を貪った。受持区域を巡回すれば袖の下が貰える。料理屋、旅館、分限者などは何か騒ぎが起きた時に来てもらうために包み金を握らせた。また、目明かしは領主から巡業の芝居、相撲、見世物などの興行権を与えられていた。これは大きな特権で、一興行当てれば一年間生活できる位の収入になった。
  • 旗本は各地に散在する知行地から年貢を徴収するのに、家来を派遣するのでは費用が掛かるから、その地の名主を代官にして委任するのが実情だった。その代官に博徒を任命する事が多かった。徴税の実績が上がるからである。領主としてはきちんと上納してくれる代官がいい訳で、その過程でどんな搾取が行われているかは問わなかった。
  • 金を使って苗字帯刀を許される者が増え、武家の二、三男を婿に取る家が増えた。学問や遊芸なども武士の専有物ではなくなった。上州には馬庭念流、法神流などの田舎道場が多く、武士以上の腕を持つ者が増え、何かというと刀を振り回す気風となった。
  • 江戸時代は一般庶民でも道中をする時には脇差を持つ事が認められていた。脇差は1尺8寸以内の小刀を言うのだが、博徒はそれ以上長い太刀に等しいものを柄や鞘を派手に飾って差した。上州長脇差はその代表である。
  • 栄五郎の父、久五郎(17521801は草相撲で滝登と名乗り大関で、剣術も馬庭念流を学び相当な腕だった。次男の身軽さと腕自慢でやくざの世界に入り、田中代八(−1784の身内となって賭場口を3ケ所もらい、貸元になった。代八は上州博徒の始祖というべき男で、群馬郡の旧駒寄村大久保に住んでいた。その系統は後に大久保一家として強大な勢力を張った。代八の傘下に入った久五郎の縄張りは大前田を中心に苗ケ島、月田、女淵、大胡、鼻毛石を結ぶ範囲だった。三夜沢の赤城神社も含まれ、社務所内に四方を壁で囲んだ密室があり、常賭場となっていた。神社かせさらに登った湯の沢はかなりの湯治客があり、客相手の博奕が催された。苗ケ島の金剛寺は田島家の菩提寺で、ここも賭場に利用された。月田の近戸神社(月田明神)の大祭はこの界隈では有名な賭場だった。この盆割り(場所の割り当て)の権利を得れば大親分である。久五郎はまだそこまではいってなかった。後に栄五郎が久宮の丈八を斬ったのは、その権利を争っての事と思われる。
  • 久五郎の妻きよ(17641821は大胡の高橋家から嫁入りした。大胡は当時《町》と称されていた。大間々街道と日光裏街道の分岐点に位置し、赤城神社と三夜沢鉱泉の登り口でもあり、かなり繁盛していた。高橋家は荒砥川の大橋の西の袂に伊勢屋という居酒屋(芸者置屋)を営んでおり、酌婦を置いていた。田舎町だが、大胡には明治初年まで置屋が3軒、女郎屋が3、4軒あったという。
  • 久五郎が死んだ時、母きよ(−1821)は38歳、要吉(1786186716歳、栄五郎(17931874は9歳、なを(17971859は5歳だった。要吉は幼時の疱瘡のため盲目だったが父の跡を継ぎ、貸元を続けた。盲目であっても要吉は体力気力に勝れ、勘が鋭く、計算に明るく、賭場の仕切りに遺漏がなかった。また、旅人の面倒をよく見るので『大前田の盲親分』として遠国まで評判だった。要吉の勢力範囲は勢多郡南部、佐波郡西部、前橋市東部にまたがる広大な地域であり、白井、津久田、川越などの飛び地もある。
  • 三夜沢の赤城神社は江戸時代東宮と西宮に分かれていた。
  • 要吉も栄五郎も農家としての田島家を継ぐ意志がないので、妹なをに婿を取って継がせた。婿は苗ケ島の長岡喜兵衛の伜万蔵(17991833)である。信太郎となかの二人の子を儲ける。なかは初め大前田の阿久沢家へ嫁いだ後、大胡の祖父きよの実家伊勢屋高橋松次郎に再婚する。栄五郎が晩年、大胡に定住するようになると、その世話をしてやり、死を看取る。
  • 大前田の1里程東の中村に角田常八豊房(17821851という浅山一伝流の使い手がいた。栄五郎はそこへ通って修行を積んだ。浅山一伝流は実戦的な総合武術で、剣術の他、体術、柔術、槍、鎖鎌、棒術もあった。角田家は代々名主を務め、常八は後に関八州取締出役になる。栄五郎は逃亡生活中、時々、常八の家に匿ってもらっていた。
  • 栄五郎の背丈は6尺以上あった。
  • 栄五郎の子分、月田の栄次郎(1793−)は丈八を斬った後、甲州に逃げる。後に玉村の角万佐重郎に自首し、目明かしとなって犯罪捜索に協力する事を条件に罪を許してもらった。前橋の福田屋という旅館の養子となり、関東一の大目明かしとなった。
  • 栄五郎の子分、武井の和太郎(1793−)は丈八を斬った後、日光へ逃げ、寿司屋の亭主となり身をくらませていたが、土地のやくざと喧嘩し、本名を名乗ったため捕まり牢死する。
  • 博徒が橋を自分の持ち場として毎朝掃除したのは、日頃、橋の下で博奕を開いたから。
  • 観音寺久左衛門は本名松宮久左衛門といい、文化文政の頃、越後第一の大親分だった。久左衛門から盃を貰った者が全国に一万人はあったという。十手捕縄を預かっており、仲間から嫌われるはずだが、久左衛門は人情に厚く、罪人でも匿うので評判がよかった。国定忠次大前田栄五郎も兇状旅で久左衛門や新潟の池上徳右衛門の処に身を隠していたという。出雲崎尼瀬伊勢町海側に居を構え、大勢の子分を擁して威を張ったが、文政 年間、捕らえられて獄死した。跡目を継いだのは子の勇次郎(−1873)。勇次郎は佐渡を脱島した栄五郎を助け、50両の金を貸し与えた。
  • 玉村宿の宿屋角万の主人佐重郎(17941857は関東取締出役中山誠一郎の目明かしとなり、若き日の栄五郎の兄弟分であった。
  • 久宮の丈八(17821817は新田郡笠懸野の久宮村の貸夜具蒲団の店を出していた。村では分限者であり、東上州で最も勢力のある親分だった。関東取締出役の道案内。
  • 丈八を斬った栄五郎は美濃に行き、上州無宿駆け出しの勝五郎と名乗り、五六(五六輪中、穂積町)の敬次郎のもとに世話になる。敬次郎は二百人からの子分を持っていた。
  • 無宿というのは単なる住所不定の意味ではなく、出身地の宗門人別帳から外されている無籍者の事である。不行跡のため勘当を受けた者が多い。江戸時代の刑法は連座制であるから、犯罪人ばかりでなく、親兄弟、五人組まで処罰された。その危険を避けるため親族の縁を切っておく。代官や領主に願い出てその手続きを取り、人別帳に赤紙を貼ってもらう。そうすれば法的に無関係となった。これを札付きという。
  • 美濃3人衆と呼ばれた合渡(こうど、岐阜市)の政右衛門(政五郎)関の遠藤小左衛門大垣の水野弥太郎(1805 −66は大親分だった。
  • 1820年頃、合渡の政五郎と揚羽の蝶六の喧嘩があり、栄五郎は助っ人のため美濃に行く。蝶六が政五郎の縄張りに食い込んで来たのが原因だったが、美濃の神田の豊吉尾張犬山の犬屋金十郎尾張の久六の仲裁で手打ちとなる。
  • 1824年、栄五郎は江戸で捕縛され入牢、牢内で観音寺久左衛門と再会し、その死を看取った後、佐渡へ送られる。1825年8月、島を抜ける。
  • 無宿狩りは将軍の日光社参などの前には大々的に行われ、その時には伝馬町の牢は満員になった。
  • 武士階級の中からも浪人者という遊民が生じていた。浪人は農村に行って用心棒になったり、道場を開いて農家の若者たちに無用の剣術を教えたりした。
  • 保下田の久六はもと八尾ケ嶽という角力崩れで、名古屋の南部知多半島辺りを縄張りとした大親分。藩から十手を預かっていた。
  • 博徒の喧嘩は多くは相手の油断を衝いての奇襲攻撃で絶対有利の人数を揃えて殴り込む。一家同士が果たし状を突き付けて堂々と正面切って闘争する場合は極めて少ない。そういう場合でも相手と顔があったら、すぐに斬り合いが始まるわけではない。百メートルも離れて睨み合い、違いに罵って気勢を上げ、そういう状態が2時間も3時間も続く。喚声を上げたり鉄砲を放ったりして威嚇する事もある。威勢に圧倒された方が逃げてしまう。また役人が来れば双方とも逃げた。双方の闘志が高揚して突撃乱闘となる場合も、とことん殺し合う事はない。抜刀して双方がぶつかるが、向こう側に駆け抜けるだけ。両軍の位置が入れ替わるだけで戦闘は終わりとなる。互いに二度三度と斬り合う事はない。あっという間に済んでしまう。駆け抜ける間に幾人か負傷者が出る。その数によって勝敗が判定される。或いは互いに勝ったと思って引き上げた。一宿一飯の恩義で助っ人に出た者は先頭を切って突撃しなければならない。先頭を切るのは怖いが、必ずしも相手の先頭と斬り結ぶ必要はない。駆け違ってまっしぐらに向こう側の安全地帯に達すればよかった。
  • 喧嘩の助っ人は親分から5両から10両の草鞋銭を渡された。役目が済めばそのままずらかってよかった。
  • 手打ちの座敷は上座に立会人が並び、下座に仲裁人が並ぶ。喧嘩の両者は左右に分かれて並び、中央を屏風で仕切って顔が見えないようにしておく。式が始まると屏風を取り、盃を回す。盃は右から左へ、左から右へ、二回立会人を通して回し、最後に仲裁人が納める。そこで仲裁人が和解状を読み、シャンシャンと手を打って和解が成立する。肴と箸は水に流して一切を忘れた事にする。この費用は仲裁人が立て替え、後で両者が払う。
  • 文政10年2月、関東全域に『御取締筋御改革』45ケ条が交付された。従来、農村での犯人検挙は極めて少なかった。犯人の留置や江戸への護送の費用が村の負担になるので、犯人がいても捕らえず、隣村へ追い出すだけで済ませていた。隣村は他領というように支配関係が細分されていたので、犯人の潜伏逃走には好都合だった。そこで幕府は支配とは無関係に組合村を組織させ、大組合は4050ケ村、小組合は3〜6ケ村とし、中心の村に寄場を設け、その村の名主を寄場役人とし、各村名主の中から大惣代を選んで、関八州取締出役に直結 させた。要するに犯罪処理の責任と費用を組合村の大きな組織で行わせた。
  • 文政12年には全国的に若者組、若衆組、娘仲間など青年男女の団体の解散を命じる。
  • 佐渡金山の大工の給料は一日152文(1819年)で他の仕事よりずっと高い、米一升が45文。
  • 佐渡金山の労働は一昼夜交代、労働日には一日1升2合4勺、休養日には5合8勺の米と味噌35匁が支給された。一年に一日の休日があった。水替人足は3年で死ぬと言われていた。
  • 秋山要蔵(1772−  )‥‥‥武蔵国箱田に生まれ、江戸へ出て神道無念流を修めた剣客。川越、高崎、伊勢崎などに道場を設け、門弟二千人と言われた。侠客仲間に親しまれ、赤尾の林蔵大前田栄五郎は弟子だったという。
  • 文政9年(1826)、人を殺して逃げて来た国定村の忠次郎が河越にいた栄五郎を頼って来た。河越には兄要吉の子分、木村七蔵がいた。河越は寺社が多く門前町が発達しており、博徒の巣のような町であった。栄五郎は一年程、忠次郎をそばに置いたらしいが、子分にはせず、百々村の親分紋次のもとへ添え状を付けて預ける。
  • 百々村の紋次(1800−)は本名を宮崎紋次郎といい、利根郡大沼村の名主藤八の総領に生まれる。後閑村の櫛淵虚冲軒(17471819の道場で神道一心流の剣術を学び、16歳の時、佐波郡伊与久村の縁戚宮崎有成の家に入って儒学を学ぶ。ところが繁華な境町に近い事から、やくざ仲間に加わり、島村の伊三郎(1790−)の子分になった。また、大前田栄五郎とも接触があった。
  • 忠次郎1830年、紋次より駒札を譲られる。忠次郎が三ツ木の文蔵と共謀して、よそ者である紋次郎を締め出した形らしい。紋次郎は郷里へ帰って一家を構え、大前田の傘下に入る。
  • 栄五郎は文政から天保にかけて数年は名古屋にいた。
  • 栄五郎は関東、東海、甲州一帯に224ケ所の渡世場を持っていた。そのテラ銭を集めるために子分3人が年中回り歩いていた。
  • 旅人は3日間は黙って泊まれるが、続けて置いてもらう時は改めて挨拶をする。2日間は何もしなくていいが、3日目からは掃除などを手伝う。貫録によって客分扱いになれば、そういう事はしない。飯は丼に山盛り2杯が作法で、出された物は食い残してはならない。魚を出されれば骨は紙に包んで懐に入れ、皿を綺麗にして返す。寝る時は蒲団一枚を借り、柏葉にくるまって寝る。壁の方を背にして甲掛は着けたまま、片手はいつでも使えるようにして寝る。手拭1本を土産にして(後で上紙を取り替えて返してくれる)、2分位の草鞋銭が貰える。駕籠に乗って来ても、その家の前まで乗り付けてはならない。夕方燈火を点ける頃になって一宿一飯を頼んでも受け付けて貰えないので、その場合は旅籠に泊まる。翌朝、挨拶に行き、無断で旅籠に泊まった事を詫びなければならない。先方で自宅はむさ苦しいからと、旅籠へ案内して泊まってもらう事があるが、その場合、食事の前後と寝る前に挨拶に行く事になっている。
  • 栄五郎42歳の時から、脇差をやめて木刀を差し始めた。浅草の土産物屋で買った1尺3寸の物で柄の部分に蓮華の金象眼、鞘の部分に『古池や蛙飛び込む水の音』と書いた短冊の絵、その下に青蛙の象眼が飾りとなっている。そして、水色の下げ緒がついている。
  • 久宮一家は丈八の死後、甥豊吉が跡目を継ぎ、福田屋栄次郎の仲介により、1834年、石山観音(赤堀村下触)の境内で栄五郎と和解の手打ち式が行われる。
  • 江戸屋虎五郎(18141895.10.22‥‥‥栄五郎の一の子分。幼名七五郎、武蔵国新座郡岡村(朝霞市)に生まれる。幼時に両親と別れ、藤久保の叔父真兵衛に養われる。体格が勝れ、目玉の大きいのが特徴。18歳の時、藤久保の獅子ケ嶽重五郎(−1864.10の子分になる。重五郎は河越藩松平候の抱え力士だった。1834年、栄五郎と遠州浜松の半兵衛の家で出会う。当時、伊勢崎の栗ケ浜半兵衛が国越えして浜松にいた。都鳥源八を殺し、館林の香具師栗原弥七の厄介になり、見込まれて代貸になる。25歳の11月、館林連雀町の江戸屋岡安兵右衛門に見込まれ、娘ちかの婿となって跡を継ぐ。館林藩主秋元但馬守の家老小林庄之助に認められ、十手捕縄を預かる。全盛時代は関東はもとより、東海、甲州、信州にまで侠名を馳せた。伊豆の大場の久八、甲州の武居の吃安、尾張の保下田の久六らと交遊があった。
  • 上州江戸屋兵右衛門(−1856‥‥‥邑楽郡全域と野州足利まで縄張りを持つ大親分。
  • 上州伊勢崎の栗ケ浜半兵衛‥‥‥栄五郎の兄弟分。1834年頃、人を斬って浜松に移る。
  • 遠州都田の源八(−1839‥‥‥遠江引佐郡都田村の博徒の親分で、縄張りは藤枝の長楽寺清兵衛と遠江を二分していた。秋葉山の高市を縄張りに持つ。都鳥と言う名は後から付けられたもの。伜の吉兵衛(182860)が跡目を継ぐ。源八の弟に常吉(−1863)と梅吉(−1862)がいる。
  • 由井ケ浜の大熊五郎‥‥‥栄次郎の兄弟分。
  • 野州佐野の京屋元蔵‥‥‥江戸屋に婿入り前の虎五郎を助けた剛腹な親分。栄五郎の兄弟分で関東取締出役の道案内。
  • 豆州大場の久六(181492‥‥‥栄五郎の弟分。田方郡間宮村、本名は森久治郎。品川台場築造の人足取締として功績があった。
  • 尾州保下田の久六(−1855.6.1‥‥‥亀崎近くの乙川畷で清水の次郎長に斬られる。栄五郎、虎五郎は仇討ちを掛けるが、安東文吉(180871の調停により、石塔料150両で和解が成立。
  • 甲州武居の吃安(181262.9.6‥‥‥1850年八丈島に流され、1851年新島に移され、1858年新島を脱島し、1860年逮捕される。
  • 津向の文吉(181083‥‥‥1849年八丈島に流され、明治の大赦まで在島。
  • 武州高萩の万次郎(180664‥‥‥虎五郎の兄弟分。鶴屋、本名清水万八郎。
  • 信州三日町の又太郎‥‥‥千曲川の馬市を采配する親分。
  • 大前田には兄要吉がいたため、栄五郎は一年の大半を旅の空で過ごした。
  • 春3月の甲州大野山、秋7月の上総加納山と共に冬12月の千曲川馬市が諸国から多数の親分衆を集めた。
  • 田島草雲(1815−)‥‥‥足利藩の足軽の子。通称恒太郎、梅渓。金井烏洲について絵を学び、二十歳の時、脱藩して出府し、加藤梅翁に入門、後に谷文晁に師事る。江戸で画家として生活していたが、うだつは上がらず、喧嘩梅渓とあだ名されていた。梁川星厳と交わり勤王思想を吹き込まれた。46歳、号を草雲と改め、翌年、足利藩の家老川上広樹に請われて藩に復帰し、政務に参与する。
  • 天保13年(1842)7月278日、笹川繁蔵(181044が催す上総須賀山村諏訪神社の花会に大前田栄五郎国定忠次(181050、仙台から鈴木忠吉伸夫の常吉、江戸の新門辰五郎(180075清水の次郎長(182092も集まった。
  • 飯岡助五郎(1792−)‥‥‥相撲上がりの親分。1840年、相撲会所から『近国近在相撲世話人』を委嘱される。二足の草鞋。
  • 白金屋銀次郎(−1846.1.8‥‥‥伊勢崎平田天王前に住む八州付きの目明かし。郡奉行(伊勢崎藩)山岡甚太夫の後援を得て、栄五郎の勢力を潰し、自分を売り出そうとして、栄五郎を捕らえるが、京屋元蔵に殺される。伊勢崎に平田天王社はなく、白金屋銀次郎という目明かしがいた事実も不明。
  • 上州白銀屋文之助(17901863‥‥‥本名関口文之助。前橋の大親分。
  • 栄五郎は旅に出る時、旅人姿ではなく、白地の着物に紋付羽織、白足袋草鞋という俳諧師のような装束で一人か二人の子分を連れて歩いた。
  • 上州五町田の嘉四郎(18141900‥‥‥吾妻郡東村五町田、本名村上嘉四郎。沢渡、草津街道を縄張りとし、栄五郎の四天王の一人とも言われる。二足の草鞋を履く。
  • 毎年12月に総社町に松市が立つが、ここの神主八太夫が博徒の交際をしないで賭場を開き、カスリを取っていた。大久保村の忠五郎(田代代八の子分か)がこれを怒って子分13人で切り込んだ。八太夫は抜け穴から逃げてしまい、そこに来ていた伊勢崎の重兵衛の左腕を子分が誤って切り落とした。重兵衛は栄五郎の子分なので、忠五郎は嘉四郎に調停を頼んだ。嘉四郎は承諾して妹の亭主から15両借り、行こうとしている所へ、大胡の団兵衛村山玉五郎(共に栄五郎の子分)が来て、草津に遊びに行こうと誘った。それに応じて草津で二日間芸者遊びをしてから大前田へ出掛けると道で栄五郎と行き会い、この件は任せてくれと了解を得た。総社町の駿河屋の二階で八太夫を戒め、重兵衛と大久保身内と和解させる。
  • 1852年、栄五郎は大胡に腰を落ち着ける。大橋の東二百メートルの三本辻の西の角。大間々街道から日光裏街道が分かれる所。向屋敷という。その家から大橋にかけての道に沿って子分たちの長屋が並んでいた。向う隣に田島屋という菓子屋があり名物『おりめ団子』を売っている女が住んでいて、栄五郎の妾になった。
  • 羽織は貸元になるまで着られず、差立貸元になって初めて白足袋が許された。羽織は許されても襦袢を重ねる事は江戸屋虎五郎以外は認められなかった。
  • 大胡の団兵衛(181061)‥‥‥栄五郎の子分。1861年、三宅島に流されるが上陸後、すぐ死ぬ。
  • 渋川の庄太郎(182564)‥‥‥栄五郎の子分。1856年、新島に流罪。島で病死。
  • 伊勢崎の玉五郎(1826−)‥‥‥栄五郎の子分。1856年、新島に流罪、67年赦免。
  • 大間々の宇吉(1821−)‥‥‥大間々の八十郎の子分。1856年、三宅島に流罪。島にて仲間を裏切り殺される。
  • 大前田の幸松(182166)‥‥‥栄五郎の子分。1865年、新島に流罪。1866年島抜けに失敗し死す。
  • 三原の金五郎(182566)‥‥‥幸松の弟分。1865年、新島に流罪。1866年島抜けに失敗し死す。
  • 大前田の鶴亀(つるき)屋八百蔵(17931874)‥‥‥栄五郎の勘定方。米穀商。
  • 栄五郎は酒が飲めない体質だった。清水の次郎長も飲めなかった。
  • 駒札の駒は1208枚が一組。
  • 1867年、兄要吉の死後、栄五郎は大前田一家の組織を強化する。
  • 後見役‥‥‥伊豆の大場の清八、江戸屋虎五郎、田島陽吉。
  • 四天王‥‥‥相模の久六、乱国こと吉田藤吉、


  • 縄張りの分譲は次の通り。
  •  1.勢多郡荒砥村木瀬村及び佐波郡の一部を駒形町の高橋米八。
  •  2.大胡町を中心として宮城村の大崎末蔵。
  •  3.利根郡沼田町を中心として川場の与五郎。
  •  4.仁手村及び芝根を中心として下田文次郎。
  •  5.上陽村及び宮郷村を田島幸作。
  •  6.木瀬村下川淵上川淵の大半及び上陽村の東部を駒形町の新井梅吉。
  •  7.北橘横野敷島村及び富士見村の半部を生方長八。
  •  8.南橘北部と富士見村半部を鈴木辰五郎。
  •  9.前橋東南部及び上川淵の一部を□□□□□。
  •  10.芳賀南橘の一部、前橋の東北部を五代の玉五郎。
  •  11.桂萱の半部、前橋の東部を吉田藤吉。
  •  12.桂萱の東部、大胡町堀越の一部を町田忠造。
  •  13.前橋の西部を関口清吉。
  •  14.伊勢崎町を山田万蔵。
  •  15.利根郡川田村、勢多郡敷島村、群馬郡白郷井村及び長尾村を白井の後藤善吉。
  •  16.利根郡久呂保村糸之瀬村赤城根村を糸之瀬の加藤多助。
  •  17.邑楽郡館林町板倉町多々良村中野村長柄村高島村を館林の江戸屋虎五郎。





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