古典篇
臨書倶楽部発足!!古典の解説も記してますので参考にしてください

蘭亭序について

王羲之が永和9年(353)の3月3日、蘭亭(今の浙江省紹興市にあった別荘の名前)に文人達を集めて流水曲水の宴を開いた。その時に詠まれた参加者の詩の冒頭に、王羲之が鼠鬚筆(鼠の鬚で作った筆)を以て、宴の様子を後々まで伝えようと書いた草稿。王羲之はこれを書いたとき酔っていたと言われ、後に草稿を何回も書き直したが、草稿以上の文字が書けず、それをそのまま残しておいたという。総文字数は324であるが、同じ文字はことごとく変化し王羲之自身も最高傑作であると認めたと伝えられている行書の名品。しかし、蘭亭叙の真筆は此の世にはない。唐の太宗皇帝(598-649)が王羲之の蘭亭叙をこよなく愛し、肌身離さず大切にしていたが太宗皇帝が亡くなる時、王羲之の蘭亭叙も自分と一緒に埋葬するように遺言し、一緒に埋めさせてしまった。 

 私達が現在目にすることの出きる蘭亭叙は、唐太宗皇帝が生前に、搨書人(とうしょにん)という複製の専門家を宮中に雇って書かせたものと、臣下で書に優れた者(欧陽詢、虞世南、楮遂良等)に臨書させたもの。ゆえに・・・

☆==============☆

@蘭亭八柱第一本:虞世南の臨書と伝えられるもの。蘭亭叙の終わりに「臣張金界奴上進」と書いてあることから「張金界奴本」とも称されている。これは臨書ではなく、双鉤填墨という手法によって写されたものという識者が多い。いずれにしても、王羲之の手法を最も忠実に表していると評価の高い本。

@定武本:唐太宗皇帝に命じられて石に刻したといわれる蘭亭叙の原石が、定州の定武軍庫から発見されたことから定武本と称されている。定武本は、欧陽詢の臨本を刻したと伝えられ、文字は穏やかで字の配置や行間も整然とし評価の高い拓本である。前述の獨孤僧本と同じ碑から採取されたのではないかとも思われている。定武本にも色々な種類があり、東京国立博物館にある「宋拓呉炳本定武蘭亭叙」・元の呉炳舊藏本が有名である。

@神龍半印本:蘭亭叙八柱第三本と称されている馮承素の`本を刻したものである。`本より刻本のほうが文字が自然で良いと評価する人も多い。刻本のほうが手本より良いとは信じられない思いもするが、子細に両者を比較すると微妙に違っている文字が散見される。これは刻した人の技術が素晴らしかったからではないだろうか。

@張金界奴本:虞世南の臨書と伝えられる蘭亭叙八柱第一本を刻したものである。本のほうは文字がやや不鮮明であるが、刻本は鮮明にでており、是を学ぶ人も多い。

@開皇本:蘭亭叙の中で、独自の書風を持ち魅力ある拓本でもある。本文の終わりに「開皇十八年三月廿日」とあることから開皇本といわれるようになった。尚開皇本には「開皇十三年本」もあると伝えられている。

@獨孤僧本:書法家の趙子昴が、天台の獨孤という僧から譲り受けたことから「獨孤僧本蘭亭叙」といっている。清の時代中期に火災に遭い16行70余字が残るのみであるが、最も優れた拓本との評価が高い。

   


蘭亭叙の読み(2005.10.1)と解釈

永和九年歳在癸丑暮春之初會干會稽山陰之蘭亭脩禊事也

永和九年、歳(とし)は癸丑(きちゅう)に在り、暮春(ぼしゅん)の(之)初め會稽山陰の蘭亭に會す。禊事(けいじ)を脩(しゅう)するなり。


郡賢畢至少長威集此地有崇山峻嶺茂林脩竹又有

郡賢畢(ことごと)く至り、少長威集まる。 此地、崇山峻嶺(すうさんしゅんれい)茂林脩竹(もりんしゅうちく)有り。


清流激湍暎帯左右引以為流觴曲水列坐其次

清流激(せいりゅうげき)湍ありて、左右に暎帯(えいたい)せり。引きて以(も)ちて流觴(りゅうしょう)の曲水(きょくすい)と為(な)し、其の次(かたはら)に列坐す。


雖無絲竹管絃之盛一觴一詠亦足以暢叙幽情是日也

絲竹管絃(しちくかんげん)之(の)盛(せい)無しと雖(いへど)一觴(しょう)一詠(えい)。亦(また)以ちて幽情(ゆうじょう)を暢叙(ちょうじょ)するに足る是(こ)の日也。


天朗気清恵風和暢仰観宇宙之大俯察品類之盛

天朗(あきらか)に気清(すみ)、恵風和暢(けいふうわちょう)せり。仰いでは、宇宙の(之)大を観、俯(ふ)しては品類(ひんるい)の(之)盛(さかん)なるを察(み)る。


所以遊目騁懐足以極視聴之娯信可楽也

目を遊ばしめ、懐(おも)いを騁(は)する所以(しょえん)にして、以ちて視聴(しちょう)の(之)娯(たの)しみを極むるに足る。信(まこと)に楽しむ可きなり(也)。


夫人之相興俯仰一世或取諸懐抱悟言一室之内

夫(そ)れ人の(之)相興(あいとも)に一世に俯仰(ふぎょう)するや、或は諸(これ)を懐抱(かいほう)に取りて一室の(之)内に悟言(かんげん)し、


或因寄所託放浪形骸之外

或いは寄(よ)するに、託(たく)する所に因(よ)りて、形骸之外(けいがいのそと)に放浪(ほうろう)せり。


雖趣舎萬殊静躁不同當其欣於所遇]得於己

趣舎(しゅしゃ)萬殊(ばんしゅ)にして静躁(せいそう)同じからずと雖も、其の遇(あ)う所を(於)欣(よろこ)び、]く己れに(於)得るに當りては、


怏然自足不知老之將至及其所之既倦情随事遷

怏然(おうぜん)として自ら足り、老いの(之)至らんと將(す)るを知らず。其の之(ゆ)く所、既に倦むに及びては、情事(じょうこと)に随ひて遷(うつ)り、


感慨係之矣向之所欣俛仰之闊ネ為陳迹

感慨之(これ)に係(かか)れり(矣)。向(さき)の(之)欣(よろこ)びし所は、俛仰(ふぎょう)の(之)間に、以(すで)に陳迹(ちんせき)と為る。


猶不能不以之興懐况脩短随化終期於盡

猶、之(これ)を以ちて、懐(おも)いを興(おこ)さざる能はず。况(いはむ)や、脩短(しゅうたん)、化(か)に随(したが)い、終(つい)に(於)盡くるに期するをや。


古人云死生亦大矣豈不痛哉毎攬昔人興感之由

古人も、死生亦(また)大なりと云う(矣)。豈、痛ましからず哉(や)。毎(つね)に昔人(せきじん)感を興(きょう)ずるの(之)由を攬(み)るに、


若合一契未嘗不臨文嗟悼不能喩之於懐固知一死生為虚誕

一契を合はすが若(ごと)し。嘗(かつ)て、文に臨みて嗟悼(さとう)せんずばあらず(未)。之を(於)懐(こころ)に喩(さと)す能はず。固(まこと)に死生を一にするは、虚誕(きょたん)たり。


齊彭殤為妄作後之視今亦由今之視昔

彭殤(ほうしょう)を齊(ひと)しくするは妄作(もうさく)たるを知る。後の(之)今を視(み)ること、亦由(なお)、今の(之)昔を視るがごとし。


悲夫故列叙時人録其所述雖世殊事異所以興懐其致一也 

悲しい夫(かな)。故に時の人を列叙(れつじょ)し、其の述ぶる所を録(ろく)す。世、殊に事、異なると雖(いえど)も、懐(おも)い興す所以は、其の致(むね)一也(なり)。


後之攬者亦將有感於斯文

後の(之)攬る者も、亦(また)、將(まさ)に(於)斯の文に感ずる有るらむ。

<現代語訳:芸術新聞社「墨」第99号から>

永和九年(三五三)癸努丑の歳、三月初めに、会稽山のかたわらにある「蘭亭」で筆会をひらきました。心身を清めるのが目的の催しです。大勢の知識人、それも年配者から若い人までみんな来てくれました。さて、ここは神秘的な山、峻険な嶺に囲まれているところで、生い茂った林、そして見事にのびた竹があります。

 また、激しい水しぶきをあげている渓川の景観があって、左右に映えています。その水を引いて觴を流すための「曲水」をつくり一同まわりに座りました。楽団が控えていて音楽を奏でるような華やかさこそありませんが、觴がめぐってくる間に詩を詠ずるというこの催しには、心の奥を述べあうに足だけのすばらしさがあるのです。

 この日、空は晴れわたり空気は澄み、春風がのびやかにながれていました。

我々は、宇宙の大きさを仰ぎみるとともに、地上すべてのものの生命のすばらしさを思いやりました。なぜ我々が、目の保養をはかるのか、また、心を開いてのべ合おうとするのか、そのわけは其処あるのであって、見聞の楽しみの究極といえます。本当に楽しいことです。

 そもそも人間が、同じこの世で生きるうえにおいて、ある人は心中の見識こそいちばん大切だとして、部屋の内にこもり、うちとけて、人々と相対して語り合おうとし、ある人は、言外の意こそすべての因だとして、肉体の外面を重んじ、自由に生きようとします。

 どれをとりどれを捨てるかといっても、みな違いますし、有りさまも同じではありませんが、それぞれ合致すればよろこび合いますし、わずかの間でも、自分自身に納得するところがあると、こころよく満ち足りてしまい年をとるのも忘れてしまうものです。

 自分の進んでいた道が、もはやあきてしまったようなときには、感情はことごとく変わりますし、胸のうちも左右されてしまいます。以前あれほど喜んでいたことでも、しばらくたつともはや過去の事跡となることもあります。だからこそおもしろいと、思わないわけにはいかないのです。

 まして、ものごとの長所・短所は変化するものであってやがては終わりになってしまうのはどうしようもありません。昔の人も死生こそ大きな問題だといっています。これほど痛ましいことはありません。昔の人は、いつも何に感激していたか、そのさまをみていると、割り符を合わせるようにきまっていました。

 いまだかって、文を作るとき、なげき悲しまないでできたためしはなく、それを心に言いきかせるすべはありませんでした。実際に死生は一つだなどというのはでたらめです。

 長命も短命も同じなどというのは無知そのものです。後世の人が今日をどうみるか、きっと今の人が昔をみるようなものでしょう。悲しいではありませんか。こんなわけで今日参会した方々の名を並記し、それぞれ述べたところを記録したわけです

 世の中がかわり、事物が異なったとしても、心に深く感ずるということの根拠は、たいてい一つにつながることです。後々の世にこれを手にとって見てくれる人は、きっとこの文章に何かを感じてくれるにちがいない。


卒意の書風信帖・争座位稿蘭亭
率意の書<その3>
空海の『風信帖』訣別の予兆?・・・Disparity
<平安時代の思想家・774年生835年高野山にて没>

平安初期の能書家嵯峨天皇・空海・橘逸勢三筆と竝称するが、中でも傑出しているのは、嵯峨天皇の師でもあった空海である。空海が天性の腕を磨いたのは31歳で入唐してからのこと。留学すること2年、唐の都長安で筆法や書論を勉励。空海みずからも「少年時、しばしば古人の遺跡を臨せり」と述べているように、中国の筆跡を臨摸し手習いの稽古をしたようだ。当時の書法の実情から察するに、二王(羲之・献之)のものであったと思われる。しかし、この留学にて当時興りつつあった顔真卿一派の新しい書法を学んで帰国しているのである。二王の風神を得、天衣無縫の妙あり・・・と評され本人もサゾカシ得意の作であろう・・・?(ちなみに弘法は筆を選んでいまーす・・・)

風信帖は空海が最澄に贈った尺牘(今は3通)を集め1卷としたもの、最初の尺牘の冒頭「風信」とあるところからこう称ぶ。
<帰朝後の立場の逆転・親密は亀裂の萌芽>
空海と最澄は平安初期の2大高僧で、最澄の方が8歳年嵩だが、初めは極めて密接な交流があった。空海が807年に帰朝すると最澄は、弟子を遣わし唐からの経典を借用したいと申し出たり、812年真言の伝授を請うなど繰り返し願い出をしている。この依頼に対する空海の返書のひとつがこの風信帖であるのだが、しかしその後ふたりには訣別が・・・816年、最澄の申し出拒否の手紙を最後に・・・
さて深い溝とは?(佛教用語が飛び交うような論となり難しすぎ!で、言及できないので抽象論を)
 両者が相入れない訳は、同時代の偉大な宗教家が、絶対に両立し得ない思想を抱いていた点に求められねばならないだろう。共通項がありながら、大乗仏教の真髄を何に求めるかというもっとも困難な究極の課題・・・
 空海の積極的な独創(密教思想の厳しい追求)に対し、新たな形を作り出す方向にではなく、既存の形を壊す方向性という意味で「負の独創」というような、消極的なそれと・・・この負の独創性のあり方に、日本文化の特質を見出すという背景があるためだろうか
空海が孤立して見えたりさえする・・・とまれ、ふたつの独創がぶつかり合った結果といえるのかもしれない・・・・・・

『風信帖』梗概 (812年頃)
うれしいお手紙をいただきました。風に乗り雲に乗り、天から届いたようあります。これを拝読しましたが、まさに雲や霧が晴れ、日の光が射し込むように晴れ晴れとしたものでありました。あわせて天台宗の法文まで頂戴いたし、恐れ多くまた嬉しくて手で触れることこともできぬほどでありました。
寒くなってまいりました。私め、お求めに応じて比叡山の御山に登りたいものだと思ってはおりましたが、その時間がなくてかないませんでした。今にして思うと残念で私とあなたと私の弟子・室山3人が会談して仏法について話し合い、共に仏法の教えを宣べ伝え仏の恩徳に報いたいものと存じております。
できますれば、ご足労ですが、私どもの寺の方へお出かけくださいませんでしょうか。ぜひともぜひとも。不具。空海より。
九月十一日 比叡山におられます最澄様へ



<京都護国寺>
宇宙の謎解きのヒント?
「五大(地、水、火、風、空)に韻(ひびき)あり」

率意の書<その2>顔真卿の『争座位稿』・・・剛直という人生の筆致
<中唐の政治家・景竜3年(709年)生、貞元元年(785年)伝没>

 剛直さゆえに官界生活は順調ではなく、左遷の連続であった顔真卿、その彼が腐敗しきった官吏に抗議した文稿『争座位稿』。56歳の作、官僚の会議での席次を乱した郭英ガイを弾劾する書簡の草稿である。その叩きつけるような書きぶりは、<屋漏痕><蚕頭燕尾>などの言葉でその書の特徴が語られるのだが、まさに政敵を怒鳴りつけている場面が見えるようで力の入った生々しい筆致は、書道史上初めて登場したとも言われる・・・書き手の姿が見えてしまうところが彼の新しさでもあり、醜怪さでもあるところ・・いい意味でも悪い意味でも書は人なり・・・の表現は彼から始まったのである。
 安禄山の挙兵を察知した彼が「文人としての自分は、兵器を以って戦えるものか・・・」と連日呆けてみせていたが、結局、腐りきった権力に截然と立ち向かったのは顔家のみであった。兄と慕う顔杲卿は捕らえられ、舌を抜かれ、手足を切断されても毅然としていたという。これら親族への追悼文である『祭姪稿』は彼の無念を訴えるようにちぢに乱れ、墨で消し書き直した箇所が沢山ある。『争座位稿』『祭姪稿』『祭伯稿』三稿といわれるこれらは、率意の書である故に性情がよく出ているのである。
正義・・・・は必ず負ける。。。世の常?
 既に戦う力のない唐王朝は、玄宗を蜀の国へ逃したが、近衛兵の造反によりさらに悲劇的な最期を迎え、907年唐は滅亡する。国破在山河・・・杜甫は長安をこう詠んだ。王朝の衰退と共に官吏の荒廃夥しく、その中で如何に自分の正義を表現でき得るか、強く憂国の念を抱いていた彼は、単に識者で忠節の人物ではなく、筋金入りの正義の人である。
 最期は徳宗の命を受け、反将の説得に赴きついに賊手に命を落とした。この忠烈悲壮の生涯が、書人としての地位を高く格付けしたのは否めないのも・・・アイロニカル!
    ★空海の『風信帖』はこの顔真卿の影響を明らかにみることが出来る。
次回は率意の書<その3>として『風信帖』を取り上げる予定♪

  この書きぶり如何ですか?
『争座位稿』梗概(765年)

・・・ま昼間に人の金を掠め盗るのとなんら変わりはないではありませんか。まったくどおりに合わないことです。君子は礼を以って人に対するのであってその場しのぎで対するなどということは聞いたことがありません。よくよく考えてみて下さい。軍容は仏道を修行し深く仏法を信じていると聞き及んでいます。まして洛陽を回復して逆賊を滅ぼし、天子を戴いた功績があるではないですか。これは官民共に尊敬するところであり、どうしてあなたと相違がありましょうか。その上名利には恬淡、些細なことで一喜一憂することもないあなたが、わずかばかりの地位のことでその志を乱すことがありましょうか。
そもそも年長者を尊び、宗廟では爵位を尊び朝廷では位階を尊びます。人の守るべき道、礼・幼長の序というものがあるのです。・・・・の席次は古来からこういうものでこれまで乱れたことはないのです・・・・



率意の書<その1>王羲之の『蘭亭序』・・言葉の陰影
<4世紀六朝時代の人、生没年?東晋という王朝の名門王一族の一員>
 
 羲之の行書の名品『蘭亭序』、宴後、幾度となく書き直したがこれ以上のものは書けなかったという所謂率意(忽卒)の書として有名だ。彼は、351年地方官への転出を願い出て、右軍将軍会稽内史となり中央を去った。この会稽は現在の紹興市で、彼は40歳半ばでこの地方一帯の長官となったのである。蘭亭は会稽の西南14キロほどの景勝地で、この曲水の宴は永和九年(353年)3月3日に開かれた。この宴の趣向は多くの文人墨客が、流水れに浮かんだ觴(盃)がゆき過ぎる前に詩を作るというもの、この日は42人中15人が罰盃を飲むことになったようだが、残り27人が作った38首が『蘭亭集』として一冊にまとめられた。その序文をその場で書いたのが羲之のこの『序』なのである。彼は中央の役職のチャンスを蹴っている。客観視できる眼を持つといえば良い言い方だが、彼の政治家としての弱さ、陰でもある。早くに父親を亡くしたという生い立ちもあるが、彼の書つまり手紙、文章を読むとある種の屈折(陰)がある。言葉そのものというより言葉の陰り、言葉にならない翳りが書に反映している。つまり、書はその人間の陰影・・・。政治の場面での彼のふるまいの中に、理想やビジョンを持ちながらも成し遂げられない脆弱さが生い立ちと共に書に陰影をおとしている。
この書を見てどんな感じがしますか・・・
『蘭亭序』
梗概 
 永和九年癸丑、禊のため群賢が蘭亭に集まった。流暢曲水、一杯の酒一編の詩があれば充分ではないか・・・仰げば宇宙は大、見下ろせば万物が盛んであり、思いを馳せれば視聴の娯しみを極むるに足りる。 そもそも生涯を送るに、胸中を静かにしまう者もあれば、自由奔放に振舞う者もある。人の生き方は無限に異なり静動も同じではないとはいえ、境遇が喜ばしく得意の時は誰しも自分に老いや死が迫っていることなど気づかない。やがて倦怠が訪れ感情は対象とともに移ろい、やるせない感慨が支配する。すべては束の間に過去のものとなるのに、それでもなお気持ちを動かさずにはいられない。まして、生命はついに尽きる・・・ 
 死生はひとつ,7百年生きた人生も,生まれてすぐ死んだ子どもの人生も同じ・・・そんな哲学はもとより偽りに過ぎない。後世の人が我々を見るのも、我らが晋の人々を見るのと同じこと。ここに今日集まった者たちの名を列挙しその作品を収録する。世が異なり変わっても感動の泉は同じ、きっと心を動かしてくれることだろう。


八柱第三本
(故宮博物院)

羲之の『蘭亭序』の行方・・・その謎!・・・賺蘭亭

率意の書<その1>で紹介した『蘭亭序』の真蹟本は残念ながら残っていない。ではいったいどこへ行ったのだろうか?その怪について記そう。
★=================================★
書道史上、、神品として圧倒的な位置を占めて来た『蘭亭序』だが、永和9年に即興的に出現してからこの作品の行方ほど謎に満ちたものはない。会心の作だけに王家のもとで保管され門外不出とされていたが、それを狙ったのが、唐代第二代皇帝の
太宗(李世民)であったと言われるのだ。真偽のほどはともかく賺蘭亭・・・蘭亭だまし取りの計>という書物は次のように書いてる。

太宗は王書を愛好し多くのコレクションを収蔵するに至ったが、どうしても『蘭亭序』だけが手に入らない・・・しかし、どうやら羲之7世の孫
智永の手に帰したことをつきとめた。智永亡き後は弟子の弁才が所持しているのではないかと考えられた。早速勅使を遣わし弁才を長安に迎えた。弁才と語り合う内、心証を深めるが、弁才はのらりくらりと回答を避け、確証を得るに至らない。智永より預けられた秘蔵の『蘭亭序』は、実は住持の部屋の梁をくりぬき隠されていたのだった。
そこで太宗は賺蘭亭(奪取の謀)を練り、実行者を選任した。めざすは弁才禅師の住む浙江省紹興の永欣寺。商人になりすました勅使は弁才と親しい間柄になる。そしてある日、二王
(羲之・獻之)の話に及んだ時、弁才もつい気が緩んだのか「私も真蹟の王書を所持している」と言ってしまい、梁にもどすことを怠ってしまう。弁才の不在を狙った勅使は寺を訪れまんまとこの神品を手に入れ太宗へ届ける。後日何も知らない弁才は太宗に呼び出されこの勅使と対面する・・・という話である。ではその後、真蹟本は何処へ?一説には太宗の遺言により昭陵に陪葬され、地中深く納められたという・・・・ことだったとさ(もっともこれも真偽のほどは???)

このエピソードは太宗の蘭亭への情熱と真蹟が喪失した事実を告げている。一方真蹟が失われたという事実をよそに、太宗の治政に生まれた<搨摸本><臨本>が、後代における無数の蘭亭の元になる。重摸に重摸を重ねて諸本の成立となるのであるが、これもひとえにたった1枚の真蹟の持つ圧倒的な力のなせる術だったということだろう。。。。。。

■ 蘭亭の「序」と「叙」 ■
 
文章からすれば序文として書かれたものであるから「序」とすべきである。しかし、しばしば書帖の場合「叙」の字を用いられている。これは、北宋のの蘇軾(そしょく)が祖父の諱(いみな)を「避諱(ひき)」したことに由来している。
 中国では古来から生前の本名を死後には忌み避け、口にしないという習慣があった。「諱」はもともと生前の「名」であって,死後には「忌むべき名」ということである。つまり、「蘭亭序」が「蘭亭叙」となったのは、蘇軾の祖父の諱が「序」であったことから、「序」を避けて「叙」の意に書き改めたわけである。これを「避諱改字(ひきかいじ)」というが、後人が蘇軾の「避諱改字」にならって「蘭亭序」を「蘭亭叙」としたのである。
<墨 第99号 特集「蘭亭序」より>
3月3日は川禊のお祓いの日 雛人形が他の人形と違い上に「お」を、下に「さま」をつけ慕われて呼ばれるのはお雛さまには神性があるといわれる為。このお節句はもともとは古い中国のお祓い行事のことで、上巳節といって3月の一番初めの巳の日の節句をいう。この日は国中の人が水辺に出て水の力によって心身のけがれを洗い清める、つまり川禊をして厄を流した日。既に何回か紹介した『蘭亭序』でも永和9年の3月の初めに禊をするため(脩禊事也)にみなが集まった・・・とあった。3月の上巳の日は毎年その日が変わるので文武天皇700年頃に3日と決まったのである。唐の文化が日本へ渡って来ると上巳節は神事のお祓いの形に。紙や草で「ひとがた」を作り、自分の身体をなで、厄や災いけがれをひとがたに移し、それを自分の身代わりの「かたしろ」として海や川に流した。いまでも「流し雛・雛流し」として各地に残っている。
 源氏物語にも貴族の子女がお人形ごっこを「ひいなあそび」といって遊んでいるかわいい様子が出てくるが、「ひいな」とは小さい人形のことで今でいうお人形さんごっこやおままごとのような遊びのことである。
これらも当に卒意の書!

大学教授連を曲学阿世と罵倒した吉田茂の昂然たる書状
日中戦争の発端となった日華事変前の緊迫した雰囲気が筆端に溢れている
<よみ>敬啓 昨夜は尊来謝し奉り候 今日次官と会談 瑞典(スエーデン)あて電案結構に存じ候 さてその節次官の話にては 支那の形勢容易ならず 当分の益々紛糾免るべからず・・・

夏目漱石先生の「猫の死亡通知」
葉書

<よみ>辱知 猫義久しく病気の処、療養不相。叶昨夜何時の間にか裏の物置のヘッツイの上にて逝去致し候。埋葬の義は、車屋をたのみ、箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但し主人「三四郎」執筆中につき、御会葬には及び不申候以上
九月十四日



碑類の説明

古典名(書体) 年代 作者 内容
禮器碑(隷書) 後漢
156年
魯の大臣の韓勅が孔子廟や祭器を修造したこと、またこれを行った韓勅の業績を記す。

copyright川戸翠紫