書論いくつか
第1段。。。1999.10掲載したPR文・書道村発足時のコンセプト
 芸術のジャンルの中でも書はもっとも後発の分野などといわれる。21世紀を目前に、私たちはどのような書を求めたらいいのだろうか。書は時代と共に在る。漢字、仮名の両面に熟達し、現代詩文へと高めたい・・・造形芸術として捉えたい・・・と主張はさまざまだが、自己表現の方法としての書を想うならば、古人の糟粕をなめるような臨書姿勢ではない、古典の偉大な創造性を真に識ることこそ現代の書美を求めることにつながるのではないだろうか。表現技法や形態もさながら、当に高悟帰俗を目指して作品づくりをしてゆこう。
<高悟帰俗=高く悟りて俗に帰るべしとの教えなり・・・>の出典について
     ★出典・・・服部土芳の三冊子(白冊子・赤冊子・黒冊子の三篇)の赤冊子(あかそうし)は、芭蕉の創作理念・修業の俳諧の本質的な創作法が書かれている。
    ☆内容・・・「風雅の心を高く悟り、日常卑近な世界に目を向ければ俳諧は無限に開かれる」という俳諧の作法(さくほう)である。「風雅の誠」という言葉を芭蕉の発言として弟子はよく紹介するが、もともと「風雅」は『詩経』の中にある言葉で、詩文の母胎となる美意識を指したようである。風雅は詩文の代名詞のように使われたが、芭蕉も風雅=俳諧と同義のように使っているが、俳諧の本質とでも言おうか・・芭蕉は創作者であると同時に指導者であったので、弟子達には理念よりは方法論を語っている。「高悟帰俗」は不易流行にも繋がるが、俳句(創作)の可能性は実相をよく観ることから広がるということになろう。


第2段。。。2001.春
よくあるQandA<書の可読性>について
 「この字なんて読むの?」「これ字ですか、絵ですか?」と書展会場でよく聞かれる・・・・
 文字は意志の伝達手段、第一の存在意義は効用性。従って読めなければ機能は麻痺。書体でいえば楷書は読みやすいが、書くのに時間がかかる、草書は早く書けるが知らないと読めないし読み誤りもある。そこで双方の長所を補い常用字体として使用するのが主に行書体である。<正しく早く>書ければ文字機能としてはOKだが、人間が本能的に持つ美意識の満足のためにはこれに「美しく」が加味される。書の芸術性を無視する人はいないだろうが、一方読めなければと極論する人もいる。更になぜ毛筆なのか、ペンやワープロの方が読みやすいという毛筆不要論さえある。つまり、論点は文字の≪可読性≫にあるわけだ。
 書道ではこれまで、漢字・仮名・篆刻に分かれていたが、戦後、墨象・調和体・少字数…という新分野を形成。書の場合は「美」が主役なので、整然とした美、抽象的な美…等々さまざまな美を希求するのだが、書作の契機である文字の可読性が崩れると、書道への期待は意味の伝達を超えてtableauとしての美的表現効果に重点は移る。墨象や少字数の主張はここから生まれている。書の現代性を「読める・読みやすさ」に求めず「造形」そのものに希求するところに新しい書作への飛躍が始まる。
下記の書状と葉書はそれぞれ「漢字」「漢字かな混じり=調和体」の例として掲げた。 草書体や漢文体・変体仮名を読みなれない人には読めない。可読性か??否、美か??効率だけを価値判断の基準にしがちな私たち現代人は、これを如何なる視点で見ることが出来るだろうか・・・。

大学教授連を曲学阿世と罵倒した吉田茂の昂然たる書状
日中戦争の発端となった日華事変前の緊迫した雰囲気が筆端に溢れている
<よみ>敬啓 昨夜は尊来謝し奉り候 今日次官と会談 瑞典(スエーデン)あて電案結構に存じ候 さてその節次官の話にては 支那の形勢容易ならず 当分の益々紛糾免るべからず・・・

夏目漱石先生の「猫の死亡通知」
葉書

<よみ>辱知 猫義久しく病気の処、療養不相。叶昨夜何時の間にか裏の物置のヘッツイの上にて逝去致し候。埋葬の義は、車屋をたのみ、箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但し主人「三四郎」執筆中につき、御会葬には及び不申候以上
九月十四日



第3段。。。2002.1
筆蝕>について

チョーシンルコツ?のわりには出来はヨクナイ!!いつものぼやき・・・・

我々書作する者が陥りがちなのは、構成compositionに力が入りすぎること、また一応書き終わった時点での作評の時には、つい、線質→すなわち速度・深度・角度・筆脈がどうかetcと細かいことに偏って作品を見がちとなる。また、書くという行為の前段での、素材(言葉・内容)選択びの折にも、やはり構図中心になりがちなので、<書きたい>内容と<書ける>内容が一致しないことの方が多い。勿論、書く人と素材とが、密接でありたいとは考えるものの、所謂、理想の<心の発露>やら<命の造形>とやら・・からは相当遠のいてしまうのが実情である。空間を切る黒白の造形世界を感じ取る慧眼・感性が重要なのであるなどと豪語できない。
 さて新年早々、ぼやきから入った。前回Ver2では「書の可読性」について記したが、少々、消化不良だったので今回も続編を記したい。また、「筆蝕」という熟語の中に初心に帰ることの意味を見つけたのでその点も記したい。
 前回のテーマの「読める・読めない」の問題は、仮に読めたとしても、その作品の言葉の意味が分かったのであって、「書」のその本体が分かったのではない。単に漢詩の意味、文面の意味が読めただけで、<読めた>ことと<分かる>こととは確かにまったく違うのだ。「文字が読めずとも良い書もある。書かれた詩句はとても良いのに見るに耐えない書もあるのだ」という後述の論が、「筆蝕」を根拠とする点を、その定義の中にみて欲しい。

そんな昨年の過日、自称現代唯一、孤立無援の前衛書家という石川九楊氏の文章の中に「筆蝕」という言葉を発見!バッサリ切り捨てられたので紹介しよう。
                   
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手塚治が線をひく時のこと・・・「手塚の線をなぞってゆくと、筋肉のつき方や、ある種の慣性によって描き易い方向とそうでない方向とが在る。つまり、ペンで下から上に線を書くのは難しい。どこかで無視しながら、一生懸命書いて・・・その人によって得意な線の走り方やその場所がある。服の皺が気持よさそうに描かれているとか、逆に走っている線が画きにくそうだとか・・」
 これはもはや書論=臨書論である。かつてからある、『文字の美的工夫・文字の美術・線の美・書は人なり』など足下にも及ばぬ論である。漫画の描線に作者の文体・思想が透けて見える様に書線にもそれらが見えるという構造がある。そして、書線の書きぶりを読むための模写として、書道には臨書がある。肉筆の中に所謂書の美を云々する何かが存する。書き振りを文字の造形・線質と済ます訳にはゆかない。書きぶりの発生を根っこから掴まねば・・・つまり手塚のペンの「蝕」の・・・
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というものである。上記の説明で既に、筆蝕とは何かを語っているが、ここで<蝕>という字が気になる。<触>でいいのではないか。そこでその<しょく>の定義を説明しているので伺おう。

 作者が、手にした筆記具の尖端と紙の関係に生じる(ドラマ)、その劇を<筆蝕>と名づける。その筆蝕は、2つの要素から成立する。
1.
 →書き手から筆尖に加えられる力と、対象から反発する力を筆尖から逆に感じながら書き進む時に生じる摩擦
 .筆
→通常1では、目で見やることによって絶えず微調整され制御されているからその墨蹟(蝕)を視認する。

 この1+2の概念こそ筆蝕であり、これを書き振りといってもよい。本当の意味で書を見・読むということ、筆尖が紙と接触し、離れつつ書き進まれる過程→蝕を見・読むことなのである。書とは、力の入れ方ふるまい方、抜き方であって蝕に抱え込んだ表現なのである。


 この他にも、高村光太郎の「書の深淵」の中から「書は単に文字を書き付けたものでもなく、書の意味も単に文学的意味に帰するものではない」ことを紹介して、まさに筆蝕の芸術であることを明確にしたのである。
 驚いた・・・などと感想を述べていると、書道などもうやめなさいと叱られそうである。ずっと
線質が云々、命の発露云々・・」という抽象論に終始し観念から捉えてきたので、この具体性のある書論に納得した次第である。
 古典の臨書とは深呼吸でいえば、「吸い込むこと」そして作品を書くこと
(創作)は「吐き出すこと」、吸い込む量が多くなるほど、吐き出すものも多くなるのだ・・・今年も古人の創造性に寄り添いながら歩んでゆこう♪

次回は<筆蝕>とは[言葉]にとって何なのかを記す予定
copyright川戸翠紫