2004年5月 ドイツのハイデルべルグ・ロマンチック街道・フライブルグを旅した。

実は前年の2003年10月にイタリア一国のみを集中的に旅したところ、古代都市や、中世に隆盛を極めた城塞都市の数々にすっかり魅了されてしまった。それまでスイスやオーストリアの牧草風景やアルプスの雄大な山並みにばかり心酔していたわたしには、『中世の城塞都市』というテーマを持ったイタリアの旅は、新しい旅の楽しみ方を教えてくれた旅であった。

そこで今回はドイツの『ロマンチック街道』と『古城街道』を対象にして、両方の良いところ取りを試みた。
ドイツロマンチック街道 地図
(資料提供:ドイツ観光局)

ドイツ連邦共和国 
(Federal Republic
      of Germany)

一般事情
1.人口:8,254万人(2003年)、人口密度約230人/km2(独連邦統計庁)
2.面積:35.7万km2(日本の約94%)
3.首都:ベルリン(約340万人)
4.人種:ゲルマン系を主体とするドイツ民族(在留外国人数約730万人)
5.宗教:新教約2,800万人、旧教約2,700万人(独連邦政府新聞情報庁)
日程:

1・2日目 ハイデルベルグ
    (フランス・ストラスブールから
     列車でハイデルベルグに入る)
    (ローテンブルグへ列車で移動)
3ー5日目 ローテンブルグ
    (バスと列車でフッセンへ移動)
6ー8日目 フッセン
     ノイシュバンシュタイン城

    (列車で『黒い森』地域の
     フライブルグ へ移動)
9・10日目 フライブルグ
    (列車とバスでフランス・
     コルマールへ移動)

ハイデルベルク (Heidelberg)
ネッカー川沿い、丘の上に城の廃墟、その麓に広がる旧市街と石橋。この風景を見るために、年間300万を超える旅行者がこの町を訪れています。この地には、紀元前約55万年前には、ヨーロッパ最古の人類とされる「ハイデルベルク原人」が住んでいました。またローマ時代、3世紀頃までこの地にローマ人が砦を築き、集落がありました。
1196年、ネッカー川にかかる大橋と共に、「ハイデルベルヒ」として初めで書物に登場します。この時代はすでにプファルツ領伯の領地となっていました。
1356年、黄金憲章により、プファルツ領伯は、皇帝の選出権を有する、選帝候の1人になります。また1386年に、選帝候ルプレヒト1世により、ドイツ最古の大学が創設されます。
17世紀の30年戦争時、ハイデルベルクは大きな被害を受けます。1622年にカトリック派のテリー将軍に占領され、その後貴重な写本「ビブリオテーカ・パラティーナ」が戦利品としてローマ教皇に送られてしまいます。
1688年、フランスのルイ14世が、実弟の妃の出身が「プファルツ」で有ることを元に、プファルツ領を要求します。ハイデルベルク側の拒否により、遺産相続戦争が勃発し、1693年に徹底的に破壊されてしまいます。
1742年から、選帝候カール・テオドールにより、経済復興を計ります。城の再建もはじまりますが、1764年に落雷により再建中の城は炎上してしまい、以後の工事の続行は断念されます。
1803年、バーデン大公国に編入されます。その後戦災を免れたハイデルベルクは、中世の面影を残す町として現在に至っています。
石橋と城跡・旧市街 旧市街と石橋 城跡 フリードリッヒ館 城跡から旧市街

ローテンブルク (Rothenburg ob der Tauber)
ローテンブルクの歴史は古く、960年頃にタウバー渓谷地区(デトヴァング地区)に最初の集落ができたのが始まりです。
1274年には「帝国自由都市」となります。その後1400年頃には人口が6000人を超し、帝国最大の都市の一つまで発展します。
しかし1618年に始まった30年戦争によって町は衰退し、ローテンブルクは歴史から忘れ去られます。
ところが19世紀に入ると、中世ドイツの佇まいを残すが故に観光地として広く知られるようになります。
残念なことに第二次世界大戦では空爆の犠牲となり、町の40%以上が破壊されました。その後全世界からの大がかりな寄付援助により再建復興が行われ、ローテンブルクは現在ほぼ完全な形で中世の町並みが再現されています
中世の建物 プレーライン マルクト広場 市庁舎タワーから 市庁舎

フュッセン (Füssen)
フュッセンはアルプスの麓の町です。また古代ローマ時代にイタリアのヴェニスとアウクスブルクを結んでいた街道上にフュッセンは位置していました。これらのことより、紀元前後にかけて、フュッセンはすでにローマ人の重要基地となっていました。
8世紀になると、聖マグヌスがフュッセンにおいて布教を行います(750年頃没)。現フュッセン市博物館(聖マング修道院)のところは、聖マグヌスの居所であり、聖マグヌスの死後に聖マング修道院が建てられます。
1313年に、フュッセンはアウクスブルクの司教領主の主権の町となります。15世紀になるとイタリアとの通商において町は大いに繁栄します。イタリアからの陸路の荷物をレヒ川を使って輸送するために船(筏)に積み替えるのがフュッセンの大きな役割でした。
フュッセンが大いに繁栄した15~6世紀には、この町の職人たちも大いに関係しています。すなわち楽器制作(リュートやバイオリン)で世界的に名をとどろかせました。
しかしこれらフュッセンの繁栄も、30年戦争で終結してしまいます。現在のフュッセンは隣町の著名な城「ノイシュヴァンシュタイン城」「ホーエンシュヴァンガウ城」へのアクセスの拠点として、さらにハイキングやサイクリング等も可能な観光の町として知られています。
メインストリート シュヴァンガウ 背景にアルプス 郊外の牧草地 メインストリート


ノイシュヴァンシュタイン城 (Schloß Neuschwanstein)

イシュヴァンシュタイン城は、バイエルン国王ルートヴィッヒⅡ世が、自らの夢の城として建てた白亜の城です(未完成)。
ホーエンシュヴァンガウには、アウクスブルクまでの重要な交易路が通っており、4つの城がこの街道に目を光らせていました。シュヴァンシュタイン城(現ホーエンシュヴァンガウ城)、その南西に今はありませんがフラウエンシュタイン城、そして現ノイシュヴァンシュタイン城がある岩山には、表ホーエンシュヴァンガウ城と裏ホーエンシュヴァンガウ城がありました。
この岩山を8メートルほど爆破して低くし、その場所に1869年9月5日にノイシュヴァンシュタイン城の建設が始まります。1873年に城門館が完成、1883年に本丸が完成します。1884年からは本丸4階の王の住居は入居できるようになり、ルートヴィッヒⅡ世はのべ172日、ノイシュヴァンシュタイン城に滞在します。
しかし、ルートヴィッヒⅡ世が1886年6月13日にシュタルンベルク湖で謎の死を遂げると、未完成のノイシュヴァンシュタイン城の工事はストップします。
そして王の死後間もない1886年8月1日から、ノイシュヴァンシュタイン城は一般の見学者に開放されます。



麓の景色 ホーエン
シュヴァンガウ城
ホーエン
シュヴァンガウ城遠景
白鷺城遠景 白鷺城


フライブルク (Freiburg)

フライブルクは(Freiburg)、ドイツ「黒い森」の南部のスイス国境にほど近いところにある中都市です。
11世紀にフライブルクの町は初めて文献に登場し、13世紀にはフライブルク伯爵、その後19世紀までハプスブルク家の領地として町は栄えます。
15世紀には大学と大聖堂が建てられ順調に発展していきますが、17世紀の30年戦争ではフランス国境に近かったこともありフランスに侵攻されてしまいます。さらに18世紀のバイエルン・プファルツ王位継承戦争に巻き込まれ、飢饉も重なり人口は激減してしまいます。また王女マリー・アントワネットがルイ16世との婚礼のためにフランスへ旅立つときここフライブルクを訪れています。
19世紀になるとバーデン大公爵の支配下になりますが、ここでも革命によりフライブルクは戦場と化してしまいます。第一次世界大戦時は敵の空襲にあいます。第2次世界大戦時ではフランス軍に一時占領され、フライブルクは長い歴史の中で数多くの戦火を受けてきました。このフライブルクは環境都市として世界中に知られています。

大聖堂前の広場 フライブルグ大聖堂 美しい町並み 装飾的な門 市庁舎