源平人物名鑑 
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歴史館動乱の章

平清盛たいらの きよもり

1118〜1181

浄海。六波羅入道。肥後守。安芸守。内大臣。太政大臣。従一位。

元永元年、平忠盛の嫡男として生まれる。母は祇園女御の妹で白河法皇の愛妾であったため白河法皇の落胤説もある。

清盛は、若干12歳で従五位下、左兵衛佐となったのを皮切りに、中務大輔、肥後守などを歴任し、久安4年(1148)には正四位下、安芸守となり任平3年(1153)、父・忠盛の死により36歳で家督をついだ。

その後すぐに起こった保元の乱では後白河法皇方について勝利し、播磨守に任ぜられるなど、時代は平家隆盛へと動き出した。
一方、源義朝は清盛と同じく肉親を討って勝利に貢献しながら、それほどの官位が与えられず、不満を抱いていた。
平治元年(1159)、義朝が清盛の留守を狙ってクーデターを起こすと(平治の乱)、これを打ち破り、平家の天下を絶対のものとする。
このとき、清盛は義朝の遺児たちを捕らえたが、義母・池禅尼の嘆願で頼朝を殺さず伊豆へと流し、常盤御前の美貌に魅せられ、その子・今若、乙若、牛若を助命し寺に送った。

その後の清盛は永暦元年(1160)従三位参議、 応保元年(1161)中納言、検非違使の別当、 永万元年(1165)権大納言兼兵部卿、 仁安元年(1166)正二位内大臣となり、平治の乱から8年後の仁安2年(1167)には、ついに従一位太政大臣にまで上り詰めた。

仁安3年(1168)2月、51歳の清盛は病の為、官を辞すが、清盛の栄達は平家一門を引き上げ、公卿16人、殿上人30人余、知行国は30を越え、義弟の時忠に「平家にあらずんば人にあらず」と言わしめるほどの栄華を極めた。

同仁安3年、5歳の六畳天皇が退位し、清盛の妻・時子の妹・滋子が生んだ後白河上皇の皇子が8歳で高倉天皇に即位する。
皇室の親戚となった清盛は、更に次女の徳子(のちの建礼門院)を天皇に嫁がせ、治承2年(1178)待望の皇子が誕生した。

平家の繁栄の一方で、それを快く思わない反平家勢力が、次第に動き始めていた。
それまで清盛と結んでいた後白河法皇も清盛排斥に傾き出した。
そんな中、法皇の側近の僧・俊寛らが鹿ケ谷に集まり平家打倒の陰謀を企てた。
しかし、この企みは露見し、清盛は直ちに兵を差し向け、彼らを捉えた。
陰謀の背後に後白河法皇がいることを知った清盛は、法皇を幽閉しようとするが、嫡子・重盛に諌められて思いとどまっている。

しかし、治承3年(1179)重盛が没すると、清盛は箍が外れたかのようにクーデターを敢行する。
関白基房をはじめとした40人余りの反平家派公卿を宮廷から追放し、孫の藤原基通を関白に据えた。
そして後白河法皇を鳥羽院に移し院政をやめさせ、治承4年(1180)には高倉天皇を退位させ、徳子の生んだ皇子を安徳天皇として即位させたのである。

しかし、その大き過ぎた権力欲は、敵を作り、徐々に平家衰退の兆しが見え始めていた。

同年5月、源三位頼政が以仁王を報じて挙兵する。
清盛は、これを大軍をもって沈めたが、この以仁王の挙兵に興福寺などの勢力が呼応したため、衝突を避けるため、6月、福原遷都を強行した。

しかし、腰を落ち着かせる間もなく、8月には源頼朝、9月には木曽義仲が相次いで挙兵 、清盛は追討の兵を差し向けるが、数に勝りながらも敗れ去った。
平家軍の不甲斐無さが明らかになると、これまで抑えられていた福原京への不満が噴出し、11月23日、僅か6ヶ月で福原京に別れを告げ京都に戻った。

京に戻った清盛は反対勢力の鎮圧に本腰を入れた。
その矢面に立ったのが、兼ねてより平家を挑発していた奈良・興福寺であった。
清盛は4万の兵を五男・重衡に預け興福寺を攻撃、大仏殿などを焼き払ってしまった。
これにより、平家は多くの人々の恨みをかうこととなった。

各地で反平家の気運が高まる中、養和元年(1181)、清盛は病に伏した。
周囲の者は手を尽くして治療にあたったが甲斐なく、閏2月4日、高熱のうちに、この世を去った。





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