富山弥兵衛とやまやひへえ
1843〜1868
富山四郎。
天保14年、薩摩国に生まれる。
元治元(1864)年10月ごろ、京都か大坂で新選組に入隊する。
入隊に際し、薩摩出身であることから密偵の嫌疑をかけられ、入隊を拒否されたが、伊東甲子太郎の取り持ちにより、入隊が許されたという。
同年暮れの編成では、松原忠司の七番大砲組に配属、翌慶応元(1865)年春の再編成では伍長に任命される。
慶応3(1867)年3月、伊東、三木三郎、篠原泰之進らと御陵衛士を拝命し、新選組を離脱した。
5月には、大坂で勤王か家の曲直瀬道策を殺害したとされる。
伊東謀殺後の油小路での新選組との戦闘の際は、三木、篠原、加納とともに脱出に成功し、薩摩藩邸に匿われる。
二条城から帰る近藤勇を狙撃し、富山の放った弾丸が近藤の肩に命中した。
鳥羽・伏見の戦いでは薩摩軍として戦い、背中を負傷し、京都の薩摩藩邸で療養した。
傷が癒えた閏4月1日、探索の命を受け、越後出雲崎に潜入し水戸諸生党に捕らえられる。
脱走を試みたが、追っ手に槍で滅多突きにされて絶命した。
享年26。
元治元(1864)年10月ごろ、京都か大坂で新選組に入隊する。
入隊に際し、薩摩出身であることから密偵の嫌疑をかけられ、入隊を拒否されたが、伊東甲子太郎の取り持ちにより、入隊が許されたという。
同年暮れの編成では、松原忠司の七番大砲組に配属、翌慶応元(1865)年春の再編成では伍長に任命される。
慶応3(1867)年3月、伊東、三木三郎、篠原泰之進らと御陵衛士を拝命し、新選組を離脱した。
5月には、大坂で勤王か家の曲直瀬道策を殺害したとされる。
伊東謀殺後の油小路での新選組との戦闘の際は、三木、篠原、加納とともに脱出に成功し、薩摩藩邸に匿われる。
二条城から帰る近藤勇を狙撃し、富山の放った弾丸が近藤の肩に命中した。
鳥羽・伏見の戦いでは薩摩軍として戦い、背中を負傷し、京都の薩摩藩邸で療養した。
傷が癒えた閏4月1日、探索の命を受け、越後出雲崎に潜入し水戸諸生党に捕らえられる。
脱走を試みたが、追っ手に槍で滅多突きにされて絶命した。
享年26。