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    土方歳三ひじかたとしぞう

    1835〜1869

    土方歳三義豊。内藤隼人。

    誕生〜多摩・江戸


    天保6年(1835)5月、歳三は、武州多摩郡桑田村石田(現在の日野市石田)の豊かな農家に生まれた。

    父を土方隼人義諄、母を恵津といい、兄を為二郎、喜六、大作、姉を、周、のぶといって、6人兄弟の末っ子だった。生まれたとき、父は労咳のため、すでに亡く、歳三・三歳の時には姉周、6歳の時には母が同じ病で亡くなり、23歳上の長兄の為二郎は盲目であったため、歳三は喜六夫婦に育てられた。

    幼い頃は悪ガキだった。武士になることを夢に見、庭に矢竹を植えた。

    11歳の頃、江戸の"いとう呉服店"(現上野松坂屋)の丁稚奉公に出された。しかし、歳三の性格から長続きせず、40kmの距離を10時間掛けて、夜道を歩いて日野まで帰ってしまった。その後、家の者がどういっても店には戻らなかった。

    この頃から、姉のぶの嫁ぎ先である佐藤彦五郎宅に通い始める。

    土方家では秘伝の「石田散薬」を扱っていた。毎年土用の丑の日に、この原料となる牛革宗の刈り取りを村中総出で行う。11、2歳の歳三は、子供とは思えぬ的確さで、作業を指揮したという。

    17歳のとき、江戸大伝馬町の呉服店に奉公に出る。だが、今度は店の使用人の女と関係を持ってしまい、日野へと逃げ帰った。

    18、9歳の頃には石田散薬の行商をしたが、その箱には剣術道具がくくりつけられていた。この数年前には佐藤彦五郎が自宅に剣術道場を開き天然理心流・近藤周助に入門しており、歳三も剣術稽古に励んだ。近藤勇と出会ったのもこの頃である。

    二十歳を越した頃から、試衛館に出入りするようになり、その後天然理心流に正式に入門する。遅くに入門した歳三はついに目録止まりだった。
     また、この頃、頻繁に吉原で遊行に耽った。

    浪士組参加〜上洛〜新選組結成


    文久3年の浪士組募集は武士を目指す歳三には、またとない好機であった。

    上洛が決まると歳三は、小野路村の小島鹿之助の元へ行き、刀を借りた。また、それまで書き溜めた俳句を『豊玉発句集』として一冊にまとめた。

    京都に着くと清川八郎の策謀により、浪士組は江戸へと引き返すことになるが、試衛館一門は芹沢鴨らとともに残留し、会津藩お預かり「壬生浪士組」となった。土方は副長となる。

    芹沢暗殺には山南・沖田・原田とともに刺客となり剣を振るった。その直後『新選組』の名が与えられ、近藤体制のもと唯一の副長として隊を取り締まることとなる。

    鬼の副長


    池田屋事件に及んでは古高俊太郎を過酷な拷問により自白させ、事を未然に察知した。出動にあたって、隊は二つに分けられ、土方の隊は池田屋に遅れて到着し、土方自身は池田屋の周囲を固めた。
    この日の働きにより、土方は23両を賜る。

    その後、新選組は隊士の募集を重ね150名程の大所帯となる。この浪士たちを束ねるため、隊規が新設される。「局中法度」である。これは違反者は全て切腹という厳しいものである。実際、これにより多くの隊士が処分された。隊士の処分の決定権は近藤にあったが、不在のときは土方が代行した。組織の長である近藤が表立って隊士に命ずることも少なかったであろう。これにより「鬼の副長」としてのイメージが濃くなっていく。

    新選組分裂〜鳥羽・伏見の戦い


    絶頂期をを迎えた新選組であったが、慶応3年、御陵衛士を拝命した伊東甲子太郎ら高台寺党が離脱する。これに斎藤一を間者として潜り込ませ、近藤暗殺計画を察知する。伊東を油小路に誘い出し斬殺。その後伊東の遺体を引き取りに来た衛士の内3人を斬った。

    鳥羽・伏見の戦いでは、重傷の為参戦できない近藤に代わって新選組の指揮を執った。しかし、兵数で勝る幕府軍も最新兵器を装備する薩長軍に惨敗。江戸へと引き上げる。

    甲州〜会津


    江戸に戻った後、新選組は甲陽鎮撫隊として出陣するが、惨敗。流山に転陣後、近藤は捕縛される。土方は近藤奪還計画を立てたが、監視の厳しさに断念する。

    江戸城が開城されても尚、土方は佐幕派としての道を探り続ける。

    土方は残った新選組を率い旧幕江戸脱走軍に参加。参謀に就任している。近代戦略を取り入れ奮戦し、宇都宮城を攻略した。しかし、入城2日目に官軍が進軍。脱走軍は銃弾が残り僅か、突然の豪雨、総大将の大鳥圭介の病気と不利が重なり、やむなく脱出。この戦闘中、土方は右足の指に重傷を負った。

    負傷した土方は会津・若松城へ運ばれ療養を余儀なくされた。近藤が斬首刑に処せられたのはこの間のことである。松平容保は、その墓を建立してやった。土方はその作業をいつも見守っていたという。

    慶応4年8月23日、官軍が会津へ殺到、1か月に及ぶ籠城戦となった。歳三は前日に母成峠の戦いに敗戦。籠城に遅れた土方は、開陽丸で北上してきていた榎本武揚と共に仙台藩の青葉城に登城、列藩同盟の軍議に参加する。この席上で土方は榎本に列藩同盟軍の総督に推薦されている。これに土方は

    「元より、死を覚悟の上ですので、各藩のご依頼は辞しませんが、三軍を指揮するには、軍令を厳としなければなりません。命令に背くものは斬らねばなりません。全将兵の生殺与奪の権を与えてくださるなら、お受けいたします。」


    ときっぱり答えた。しかし、封建的考えの強い奥羽諸藩には、理解されなかった。これらの意識の相違により、土方は列藩同盟を離れた。

    函館


    土方は、元からの隊士25名に桑名・唐津・備中松山藩の兵と伝習隊士を加え120人となった新選組と共に、榎本艦隊で蝦夷地へと向かった。

    役2500名の脱走軍は函館城に無血入城した。新選組は市中見回り役に当たった。

    12月25日、蝦夷地平定を完了し、蝦夷共和国政府を樹立した脱走軍は、選挙によって幹部を選んだ。
    土方は大鳥圭介に次ぐ陸軍No.2の陸軍奉行並に選出された。大鳥はエリートではあったが実戦経験に乏しく、土方に人望が集まった。
    京都時代は短気な鬼の副長として知られた土方であるが、この頃は人が変わったように温厚な人柄となっていたという。

    これに対して明治政府は脱走軍追討令を発布。明治2年4月までに1万2000の大兵力を青森に集結させた。ニ股口の守備を任された土方は、130人の兵で5、600にんの敵軍を撃退した。
    その後も、兵を増強した新政府軍を激闘の末、敗走させている。
    二股口の守りは鉄壁を誇ったが、他が崩され、止む無く撤退した。

    共和国政府の閣僚たちは、軍資金不足のため、市中の豪商から徴発しようということになったが、土方だけは異を唱え、結局中止された。

    5月11日、新政府軍は函館総攻撃を開始する。

    新選組は弁天台場の守備についていたが、函館市中はたちまち制圧され、台場は孤立してしまう。

    五稜郭城内にいた土方は、新選組を救うため、わずか80人を従え騎馬で出陣。
    元より死を覚悟しての出陣である

    函館の町のはずれに設置された一本木関門を越えたところで両軍は激突。
    土方は「退くものは斬る。」と兵を奮い立たせた。

    刀を抜き、懸命に指揮する土方を一発の銃弾が貫いた。
    転がり落ちた土方はそのまま息を引き取った。

    付き添っていた安富才助とと沢忠介が抱き起こしたが、返事はなかった。

    土方の遺体は安富らにより五稜郭に運ばれ、埋葬された。


    享年35歳。  
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