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    原田左之助はらださのすけ

    1840〜1868?

    原田左之助忠一。佐之助。

    伊予松山藩の中間・原田長次の長男として生れる。

    15、6歳の頃、松前藩の江戸中屋敷で小使として働いていた。
    美男子で、物凄く短気な性格であったという。

    国許にいたある日、ある武士と口喧嘩になり
    「腹を切る作法もしらねぇ下司野郎!」
    と罵られた。それにカッとなった左之助は、
    「じゃぁ、見せてやる!」
    と裸になり刀を抜き、腹を一文字に切った。
    傷は浅く、命には別状はなかったが、以来、腹に一文字の傷が残った。
    原田はこれをよく人に見せて、啖呵をきったという。
    また、紋を「丸に一ツ引き」に変えてしまった。

    その後、出奔し江戸に出て、試衛館の食客となり、浪士組に参加、上洛する。

    種田流鎗術を収めた原田は、試衛館組八人のなかで、唯一の槍の使い手であった。
    原田自身は種田宝蔵院流を名乗っていたが、この流派の存在は疑わしく、原田が勝手に名乗っていただけらしい。
    槍の師匠は谷三十郎であったという。

    禁門の変に参加し、芹沢派粛清の際には山南敬助とともに平山五郎を殺害した。
    また、長州藩の間者であった楠小十郎殺害も原田の手によるものらしい。

    池田屋事件では土方隊に属し、池田屋惣兵衛が逃がした長州藩士を槍で仕留めた。
    この功で17両の褒賞金を賜った。

    元治元年(1864)8月頃には、近藤勇増長に不満を抱き、永倉新八、斎藤一らと共に会津藩に上書を提出している。

    伊東甲子太郎入隊後の編成では十番隊組長に就任、その後も七番隊までのときは七番隊と、常に殿軍の組長を務めた。

    高台寺党伊東の証言により坂本竜馬暗殺の容疑者として名が広まったが、これは冤罪らしい。

    伊東暗殺後の油小路での高台寺党との戦いでは、試衛館以来の同士である藤堂平助を逃がそうとしたが、事情を知らぬ隊士の手により、藤堂は斬殺されてしまう。
    また両手に刀を持ち、鬼人のごとく戦う服部武雄に槍で対峙し、激戦の末、槍で突き刺した。

    新選組の幹部のなかで唯一、在京中に正妻(おまさ)を娶り、一男(茂)をもうけた。
    かなりの愛妻家であったという。

    鳥羽・伏見、甲州勝沼と転戦し、その後、近藤、土方との意見の対立により新撰組から離脱し江戸に逃げた。
    永倉主宰の靖共隊に参加し会津に向けて進軍した。
    しかし、途中で隊を離脱し、江戸に戻ってしまう。
    その後は彰義隊に参加し、上野で官軍と戦った。
    慶応4年5月17日、討死。享年29歳。



    死ついては、上野で重傷を負い、本所猿江長の旗本・神保山城守邸に運ばれ数日後没したと言う説。
    また、彰義隊には参加せず満州に逃れ、馬賊となって暴れたという話まである。



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