谷三十郎たにさんじゅうろう
18??〜1866
藤原供国。
備中松山藩剣術指範・谷三治郎の長男に生まれる。
父より武術を習い腕を磨いた。
安政3年10月、お家断絶となり、三十郎は弟の万太郎、昌武(後の近藤周平)と共に出奔し大坂・南堀江町で武術の道場を開く。
三十郎が種田流槍術の師範で原田左之助を教えたともいわれるが、万太郎の方が槍の腕は上で、三十郎は神明流剣術を指南役であったという伝もある。
新選組に入隊したのは文久3年頃であるという。
池田屋事件では土方隊から分かれた井上源三郎の隊に属し奮戦、褒賞金17両を賜っている。
元治元年の再編制では七番隊組長、そして槍術師範に任命されている。
また、慶応元年9月に土方歳三が作成した第二次「行軍録」では藤堂平助と共に大銃頭となっている。
弟・万太郎と共に大坂で不逞浪士の取り締まりに当たった。
元治2年1月、ぜんざい屋石蔵屋事件では万太郎他配下を率い切り込み、尊攘激派による大坂焼き討ち計画を未然に防いだ。
慶応2(1866)年4月1日、祇園八坂神社の石段の下で遺体が発見された。
斎藤一による暗殺とも言われているが、真相は明らかではない。
父より武術を習い腕を磨いた。
安政3年10月、お家断絶となり、三十郎は弟の万太郎、昌武(後の近藤周平)と共に出奔し大坂・南堀江町で武術の道場を開く。
三十郎が種田流槍術の師範で原田左之助を教えたともいわれるが、万太郎の方が槍の腕は上で、三十郎は神明流剣術を指南役であったという伝もある。
新選組に入隊したのは文久3年頃であるという。
池田屋事件では土方隊から分かれた井上源三郎の隊に属し奮戦、褒賞金17両を賜っている。
元治元年の再編制では七番隊組長、そして槍術師範に任命されている。
また、慶応元年9月に土方歳三が作成した第二次「行軍録」では藤堂平助と共に大銃頭となっている。
弟・万太郎と共に大坂で不逞浪士の取り締まりに当たった。
元治2年1月、ぜんざい屋石蔵屋事件では万太郎他配下を率い切り込み、尊攘激派による大坂焼き討ち計画を未然に防いだ。
慶応2(1866)年4月1日、祇園八坂神社の石段の下で遺体が発見された。
斎藤一による暗殺とも言われているが、真相は明らかではない。