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    近藤勇こんどういさみ

    1834〜1868

    勝五郎。近藤勇昌宣。島崎勝太。島崎勇。東洲。大久保大和。

    生誕〜多摩・江戸


    武蔵国多摩郡上石原村の農家・宮川久次郎の三男として生れる。幼名を勝五郎という。

    軍談好きの久次郎の影響を受け、関羽や加藤清正に憧れて育つ。

    また剣術好きも父から受け継いだ。久次郎は自宅に道場を建て天然理心流の近藤周助を招いて、剣術指導を受けた。勝五郎は嘉永元(1848)年、16歳の時に正式に修行を始め、翌年には目録を授けられた。子のなかった周助に才能を買われた勝五郎は、養子となり、天然理心流四代目を継ぐこととなる。

    若いころの勇は、いつしか酒色を覚えると、元来一途な性格が災いし、八王子の遊郭に入り浸ることもあったという。

    万延元(1860)年、つねと結婚する。この前に美人ばかり5,6人と見合いしたが、気に入らず、あまり器量の良くないつねを選んだ。近藤には「醜女は貞淑。貞淑な女性を妻にしたい。」という持論があった。

    浪士組参加〜新選組黎明期


    文久3(1863)、浪士組募集に応じ、上洛の途へ。勇は道中先番宿割という役職が与えられた。

    京都に到着すると、浪士組の黒幕であった清川八郎の陰謀が露見する。浪士組を倒幕の運動のために利用しようとのだ。そのため、浪士組は江戸へと帰されることになる。

    近藤は芹沢鴨らと共にこれに異を唱え、京都に残留した。京都守護職・松平容保のお預かりとなった近藤らは壬生浪士組を結成し京都の警護にあたった。近藤は芹沢、新見錦と共に局長となった。

    しかし、芹沢一派は暴挙が目立ち、近藤・土方らにより粛清される。これは、会津藩による指示であったとも云われている。

    池田屋以降


    池田屋では、愛刀虎徹を手に自ら先頭に立って戦った。

    池田屋での活躍により、その名がが世に広まり、新選組は最盛期を迎える。それと同時に勇の立場も重くなり、現場で剣を振るうこともなくなる。主な仕事が政治向きな事となっていく。

    慶応3年、新選組は正式に幕府直参となる。

    四候会議でに同席した際「親藩たる以上、幕府に非があろうと、これを庇護するべきである。」と松平春嶽を批判した。

    同年12月18日、高台寺党残党に狙撃され肩を負傷する。この傷のため翌年の鳥羽・伏見の戦いには参加できなかった。
    鳥羽・伏見の戦いに敗れた幕軍は賊軍の汚名を着せられ江戸へと撤退する。新選組も幕艦にのり江戸へ向かった。

    甲陽鎮撫隊〜最期


    3月1日、新選組は甲陽鎮撫隊として出陣する。傷の癒えていない勇も指揮を取った。甲府城はすでに新政府軍の手にあり、勝沼で戦うも一日と持たずに敗れる。下総の流山に陣を移すが、4月3日昼、新政府軍に包囲される。勇は自刃を決意したが、土方に反対され思いとどまり、正体を隠して投降する。

    だが、すぐに見破られ、4月5日、板橋の総督府に送られた。正式な裁判にかけられることもなく、切腹も許されなかった。

    4月25日、板橋の刑場で斬首された。享年35歳。

    首は板橋で3日間、京に運ばれ三条河原でも3日間晒された。

        
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