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    藤堂平助とうどうへいすけ

    1844〜1867

    南部与七郎。藤原宣虎。

    天保15年江戸で生まれる。伊勢国津藩主・藤堂和泉守高猷の落胤であるという。

    藩祖は、戦国乱世を巧みな処世術で生き抜いた戦国武将・藤堂高虎である。
    藤堂高猷(たかゆき)は、文化10(1813)年に生まれ、13歳で第11代藩主となった。
    母は駒込の花屋の娘であるというが定かではない。

    平助の佩刀は藤堂家御抱鍛冶・上総介兼重二尺四四寸二分で、一介の浪人が手にすることのできない高価なものであった。

    平助は、千葉周作道場で北辰一刀流を学び、目録を得たといわれているが、伊東甲子太郎(当時は伊東大蔵)の寄り弟子であったとも言われている。

    経緯はわからないが、その後、試衛館に出入りするようになる。

    文久3(1863)年、近藤勇らとともに浪士組上洛に参加する。

    どんなときも、真っ先に切り込むことから、「魁先生」の異名をとった。
    また、初期の浪士の中にあって珍しく、学問もあったという。

    壬生浪士組、長じて新選組の副長助勤となり、京の治安維持に当り、8月18日の政変にも出動した。

    元治元(1864)年6月、池田屋事件では、近藤、沖田総司、永倉新八ととともに、真っ先に斬り込んだ。
    戦闘中、あまりの暑さに鉢金をはずしたところを、押入れに隠れていた敵に切りかかられ、眉間を割られる重傷を負い、目に血が入り戦闘不能なところを永倉新八に助成されて命を拾った。
    そして、祇園の会所に退却し、壬生への引き上げの際は、釣り台に乗せて運ばれた。
    このときの活躍を認められ20両の褒賞金を賜った。

    同年10月、近藤の江戸下向に先立ち江戸に下り、伊東甲子太郎ら入隊を仲介する。
    伊東らは近藤とともに上洛したが、平助は別行動をとり、翌慶応元(1865)年5月頃帰京する。

    京に戻ると、敬愛する山南敬助が既に自刃していた。
    平助は、自分の留守中の異常な出来事に、近藤・土方に対して不信感を抱かずにはいられなかった。

    その年の再編成で、平助は八番隊組長に就任した。
    同時に、伊東は参謀の地位に着いた。
    文武両道、眉目秀麗な伊東は、隊内で人気を集めていった。

    しかし、佐幕色の強くなっていく近藤・土方に対して、伊東は勤王家であった。

    慶応3(1867)年3月、伊東は同士とともに御陵衛士を拝命、新撰組を離脱する。
    その中に藤堂平助も含まれていた。

    伊東、藤堂らは東山高台寺の頭塔月真院を本拠とし、高台寺党と呼ばれた。

    しかし、彼らの行動は密偵として送り込まれていた斎藤一により、近藤に報告されていた。

    坂本竜馬・中岡慎太郎が暗殺された11月15日、平助は伊東に連れられ2人に面会している。

    11月18日、伊東は、近藤の妾宅に呼ばれ酔った帰り道、油小路に待ち伏せる新選組に襲われ、大石鍬次郎に討たれてしまう。

    平助は、三木三郎、篠原泰之進らと伊東の遺体を引き取りに油小路に向かった。
    そこで新選組と戦闘になった。

    試衛館以来の同士である原田らは、近藤から含まれ、平助を逃がそうとした。

    しかし、事情を知らない平隊士に斬り付けられ、全身に傷を負い絶命した。
    享年24。


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