幕末維新人物名鑑
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    西郷隆盛さいごうたかもり

    1828〜1877

    幼名:小吉。西郷吉之助。吉兵衛。隆永。菊池源吾。大島三右衛門。号:南州。

    西郷隆盛


    文政10年12月7日、薩摩藩鹿児島下加治屋町で藩の御小姓組・西郷吉兵衛の長男として生まれる。
    母はマサという。

    吉之助の下に弟3人妹3人がおり、祖父母を加えた11人での貧乏暮らしであった。

    恵まれた体格で新陰流、体捨流の剣を学んだが、喧嘩で右ひじを負傷し断念した。
    その後は学問に励んだ。薩摩の郷中教育の二才頭(にせがしら)となり、大久保利通、篠原国幹らの後輩を指導した。

    16歳のとき、郡方書役助に出仕し藩の農政に従事する。
    嘉永2年(1849)『お由羅騒動』が起き、西郷家と関係の深かった赤山靱負が父・吉兵衛の介錯により切腹。衝撃を受けた西郷は藩政改革を決意した。

    長い騒動が収まり、島津斉彬が薩摩藩主となった。
    安政元年、提出した藩政への意見書が斉彬の目に留まり、斉彬の江戸出府に随行、庭方役に抜擢され、斉彬との関係を密にした。西郷は斉彬を尊敬し多くを学んだ。
    この間、藤田東湖や橋本左内ら諸藩の志士とも交流を持った。
    政治に目覚めた西郷は水戸藩との折衝、斉彬の養女の将軍家輿入れに奔走、一橋派の運動を影から支えた。
    一橋派が敗れ、家茂が14代将軍となった直後、斉彬の訃報が届いた。

    西郷は井伊直弼による一橋派の弾圧から逃れ、薩摩へ戻った。
    斉彬を亡くしたことによる西郷の絶望は大きかった。
    そこに勤皇僧・月照が京を逃れ西郷を頼ってくるが、藩から受け入れられなかった。
    西郷は月照と共に錦江湾に身を投げた。しかし、西郷だけが助かった。

    藩は幕府からの追求を恐れ、西郷を奄美大島へ隠棲させた。
    3年に及ぶ隠棲生活で島の女性愛加那との間に一男一女をもうけた。

    文久元年末、島津久光の重用を受けていた大久保利通らの働きかけで召還され藩政に復帰する。

    しかし、先代・斉彬を尊敬する西郷は、久光を見下し反発した。
    久光の幕政改革に猛反対し、尊攘激派の動きを知り、下関への待機命令を無視し、京都へ向かった。
    命令を無視された久光は、文久2(1862)年、西郷を徳之島、さらには沖永良部島への流罪とした。
    寺田屋事件で誠忠組の同士が殺害されたのは、西郷流罪の直後であった。
    西郷は約2年の囚人生活を送った。

    元治元(1864)年2月、時勢が慌しくなってきたのを受けて再度召還された。
    京都に向かい、軍賦役として禁門の変で長州藩を撃退する。
    長州征伐の正当性を主張し、総督を勤める尾張藩主・徳川慶勝の信頼を得て参謀の地位に着いた。
    西郷の働きにより、不戦のまま長州の恭順を得ることに成功した。

    同年9月、西郷は勝海舟と初めて会見する。
    そこで、幕府の腐敗ぶりと、幕府に変わって雄藩連合による共和政体の構想を聞いた。
    西郷は衝撃を受け、国内で争うことの無意を悟り、富国強兵策を藩論とした。

    慶応2(1866)年には、坂本龍馬、中岡慎太郎の周旋で木戸孝允(桂小五郎)と会見し、薩長同盟を締結、大久保とともに武力倒幕を目指し、朝廷より倒幕の密勅を得る。
    < しかし、徳川慶喜が大政奉還を決断、肩透かしを食った。

    慶応3年12月9日、王政復古が成ったが、幕府の勢力を一掃するために武力倒幕にこだわった西郷は、相楽総三や益満休之助を使い江戸市中に騒乱を起こした。
    旧幕府は、この挑発に乗り江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにし、武力行使の口実を与えた。

    鳥羽伏見の戦いは錦の御旗を掲げ辛勝する。
    西郷は東征大都督府参謀として江戸に行軍。勝海舟との会談で江戸城無血開城を成し遂げる。

    函館戦争を終え、鹿児島へ帰って療養するが、戊辰戦争で名声を得た西郷が捨て置かれる筈もなく、明治3(1870)年、勅使となった岩倉具視と大久保の来訪を受け、翌年上京、新政府の参議に就任する。

    最大の難題であった廃藩置県を断行し、岩倉使節団の欧米周遊に際しては、留守政府を預かり国政を運営する。
    大久保から留守中の大改革は控えるよう言われていたが、学制の発布、徴兵制の布告など、ここぞとばかりに改革を推し進めた。
    使節団帰国後、留守政府内で主論となっていた「征韓論」に大久保、岩倉らが反発、西郷は「侵略者」と批判を受ける。

    この軋轢から西郷は参議辞職を願い出、明治6(1873)年、鹿児島へと帰郷した。

    帰郷した西郷の下には彼を慕う士族たちが集まってきた。
    翌年西郷は私学校設立、人材の育成に努めた。
    新政府はそんな西郷の動きを注視していた。

    その折、私学校の生徒が火薬庫から弾薬を持ち出し新政府と衝突した。
    日当山温泉で療養中にこの報に触れ愕然とした。

    結局、中村半次郎、篠原国幹ら弟子達の暴発を抑えることが出来ず兵を挙げ、3万の兵で九州を転戦した。(西南戦争)

    田原坂の戦いに破れた西郷は、数百名の兵と共に鹿児島城山に籠った。
    包囲する官軍6万に総攻撃され、西郷自らも突撃を敢行する。
    大腿部と腹部に銃弾を受けた西郷は、傍らの別府晋介に
    「晋どん、もうここらでよか…」
    と告げ介錯を頼み、自刃して果てた。

    明治9年9月24日、享年51歳であった。

     
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