幕末維新人物名鑑
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    桂小五郎かつらこごろう

    1833〜1877

    木戸孝允。寛治。準一郎。新堀松輔。松菊。竿鈴。

    桂小五郎 木戸孝允 長州藩医・和田昌景の長男として江戸屋横丁に生まれる。
    8歳のとき、近隣の長州藩士・桂九郎兵衛の養子となり家督を継ぐ。

    小五郎はひ弱で目立たない子供だったという。

    17歳のときに藩校明倫館へ入学した。その師範となっていた吉田松陰と出会い、入門し兵学を学ぶ。ちなみに、小五郎は松下村塾の塾生ではない。
    また、柳生新陰流の剣を学ぶ。

    20歳の時には、江戸へ出て神道無念流の斎藤弥九郎に入門し、21歳で免許皆伝を取得、練兵館の塾頭になる。
    傑出した剣の才能を現したのだが、生涯、その剣が血に染まることはなかったという。

    翌年のペリー来航の際には、長州藩相川警備として三浦に出動した。
    そこで諸外国に対する、幕府の対応を目の当りにし、失望した小五郎は西洋砲術、造船術、蘭学なども学び、来るべき動乱の時代に備えた。

    安政五年、その行動が次第に過激さを増し国許に幽閉されていた松陰が老中・間部詮勝暗殺を計画していることを知る。高杉晋作らと共に、引きとめようとした小五郎は、松陰の怒りを買ってしまう。
    結局、松陰は安政の大獄で処刑されてしまう。

    同年6月、小五郎は江戸藩邸大検使に昇進。江戸で多くの志士たちと交流しながら、長州藩の尊攘派のリーダーへと成長していった。

    藩政において次第に重きを成した桂は、長井雅楽が唱える航海遠略策を批判し、重臣・周布政之助を説き藩論を倒幕攘夷へ転向させる。

    長州藩は京において中央政界を牛耳る存在となっていたが、文久3年「八月十八日の政変」で京都から追放されてしまう。

    翌年、小五郎は再上洛し潜伏しつつも藩の失地回復に勤めた。

    6月5日、古高捕縛の報を受けた小五郎は、一旦池田屋へ行ったが、まだ同志が集まっていなかった。小五郎はひとまず近くの対馬藩邸へ行った。
    新選組が池田屋を襲撃したのは、この間の出来事である。
    小五郎は運良く難を逃れた。

    池田屋騒動は、八月十八日の政変以来、挙兵を訴えていた長州藩の急進派を刺激する結果となり、禁門の変における武力上洛を引き起こす。
    しかし、包囲している間に薩摩・土佐・会津らの軍が集結、1日で撃退されてしまった。
    小五郎は、会津藩兵に捕らえられたが、隙を見て脱走、その後も新選組の追撃を間一髪で振り切り、「逃げの小五郎」の異名を得る。

    小五郎はその後も京に潜伏し情報収集に努めるが、同志からの依頼で 帰郷する。
    高杉らのクーデターにより、長州藩が武力倒幕への挙党体制となるなか、坂本龍馬・中岡慎太郎から薩長講和を斡旋される。

    小五郎は西郷隆盛との会談のため下関へ入った。しかし、20日余り経っても西郷は現れず、口実を作って京に向かってしまった。当然、小五郎は激怒した。

    龍馬は、武器調達に苦しむ長州藩ののために、薩摩藩名義で武器を購入するという案を出し、小五郎の面目を保った。
    翌慶応2年、小五郎は再度交渉のため京の薩摩藩邸に入る。しかし、双方、藩の面目に拘り10日以上を無為に過ごし帰国しようとした。
    そこに龍馬が現れ、引き止められ、薩摩側からの提案という形で、ようやく交渉が始まり、1月21日、薩長同盟は成立した。

    翌年の第二次征長戦にて幕府軍を退け、大政奉還を経ての後、長州藩の復権に成功する。
    薩長主導による武力倒幕を成し遂げ、新政府を樹立する。

    新政府では総裁局顧問、外国事務係、参与となり、「五箇条の御誓文」の起草に参画し、 大久保らとともに版籍奉還の実現に尽力する。
    明治4年(1871)、西郷とともに参議となると、政府要職を薩長の人材で独占、廃藩置県を断行する。

    同年9月、岩倉使節団の副使として欧米に歴訪、近代国家の基礎を身につける。

    帰国すると西郷首班の留守政府は征韓論一色であった。
    もともと自身が唱えた征韓論に猛反対、西郷と対立する。
    結局、大久保らの工作により征韓論は消滅し、西郷は職を辞し鹿児島へ帰国する。

    大久保による独裁体制の政局に不満を抱き、次第に政府中枢から遠ざかっていく。
    長年の心労で鬱状態になっていたようである。

    明治10年5月26日、西南戦争の最中、病没。
    享年45歳。

    死の床で、「西郷、大概にせんか!」と叫んだという。

     
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