松平容保まつだいらかたもり
1836〜1893
幼名:銅之允。通称:若狭守。肥後守。号:祐堂。芳山。
弘化3(1846)年4月、会津23万石の藩主・松平容敬の養子となる。
当時4歳の容敬の娘との婚姻が決められていたが、嘉永5(1852)年春容敬の急死により、若干18歳で家督を継いだ。
桜田門外の変の後には、水戸藩と幕府の調停役を務め、その人物を世に知らしめた。
京都での天誅の横行に警戒心を強めた幕府は、文久2(1862)年、京都守護職の設置を決めた。
幕府の権威が失墜して行く中で京都の治安に責任を負うということは、火中の栗を拾いに行くようなものであった。
そんな重責を担える人物として容保に白羽の矢が立った。
家老の西郷頼母はじめ家臣は猛反対し、容保自身も再三固辞したが、将軍後見職・一橋慶喜と政治総裁職・松平春嶽に押し切られ、就任を決意した。
その裏には、「将軍に尽くすを藩の使命とし、徳川宗家と盛衰存亡を共にすべし」という藩祖・保科正之の遺訓があり、
また、我が子のように可愛がってくれた、亡き大老・井伊直弼への思いから生まれた強い幕府への忠誠心があった。
同年12月、千名の兵を率いて上洛した容保は、黒谷の金戒光明寺を本陣とし、京都守護職の任務に当たった。
容保は初め、武力に頼らず尊攘激派を押さえようとした。
しかし、そのような生ぬるい方法で納まる輩ではなかった。
文久3(1863)年2月、足利将軍三代の木像の首が三条大橋に晒されるという事件が起こると、容保は、これまでの甘さを悟り、厳しい対応に転換した。
京都に残留を願い出た浪士24名が、会津藩お預かりとなったのは、その矢先の3月10日のことであった。
「新選組」は会津藩の由来のある隊名で、武芸に秀でた藩士の子弟から構成される隊の名称であった。
八月十八日の政変後、武家伝送より賜ったとされるが、京都奉行所の記録には「肥後守殿ヨリ仰付ラレ候条」とあり、容保によって送られた可能性もある。
薩摩藩と連携し尊攘派の追い落としに成功、禁門の変でも長州を撃退する。
容保は、持ち前の生真面目さを持って、京都の治安維持に努め、朝廷の信頼も厚かった。
なかでも孝明天皇からの信頼は絶大で、「汝の忠節を喜ぶ」という宸翰(しんかん・天皇の手紙)や御製(天皇の和歌)、純緋の衣を賜るほどであった。
これには容保も感激し、全力で忠節を尽くした。
一橋慶喜、桑名藩主で実弟の京都所司代・松平定敬とともに一会桑政権の一約を担い、長州征伐を強行に主張した。
しかし、正義感に燃え、徳川将軍家と天皇に忠節を尽くしてきた容保と会津藩に待っていたのは過酷な運命であった。
慶応2(1866)年7月、将軍家茂が急逝、第二次征長が中止となった。
12月には公武合体派で容保に目を掛けてくれていた孝明天皇が崩御する(毒殺されたといわれている)。
さらには、手を結んでいた薩摩藩が手のひらを返した様に薩長同盟を結び、第15代将軍の座についていた徳川慶喜は大政奉還で政権を放棄した。
挙句の果て、王政復古に際しては朝廷にまで敵扱いされる始末であった。
容保は、大政奉還で守護職が廃止され大坂へと退いた。
鳥羽伏見の戦で錦旗を掲げられ敗北すると、慶喜は、無理矢理容保を引き連れ、江戸へ逃げ帰った。
容保は会津に帰郷し謹慎したが、新政府は容保に逆賊の烙印を押し、征伐令を発した。
東北・北陸の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して、新政府軍に対しようとしるが、圧倒的な力の前に、次々と恭順、会津藩は孤立無援の状態となる。
東北諸藩の連盟で救済の嘆願書が提出されたが、相手にされず、会津戦争へとなだれ込んだ。
白虎隊の悲劇が生まれたのもこの戦中。
壮絶な籠城戦の末、容保は降伏を決断、慶応4(1868)年9月22日、鶴ヶ城を明け渡した。
容保は鳥取藩お預けとなり、謹慎生活を送った。
明治3(1870)年家名再興が許され、容保の世子・容大が陸奥国斗南藩三万石を与えられた。
明治5(1872)年、謹慎を解かれた容保は、日光東照宮の宮司となり、歌道に没頭し晩年を過ごした。
明治13年、病のため死去。享年59歳。
