幕末維新人物名鑑
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    岩倉具視いわくらともみ

    1825〜1883

    岩倉友山。岩倉周丸。対岳。

    文政8年9月15日、前権中納言・堀河康親の次男として生まれる。
    幼少の頃より知恵物で通り、その才を買われて、14歳の時、岩倉具慶の養子となる。

    岩倉家は尊王志向の強い家柄であり、これが具視の思想に影響を与えたと思われる。
    また、岩倉家は村上源氏久我家の流れを組む家柄であったが、当時財政難の朝廷においても極貧といえる、禄高150石の下級公家であった。
    その為、朝廷での発言力も弱かったが、五摂家の鷹司政通に接近し、その力を背に、権力を伸ばしていった。
    鷹司政通は関白・摂政を経て辞した後は太閤と呼ばれた、公卿には珍しい男気溢れる大人物で、岩倉とも通ずるところがあったのだろう。

    安政元年(1854)、岩倉は鷹司の推薦で孝明天皇の侍従となる。

    安政5年(1858)、老中・堀田正睦が日米修好通商条約締結の勅許を求め上洛してきた。
    勅許の内容について、朝廷内の意見が統一されない中、大老・井伊直弼と連携していた関白・九条尚忠が「幕府に全て委任する。」という案を出した。
    これに反対した岩倉は、同調する公卿88人を集めて参朝し、九条家を批判する書状を提出させた。
    これによって、九条案は撤回され勅許は与えられなかった。
    結局は、幕府が勅許なしに条約の締結を強行するのだが、この事件によって、岩倉は朝廷内有数の実力者へとのし上がった。

    安政の大獄が始まると、朝廷の要人に被害が及ぶのを避けるため、公武合体論を説いて回った。
    そしてこれが、将軍・家茂と孝明天皇の妹・和宮との婚姻へと繋がる。(和宮降嫁)
    岩倉は、攘夷決行と条約破棄を条件に孝明帝の了承を得、和宮の江戸下向の列に加わった。
    岩倉としては、朝廷の復権のための目論見であったのだが、尊攘急進派の公卿や志士などからは、この婚姻は幕府に有利に働いたとして、攻撃の的となり、文久2年(1862)8月、辞官落飾を命じられ、襲撃を恐れて各地を転々とし、洛北岩倉村で、名を友山と改め蟄居生活を送ることとなった。

    不遇な蟄居生活を送る中、王政復古の実現を思い描き、訪れる西郷隆盛・大久保利通・桂小五郎・中岡慎太郎・坂本龍馬らと交流を持った。
    中でも、大久保ら薩摩藩とは連絡を密にしていた。

    その間、岩倉の意思を受けた中御門経之、大原重徳らが、佐幕派公卿の辞官と岩倉らの復帰を建言するが、かえって孝明天皇の怒りを買い、追放されてしまう。
    慶応3年(1867)正月、明治天皇が16歳で即位すると、薩摩藩の朝廷工作もあり、追放された公家達の復帰が赦される。
    岩倉自身は、すぐに復帰はならなかったが、各方面と関係修復を図り、将軍・慶喜にも大政奉還を迫るなど、王政復古派公卿の中心人物として、その地位を固めていく。
    そして、文久3年(1863)の8月18日の政変で都落ちし、大宰府にあった三条実美とも和解し、同年10月、薩長に対し討幕の密勅を下した。
    幕府は、これを事前に察知し、徳川家存続を図り、大政奉還を行った。
    12月9日、薩摩の大久保らと画策し王政復古の大号令を実現する。
    その晩の小御所会議では、慶喜を擁護する土佐の山内容堂が激しく反論したが、明治天皇の御前で「幼いの天子を利用し・・」と発言したのを逆手に取り、容堂を一喝、会議は岩倉ら討幕派の思惑通りに進行した。

    その後、新政府の参与、議定、副総裁、外務卿などの要職を歴任。三条実美と共に政権のトップへ上り詰める。

    明治4年(1871)、右大臣になると、11月、条約改定交渉の特命全権大使として、使節団を率い欧米へ向け渡航する。
    岩倉使節団は、異国の文化に戸惑いながら外交を展開していくが、元々新政府内の覇権争いで不仲だった大久保・伊藤博文と木戸孝允の亀裂などで、空中分解寸前だった。

    帰国後は、留守を任されていた西郷隆盛らにより征韓が閣議決定されていたが、これを拒否した。
    それに怒った西郷は辞表を提出し鹿児島へ帰る(明治六年の政変)。そして西南戦争へと繋がっていく。

    明治6年(1874)には赤坂喰違で土佐士族・武市熊吉らに襲撃されたが、辛うじて命を拾った。

    その後は、板垣退助らによる自由民権運動の抑圧、国憲編纂に苦慮する。

    明治十四年(1881)年、伊藤博文らと図り参議・大隈重信を政界から追放する。

    伊藤が憲法の研究のため渡独中の明治16年(1883)7月20日、胃がんをの為、病没。
    享年59。




     
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