<<イタリアの左翼>>


イタリア共産党PCI) 1921−1991年 歴史
 1921年1月21日、リヴォルノの社会党会議で21条件をめぐり敗北したアマデオ・ボルディガアオントニオ・グラムシ
アンジェロ・タスカらの新秩序グループが分裂して結成。(Partito Comunista d'Italia:PCd’lコミンテルン・イタリア支部 )
 ボルディガの棄権主義者、新秩序のグラムシ、トリアッティ、テッラチーニ、タスカ、最大限綱領派のアンドレア・マラビニ、
社会主義青年連合FGS多数派のアントニオ・グラツィアデイあるいは労働運動指導者ジュゼッペ・ディ・ヴィットリオなどが参加。。
 ボルディガ、ブルーノ・フォルティキアリウンベルト・テッラチーニルッジェロ・グリエコルイジ・レスポッシらが執行委員会構成。

 1943年、コミンテルン解散でPartito Comunista Italianoと改名。
 しかし既に1924−1925年に文書にはPartito Comunista Italianoが使用されていた。

 ファシスト体制では非合法化、第二次世界大戦後再建され、1970年代は西側最大の共産党となる。
 (170万人の党員と1976年の選挙で34.4%獲得)
 1991年解散し、左翼民主党PDSを結成し社会主義インターに加盟。
 アルマンド・コスッタに率いられるグループは共産主義再建党PRCを結成。
 1998年、PDSはいくつかの小政党と左翼民主主義者DSを結成。
 同年コスッタのグループはPRCを離れイタリア共産主義者党PdCI形成。
 青年組織は共産主義青年同盟FGCl。(FGCIは1990年解散)

 1912年、ボルディガはナポリでカール・マルクス・サークルを結成していた。
 10月革命のあとボルディガは社会党内で棄権主義(反議会主義)派グループを形成した。
 1919年、グラムシ、パルミーロ・トリアッティウンベルト・テッラチーニ、タスカらはトリノで週刊”新秩序L'Ordine Nuovo”を
発行し始めた。
 1919年ユレス・フンベルト・ドロズ(スイス人)とともにトリアッティ、トレーズがラテン系諸国のコミンテルン責任者となった。
 ボルディガは1920年の第2回会議コミンテルン会議に参加した。その考えは共産主義における左翼小児病で批判されている。

 結党してまもなくグラムシとタスカは意見の相違を生じ、タスカは右派と見なされた。
 トリアッティ、テッラチーニ、マウロ・スコッチマッロルッジェロ・グリエコらが中央派、タスカが右派、ボルディガらが左派を形成。
 PCIは1921年全国選挙に参加し4.6%、15議席を獲得した。(社会党24.7%、535中123議席)
 1923年ボルディガ派のミケランジェロ・パッパラルディはドイツで左翼共産主義者、特にカール・コルシュらと接触していた。
 フランスでドイツ左派やフランス、ベルギーにいるイタリア左派の結集に勤め、同年イタリア共産党を離党し、1926年ロドヴィコ・ロッシ
ブルーノ・ビッベ、エウジェニオ・モルッツォらと独立共産主義者グループを結成し反ファシスト急進派の結集に向かった。
 1926年、ムッソリーニ政府により党は非合法化された。
 最初の頃、左派(同意委員会ブルーノ・フォルティキアリオノラート・ダメンルイジ・レスポッシオットリノ・ペッロネ
ファウスト・グッロマリオ・ランフランキカルロ・ヴェネゴニら)はボルディガ周囲に結集。
 禁制下の最初の年にグラムシはボルディガ派をセクト主義と非難し打ち破った。リオン会議でグラムシが指導権を握ったが
(90.8%支持)間もなく逮捕され、指導権はパルミーロ・トリアッティに移った。トリアッティはスターリンに忠実であった。
 モスクワにいるトリアッティに代わって国内の指導権はタスカに移り、ソ連との関係が悪化した。
 1929年、グラムシの旧友のタスカが追放された。彼はブハーリンを支持しスターリンを批判した。タスカは1935年、社会党に戻った。
 1930年、アルフォンソ・レオネッティパオロ・ラヴァッツォリ、.ピエトロ・トレッソボルディガら左派はトロツキストとして追放された。
 1928年、ボルディガ周辺のフランスとベルギーの亡命メンバー、オットリノ・ペッロネらはイタリア共産党左派を結成した。
 ソ連在住のヴィルジリオ・ヴェルダロアルマルド・シルヴァエルシリオ・アンブロジらイタリア左派はロシア共産党左派を結成し
イタリア共産党左派と接触した。これらは1935年左翼共産主義者イタリア分派となった。
 スペイン戦争はペッロネヴェルダロ(スペイン戦争を国際帝国主義戦争の第1歩としプロレタリアートの独立主張)とマリオ・デ・レオーネ
エンリコ・ルッソ(革命への道が切り開けるとしてPOUMに参加)のグループの分裂を巻き起こし少数派は1938年左派国際局を結成した。
 スペイン戦争ではルイジ・ロンゴジュゼッペ・ディ・ヴィットリオの指揮下3000名の共産主義者が国際旅団に参加した。
 ナチの脅威の増大によりコミンテルンは1934−1935年の間に人民戦線戦術を採用した。
 これにより1934−1938年の間、共産党と社会党で統一行動協定が結ばれ、これにより両党間に会話が開いた。
 しかしこれは1939年のモロトフ・リベントロップ協定で危機に陥った。
 ドイツのフランス侵入により更に状況は悪化した。パリに逃れていた幹部にも脅威が訪れた。
 トリアッティはモスクワに逃れ、コミンテルンはPCd’lの党政治局と中央委員会を解散した。
 1940年のムッソリーニのフランスとイギリスへの宣戦布告で、新しい反ファシスト統一の条件ができ、1941年、PCd’l、PSI及び
正義と自由GLの間で協定が確認された。
 ウンベルト・マッソラは1941年ユーゴから戻り地下組織結成に取り組んだ。
 1943年、コミンテルンの解散とともに党名をPartito Comunista Italianoと改名。
 オノラート・ダメンマリオ・アックワヴィヴァブルーノ・マッフィらボルディガ派の左翼共産主義者国際主義共産党を結成。
 1943年7月ムッソリーニは辞任を余儀なくされ、幹部の獄中からの解放と亡命からの帰国で、共産党の勢力は増大した。
 北イタリアでのドイツとファシストのサロ共和国との戦闘で共産党の地位は重要になった。
 1943年から共産党の闘士はレジスタンス組織ガリバルディ旅団(司令官ルイジ・ロンゴ、他にピエトロ・セッキア
ジャン・カルロ・パイエェッタジョルジョ・アメンドラアントニオ・カリニらが参加)を山岳地帯で、愛国行動グループGAPと愛国行動分隊SAP
を都市で結成し闘い始めた。
 党はレジスタンスの間主要な役割を果たし、1944年、サレルノの転換の後、共産主義者が1944年6月から1947年5月
のレジスタンスと憲法制定期の政府に参加するためトリアッティは国王とバドリオと協力することに同意した。
 ロンゴら共産主義者パルチザンは武装蜂起も展望した革命路線を支持していたがトリアッティはサレルノの転換を行った。
 党員は1944年の50万人から1945年170万人に増大し、ヨーロッパ最大の共産党となった。
 1946年の憲法制定議会選挙は18.9%であった。(キリスト教民主党35.2%、プロレタリア統一イタリア社会党20.7%)
 新憲法への共産主義者の寄与は決定的であった。
 1948年最初の総選挙はPSI(ネンニ)、社会キリスト党労働者民主党などと人民民主戦線(下院31.0%、上院30.9%)に参加
したがキリスト教民主(下院48.5%)に敗北した。3位はイタリア労働者社会党(サラガット)と社会主義者連合(イヴァン・マテオ・ロンバルド)の
社会主義者統一が下院7.1%。
 その後の選挙で党は良好な結果を得た、ときどき中道左派政権に外部から支持を与えたが決して政権には参加しなかった。
 党は中央イタリア、特にトスカーナ、エミリア・ロマーニャ、ウンブリアで、また北イタリアの産業都市のいくつかで良い結果を得た。
 1953年の選挙では下院22.6%、上院20.6%であった。

 1948年の第6回大会でマルクス・レーニン主義正統的思想と異なる”社会主義へのイタリアの道”の考えの萌芽が表明された。
 1948年トリアッティは小リベラル政党党首アントニオ・パランテを首謀者とする襲撃により危うく一命を取り留めた。

 ピエトロ・セッキアは1948―1955年副書記となり、解放後も武器を放棄してなかった旧パルチザンよりなる準分派(準軍事組織)を
支配し、いざという時に備えていたが1948年のトリアッティ襲撃でも出番がなく準軍事組織は結局急速に消失した。
 セッキアはトリッティと必ずしも意見が合わず競争相手となっていたが盟友のジュリオ・セニガの党指導部との騒動によりナポリターノ
前に失脚した。
 ジュリオ・セニガは共産主義者パルチザンの多くが1945年4月以来共有していたいつの日かの武力革命の希望をもっていおり、
トリアッティの路線と遊離し始めやがて党指導部との騒動により離党し1956年発行の雑誌”共産主義者行動”の周辺に
ルチアーノ・ライモンディ、ブルーノ・フォルティキアリダニロ・モンタルディらの旧PCI、プロレタリア行動アナーキスト・グループGAAPの
アッリゴ・セルヴェットロレンツ・パロディピエル・カルロ・マシニ、 ボルディガ派国際主義者共産党共産主義者戦闘)、
トロツキスト(リヴィオ・マイタン革命的共産主義者グループ)、ジョルジョ・ガッリのような社会主義者を結集し1956−1965年活動。

 1956年のハンガリー革命はPCI内に分裂を起こした。
 トリアッティ、ジルジョ・ナポリターノ(2006年イタリア大統領になる)を含む指導部はハンガリー革命を反革命とみなし、機関紙
ウニタに報告された。
 しかし、著名な党員アントニオ・ジョリッティやPCIの密接な同盟者イタリア社会党の書記長ピエトロ・ネンニなどのように共産主義
労働組合CGILの指導者ジュゼッペ・ディ・ヴィットリオも指導部の考えを拒絶した。
 ナポリターノは社会民主主義方向を推進するPCI内部分派ミリオリスティ(改良主義者)の指導者となった。
 1956年の重大なできごとはPCIとPSIの統一行動が崩壊したことである。ピトロ・ネンニはキリスト教民主党と道を共にした。

 1956年の第8回大会でトリアッティにより脱スターリン主義化と労働者階級の力により進歩的民主主義体制で社会経済体制を
改革する”社会主義へのイタリアの道”(構造改革)路線へ乗り出した。

 1963年には下院25.3%、上院25.2%ととなり60年代から70年代にかけて得票率は上昇し1976年にピークを記録する。

 1960年代中に米国は党員を135万人と推定している。
 ソ連の資料によればPCIはソ連から財政支援を受け、それは第二次大戦末から1980年早期にモスクワと衝突するまで
6千ドルほど受け取っている。
 以前のKGBの活動家ヴァシリ・ミトロヒンによるとロンゴと他のPCI指導者は1967年のアテネの軍事クーデター後、イタリア
でのクーデタの可能性を警告するようになった。
 これらの懸念は完全には根拠のないものではなかった。
 イタリアでは2回クーデターの試みがあった。ネオ・ファシストと軍による1964年のピアノ・ソロと1970年のゴルペ・ボルゲーゼである。
 1967年から1973年までPCIのメンバーは東独とモスクワに軍事訓練のため秘密に送られた。

 1964年トリアッティがヤルタで死亡した。
 1966年のトリアッティ死後の最初の党会議でジョルジョ・アメンドラの右派とピエトロ・イングラオの左派が対立した。
 アメンドラはナポリターノと同盟していた。
 分裂をさけるため後継者にルイジ・ロンゴが選ばれた。
 1966年イタリア共産党(ML)が分裂。
 ロンゴは1968年のソ連のチェコスロヴァキア侵入を批判した。
 この余波でソ連に批判的なロッサーナ・ロッサンダルチアナ・カステッリナが1969年離党した。
 ロッサンダはルーチョ・マーグリと1969年、イル・マニフェストを発行した。
 1969年、副書記長のエンリコ・ベルリンゲルはモスクワの国際共産党会議に参加し、公式路線に反対し、最終報告支持を拒否した。
 モスクワで主催者の期待に反し共産主義者の指導権に挑戦する発言をした。
 彼は中国共産主義者の破門を拒絶し、ワルシャワ条約機構軍によるチェコ・スロヴァキア介入を批判した。
 1972年ベルリンゲルが書記長になった。彼はチリの教訓からキリスト教民主主義諸党との協力(歴史的妥協)に努めた。
 PCIは当時資本主義国で最大の共産党で1976年の選挙で34.4%(1972年は27.15%)獲得した。
 (上院、第2党、第1党はキリスト教民主38.7%、第3党社会党9.65%)
 しかしキリスト教民主指導者アルド・モロが1978年、ブリガーテ・ロッセ(赤色旅団)に誘拐・殺害されてそのような妥協の
希望は終えた。
 そのあと社会党とキリスト教民主を中心とする5党体制で1981年から1991年まで再び共産党は議会内反対派になった。
 社会党のベニト・クラクシは1976年書記長に選ばれてから党の右傾化と、キリスト教民主党への接近を図っていた。

 PCIとソ連の関係は徐々に崩壊し、1970年代から1980年代にソ連とマルクス・レーニン主義的正統性に服従しないようになり、
ユーロコミュニズムと社会主義インターを取り入れるようになった。

 1969年ストライキの波が襲った。(暑い秋
 鉛の年の(1970年代早期から1980年代の爆弾と銃撃の波の時代)間中、PCIは強くテロリズムとブリガーテ・ロッセに反対し、
それに対しPCIメンバーとPCIに近い労働組合員は暗殺されたり傷つけられたりしたりした。
 ミトロヒンによると党はモスクワにチェコスロヴァキア国家安全部に対しこれらグループへの支援から手を引くよう圧力をかけるように
依頼したが、モスクワはそうすることができなかったあるいは好まなかった。
 これとソ連のアフガニスタン介入により1979年モスクワと完全衝突に至った。
 1976年をピークに得票率は低下するがそれでも1987年の最後の選挙でも下院26.6%、上院28.3%であった。
 1984年ベルリンゲルの死で書記長がアレッサンドロ・ナッタに代わった。
 プロレタリア統一党が合流。(1972年結成プロレタリア統一イタリア社会党と社会主義者選択が合同、1974年イル・マニフェスト・グループ合流)
 1986年、前年の地方選挙の敗北による危機を指導部は改良主義のナポリターノの支持で党の路線を共産主義運動から
ヨーロッパ社会主義運動に位置変えした。これには党内少数派のコスッタ派が反対した。
 1988年、ナッタの病気でアキッレ・オケットに代わった。
 1989年ベルリンの壁崩壊のあと、オケットは大変化を発表した。(ボローニャの転換)
 1990年のボローニャ大会では3つの動きがあった。
 民主集中制を放棄し新党をめざすオケット派(67%の支持)、党再建をめざすイングラオ派(30%)、正統派・コスッタ派(3%)
 1991年、最後のPCL大会が開催された。ここでも3つの動きがあった。
 オケット、ダレマの左翼民主党結成派(67.5%)、バッソリーノの近代的反対と改革の党に向けた暫定派(5.8%)、イングラオ、
コスッタの新党反対・再建派(26.8%)。
 結局PCIはアキッレ・オケット率いる左翼民主党とコスッタの主導する共産主義再建党に分裂した。

 PCIの内部潮流として以下の5グループがあった。

 改良主義
  党内右派を代表、アメンドラのグループ。組織と支配は赤い生活組合運動に淵源する。
  民主的社会主義と改良主義を志向する。
  資本主義の修正をめざし、ソ連と一体化しない。イタリア社会民主党やイタリア社会党との協力をめざす。指導者はナポリターノ、
 ルチアーノ・ラーマ(CGILの元指導者)など。あるいはパオロ・ブファリーニグイド・ファンティナポレオーネ・カラジャンニ
 ニルデ・ロッティエマヌエレ・マカルソジャンカルロ・パジェッタアントネッロ・トロンバドリ、など。
  現在は大部分、民主党にいる。

 ベルリンゲル
  党内中央派、ロンゴ派、ナッタオケットアンジュスジョヴァンニ・ベルリンゲルムッシピオ・ラ・トーレフランコ・ロダーノ
 アルド・トルトレッラFGCIのピエロ・ファッシノピエトロ・フォレナダレマヴェルトローニら。
  ソ連から離れスターリン主義と社会民主主義に対する選択としてのイタリアにおける社会主義の道をとる。
  党体制の道徳化を求め、クラクシの社会党を嫌悪する。
  中央派は1989年の党会議では分裂したがそのあと多数派はPDSに合流した。
  現在はほとんどのメンバーは民主党か民主左翼にいる。一部政治活動に消極化(ナッタ、トルトレッラら)

 イングラオ
  PCIの左派運動メンバーとイタリア共産主義青年連合FGCIとCGILの急進派に根源する。
  必ずしも一定ではないがマルクス・レーニン主義の位置をとる。
  改良主義派あるいはベルリンゲル派以上にポスト68の運動に懐疑的でプロレタリア民主などと対立。
  イル・マニフェストとも関係があった。ボローニャの転換の反対派の中核。
  アルベルト・アソール・ローザアントニオ・バルダッサーレアントニオ・バッソリーノベルティノッティセルジョ・ガラヴィニ
  環境主義、フェミニズム、平和主義をとる。現在は民主党左派とPRC、SELに分かれる。

 コスッタ
  PCIの唯一の固有グループで大部分党組織におり、学生運動に無縁で、一部、親労働者派を含む。
  ソ連の支援を受け、いつでもソ連を支持。また実在の社会主義のほとんどすべてを支持。転換大会では約3%の支持。
  グイド・カッペローニジャン・マリオ・カッツァニガジュリエット・キエザオリヴィエロ・ディリベルトクラウディオ・グラッシ
 マルコ・リッツォグラッツィエラ・マシアなど。
  コスッタ派は大部分イタリア共産主義者党PdClに加わり、PRCの少数派ともなっている。

 イル・マニフェスト
  イングラオ派に根源する。
  このグループはソ連に批判的でチェコ・スロバキア介入で頂点に達し、PCIの見解に満足しなかった。
  1969年、イル・マニフェストを発行しこれによった。非党員も含む知識人中心のグループ。党員は1969年離党した。
  ロッサーナ・ロッサンダルーチョ・マーグリ(非党員)らを中心に、ルイジ・ピントールルチアナ・カステッリナ
 リディア・メナパーチェアルド・ナトリエリセオ・ミラニ、ヴァレンティノ・パルラトValentino Parlatoなど。
  1974年、プロレタリア統一党PdUPPSIUPとキリスト教グループの労働者政治運動MPLが結成)に合流し、マーグリを
 書記長として共産主義のためのPdUPを結成。
  これは長続きせず、PSIUP−MPLのグループはプロレタリア民主に合流した。
  元のマニフェスト派は社会主義労働運動MLSとなり、1984年PCIに合流。
  ボローニャ大会では多くの元PdUPは反対派にまわり、1991年再建党に参加した。
  しかし1995年PRCを離れ統一共産主義運動に加わり、マーグリとカステッリナ以外は1998年左翼民主党に合流した。
  PdUP−MLSのメンバーは現在、民主党PD民主左翼SD、イタリア社会党PS、共産主義再建党PRCなどに流れている。
  イル・マニフェストの本来のメンバーは現在は政党組織の外にいる。

独立左翼
 1953年選挙に、共産党員でない個人が共産党名簿で参加して生まれた。上院では左翼独立民主グループをトマソ・スミス、ヴィルジリオ・ナジ
らと結成。
 前進は1948年から1953年の人民民主戦線

左翼民主党PDS) 1991−1998年
 1991年、PCIから社会主義の方向への発展としてPCIの解散によりPCIの
最後の書記長オケットにより樹立される。
 EU社会党連合と社会主義インターに加盟。
 1992年の選挙は16.1%でしかなかった。(PRCは5.6%、1987年はPCIとして26.6%)
 1980年代前半党内には3つのグループがあった。
  改良主義派:ナポリターノ率いる、PSIイタリア民主社会党との連合推進。
  オケット派:以前のベルリンゲル派が主、オケットのほかマッシーモ・ダレマファビオ・ムッシなど。
  イングラオ派:旧イングラオ派でPDSに入ったグループ、徐々にPRCのベルティノッティ派に移行。
 1997年以降は
  オリーヴ派(12%):社会民主主義を推進する右派、クラウディオ・ペトルッチオリワルタル・ヴェルトローニら。
  ダレマ派(70%):中央派、ダレマ、ピエトロ・フォレナ、左翼社会主義と改良主義を目指す。
  左派(18%):民主共産主義者、社会国家を守る、イタリア労働総連合CGILに近い、グロリア・ブッフォ
 1992年、イタリア政界は贈収賄疑獄Tangentopoli(接触都市)に見舞われる。PDSはキリスト教民主DCやPSIほど
巻き込まれなかったが関係ないわけではなかった。
 1994年の選挙では選挙連合進歩共産主義再建党PRC、PSI(の残党)、緑連合民主主義運動RETE民主同盟AD、などと結成。
 PDS20.36%、PRC6.05%、PSI2.19%など、進歩全体34.34%と中道右派連合42.84%に敗北。
 オケット辞任。後をダレマとヴェルトローニが争いダレマ勝利。
 1996年、オリーブの木結成(イタリア人民党=旧キリスト教民主DC、イタリア復活、緑など)45.4%で勝利、PDSは21.1%。
 RPCは8.6%、オリーブの木に加わらなかったが互いに協力。選挙後閣外支持をとる。
 プロディ政権ではヴェルトローニが党の主導を握る。
 ナポリターノ(内相)、ベルザーニ(産業商業相)、ヴェルトローニ(文化)、トゥルコ(社会連帯)ら10名入閣(21名中)
 1998年、ダレマの主導のもとに左翼民主主義者DS結成。

左翼民主主義者DS) (シンボルから鎌と金槌をとり、バラを挿入) 1998−2007年
 1998年、左翼民主党からダレマの主導でいくつかの小さな同じ志向の運動(労働連合社会キリスト教共和左翼
統一共産主義者運動ヨーロッパ改革主義者)と統合して結成。
 DS創設者はPDS73%、労働連合(旧PSIヴァルド・スピニジョルジョ・ルフロ)8%、統一共産主義者運動(旧PRC、
ファミアーノ・クリチアネーリ)6%、社会キリスト教(旧DCピエーレ・カルニッティエルマンノ・ゴリエーリ)6%、
共和左派(旧PRIジョルジョ・ボッジ)3%、ヨーロッパ改革主義者(旧PSI、ジョルジョ・ベンヴェヌート)2%、
連帯行動(ジュゼッペ・ルミア)2%。
 1998年10月PRCの不支持でプロディ内閣が倒れ、ダレマが首相になりワルテル・ヴェルトローニが指導者に代わる。
 1999年EU議会選挙は17.4%獲得、この結果敗北にイタリア民主社会主義者SDIから批判が生じ、ダレマが辞任し、再組閣
 SDIは信任棄権し、プロディの新運動の民主主義者が参加。
 2000年全国会議ではヴェルトロニ79.9%、アンナ・フィノッキアロフルヴィア・バンドリ(エコロジスト)、パスカリーナ・ナポレターノ
の女性3人に率いられた左派20.1%となる。
 同年地方選挙でDSはベルルスコーニの中道右派に敗北、ダレマが辞任し、ジュリアーノ・アマトが首相になる。
 2001年の議会選挙ではベルルスコーニの自由の家に敗北。(DS16.6%、オリーブは42.99%、自由の家45.40%)
 2001年はヴェルトロニがローマ市長になったため新書記が選ばれ、第3の道傾向の主流のピエロ・ファッシノヴェルトローニ
ダレマルチアーノ・ヴィオランテガヴィノ・アンジュスヴィンチェンソ・ヴィスコフランコ・バッサーニニピエルルイジ・ベルサニ
ジョルジョ・ナポリターノヴァルド・スピニら支持)が61.8%、左派(ジョヴァンニ・ベルリンゲル、CGIL総書記セルジョ・コフェラッティ
ARCI代表のトム・ベネトッロファビオ・ムッシアントニオ・バッソリノオケットジョヴァンナ・メランドリチェザレ・サルヴィ
ブルノ・トレンティンら支持)が34.1%、右派、エンリコ・モランド4.1%。
 2004年は統一オリーヴとして左翼民主主義者DS、マルゲリータ、イタリア民主社会主義者SDI、欧州共和運動がEU議会
選挙参加し31.1%獲得。オリーブ24議席、強いイタリア16議席、国民連合9議席。
 2005年には79.1%でファッシノが再選、4つの意見があった。
  ファッシノ派(モランドアントニオ・バッソリノ支持)、リベラル派、プロディのオリーヴの木参加推進、79.1%。
  ファビオ・ムッシ派(J・ベルリンゲル含む)、連合反対、DS軸の拡大新中道左派、学校、労働、外交等社会主義政策推進。14.6%
  チェザレ・サルヴィ派、社会主義への左翼DS、プロディ連合に反対、PRC、PdCl、緑と協力推進。4.0%
  フルヴィア・バンドリ派、左翼環境主義者、、連合は条件派、連合の発展による単一党化反対。2.4%。
 この結果分裂が生じオケットのイル・カンティエレ(造船所)、PRC(ピエトロ・フォレーナ)、PdClへの参加者がでた。
 2005年、イタリアの価値とCRPが加わり連合が結成される。
 2006年の選挙は下院は連合49,80%、348議席(オリーヴ31.2%、PRC5.83%、PdCl2.31%)、
自由の家49.69%、281議席。上院は連合49.18%、158議席(DS17.17%、PRC7.24%)、
自由の家49.87%、156議席。勝利によりプロディ内閣成立。大統領選挙ではナポリターノが選ばれる。
 これによりDL−マルゲリータ民主党結成が浮かび上がる。
 2007年4月党大会
  ファッシノ派、民主党結成賛成の多数派、ダレマピエール・ルイジ・ベルサーニヴァンイノ・キティチェザレ・ダミアーノ
アントニオ・バッソーリノジョヴァンナ・メランドリルイジ・ニコラスバルバラ・ポラストリニリヴィア・トゥルコメルセデス・ブレッソ
ヴァスコ・エラーニクラウディオ・ブルランドクラウディオ・マルティニマリア・リタ・ロレンツェッティら、75.6%。
  ムッシ派、ヨーロッ社会主義のための左翼、環境左派や労働者派の加わった左派、チェザーレ・サルヴィフルヴィア・バンドリ
ヴァルド・スピニオルガ・ダントナアルトゥーロ・スコットら、15.0%。
  ガヴィノ・アンジュスマウロ・ザニ派、民主的・社会主義的新党派、アルベルト・ニグラマッシーモ・ブルッティフランコ・グリッニら、9.4%。
 ファビオ・ムッシガヴィノ・アンジュスのグループはPRCからイタリア民主社会主義者SDIまでの全左翼の統一を目指す民主左翼結成。
 イングラオは2004年共産主義再建党に参加、オケットは12月民主左翼参加。


オリーブの木と連合) 1995−2007年
 1992年、イタリア政界は贈収賄疑獄に見舞われキリスト教民主党と社会党は没落の運命をたどりやがてキリスト教民主党は
1993年に、社会党は1994年に解散し政界再編が起こった。
 共産党はその前の1991年に左翼民主党となっていた。1994年には旧キリスト教民主のメンバーがイタリア人民党PPI結成するが右派は
1994年キリスト教民主中道CCD(2002年CDUと中道連合合流)、1995年統一キリスト教民主CDUを結成し、PPIは左派色が濃くなった。
 1994年、選挙連合進歩PDSPRCPSI(の残党、トゥルコ主導)、緑連合民主主義運動RETE民主同盟AD、社会キリスト教
再建社会主義者などにより結成されたが、中道右派連合に敗北(下院366議席対213議席、上院156議席対122議席)。
 1996年、PDS、PPI(フランコ・マリーニ)、ディニ名簿−イタリア復活(1996−2002年、マルゲリータ合同)、
 緑連合(カルロ・リパ・ディ・メアナ)、イタリア社会主義者(1994−1998年、エンリコ・ボゼッリ、民主社会党合同)、民主連合UD(1996−1999年、
 アントニオ・マッカニコ、民主主義者合同)、イタリア共和党(1895〜、ジョルジョ・ラ・マルファ)、セニ協定(1993〜2003年)、南チロル人民党、
 RETE(1991−1999年、キリスト民主系、民主主義者合同)がオリーブの木結成。
 選挙に勝利(下院オリーヴ284議席+PRC35議席対自由の家246議席、上院158議席+PRC11議席対143議席)
 PRCの支持を得てプロディ政権樹立。1998年PRCが離脱しプロディ政権崩壊。ダレマ政権樹立。
 2000年キリスト教民主系のイタリア人民党、民主主義者(1999年プロディが発足、民主連合、価値のイタリア、RETEが参加、人民党からも参加)、
イタリア復活が合同しマルゲリータ発足、指導者フランチェスコ・ルッテリ。
 2001年はオリーブの木(DS、マルゲリータ、イタリア共産主義者党PdCI、イタリア民主社会主義者(ボゼッリ)、緑連合、
ヨーロッパ民主主義者連合(1999〜、クレメンテ、マステッラ、キリスト教民主系)が自由の家に敗北。
 (下院368議席対250+PRC11議席、上院176議席対130議席+PRC4議席)
 2004年は統一オリーヴとして左翼民主主義者DS、マルゲリータ、イタリア民主社会主義者SDI、欧州共和運動がEU議会
選挙参加し31.1%獲得。
 欧州共和運動は2001年のイタリア共和党の自由の家参加に際し、反対派が結成、2010年中心のズバルバティの中道連合参加に伴い、
2011年にはイタリア共和党に合流。
 2005年連合(ルニオネ)がオリーヴの木とPRC、イタリア共産主義者党PdCI、イタリアの価値IdV、緑連合その他小政党で結成される。
 2006年の選挙は下院は連合49,80%、348議席(オリーヴ31.2%、PRC5.83%、PdCl2.31%)、
自由の家49.69%、281議席。上院は連合49.18%、158議席(DS17.17%、PRC7.24%)、自由の家49.87%、
156議席。勝利でプロディ内閣成立。
 2007年民主党が左翼民主主義者と民主主義は自由−マルゲリータを中心に欧州共和運動民主共和主義者
改革連合や地域小政党など社民、社会リベラル、中道、キリスト教民主系の組織により形成される。


民主党PD〕 2007年−
 2003年左翼民主主義者名簿選出議員のミケレ・サルヴァティは穏健左派政党結成のためオリーヴの木を念頭にすべての穏健改良主義グループ
からの新党について述べた。これは間もなく欧州委員会委員長のロマノ・プロディにより言及された。
 2006年の選挙での勝利とプロディ内閣成立で単一党結成の動きが進んだ。
 2007年10月、2006年総選挙の連合を形成したいくつかの左派と中道政党により民主党結成。
 中心は左翼民主主義者民主主義は自由−マルゲリータ(2001年選挙でイタリア人民党PPIを中心に結成)。
 他に欧州共和主義者運動中道イタリア(2006年UDCから分裂)、民主共和主義者(2004年共和党から分裂)、改革連合(2007年
民主社会党から分裂)や地域小政党(南部民主党サルディニア計画)など社民、社会リベラル、キリスト教民主、リベラル、環境主義、
欧州主義者系の組織参加。
 全国書記ワルテル・ヴェルトローニ、全国副書記ダレオ・フランチェスキーニ(旧マルゲリータ)、ロマーノ・プロディが議長。
 全国書記選はヴェルトローニ約355万票中75.8%で2858代表のうち2322人、ロジー・ビンディ(旧マルゲリータ)12.9%、313人、
エンリコ・レッタ(旧マルゲリータ)11.0%、221人など。ヴェルトローニが執行部を指名、17名中9名女性。
 マルゲリータではランベルト・ディニが民主党に参加せず自由民主主義者結成。
 2008年人民UDEURクレメンテ・マステッラの支持撤回でプロディ2次政権崩壊。
 2008年の選挙はヴェルトローニ連合は下院37.54%、246議席、(PD33.17%+価値のイタリア4.37%)、
ベルルスコーニ連合(自由の家北方同盟自治運動):46.81%、344議席、上院はヴェルトローニ連合38.01%、132議席、
ベルルスコーニ連合47.32%、174議席、で敗北。
 ボニノ急進主義者は民主党名簿で参加、6下院議員、3上院議員(セナート)確保。 
 PDは左翼・虹との提携をやめ価値のイタリアと提携、イタリア急進主義者とも協定を結んだ。
 IGCLと強く結びついた旧左翼民主主義者からなる民主左翼オルガ・ダントナファミアノ・クルチャネッリマッシーモ・チャレンテ
と旧イタリア共産主義者党メンバーらの国への左翼が7月PD内グループ左翼へと合流。
 10月社会党からガヴィノ・アンジュスのグループとチンツィア・ダトが合流。
 2009年2月ヴェルトローニ辞任にともない全国書記選、ダレオ・フランチェスキーニ1047、アルトゥーロ・パリジ92でフランチェスキーニが臨時書記。
 EU選は26.12%、PRC、PdCI、社会主義2000、統一消費者は反資本主義と共産主義者名簿を形成し3.39%、
 10月書記選(公開1次選)でピエル・ルイジ・ペルザーニ(元PCI)53%、ダレオ・フランチェスキーニ(旧キリスト教民主DC)34%、イグナツィオ・マリーノ12.5%
でペルザーニが書記となり、委員長はロジー・ビンディとなる。
 これでフランチェスコ・ルテッリ(元急進党、緑連合、マルゲリータ)が離党し民主党のマッシーモ・カッチャーリ(元マルゲリータ)、リンダ・ランツィロッタ
(元毛派イタリア共産主義者連合、社会党、マルゲリータ)、ロレンツォ・デライ(2008年トレントのための連合結成)、白バラブルーノ・タバッキ
(元中道連合、2008年白バラ結成)とエルヴィオ・ウバルディらと変革と良き政府グループ結成。
 11月にブルーノ・タバッキロレンツォ・デライらとイタリア連合結成。
 民主党からはリンダ・ランツィロッタジャンニ・ヴェルネッティ(元共産主義のための継続闘争)、フランコ・ブルーノマッシーモ・カッチャーリらが参加。
 ルテッリは民主党があまりに左翼的と批判し、国が南北2分裂の瀬戸際にあり、これは中道左派の周辺化を意味すると主張。
 これで多くのルッテリ派とほとんどのテオ・デム派は民主党を去り、キリスト民主・中道連合UDC、イタリア連合などに参加。
 2009年12月中道連合指導者ピエルフェルディナンド・カシーニは自由の人民PDL連合、特にヴェルルスコーニに対抗し、立憲主義と
共和制度防衛のための民主党、価値のイタリアとの提携を示唆、これはペルザーニ共産主義再建党PRCのパオロ・フェッレロに支持された。
 2010年の州選挙(9州)では一部でこの連合が実現するが、しかし第3の極として中道右派連合イタリアの新しい極が2011年1月、中道連合、
イタリアの未来と自由ジャンフランコ・フィニ、2011年2月結成)、イタリア連合(ルッテリ、タバッキ)、自治運動ラファエル・ロンバルド
2005年結成)によって結成される。
 州選挙(9州)では民主党はリグリア、エミリア・ロマーナ、トスカニ、ウンブリア、マルシェ、バシリカタで勝利、アプリアは左翼・エコロジー・自由の
ニッキ・ヴェンドラが勝利。ピエドモント、ヴェネトは北方同盟、ロンバルディ、ラツィオ、カンパニア、カラブリアは自由の人民が勝利。
 2010年夏、民主グループフランチェスキーニピエロ・ファッシノがベルサーニに接近し、多数派に参加、これに対してヴェルトローニ
民主運動を結成、
 これにはヴェルトローニ派のほかに、ジュゼッペ・フィオローニに近い人民派、パオロ・ジェンティローニの旧ルッテリ派も参加。
 これで党は多数派のベルザーニ支持派(ダレマ派、レッタ派、ビンディ派、左派)とフランチェスキーニ、ファッシノ支持の民主派と、
少数派の民主運動(ヴェルトローニ派、フィオローニの人民派、旧ルッテリ派、民主環境主義派、リベラルPDの多数派)とヴェルトローニ支持の
マリーノグループ、オリーヴ派パリジグループから構成されることとなった。
 ルチアーナ・スバルバーティ率いる欧州共和主義者運動は2010年4月民主党から去り中道連合に参加。
 2011年の地方選挙は29首市で民主党26.2%、自由の人民22.8%、北方同盟5.6%、左翼・エコロジー・自由4.6%、
キリスト民主中道連合UDC4.2%、価値のイラリア4.0%、五星運動3.8%。
 ミラノ市長選では左翼・エコロジー・自由のジュルアノ・ピサピアが第2回55.1%で勝利。
 トリノは民主党ピエロ・ファッシノ、ナポリは無所属のルイジ・デ・マジストリス(元価値のイタリア)。
 民主党は多くの地域で価値のイタリア、左翼・エコロジー・自由で選挙協定を結ぶ。
 2011年11月に党は3派に別れイデオロギー論争をしているといわれる。
  社会主義左翼:ステファノ・ファッシナ、マテオ・オルフィニらのほとんどのベルサーニ支持派。
         ベルサーニ後はエンリコ・ロッシ(元PCI)を支持するとされる。
         2012年2月ファッシナはカトリックの支持を得ようとカトリック社会教義と結びつけて彼の”新労働ヒューマニズム”を説明。
         このグループはモンティ政権支持に消極的。
  社会民主中道:ニコラ・ジンガレッティ支持。(ベルザーニ、ダレマ、ビンディ派の中核)
  新右派:マッテオ:レンツィが代弁者。
 2011年のベルルスコーニ辞任とマリオ・モンティ政権成立の際にはモンティ政権支持にステファノ・ファッシナチェザレ・ダミアノらが反対。
 2012年10月、翌年の総選挙のためにベルサーニ、ヴェンドラネンチーニによって主導され、民主党、左翼・エコロジー・自由SEL、
イタリア社会党、民主中道CD(タバッキマシモ・ドナディ)によって選挙連合良きコムーネが結成される。
 これにはいくつかの地域政党(南チロル人民党など)も参加。
 指導者選第1回はベルサーニ44.9%、マッテオ:レンツィ35.5%、ニッキ・ヴェンドラSEL15.6%、ラウラ・プッパート2.6%、ブルノ・タバッキ1.4%。
 第2回ベルサーニ60.9%、1706457票、レンツィ39.1%、1095925票。
 2013年2月総選挙の結果は下院(カメラ)はPD25.4%、292議席、SEL3.2%、37議席等でベルサーニ連合29.5%、340議席、
ベルルスコーニ連合は29.2%、124議席、5星運動25.5%、108議席、モンティ連合10.6%、45議席、イングロイア(市民革命)2.3%、
労働者共産党(マルコ・フェランド)0.26%、共産主義選択党(アドリアノ・ロティト)0.01%など。
 海外議席は民主党29.32%、288092票で5議席、モンティ連合18.39%、2議席、自由の人民14.84%、1議席など。
 上院(セナト)はPD27.4%、105議席、SEL3.0%、7議席、社会党0.2%などでベルサーニ連合31.6%、113議席、
ベルルスコーニ連合30.7%、116議席、5星運動23.8%、54議席、モンティ9.1%、18議席、イングロイア(市民革命)1.8%、
労働者共産党0.4%、PCI(ML)0.03%など。
 2013年4月の大統領選ではベルサーニは中道右派と手を結びフランコ・マリーニを候補としたが、SELや民主党の一部が反対し、
なかなか大統領が決まらず、ベルサーニは党書記辞任を発表(委員長のビンディも辞任)、結局6回目の投票でナポリターノ再選となる。
 首相にはエンリコ・レッタ(元キリスト民主DC)がなり、民主党、自由の人民、市民選択(モンティ派)、中道連合(キリスト民主系)による
大連立を形成。急進からエンマ・ボニノ入閣。
 全国書記にはグリエルモ・エピファーニが選出される。エピファーニはCGILの元総書記で元社会党。
 12月の全国書記選ではマッテオ・レンツィ(キリスト民主)、ジャンニ・クペルロ(旧共産党系)、ジュゼッペ・チヴァティ(旧左翼民主)、
ジャンニ・ピッテラ(旧社会党)が候補で第1回はレンツィ、45.3%、クペルロ、39.4%、チヴァティ、9.4%、ピッテラ、5.8%、
第2回はレンツィ、67.5%、クペルロ、18.2%でレンツィを選出。
 2014年1月からレンツィと首相のレッタとの間で確執が生じ、レンツィはレッタに辞任を要求し、レッタが辞任を発表。
 レンツィは新中道右派(2013年自由の人民から分裂)、市民選択中道連合イタリアの人民(2013年市民選択から分裂)、
社会党を含む連立を形成。
 2014年2月ヨーロッパ社会党に公式参加。これにはすでにイタリア社会党(2007年結成)が公式参加。
 EU選は社会党を抱え40.81%、31議席、他は5星運動21.16%、17議席、強いイタリア16.82%、13議席、北方同盟6.16%、5議席、
新中道右派−中道連合4.38%、3議席、別の欧州4.03%、3議席。
 2015年2月セルジオ・マッタレラが難産の末大統領となる。
 2016年12月1院化の憲法改正国民投票否決でレンツィ辞任し、パウロ・ジェンティロニが首相となり、人民領域と連立政権形成。
 下院では368票が賛成、105票反対、5星運動と北部同盟は退席。上院では169対99。
 2017年党首選でレンツィが69.2%で書記再選、アンドレア・オルランド19.9%、ミケレ・エミリアノ10.9%。
 2014年から2017年にかけてレンツィ政権の政策をめぐり、分裂と合流が起きる。
 レンツィは政治の安定化のため上院の権限を大幅に弱め事実上の1院化のために改憲と多数派形成に有利な選挙制度変更を行うとし、
改憲は国民投票で否決。
 また教育制度や労働市場改革を行うとして学生やCGILの批判を受ける。
 2014年、SELのレンツィ政権支持グループの分裂、12名中9名が自由と権利LeD参加、指導者ジェンナロ・ミリオレ、その他クラウディオ・ファヴァ、
ティッティ・ディ・サルヴォ、イレアナ・ピアッツォニ、アレサンドロ・ザンなど。
 フェルディナンド・アイエッロ、ミケレ・ラゴスタら3名はPDに、LeDもPD内分派となる。
 2015年2月市民選択の上院議員ステファニア・ジャンニニピエトロ・イキノら5名と下院のイレネ・ティナリ、ボルレッティ・ブイトニらが民主党に移る。
 2015年4月元5星運動のトマソ・クロアレッシオ・タコニジェシカ・ロステラト(自由選択経由)が議会民主党に参加。
 これで下院311名、上院114名となる。
 2015年ジュゼッペ・チヴァティポシビレ(可能)を結成。
 2015年ステファノ・ファッシナモニカ・グレゴリとPDを離れ左翼への未来結成。
 左翼への未来はSEL及び5星運動旧メンバーと議会グループイタリア左翼SI結成、2017年政党となる。下院13名、上院7名。
 これで2016年5月に下院303名、上院114名となる。
 2015年3月ルカ・パストリノ去り、5月ポシビレに参加。
 2015年11月アルフレド・ダットレカルロ・ガッリヴィンチェンツォ・フォィノジョヴァンナ・マルテリがSI-SEL更には民主と進歩運動へ移る。
 2016年5月ミケラ・マルツァノが混合グループへ、マルツァノは2017年9月には議会グループのイタリア社会党−イタリア・リベラル・独立へ参加。
 2017年2月ロベルト・スペランツァ、ピエル・ルイジ・ベルザーニ、エンリコ・ロッシ、マッシーモ・ダレマら21名が民主と進歩運動MDP結成。
 MDPにはフランチェスコ・フェララらSI(SEL系)からも参加。下院44名、上院16名で構成。
 2017年12月大統領のマッタレラは議会を解散、2018年3月4日に選挙。
 結果は18.72%、112議席と大敗。中道左派連合は22.85%、122議席、5星は32.66%、227議席、中道右派は37.0%、265議席。

 英語版ウィキペディアによると
 2013年選挙と2018年選挙前の各党議席は
   民主党      下院:297→283 上院:111→99
   5星運動         109→88      54→35
   強いイタリア       98→57       98→46
   自由と平等           63          23  (選挙連合:MDP+SI+ポシビレ)
   北部同盟         18→22      18→12
   大衆市民            28          27
   イタリアの同胞      9→12        0→3

 伊語ウィキペディアによると下院は          (→分裂)
   民主党            297→   283   (→民主と進歩運動、イタリア左翼)
   民主と進歩運動              43
   5星運動           109→   88   (→自由選択)
   強いイタリア          97→   56   (→人民選択、イタリア指揮同一性と行動
   人民選択                  22
   市民と改革者               15
   イタリア左翼・ポシビレ    37→   17   (→民主と進歩運動)
   市民選択+           47→  15    (→市民と改革者
   北部同盟            20→   21
   連帯民主                  12
   イタリアの同胞         9→   12
   イタリア指揮                10
   自由選択                   5
   同一性と行動                6


 *大衆市民Civica Popolareは2018年選挙の選挙連合でベアトリチェ・ロレンツィン人民選択でレッタ、レンツィ、ジェントロニ内閣で健康相を務める)
  率い、キリスト教民主系、中道派といわれる。
   人民選択、ヨーロッパ中道主義者ピエル・フェルディナンド・カシーニ)、連帯民主(ロレンツォ・デライ)、イタリアは人民的(チリアノ・デ・ミタ)、
  価値のイタリアやその他キリスト教民主系小グループで構成。

 *自由の人民は2013年選挙後、強いイタリアになり、このとき新中道右派が分裂、2015年には保守と改革主義者自由人民連合が分裂し弱体化。
   新中道右派NCDの指導者はアンジェリノ・アルファノ、NCDはレンツィ政権に参加、2017年人民選択Alternativa Popolareになる。

 *市民選択Scelta Civica
   2013年、首相のモンティ支援のため市民選択発足。2013年選挙で8.3%、37議席。市民選択は中道連合、未来と自由(自由の人民から2011年分裂)
 と選挙連合モンティとイタリアを結成し、47議席。レッタ政権に参加、レンツィ政権を支持したが、ジェンティロニ政権は支持せず、2017年末強いイタリアに参加。
   寄せ合い所帯のSCは党の骨格形成に際し内部で論争がおき、特にSCと中道連合(キリスト民主系)、未来と自由(保守的)の路線と関係が問題となり、
  モンティは党を中道右派へ移動させるグループに反発し代表を辞任。
  これによりやがてイタリア人民(マリオ・マウロ。ロレンツォ・デライ)発足、議会ではイタリアのために形成。
  イタリア人民からは2014年連帯民主が分裂しレンツィの民主党と提携。イタリア人民は中道右派色を強める。
  SCはステファニア・ジャンニニを書記としレンツィ政権に入閣。
  2014年末から2015年初めに党は分裂、PD(ステファニア・ジャンニニら)や人民領域(2014年新中道右派と中道連合結成の選挙連合)への移行者発生。
  2016年2月には議員は20名に減少。更に自由人民−自治連合ALAとの提携問題で党は分裂。
  2016年エンリコ・ザネッティらは自由人民−自治連合ALA(デニス・ヴェルディニ、2015年強いイタリアから分裂)、実行Fare!(2015年北部同盟から分裂)と
 ”イタリア市民への市民選択”Scelta Civica verso Cittadini per l'Italia結成、更に海外イタリア人連合運動MAIEと”イタリア市民への市民選択−MAIE”結成、
 (市民選択5名、ALA8名、MAIE2名、Fare1名)
  ジョヴァンニ・モンキエロら15名は市民と改革者Civici e Innovatori結成。

 *市民と改革者
   2016年10月ザネッティらのイタリア市民への市民選択−MAIE結成に伴い、下院の議会グループとしてジョヴァンニ・モンキエロら15下院議員が
  イタリアの市民選択Scelta Civica per l'Italia結成。
   2016年10月から2017年6月に元5星運動からの参加者や連帯民主、民主党、イタリア指揮への移行発生し13名となる。。
  市民と改革者は2017年8月イタリアへのエネルギー(2016年結成、キリスト教民主系)から数名迎え、市民と改革者−イタリアへのエネルギーとなる。


 民主党の潮流

  2017年指導者選

  マテオ・レンツィ 党員66.73% 代議員選69.17%
    民主領域(ダリオ・フランチェスキニ)、人民たち(ジュゼッペ・フィオロニ)、左翼は変化(マウリツィオ・マルティーニ)、リベラルPD(エンツォ・ビアンコ)
  アンドレア・オルランド 党員25.25% 代議員選19.96%
    旧PCI イタリア再生左翼Dem(ジャンニ・クペルロ)、ReteDem(旧チヴァティ派、多くはポシビレ、イタリア左翼、民主と進歩へ)
  ミケレ・エミリアノ 党員8.02% 代議員選10.87%
    前司法官、貧しい南部からの支持、党内左派 民主戦線

  2013年指導者選

  ジュゼッペ・チヴァティ 大会9.43% 代議員選14.24%
    旧左翼民主主義者
  ジャンニ・クペルロ 大会39.44% 代議員選18.21%
    旧PCI、ダレマ、ペルザーニの路線
  ジャンニ・ピテラ 大会5.80%
    旧PSI、レンツィ支持へ
  マテオ・レンツィ 45.34% 代議員選67.55%
    旧人民党、トニー・ブレアのニューレイバー的路線

  2009年指導者選以降 

  多数派・ベルザーニ支持
    ダレマ派(改革主義者と民主主義者
    レッタ派(360°連合
    左翼へリヴィア・トゥルコ
    真の民主主義者ロジー・ビンディ
    社会キリスト教派:労働組合運動指導者ピエッレ・カルニッティらが創設の親ヴェルトローニ、指導者選ではベルザーニを支持したが、
      ヴェルトローニに近い主要メンバーがフランチェスキーニ支持。
    民主と社会主義
  少数派フランチェスキーニグループ(民主グループ
    ヴェルトローニ
    人民第4相派:人民党伝統のキリスト左派後継と旧キリスト民主の左派
    ルテッリ
    リベラルPD
    民主環境主義
    テオ・デム
  少数派マリーノグループ
    マルタ・ヴィンチェンツィフェリチェ・カッソンゴフレド・ベッティーニ、ミケーレ・メタ、イヴァン・スカルファロットパオラ・コンチャらが支持。
  その他
    オリーヴ派:1次選で多くはベルザーニを支持したがパリジフランチェスキーニ支持。

 *イタリア語ウィキペディア

  社会民主グループ
    改革主義者と民主主義者ダレマ派:欧州社会党支持。
    ヴェルトローニ派:ピエロ・ファッシノを支持。
    左翼へ:リヴィア・トゥルコ率いる旧共産党、社会党グループ。
    民主と社会主義:ガヴィノ・アンギス率いる。
    誠実民主主義者デボラ・セッラッキアーニリタ・ボルゼッリノらのフランチェスキーニ支持の社会民主、キリスト社会で内面倫理重視。
    PDと生きる、イタリア変革:イグナツィオ・マリーノを支持した種々な人たち、ヴェルトローニ派、オリーヴ派など、イヴァン・スカルファロット
           パオロ・コンチアなど。
    PDとともに:2009年WEB2参加者から生まれる、ジュゼッペ・ロトンド、サンドロ・ゴッツィら、能力主義、改革主義、世代交代を支持。
  キリスト社会グループ
    人民第4相派:ダレオ・フランチェスキーニ、フランコ・マリーニ率いる。
    真の民主主義者ビンディ
    テオ・デム派:多くがキリスト民主・中道連合UDC、イタリア連合などに移行。
    オリーヴ派:アルトゥーロ・パリジなど。
    キリスト社会派ミンモ・ルッカパオロ・コルジーニなど。DS来歴。
  リベラルグループ
    360連合レッタ派:キリスト民主・中道連合に接近。
    リベラル民主エンツォ・ビアンコ(元マルゲリータ、共和党)、フランコ・バッサーニニ(元社会党)、ヴァレリオツァノネ(元リベラル党)、
        エンリコ・モランドらが結成。ほとんどの社会リベラル、旧共和主義者の多数派、旧リベラルが参加。
  エコロジスト・グループ
    民主環境主義

  2008年6月で50%は旧左翼民主主義者、23%人民、10%ビンディ派、10%ルッテリ派、7%レッタ派。

  ヴェルトローニ派:DS主流、社会民主。ゴフレド・ベッティニピエロ・ファッシノアンナ・フィノキアレジョヴァンニ・メランドリら。
 結成大会ではダレマーニ、人民、ルッテリ、社会キリストと共同名簿で43.7%。
  人民派:旧キリスト教民主左派、イタリア人民党主流。フランコ・マリニジュゼッペ・フィオロニピエルルイジ・カスタネッティ
 チリアコ・デ・ミタダレオ・フランチェスキーニなど。旧マルゲリータ多数派。
  ダレマ派:ヨーロッパ社会党参加希望、レッタ派や人民派を受け入れ。ピエルルイジ・ベルサニバルバラ・ポラストリニら。
  ルテッリ派:フランチェスコ・ルッテェリ(旧マルゲリータ)周辺、米国民主党をモデル、ヨーロッパ・リベラル・民主連合参加希望。
 パオロ・ジェンティロニリンダ・ランツィロッタら。
  リベラルPD派:ヴァレリオ・ツァノニ率いる、社会リベラル、多くはルッテリ派に近い。エンツォ・ビアンコエンリコ・モランド
 フランコ・バッサニーニなど。
  民主環境主義派:エルメーテ・レアラッチ率いる、多くはルッテリ派に近い。
  オリーヴ派:プロディ派、キリスト教左派と社会民主、社会リベラルを含む。アルトゥーロ・パリジ率いる。
  レッタ派:エンリコ・レッタ(旧マルゲリータ)周辺、人民、オリーヴ、ダレマ派、ヴェルトローニ派と良好な関係、キリスト民主・中道連合
 との連合希望。
  左翼へ派:リヴィア・トゥルコ率いる社会民主と民主社会主義者の左派、民主・世俗分離・社会主義マッシーモ・ブルッティマウロ・ザニ)、
 左翼発言ヴィンチェンツォ・ヴィタ)、労働者連合国のための左翼(2008年民主左翼イタリア共産主義者党アレッサンドロ・ビアンキ
の一部結成)などよりなる。ヴェルトローニ・ダレマ派に近い人も含む。
  キリスト教社会民主:ヴェルトローニ支持。
  テオ・デム派:キリスト教民主(伊:キリスト教社会)。倫理問題で右派、経済では進歩的progressive。
  急進派:マルコ・パンネラエンマ・ボニノ急進主義者は2008年選挙前に参加。
  真の民主主義者:オリーヴ派から分裂したロジー・ビンディの周辺、旧イタリア人民党PPI左派と社会民主主義者が主。
  欧州共和主義者運動:以前の共和党メンバーで自由の家参加不支持の小社会リベラルグループ。
  民主と社会主義ガヴィノ・アンジュス社会党からの分裂グループ。


共産主義再建運動MRC)
 1991年2月設立。
 1989年の12月のボローニャの転換で共産党がマルクス主義を捨て社会民主主義に転換するのに反対する少数派が生じた。
 親ソ連でいかなる変化にも反対するコスッタ(親ソ派)派と文化的新装を共有するイングラオナッタトルトレッラのグループがあった。
 1990年初めから1991年の間、後のMRCの指導者と種々のマルクス主義知識人と新左翼(イル・マニフェスト
プロレタリア民主DP)の政治的衝突が始まった。
 1991年1月の最後の党大会でイングラオナッタトルトレッラトルトレッラは決してMRCには参加しなかった)の支持を得た
コスッタ派はMRCを結成した。他にセルジョ・ガラヴァーニルーチョ・リベルティニエルシリア・サルヴァトリノ・セッリ、ニッキ・ヴェンドラなど。
 委員長にはコスッタが選ばれ、書記長にはセルジョ・ガラヴィーニが選ばれた。
 運動はユーロコムニズムを目標とした。
 数週間後PDSから離党したばかりのマニフェスト・PdUPグループ(マーグリカステッリナファミアーノ・クルチャネッリ
ルチアーノ・ペッティナリなど)が参加した。マーグリ(カメラ)とカステッリナ(EU議会)が最初の議員となった。
 間もなくプロレタリア民主DPの多数派(ジョヴァンニ・ルッソ・スペナ)がMRCへの合流と共産主義者の単一党結成をきめ、
PRCが生まれた。イタリア共産党(ML)2−赤色戦線も合流。

共産主義再建党PRC 1991年−
 指導者はフランコ・ジョルダーノ、実際の指導者はファウスト・ベルティノッティ(1994−2006年)。
 党はヨーロッパ左翼党ヨーロッパ反資本主義左翼に参加。EU議会ではヨーロッパ統一左翼ー北欧緑左翼グループ

 1991年、PCIが左翼民主党になったとき、コスッタ率いる反対派は共産主義再建党をつくった。
 同年6月極左のプロレタリア民主PDが合流した。
 最初の書記長はセルジョ・ガラヴィーニで1994年ファウスト・ベルティノッティ(−2006年)に代わった。
 ガラヴィーニはPDSとの統一行動を提案し全国指導部に拒否され辞任した。
 ファウスト・ベルティノッティイングラオ派で長い間CGILの指導者で数ヶ月前にPDSを離党したばかりであった。
 コスッタはベルティノッティの書記長就任を望みマーグリの同意を得た。
 1994年選挙で左翼8党の進歩連合に参加、6%を得たが連合は中道右派に敗北、ベルルスコーニ政権成立。
 同年のEU議会選挙では6議席獲得。同年リヴィオ・マイタンらのグループが全国的に参加。
 不信任によりベルルスコーニ辞任、これがPRCに分裂をもたらす。
 1995年1月ガラヴァーニとファミアーノ・クルチャネッリらカメラの14議員がランベルト・ディニ内閣支持、PRCの支持は大勢に影響
なかったが14議員の行動が党内で議論となる。
 クルチャネッリが議会グループ指導者を退きオリヴィエロ・ディリベルトと交代。
 分裂グループ(分裂に参加しないニッキ・ヴェンドラも)が1995年3月にディニ政権経済政策支持。
 6月カメラ、セナート、EU議会の議員のうち19名がセルジョ・ガラヴィーニに率いられ分裂し統一共産主義者運動MCUを結成し(
他にマーグリ、カステッリナ、ファミアーノ・クルチャネッリなど)ディニ内閣支持。
 1998年MCUのクルチャネッリらは左翼民主主義者DS合流。
 PRCは1995年の地方選挙で8%獲得、この結果1996年の選挙で中道左派と選挙協定を結び、これにはマルコ・フェランドの少数派
トロツキストが反対する。1996年選挙はカメラ8.6%、35議席獲得。第一次プロディ政権に参加。
 マラ・マラヴェンダがこれに反対し自主組織基礎委員会Cobas(ナポリのアルファ・ロメオのSlai−Cobasが支持)結成。
 1997年コスッタとベルティノッティが衝突、多数派が旧共産党活動家に支持されるコスッタ派と旧プロレタリア民主やプロレタリア社会党
などの活動家に支持されるベルティノッティ派に分裂。政府との関係などが問題となった。
 党は1998年まで1次プロディ内閣支持、ベルティノッティらが反対派になり倒閣。
 1999年政府予算に対し、ベルティノッティは政権離脱を、コスッタは交渉を主張。
 全国政治委員会では赤旗連合やコスッタ派分裂者の支持を得たベルティノッティ派188票、コスッタ派112票(このうちには
反政権にもかかわらずマルコ・フェランド派が24票に達した)。
 これによりコスッタらの反対派が分裂し、イタリア共産主義者党結成、これはマッシーモ・ダレマついでジュリアノ・アマト政府に参加。
 1999年大会はベルティノッティ派、旧コスッタ派、マイタン派(赤旗)連合とトロツキスト急進派(フェランド、グリソル、リッチ)の2派が
議案提出、多数派84%獲得。1999年EU議会選は4%しか獲得できず。
 2001年選挙は5.0%、11議席。
 2003年国会でのキューバ問題(ハヴァナでのフェリー・ハイジャック犯問題)でPdCIだけは非難しなかったが、PRCとオリーブは
非難、これによりベルティノッティに批判がでる。2005年のハヴァナでのテロリズムに関する国際会議にはイタリアからPdCIと
クラウディオ・グラッシのエルネストが受け入れられる。
 2004年のヨーロッパ左翼党結成にベルティノッティが参加、これは全国政治委員会の了承を得ておらず党内から異論がでた。
 PRCはベルティノッティ派と反ベルティノッティ派(グラッシフェランドマラバルバ、クラウディオ・ベロッティ)に分裂。
 11月全国政治委員会では5提案がありベルティノッティ派が59%獲得。
 中道との統一行動路線はベルティノッティ派とグラッシ派の支持で通る。大民主連合GaDに参加、公然ゲイのニッキ・ヴェンドラ
全中道左派(民主大連合Gad、翌年連合l'Unioneとなる)の支持でPRC唯一の地域議長のプリア地域議長となる。
 2005年連合指導者選挙でベルティノッティはプロディについで14.7%獲得。
 DSから2004年ピエトロ・イングラオが、2005年ピエトロ・フォレーナが移ってくる。
 2005年3月大会ではベルティノッティ派代表409名、グラッシ181名、フェランドマラバルバは同じ45名、ベロッティ11名。
 ベルティノッティは賛成143、反対85、棄権2、無投票30で再選。
 フランチェスコ・マルトニ(緑連合)がPRCに参加。フォレーナ、マルトニ、アントネロ・ファロミ(2004年DSから離れオケットのイル・カンティエレ参加)が
左翼に統一結成。2006年選挙では3人はPRC名簿で再選。
 2006年選挙は5.8%、41議席(下院)、27議席セナート。
 2006年総選挙での“中道左派連合“の”自由の家”への辛勝のあとベルティノッティが下院議長となり、書記をフランコ・ジョルダーノ
と交代。(202票中139票、マルコ・フェランド7票)
 PRCは2次プロディ政権参加、パオロ・フェッレロが社会連帯大臣となる。
 入閣にはトロツキストの共産主義計画Progetto Comunistaが反対、このグループは連合協力に反対でマルコ・フェランドに率いられ、
2002年大会では鎌・金槌と提携し11%獲得、第4インター再建調整委員会派。2005年大会では6.5%獲得。
 のちに労働者共産党PCLマルコ・フェランド)と共産主義選択党PdAC(フランチェスコ・リッチ?)に分裂。
 2006年4月共産主義選択党PdACとなるグループ分裂、6月労働者共産党PCLマルコ・フェランド)となるグループ分裂、12月
ルイジ・イッツォの共産主義統一連合分裂。共産主義計画で離党しなかったグループは反潮流Controcorrente結成。
 2007年2月批判左翼フランコ・トゥリリアットマッシーモ・ダレマ(プロディ政権外相)の外交政策不支持で追放された。
 組織会議で少数派から批判が発生。
 共産主義者Essere Comunistiからエルネストが分裂、ルイジ・マラバルバを指導者とするエッレErreと呼ばれる批判左翼
リヴィオ・マイタンの赤旗グループの後継で2004年のPRCの中道左派政権参加からの反対派で2007年12月離党。
 彼らは統一書記局派トロツキストで大会では6.5%獲得。
 党内には新しくできた民主党との提携を望むベルティノッティ派と多数派内の書記ジョルダーノに近いと種々の傾向からなる党存続
での統一左翼を展望する少数派が形成された。
 民主党結成でこれの左派、PRC、PdCL、緑、民主左翼の結集が期待された。
 2007年、PdCI緑連合FV民主左翼SD左翼・虹を結成、2008年の選挙では3.1%しか獲得できず議席0。
 (2006年はPRC、PdCl、FV3党で10.2%、SDは選挙に参加したことがない)
 2008年4月旧ベルティノッティ派が3分裂、フランコ・ルッソウォルテル・デ・チェザリスの非武装・革新・再建は全国政治
委員会で1.5%、大会では親フェッロ派。
 大会では5議案出現。書記ではニッキ・ヴェンドラは旧ベルティノッティ派の多数派の支持を獲得、他は旧ベルティノッティ派の一部
の支持のパオロ・フェッレロ
 旧PDを主とする旧ベルティノッティ派がパオロ・フェッレロジョヴァンニ・ルッソ・スペナに率いられ、他の少数派グループと連合し
ジョルダーノを辞任させる。彼らはベルティノッティの左翼・虹と政治路線を批判。
 7月党内左派がベルティノッティ派(左翼再建ニッキ・ヴェンドラ)に勝利しパオロ・フェッレロが新書記となる。
 彼は辛うじて53%の支持で、党はベルティノッティ路線支持のヴェンドラ派と分裂。
 会議ではヴェンドラは相対多数派であったが少数派がフェッレロ派に加勢、フェッレロ派路線が53%で承認(646中342)、書記は
51%(280中142)で、議案フェッレログラッシ40.3%にフォスコ・ジャンニニエルネスト7.7%、クラウディオ・ベロッティの鎌・金槌
3,2%との同意によるものであった。ベルティノッティ派が初めて少数派となる。
 新指導部のもとPRCは闘争路線を採用、学生と街頭に出、CGILのストライキを支援。
 ヴェンドラの少数派左翼再建が多数派と衝突分裂し、1月ヴェンドラに近いピエロ・サンコネッティが党新聞“解放”の編集者から
排除された。これにヴェンドラ派が強く反対、全国指導部から撤退し、民主左翼と左翼構成Costituente della sinistra結成を計画。
 2009年1月24日公式に分裂し左翼再建RpSのヴェンドラほかフランコ・ジョルダーノジェンナロ・ミリオーレアルフォンソ・ジャンニ
らは左翼のための運動Movimento per la Sinistra結成。
 このグループの一部、ジュスト・カタニア(MEP)、ミルツィアデ・カプリニ(セナート)、アウグスト・ロッキらはPRCを離党しなかった。
 このためベルティノッティは当面離党してない。

 3月、PRCはEU議会選挙のためPdCI、社会主義2000チェザーレ・サルヴィ)、統一消費者(ブルノ・デ・ヴィタ)と反資本主義名簿
結成。結果は3.3%、0議席。
 左翼のための運動は緑連合、社会党(リカルド・ネンチーニ)、民主左翼(クラウディオ・ファヴァ)、左翼を統一(ウンベルト・グイドーニ)
左翼と民主を結成。結果は3.2%、0議席。
 7月にはPRC、PdCI、社会主義20003月23日連合”労働−連帯”(2007年CGIL指導者グループが結成、ジャン・パオロ・パッタ指導者)
左翼連合を結成(共産主義者ネットワークReteがオブザーバー)。オリヴィエロ・ディリベルトが代弁者となる。
 ベルノッティ派がPRCの主導権喪失で左翼に統一UaSはPRCとのいかなる協力もやめ、11月ピエトロ・フォレナは民主党参加。
 フランチェスコ・マルトニはSEL参加
 2011年地方選挙は可能な限りPdCIと左翼連合を結成し参加した地域での4.2%獲得。
 2011年秋の第8回大会では
  選択左翼に統一、危機の資本主義を去れ:81.3%獲得。
    運動再建のパオロ・フェレッロ、ワルレル・デ・チェザリス、共産主義者であれのクラウディオ・グラッシ、共産主義左翼のジャンルイジ・ペゴロ、
   左翼再建が支持。
  階級党のために:鎌・槌反潮流支持、13.4%。
  共産主義者たち:共産主義者たち結集Comunisti Insieme支持、5.3%。
 エルネストはPdCI参加。
 2012年11月左翼連合は事実上崩壊。アントニオ・イングロイアが12月、翌年の総選挙のため、市民革命を結成、これに価値のイタリア、オレンジ運動、
PRC、PdCI、緑連合(アンジェロ・ボネッリ)が参加。
 2013年選挙はイングロイアの市民革命は2.25%で0議席。
 2014年書記選では67票(147中)でフェッレロ再選、共産主義者であれと鎌・槌は棄権(54)、アリアンナ・ウッシ19票(共産党再建のために派)。
 党中執は主にフェッレロ派で構成、共産主義者であれは左派構成。
 2014年EU選はツィプラスとともに別の欧州に参加、別の欧州は3議席獲得。
 共産主義者であれは分裂し、一部は2014年SEL参加。他は2015年イタリア左翼結成参加。
 2017年大会ではパオロ・フェレッロとエレオノラ・フォレンツァから動議。フェレーロが71.5%でマウリツィオ・アチェルボが書記。
 2018年選挙のためにPRCはPCI、反資本主義左翼共産主義者レーテレーテユーロストップジョルジョ・クレマシ)その他の運動、グループと
    ナポリの社会センター旧Opg(open government partnership)の”Je so' pazzo”活動家ヴィオラ・カロファロを指導者として人民への力Potere al Popolo結成。
 結果は比例1.13%。

 2017年
  運動再建
  左翼再建
  共産主義左翼(左翼共産主義者?)
  未来都市 共産主義左翼から分裂
  (鎌・金槌)
  (共産主義者であれ)
    2分裂し、シモネ・オッジオンニのグループはSEL、クラウディオ・グラッシのグループはイタリア左翼へ。

 2011年秋、8回大会からの潮流
 選択左翼に統一、危機の資本主義を去れ
  運動再建
  左翼再建
  共産主義者であれ
  共産主義左翼:2008年エルネスト分裂でジャンルイジ・ペゴロら結成。
 階級党のために
  鎌・金槌
  反潮流
 共産主義者たち
  共産主義左翼から分裂した共産主義者たち結集Comunisti Insieme、

 党内分派
 2004年党会議ではベルティノッティは59.2%の支持を獲得、反対派の強硬路線派のコスッタ派残党の共産主義者
クラウディオ・グラッシ)26.2%、トロツキストの批判左翼共産主義計画(プロジェクト)、鎌・金槌が合わせて14.6%。 
 共産主義計画は2006年選挙後、連合と2次プロディ政権参加に反対して離党。マルコ・フェランドのグループは労働者共産党
結成、フランチェスコ・リッチのグループは共産主義選択党を結成、離党しなかったグループは反潮流を結成。(マルコ・ヴェルッジョ、
アリ・ガデリ、ブルーノ・マンガナロら)
 2007年2月、批判左翼(赤旗連合の後継)の指導者フランコ・トゥリリアットサルヴァトーレ・カンナヴォとともにプロディ政権の
外交政策に反対し政権崩壊を招き追放され批判左翼は漂流、12月PRCを離党し党結成。
 指導者クラウディオ・グラッシのトゥリリアッティ追放賛成に反対する共産主義者フォスコ・ジャンニニ率いる集団がグループ
を離れ党内でエルネスト・グループ結成。
 2008年4月、厳しい選挙結果で主に以前のPDメンバーからなる旧ベルティノッティ・グループはパオロ・フェッレロ
ジョヴァンニ・ルッソ・スペナに率いられ他の少数派と提携し書記のフランコ・ジョルダノを辞任させる。彼らは左翼・虹連合と
ベルティノッティ路線を批判。
 2008年7月会議でフェッレログラッシ運動再建(40.1%)はニッキ・ヴェンドラのベルティノッティ派集団の
再建のための宣言(47.6%)と直面、ジョアンニのエルネストと反潮流(7.7%)、クラウディオ・ベロッティの鎌・金槌(3.2%)、
以前のベルティノッティの小グループ非武装・革新・再建(1.5%)がフェッレログラッシ・グループ参加を決定。
 フェッレロに敗北したヴェンドラは“左翼再建”結成し、2009年1月離党。
 2009年1月左翼再建のメンバーで離党(PRC)しないことを決めたグループは再建左翼A Sinistra con Rifondazione
を結成。ジュスト・カタニアミルツィアデ・カプリリトンマソ・ソダーノロサ・リナルディマリルデ・プロヴェラなど。
 アッピール署名ではミルツィアデ・カプリリトンマソ・ソダーノマリルデ・プロヴェラロサ・リナルディダミアーノ・グアリアルディ
アウグスト・ロッキなど。

 分派(潮流) 2011年

  運動再建Rifondazione in movimento 運動で再建
   以前のPDメンバーからなる旧ベルティノッティ派でパオロ・フェッレロジョヴァンニ・ルッソ・スペナに率いられ2005年大会で
  共産主義者グループに提携した集団。旧プロレタリア民主多数派。ローマン・マントヴァーニは旧共産党。
   2008年第7回全国政治委員会Cpnの23.2%となる。(280中65)

  左翼再建Rifondazione per la Sinistra RpS 左翼のために再建
   旧ベルティニッティ派を結集、ニッキ・ヴェンドラ率いる。ヴェンドラは旧ベルティニッティ派のパオロ・フェレッロに2008年7月
  大会で破れ組織化。
   1998−2008年までは多数派、2008年大会では47.3%で少数派。
   9月全国会議で調整者(コーディネーター)にジェンナロ・ミリオーレパトリツィア・センティネッリステファノ・ツッケリーニら。
   RpSの多くが離党のため2009年1月左翼のための運動MPS結成。調整者にエレットラ・デイアナティッティ・デ・シモーネ
  ダニエレ・ファリナアルフォンソ・ジャンニジェンナロ・ミリオーレアリ・ラシードエリザベッタ・ピッコロッティ共産主義青年同盟
  女性委員長)ら。SELに合流。
   残留組は再建左翼A Sinistra con Rifondazioneを結成。全国代弁者にアウグスト・ロッチ
   2008年大会で選ばれた134Cpnのうち90が離党し25を代わりに追加し計69となり31%を占める。
   47.3%のうち31%が分裂し、65%が残留。全国指導部28のうち5が分裂参加。

  共産主義者であれEssere Comunisti
   クラウディオ・グラッシが指導者。旧アルマンダ・コスッタ支持者。2008年大会でフェッレロと提携、Cpnの16.8%。
   2005年大会は多数派になれず26.5%獲得、ベルティノッティ−ジョルダーノ路線不支持。
   トロツキストと対抗するためしばしば他派と提携。
   共産主義運動や1980年代既成社会主義国や共産党の歴史肯定的、連合支持、ベルティノッティのヨーロッパ左翼に批判的、
  ただし多くは党のヨーロッパ左翼結成参加支持。
   分裂し始め一部は2014年SEL参加、2016年MDP参加。他は2015年イタリア左翼結成に参加。

 (エルネスト
   2007年共産主義者であれから分裂、フォスコ・ジャンニニジャンルイジ・ペゴロら、ベルティニッティ派との交渉を期待。
   フランコ・トゥリリアット追放にも反対。ディリベルトの共産主義者統一を支持。
   7回大会で7.7%。Cpnで7.9%。雑誌は1993年ルチオ・リベルティニらが発行。
   新多数派支持のためしCpnに入ったジャンルイジ・ペゴロが分裂し共産主義左翼結成。
   2011年6月、共産主義者党参加。

  共産主義左翼
   2008年11月エルネストから発生。ジャンルイジ・ペゴロら執行部参加の多数派支持派が結成。

  鎌・槌
   国際マルクス主義者傾向。2008年Cpnで2.3%、大会で3.22%。フェッロ・グラッシ路線支持。

  反潮流
   共産主義計画で離党しなかったグループ。2006年12月誕生。2008年Cpnでエルネスト議案支持。
   マルコ・ヴェルッジョ、アリ・ガデリ、ブルノ・マンガナロ。

  2013年党会議の党内グループ
   左派再建(第9回党大会の76%)
     フェレッロ派
     共産主義者であれ(グラッシ派):第9回党大会後多くは党から離れ左翼労働者を結成しSELなどとの提携の道を探る。
   左翼、階級、革命(8%)
     鎌・槌
   共産党再建のために(15%)
     独立派:第9回党大会で発生、サンドロ・タルゲッティ率いる。未来都市と赤い星集合など結集。
          書記にアリアンナ・ウッシ出馬。

   旧グループ
    歴史的多数派
     運動で再建:
     左翼再建
     左翼共産主義者:2008年ジャンルイジ・ペゴロ、サンドロ・タルゲッティが結成。エルネストが分裂、フォスコ・ジャンニニ派は
                エルネストにとどまる。8回大会で分裂し、ジャンルイジ・ペゴロの多数派は党多数派に参加、サンドロ・タルゲッティの
                少数派は党少数派支持し未来都市結成。9回大会でペゴロはグラッシ支持し左派形成。
    少数派
     未来都市:左翼共産主義者から8回大会で分裂。
     赤い星集合:青年同盟が主で左翼共産主義者と結びつきアリアンナ・ウッシが中心。

 PRCからの分裂
  1994年1月:ノルベルト・ナタリの共産主義者イニシアチヴ 
  (ベルティノッティがPRCの書記となり分裂、2001年、闘争共産党とともに秘密組織を結成し武装闘争を計画したとしてメンバーが逮捕される。
   2008年解散。闘争共産党は1981年、赤色旅団BRが分裂しバルバラ・バルツェラーニが結成。)
  1995年6月:統一共産主義者運動 
  (ランベルト・ディニ内閣信任した共産主義者が結成。多くはプロレタリア統一党から来ている。この党は1984年プロレタリア民主を去り
  PCIと合流し1991年のPDS転換で去り多くはPRC参加。
   ルーチョ・マーグリ、ファミアーノ・クルチャネッリルチアナ・カステッリナジャンフランコ・ナッピルチアーノ・ペッティナリ
  エルシリア・サルヴァトリノ・セッリなど。
   1996年選挙ではPDS名簿、1998年左翼民主主義者DS結成参加。DSで多くはファビオ・ムッシ、ジョヴァンニ・ベルリンゲル派。
   DSの民主党結成で多くは民主左翼結成に参加。2008年国のための左翼を結成し民主左翼から民主党に移り左翼へ結成。
   マーグリはDSに参加せずイル・マニフェストの編集者に戻る。)
  1996年5月:自主組織基礎委員会 
  (2005年創設者マラ・マラヴェンダは共産主義者党名簿で選挙参加。)
  1997年11月:ジヴァンニ・バッチャルディ、レオナルド・マッツェイが共産主義・自主組織化連合
  (プロディ政権参加反対で分裂、1998年新党結成多数派と連合路線少数派に分裂、2000年一部グループが共産主義者評議会(レーテ)など
  他グループと共産主義調整への統一を試みる)
  1998年4月:人民行動(種々の左翼活動家がルカ・カザリーニ白いつなぎTute Bianche運動に参加)
  1998年10月:イタリア共産主義者党
  2000年1月:ミケレ・カプアノが人民民主・統一左翼
  (2004年共産主義者党のディリベルトと人民民主の書記ミケレ・カプアノにより人民民主の共産主義者党への合流がなされる)
  2006年4月:共産主義企画(プロゲット)−共産主義反対派再建、のち共産主義選択党
  2006年6月:労働者共産党 
  2006年11月:共産主義者統一
  2007年12月:批判左翼
  2008年7月左翼に統一UaSはPRCとのいかなる協力もやめ、2009年11月ピエトロ・フォレナは民主党参加。
  2009年1月:左翼のための運動左翼・エコロジー・自由SELへ)
  2011年2月:エルネストが共産主義者党に移る。
  2013年10月:反潮流が分裂し労働者左翼反潮流連合となる。
  2014年共産主義者であれの多くは党から離れ左翼労働者を結成しSELについでイタリア左翼に参加。
  他は2015年イタリア左翼結成に参加。
  2015年9月人民戦線
  2016年鎌・金槌が左翼階級革命結成。

左翼に統一Uniti a Sinistra UaS 
  PRCと関連する2005年7月結成の左派ネットワーク・グループ。
  2005年4月ピエトロ・フォレナ(ヴェルトロニに近い左翼民主指導的メンバー)、フランチェスコ・マルトニ(緑連合から分裂)が離党し
 PRC参加。2005年7月彼らはアントネロ・ファロニ(SDの元議員、オケットのカンティエレ)、CGILパオロ・ネロッツィジャンニ・リナルディニらと
 ファウスト・ベルティニッティヨーロッパ左翼計画に参加希望の左派グループネットワーク結成。これに2006年3月アルマンド・コスッタ
 の娘のマウラ・コスッタが参加。
  7月にはアルド・トルトレッラ、ピエロディ・シエナの左翼再建連合ARS、アレッシオ・ダマト、ジャンフランコ・パリアルトの赤緑連合と
 学習会開催。11月集会でフォレナは1万5千の個人と250グループが UaSの周辺にいると報告。
  民主党の左傾化やPRCとPdCI、その他ARS、緑連合、オケットのカンティエレ等との統合に勤める。
  2006年選挙ではフォレナ、ファロミ、マルトニ全員再選、2007年には左翼に統一UaSは熱心に左翼・虹支持。
  2008年選挙結果ベルノッティ派がPRCの主導権喪失しUaSはPRCとのいかなる協力もやめる。
  6月左翼政治運動発足。7月ロベルト・マストロヤンニを指導者とする。
  2009年EU議会選では反資本主義名簿候補支援。11月ピエトロ・フォレナは民主党参加。

 *ピエロ・ディ・シエナ、ビアンカ・ポメランツィを指導者として左翼再建連合、欧州左翼フェミニスト評議会、環境主義者結び目(ノード)、
 21世紀社会主義、統一左翼が結成、左翼虹を引き継ぐ、ピッコロ・エリシオが政治文書発表。  
 と左翼に統一左翼政治運動の発表ではなっている。


左翼連合
 2009年7月資本主義名簿の後継として結成される。
 共産主義再建党PRC(43%)、イタリア共産主義者党PdCI(29%)、社会主義2000(14%)、3月23日連合”労働−連帯”(14%)。
3月23日連合”労働−連帯”はCGIL左派と結びつき2007年結成されるが、グループは2001年から存在、指導者はジャン・パオロ・パッタ
 共産主義者ネットワーク(レーテ、1998年結成)がオブザーバー。
 2010年地域選挙(13地区)では9地区で民主党、中道左派と連合。トスカーナでは緑、マルケでは左翼・エコロジー・自由と連合。
 2.12%、10議席獲得、民主党26.07%、192議席、左翼・エコロジー・自由2.13%、18議席。
 2012年9月社会主義2000労働−連帯は合同し労働党運動となる。
 2012年11月連合は事実上崩壊。
 アントニオ・イングロイアが12月、市民革命を結成しこれに価値のイタリア、オレンジ運動、PRC、PdCI、緑連合(アンジェロ・ボネッリ)が参加。
 イングロイアは民主党から強い批判を受ける。
 ルイジ・マジストリス(ナポリ市長、元価値のイタリア)のオレンジ(アランチオーネ)運動、、ヴィオラ(紫)人民なども支持。
 フランコ・ラ・トレサンドロ・ルオトロジョヴァンニ・ファヴィアロベルト・ソフリッティなどがイングロイアに参加。
 2013年選挙結果は下院で2.25%で議席確保できず。
 2014年EU選はアンドレア・カミッレリ、パオロ・フロレス・ダルカイス、ルチアノ・ガッリノ、マルコ・レヴェッリ、グイド・ヴィアレらの呼びかけで
ツィプラスとともに別の欧州が結成され、これに海賊党、PRC、SELなどが参加、PdCIは途中で撤退。
 他に労働党(チェザレ・サルヴィ)、市民行動(アントニオ・イングロイア)、無神論者民主主義(カルラ・コルセッティ)などの小グループ参加。
 結果は4.03%で3議席獲得。

反資本主義名簿) 
 2009年EU議会選のため下記組織が結成。欧州統一左翼、北欧緑左翼参加
  共産主義再建党PRC(パオロ・フェッレッロ)
  イタリア共産主義者党PdCI(オリヴィエロ・ディリベルト)
  社会主義2000チェザーレ・サルヴィ
  統一消費者(ブルノ・デ・ヴィタ)
 現役議員はPRCのヴィットリオ・アグノレット、ジュスト・カタニア、PdCIのマルコ・リッツォ。
 候補はPRCが47(65.3%)、PdCIが21(29.2%)、社会主義2000が4、
 オリヴィエロ・ディリベルト、リディア・メナパーチェ、マルゲリタ・アック(1922年生、天文学者)、ヴァレリオ・エヴァンジェリスティ(作家)、
ディジャナ・パヴロヴィッチ(女優、ロマ)、ジュスト・カタニアなど。
 結果は3.3%、0議席。


イタリア共産主義者党Partito dei Comunisti Italiani PdCI 1998年ー
 *共産主義者党という奇妙な和訳は通常の共産党がComunista=単数の共産主義者の党であるのに対し、
Comunisti=複数の共産主義者の党という命名に起因する、つまりイタリア共産主義者党は単一の
共産主義者の党ではなく多様な共産主義者の党であることを意味する。

 1998年、PRCからコスッタに率いられて分裂。現在の指導者はオリヴィエロ・ディリベルト
 EU議会ではヨーロッパ統一左翼ー北欧緑左翼グループ
 分裂理由は多数派がプロディ内閣に参加してその行動でプロディ内閣を倒したこと。
 政権離脱はトロツキストとクラウディオ・グラッシ率いる旧コスッタ派の一部の支持で決定された。
 PdCIには3万の登録者と議員27名が参加、左翼民主党からはアダルベルト・ミヌッチが参加。
 新党はすぐにダレマ政権に参加し、オリヴィエロ・ディリベルトカティア・ベリッロが入閣。
 議員の多くはコスッタに従ったが1999年EU選挙はPdCI2.0%、PRC4.3%となった。
 コスッタとルーチョ・マニスコがUE議員となる。
 初期はコスッタに指導され2000年中央委員会はほとんど満場一致でコスッタ提案支持、ディリベルトが全国書記となる。
 リナシタ祭りには多くのイタリア知識人が参加、なかに著名な天文学者マルゲリタ・アックがいた。
 2001年選挙は1.7%、9議席。
 2004年EU選挙では2.4%で2議席、マルコ・リッツォウンベルト・グイドーニ(1996年コロンビア、2001年エンデヴァーで宇宙飛行士
を経験)が議員となる。選挙前はコスッタが議員になると思われていたがリッツォに押しのけられた。(10325対7802)
 2004年7月人民民主(統一左翼)が合流。(2000年1月RCPから分裂。)
 2005年2月連合成立。PdCIはベルティノッティを指導者に支持しようとしたが拒絶されプロディ支持。(プロディ74.1%支持)
 2006年全国指導部にマルゲリタ・アック、ウンベルト・グイドーニ、歴史家ニコラ・トランファリアらが参加。
 2006年選挙候補からコスッタの娘マウラ・コスッタらが排除されコスッタらは職を放棄し一部は左翼赤緑連合ジャンフランコ・パリアルロ
ら)結成、ガブリエラ・ピストネは拳にバラに移る。アレッシオ・ダマートは環境と労働に参加、2007年民主党合流。
 2006年の総選挙では下院は勝者の連合(プロディ率いる中道左派選挙連合、PDS、デイジー、PRC、FVなど参加)
に加わり2.3%で630議席中16議席、上院は緑連合統一消費者(1999年地域政党が結成、連合加盟)と連合し315中11議席。
 2次プロディ政権PdCIに近いアレッサンドロ・ビアンキ(2008年3月民主党参加)入閣。
 6月コスッタが議長辞任、2007年4月離党。
 2006年アフガニスタン問題等で連合内と党内に亀裂発生、カティア・ベリッロとマルコ・リッツォが対立。
 フェルナンド・ロッシ離党し2007年9月統一消費者市民政治運動結成。
 2007年4月コスッタ(2000年まで書記以降議長)のいない初めての全国大会。ディリベルト(書記、2000年ー)の路線が98.8%の
支持を受け、議長はアントニオ・クッファロとなる。
 11月ディリベルトは代表団を率いモスクワのロシア10月革命90周年記念式典参加。
 11月最終的に左翼・虹に乗り出す。2008年左翼・虹は3.1%で議席0。
 この結果ディリベルトはマルコ・リッツォらの批判を受ける。左派は左翼・虹で共産主義者色が薄まったと批判、PRCとの再統合を主張。
 ディリベルトはこれに追従、カティア・ベリッロ、ウンベルト・グイドーニらがこれを後戻りと批判。
 6月の大会には2007年の約2万9千の登録者のうち14%が投票に参加、リッツォらの提案は84.3%、ベリッロら(左翼を統一)の
提案は13.3%。少数派は離党はせず左翼を(に)統一結成。ニコラ・トラファリアは離党、ロサリオ・コレッタは民主党参加。
 2009年2月左翼を統一左翼構成のような左翼統一を目指し分裂、EU議会選で左翼のための運動、緑連合、社会党(リカルド・ネンチーニ)、
 民主左翼(クラウディオ・ファヴァ)と左翼と民主を結成。結果は3.2%、0議席。これは2010年左翼・エコロジー・自由(SEL)となる。
 3月PRC、PdCI、社会主義2000(チェザーレ・サルヴィ)、統一消費者はEU議会選のため反資本主義名簿結成。これは過去にPRCとPdCIが結成した
共産主義構成を目指している。
 6月マルコ・リッツォが追放され7月、政治運動共産主義者−人民左翼結成を発表。これには歌手のアンドレア・ミンガルディ
フランチェスコ・バッチーニらが参加。リッツォは選挙で価値のイタリア、特にジャンニ・ヴァッティモを支援したことを批判された。
 共産主義者−人民左翼は共産党となる。これは2013年からヨーロッパ共産主義者・労働者党イニシアチブに参加。
 ヨーロッパ共産主義者・労働者党イニシアチブは2013年ギリシャ共産党の主導で結成された。
 7月反資本主義名簿の発展で左翼連合がPRC、PdCI、社会主義2000、3月23日連合”労働・連帯”(ジャン・パオロ・パッタ)によって結成される。
 (2012年社会主義2000、と”労働・連帯”は合同し労働党結成)
 2011年、PRCのエルネストが参加、第6回大会ではエルネストの活動家が指導部に入る。また反マフィアの司法官アントニオ・イングロイアが出席して憲法を
守ると発言、また哲学者のドメニコ・ロスルドが党に参加。外国からは中国共産党、、ロシア共産党、キューバなどから代表が出席。
 2012年12月、アントニオ・イングロイアが翌年の総選挙のため、市民革命を結成、これに価値のイタリア、オレンジ運動、PRC、PdCI、
緑連合が参加。
 2013年指導者がチェザレ・プロカッチニに交代。
 2014年EU選は参加せず。
 同年12月イタリア共産党partito comunista d'italiaを名乗ることを決定。
 2016年1月PdCIはPRCの一部の活動家、共産党再建連合などとイタリア共産党結成。書記はマウロ・アルボレシ、議長はマヌエラ・ペレルミ
 2018年選挙は人民への力をPRC、共産主義者レーテ反資本主義左翼フランコ・トゥリリアット)などと結成し1.13%。

(分裂)
 2005−2006年にディリベルトと対立したグループが2005年、赤緑連合、2006年左翼赤緑連合を結成し2007年民主左翼に合流。
 2007年、左翼・虹の敗北でカティア・ベリッロ、ウンベルト・グイドーニが離党。
 2009年、マルコ・リッツォが追放され政治運動共産主義者−人民左翼結成を発表。
 共産主義者−人民左翼は共産党となる。これは2013年からヨーロッパ共産主義者・労働者党イニシアチブに参加。
 2013年市民革命の結果に失望したフランチェスコ・フランチェスカリアらがSELに合流。

左翼を統一Unire la Sinistra 
  PdCl内分派、指導者は以前の大臣カティア・ベリッロとEU議員ウンベルト・グイドーニなど。
  2008年7月の党会議前に左翼・虹連合継続賛成派が結成。
  書記選でベリッロディリベルトに敗北、党内民主主義不足批判。
  2009年EU選のため、左翼のための運動緑連合民主左翼、社会党と左翼と自由結成。

左翼と自由(リベルタ)
 2009年3月に結成された6月EU選のための選挙連合。
  緑連合(グラツィア・フランチェスカート)、2EU議員(欧州緑党)
  左翼のための運動(ニッキ・ヴェンドラ)、2EU議員(欧州左翼党)
  社会党(リカルド・ネンチーニ)、4EU議員(欧州社会党)
  民主左翼(クラウディオ・ファヴァ)、4EU議員(欧州社会党)
  左翼を統一(ウンベルト・グイドーニ)、1EU議員(欧州左翼党)
 が参加。結果は3.2%、0議席。

 11月社会党のネンチーニは左翼と自由の終焉宣言。

左翼・エコロジー・自由SEL)
 2009年欧州議会選挙後、左翼と自由の後継組織として2009年3月単一党として結成されるが、その後、新指導者アンジェロ・ボネッリ
緑が結成から離脱し、ロレダーナ・デ・ペトリスら結成支持グループはエコロジストを結成。
 社会党でも反対派のボブ・クラクシ、サヴェリオ・ザベティエッリらが統一社会主義者結成、結局社会党は合同に参加せず、支持少数派が
社会主義と左翼(フランコ・バルトロメイ)結成。
 結局、民主左翼クラウディオ・ファヴァ)、左翼のための運動ニッキ・ヴェンドラ)、左翼を統一ウンベルト・グイドーニカティア・ベリッロ)、
エコロジスト(ロレダーナ・デ・ペトリスグラッツィア・フランチェスカート)、社会主義と左翼(フランコ・バルトロメイ)が参加。
 指導者はニッキ・ヴェンドラ、その他中心メンバーはクラウディオ・ファヴァロレダーナ・デ・ペトリスウンベルト・グイドーニエレットラ・デイアナ
(旧PRC)、ジャンニ・マッティオリ環境主義者)、ジェンナロ・ミリオーレ旧PRC)など。その他エヴァ・カティツォーネリカルド・ディ・パルマ
 支持者にはマルチェロ・チーニジョルジョ・パリジエンリコ・プリエーゼマッシーモ・スカリアなどの著名な学者やロッサーナ・ロサンダ
ルチアーナ・カステッリナアキッレ・オケットなどの古参政治家がいる。
 2011年地域選挙での主要29都市の得票は民主党26.2%、自由の人民22.8%、北同盟5.6%、SEL4.6%、UDC4.2%、価値のイタリア
4.0%など。マッシーモ・ゼッダがカリアリ市長に当選。ミラノ市長に近いジュリアノ・ピサピア当選。
 2012年、民主党、左翼・エコロジー・自由SEL、イタリア社会党、民主中道CD(タバッキマシモ・ドナディ)によって選挙連合良きコムーネが結成され、
ニッキ・ヴェンドラは指導者選で15.6%で3位。
 アルト・アディジ/南チロル緑がイタリア緑連合の方針に反し、SELの名簿に参加決定。
 2013年選挙はイタリア・良き共同体(PD、SEL、PSI、CD)で参加、結果は下院37議席、上院(セナト)7議席。
 SELはエンリコ・レッタ政権(自由の人民市民選択が参加)に参加せず反対派となる。
 2014年EU選はツィプラスとともに別の欧州に参加。
 同年レンツィ政権の消費税問題でジェンナロ・ミリオレら17名がこれを支持し、ニコラ・フラトイアンニら15名が反対。
 これによりPD参加者とSELから離れ混合グループ参加者が発生。
 フェルディナンド・アイエッロミケレ・ラゴスタらPD参加。
 混合グループ参加者のジェンナロ・ミリオレ、クラウディオ・ファヴァティッティ・ディ・サルヴォイレアナ・ピアッツォニアレサンドロ・ザンらは
自由と権利LED−欧州社会主義者を結成、これには5星運動を離れたヴィンチェンツァ・ラブリオアラが参加。自由と権利は民主党参加。
 ラブリオラはPDには参加せず2017年強いイタリア参加。
 2015年アントニオ・マタレリ去り混合グループ、更に自由選択ーポシビレ参加。(2017年には民主と進歩運動)
 2015年11月SELは議会でPDから分裂した左翼への未来とイタリア左翼結成。
 2016年12月イタリア左翼は単一党となりSELはこれに合流。


[イタリア左翼SI]
  SIは2015から2016年に議会グループとしてSELと左翼への未来(ステファノ・ファシナ)と5星運動離脱者(ファブリツィオ・ボッキノ、
 フランチェスコ・カンパネリ)により結成。
  SIは2015年11月結成され、間もなくSI-SELとなりアルトゥロ・スコットが代表でこのとき32下院議員を含み、内25名がSELから、
 6名が元PD(ファシナ、アルフレド・ダットレ、カルロ・ガリ、ジョヴァンニ・マルテッリ、モニカ・グレゴリ、ヴィンチェンツォ・フォリノ)とクラウディオ・ファヴォ
  翌年3月8上院議員(5名SEL、2名元5星運動でツィプラスと別のヨーロッパ、1名民主党から)加わる。
  2017年初めに単一党として政党化、指導者は二コラ・フラトアインニ(旧SEL)。
  結成大会にはジュゼッペ・チヴァティ、ルイジ・デ・マジストリス、マウリツィオ・アチェルボ、シリザSyriza(ギリシャ)、ポデモス(スペイン)、ヨーロッパ左翼の諸党
 の代表も出席。
  結成大会の余波で18下院議員が去り(13下院議員、8上院議員、2EU議員を残し)、アルトゥロ・スコット率いる17下院議員が離党し民主と進歩運動
 に参加。スコットは新党がレンツィのPDとの将来の提携を排除していることを批判。
  ポシビレの4議員が議会グループに参加。ラウラ・ボルドリニ(元SEL)は混合グループへ。
  フランチェスコ・カンパネリ(元5星)が去り、7上院議員となる。
  メンバーには元PDのファッシナ、グレゴリ、上院の元5星運動のボッキノらを含む。
  ヨーロッパ左翼党にオブザーバ参加。
  SIは2018年選挙のために民主と進歩運動、ポシビレと自由と平等結成。

左翼への未来
  2015年レンツィに批判的であったステファノ・ファシナがモニカ・グレゴリと民主党離党し7月左翼への未来結成。
  左翼への未来はSELと5星運動離脱者(ファブリツィオ・ボッキノ、フランチェスコ・カンパネリ)と議会グループ結成。
  2016年左翼への未来はイタリア左翼SIに合流。

[ポシビレ]
  ジュゼッペ・チヴァティは2015年5月にPDを離党し、6月ポシビレを発足、これには同じく民主党を離党したルカ・パストリノベアトリチェ・ブリニョネ
 アンドレア・マストリ、元SELのトニ・マタレッリが参加。
  11月チヴァティはポシビレの他の3議員と5星運動から離れたワルテル・リゼットら10議員の自由選択ALが支配する
 混合グループに参加し自由選択−ポシビレとなる。
  トニ・マタレッリは2017年3月ポシビレを去り民主と進歩運動参加。ポシビレはALと別れる。
  2017年12月ポシビレはMDP、SIと2018年選挙のため自由と平等を上院議員のピエトロ・グラッソを指導者として結成結成。

[憲法1条 民主と進歩運動]
  2017年2月憲法改訂国民投票敗北のあとのレンツィ辞任とともに民主党のロベルト・スペランツァ、ピエル・ルイジ・ベルザーニ、エンリコ・ロッシ、
 マッシーモ・ダレマ、ら21名が民主と進歩運動MDP結成。
  MDPにはSI(SEL系)からフランチェスコ・フェララ、アルトゥロ・スコットらも参加。下院44名、上院16名で構成。
  PDから24下院議員と14上院議員参加。
  SIからも17下院と1上院、その他、2下院が混合、1が市民と改革者、1上院独立。(うち1下院と2上院が元5星運動)
  2017年12月MDPとSI、ポシビレはPDの上院議員ピエトロ・グラッソを指導者として民主党の左に位置する選挙連合自由と平等結成。
  結果は比例で3.38%、14議席。

 *5星運動は議会に参加して最初の3年間で18名の下院、19名の上院議員が去っている。
  主なものは
  2013年6月下院議員のヴィンチェンツァ・ラブリオラ(2017年強いイタリア)、アレッサンドロ・フルナリが混合グループに移動。アデレ・ガンバロ追放。
  アドリアノ・ザカニニが混合グループのち2014年SI-SEL、2017年民主進歩運動。
  2013年10月アデレ・ガンバロ、ファビオラ・アニトリ、パオラ・デ・ピン、マリノ・マストランジェリ(2013年4月離脱)がレッタ政権信任。
  10月上院パオラ・デ・ピン(2015年偉大な自治と自由)、ファビオラ・アニトリ(2014年人民領域)、アデレ・ガンバロ(2015年自由人民−自治同盟ALA)
 が元5星運動の上院議員と人民行動参加グループGAPPを結成し混合グループとなる。
  2014年2月ルイス・アルベルト・オレラナ(2015年自治のために)、フランチェスコ・カンパネラ(2017年民主・進歩運動へ)、ファブリオ・ボキノ(2016年
 イタリア左翼)、ロレンツォ・バティスタ(2017年民主・進歩運動へ)。
  2014年2月 イヴァン・カタラーノ(2016年市民と改革者)、アレッソ・タコーニ(混合から2015年4月PD)。
  3月アレサンドラ・ベンチニ(2015年価値のイタリア)、ラウラ・ビグナミ、モニカ・カサレット(2015年偉大な自治と自由)、マリア・ムッシニ
 マウリツィオ・ロマニ(2015年価値のイタリア)。
   ビグマニ、ムッシニ、ロマニはすでに去っていたバルトロメオ・ペペ(2015年偉大な自治と自由)と混合グループ結成。
  4月クリスティナ・デ・ピトロ(2017年強いイタリア)。
  11月マッシモ・アルティニ(2015年自由選択)、パオラ・ピンナ(2015年市民選択、2016年民主党)。
  12月トマソ・クロ(2015年民主党)更に上院:ジュゼッペ・ヴァッチアノイヴァナ・シメオニ
  2015年1月9日クリスティアン・ランヌッツィ
  27日、9名の下院議員、マラ・ムッチ(2016年市民と改革者)、セバスティアノ・バルバニ(2016年民主党)、タンクレディ・トゥルコ(AL-P)、
  ワルテル・リゼット(2016年イタリアの同胞)、アリス・プロダニ(2015年自由選択P)、ジェシカ・ロステラト(2015年民主党)、
 サムエレ・セゴニ(2015年自由選択P)、マルコ・バルダサレ(2015年自由選択P)、エレノラ・ベキス(2015年自由選択P)、
 上院:フランチェスコ・モリナリ(2016年価値のイタリア)。
  12月セレネラ・フクシア(2016年自由連合)。
  2017年1月EU議員のマルコ・ザニ(2017年ヨーロッパ自由と民主連合)、マルコ・アフロンティ(2017年ヨーロッパ緑)。
  2017年4月リカルド・ヌティジュリア・ディ・ヴィタ

  民主党へ参加・・・        トマソ・クロ パオラ・ピンナ セバスティアノ・バルバニ アレッソ・タコーニ
  民主進歩運動へ参加・・・   ロレンツォ・バティスタ フランチェスコ・カンパネラ アドリアノ・ザカニニ
  SIへ参加・・・           ファブリオ・ボキノ

 自由選択(Alternativa Libera)
  2015年1月、自由選択ALが5星運動から分裂して結成される。指導者のワルテル・リゼットによると7名の上院議員を数えるというが確認されない。
   (恐らくイタリアの仕事進行中X運動を含むだろう)
  他の主要人物はマッシモ・アルティニ
  4月10人の下院議員のうちのジェシカ・ロステラトが民主党に移る。
  7月ALはマッシモ・アルティニの左派とワルテル・リゼットの右派に分裂、アルティニはジュゼッペ・チヴァティと話し合いポシビレ参加を検討。
  リゼットは北部同盟とイタリアの同胞の橋渡しをする。
  11月アルティニ、マタレッリ、マルコ・バルダサーレ、エレノア・ベッキス、サムエル・セゴニ、タンクレディ・トゥルコの多数派はポシビレと混合グループ結成。
  これでリゼット、セバスティアノ・バルバニ(2016年民主党)、マラ・ムッチアリス・プロダニが分裂。間もなくマラレッリは直接ポシビレに参加、
  ムッチは市民と改革者に参加。
  2017年3月ALは政党として独り立ちし、アルティニがスポークスマン、クラウディオ・ピズトが代表となる。
  フェデリコ・ピツァロッティ(元5星運動)のグループと関係強化。

 X運動(Movimento X)
  X運動は上院の混合グループ内のグループ、2014年7月5星運動から離れた既存のイタリア作業進行中に参加しない4上院議員で発足。
  2015年指導者のマウリツィオ・ロマニが離れ、バルトロメオ・ペペがイタリア仕事進行中のパオラ・デ・ピンと緑連合に参加。
  マウリツィオ・ロマニは価値のイタリアに参加。マリア・ムッシニも離れラウラ・ビグナミだけ残る。

 イタリア仕事進行中(Italia Lavori in Corso)
    2014年5月ファブリオ・ボキノフランチェスコ・カンパネラロレンツォ・バティスタルイス・アルベルト・オレラナモニカ・カサレットアレサンドロ・ベンチニ
   パオラ・デ・ピンアデレ・ガンバロバルトロメオ・ペペ ら9人の元5星運動の上院議員が結成。翌月7人が去り、残ったファブリオ・ボキノ、
   フランチェスコ・カンパネラは別のヨーロッパ(2014年のEU選で結成)を上院混合グループの副グループとして結成。2人は2016年イタリア左翼に参加。

 人民参加行動グループGAPP(Gruppo Azione Partecipazione Popolare )
   2013年10月元5星運動のアデレ・ガンバロ、ファビア・アニトリ、パオラ・デ・ピンと上院議員アドリアノ・ザッカリニが結成した混合グループ。
   レッタ政権と、レンツィ政権を支持。
   2014年5月アデレ・ガンバロはパオラ・デ・ピンとイタリア仕事進行中参加。ファビア・アニトリは12月人民領域に参加。
   人民領域は新中道右派NCD、中道連合UdC、及び市民選択と5星運動からの分裂者が結成。


共産党
 マルコ・リッツォが2009年、イタリア共産主義者党から追放され共産主義者 人民左翼結成。
 ナルコ・バルディニダルウィン・パストリンらが参加。
 2012年シンボルに共産党と鎌と金槌を加える。
 2013年総選挙は海外分でセナト7566票(うちフランスで2100票)、カメラ7073票。
 2013年からヨーロッパ共産主義者と労働者党イニシアチヴに参加。
 (2013年ギリシャ共産党が中心でブリュッセルで結成。)
 2014年共産党となる。
 2017年共産主義者・労働者党国際会議参加。
 (1998年ギリシャ共産党が発足させる、2009年から国際共産主義者レビュー発行。)
 2018年選挙は比例0.32%。


民主左翼SD) 2007年ー2010年  
 2007年5月の左翼民主主義者DSの民主党PDへの移行に際し、ファビオ・ムッシガヴィノ・アンジュス民主と社会主義)の
グループにより結成。
 議会グループはカメラ21名(トゥッティ・ディ・サルヴォヴァルド・スピニら)、セナト12名(チェザレ・サルヴィ、シルヴァナ・ピサら)。
 新民主党に反対のムッシアンジュスらは約25%であったが、マウロ・ザニ、マッシーモ・ブルッティ、セルジョ・ジェンティリらは留まった。
 ムッシは緑連合FV、PRC、PdClなどとの連携を志向、アンジュスはヴァルド・スピニ、フランコ・グリリッニらとイタリア民主社会主義者
との連合を求め、民主と社会主義を結成し社会党結成に参加。
 12月左翼・虹に参加。同月アッキレ・オケット参加。
 オケットは1994年選挙敗北でPDS書記長を辞任してからPDS、DSで指導的役割を果たすことなく、2004年党を去り、
アオントニオ・ディ・ピトロと一緒の名簿でEU議会選で2.1%、2議席獲得、しかしオケットは議席をジュリエット・キエッサに譲る。
 やがてアオントニオ・ディ・ピトロ価値のイタリアを結成し、オケットは良き共同体のための造船所(カンティエレ)を結成、これには
ジュリエット・キエッサアントネッロ・ファロミディエゴ・ノヴェッリ(以上元共産党)、パオロ・シロス・ラビニエリオ・ヴェルトリ(元社会党)が参加。
 これは選挙では連合(ウニオーネ)の左派を支持。2006年ディ・ピトロが大臣となり代わりにオケットがEU議員(欧州社会党グループ)となる。
 やがて意見相違で2007年辞職。
 2008年1月オルガ・ダントナファミアノ・クルチャネッリ、パオロ・ネロッツィ、マッシーモ・チャレンテらが党を批判し国のための左翼を要求。
 2月クルチャネッリがSDから民主党へ移ることを発表。ワルテル・ヴェルトローニアレッサンドロ・ビアンキ(共産主義者党独立派)、
ジャンフランコ・パリアルロが参加表明。3月、国のための左翼Una Sinistra per il Paese連合の考えが生まれる。
 国のための左翼と民主党グループの連合はヴェルトローニ支持の左翼へを支援。
 左翼へA Sinistraは民主左翼にいかず民主党に留まったアンジュス提案支持者が結成した民主・世俗分離・社会主義と、ムッシ提案支持者
結成の左翼のDi Sinistra(ヴィンチェンツォ・ヴィタ)、労働派−自由社会主義者(主要支持者は社会党結成)が結成。
 国のための左翼は7月民主党の左翼へと正式合流。
 2008年プロディ政権崩壊による選挙は左翼・虹で3.1%で0議席。
 敗北でムッシ辞任しクラウディオ・ファヴァが跡を継ぐ。
 ムッシファヴァ共産主義者構成のような形態に否定的で左翼構成のような形態を展望。
 チェザレ・サルヴィはこれに不一致。
 PRCからのヴェンドラらの左翼のための運動分裂とPdCIからのカティア・ベリッロらの左翼を統一の分裂で2009年3月これに社会党(ネンチーニ)、
緑(フランチェスカート)を加えEU選挙のため左翼と自由結成。
 ガヴィノ・アンジュス、ヴァルド・スピニ、フランコ・グリッリニらの社会民主とチェザレ・サルヴィ、マッシーモ・ヴィローネの極左の離党で書記
クラウディオ・ファヴァファビオ・ムッシジョヴァンニ・ベルリンゲルに支えられ左翼統一を展望。
 これは左翼・エコロジー・自由SEL結成で実現、2010年ファヴァ民主左翼を解散。

 党から出たグループ

  ヨーロッパ社会主義のための左翼
   2007年結成、ヨーロッパ社会党に根ざした大社会党結成を目指す、2007年社会党に参加。ガヴィノ・アンジュス、ヴァルド・スピニら。

  国のための左翼
   IGCLと強く結びついた旧左翼民主主義者からなる民主左翼オルガ・ダントナファミアノ・クルチャネッリ、パオロ・ネロッツィ、
  マッシーモ・チャレンテジャンフランコ・パリアルロアンジェロ・ロマリオ)と旧イタリア共産主義者党メンバーが2008年2月結成。
   指導部がヨーロッパ社会主義からPRC路線へ接近することを危惧。
   7月民主党の左翼へと合流。

  社会主義2000
   2000年チェザレ・サルヴィがDS内で結成、DSの民主党結成参加で民主左翼結成に参加。伝統的社会主義者。
   2008年選挙で独立。2009年EU選で反資本主義名簿参加。
   2012年9月社会主義2000労働−連帯ジャン・パオロ・パッタ)と合同し労働党となる。
   労働党は2014年EU選でSEL、PRCと選挙連合の別のヨーロッパに参加。

左翼構成
 2007年以来左翼政党がPRC、PdCI、緑、SDあるいは共産主義者、社会主義者、環境主義者の間で進めている連合構想。
 2007年ベルティノッティが社会主義のための選択発表。2008年選挙で左翼・虹が結成される。
 2009年EU選のため左翼と自由結成。

共産主義者構成
 2006年以来提案されている共産主義者の統一への動き。2009年EU選のため反資本主義名簿結成される。


[労働者共産党]
 2006年PRCからトロツキストがマルコ・フェランドに率いられて結成。
 第4インター再建調整委員会(南米中心でアルゼンチン労働者党が最大組織)に参加。
 PRCの2次プロディ政権参加にはトロツキストの共産主義計画Progetto Comunistaが反対、このグループは連合協力に反対で
マルコ・フェランド、フランコ・グリソルに率いられ、2002年大会では鎌・金槌と提携し11%獲得、2005年大会では6.5%獲得。
 のちに労働者共産党PCLマルコ・フェランド)と共産主義選択党PdAC(フランチェスコ・リッチ)に分裂。
 2006年4月共産主義選択党PdACとなるグループ分裂、6月労働者共産党PCLマルコ・フェランド)となるグループ分裂、12月
ルイジ・イッツォの共産主義統一連合分裂。共産主義計画で離党しなかったグループは反潮流Controcorrente結成。
 2008年選挙では下院0.6%。
 2009年共産主義選択党から分裂したグループが加わる。
 2013年選挙では単独で下院0.3%。
 2017年、翌年の選挙のため左翼階級革命(2016年鎌・金槌がPRCから分かれ結成)と”革命的左翼のために”を結成。結果は0.08%。


イタリア共産党(ML)PCd’l(ml)) 1966−1991年
 1966年、PCIの路線を修正主義として批判するフォスコ・ディヌッチらのグループが設立。
 1968年、中ソ衝突で中国とアルバニア側につく。
 何回かの分裂を経て1991年解散し共産主義再建運動MRCに合流。
 1972年選挙で85838票、0.26%獲得。

イタリア共産主義者連合
 1968年雑誌人民奉仕からアルド・ブランディラリを指導者として結成された毛沢東派組織。
 1972年イタリア共産党(ML)Partito Comunista (Marxista-Leninista) Italianoとなり選挙に参加。
 1974年アルド・ブランディラリが追放され、労働者自主管理分野指導者のフランチェスコ・レオネッティが指導者となる。
 1978年分解。
 主な人物はアルド・ブランディラリの他にアンジェロ・アルヴァティ共同体と自由強いイタリア)、マルコ・ベロッキオ(映画脚本家、2006年拳にバラで立候補)、
アントニオ・ポリート(ジャーナリスト、マルゲリータ)、バルバラ・ポラストリニ(左翼民主党〜民主党)、ミケーレ・サントーロ(オリーヴ参加、ジャーナリスト)
リンダ・ランツィロッタニコラ・ラトーレ(1972年PCI、現PD)など。など。
 アルド・ブランディラリは1962年共産主義青年同盟FGCI全国委員長となり、1967年FGCIから去り鎌・金槌グループ(後の再建党のグループとは異なる)
結成。1968年イタリア共産主義者連合指導者となる、1975年これから分裂し、共同体と自由(カトリック運動)に関係。後強いイタリアへ。

<既成政党解散後のイタリアの政党−キリスト教民主と社会党勢力の行方>

 イタリア共産党の左翼民主党への転換と1992年の贈収賄疑獄によるキリスト教民主社会党の没落にという3大政党の消滅
によりイタリアの政党は大きな変化を生じた。
 旧共産党勢力を核にキリスト教民主党と社会党は左派(オリーヴの木民主党ヴェルトローニ連合)と右派(自由の家強い
イタリア
、ベルルスコーニ連合)に分かれていく。

社会党(1892−1994年)は
 1992年、社会党のクラクシの周辺に贈収賄疑獄が発生した。その年の選挙は下院13.62%で何とか乗り切った。
 11月全国会議では11年のクラクシ派満場一致が崩れ、議案は親クラクシのジュゼッペ・ラ・ガンガ63%、親マルテッリ
マウロ・デル・ブエ33%、ヴァルド・スピニ20%となった。
 1992−1993年疑惑は拡大し多くの社会党の地域政治家が告発・逮捕された。
 1993年初めクラウディオ・マルテッリが指導権に挑戦したがクラクシとともに疑惑で没落。
 1993年2月クラクシは党書記長を辞任。ジョルジョ・ベンヴェヌートが書記、ジーノ・ジュニが議長。しかし間もなくクラクシ派により辞任
を余儀なくされ、オッタヴィアノ・デル・トゥルコが書記。エンツォ・マッティナ社会主義者復活グループ結成(1995年労働連合合流)。
 1993年の地方選挙で社会党は惨敗。同年クラクシに近いジュリアーノ・アマト首相が辞任。
 12月の最後の全国大会でクラクシ派は指導権を握ろうと試みたがデル・トゥルコ支持156票、クラクシ派116票であった。
 財政危機で雑誌労働者世界社会批判が清算。新聞前進も終刊。
 1994年1月ウゴ・インティニと他のクラクシ派(ボニヴェル、ピロ)は社会主義者連合結成すぐ社会主義リベラル運動となる。
 議会グループは親デル・トゥルコグループと親クラクシグループに分裂。
 1994年の選挙は進歩として選挙連合で2.1%となる(1992年は13.6%)、候補は多くは党内左派(デル・トゥルコ派)であった。
 1992年の92下院議員、49セナートから14下院議員、6セナートとなった。エンリコ・ボゼリ(SI)、カルロ・カルリ労働連合FL)、
オッタヴィアノ・デル・トゥルコ(SI)、ロザリオ・オリヴォジュゼッペ・ペリクヴァルド・スピニら。
 その他強いイタリアセニ協定ジョリオ・トレモンティ)、民主連合ジョルジョ・ベンヴェヌート)、カルロ・リパ・ディ・マネーラ)に
参加した。
 EU選挙は民主連合と共同名簿で1.8%。
 1994年11月13日解散。
 他党に参加しない社会主義者はエンリコ・ボゼリオッタヴィアノ・デル・トゥルコロベルト・ヴィレッティリカルド・ネンチーニ
チェザレ・マリーニイタリア社会主義者SI(1994−1998年)、ヴァルド・スピニアントニオ・ルベルティ労働連合FL(1994−
1998)結成。
 SIは1998年、イタリア民主社会主義者SDIに合流し、FLDSに参加していった。
 一方1994−1996年にクラクシ派などが強いイタリアに参加、他は改革社会党(1994年、エンリコ・マンカ
ファブリツィオ・チッキット)を結成。これは1996年ウゴ・インティニミケリス社会党PS(1996−2001)に合流。
 クラクシに近いジャンニ・デ・ミケリス社会党PS(1996−2001)を結成。
 SIから発展したSDIと2001年結成された新イタリア社会党NPSIが旧社会党の後継を主張。
 SDIとNPSIは非常に小さい政党で多くは強いイタリアFI、DSマルゲリータに参加。
 2006年4月第15議会およびEU議会では旧社会党は63議員で強いイタリア33、PS13(アレッサンドロ・バッティロッキオ
エンリコ・ボゼリマウロ・デル・ブエジャンニ・デ・ミケレスピア・エルダ・ロカテッリヴァルド・スピニロベルト・ヴィレッティら)、
PD12(ジュリアーノ・アマトジョルジョ・ベンヴェヌートリンダ・ランツィロッタベアトリチェ・マニョルフィら)、自主管理運動
(2005年ラファエル・ロンバルド結成)1、新イタリア社会党1(ルチオ・バラーニ)、UDC1、独立1。(伊語版)
 英語版では2006年は全部で70名、強いイタリア38、SDI9(エンリコ・ボゼリピア・エルダ・ロカテッリロベルト・ヴィレッティら)、
DS8(ジョルジョ・ベンヴェヌートヴァルド・スピニジャンニ・ピッテッラら)、マルゲリータ5(リンダ・ランツィロッタら)、
NPSI4(アレッサンドロ・バッティロッキオマウロ・デル・ブエジャンニ・デ・ミケレスら)、自主管理運動2、イタリアの価値1、
UDC1、独立2(ジュリアーノ・アマトら)。
 2008年は65名で人民の自由44、民主党DP12(リンダ・ランツィロッタセルジョ・ツァヴォリウンベルト・ヴェロネージ
ジャンニ・ピッテッラティツィアーノ・トレウら)、社会党4(、アレッサンドロ・バッティロッキオジャンニ・デ・ミケレスピア・
ロカテッリ
ラピサルド・アンティヌッチ)、自主管理運動2、イタリアの価値2、UDC1。

 2007年、多くの以前の社会主義者、イタリア民主社会主義者新イタリア社会党分派、イタリア社会主義者
社会主義は自由民主左翼からの分離派などが新しい社会党結成を決定。

 社会党から生じた政党と政治運動
 イタリア民主社会主義者SDI 1998年、イタリア社会主義者SI、イタリア民主社会党ジャン・フランコシエトローマ
   ジョルジョ・カルタ)、労働連合社会党PS(1996−2001)などが結成。2007年解散。
   1999年EU議会選挙は2.1%。2001年選挙は緑連合と向日葵を結成したが2,2%。2204年はオリーヴの木
  で2名の議員。2001年、一部がNPSIへ、2004年は一部がイタリア民主社会党再結成。
   2005年SDIはイタリア急進主義と連合し拳にバラで選挙名簿。
   2006年、社会主義者統一から参加者、一方NPSIの一部が改革社会主義者を結成し拳にバラに参加。
   2006年の選挙は拳にバラで2.6%。
   2007年、全社会民主主義者、特に旧PSIの残党のためにPSIの伝統を基礎とする組織結成に乗り出す。
   一部(オッタヴァイノ・デル・トゥルコ)は民主党に加入。同年SDI社会党結成。

新イタリア社会党NPSI〕
   2001年設立、社会党(1996−2001年、ミケレス)と社会主義者同盟(2000年ボボ・クラクシ結成、クラウディオ・マルテッリ
  参加)により結成。
   2001年の選挙は自由の家で下院1.0%。
   2004年EU選挙で社会主義統一運動(2004年クラウディオ・シニョリレリノカ・フォルミカ結成)と選挙連合で2.0%獲得。
   ミケレスアレッサンドロ・バッティロッキオ選出。
   2005年自由の家から連合への移行をめぐって分裂。
   2006年は一方はイタリア社会主義者ボボ・クラクシ)として連合に参加、他方はNPSI−DCA結成(上院0.7%)。
   2007年、イタリア民主社会主義者SDI、イタリア社会主義者拳にバラ連合と社会党を結成しようとする
  グループ(マウロ・デル・ブエアレッサンドロ・バティッロキッオ)と自由の家との連合を望むグループ(ステファノ・カルドロ
  ルチオ・バラニ)に分裂。合流グループは社会党(2007−2008)を名乗る。

 イタリア社会主義者SI 1994年設立(エンリコ・ボゼリ)、1998年イタリア民主社会主義者を他のグループと結成。
 労働連合 1994年結成、PDSに接近。PDSのDS移行でこれに反対するグループはSIに参加。他はSDI結成。
   DS参加者は内部で労働者主義ーリベラル社会主義者を形成、DP移行で多くは社会党(2007−2008)合流。
   DP参加決定者は左翼へに参加し2008年統合。
 社会主義は自由 2003年設立(リノカ・フォルミカクラウディオ・シニョリレピエトロ・ラリッツァエンリコ・マンカ
   クルディオ・マルテッリルイジ・アンジェレッティ)、2007年社会党に参加。
 社会主義統一運動 社会主義は自由のメンバーが2004年設立、2006年SDI参加。大部分はSDI内で分派形成、2007年
   社会党参加。
 PSE−マンチーニ・リスト 1997年設立、選挙では左翼民主主義者DSと連合、2006年、SDI内の分派化。
 社会党PS(1996−2001)、1996年、ベッティノ・クラクシに近いメンバー(ウゴ・インティニエンリコ・マンカ
   ファブリツィオ・チッキットマルゲリータ・ビニヴェールジャンニ・デ・ミケレス)が設立。1966年の選挙で0.4%。
   1998年、一部がイタリア社会主義者SIに参加、他はイタリア民主社会主義者SDIに参加。その後、強いイタリア参加者があり、
   一方社会主義同盟(2000年ボボ・クラクシ結成)の加入もあり2001年、新イタリア社会党に合流
 イタリア社会主義者(I Socialisti Italiani) 2006年NPSIから分裂(ボボ・クラクシ)、2007年、社会党合流。
 拳にバラ 2005設立、2007年解散。SDIイタリア急進主義マルコ・パンネラエンマ・ボニノ)、拳にバラ連合(DS離脱者
   ランフランコ・トゥルチなどよりなる)、改革社会主義者などから参加。議会グループは社会主義者と急進主義者RNPと名称変更。
   2006年選挙は下院2.6%。
 統一社会主義者 2005年新社会党大会でサヴェリオ・ザヴェティエッリボボ・クラクシと統一社会主義者の完成のために中道左派路線を
   選択し自由の家との断絶を決め、エンリコ・ボゼッリのSDIと不一致で拳にバラのイタリア急進主義者と2006年選挙で社会主義者名簿結成。
   2007年イタリア社会主義者結成し社会党PSIの結成に参加。
   ボゼッリの党運営に批判的で、2008年選挙結果に不満でザヴェティエッリは社会党から離れ2009年クラクシと統一社会主義者−PSI結成し、
   SELへの合流を拒否。
   2011年統一社会主義者はステファニア・クラクシイタリア改革主義者IR結成参加。


社会党 2007年ー 歴史
 2007年、イタリア民主社会主義者SDIは民主党へ合流しないことを決定し、エンリコ・ボゼッリは旧PSIの残党のために
PSIの伝統を基礎とする組織結成に乗り出す(社会主義者結成会議)。
 ボボ・クラクシイタリア社会主義者リノ・フォルミカ社会主義は自由ランフランコ・トゥルチ拳にバラ連合のような
小グループは当初から参加。
 2007年、NPSIは分裂し一部(ステファノ・カルドロら)は自由の家に残り、もう一方(ジャンニ・デ・ミケレスマウロ・デル・ブエ
は参加に同意、社会党を名乗る。
 2008年7月結成会議には民主左翼SD、旧左翼民主主義者DS(ロベルト・バルビエリ)、マルゲリータチンツィア・ダト)、
イタリア労働組合連合UILルイジ・アンジェレッティ)からも参加者があった。
 民主左翼SDのガヴィノ・アンジュス民主と社会主義)、ヴァルド・スピニ更にフランコ・グリッリニファビオ・バラテッラ
アルベルト・ニグラらはSDが極左との連合を進めるのに反対し離党し会議に参加。

 結成大会では3議案の周辺に3グループ出現

  企画と再編Progetto e Ricambio 
    Uias−統一、同一(アイデンティティ)、社会主義者の独立を標語、アンジェロ・ソラッツォ、ネリオ・ネジなど。左派。
  政治の前にPrima la politica
    マウロ・デル・ブエフランコ・グリッリニフランチェスコ・モスカ(FGS全国書記)、ピア・エルダ・ロカテッリなど。
    民主左翼急進主義者と協力し民主党からの独立を目標、緩い党組織と運動主義を支持。
    青年社会主義者連合FGSが支持。
  社会党への新しい提案Un nuovo inizio per il Partito socialista
   リカルド・ネンチーニが指導者、ジャンニ・デ・ミケレスが支持、民主と社会主義(アンジュス、スピニ)の支持も受けた。
   民主党との協力派。

 2008年の選挙は社会党単独でたち下院0.98%、上院0.87%と失敗。
 (2006年は拳にバラ(SDIとイタリア急進主義者)2.59%、18議席、イタリア社会主義者0.3%)
 2008年2月の第1回党会議でリカルド・ネンチーニボゼッリに代わり書記に、ピア・エルダ・ロカテッリが委員長に選ばれた。
 10月ガヴィノ・アンジュスのグループとチンツィア・ダトが民主党に移る。
 2009年EU議会選では民主左翼、左翼のための運動(共産主義再建党分派左翼再建から誕生)、緑、左翼へ統一(共産主義者党から誕生)
と提携し左翼と自由(世俗と自由)名簿形成。結果は3.2%、0議席。
 左翼と自由の発展による左翼・エコロジー・自由結成によりこれに反対のボブ・クラクシ、サヴェリオ・ザベティエッリら旧イタリア社会主義者
統一社会主義者結成。
 結局社会党は左翼・エコロジー・自由に参加せず。
 2010年7月大会ではPD、UDC、左翼・エコロジー・自由SEL提携のネンチーニ派、クラクシの自立派、SELとの強固な提携のネオフロント派
が生じたとされる。
 2010年地域選挙は基本的に中道左派支持でいくつかの地域は独自で、ある地域では左翼・エコロジー・自由あるいは民主党に参加。
 12月エンリコ・ボゼッリフランチェスコ・ルテッリイタリア連合に参加。
 2011年、アントニオ・ギディ、上院議員カルロ・ヴィッツィニが復帰。
 2013年選挙ではPD名簿で下院4名(ピア・エルダ・ロカテッリなど)、セナト2名(リカルド・ネンチーニなど)を得る。
 2013年党大会ではネンチーニがフランコ・バルトォメイの左派フロンティストとアンジェロ・ソラッツォの自立派を打ち破り、書記再選。
 2014年PSIの強い支持でレッタからレンツィ政権になり、ネンチーニが入閣、議会指導者のマルコ・ディ・レロはPSIのPDへの合流を提案するが
党に受け入れられず、レロ・ディ・ジョイアと他の議員とPD内分派社会主義者と民主主義者結成。
 一方民主センターで当選したカルメロ・ロ・モンテがPSIに加わる。
 2014年の4回党大会(サレルモ)でネンチーには反対を受けなかったが、ボブ・クラクシらのグルプがネンチーニの無批判的レンツィ内閣支持を批判し、大会
不参加。クラクシ派(社会主義者領域)はローマでレンツィ−ボッシの憲法改定と選挙法へのNOの会議を開催。
 上院議会では地域グループを主とする自治のためにに参加。
 元SELのクラウディオ・ファバが一時戻るがイタリア左翼SIに去る。
 民主センターのカルメロ・ロ・モンテが2015年12月加わるが2017年10月北部同盟のサルッヴィニと我らに移る。
 2017年10月元PDのミケラ・マルツァノが議会のPSI−イタリアの自由に参加。
 2016年の国民投票ではクラクシはPSIのネンチーニ多数派と論戦しNoのための社会主義者委員会を主導。
 クラクシは社会主義者領域を発足させ、2017年11月憲法1条民主と進歩運動を支持。
 PSIは緑連合、市民領域、進歩領域と一緒に(Insieme)を結成。
 進歩領域APは進歩陣営(ジュリアノ・ピサピア)結成に失敗したメンバーのミケレ・ラゴスタ、アドリアノ・ザッカニニ、ルイジ・ラクアンティの元SELが
2017年12月結成。
 市民領域ACは元プロディ2次政権大臣のジュリオ・サンタガタが2017年12月結成、主に元のオリーヴ派よりなる。
 選挙結果は0.6%、1議席(AC)、リカルド・ネンチーニは上院に選出。

[イタリア民主社会党PSDI] 2004年再建
 民主社会主義者の一部がジョルジョ・カルタ主導で2004年結成。
 2006年選挙はオリーブに参加。新書記レナート・ダンドリア選出で混乱し、2007年新しい書記にミンモ・マジストロを選出するがダンドリアは
民主改革党結成。2011年ダンドリアが法廷で正統性を認められマジストロらは社会民主結成。
 両者の和解が続けられているがダンドリアは中道右派(自由の人民)と提携に熱心でマジストロとSDは中道左派に並び困難な状態。


キリスト教民主DCは1948年から1992年まで政府の最大党で小政党と1963年以降はSPIと連合し政権を維持してきた。
 40年以上の支配で権力の乱用や不正も発生しまた、南部ではマフィアとの関係も生じた。
 1970年代のアルド・モロは社会党の代わりに歴史的妥協の共産党との協力関係を築いた。
 しかしこれは1978年のモロ暗殺で潰えた。
 80年代の5党体制は共産党を排除するためのものであった。
 1992年、それまでの腐敗の蓄積がタンジェントポリ(贈収賄疑獄)として噴出した。
 1993年の地方選挙で数多く敗北し、1994年にイタリア人民党PPIと名前を変えた。
 中道右派は強いイタリアと連合を望みキリスト教民主中道CCDを結成した。
 左翼民主党と連合を望む左派は社会キリスト教CSを創設した。
 多くのキリスト教民主は強いイタリアに加入した。
 PPIからは1995年強いイタリアと連合を望む中道右派の統一キリスト教民主CDUが分裂した。

 キリスト教民主の関わる政党
  イタリア人民党PPI 1994年、キリスト教民主DCの後継として出現、1994年選挙は中道連合イタリア協定として11.1%で
   中道右派、中道左派に敗北。
   1995年、右派は統一キリスト教民主CDUとして分裂。
   1996年選挙はプロディ派でオリーヴの木に参加、6.8%獲得。1990年EU議会選挙は4.3%。
   2001年選挙はPPI−UDEURイタリア復活RI(1996年幅広い中道左派結成)連合で4.5%。
   2002年、マルゲリータに統合。
  キリスト教民主中道CCD 1994年、強いイタリアと連合を望むグループがイタリア人民党PPIから分裂。1998年、一部が
   離党しCDUと共和国民主連合UDR結成。このグループは1999年、ヨーロッパ民主連合UDEURを結成。
   もとのCDUは再建し、CCDと連合。2001年選挙でCCDとCDUは3.2%。
   2002年、CCD、CDU、ヨーロッパ民主主義DE(2000年設立、CISL指導者など元北同盟のPPI分裂者が結成)が
   キリスト中道民主連合UDC結成。
  社会キリスト教CS 1993年、労働組合(CISL)指導者ピエール・カルニッティ、経済学者エルマンノ・ゴッリエリにより結成。
   進歩カトリック、左翼キリスト教民主勢力として進歩連合に参加、1998年左翼民主主義者DSに参加し党内分派となる。
   2007年、民主党結成を支持し、ヴェルトローニに接近。宗教社会主義者国際同盟に参加。

  マルゲリータDL 2000年、PPI民主主義者ヨーロッパ民主連合イタリア復活が2001年選挙のためマルゲリータ形成を決定。
   フランチェスコ・ルテッリに率いられ14.5%獲得。2002年、ヨーロッパ民主連合以外で単一政党化。
   2006年の選挙はオリーヴの木で連合に参加、2007年、民主党に合流。
  キリスト中道民主連合UDC 2002年、CCD、CDU、DEなどのメンバーが結成。
   2004年EU選挙は自由の家で5.9%。(2001年選挙は3党で5.6%)、2006年は6.57%。
   2006年、中道イタリアが分裂し、2007年民主党に合流、2004年には以前のDEメンバーがマルゲリータに合流。
   2005年には一部がDCA参加。更に自治運動MpAへも参加。2008年、白バラが分裂。更に自由の人民PdLに参加
   するためリベラル人民が離党。更に多くがPdLに参加。白バラとUDCは選挙のため統合し中道連合に参加5.6%獲得。
  UDEUR 1998年、CCD、CDR、CDU、セニ協定(DC系改革人民民主連合などのメンバーが1993年設立)などの
   メンバーによって結成された共和国民主連合UDRから1999年分裂。
   のちUDEUR人民と改名。UDR他のメンバーは共和国連合UpR(やがて強いイタリア加入)。
   1999年EU選挙1.6%、2001年はマルゲリータに参加。2204年EU選挙1.3%。2005年の地域選挙でよい結果を得た。
   2006年は連合に参加1.4%。
   2008年、各地で分裂発生し、選挙には参加できず解散状態。
  キリスト民主自治DCA 2004年UDCから分裂、強いイタリアとの連合を望むUDC批判。
   2006年選挙はNPSIとで0.7%。2008年の選挙で自由人民と連合。
  キリスト教民主復活RDC 1997年結成、一部は2000年キリスト教民主党PDC Partito Democratico Cristianoを名乗り、
   強いイタリアと連合。RDCは2001年、キリスト教民主DC(2001−)と名乗り、2004年にはキリスト教民主の党PdDC
   Partito della Democrazia Cristianaが分裂。、この2者とUDCで党名の紛争が起きている。
   2008年の選挙は自由の家を支持。

  キリスト教民主党キリスト教民主の党PdDC、キリスト中道民主連合UDCは中道連合(5.6%)に参加。
  その他国民連合北部同盟に参加、特に強いイタリアでは元DCが主要勢力となっている。


 *共和主義者
  イタリア共和党PRIはジュゼッペ・マッツィーニの政治思想の継承と位置付ける古い起源の政党で左翼的位置から出発している。
  1895年イタリア共和党PRIとして結成。基盤は中部地域に限られ19世紀はイタリア社会党、急進党と提携。
  PRIは1900年選挙は5.71%、1909年4.72%、1913年3.5%、1919年0.9%、1921年1.9%。
  1926年他の左翼政党とともに禁止される。多くの共和主義者はファシズム下でスペイン戦争やレジスタンスに参加。
  1946年の憲法制定会議選挙で4.4%獲得。1946年行動党(1942年結成のリベラル政党)の一部メンバー(多くは社会党参加)が参加。
  1947年大会では親PCI派と反PCI派が存在するがマーシャル計画でデ・ガスペリ政権参加。
  1948年総選挙ではキリスト教民主DCと提携し2.5%、以降1962年までキリスト教民主政権に参加せず。
  1963年アルド・モロ政権に賛成し、反対のランドルフ・パッチャリディが新共和国民主連合結成。これは選挙結果が悪く1968年までに復帰。
  1974年DCとの提携解消。1979年ウゴ・ラ・マルファが組閣するもすぐに倒閣。
  ジョヴァンニ・スパドリニ政権から1983〜1991年までDC、PSI、PRI、イタリア自由党PLI、イタリア民主社会党PSDIの5党体制により社会・政界は腐敗。
  贈賄疑獄でPRIは3分裂。
  ジョルジョ・ラ・マルファのグループはイタリア協定(1994年の選挙連合)参加。カリア・マズカ・ポジョリニだけ当選。
  1993年(〜1997年、UD合流)民主同盟ADがPRI(ジョルジョ・ボギ)、PSI旧メンバーにより結成。1994年選挙は進歩連合。
  ベルルスコーニの登場で党は分散。
  多くはPRIを去り強いイタリアに参加。
  アントニオ・マッカニコらは1996年民主連合UD結成参加、PRIの他、民社党PSDI、PSI、自由党PLIから参加。
  ジョルジョ・ボギのグループは1994年共和左翼結成。
  共和左翼は左翼民主党に接近し左翼民主主義者に合流。
  他は民主連合UD(1996〜1999年、民主主義者合流)、民主主義者(1999〜2002年、
 プロディ結成、マルゲリータ合流)、マルゲリータに参加。
  党はジョルジョ・ラ・マルファが維持するが2011年マルファは追放される。(ベルルスコーニ政権に反対投票) 
  1996年はPRIはオリーブの木に参加し、プロディの人民にPPI、UDなどと参加。
  1999年にイル・トリフォリオ(クローバー)にイタリア民主社会主義者などと参加。これはダレマ政権倒壊の原因となる。
  2001年自由の家、2006年強いイタリア、2008年は自由の人民に参加。
  2001年自由の家との提携で中道左派提携グループが欧州共和主義者運動(指導者ルチアナ・ズバルバティ)と民主共和主義者(ジュゼッペ・オソリオ)結成。
  2004年が自由の家との提携を嫌うジュゼッペ・オソリオ民主共和主義者結成。
  2006年選挙は強いイタリア名簿でジョルジョ・ラ・マルファら2名当選。2008年も自由の人民で2名当選。
  選挙制度改革反対でPRIと欧州共和主義者運動MREが和解を始める。
  2011年欧州共和主義者運動と民主共和主義者がPRIに戻る。
  オソリオ(2011年PDのルイジ・ニコライス辞任の後を継ぐ)は議会で混合グループ共和主義者−行動主義者に参加。
  2013年はモンティとイタリアや中道連合UDなどに分散し党としては地域的に参加。
  2014年EU選は民主中道、市民選択、イタリアリ・ベラル党などとヨーロッパ選択結成。0.72%。
  2016年北部同盟から分裂した実行(ファーレ)に参加。ファーレ−PRI混合グループが形成される。(PRIの議員は存在せず)
  2017年エンリコ・コスタが加わり副グループ”実行(ファーレ)−PRI-リベラル”と改名。
  2018年選挙は共和党・ALA(リベラル人民連合)で0.06%。

イタリア急進主義者〕 イタリアの急進主義
 1877年、アゴスティノ・ベルタニ、フェリチェ・カヴォロッティによって極左党Partito dell'Estrema sinistraついで民主党Partito della Democraziaが
 アゴスティノ・デプレティスの歴史的左翼に対立して結成される。
 1904年イタリア急進党となる。
 1921年議会急進党は社会民主党PDSIと一緒になり、1922年正式に合流。
 英語版では1921年選挙で急進がいくつかの小リベラルと民主リベラル党(リベラル、民主主義者、急進連合)結成とある。
 イタリア語版ではこれに加わったのはリベラル急進党となっている。
 また1919年選挙では民主リベラル党と別に急進党と独立急進党からなる急進党が存在する。
 1926年のファシスト体制ですべての党は解散。
 急進党は1904年選挙で7.28%、1909年は6.5%、1913年は10.4%、1919年は1.95%。
 イタリア・リベラル党の急進左派メンバーにより1955年急進党が結成され、解散のあとパルチザン運動の正義と自由、行動党のメンバーなどを
を再結集し1963年、マルコ・パンネラとジャンフランコ・スパダッチャにより再建。
 1976年政治的に成功、パンネラ、エンマ・ボニノアデレ・ファチオら4名が議員となり、1979年には3.5%、15議席、上院2名の頂点となる。
 1989年、多国籍急進党となり、これは1995年非政府組織となる。
 これには多くの政治運動が参加、たとえばカインから手を引け(死刑と拷問反対、1993年元プリマ・リネアのセルジョ・デリア結成)、正義なくして平和なし
(1993年エンマ・ボニノ結成)、ルカ・コショニ協会(2002年ルカ・コショニ結成)などとの協力運動。
 1960年代中期に離婚問題に取り組み成功をあげ、1970年代には女性解放運動、不妊手術・中絶解禁活動、ゲイ運動などの
市民権を支持し、成功を収めた。
 1983年にはアントニオ・ネグリ、1985年にはイロナ・スタッレル(チチョリーナ)を議員にし話題となった。
 その後も急進主義者は虹緑(1989−1990)、パンネラ名簿(1992−1999年、1994年ベルルスコーニ政権支持)、
ボニノ名簿(1999−2004年、EU議会選挙8.5%、7議席獲得)、その他で活動。
 2001年に政治運動としてイタリア急進が再建された。その指導者はマルコ・パンネラエンマ・ボニノ
 2005年イタリア民主社会主義者と選挙連合拳にバラ結成、中道右派志向グループはリベラル改革者ヴェネデット・デラ・ベドヴァ
を結成し自由の家に参加。プロディ政権に批判的なグループが2006年決心ダニエレ・カペッツォネ)を結成し自由の家へ向かう。
 2006年選挙は拳にバラで2.6%、18議席、急進はうち7議席。
 2008年選挙は民主党と一緒で6議席。
 2009年EU選は単独で2.43%。
 2013年選挙は恩赦・正義・自由名簿で0.2%となり議席0。
 エンマ・ボニノがレッタ、レンツィ内閣に入閣。
 党大会でラウラ・アルコンティが代表、リタ・ベルナルディニが書記となる。
 2014年EU選には参加せず。
 2015年大会でマルコ・カパトが代表で、リカルド・マジが書記になる。
 2016年パンネラが死亡し2017年分裂。
 多数派の社会活動中心のマウリツィオ・トゥルコ、リタ・ベルナルディニと多国籍急進党PRT(マルコ・パンネラ名簿連合と急進ラジオと党本部を確保)に対し、
少数派の政治・選挙活動に重きを置くマルコ・カパト、エンマ・ボニノ、リカルド・マジらの政治連合イタリア急進RIグループと急進銀河galassia radicale
(これは両派に分散、カインから手を引けセルジョ・デリア(元第1線:プリマ・リネア)とPRT、正義なくして平和なしルカ・コシオニ協会とRI)。
 2016年9月TRP大会でトゥルコ派(PR)がマジ派(RI)を圧倒し、RIは11月独自の大会を開催しマジを書記、アントネラ・ソルドを代表とした。
 トゥルコは自分たちの正当性を主張し、PIは急進党本部から追い出され、資産を失い苦しくなった。
 ボニノ、マジ、ソルドは2018年選挙のため強いヨーロッパを結成、市民と改革者との選挙連合もっとヨーロッパに参加し、レンツィの中道左派連合参加。
 結果は比例2.55%、3議席

 その他の急進主義グループ

  急進連合運動Movimento Federativo Radicale
   1982年ジュゼッペ・リッパが急進党から分裂。党の中道化路線に路線に反対しPSIとの提携支持しPSI合流。
  左翼急進RS
   2004年結成、2010年解散。
   1955年結成の急進党路線を支持。
   緑連合、新行動党Nuovo Partito d'Azione、左翼連合Federazione della Sinistra、SEL、社会主義急進運動Movimento RadicalSocialista、5星運動など
  との対話支持。
   2010年新行動党合流。一部は社会主義急進運動あるいは自由と平等参加。
  リベラル改革者
   2005年ベネデット・デラ・ヴェドヴァらが結成。
   中道左派路線で拳にバラに参加するマルコ・パンネララに対し中道右派との提携を模索。
   2006年選挙で強いイタリア参加。
   2008年自由の人民参加。
   デラ・ヴェドヴァは2013年市民選択参加、2017年強いヨーロッパ結成。
  社会主義急進運動Movimento RadicalSocialist
   2006年左翼急進から分裂。リベラル社会主義で反ネオリベラリズム。
   ピエロ・ゴベッティカルロ・ロッセリあるいは正義と自由、行動党の考え、路線を志向。
   2017年人民への力Potere al Popoloに参加。
  自由と平等Liberta ed Eguaglianza
   2010年左翼急進から分裂。
   社会主義急進運動、新行動党、SEL、緑連合、イタリア急進主義者、イタリア社会党との対話支持。
  急進銀河galassia radicale・・・急進党の周辺には種々の構成体や政治組織が引き付けられている。
   科学研究の自由のためのルカ・コショニ協会・・・2002年ルカ・コショニ創設。治療の自由など。
   誰もカインに触るな(カインから手を引け)・・死刑廃止運動。
   正義なくして自由なし・・1994年ユーゴ問題の国際刑事裁判所創設運動に際し創設。
   Era−エスペラント急進協会・・1987年言語差別に反対の闘争のため結成。
   反聖職主義AnticlericaleNET・・世俗国家防衛と国家と教会の権力分離のための闘争を目的。
   反禁止主義国際同盟Lega internazionale antiproibizionista・・薬物(ドラッグ)
   真の権利急進協会Associazione Radicale Certi Diritti・・2008年創設、家族の権利改革(性の自由:同性愛、性産業労働・・)

 *新行動党Nuovo Partito d'Azion
   行動主義azionismo政治の再建と行動党の路線再興のため2005年哲学者のジュゼッペ・アントニオ・クアルタナが結成。
   リベラル社会主義を支持。
   2006年選挙はイタリア民主社会党PSDIと提携。


緑連合
 1986年緑名簿連合として結成。
 最初の頃は自主管理・現実主義グループ(アルフォンソ・ペコラロ・スカニオ、ピエルジョルジョ・アントニアッツィ、ロザ・フィリッピニ)、
左派・レガンビエンテ(環境同盟)連合(ジャンニ・マティオッリマッシーモ・スカリアエンリコ・ファルキ)、原理主義者(ジャンノツォ・
プッチ、ピーノ・ポリステナ)などのグループがいた。
 ジャンニ・マティオッリアレキサンデル・ランゲル(旧継続闘争)らにより1987年選挙に挑戦2.6%、13議席獲得。
 1989年プロレタリア民主カパンナジャンニ・タミノエド・ロンキパオロ・ジェンティロニらと急進主義者ボアトファチオ
フランチェスコ・ルティリフランコ・コルレオノマリア・アデライデ・アリエッタらが虹緑結成。
 1989年EU議会選挙には虹緑緑名簿の2つの党が競合。虹緑は2.4%、2議席(アリエッタヴィルジニオ・ベッティニ)、
緑名簿は3.8%、3議席(ランゲルジャンフランコ・アメンドラエンリコ・ファルキ)。
 1990年虹緑緑名簿が合同し緑連合となる。1992年選挙では下院(カメラ)2.8%、16議席、上院(セナート)3.1%、4議席。
 1993年カルロ・リパ・ディ・マラーナ(共産党から社会党、クラクシ秘書経験、1999年離党)が全国代弁者となる。
 1994年選挙で進歩連合をPDS、PRC、PSI(の残党)、民主主義運動RETE民主連合社会キリスト教などと結成、
党は2.7%で11議席、セナート7議席となったが、左翼の連合は敗北。そのすぐあとのEU選挙は3.2%、3議席。
 1996年は中道左派連合のオリーブの木結成に参加し選挙に勝利。エドアルド・アンキ(旧プロレタリア民主)が環境大臣となる。
 カメラ2.5%、14議席、セナート14議席。1996年ルイジ・マンコーニ(旧継続闘争、2005年民主左翼へ)が代弁者となる。
 その後マッシーモ・ダレマ政権にエド・ロンキ入閣。2000年アマト政権スカニオマティオッリ入閣。
 2001年選挙はイタリア民主社会主義者SDIと向日葵形成するが2.2%と失敗。緑連合はオリーブの木として7議席、10セナート。
 このあと緑連合は左傾化し、エド・ロンキマティオッリルイジ・マンコーニマッシーモ・スカリアフランコ・コルレオーネらを指導部
から追放(フランチェスコ・ルティリカルロ・リパ・ディ・マラーナはすでに離党)、アルフォンソ・ペコラロ・スカニオが新指導者となる。
 これにより環境保護、公衆健康、人権、平和に取り組む。
 この左傾化で多くのメンバー・支持者がマルゲリータや民主左翼(マンコーニら)に移行。
 2004年EU選挙は2.5%、2議席。2006年選挙はオリーブの木として2.1%で15議席、セナートはイタリア共産主義者党
統一消費者と連合し4.2%、11名内緑5名。
 2007年マティオッリマッシーモ・スカリアフランコ・コルレオーネが離党民主党結成に参加。彼らは民主党内でマンコーニ
エド・ロンキ、リノディ・ベネッティ、ステファノ・セメンツァート、エルメテ・レアラッチ、ジャンニ・ヴェルネッティ、フランコ・ピロ、
フランチェスコ・フェランテ、カルラ・ロッキらと民主エコロジスト結成。これでイタリア最大のエコロジスト集合のレガンビエンテ緑連合
より民主党支持となる。
 2007年緑は共産主義再建党PRC、イタリア共産主義者党民主左翼SD左翼・虹を結成。
 2008年は単一名簿で3.1%と2年前の10.2%から大幅低下し、議会外へ。
 スカニオにかわりグラッツィア・フランチェスカート(57%の支持)が指導者となる。一方民主党との連合路線を求める
マルコ・ボアト(継続闘争、社会主義キリスト、プロレタリア民主、急進党を遍歴)が21%、ファビオ・ロッジョラーニが12%を得る。
 2009年EU選では社会党、民主左翼、左翼のための運動左翼へ統一と提携し左翼と自由(世俗と自由)名簿形成。
 結果は3.2%、0議席。
 10月大会でアンジェロ・ボネッリが小差でロレダーナ・デ・ペトラス(元プロレタリア民主)に勝利。
 動物派Animalisti(アンナマリア・プロカッチスカニオ路線に近い)、政権派Governativi(アルフォンソ・ペコラーロ・スカニオ(元急進党)、中道左派支持)、
独立派(フィオレッロ・コルティアナ)、運動派(マウロ・ブルガレッリ、左派、PRC、PdCIに近い)、社会派(パオロ・チェント)、改革派(パルミーロ・マンコ、
穏健世俗カトリック)などが存在。

 2009年EU選後の左翼と自由左翼・エコロジー・自由への発展で書記に選ばれたアンジェロ・ッボネッリはこれへの参加を拒否し、参加支持の
ロレダーナ・デ・ペトリス、グラツィア・フランチェスカートパオロ・チェント、ミケレ・ラゴスタ、リカルド・ディ・パルマらはエコロジストを結成を結成し
左翼・エコロジー・自由へ参加。
 アンジェロ・ボネッリはフランスのヨーロッパ・エコロジーを模範にエコロジスト構成の結集を希求。
 2011年フランチェスコ・ルッテリのイタリア連合Apl支持のカミロ・ピアッツァのイタリア・エコロジスト連合が誕生。
 2011年11月エコロジストと市民Reti−ヨーロッパ緑が発足するが民主党との合意ならないとして2012年11月解散。
 2013年選挙は市民革命に参加し議席0。
 2014年EU選では緑イタリア(2013年種々の分子が結成)と参加し0.91%。
 2015年1月元5星運動の上院議員バルトロメオ・ペペが参加、間もなく同じく元元5星運動の上院議員パオラ・デ・ピンが加わり、2人は
大自治と自由に参加。間もなくペペは去り、翌年デ・ピンも去る。2016年11月元5星運動の上院議員クリスティナ・デ・ピトロ参加、翌年去る。
 2017年11月エンリコ・ブエミが社会党所属のまま緑連合として混合グループ参加。
 2018年選挙のために緑連合、PSI、市民領域が一緒にInsiemeを結成。結果は比例0.60%、1議席(市民領域)。


統一消費者
 中核組織は1999年EU選挙でサルディニア行動党(1920年結成)とマリオ・リゴ(元社会党)の地域同盟の共同名簿として出現。
 約62000票(0.2%)獲得。
 2006年選挙は連合に参加、セナートで緑とPdCIが共同名簿連合とともにをとり、これに一部統一消費者グループ参加、4.2%
11議席獲得。
 2006年PdCIのフェルナンド・ロッシが参加したが2007年分裂し市民政治運動結成。2008年にウィッレル・ボルドン
ロベルト・マンツィオーネらの民主連合(2007年民主党の旧マルゲリータ・メンバー結成)と合同し消費者のための民主連合結成。
 2009年EU選で統一消費者(?)はPRC、PdCI、社会主義2000と反資本主義名簿結成
 2013年選挙では党書記のブルノ・デ・ヴィタは5星運動を支持。
 2016年国民投票はNOを支持。


プロレタリア統一社会党PSIUP)
 1964年、イタリア社会党PSIの左派が結成。PSIUPはPSIの1943−1947年までの党名でもあった。
 (1943年、イタリア社会党PSIは社会共和主義のレリオ・バッソプロレタリア統一運動MUPとイタリア人民連合UPIと統合し
PSIUPとなり1947年、ジュゼッペ・サラガット社会労働者党と区別するために再度イタリア社会党PSIを名乗った。)
 トゥリオ・ヴェッキエッティにより率いられ、他にバッソ、ヴィットリオ・フォアエミリオ・ルッスダリオ・ヴァロリなどが参加。
 PSIとDCとの中道左派政権に反対し、PCIとの協力を支持した。
 1968年の選挙結果はよかった(下院4.45%、上院は共産党と30.01%)が1972年は良くなかった。(下院1.94%)
 1972年の選挙の結果多数派はPCIに参加し、右派少数派(ジュゼッペ・アヴォリオヴィンチェンツォ・ガット)はPSIに戻り、
左派少数派は社会主義選択(労働者政治運動の左派)と1972年プロレタリア統一党PdUP結成。
 党会議ではルチオ・リベルトーニダリオ・ヴァロリトゥリオ・ヴェッキエッティの多数派67%、アヴォリオら少数派9%、
ヴィットリオ・フォア、シルヴァノ・ミニアティの少数派左派24%。

 PSIUP内のポサダス派は1965−1967年にPSIUP革命的左翼ブルティン発行。

レリオ・バッソ 1903−1978年
 1921年パヴィア大法学部に入学し社会党参加。マルクス理論を学び、自由革命(1922−1925年)時代のピエリ・ゴベッティ
に接近。
 社会批判(親社会党)、イル・カフェ前進(社会党機関紙)等種々の雑誌出版に関わる。1925年大学卒業。
 1928年4月ファシスト政権により逮捕ポンツァ島に拘留される。1934年社会主義国内センターロドルフォ・モランディ
エウゲニオ・コロルニらと指導。1939−1940年コルフィオリト収容所に投獄される。
 1943年1月、プロレタリア統一運動MUP結成。7月PSIとプロレタリア統一社会党PSIUP結成。
 1943年党の路線に反対し秘密新聞赤旗発行。1945年の解放までサンドロ・ペルティニらと北イタリアのPSIUPの秘密執行部を
結成。1945年後PSIUPの副書記となり、国会議員となり、憲法3、49条の形成に寄与。
 1947年のサラガット分裂期に書記となる。1950に党のスターリン主義傾斜に反対し党の幹部から遠ざけられる。
 1957年に幹部復帰。1959年から社会党左派の中心的メンバー、1963年アルド・モロの第1次中道左派政権反対の少数議会
社会主義グループ(24名)に署名し党から停職を受け、1964年PSIUP結成参加。1965−1968年委員長となる。
 ヨーロッパでは犯罪弁護士として有名でラッセル法廷に立ち、ベトナム戦争のアメリカの犯罪を確立。
 1973年にはローマにレリオ・リスリ・バッソ財団創設、1976年には国際財団と人民の権利と解放のための国際同盟を創設。
 ローザ・ルクセンブルクに関する著作などがある。

プロレタリア統一党PdUP)
 1972年、プロレタリア統一社会党PSIUPとイタリア社会党への統合に反対する左翼カトリックの労働者政治運動MPL
ジョヴァンニ・ルッソ・スペナドメニコ・イエルヴォリノ)の少数派が結成。
 1974年にはイル・マニフェスト・グループとマリオ・カパンナ自主管理学生が参加し共産主義のためのプロレタリア統一党
が形成された。
 種々の潮流の指導者はシルヴァノ・ミニアティ、フォア、カパンナ、ロッサンダマーグリピントールらでマーグリが書記長になった。
 1976年の党会議ではマニフェスト派多数派47.3%(ロッサンダマーグリ、PCIとCGILに批判的に協力)、ミニアティ
旧PSIUP、フォア、カパンナ派(共産主義のためのPdUP、極左志向)43.48%、ピントール派9.18%。
 1976年の選挙ではプロレタリア民主DPとして参加し、マーグリ、カステッリナ、エリセオ・ミラニが当選。(DP当選6人中5人)
 1977年全左派政権樹立結成失敗でイル・マニフェスト・グループと旧PSIUPーMPLグループ離党。
 党内はマーグリ、ロッサナンダの多数派と左派(フォア、ミニアティの統一連合派と労働組合潮流)に分裂、左派少数派は
プロレタリア民主の政党化のため分裂。
 多数派は一時労働者前衛運動を吸収したが翌年分離、1981年ルカ・カフィエラ社会主義労働者運動MLSと合流。
 1983年の選挙ではPdUPは歴史的妥協放棄後のベルリンゲルのPCIの名簿に付属。
 1984年、マーグリ、カステッリナ、ヴィンチェンツォ・ヴィタルチアーノ・ペッティナリらの賛成でPCIに統合。
 メナパーチェは反対し選択のための政治運動を結成。
 1991年PDS結成にあたって一部はPRCに参加、PRCが1995年中道左派デニ政権支援放棄したとき
多くの元PdUPメンバーは統一共産主義者運動結成、これは1998年、左翼民主主義者DSに吸収された。

ルーチョ・マーグリ 1932年生。
 カトリック学生組織で政治活動を始め、1956年共産党参加。ソ連のチェコ侵入で党多数派と異なった立場をとり1969年
党から追放されロッサナ・ロッサナンダらとイル・マニフェスト創刊。1969年学生運動の影響を受け急進化。
 1972年のプロレタリア統一党結成で書記となり1984年共産党PCIに合流。1991年PCIのPDS転換でPRCに参加し、
旧プロレタリア統一党を基盤とする党内反対派結成。1995年、彼のグループは離党し統一共産主義者運動結成し、
ディニ内閣支持。これは1998年、左翼民主主義者DSに吸収されたが、マーグリは参加せず雑誌マニフェスト
編集者となる。これは1999年PRCの旧イル・マニフィスト古参やベルティノッティ、イングラオ、アルド・トルトレッラらの支援
で再建されたもの。2004年財政難で廃刊。

プロレタリア民主DP)
 1975年、プロレタリア統一党PdUP労働者前衛AO社会主義労働者運動MLSが選挙組織として結成。
 地方レベルではマルクス・レーニン主義共産主義組織、革命的共産主義者同盟第4インター共産主義者同盟などの
小組織が参加した。継続闘争LCは共産党への投票を呼びかけていた。
 1976年、継続闘争が参加。PdUPは加盟賛成派と反対派に分裂したが、分裂回避して再建。
 1976年の選挙に参加し下院で556022票(1.5%)、6議席獲得、そのうちPdUP(マーグリ、カステッリナ等)、LC(ミンモ・ピント)、
AO(シルヴェリオ・コルヴィシエリなど)。
 1978年DPは政党となった。
 これはPdUPの少数派(ヴィットリオ・フォア、シルヴァノ・ミニアティ、旧労働者政治運動ジョヴァンニ・ルッソ・スペナ
ドメニコ・ジェルヴォリノなど)、AOの多数派(マシーモ・ゴルラ、シルヴェリオ・コルヴィシエリ、ルイジ・ヴィンチ)と共産主義者同盟(
ロマーノ・ルペリニ)により推進された。
 著名な人物は以前の学生運動指導者で1968年の新左翼運動と結びつくマリオ・カパンナであった。
 DPは北イタリアの産業都市で強い支持を受けた。DPは共産党とキリスト教民主党の歴史的妥協に反対した。
 1978年、選挙運動でシシリーの指導的活動家ペッピノ・インパスタトはマフィアに暗殺された。
 1979年の選挙でDPはPdUP以外の全新左翼の共通名簿となった。
 しかしPdUPが1.4%で6議席であったのにDPは0.8%で0議席となっが同年のEU選挙でカパンナが当選した。
 1983年の総選挙下院では542039票、1.47%、7議席、1987年642161票1.66%8議席。
 1987年カパンナが失脚し、ジョヴァンニ・ルッソ・スペナが書記長になった。
 2年後DPは分裂に陥り、カパンナのグループが虹緑という選挙連合をEU議会選挙で結成した。
 1991年、共産主義再建運動に合流し共産主義再建党PRCに参加。
 1996年のPRC大会でパオロ・フェッレロ率いる旧DP多数派はベルティノッティの議案に参加。

イタリア社会党PSI) 1892−1994年
 1892年、フィリッポ・トゥラティらにより設立。トゥラティは革命家のアンナ・クリショフと結婚しマルクスの影響を受けていた。
 クリショフはユダヤ系ロシア人革命家でバクーニンに影響されていたが次第にマルクス主義者になっていった。
 帝政ロシアにより追放され亡命地パリでアナーキストであったアンドレア・コスタと結婚、フランスを追放されイタリアで1891年、
社会批判に参加、2番目の夫となったトゥラティに影響を与えた。
 トゥラティは1891年から雑誌社会批判で社会主義を宣伝していて社会党結成を支援した。
 この雑誌にはエンリコ・フェッリレリオ・バッソイヴァノエ・ボノミアントニオ・グラツィアデイアントニオ・ラブリオーラらが投稿。

 1868年第1インター派のエンリコ・ビニャミが創設した週刊誌”大衆”で社会主義綱領を発表。
 カルロ・カフィエーロは1871年イタリアで第1インター宣伝の協力したがやがてバクーニンのアナーキズムに傾斜した。
 アナーキストのアンドレア・コスタアンナ・クリショフの影響で社会主義者となり1881年ローマ革命的社会党を創設、
これは1884年イタリア革命的社会党となる。
 1882年コスタンティノ・ラッツァリらによりイタリア労働者党POIが結成され、POIはフィリッポ・トゥラッティエンリコ・ビニャミ、ら
第1インター派知識人の支援を受けた。
 1889年ミラノ社会主義者同盟フィリッポ・トゥラッティにより結成された。
 1892年イタリア労働者党ミラノ社会主義者同盟が合流しイタリア労働者党PdLIとなる。
 1893年イタリア革命的社会党PdLIが合流し1895年PSIとなる。
 主な推進者はフィリッポ・トゥラッティクラウディオ・トレヴェスレオニド・ビッソラティ

 初期は政府の弾圧を受けたが20世紀にはいってからはジヴァンニ・ジョリッティ政府との対決を避け、1920年代にはイタリア
政治の主要な流れの地位を確立。
 党内は労働組合と議員に支持されるフィリッポ・トゥラティの改良主義とロンドン・ビュローに付属するムッソリーニの
最大綱領主義に分裂。
 改良主義派はトゥラティ、トレヴェスジャコモ・マテオッティガエターノ・サルヴェミニカルロ・ロッセッリビッソラティボノミら。
 1901年トゥラッティ派はジヴァンニ・ジョリッティ政権に協調したが、1902年アルトゥーロ・ラブリオーラの革命派が出現し、
頑強派エンリコ・フェッリに加担。フェッリは1903−1908年に党機関紙前進の編集者になったが1908年急進派から撤退。
 ラブリオーラは後に多くのアナーキストや労働組合至上主義者(サンディカリスト)同様にファシストと協力。
 1911年から左派はマルクス・エンゲルス思想を採用。左派は同年のリビア戦争反対闘争を強化、これで党内分裂。
 1912年社会党大会で革命的頑強派を組織。
 右派はフリーメイソン、反宗教ブルジョアジーと陣営を形成、頑強左派は離党を拒否して党内でアマデオ・ボルディガと
カール・マルクス革命的社会主義者サークルを結成。
 頑強左派はブルーノ・フォルティキアリ、アビガッレ・ツァネッタ、リヴィオ・アゴスティニ、アルフレド・インテルレンギ、ルイジ・レポッシら。
 共産主義者左翼はオノラト・ダメンアマディオ・ボルディガら。 
 コンスタンティノ・ラッザリが1912−1919年に間短期間のエジディオ・ジェンナリを除き、改良主義派と革命派に反対し全国書記
となった。
 1912年、改良主義者が追放されレオニド・ビッソラティイヴァノエ・ボノミらがイタリア改革社会党を結成。
 1914年6月ジョヴァンニ・ジョリッティ政権での改革に対して起こった労働者の抗議(赤い週)は軍隊によって鎮圧された。
 1914年第1次世界大戦で第2インター派は戦争債に賛成し1915年左派は革命的敗北主義を支持し一方、ムッソリーニの
干渉主義派は離党。1915−196年のツィンメルヴァルト、キンタール会議で国際左派は団結、
 戦後の革命的状況の高まりでの1919−1920年(赤い2年間)の工場占拠と評議会運動は敗北に終わりファシズムを到来させた。
 1919年のドイツ、ハンガリー革命は敗北し、アントニオ・グラムシの新秩序で労働者評議会と革命段階論が論争となる。
 PSI内で左派は棄権主義共産主義派と称される。
 1919年ジャチント・メノッティ・セッラティ最大限綱領派形成。
 1920年グラムシ、ボルディガ、エジディオ・ジェンナリアントニオ・グラツィアデイニコラ・ボンバッチらのコミンテルン派が結成される。
 1921年、ボルディガとグラムシの共産党が分裂。同年ムッソリーニはファシスト党結成。
 分裂大会ではセッラティ最大限綱領派89028票、純共産主義派58783票、改良主義派14695票。
 1922年、フィリッポ・トゥラッティが追放されジャコモ・マテオッティカミッロ・プランポリニイタリア統一社会党PSUを結成。
 1924年マテオッティはファシストにより暗殺される。
 1924−1925年、ファシスト党以外は禁止される。
 1930年、亡命時代フランスで、トゥラッティとピエトロ・ネンニは再統合。
 1943年、レリオ・バッソらのプロレタリア統一運動、サンドロ・ペルティニ、イグナツィオ・シロニらが参加し
統一プロレタリア社会党PSIUPとなる。ピエトロ・ネンニが書記となる。
 1947年、PSIUPはイタリア社会党SPIとなる。
 1948年から1956年までPCIと選挙で連合、1962年以降キリスト教民主党DCや他の小党と連合し中道左派政権に参加。
 1960年代から1970年代に徐々に左翼の最大政党の座を譲り渡す。
 1964年左派がロレタリア統一社会党PSIUP結成。
 1966年、イタリア民主社会党統一社会党(1966−1969)という名で連合するが1968年の選挙結果は良くなかった。
 (1963年に2党が別々で得た結果よりはるかに悪かった。)
 1972年には1958年の14.5%に対し9.6%%だった。
 1976年の党大会はフランチェスコ・ディ・マルティノ 42.7%、ジャコモ・マンチーニ 19.8%、リカルド・ロンバルディ 17.8%、
ピエトロ・ネンニ 14%、、ジノ・ベルトルディ 5.7%でディ・マルティノとマンチーニが連合しベニート・クラクシが新書記長。
 1978年の反対派はエンリコ・マンカ、クラクシはクラウディオ・シニョリレと連合。
 クラクシは1976−1983年まで共産党を中傷する戦術に出、PSIを親西欧の改良主義社会民主党とした。
 これにより伝統的労働者階級の党から事務労働者と公的部門雇用者のそして大企業の支持を得るようになり、
やがて腐敗に巻き込まれた行った。
 クラクシは1983年から首相となった。クラクシの時代は経済成長により黄金時代であった。
 1987年、クラクシは5党体制と衝突し、首相を退いた。
 この間、1979年の選挙の9.8%から1987年の選挙の14.3%まで上昇した。
 1987−1992年までPSIは4つの政府に参加した。
 1989年のベルリンの壁崩壊によりPCIの灰を吸収した穏健な改良主義の統一社会主義者が建設されるはずであった。
 1990年の地方選挙では全国平均18%に到達した。

アンジェリカ・バラバーノフ 1878年ウクライナ・チェルニフ生−1965年ローマで死亡
 1917年ボルシェヴィキ党参加、1919−1920年コミンテルン書記。
 1922年ロシアからイタリアに戻り、イタリア社会党で活動。
 ファシズム勃興でスイス、パリ、ニューヨークに逃れる。(ユダヤ系)
 1947年イタリア労働者社会党に参加、これはのちイタリア民主社会党となる。


イタリア労働者社会党PSLI) 後イタリア民主社会党PSDI
 1946年の社会党大会でピトロ・ネンニ率いる多数派とジュゼッペ・サラガットの少数派が衝突した。
 PSIが1948年の選挙をPCIとの協同名簿をとる決定をしたため1947年、PSIからの分裂によって結成。
 この分裂はジュゼッペ・サラガットジャコモ・マテオッティの息子によって主導され、パラッツォ・バルベリニの分裂と称した。
 デ・ガスペリ政権参加。
 1948年の選挙は社会主義者連合(PSIの改良主義者イヴァン・マッテオ・ロンバルド結成)と統一社会主義者を形成し下院7.07%。
 1951年に統一社会党(1949年PSIからジュゼッペ・ロミタ結成、)が加わり、1952年にイタリア民主社会党PSDIとなる。
 選挙では下院4.52%。
 1948−1960年まではキリスト民主DCが中心の政権(アルチデ・デ・ガスペリアミントーレ・ファンファーニ)でPSDIが重要な
役割を占めた。1960年代ファンファーニアルド・モロピエトロ・ネンニの社会党に窓を開いた。
 1963年PSIに加わり統一社会党PSU(統一PSI−PSDI)となるが1968年のひどい選挙結果(下院14.48%、
1963年は両党で19.94%)から1971年PSDIに復帰。
 1964年共産党のジョルジョ・アメンドライタリア共和党ウゴ・ラ・マルファの提携でPCI、PSI、PSDI、PRI、DC多数派支持の
サラガット大統領(対抗はDCジョヴァンニ・レオネ、1971年引き継ぐ)、初めての社会主義者大統領。
 1980年からキリスト教民主、PSI、イタリア共和党PRI、イタリア・リベラル党との5党連合が1994年までイタリアを支配した。
 1989年ピエトロ・ロンゴピエル・ルイジ・ロミタが社会主義統一民主結成しPSI合流。
 1992年の贈収賄疑獄でほとんど政界から消えかかった。
 1994年選挙では党はばらばらになり多くはPSI反乱とクラクシ派の一部と自由のための社会民主結成(エンリコ・フェッリ)、あるいは
イタリア協定ジャン・フランコ・シエトローマ)、進歩(マグダ・コルナッキオネ・ミレッラ)に参加。
 EU選挙ではフェッリ選出、フェッリルイジ・プレティヨーロッパ・リベラル社会民主SOLEを結成。
 1995年、エンリコ・フェッリに代わりジャン・フランコ・シエトローマが書記長に選ばれ彼は自由の家に参加しようとした。
 フェッリルイジは離党しSOLEは中道右派のキリスト民主センターついで強いイタリア参加。
 エンリコ・マンカファブリツィオ・チッキトは1994年改革社会党結成し間もなくマンカマルゲリータチッキト強いイタリア参加。
 1998年、党は最終的にイタリア社会主義者SIに参加しのちイタリア民主社会主義者SDIを形成。
 多くの党員は強いイタリアキリスト民主センターCCDその他キリスト教勢力、民主連合民主主義者フランコ・ブルノ)に参加。
 離散社民は、マルゲリータで社民グループ結成、イタリア民主社会主義者ルイジ・プレティ社会民主主義者党(1996年再生
社民運動結成し2007年に同党に発展)に参加。
 2004年、同名で再建(書記ジョルジョ・カルタ、議長アントニオ・カリリア)されたが混迷の道をたどっている。
 2006年選挙はオリーヴ名簿、議会ではカルタが左翼民主主義者ピエロ・ファッシノと協定し社会民主グループ形成。
 カルタの突然の辞任でレナート・ダンドリアが書記となるが紛争が起こり2007年、ミンモ マジストロ書記となりレナート・ダンドリア
改革民主党結成。


国際主義者共産党PCInt〕  
 1943年北イタリアで旧共産党のオノラート・ダメンマリオ・アックワヴィヴァらが結成。彼らはアマデオ・ボルディガ共産主義左翼
に接近したため追放された。社会党からはブルーノ・マッフィが参加。
 赤旗ヴィンチェンツォ・グワルニエラ)や赤い星のような民主主義の勝利を展望する他の急進派と異なりPCIntはファシズム−
民主主義という2分法を拒否し他のパルチザンから非難された。彼らはナチスと闘うこととドイツと闘うことは別だと異なる民族の
プロレタリア兄弟性を擁護。
 1944年まで約2千のメンバーとなりトリノやミラノで工場グループを結成しPCIの内部委員会と対立。
 解放後、中央・南部イタリアに広がったイタリア社会主義者・共産主義者左翼分派と統合し成長し続けた。
 1945年ファウスト・アッティアックワヴィヴァが暗殺される。
 19461月大会にはオットリノ・ペッロネのような亡命活動家(旧イタリア共産党左派)も参加。
 この時期アマデオ・ボルディガと協力を始める。
 1946年選挙では約2万4千票、0,11%。
 1952年、連合や民族解放闘争の評価、党組織問題等で分裂
  ・オノラート・ダメン共産主義者戦闘(バッタリア)(1965年国際主義者共産党となる)、1979年ダメンが死亡し、1984年
  革命党国際事務所結成。
   共産主義者戦闘はフランスの社会主義か野蛮か、米国のラーヤ・ドゥナエフスカヤニュース・手紙委員会、スペインの
  グランディソ・ムニスの革命的労働者扇動、ブルーノ・フォルティキアリの共産主義行動、ダニロ・モンタルディのプロレタリア統一
  などの他の政治組織との協力に積極的。1977年国際共産主義者左翼グループ会議を組織、1983年、英国の
  国際共産主義者潮流革命党国際事務所結成。
  ・アマデオ・ボルディガ、オットリノ・ペッロネブルーノ・マッフィの共産主義者計画(プログランマ)(1965年国際共産党となる)。

 1964年現状分析問題で共産主義者計画から共産主義者革命が分裂。
 共産主義者革命から1965年年党組織問題で独立国際共産主義者グループが分裂。
 1974年歴史解釈問題で共産主義者計画から国際共産党−共産党partitoやその他小グループが分裂。
 1980年代初めに共産主義者計画は分解し、共産主義者ボッレティノ(小冊子)、国際主義者カデルニ(記録)など発生。

プロレタリア行動アナーキスト・グループGAAP〕
 1949年旧パリチザンでアナーキスト(絶対自由主義、リバータリアン)のアッリゴ・セルヴェットピエル・カルロ・マシニ
調整委員会を組織化。彼らはスターリン主義でサレルノの転換を行ったPCIと距離をおいていた。
 彼らはFAIのメンバー(アルマンド・ボルギアルフォンソ・ファイッラウンベルト・マルツォッキ)と意見があわず、
1951年セルヴェットマシニロレンツォ・パロディはGAAP結成、これは長続きせず1956年ジュリオ・セニガの雑誌
”共産主義行動”にブルーノ・フォルティキアリダニロ・モンタルディらの旧PCI、ボルディガ派国際主義者共産党共産主義者戦闘)、
トロツキスト(リヴィオ・マイタン革命的共産主義者グループ)などとともに参加し、1960年代特にマシニセニガは強く結ばれた。
 共産主義行動はPCIとPSIの選択肢の組織化に失敗し、マシニは1958年ころ社会党に参加。
 1965年セルヴェットロレンツ・パロディ共産主義闘争に参加、少数派はFAIに戻った。
 共産主義者闘争は1965年、アッリゴ・セルヴェットロレンツォ・パロディが創設した雑誌、1970年マルコ・フェッランド参加。

マルクス・レーニン主義イタリア共産党
 ナポリのフォリオを拠点に反修正主義者ドメニコ・サヴィオが率いる1999年結成の小党。
 2006年総選挙でカンパーニャからセナートに立候補26029票獲得。
 2013年総選挙セナート9604票、0.03%。
.
イタリア・マルクス・レーニン主義党
 1977年ジョヴァンニ・スクデリがフィレンツェで結成。活動家は1967年イタリア共産党(ML)に参加、
 1969年これを去りイタリア・ボルシェヴィキ共産党MLを結成。これが1977年PMLIとなる。
 PMLIはトロツキズムを拒否。

戦前のトロツキスト) 1930−1967

 イタリアにはアナルコ・サンディカリズム傾向のボルディガ派が存在。彼はロシア革命を支持し、1918年PSI大会で棄権主義を主張。
 アマデオ・ボルディガ(1889−1970年)は1921年共産党結成で中心的人物となり、多数派を形成。コミンテルン・メンバーともなったが
特に政治領域での統一戦線戦術に反対。
 ボルディガはPCIでもコミンテルンでも左翼反対派となった。
 1925年コミンテルンで批判を受け、1926年イタリア共産党PCdIでグラムシ−トリアッティ連合に支配権を奪われる。
 ボルディガはトロツキーを支持し1930年PCIから追放される。これでボルディガは1943年まで政治活動から離れる。

 PCdI指導者のトリアッティはスターリンについていた。モスクワの選択はPCdIに重くのしかかり、ルイジ・ロンゴ路線とピエトロ・トレッソ路線
が衝突した。
 ピエトロ・トレッソ(ブラスコ、1983−1943年)にはアルフォンソ・レオネッティ(1895−1985年)、パオロ・ラヴァッツォリ(1894−1940年)が
付いていた(3人グループ)。
 トレッソはトリアッティ、ルッジェロ・グリエコのPCdIのスターリン派の主要な反対派であった。
 トレッソはトロツキー支持でアルフォンソ・レオネッティ、パオロ・ラヴァッツォッリはより穏健であった。イグナツィオ・シロネは3人に近いと
みられていた。
 1930年、路線転換(社会ファシズム論)に反対しテレザ・レッキア(1899−1935年)、マリオ・バヴァッサーノとともに3人は追放された。
 間もなくイグナツィオ・シロネ(1930年スイス移住)も追放された。(1929年にはタスカが追放されていた。)
 1930年ピエトロ・トレッソはアルフォンソ・レオネッティ、パオロ・ラヴァッツォッリとイタリア新反対派NOIを結成し、国際左翼反対派に参加し
彼らはフランスに渡る。
 パリでトレッソはヴェリタに協力し、フランス共産主義者同盟に参加。1930年代レオネッティは国際書記局のメンバーであった。
 トレッソはピエール・ナヴィーユとともに1933年ロンドン・ビュローのパリ協議会に参加。ここではトロツキストにより第4インター結成が
強く主張された。
 トレッソは1934年イタリアで新聞ヴェリタ発行。人民戦線路線でフランスとイタリアのトロツキストはSFIOあるいは社会党への加入が問題
となりトレッソは社会党に参加。1938年トレッソは第4インター結成に参加。
 トレッソはフランスでマキに参加し恐らくスターリン主義者により暗殺された(1943年)。

 1933年レッキア、バヴァッサーノは新インターナショナル結成の展望で不和となりNOIと分裂しイタリア共産主義左翼に近い共産主義者連合
Union Communiste結成。
 ラヴァッツォッリは正義と自由に参加し、1934年イタリア社会党に参加しトロツキズムから離れる。(トレッソも1934年社会党参加)
 レオネッティはバヴァッサアーノ、テレザ・レッキアと第4インター反対のユダヤ・グループに参加。

 ニコラ・ディ・バルトォメオ(フォスコ、1902−1946年)はPCI結成に参加し、ムッソリーニ政権で1922−1926年投獄され、釈放されてフランスに
渡りボルディガ派に参加し、1928年PCIから追放される。しかしボルディガ派からも追放され1930年新イタリア反対派NOIに参加。

 共産党に対する見方でNOIは分裂、1933年トレッソ、バルトロメオらがNOIから追放される。これは国際書記局により取り消されたがNOIは解散。
 バルトロメオはモリニエ・フランク・グループに付いていた。彼らは1935年トロツキーと衝突。
 バルトロメオは1936年フランスから追放されスペインに渡り、POUMに参加。彼はモリニエ、ランダウ、ニンらと協力。

 バルトロメオはスペイン戦争後フランスで逮捕、ヴィシー政権により収容所に送られた。フランス降伏でムッソリーニ政権に渡された。
 1943年バルトロメオはトロツキスト残党を結集、これは南イタリア、ナポリを拠点とすし、バルトロメオは社会党で活動し影響を与えていた。
 バルトロメオはやがて米国のマックス・シャハトマン派やイギリスのチャールズ・ヴァン・ゲルデレンらと接触。
 チャールズ・ヴァン・ゲルデレンはイタリアでトロツキストの獲得活動を行っていた。

 1943年南イタリアに連合国が到着し、いささかかの自由のなかで共産党内にボルディガ派に接近するグループが生じ、PCIから追放され1944年
種々の反対グループ統一のためイタリア共産主義者・社会主義者左派グループが結成され、これにはフランチェスコ・マルカフォルトゥナート・ラ・カメラ
ロメオ・マンガーノらが加わった。
 ローマではイタリア共産主義者運動ローマ赤旗、ローマのトロツキスト系パリチザン部隊)からも参加者(オテロ・テルツァーニ)があった。
 1945年ナポリで左派会議が組織され、赤旗カルロ・アンドレオーニプロレタリア統一運動(1943年結成同年プロレタリア統一社会党となる)が
少数派として参加。北の解放でグループは国際主義者共産党PCInt(1943年オノラート・ダメンらが結成)に接近し、1945年多数派はPCInt参加を
決定し、少数派は社会党や共産党に戻ったり、リベロ・ヴィロッネらはトロツキストとなった。
 合流したPCIntは政治的限界を暴露し、社会的混乱で主導権は共産党や反動(キリスト民主、ネオファシスト)に移っていった。

 共産党プリア連合(ボルディガ派)のロメオ・マンガーノらにより解放された南イタリアで1945年共産主義労働党POCが結成され、バルトロメオの
グループと統合しPOC(ボルデェヴィキ・レーニン主義)となり第4インターナショナルFI支部となる。
 これに元イタリア共産主義者・社会主義者左派グループのリベロ・ヴィロッネが参加。バルトロメオのもとPOCはトロツキズムを取ったが、1946年
バルトロメオの死亡でロメオ・マンガーノが指導者となり加入戦術を拒否しボルディガ主義に近づき、第4インター路線に反対。
 1948年POCはFIから追放される。
 POCは分裂し、FI支持少数派はリベロ・ヴィロッネ、ドメニコ・セドゥラらで1949年イタリア労働者社会党から来た青年グループ(リヴィオ・マイタン)と
革命的共産主義者グループGCRを結成し、1951年FI支部となる。
 POCは1950年代初め消滅し、メンバーはボルディガ派に参加。
 革命的共産主義者グループGCRには行動党(レオーネ・イラーチ、ブルノ・オルシニ)、ミラノの共産党活動家(フランコ・ヴィッラーニ)なども参加。
 マイタンは1943年社会党に参加し、社会主義イニシアチヴ・グループに加わっていた。1946年ジュゼッペ・サラガットのイタリア労働者社会党参加。
 1950年代のFIの衝突でマイタンはマンデル、フランクと統一書記局派の中心となる。
 1953年FIでパブロによる転換が起こったが、GCRは加入戦術を取らなかった。
 加入戦術を試みたのはリベロ・ヴィロッネとファウスト・モンファルコン(ラド)。ファウスト・モンファルコンはプロレタリア統一社会党に参加。
 1960年代末学生反乱で共産党や社会主義諸党、マニフェスト・グループからトロツキスト移行者発生。1970年代幹部は学生から生じた。
 GCRは1979年革命的共産主義者同盟LCRと名を変える。

〔戦後のトロツキスト

 1945−1948年、共産主義労働党POCを共産党活動家が結成。
 1948年、POC、社会主義青年連合、行動党、共産党に属する活動家が雑誌”第4インターナショナル”発行。
 1949年発生グループが1950年に革命的共産主義者グループGCRとなり、雑誌”赤旗”発行。
 GCRは共産党と少数は社会党に加入。
 1960年代GCRは共産主義青年連合プロレタリア統一社会党に加入。
 1960年代後半これらからの労働者前衛AOや共産主義前衛などその他地方小グループ発生。
 1972年GCRはイル・マニフェストの選挙名簿に載る。
 1976年GCRはプロレタリア民主DPに参加。
 1979年革命的共産主義者同盟・第4インターナショナルLCRを名乗る。1980年LCR独自名簿で選挙参加。
 1983−1987年LCRはプロレタリア民主DP名簿。
 1991年プロレタリア民主はPRC合流。第4インター・グループは赤旗と呼ばれる。
 統一書記局と不仲なトロツキストにはマルコ・フェランドフランチェスコ・リッチのグループがおり、他の統一書記局不参加のグループ
として鎌・金槌がいる。
 1998年赤旗活動家はPRCのプロディ政権参加を支持し党内多数派に参加。
 2001年大会でベルティノッティの議案をリヴィオ・マイタンルイジ・マラバルバが支持しマラバルバがセナート・グループ指導者となる。
 赤旗活動家はPRC各分野で重要な役割を果たす。赤旗はエッレErreとなりトロツキスト以外にも公開される。
 2003年ベルティノッティはオリーヴと新しい協定を結び赤旗と不仲となる。
 2005年大会で第4インター・グループは批判左翼として出現し議案は6.5%獲得。
 マルコ・フェランドは選挙名簿から除外され離党し2006年7月労働者共産党結成、フランチェスコ・リッチのグループは既に離党して
いて、2007年1月共産主義選択党結成。
 2007年1月批判左翼党内で独立。フランコ・トゥリリアットが議会でアフガニスタン派兵反対で追放され12月批判左翼は分裂。

 鎌・金槌国際マルクス主義者傾向、労働者共産党は第4インター再建調整委員会、共産主義選択党は国際労働者同盟

革命的共産主義者グループGCR
 GCRの機関紙赤旗は19950−2002年発行。
 GCRは主にシルヴェリオ・コルヴィシエリらのイタリア共産青年同盟FGCIメンバーとシルヴィオ・パオリッキ、アウグスト・イッルミナティ
らのPCI中央委員会メンバーからなり1966年党から追放された。
 1968年学生抗議で400人以上の活動家に成長したがGCRは危機に入り始めた。
 コルヴィシエリ、イッルミナティ、ルイジ・ヴィンチフランコ・ルッソパオロ・フロレス・ダルカイスなどの組織の指導者が多くの青年と
学生指導者から出現した。
 多くは(ルイジ・ヴィンチ、コルヴィシエリなど)労働者前衛に参加、他は(フランコ・ルッソパオロ・フロレス・ダルカイスなど)革命的
共産主義者中核、共産主義者、共産主義万歳、共産主義前衛などの小グループに分散。
 1969年のPCIからの最終的分裂後にGCRは極左議会外運動の周辺に留まるのを終えた。
 リヴィオ・マイタン指導グループに種々の反対派からの分裂グループが参加。
 1975年ナポリにロベルト・マッサリ率いる小さなグループ革命的社会主義者同盟が生まれた。
 同年共産主義者同盟となりGCRで革命的マルクス主義者傾向となる。
 モレノ・パスキネッリなどのウンブリアの若い活動家は第4インター集合Collettivoついでウンブリア・レーニン・ボルシェヴィキ・グループ
結成。
 1976年GCRは選挙連合プロレタリア民主DPに参加。1989年GCRはDPに解消。
 シルヴィオ・パオリッキとミラノの組織の活動家の中核はフランコ・グリソリア、フェルナンド・ヴィセンティン、マルコ・フェランドに指導され、
ミラノとジェノヴァで活発なレーニン・ボルシェヴィキ・グループと革命的労働者同盟結成。
 このグループは後に1979年第4インター革命的共産主義者同盟LCRと名を変えたGCRに吸収される。
 この時期、多数派はマイタン・ペリグリニ、ジュリオ・サヴェッリ、新メンバーのエレットラ・デイアナフランコ・トゥリリアット
ルイジ・マラバルバなど、左派少数派はマルコ・フェランド、フランコ・グリソリアなどから構成された。
 1989年LCRはDPに合流、エレットラ・デイアナ、ロベルト・フィレンツェ、フランシスコ・グリソル、フランコ・トゥリリアット、セルジョ・ダミア
が党全国指導部に参加。1991年旧LCRはDPからPRCに合流。
 旧マイタンとトゥリリアット多数派は赤旗Bandiera Rossaグループ、フェランドとグリソル旧少数派は提案Propostaと呼ばれる。
 1998年PRC大会で赤旗は多数派支持。
 1999年フェランドとグリソルの提案は革命的マルクス主義連合AMR共産主義計画となりナポリ左派(ルイジ・イッツォら)、鎌・金槌(
クラウディオ・ベロッティ、アッレサンドロ・ジャルディエロ)など種々のグループを含んでいた。
 このためフェランド・グループは提案から共産主義計画と呼ばれるようになった。
 2001年からイッツォのグループと小グループ鎌・金槌はグループに参加しなくなった。
 2002年PRC大会では鎌・金槌と提案は同じ議案を支持し11%、2005年は別々でベロッティ(鎌・金槌)1.7%、提案6.5%となった。
 2004年マイタンの死で赤旗は批判左翼となる。トロツキスト運動派はエッレERREと称され(マラバラバ、カンナヴォ、トゥリリアット)、
旧LCRグループの第4インターナショナル連合はこれら。
 一方、提案は共産主義計画(フェランド、グリソリア)となる。エレットラ・デイアナは議員となり、再建党の多数派に参加(ベルティノッティ
と社会選択)。
 共産主義計画は3分解し2006年共産主義選択党、多数派は労働者共産党(フェランド、グリソリア)、残留は反潮流(再建党残留)となる。

赤旗連合)  
 批判左翼のメンバーのグループ。トロツキストで第4インター統一書記局USFIに加盟。
 批判左翼は共産主義再建党内のトロツキスト分派に起源し、これは2007年に分裂し独立した党になった。
 指導者はサルヴァトーレ・カンナヴォで2006−2008年の下院議員で同時期上院にはフランコ・トゥリリアットがいた。
 プロディ第2次内閣には一貫して反対。
 もともとは1940年代のリヴィオ・マイタン率いる革命的共産主義者グループGCRに発し、マイタンは2004年の死まで
GCRとその後継組織とUSFIの幹部であった。
 1968年共産主義青年同盟への加入戦術で多くのメンバーを失い、革命的共産主義者同盟LCRと改名。
 一部が離れ競争相手のトロツキストグループを形成したが学生を勧誘し分派活動をする。1970年代種々の選挙連合に参加。
 多くの極左が1975年プロレタリア民主DPを形成したときにそれに参加。
 PRCが結成されたとき以前のLCRメンバーはプロレタリア民主を解散して合流を主張。
 PRC内トロツキストは2007年、分裂してサルヴァトーレ・カンナヴォフランコ・トゥリリアットルイジ・マラバルタらが批判左翼結成。
 再建党内ではエッレ(Erre)と称し、週刊誌批判左翼を発行。
 2008年選挙ではカメラ0.46%(167673)、セナート0.42%(136396)。

共産主義計画
 革命的マルクス主義者連合−共産主義計画はPRC内のマルコ・フェランドとフランコ・グリソルのトロツキスト・グループ。
 ほぼAMR提案Propostaの継続組織でこれは国際トロツキスト反対派では最大そして第4インター再建調整委員会では第2の組織。
 2006年選挙でフェランドがPRCの候補となりこれで分裂、フランチェスコ・リッチの少数派はこれに反対。
 PRCはプロディ第2次政権に参加し、アフガニスタン派兵でフランチェスコ・リッチのグループが離党し共産主義選択党結成、ついで
フェランドのグループが離党し労働者共産党結成。

批判左翼
 もともとはPRC内のトロツキストで2007年12月分裂し独立政党となる。2006−2008年まで下院にサルヴァトーレ・カンナヴォ
上院にはフランコ・トゥリリアットがいた。二人ともプロディ第2次内閣には一貫して反対。トゥリリアットは2007年の政権危機の原因
をつくり、PRCから追放された。
 2008年選挙は独自名簿でカメラ0.5%獲得。
 国際的にはケン・ローチノーム・チョムスキーリチャード・ストールマンハワード・ジンミッシェル・オンフレイダニエル・ベンサイド
などの支持を得た。
 2009年EU選には参加せず。
 PRC内ではエッレErreと呼ばれ、他にルイジ・マラバルバ、リディア・チリッロ、フラヴィア・ダンジェリなど。週刊誌”批判左翼”発行。
 2005年大会で議案が6.5%獲得。2006年の共産主義者青年の会議では10.5%獲得。(ベルティノッティ派62.8%、共産主義者
16.6%、鎌・金槌7.0%、共産主義計画の共産主義統一連合3.1%)
 2013年、国際連帯(共同ネットワーク建設に関係、ルイジ・マラバルバフラヴィア・ダンジェリ)と反資本主義左翼(フランコ・トゥリリアット)の
2グループに解消。
 反資本主義左翼は2018年選挙は人民への力をPRC、イタリア共産党(旧共産主義者党)、共産主義者レーテなどと結成。

鎌・金槌
  国際マルクス主義者傾向
  1986年雑誌発行。このグループは1989年学生運動(Pantera)でリセとミラノ工科大の学生組合運動展開で大きな役割を果たす。
  ソ連・東欧崩壊で衰退を見た。PCI解散で他のトロツキストがプロレタリア民主で活動したのに対しPRCで活動。
  雑誌赤旗などでマルコ・フェランドとリヴィオ・マイタン周辺に結集しガラヴィニ、コスッタついでベルティニッティ、コスッタ多数派と対抗。
  スペインの同傾向グループの学生組合運動体験から刺激され1995年公共学校防衛委員会を結成し1990年代青年運動で大きな
 影響をもつ。
  共産主義者党分裂で党内に留まり、マイタン派はベルティノッティ多数派に参加。
  1999年フェランドは”提案Proposta”結成、他はナポリ左派と鎌・金槌結成、提案は共産主義計画に比重を移す。
  2002年共産主義青年で7%、2005年も7%、PRCでは独自提案で1.7%、2008年PRC提案では3.2%。
  2016年PRCから出て左翼階級革命SCR結成。
  2017年SCRは労働者共産党と2018年選挙のため”革命的左翼のために”結成。0.08%。

  60年代鎌・金槌という雑誌発行する別のグループが存在、1966年PCIから追放される。これは80年代のと関係はない。

<70年代新左翼>

労働者前衛
 極左の議会外組織。
 60年代にミラノで労働者主義−レーニン主義政治綱領と統一基礎委員会(体制組合組織に反対する労働者前衛の労働
組合組織をもとに結成)の結集によりミラノの大工場の組合運動と学生集団、熟練労働者を組織化して結成。
 ミラノの大工場の労働者グループのほか、PCIやGCRからのトロツキストも参加。
 ルイジ・ヴィンチシルヴェリオ・コルヴィシエリ、マッシーモ・ゴルラなどが指導。
 各種新聞を発行し情宣に努め、北イタリアの産業都市に広がった。
 1975年、学生殺害に関与し後に活動家が有罪となった。
 1970年代中に他の組織同様に新左翼運動により混乱させれ、1976年プロレタリア民主に参加。
 1978年のプロレタリア民主の政党化にともない多数派は合流したが少数派はプロレタリア統一党PdUPに参加。

社会主義労働者運動MLS
 1968年ミラノ大学で顕れた学生運動から1976年に生まれた。
 当初毛沢東を取り入れたり、スタリーリンを再評価したりしていた。
 1975年、選挙連合プロレタリア民主に参加。
 MLSはテロリズム活動に関与しなかった数少ない議会外左翼の1つであった。
 ゲバラ主義やX時間に反対しグラムシのヘゲモニーを評価した。
 1977年、ミラノで労働者自主管理(オレステ・スカルツォニのCOCORI革命的共産主義委員会)やプリマ・リネアと衝突。
 1981年ルーチョ・マーグリ、ルチアーナ・カステッリナのPdUPに合流。
 MLSの活動家からはマルゲリータの議員でプロディ内閣の通信大臣のパオロ・ジェンティロニ、PDS等の議員となった
ルチアーノ・ペンティナリ、PRC議員のアルフォンソ・ジャンニ、マルゲリータ議員のナンド・ダラ・キエサその他数多くの
ジャーナリスト等が出ている。

労働者自主管理:アウトノミア・オペライアAO)
 1976−1978年に特に活動的であったイタリアの議会外左翼運動。1972年に党として現れた。
 労働者の力POのような初期の組織や1968年5月の結成された継続闘争は別として1970年代の自主管理
運動で重要な役割を果たした。
 自主管理運動はローマの赤い波、ボローニャのラジオ・アリチェ、フィレンツェのコントラジオ、パドヴァのラジオ・シャーウッドその他
の地域ラジオのような自由ラジオの周辺に結集し、全国に波及した。
 労働者自主管理はマルクス・レーニン主義傾向と他のよりアナーキスト的そしてリバータリアン(絶対自由主義)傾向に分かれる。
 カラブリア大学のオレステ・スカルツォニフランコ・ピペルノ、パドヴァ大学のアントニオ・ネグリ、ラジオ・アリチェの編集者
フランコ・ベラルディ、別名ビフォなどが良く知られたこの運動の人物である。
 ボローニャで警察が継続闘争のフランチェスコ・ロ・ルッソを殺したあと、1977年3月に運動は特に活発になった。
 このできごとはイタリアの色々な所で一連のデモを巻き起こした。
 ボローニャ大学とローマ・ラ・サピエンサ大学は学生で占拠された。内務大臣の命令で治安警察(カラビニエリ)がボローニャ
大学地域を包囲した。
 この弾圧は特にフランス哲学者ミシェル・フーコー、サルトル、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガダリなどの国際的抗議にあった。
 彼ら(あるいはガダリ)はイタリア共産党PCIの大学占拠批判を非難した。
 1977年2月17日、PCIに近い労働組合CGIL総書記のルチアーノ・ラーマは占拠されたラ・サピエンサ大学内で演説をした。
 演説の間、自主管理主義者とCGILの保安組織は暴力的衝突をし、ラーマは追い出された。
 この衝突が警察による学生排除を促した。
 PCIと自主管理主義者との衝突は自主管理主義者内のより急進的潮流によって強化された。
 インディアニ・メトロポリタニ(大都市インディアン)運動などのような法外な分子を含む創造的潮流は少数派になった。
 一部の自主管理主義者は戦闘段階に乗り出すべき即ち銃器を使用し始めるべき時期がきたと決定した。
 赤色旅団(ブリガーテ・ロッセ)プロレタリア軍中核NAP(主要な活動家はナポリ刑務所にいた)、プロレタリア戦闘団、
共産主義プロレタリア軍革命行動隊統一共産主義戦闘団第1線(プリマ・リネア)のように強化されて多くの自主管理主義者
は秘密活動に入った。
 しかし多くの運動は禁止された。1980年代始めにはそれらの一部がプロレタリア民主に加入した。
 この極左政党は1970年代および1980年代に地方や全国、EU議会選挙に参加したがほとんど成功しなかった。

継続闘争:ロッタ・コンティヌアLC
 継続闘争は鉛の年の間のイタリアの議会外極左政党で、自主管理運動に関係した。
 1969年秋、トリノの学生労働運動での分裂で創設された。
 これは大学とフィアットのような工場での戦闘的活動として始まった。

 継続闘争は1969年ピサ労働者の力のメンバーによって結成された。
 名の由来する季刊誌”継続闘争”の第1号が1969年11月にルチアーノ・デラ・メアによって発行された。
 これにはガド・レルネルジャン・マリオ・カッツァニガロマノ・ルペリニアドリアノ・ソフリらが協力。
 それはイタリアの緊張戦術の始まりと見なされる1969年12月12日のピアッツァ・フォンタナ爆破の数週間前である。
 継続闘争は急進化を学生と青年から労働者に広げることに焦点を置き社会センター設立に大きな役割を果たした。
 それは主に直近の移民、若者、大工場の無資格労働者に影響し、伝統的労働者階級はCPIと労働組合運動に忠誠を保った。
 1972年まで中心人物はアドリアノ・ソフリであった。
 そのほか、マウロ・ロスタニョ、ギド・ヴィアレ、ジョルジョ・ピエトロステファニニ、パオロ・ブロジ、チェザーレ・モレノ、マルコ・ボアト
カルラ・メラッチニ、アレクサンデル・ランゲルなど。
 1972年4月全国会議でブルジョアと国家に対する総衝突が承認された。
 1974年11月旧メンバーでプロレタリア中核軍ルッカ・マルティニとジュゼッペ・ロメオがフィレンツェで強盗中死亡。
 1976年初めて全国選挙に参加、プロレタリア統一党労働者前衛社会主義労働者運動と統一名簿、1.6%、6議席、
LCからはミンモ・ピントが議員となる。
 機会がより限られるようになり、男性と女性活動家の衝突で特徴つけられる全国会議のあと1976年解散された。
 1976年多くのメンバーは旧労働者の力のメンバーと第1線(プリマ・リネア)を結成

 1980年代ほとんどの継続闘争の代表は当初の思想を捨てた。
 マルコ・ボアトとミンモ・ピントは急進党に行き、他はTVまた色々な新聞で働いた。
 多く社会党PSIに加わり、特にベッティノ・クラクシの反対派を支援した。
 マルコ・レヴェッリやフルヴィオ・グリマルディなどの彼らの限られたものが共産主義再建党に加わった。
 以前の継続闘争の指導者アドリアノ・ソフリオルヴィド・ボンプレッシジルジョ・ピエトロステファニは1972年のルイジ・カラブレシ
の警察署の殺人を組織・実行した罪で告発され、重い投獄刑を宣告された。
 オルヴィド・ボンプレッシは健康理由で大統領のナポリターノにより恩赦された珍しい政治活動家の一人である。

 季刊誌”継続闘争”は、1972年と1974年の間に日刊になった。エンリコ・デアリオにより1977−1982年まで発行された。

労働者の力:ポテーレ・オペライオPO
 労働者の力は1969年から1973年の間、活発だったイタリアの急進左翼政治集団。
 指導者はアントニオ・ネグリフランコ・ピペルノオレステ・スカルツォネヴァレリオ・モルッチランフランコ・パチェなどで、
秘密武装集団(オレステ・スカルツォネヴァレリオ・モルッチの非合法労働:ラヴォーロ・イレガーレ、1971年から活動)を率いた。
 これは労働者主義者の一部で後に自主管理運動に発展した。
 これら政治グループは雑誌”階級”編集の中心メンバーに起源する。
 1969年トリノの労働者・学生運動の分裂で1967年からノルド・エスト(北東)とエミリアで活発だったポルト・マルゲラの労働者の力
と合流。グループは定期誌(1971年から週刊誌)を発行し同名の運動と結合。
 労働者の力の主要活動領域は工場、特に北の産業地帯の大工場で、新聞と小冊子を発行した。
 北イタリアでは非合法労働はジャンジャコモ・フェルトリネッリパルティザン行動グループと結びついた。
 労働者の力は暴力活動にも従事し、1973年3月のプリマヴァレ放火あるいは同志を裏切ったシンパで著名な産業家家族の
カルロ・サロニオの誘拐と殺人のようないくつかの犯罪活動に従事した。
 これは産業労働者、特に移民してきたばかりの、若い、不満をもった化学部門の産業労働者に非常にわずかな支持をもった。
 労働者の力の指導者は急速に組織を把握できなくなり、1973年のイタリア当局の捜査の後、解散された。
 労働者の力は公式には1973年1月3日に存在停止した。
 アントニオ・ネグリフランコ・ピペルノの衝突によりネグリ周辺のパドヴァのグループがローマのグループから分裂。
 多くの中心メンバーは労働者自主管理に関係した。
 モルッチアドリアナ・ファランダのような一部の指導者は赤色旅団のようなより過激なグループに移っていき、彼ら(彼女)は
モロの殺人に参加した。ネグリは1970年代後期に赤色旅団の指導者として罪状がはっきりしないまま逮捕された。
 オレステ・スカルツォニも暴力行為との関係で逮捕された。
 ネグリは逮捕の4年後、マルコ・パンネラ急進党から議員に選ばれ、議員特権で釈放されるとフランスに逃走し1997年に
帰国し残りの刑期を務め2003年春釈放されている。
 その他メンバー・シンパはマッシーモ・カッチャーリパンチョ・パルディ(価値のイタリア)、リッタンナ・アルメーニガエターノ・ペコレッラ
(強いイタリア)、フランコ・ベラルディエンツォ・トラヴェルソパオロ・ミエリパオロ・ヴィルノなど。


そのほかの1960−1970年代急進運動 極左
共産主義者前衛 
  共産主義者グループとローマML共産主義委員会の統合で1974年雑誌創刊、1976年MLS合流。

ピサ労働者の力 
  1967年ピサで季刊誌労働者の力ルチアーノ・デラ・メアが発行、この影響で1967年ピサ大学学生アドリアノ・ソフリ
 ジャン・マリオ・カツァニガらがピサ労働者の力結成、この中から1969年カール・マルクス・センタージャン・マリオ・カツァニガら、
 共産党合流)、共産主義者同盟ルチアーノ・デラ・メアロマーノ・ルペニら、1974年プロレタリア民主合流)、継続闘争が形成される。

労働者主義
  1961年、マリオ・トレンティ(PCI)、アントニオ・ネグリ(PSI)、ラニエロ・パンツィエリ(PSI)らが労働者理論により雑誌カデルニ・ロッシ
 (赤い帳面)を創刊。(1966年廃刊)
  これら創設者のなかのマリオ・トレンティアルベルト・アソル・ロサロマノ・アルカティアントニオ・ネグリマッシーモ・カッチャリらが
 1963年、雑誌労働者闘争創刊。これらの労働者思想がPO、LCの起源となる。

大都市インディアン
 1976−1977年に活発だった極左の小グループ。
 メンバーはアメリカ・インディアンの戦争化粧のように顔を化粧し、、ヒッピーの格好をした。芸術特に音楽と共にを強調。
 グループはローマで1977年のラ・サピエンサ大学占拠中に活発であった。
 もっとも有名なのはルチアーノ・ラーマの演説に対する抗議でラーマと支持者を追い出した。
 内相フランチェスコ・コッシガはローマですべてのデモを禁止したが、急進党がこれをやぶりその結果自主管理主義者と警察が
5月12日中激しく衝突、女子学生ジョルジアナ・マシが殺される。
 自主管理主義者の拠点のボローニャは戦車により占領されフランチェスコ・ロルッソが3月11日警察に殺され自主管理主義者の
デモとゲリラ戦が起こった。大都市インディアンはメンバーは少なかったがこれらの事件で活発であった。
 運動が衰退すると彼らの多くは社会センターで活動するようになり、占拠し、若者の自由空間とし音楽・芸術活動を後援した。
 彼らは1970年代末には消えた。

(1960年代のイタリアの新しい政治音楽)
 イタリアの新しい音楽は1962年からミラノで生まれた芸術家、学生の音楽雑誌、音楽グループの名。
  
ジャンニ・ボシオファウスト・アモデイジョヴァンナ・マリーニカテリーナ・ブエノミケーレ・ストラニエロイヴァン・デラ・メアロベルト・レイディ
 
ルディ・アスンティノ等。
  1960年代のイタリアの新しい政治音楽の担い手としてはその他、ピサ、ブレシアーノ、アルコ、ヴェネト等々のピーノ・マッシペピーノ・マロット
 
パオロ・ピエトランジェリアルフレド・バンデッリグワルティエロ・ベルテッリ等。

 イヴァン・デラ・メア 1940年生まれ、1956年共産党参加、1957年から作曲を始め、1962年ジャンニ・ボシオらとイタリアの新しい音楽創設。
  ルチアーノ・デラ・メアの弟。
 ピーノ・マッシ ピサ労働者の力参加。1966年ピサ歌の本創設。1969年のピサ労働者の力の分裂でアドリアノ・ソフリらと継続闘争に加わり組織の
音楽的代弁者となる。
 ジャンニ・ボシオ 1943年社会党参加、1960年から音楽活動に関わる。
 ファウスト・アモデイ 1935年生まれ、人民統一で政治活動を始め、1966年PSIUP議員となる。1958年トリノでカンタクロノケという社会・政治的意味を
含む歌を歌うグループ結成。


鉛の年(アンニ・ディ・ピオンボ)
 1970年代早期から1980年代の爆弾と銃撃の波の時代。
 1969年12月12日のフォンタナ広場爆破で16人死亡、アナーキストが逮捕される。継続闘争はファシストが犯人と主張、最終的
に全員無罪。いまだ犯人不明。1970年12月ブルゲーゼ・ゴルペ(ネオファシストのクーデター騒動)。
 1972年5月ミラノで警察官暗殺、1988年、アドリアノ・ソフリオルヴィド・ボンプレッシジルジョ・ピエトロステファニら仲間の
後悔・告白により逮捕・重刑となる。1973年内務大臣マリアーノ・ルモル爆破4人死亡、1974年反ファシスト・デモで爆破8名死亡、
 1974年ヴィト・ミチェリ将軍が反逆罪で逮捕される、1978年赤色旅団がアルド・モロ暗殺、歴史的和解終焉、1980年ボローニャ・
大虐殺
、85人死亡、ネオ・ファシスト武装革命中核の仕業。1984年鉄道爆破で16名死亡、マフィアと極右の仕業。

77年
 68年が学生運動で特徴付けられるのに対し77年は主に議会外左翼グループが関係した、またフェミニズム、ゲイの解放、中絶
といった新しい争点がでてきた。
 きっかけとなっのはマルコ・パンネラ急進党の離婚にたいする国民投票勝利後の政治活動であった。
 1976年放送自由化により自由ラジオが盛んになった。
 運動の指導者はおらず個人的にかかわったが解散した継続闘争の活動家が運動を担っていた。

 1月21日下院が中絶法承認、これは6月7日上院で拒否、6月10日女性組織が抗議デモ。
 2月1日武装したネオファシュスト約70人が占拠中のローマ大学文学部に突入。
 1977年街頭での武装行動を主張する労働者自主管理歴史的和解路線の共産党が衝突。1977年2月労働組合CGIL総書記
ルチアーノ・ラーマは占拠されたラ・サピエンサ大学内で演説をした。演説の間、自主管理主義者とCGILの保安組織は暴力的衝突
をし、ラーマは追い出された。警察が学内に導入された。
 2月ローマでの最初の全国大学生集会でフェミニスト、大都市インディアン労働者自主管理が衝突。
 ボローニャ市では同年街頭で暴力的衝突が起こり、特に3月11日継続闘争の活動家フランチェスコ・ロルッソが銃殺された。
 トリノでは10月1日継続闘争イタリア社会運動事務所の襲撃のあとモロトフ爆弾で関係のない学生が殺された。これは継続闘争
の活動家を狙ったものであった。
 5月12日ローマで急進党主催のナヴォナ広場での座り込みで女子学生ジョルジアナ・マシ(19歳)が殺された。
 6月カリアッリ大で自主管理主義者と共産党活動家衝突。
 8月モンタルト・ディ・カストロ・センターで反原発運動が起こる。
 9月運動の最後の全国会議がボローニャで開催され不一致と分裂発生、この会議で政治運動の終わりをつげた。

 1970年代末には自発的反乱は消耗した。1978年3月16日アルド・モロが赤色旅団により暗殺される。
 武装闘争へむかうものと議会党へ向かうものがでてきた。プロレタリア民主だけが残った。
 雑誌継続闘争編集者のような68年の経験者は運動(旧急進党を多く含む)に向かった。(アレクサンデル・ランジェルら)

白いツナギ:トゥーテ・ビアンケと不服従者:ディスオッベディエンティ)  
 白いツナギ(トゥーテ・ビアンケ)は1994−2001年に活発であった戦闘的社会運動。
 白いツナギもうたくさん(ヤ・バスタ)連合という反グローバリズム活動家の緩いグループが音頭をとった占拠した社会センター防衛のデモで
白いツナギを着たことに由来する。
 白いツナギは非正規の目に見えない労働者を象徴するものとネグリー・ハートのマルチチュードでは説明されている。
 無名氏によると1994年ミラノ市長がスコッターを都市をうろつきまわる幽霊に過ぎなくなるだろうと非難したことから白いツナギを着た幽霊
格好で警察と抗争し始めたとされる、更に青いツナギが伝統的労働者の作業服であるのに対し、ポスト・フォーディズムのプレカリアウス(不安定)
労働者への変身を意味させるようになったとする。
 白いツナギ運動の中心となったのはサパティスタに鼓舞されてできたもうたくさん(ヤ・バスタ)連合というネットワーク・グループ。
 もうたくさん(ヤ・バスタ)はミラノの社会センターの自主管理主義者に起源がある。この社会センターは1970−1980年代のアウトノミア
運動から成長した。
 後に2000年プラハの反グローバリズ抗議運動で採用された体に詰め物をしてデモを行う戦術を警察の襲撃に対抗するためとった。
 白いツナギ運動は2001年ジェノヴァの反G8抗議活動で頂点に達する。そのすぐあとにもうたくさん(ヤ・バスタ)連合は解散したが、
一部は不服従者(ディスオッベディエンティ)を結成。
 白いツナギ運動やディスオッベディエンティあるいは反グローバリズ運動の主な代弁者はルカ・カザリーニ、キアラ・カッスリーノ、
フェデリコ・マルテッローニなど。
 2008年にルカ・カザリーニはベルルスコーニの家族経営の出版社から小説を出した。
 一般的にはディスオッベディエンティは政党に批判的であったが共産主義再建党、特にその青年組織青年共産主義者
とは密接な関係を持った。しかし共産主義再建党の政権参加に伴いディスオッベディエンティの過激な行動に対し共産主義再建党の
書記のファウスト・ベルティノッティの批判が生じ、その他の問題とともにディスオッベディエンティに急進派と現実派の違いが生じている。

 トゥーテ・ビアンケ類似運動は他国にも発生、英国のウォンブルズWOMBLES(絶対自由効果的闘争構築白いツナギ運動)も同様の戦術を採用、
米国ニューヨークではNYCもうたくさん(ヤ・バスタ)集合が黄色いツナギを着用。スペインではモーノ・ブランコ(白いツナギ)と称する。

*反グローバリズム運動と深い関わりがあるブロック戦術戦術的軽薄アフィニティ(類縁)・グループなどについて  ⇒ 詳しくはこちら

     
 トゥーテ・ビアンケ           ウォンブルズ               NYCヤ・バスタ                モーノ・ブランコ

   
 Disobedienti 2003年ギリシャ     Disobedienti 2001年ジェノヴァ     


学生運動   ⇒ 詳しくはこちら


労働運動   ⇒ 詳しくはこちら


生活組合運動参考


首相
1944年 イヴァノエ・ボノミ労働民主党) 労働民主党、行動党、キリスト民主、共産党、社会党、リベラル党
1944−1945年 イヴァノエ・ボノミ(労働民主党) 労働民主党、リベラル党、キリスト民主、共産党
1945年 フェルッチオ・パッリ(行動党) 行動党、キリスト民主、共産党、社会党、リベラル党、労働民主党
1945−1946年 アルチデ・デ・ガスペリ(キリスト民主) 行動党、キリスト民主、共産党、プロレタリア統一社会党、リベラル党、労働民主党
共和国
1946−1947年 アルチデ・デ・ガスペリ(キリスト民主) キリスト民主、共産党、社会党、共和党
1947年 アルチデ・デ・ガスペリ(キリスト民主) キリスト民主、共産党、社会党
1947−1948年 アルチデ・デ・ガスペリ(キリスト民主) キリスト民主、民主社会党、リベラル党、共和党
1948−1950年 アルチデ・デ・ガスペリ(キリスト民主) キリスト民主、民主社会党、リベラル党、共和党
1950−1951年 アルチデ・デ・ガスペリ(キリスト民主) キリスト民主、民主社会党、共和党
1951−1953年 アルチデ・デ・ガスペリ(キリスト民主) キリスト民主、共和党
1953年 アルチデ・デ・ガスペリ(キリスト民主) キリスト民主
1953年 ジュゼッペ・ペッラ(キリスト民主) キリスト民主
1954年 アミントーレ・ファンファーニ(キリスト民主) キリスト民主
1954−1955年 マリオ・シェルバ(キリスト民主) キリスト民主、民主社会党、リベラル党
1955−1957年 アントニオ・セーニ(キリスト民主) キリスト民主、民主社会党、リベラル党
1957−1958年 アドニ・ツォリ(キリスト民主) キリスト民主
1958−1959年 アミントーレ・ファンファーニ(キリスト民主) キリスト民主、民主社会党
1959−1960年 アントニオ・セーニ(キリスト民主) キリスト民主
1960年 フェルナンド・タンブローニ(キリスト民主) キリスト民主 
1960−1962年 アミントーレ・ファンファーニ(キリスト民主) キリスト民主
1962−1963年 アミントーレ・ファンファーニ(キリスト民主) キリスト民主、民主社会党、共和党
1963年 ジョヴァンニ・レオーネ(キリスト民主) キリスト民主 
1963−1968年 アルド・モロ(キリスト民主) キリスト民主、社会党、民主社会党、共和党
1968年 ジョヴァンニ・レオーネ(キリスト民主) キリスト民主
1968−1969年 マリアーノ・ルモル(キリスト民主) キリスト民主、社会党、民主社会党、共和党
1969−1970年 マリアーノ・ルモル(キリスト民主) キリスト民主
1970年 マリアーノ・ルモル(キリスト民主) キリスト民主、社会党、民主社会党、共和党
1970−1972年 エミリオ・コロンボ(キリスト民主) キリスト民主、社会党、民主社会党、共和党
1972年 ジュリオ・アンドレオッティ(キリスト民主) キリスト民主
1972−1973年 ジュリオ・アンドレオッティ(キリスト民主) キリスト民主、民主社会党、リベラル党
1973−1974年 エミリオ・コロンボ(キリスト民主) キリスト民主、社会党、民主社会党、共和党
1974年 エミリオ・コロンボ(キリスト民主) キリスト民主、社会党、民主社会党
1974−1976年 アルド・モロ(キリスト民主) キリスト民主、社会党
1976年 アルド・モロ(キリスト民主) キリスト民主
1976−1979年 ジュリオ・アンドレオッティ(キリスト民主) キリスト民主
1979年 ジュリオ・アンドレオッティ(キリスト民主) キリスト民主、民主社会党、共和党
1979−1980年 フランチェスコ・コシガ キリスト民主、民主社会党、リベラル党
1980年 フランチェスコ・コシガ キリスト民主、社会党、共和党
1980−1981年 アマルド・フォルラーニ(キリスト民主) キリスト民主、社会党、民主社会党、共和党
1981−1982年 ジョヴァンニ・スパドリーニ(共和党) キリスト民主、社会党、民主社会党、共和党、リベラル党 (5党体制)
1982−1983年 アミントーレ・ファンファーニ(キリスト民主) キリスト民主、社会党、民主社会党、リベラル党 
1983−1986年 ベッティーノ・クラクシ(社会党) キリスト民主、社会党、民主社会党、共和党、リベラル党
1987年 アミントーレ・ファンファーニ(キリスト民主) キリスト民主
1987−1988年 ジョヴァンニ・ゴリア(キリスト民主) キリスト民主、社会党、民主社会党、共和党、リベラル党
1988−1989年 チリアコ・デ・ミタ(キリスト民主) キリスト民主、社会党、民主社会党、共和党、リベラル党
1989−1991年 ジュリオ・アンドレオッティ(キリスト民主) キリスト民主、社会党、民主社会党、共和党、リベラル党
1991−1992年 ジュリオ・アンドレオッティ(キリスト民主) キリスト民主、社会党、民主社会党、リベラル党
1992−1993年 ジュリアーノ・アマト(社会党) キリスト民主、社会党、民主社会党、リベラル党
1993−1994年 カルロ・アッゼリオ・チャンピ キリスト民主、社会党、民主社会党、リベラル党
1994−1995年 シルヴィオ・ベルルスコーニ(強いイタリア) 強いイタリア、国民連合、北方同盟、キリスト民主中道
1995−1996年 ランベルト・ディニ
1996−1998年 ロマーノ・プロディ(オリーヴの木)  左翼民主党、人民党、イタリア復活、緑連合
1998−1999年 マッシーモ・ダレマ(左翼民主党) 左翼民主党、人民党、イタリア復活、緑連合、共産主義者党、
                                 民主社会主義者共和民主連合
1999−2000年 マッシーモ・ダレマ(左翼民主党) 左翼民主党、人民党、イタリア復活、緑連合、共産主義者党、
                                 民主主義者ヨーロッパ民主連合・人民
2001−2006年 シルヴィオ・ベルルスコーニ(強いイタリア) 強いイタリア、国民連合、北方同盟、キリスト中道民主連合
2006−2008年 ロマーノ・プロディ(オリーヴの木、民主党) 左翼民主党、マルゲリータ、共産主義再建党、拳にバラ、
                                 共産主義者党、価値のイタリア、緑連合、ヨーロッパ民主連合
2008−2011年 シルヴィオ・ベルルスコーニ(自由の人民) 自由の人民北方同盟自治運動
2011−2013年 マリオ・モンティ
2013−2014年 エンリコ・レッタ(民主党) 民主党、自由の人民/新中道右派、市民選択中道連合イタリアの人民、イタリア急進
2014−2016年 マッテオ・レンツィ(民主党) 民主党、新中道右派市民選択中道連合連帯民主民主中道社会党
2016−      パオロ・ジェンティロニ(民主党) 民主党、新中道右派人民選択ヨーロッパ中道連帯民主民主中道社会党


議会での政党色合い勢力変遷
  右翼 王党派 保守  キリスト民主 リベラル党 共和党   急進党 民主社会党 社会党 民主党 共産党
1937年                          
1946年       35.18(207 6.79(41 4.37(23       20.72(115     18.97(104
1948年 0.89(1 2.00(4 6.2(10 48.18(130   2.68(4     3.62(6     31.08(72   
1953年 5.84(29 6.85(40   40.10(263 3.01(13 1.62(5     4.52(19 12.70(75     22.60(1.43
1958年 4.76(24 4.86(25   42.36(273 3.54(17 1.37(6     4.55(22 14.23(84     22.68(140
1963年 5.11(27 1.75(8   38.29(260 6.97(39 1.37(6     6.10(33 13.84(87     25.26(166
1968年 4.45(24 1.30(6   39.12(266
5.82(31 1.97     14.88(91   PSIUP
4.45(23
26.91(177
1972年 8.67(56     38.66(266 3.88(20 2.86(15     5.14(29 9.61(61   1.94(0 27.15(179
1976年 6.11(35     38.71(263 1.30(5 3.09(14   1.07(4 3.37(15 9.65(57   DP1.51(6 34.37(227
1979年 5.26(30     38.30(262 1.94(9 3.03(16    3.45(8 3.84(20 9.81(62   PdUP1.37(6 30.38(201
1983年 6.81(42     32.93(225 2.89(16 5.08(29   2.19(11 4.09(23 11.44(73   1.47(7 29.89(198
1987年 5.91(35     34.41(234 2.10(11 3.70(21   2.56(13 2.96(17 14.27(94 2.51(13
DP1,66(8 26.57(177
1992年 5.37(34 8.65(55   29.66(206
1.86(12
2.86(17
4.39(27
  1.24(7
2.72(16 13.62(92
2.79(16 16.1(107
5.61(35
  右翼 北同盟 国民連合 強いイタリア (右派連合) キ右派 キ左派 急進党 (左派連合) 社会党 民主党 共産党
1994年   8.4 13.5 21.0 46.1(366 11.1 3.4 33.0(213 2.2 2.7 20.4 6.1
1996年   10.1 15.7 20.6 43.2(246 5.8 6.8 1.9 45.4(285   2.5
21.1 8.6
2001年   3.9 12.0 29.4 45.4(368 3.2 14.5 2.2 43.5(247   2.2 16.6 6.7
2006年   4.58(26 12.31(71 23.66(137 49.69(281 6.75(39
    49.80(348   2.05   8.14(57
2008年 2.43 8.3(60   37.39(276 46.81(344 5.62     37.54(246 0.98   33.17(217 3.08(0
2013年
国内分
4.08(18 自由の人民
21.56(98
29.18
(125
五星運動
25.56

(109
モンティ派
10.09
(47
29.55
(345
SEL
3.2(37
25.43
(297
市民革命
2.25
2018年 FDI
4.35(32
17.37(125 14.01(104 37.0(265 32.66(227 2.55(3 22.85(122 18.72(112 自由と平等
3.38(14




   ⇒ ヨーロッパの左翼