<<スペインの左翼>>


〔統一左翼IU〕 Izquierda Unida
 統一左翼は社会主義労働者党以外のほとんどの左翼組織を作家アントニオ・カラ率いるNATO撤退市民プラットフォームが結集したのに続き、
1986年のスペインのNATOからの撤退要求運動の熱気で結成された。
 これら多くの組織は統一左翼プラットフォームと呼ばれた連合に統合した。国民投票はNATO残留となったが、ほぼ7百万が反対に投票した。
 最初の会合は1986年4月27日に開催され、スペイン共産党PCE、カタロニア統一社会党、社会主義行動党PASOC、共和主義左翼(1934年、
マヌエル・アサーニャらが設立)、進歩連合(PCEを離党したラモン・タマメスが1984年設立、1988年解散)、人道主義党(1984年設立、
ヒューマニスト・インターに参加)、カルロス主義党(1969年結成)が参加。
 これら政党にスペイン人民共産党PCPE、労働者統一集合−左翼アンダルシア・ブロック(1979年結成)が同じく独立したままで合同した。
 PCE書記長ヘラルド・イグレシアスを指導者とする政治委員会が構成された。(1982年のサンチャゴ・カリリョのPCE書記長解職で就任、
連合の80%をPCEが占めた。)
 1986年6月の最初の総選挙で4.6%、7議席を獲得。(PCEのそれまでの議席より3増)
 1987年地方選挙で7.18%獲得。
 同年人道主義党がアルゼンチンのラ・コムニダーというグループとの関係で追放される。
 また進歩連合も提携を放棄し1988年には解散。同じくカルロス主義党も去る。
 PCPE指導者のイグナシオ・ガリェゴのPCPEのPCE合同決定のあとガリェゴは解職され、1989年にはPCPEがIUを放棄。ガリェゴは8000の活動家や
多数の指導者らとPCEに参加。
 結局1986−1989年に進歩連合カルロス主義党人道主義党スペイン人民共産党PCPEがIUを去る。
 1989年2月の全国大会でIUの政治・社会運動化転換を決定、指導者にヘラルド・イグレシアスを選出。
 1989年総選挙で9.07%、17議席獲得し、得票数で第3位、議席で第4位政党となる。
 1989年11月イグレシアスがPCEとIUの職を辞しIUの指導者がフリオ・アンギタ・ゴンサレスに交代。
 1989ー2000年までの指導者はPCE書記長のフリオ・アンギタ。
 1990年フリオ・アンギタを調整者とし、同時にPCEその他の参加政党から権力をIU組織の移動し、1992年政党として登録。

 PCEの1982年の選挙での後退(10%→3%)のあとで、IUはゆっくりと改善し1993年、9%に、1996年は約11%とやっと70年代のPCEの
水準に達する。しかし1999年から後退し始め、2000年に5%、この選挙でPSOEと協定を結ぶ。

 1992年には第3路線支持の新左翼と呼ばれるグループがPCE外のIU内に発生した。かれらは数は少なかったがニコラス・サルトリウス
ディエゴ・ロペス・ガリドクリスティナ・アルメイダら著名な人物が多く、マスコミを通して影響力をもった。彼らはPSOEのフェリペ・ゴンザレス政権に対し、
アンギタ率いるIUが保守の人民党PPと手を組もうとしたのを批判しPSOEと協力しようとした。
 1996年、人民党が政権を握ってもアンギタは考えを変えなかったため、1997年、ディエゴ・ロペス・ガリドクリスティナ・アルメイダらの
新左翼新左翼民主党PDNIとなった。この党は2001年スペイン社会主義労働者党PSOEに合流。
 カタルニア統一社会党PSUCがあるためIUはカタルニアではその組織をもっておらず、1998年まではカタロニアのイニシアチブIC―Vがその代わり
となっていたが、IC−Vが中道に移行し、関係が切れ、PSUCが分裂し、新しい連合である統一左翼と選択EUiAが形成されIUの
代わりとなっている。
 1995年革命的共産主義者同盟LCRの旧メンバーが結成した選択左翼がIUに参加し選択空間を形成、2007年に離脱。
 1998年革命的労働者党POR(1974年スペイン革命的労働者党として結成、1983年党名変更、労働者統一インターナショナルUIT−CI参加)、
労働者革命党−革命的左翼PRT−IR(労働者インターナショナル同盟LIT−CI派、2002年結成、その前労働者革命党PRT)、新クラリダー(澄明)(テド・グラント
のミリタント派、1976年アラヴァの社会主義青年(PSOE青年組織)機関紙として創刊、1989年ミリタントと改名、1986年学生組合結成
これから1994年左翼学生組合出現、メンバーはPCEとPSOEに参加、国際マルクス主義者傾向派)などのトロツキストが参加。

 一方で2001年に社会主義行動党、2002年に共和主義左翼、2004年には労働者革命党−革命的左翼PRT−IR(赤い潮流)がIUを去る。
 社会主義行動党の多数派はリャマザレス路線に反対しIUを去り、リャマザレス支持派は分裂し2002年左翼社会主義イニシアチブを結成しIUに
留まる。これは2008年までに崩壊。

 1999年、アンギタからフランシスコ・フルトスに代わった。IUは方針をかえ2000年の選挙はホアキン・アルムニアのPSOEと協力した。
 ICVとの協力回復。
 結果は両党にとってよくなかった。指導者はガスパール・リャマザレスGaspar Llamazaresに代わった。

 2004年の選挙結果もよくなかった。2004年、1359190票、5.0%、5議席(ICVと)。(IUとしてはガスパール・リャマザレス
イサウラ・ナヴァロら3名)
 選挙ではICV、EUiA、共和主義左翼緑ネットワークRed Verde(PDNI旧メンバーが2003年結成)、その他小グループと参加。
 議会ではICV−EUiAと会派結成。
 同年、赤い潮流(2002年IU内分派として形成)が国家レベルの反資本主義ブロックを再建するため去る。
 赤い潮流は2002年に当初のIUの思想が失われたとするグループにより結成された、これらは2005年までは主にPCEに属していたが
2005年指導者のアンヘレス・マエストロがPCEを追放され、メンバーもPCEを去り、2011年赤いネットワークRed Rojaを結成。
 赤い潮流はPRT−IRに支配されるようになっていた。
 2004年は異常な党大会で調整者にはガスパール・リャマザレスが49%で選出され、PCEと共産主義者青年支持のエンリケ・サンチャゴ
38%であった。
 2005年IUはEU憲法反対投票運動を行う。
 2007年に翌年選挙でのIUの首相候補にイサウラ・ナヴァロ(ヴァレンシア選挙区)はリャマザレス(63%獲得)を支持、これに対立した
ヴァレンシアPCE総書記のマルガ・サンス選択空間などが支持)の反感を買いナヴァロはIUから立候補せず他グループと連合を
組み落選。2008年総選挙ではついに963040票、3.8%、2議席となった。
 ヴァレンシアのIUはこれで少数派(約30%支持)が分裂し、2007年ヴァレンシア人民イニシアチヴを結成しナヴァロを支持。
 ヴァレンシア人民イニシアチヴはパコ・ガルシアとモニカ・オルトラを代弁者としミレイア・モリャなどが参加。

 選択空間は2007年IUを去り、2009年EU選には反資本主義左翼と選挙に参加。
 2008年カヨ・ララが指導者となる。(11月の9回会議では43%、マドリド議会のイネス・サバネス開放左翼として知られるリャマザレス派)27%、
EUiAセナートのホアン・ホセップ・ヌエト19%など5人で争われた、12月の連邦政治評議会で55%。)
 議会では左翼(Esquerra、カタロニア共和左翼)とカタロニア・緑イニシアチブICV(1984年結成)と組む。
  1986年、IU:935504票、4.6%、7議席(PSOE:8901718票、44.3%、184議席)、1989年、IU:1858588票、9.1%、
17議席(PSOE:8115568票、40.3%、175議席)、1993年、IU:2253722票、9.6%、18議席(PSOE:9150083票、
39.1%、159議席)1996年、IU:2639774票、10.6%、21議席(PSOEは9425678票、38%、141議席でわずかに第2党)
2000年、IU:1253859票、5.5%、8議席(13議席減)、(PSOE、7829210票、34.1%、125議席、16議席減)
 (選挙データは情報源により異同がある)
 2009年EU選挙統一左翼と選択(カタロニア)、カタロニア・緑イニシアチブICVアストリエス・ブロックと組み3.77%、2議席
(IUウィリー・メイエル、ICVラウル・ロメヴァ)、共和主義左翼は参加で党が混乱し結局ホアキン・ロデロが個人参加。

 2009年IUは左翼再建計画を承認。これは力の結集過程ですべての選択左翼部門を召集することでIUの再建だけでなく、全左翼を
より強固な政治、反資本主義、変革、共和主義に再建するというものである。
 再建はPSOEに失望した左翼部門を含むとともに議会外左翼の収束を追求する。
 2010年には緑・緑グループと政治・社会的収束で一致する。
 2010年全国大会には種々の社会組織が参加(専門家組合、近隣集合、同性愛支持グループなど)、更にバットザールズティック
労働者委員会CCOO(PCE系労働組合)、労働者総連合UGT、ICVなどがオブザーバ参加。
 共和主義左翼はIUに復帰。
 2011年バットザールはナヴァロでIUと提携を発表。
 2011年総選挙はICV−EUiAアラゴン主義者評議会バットザールエクストレナドゥラ独立社会主義者ヴァレンシア州緑、マドリド緑軸、
緑オプション・緑緑連合、カナリア左翼と提携し6.92%、11議席を獲得。
 2010年レイエス・モンティエル(エコの共同代弁者となる)、2011年イネス・サバネス、歴史家ホアキン・ニエトがIUを去りエコに参加。
 2012年緑・緑グループの代表エステバン・カバルがIUとの協定崩壊を宣言。
 2012年ガスパール・リャマザレス開放(開かれた)左翼が分裂。

 参加組織
  スペイン共産党PCE
  スペイン共産主義青年連合UJCE
    もともとPCEの組織で1992年IU参加。
  労働者統一集合CUT−BAI
    アンダルシアの反資本主義、マルクス主義政党。
  共和主義左翼
  ムルシア地域エコ社会主義者MRE
    2010年、ムルシアのIUが新設MREに合同。
  バットザール
  イエロ・イニシアチヴ
    カナリア諸島イエロ島の政党。2010年合同。
  アラゴン主義者評議会
  開放左翼
    2008年には指導者選にイネス・サバネスが出て27%獲得。
    2009年にはロサ・アキラールがアンダルシアの社会主義労働者党政権参加のため去る。
    2011年にはイネス・サバネスエコに移る。
    2012年2月政党として登録。
    代表はガスパール・リャマザレスとモントセラ・ムニョス。

 IUのHPでは
  PCE、UJCE、CUT−BAI、MRE、
  REDES(ネットワーク連合)
  アンダルシア社会主義左翼izquierda socialista andaluza

 2014年EU選はICV、EUiA、アノヴァ(刷新)、その他の地域政党と提携し複数左翼を結成し、10.03%、6議席を獲得し、
人民党26.09%、16議席、社会主義労働党PSOE23.01%、14議席に次ぎ第3位。

開放左翼
   2008年IUの内部グループとしてガスパール・リャマザレスが結成。
   2012年IUから出て政党となる。

〔スペイン共産党PCE〕
 Partido Comunista de Espana
 1920年、スペイン共産党が青年社会主義同盟から結成された。
 スペイン社会労働党PSOEの第3インター派はPSOEを第3インターに加盟させようとしたが、党会議はウィーン・インター
に参加をきめた(14010対12497)ので1921年にはスペイン共産主義労働者党PCOE(アントニオ・ガルシア・ケヒド
オスカル・ペレス・ロペスら)が形成された。
 1921年、スペイン共産党とスペイン共産主義労働者党の統合によりスペイン共産党が形成された。
 多くは労働者総連合UGT指導者。
 アントニオ・ガルシア・ケヒドが最初の書記となる。(−1923年)
 ケヒドのあとをついだセサール・ロドリゲス・ゴンサレスは逮捕され、1923年オスカル・ペレス・ロペスが総書記となり、1924年
コミンテルン執行委員となるが1925年逮捕され、これにより転向し1928年共産主義放棄。
 指導者がいなくなりコミンテル(スペイン担当はヘンリク・ワレツキ)はホセ・ブリェホスを総書記とする。(1925ー1932年)
 1927年労働者全国連合CNT指導者ホセ・ディアスがセヴィリアのアナーキスト(アントニオ・ミヘマヌエル・デリカド
マヌエル・アダメら)たちとともに合流。

 1923年のクーデターで共産党とCNTは独裁を批判し非合法化され弾圧された。一方PSOEとUGTはフリアン・ベステイロ
ラルゴ・カバリェロの指導の下、プリモ・デ・リベーラに協力。

 1930年、カタラン・バレアール共産主義連合FCCBが分裂、国際右翼反対派と提携し労働者農民ブロックBOCの支柱となった。
 同年ムンド・オブレロ発行。

 プリモ・デ・リベーラの独裁が終わり1931年、第2共和制となった。
 1932年のホセ・サンフリオのクーデターののちホセ・ブリェホスは共和制を支持し、コミンテルン代表と意見の相違を生じ、
他の中執テルヴィノ・ヴェガガブリエル・レオン・トリリャ、マヌエル・アダメらと共に中執から(ヴェガ以外は党からも?)追放された。
 ホセ・ブリェホスはPSOEに参加。
 ホセ・ディアスドレレス・イバルリヴィセンテ・ウリベアントニオ・ミヘマヌエル・デリカドらが中執となる。
 1933年カイエターノ・ヴォリヴァールがマラガから最初の国会議員となる。マラガでは1925年からアルトゥロ・カベリョらのもと
指導部が存在していた。
 1932−1942年までホセ・ディアスJose Diaz Ramosが総書記。

 1936年、スペイン社会主義労働者党PSOE労働総連合UGT、共産党、統一マルクス主義労働者党POUM共和主義左翼IR、
共和主義者連合党により人民戦線が結成された。人民戦線はガリシアやカタロニアの民族主義者やアナーキストの
全国労働連合CNTにより支持されていた。
 共和国時代小政党であった共産党は人民連合の勝利後成長し始め、内戦の間に急成長した。
 1936年、カタルニア共産党は他の社会主義者と統合するため党から分離され、カタルニア統一社会党が形成された。
 内戦中の1937年5月、バルセロナでアナーキストとPOUM活動家の反乱が起こり激しく鎮圧された。
 1939年、人民戦線政府は敗北した。
 1942年ホセ・ディアスの死でドロレス・イバルリDolores Ibarruriが総書記となる。(−1960年)
 1944年イエヘス・エルナンデスが反ソ派として追放されウリベがナンバー2となる。
 敗北後もスペイン・マキによって主にフランスから武装抵抗が試みられた。(1944−1948年)
 イエスス・モンソンマヌエル・アスカルテガブリエル・レオン・トリリャらはナチス占領フランスで抵抗組織を形成し、
第2次大戦後に1944年スペイン・ゲリラ・グループが結成された。
 アラゴン渓谷侵入のあと彼らはサンチャゴ・カリリョの批判を受けた。

 第2次大戦中、メキシコ、1946年パリ(1950年フランス社会主義者政権により非合法化)、プラハと亡命、ウリベが恐らくアメリカ
での最高指導者で(イバルリはソ連)、サンチャゴ・カリリョSantiago Carrilloが組織活動の責任者となる。

 1954年党会議で若いサンチャゴ・カリリョフェルナンド・クラウディンと老練ウリベイバルリが対立。
 1956年、脱スターリン主義過程でイバルリカリリョ連合にウリベ敗北。
 1960年代労働者委員会(労働組合センター、1970年代スペイン最大となり、UGT、CGTを凌ぐ)CCOOがPCEとカトリック・
グループによって結成された。
 1960年、サンチャゴ・カリリョが総書記(書記長)になった(−1982年)。
 カリリョによってなされた妥協と社会民主主義化は党幹部の異議を巻き起こし、活動家の離党も招いた。
 1964年、フェルナンド・クラウディンヨルヘ・センプルン、フランセスク・ヴィセンス、フェデリコ・サンチェスが右派として追放される。
 同年スペイン共産党(ML)PCE(ml)が結成される。
 1971年、PCE([―\会議)が結成された。
 1973年、スペイン戦争共和国軍指導者として著名なエンリケ・リステルスペイン共産主義労働者Obrero党PCOEを結成した。
 リステルはソ連亡命中ソ連赤軍でレニングラード防衛線を闘い、ユーゴスラヴィア人民軍にも参加、キューバ革命にも参加。
 (リステルは1986年、サンチャゴ・カリリョが解職されるとともに復党。)
 1974年、パリで他党や独立派とスペイン民主評議会結成。これにはスペイン労働者党PTEカルロス党CCOOエンリケ・
ティエルノ・ガルヴァン
人民社会党が参加した。
 1977年、共産主義労働者Trabajadores党PCTが結成された。
 1977年、合法化とともに党員25万人の党が顕れた。
 最初の選挙で共産党は1709890票、9.3%、20議席(350中)、1979年、1938487票、10.8%、23議席、
(PSOE5475389票、30.5%、121議席、第2党)、1982年、846515票、4.0%、4議席(この年はPSOEの大勝利
10127392票、48.4、202議席単独過半数)。
 選挙の敗北とカリリョの社会民主主義路線に反対の党員の批判によりカリリョは指導部から降ろされた。
 1984年スペイン人民共産党PCPEが結成される。
 1982年、マヌエル・アスカラテがカリリョと衝突し革新派として追放される。
 カリリョが総書記を解任されヘラルド・イグレシアスが総書記となる。(−1988年)
 1985年、カリリョは党から追放された。カリリョ派はスペイン共産主義統一労働者党PTEUCを結成した。
 1986年、反NATO闘争で統一左翼IU結成。当時3万人の活動家がいた。
 カタロニアのPCEであるPSUCはユーロコミュニズム路線をかえず、カタロニア・イニシアチブに合流した。
 少数派は分裂し、PSUCviuを形成し、1998年からPSUCviu(EUiAがカタロニアの連合)がカタロニアのPCE組織となっている。
 1988−1998年まではフリオ・アンギタが書記長。1998年からはフランシスコ・フルトス
 2005年の17回党会議には2万7千人の活動家を数えた。
 2009年党会議では2万人の活動家を数え、ホセ・ルイス・チェンテラが書記長となる。

(統一マルクス主義労働者党POUM) Partido Obrero de Unificacion Marxista
 トロツキストのスペイン左翼共産主義者ICEと労働者・農民ブロックBOCの統合により1935年に生まれた。
 ICEはトロツキスト起源の党であるが1935年以前にトロツキーと決裂した。アンドレウ・ニンAndres Ninとフアン・アンドラーデによって
指導されていた。ニンと党の多数派はトロツキーのPSOEに加入して左派を形成し、党をボルシェビキ化するという指示に対し、
スペインの種々のマルクス主義党を統合し統一革命的マルクス主義党の結成を主張した。
 グランディソ・ムニスの少数派がPSOEに加入。
 BOCはホアキン・マウリンJoaquin Maurinに指導されるカタロニアの共産主義者の党であった。
 マウリンはカタラン・バレアール共産主義連合の指導者であった。PCEの地域連合はこれから分裂していた。
 ICEの活動家は約500人でBOCは5000人であったが統合は対等で、ニンとマウリンが指導者になった。
 主要な組織はカタロニアとヴァレンシアであった。ここではPCEとその代理組織より優勢であった。
 両者はスターリンとコミンテルンの人民戦線戦術時代は危機にあった。
 しかし両者は共和主義行動マヌエル・アサーニャのスペイン人民戦線に参加した。
 POUMは人民戦線政府で急進政策を主張し穏健派の抵抗を受けた。
 POUMはCNTとともに内戦を闘った。
 POUMは内戦を同時に革命と考え、カタロニアで革命を進めた。
 内戦中POUMと影響力を強め勢力を拡大する共産党は対立を深めた。
 1937年5月、バルセロナで共産党勢力とアナーキストの間で武装衝突がおこりPOUMはアナーキスト側についた。
 これによりニンは逮捕、殺害され、共産主義者はPOUMの非合法化と指導者およびメンバーの逮捕を進めPOUMは
一掃されていく。
 ラルゴ・カバレリョはソ連の要求に抵抗したが、5月事件の影響で辞任しあとをついだフアン・ネグリンは優柔でPOUMの
運命は尽きた。
 敗戦により人民戦線側の諸党メンバーは亡命するか、国内で逮捕・投獄された。あるいは地下活動を行った。
 フランス亡命者の多くは強制収用所行きがまっていた。
 第2次世界大戦が終わって、POUMは徐々に分裂していった。
 カタロニアのグループはPSUCの分派とカタロニアの民族主義者と社会主義者の党としてカタロニア社会主義運動MSCを結成。
 冷戦期に歴史的活動家たちがPOUMを去り、社会民主主義の党を宣言し、帝国主義ソ連と対決していった。これらの多くはPSOE
に加わっていった。
 このためPOUMは国内のメンバーは減少し、亡命者の党になっていった。
 マウリンは1946年出獄しついで米国に亡命し、内戦中のPCEとPOUMの両方を批判した。

 1970年、68年主義の文脈と第3世代社会主義運動の出現で多くの若い反フランコ活動家がPOUMの歴史的役割を再評価し始めた。
 フランコの死後、若い反フランコ活動家によりPOUMは革命的マルクス主義党として再建されようとした。
 スペイン全国で極左諸党の政治連合の結成をめざした。
 1977年の最初の自由選挙で革命的共産主義者同盟LCR共産主義者行動共産主義左翼組織の連合として労働者統一戦線
FUT
が結成され41208票、0.22%獲得。
 1980年代にPOUMは活動放棄。

(人民解放戦線FLP) Frente de Liberacion Popular
 1958−1963年の秘密反フランコ・グループ。既成左翼が抑圧されて行動困難だったので、学生を中心に結成された。
 1962年に弾圧があり約100人の活動家が逮捕された。FLPはフランスやイタリアの左翼社会主義者や新左翼、第三世界運動
に影響をうけた。フリオ・セロン・アユソを中心にイェスス・イバニェスマヌエル・ヴァスケス・モンタルバンミケル・ロカ
ホセ・ルイス・レアル・マルドナド(後民主中道連合)、ヴィセンテ・アルベロ・シッラハイメ・パストル(後LCR)、ホセ・ラモン・レカルデ(後PSOE)など。


(革命的共産主義者同盟LCR) Liga Comunista Revolucionaria 極左
 1971年、人民解放戦線FLPの跡をついでカタロニアのトロツキスト・グループが設立。
 1972年共産主義者同盟分裂するが、1978年復帰。
 1973年バスク祖国と自由ETAの分裂グループと合流、これでヴァスクとナヴァロに進出。LCR−ETA(VI)を使用。
 1976年TEAと分離LCRとなり、ヴァスクではLKIとなる。
 1977年選挙は共産主義者行動共産主義者左翼組織、POUMと労働者統一戦線結成し41208票、0.22%。
 その後は地方ではいくつかの提携を試みるが一般的には1980年中期まで棄権を支持。
 1980年代末は共産主義者運動MCと提携を始める。
 LCR−MCグループは1980年代政治的に重要となり、NATO国民投票運動の主要推進者となる。
 1991年共産主義者運動と合流し選択左翼結成、これはマドリドでは解放、カタルニア、ヴァレンシアでは反乱、アンダルシアでは選択行動、
ヴァスクではズティク、ナヴァラではバットザーレ、ガリシアではインザルなどという名をとる。
 統一は短期で終わり、1993年に2分解するが地域組織(インザルInzar、ズティックZutik、バットザーレBatzarre等)はそのままであった。
 しかし内部抗争で3分の1が組織を離れる。
 1995年ハイメ・パストルらLCRの旧メンバーはエコ社会主義者選択空間を形成し統一左翼IUの内部分派となる
 2003年選択空間に結びついていた著名活動家(フリオ・セティエン、オスカル・マトゥテ、コンチャ・デンチェ)がグループを放棄、選択空間はIUの
多数派に合流。しかし結局2007年IUから離脱。
 選択空間Espacio Alternativoハイメ・パストルら)は欧州反資本主義左翼に参加、2008年反資本主義左翼Izquierda Anticapitalistaと改名。
 反資本主義左翼は2009年欧州議会選挙で19880票、0.13%獲得。

 共産主義者運動MCは1967年ETAの分裂の毛系グループが元で、1970年代種々のグループと合流し1976年共産主義者運動となる。
 1979年共産主義左翼組織が合流。
 共産主義左翼組織は1974年設立。FLPのカタロニア版であるカタロニア労働戦線を引き継ぐ、これはキリスト教労働者グループが
中心となっていた。
 共産主義者行動は1964年、人民解放戦線から追放されたトロツキストにより国外部門としてベルギー、ドイツ、フランスの活動家
カルロス・センプルン)が結成。1976年カタロニアのグループがPOUMに参加。1978年革命的共産主義者同盟に合流。

反資本主義左翼
 選択空間が2008年反資本主義左翼Izquierda Anticapitalistaと改名。
 2011年総選挙はグローバル反乱(カタルニアとバレアレスの組織)、マドリド地域緑と提携し反資本主義者を結成。
 2014年EU選はポデモスを支持。テレサ・ロドリゲスがMEPとなる。
 2015年1月ポデモス合流のためアソシエーションとなる。
 テレサ・ロドリゲスはMEPを辞任し、アンダルシア議会選にポデモスの指導者として参加、14.86%、15/109で第3党。

〔イベリア・アナーキスト連合FAI〕 Federacion Anarquista Iberica
 CNTが労働者階級の代表といよりむしろ資本と労働を和解させる組織となったと考え、労働総連合CNT官僚に挑戦し、
CNTをアナーキスト路線に保つ運動のため1927年、ヴァレンシアで設立。
 ポルトガルとスペインのアナーキストを統一することを目的とする。CNTとFAIは密接な関係をもつ。
 現在はアナーキスト連合インターナショナルに加わっている。
 FAI(ファイスタ)がCNTに主導権を得たためにアンヘル・ペスタニャの下の穏健派(トレインティスタ)は1931年
サンディアカリスト党設立。
 内戦前のFAIのメンバーは5千から3万と推定される。内戦初期にメンバーは急増した。

PCE([―\会議)
 1971年設立。親ソ連派、1980年、労働者共産党PCTと統合し統一スペイン共産党PCEU結成。

〔スペイン共産主義労働者党PCOE〕 Partido Comunista Obrero Espanol
 1973年、エンリケ・リステルEnrique Listerによってカリリョのユーロ・コムニズム路線に反対して結成される。
 分裂の原因はPCEによる1968年のソ連のチェコスロバキア介入非難である。
 1983年、PCOEは地方選挙でPCEUと選挙連合を組んでいた。
 PCEUが他のグループと統合してPCPEを形成したときPCOEはその外にいた。
 1980年代、リステルとPCOEの活動家の多数派は路線変更したPCEに戻った。
 PCPEとPCOEは大きな思想的違いはなかったので2000年統合した。
 2003年、PCPEから分裂し、PCOEを再結成した。

(労働者共産党)Partido Comunista de los Trabajadores
 1973年、PCE党内でPCE左翼反対派として結成された。マルガ・サンスがこれに加わっていた。
 1977年、労働者共産党PCTという名をとり、1980年、PCE([―\会議)と統合し統一スペイン共産党PCEU結成。
 1984年スペイン人民共産党PCPEとなる。

統一スペイン共産党PCEU) 
 1980年、共産主義労働者Trabajadores党PCTとPCE([―\会議)が統合して結成。
 両グループはスターリン主義でユーロコミニズム路線に反対。
 1984年、PCEUは別のグループと再統合し、共産党を設立、この組織はスペイン人民共産党PCPEと名を変えた。

〔スペイン人民共産党PCPE〕 Partido Comunista de los Pueblos de Espana
 いくつかの小マルクス・レーニン主義集団の統合により結成。
 1982年の選挙敗北後、イグナシオ・ガリェゴ率いるPCEの親ソ派が共産主義者統一会議結成を推進し、1983年追放される。
 1984年、共産主義者統一会議が開かれ、カタルニア共産主義者党(1982年PSUC反対派結成)、PCEU、
PCE再建運動MRPCE、PCE再建統一運動MRUPCE、共産主義志願者CCなどやその他の小グループが統一し(約1万人)
共産党を創設(総書記にイグナシオ・ガリェゴ)、ソ連共産党などから認められる。1986年、PCPEと名を変えた。
 2000年、スペイン共産主義労働者Obrero党PCOEと統合。
 各地で民族主義者党に接近するが不成功、カステーリャの党が離れ民族主義者と短期間カステーリャ左翼結成。
 1987年、短期間IUに参加。
 1989年のEU選挙で79970票。0.5%と最高。国会選挙では1989年、30698票、0.15%、1996年、14513票、0.06%
 2004年、12357票、0.05%。
 2009年EU選挙は15221票、0.10%。
 2014年EU選は29324票、0.19%。

スペイン共産主義統一労働者党PTEUC
 1985年追放されたカリリョ派が結成。最初はスペイン共産党(革命的マルクス主義者)という名。
 1986年の選挙は統一共産主義者名簿を名乗り229095票、1,1%。
 1989年は86257票でその結果1991年スペイン社会主義労働者党に統合し党内で左翼統一を組織。カリリョは政治から引退。

(カタロニア統一社会党PSUC) Partit Socialista Unificat de Catalunya
 PSUCは1936年、カタロニアの左翼勢力を統合して結成。PSUCはスペイン第二共和制と内戦で重要な役割を演じた。
 コモンテルンに属した唯一の地域政党。PCEはカタロニアに組織をもたず、PSUCがその代理組織を見なされた。
 フランコ体制で禁止されたが地下活動と亡命で活発であった。
 1977年以降PCEとPSUCはだんだん離れ、PSUCはカタロニア・イニシアチブICに解消されていった。
 1997年、ICに埋没したときに強硬派はPSUCviuを再建。PSUCviuはPCEの代理組織となっていった。

スペイン労働者党PTE(毛派))
 スペイン共産党(国際主義)PCE(i)が1967年、カタロニア統一社会党PSUC内の統一グループからの分裂により結成された。
 カタロニア・グループはPCEからの分裂集団と再統合した。
 1975年、スペイン労働者党PTEと名を変えた。少数派は分裂し、PCE(i)を名乗った。
 1977年、民主左翼戦線を形成。同年共産主義統一党PCUがPTEと統合。
 1978年、カタロニア支部が分裂しカタロニア労働者党PTC結成。
 1979年の選挙で192330票、1.07%得票。
 同年、労働者革命組織(毛派)と統合し労働者党形成。
 1980年激しい内部危機で解散。

スペイン統一共産党UCE〕
 1978年、設立された毛派組織。
 IUの設立から2002年までIUを選挙で支持。
 2006年のカタロニアの選挙では市民−市民党を支持。

〔スペイン共産党(ML)PCE(ml)〕 Partido Comunista de Espana (marxista-leninista)
 1964年PCEのサンチャゴ・カリリョの国民和解とユーロコミュニズム路線を拒否する活動家グループが結成。
 1976年まで中国共産党支持路線であったが中国の修正主義化でアルバニア労働党関係をもつ。
 1971年パリでの会議で革命的反ファシスト愛国戦線結成を決定し1974年結成しフランコ独裁政権への軍事行動を実行。
 PCE(ml)の代わりにスペイン人民共和国会議や反ファシスト人民連合などの組織が活動。
 1992年社会主義陣営の崩壊で危機が高まり、1992年の会議で多数派により党が解散された。
 ラウル・マルコが数ヶ月前に10月グループを結成、これが共産主義者組織10月となった。
 党の活動家は他の組織に分散したがマドリドでは共産主義者集合10月が組織化された。1990年代10月は全国に広がり、
ヴァレンシア共産主義者組織、9月27日共産主義者組織、ボルシェヴィキ共産主義者青年などが結成された。
 共産主義者組織全国委員会CEOCが生まれて数年後、これが諸組織を新組織に統合し再びPCE(ml)に統一されることになった。
 2005年末カタロニア共産主義者組織OCCがCEOCに参加した。
 2006年10月CEOC臨時会議でPCE(ml)が結成された。

〔労働者革命党PRT〕 Partido Revolucionario de los Trabajadores
 トロツキストLIT−QI派
 1994年労働者社会党内の真の社会主義者グループと革命的労働者党建設グループ(国際主義社会主義労働者党分裂)が結成。
 1999年、分裂し、多数派はPRTを名乗り、少数派は国際主義者闘争LIとなり、両者ともLI−QI派に属している。
 PRTは解散をきめ、2001年、革命的左翼IRに接近した。革命的左翼IRは1998年結成され国際労働者委員会CIOに属していた。
 両者は統合し2002年、PRT−革命的左翼を組織した。
 2004年PRT−IRはIUとの連合を放棄。
 2007年、分裂した赤い潮流の一部を引き入れた。2011年党を解散し赤い潮流として存在。

 労働者社会党1979年革命的社会主義者同盟活動家と革命的共産主義者同盟のナウエル・モレノ派(ドロテア・ナヴァッロ)が
結成。1985年から国際労働者同盟参加。選挙では革命的労働者党(1974年結成、アニバル・ラモス、左翼連合と選択EUiAに吸収)と
連合したりしていた。1993年2分裂。

赤い潮流
 赤い潮流は2002年IU内分派として当初のIUの思想が失われたとするグループにより結成され、2005年まではメンバーは主にPCEに
属していたが2005年指導者のアンヘレス・マエストロがPCEを追放され、メンバーもPCEを去る。
 赤い潮流はすでにPRT−IRに支配されていた。2004年国家レベルの反資本主義ブロックを再建するためIUから分離。
 活動はマドリド、セヴィリア、カタルニアとガルシアで少々。全国で約80名。赤い潮流は2007年分裂が起こり共産主義者イニシャチヴが結成される。
 2009年EU選では左翼民族主義者などと国際主義者イニシアチヴ−人民連帯を結成しアルフォンソ・サストレを指導者として178121票を得る。
 これには国際主義者闘争共産主義者イニシャチヴも参加。アンヘレス・マエストロは左翼民族主義者を批判しているにもかかわらず
国際主義者イニシアチヴ−人民連帯名簿に参加。
 2011年PRT−IRが赤い潮流内に解消し、赤い潮流LIT−QI支部にしようとして組織創設者の批判が起こり2分裂、アンヘレス・マエストロらは
赤いネットワークRed Rojaを結成、赤い潮流は純粋のトロツキスト組織となる。

国際主義社会主義労働者党POSI〕
 1948年消滅した旧第4インター活動家によってフランスの国際共産主義者同盟とそのスペイン委員会が結成された。
 これはスペインのトロツキスト組織結成のためスペイン共産党、スペイン社会主義青年(PSOE青年組織)、POUM、無所属のスペイン
移住・亡命者との連合・対話を行った。1976年第4インター組織OCI結成の最初の協議会開催され、第4インター再建組織委員会所属。
 PSOE、UGT、CNTなどの非共産主義者伝統的左翼により第2回協議会が1977年開催され革命的共産主義者同盟の一部も参加。
 改良主義を拒否し1977年選挙を棄権。1978年憲法国民投票は反対を要求し、人民社会主義革命党(ETAの非合法政党)、愛国労働者革命党
(ヴァスク政党)、カタロニア諸国民族解放社会党、POUMなどと憲法反対委員会結成。
 1977年PSOEのバリェカスのフェリペ・ゴンサレス反対派がバリェカス独立社会主義者グループ結成。このグループは他の社会主義者と1978年
社会主義者グループ労働調整COASを結成。指導者は旧PSOEのホセ・サルガス、リカルド・ガリッド(UGT)など。
 1979年PSOEが分裂、COAS活動家は新党結成。1980年POSIが結成される。PSOEを追放された活動家、OCI活動家、カタロニアのPOUM
再建派などが参加。1980年POSI、共産主義者同盟、革命的共産主義者同盟から追放されたグループが合同。
 1986年選挙は21853票、0.11%、2008年選挙は7386票、0.03%獲得。2009年EU選は12344票0.08%。

スペインの戦前のトロツキズム

国際主義者イニシアティヴァ−人民間連帯
 2009年EU選のために結成された政治組織。
 カスティーリャ左翼(独立主義極左)、コムネル@S(カスティーリャ民族主義、急進左翼)や種々の極左の議会外社会運動・政治組織が結成。
 (赤い潮流共産主義者イニシアティヴァ(2008年赤い潮流からの分裂者などが結成)、国際主義者闘争その他地域政党)
 ETAとの関係で禁止されかける。
 アルフォンソ・サストレ・サルヴァドールドリス・ベネガスアンヘレス・マエストロ・マルティンホセ・ルイス・メンデス・フェリンアリチア・エルミダ
などを候補として1.14%獲得。

人民社会党PSP)
 1968年、国内社会党として出現。フランコ時代は大学を基盤に非合法地下活動を行った。
 1974年、人民社会党となる。代表はエンリケ・ティエルノ・ガルヴァン。党をマルクス主義と規定。
 1977年の選挙でアンダルシア社会党などの地域左翼運動と連合を組み、816582票、4.46%、6議席獲得。
 1978年、スペイン社会主義労働者党PSOEと合流し、ガルヴァンはPSOEとPCEによりマドリッド市長となる。

〔スペイン社会主義労働者党PSOE〕 Partido Socialista Obrero Espanol
 1879年印刷工パブロ・イゲレシアスらが設立。1886年社会主義者発行、1888年UGT結成。両者は一体化して活動。
 主にマドリド、アストゥリアス、バスクで組織の核が形成された。
 バルセロナの労働者ではアナーキストやアナルコ・サンディカリストの影響が強く、当初は影響力がなかったが、1909年、
共和党と連合を組み1910年初めて議席確保、パブロ・イゲレシアスが議員となる。
 ブルボン復古体制(1874−1931年)では王党2派(自由党保守党)に選挙制度が有利であった。
 1917年の全国ストライキでパブロ・イゲレシアスとともにラルゴ・カバリェロフリアン・ベステイロが活動。彼らは逮捕投獄されたが、
1918年選挙で全員当選、1議席から6議席となった。
 他の労働者党同様ロシア革命とコミンテルン結成に影響を受け、1921年スペイン共産党が分裂。
 1923年のプリモデ・リヴェラの軍事独裁(1923−1930年)をPSOEの一部は公然と批判。しかしこの独裁政権下で社会主義者
運動は許容され、特にUGTはスペイン最大の労働組合連合となった。ラルゴ・カバリェロUGTとともにプリモデ・リヴェラ政権に協力。
 インダレシオ・プレイトカバリェロ路線を批判。
 1925年イゲレシアスの死でフリアン・ベステイロが指導者となる。(−1932年)
 1930年、独裁崩壊でインダレシオ・プレイトは共和主義諸党、民族主義者、王党派ととサン・セバスチャン協定を締結。
 これはフリアン・ベステイロに批判される。
 憲法制定議会cortes選挙ではPSOE114議席、急進共和党89議席、社会主義急進共和党55議席、共和中央派50議席、
カタロニア左翼共和36議席、共和主義行動30議席、独立ガリシア共和組織19議席(全470議席)と良い結果を得て、
マヌエル・アサーニャを指導者として1931−1933年の政権を担当。アルカラ・サモラが大統領となる。(−1936年)
 1932年ラルゴ・カバリェロが指導者となる(−1935年)、カバリェロは1936−1937年大統領となる。
 党の急進化(1934年のアストゥリアスの10月革命に展開)でフリアン・ベステイロは党内反対派となる。

 1933年選挙は結成されたばかりのカトリックの自治右翼スペイン連合CEDAが115議席と1党になりPSOEは58議席と大幅減。
 急進共和党アレハンドロ・レロウクスがCEDAの支持で1933−1935年政権担当。
 PSOEはラルゴ・カバリェロの左派、過激傾向のインダレシオ・プレイトの中央派、フリアン・ベステイロ改良主義派に分裂。
 インダレシオ・プレイトが1935−1948年の指導者となる。
 1935年、PSOE、労働総連合UGT、共産党、統一マルクス主義労働者党POUM共和主義左翼IR、共和主義連合UR
により人民戦線が結成され、人民戦線はガリシアやカタロニアの民族主義者やアナーキストの全国労働連合CNTにも支持された。
 1936年選挙結果はPSOE88、IR79、UR34、カタロニア共和主義左翼22、PCE14などの263、CEDA中心の国民戦線は
CEDA101などで156、中道54議席(情報源で異なる)で人民戦線勝利しやがて内戦に突入。
 この時期ラルゴ・カバリェロ(1936.9.−1937.5.)とフアン・ネグリンプレイト派、1937.5−1939.3.)が政権を担当。
 アサーニャが大統領。
 ネグリンはフランス、ロンドンと亡命し1945年まで亡命政権を維持、主にPCEの支持を受けていた。
 PSEOはメキシコでURのディエゴ・マルティネス・バリオらと党指導者のインダレシオ・プレイトネグリンを辞任させた。
 後継はIRのホセ・ヒラール。亡命政権は以降1977年まで存続。
 1946年ネグリンと30人の社会主義者がPSOEから追放された。
 フリアン・ベステイロは1939年ファシストにより逮捕され1940年収容所で死亡。

 ロドルフォ・リョピスが1944−1972年総書記。

 アントニオ・アマトは1943年ナチスと闘うフランスのレジスタンスに参加するグループの組織化を試み、逮捕6年間投獄される。
 1950年にスペインに戻りバスクでPSOEの組織化を試み国内PSOE総書記に指名される。
 1953年トマス・チェンテノ(拷問死する)と逮捕される。1958年数多くの国内活動家が投獄される。
 1961年の会議でアマトは独裁打倒のため共産党、民主的王党派との連合を提案し国外派(共和派と手を組み共産党との
協力拒否)と衝突する。
 アマトの没落によりラモン・ルビアルらが国内の指導者となる。
 1967年ビスケーの2万5千人の金属産業労働者のストライキを支援したラモン・ルビアルエンリケ・ムヒカ(元共産党、1956年
2月事件の中心人物)、ニコラス・レドンドエドワルド・ロペス・アルビスが逮捕される。

 フランコ体制下では大学から自由思想は完全に排除されたが、1955年のオルテガ・イ・ガセットの死に際し、
大学生グループによりマドリドで自由主義哲学者に敬意を表する若い作家の大学会議がマドリド・コンプルテンセ大学学長
ペドロ・ライン・エントラルゴの許可のもと開催されたがこれは最終的に禁止された。
 1956年2月、エンリケ・ムヒカ(当初CPE、のちPSOEで大臣、イスラエル支持者、弟をETAで暗殺されPP寄りとなる)、
ラモン・タマメス(PCE、進歩連合、社会民主センターCDSと移る)らにより全国学生会議を呼びかける宣言が配布された。
 彼らはフランコ派のスペイン大学生組合SEUを倒すことを目指した。SEUの選挙は失敗しSEUの指導者イエスス・ガイは学生
達により追放され学生達は内戦後初めて教育省に示威行動に出た。翌日ファランヘ党員により大学が襲撃された。
 学生達は示威行動に出、ファランヘ党員と出くわし、若いファランヘ党員が負傷、緊張状態となりファランヘ党員が暴力に訴えた。
 同日、ディオニシオ・リドルエホ(1974年スペイン社会民主連合結成)、ラモン・タマメスエンリケ・ムヒカ
ホセ・マリア・ルイス・ガラルドノ(旧CEDAに近かったのち民主連合国民連合議員)、ガブリエル・エロリアガ(のち国民同盟)ら
が逮捕される。大学は閉鎖、学長は解任、教育大臣が更迭されフランコ体制で大学の自主性は完全に失われた。(1956年事件

 1972年のトゥールーズ大会で国内派(フェリペ・ゴンザレスニコラス・レドンドパブロ・カステリャーノら)が国外派
ロドルフォ・リョピス)に勝利。
 両者は正統性を求めて社会主義インターで争い国内派が支持を得る。

 リョピスはスペイン社会主義労働者党(歴史的)を結成。1974年総書記をヴィクトル・サラザールに譲る。
 リョピスは1976年選挙でアントニオ・ガルシア・ロペスのスペイン民主社会党などと民主社会主義者連合を結成するが
0.6%しか獲得できず。

 1974年フェリペ・ゴンザレスが書記長になる。
 これは古参党員に対し改革派(アルフォンソ・ゲッラマヌエル・チャヴェスらも支持)の勝利を意味した。これで亡命派から
内戦を戦ったことのない若者に党が移行。

 ゴンザレスは党をマルクス主義、社会主義から社会民主主義に転換。
 ハヴィエル・ソラナゴンザレスの片腕となり、1995−1999年にNATOの総書記となる。

 1975年反フランコの民主集合プラットフォームPlataforma de Convergencia Democratica共産主義者運動民主左翼(1976年
結成のキリスト教民主、1979年解散)、労働者革命組織(1969年結成の毛派、1979年労働者党形成)、スペイン社会民主連合
キリスト教民主主義者、社会民主主義者と結成。これは1976年スペイン民主評議会と民主調整Coordinacion Democratica結成。
これは更に拡大し民主組織プラットフォームとなり民主中道連合アドルフォ・スアレス政府(1977−1981年)と対抗。

 1977年選挙で29.2%、118議席で議会反対派となる。
 1978年人民社会党が合流6議員加わる。
 1979年党会議で党がマルクス主義的性格を放棄しないので辞任、(フランシスコ・ブステロがマルクス主義防衛)再選され党はマルクス主義
から離脱承認。穏健派はホセ・フェデリコ・デ・カルヴァハルカルメン・ガルシア・ブロイセホセウ・プラトラモン・ルビアルなど。
 党の象徴が本と金槌から拳にバラに変わる。
 ラモン・ルビアルが1979−1999年議長となる。

 1980−1990年代党にアルフォンソ・ゲッラ派とフェリペ・ゴンザレス派が形成され抗争。

 1982年選挙で48.3%で勝利、フェリペ・ゴンザレスが首相となるり、1996年まで維持。
 党は政権をとってからNATO反対から支持に転向、1986年国民投票で勝利。
 PSOEは湾岸戦争で米国支持。1986、1989、1993年選挙勝利。
 この時期ホセ・ボノフアン・カルロス・ロドリゲス・イバッラマヌエル・チャヴェスが3男爵と称される。

 経済危機、腐敗醜聞、テロで人気が落ち1996年人民党PPに敗北。1997年、ゴンザレス辞任。
 ホアキン・アルムニアが1997−2000年総書記。
 1998年の首相候補の第1回選挙は革新派のホアキン・アルムニアとゲッラ派のホセ・ボレルで争われアルムニアが55%獲得。
 レオンの総書記のホセ・サパテロホアキン・アルムニアを支持。ボレルは党内圧力で辞退、2004−2007年EU議会議長となる。
 2000年選挙で34.7%と大敗。いくつかの自治地域では政権を握る。
 ホセ・サパテロトニー・ブレア第3の道ゲルハルト・シュレーダーの新中央を混合したような新しい道を唱道して総書記となる。
 ホセ・ボノマティルデ・フェルナンデスロサ・ディエスが対抗相手。
 マヌエル・チャヴェスが議長となる。
 PSOEはPPが支持したイラク戦争に強く反対。
 2004年選挙に43%で勝利、ホセ・サパテロが首相となり、2008年選挙も勝利。
 2007年ロサ・ディエスが全国レベルでPSOEと人民党PPに対抗できる政党として進歩・民主連合を結成。
 2009年EU選は39.33%で人民党42.27%の後塵を拝す。
 2011年総選挙は経済不安のなか28.73%、110議席(59議席減)と大敗を喫す。上院は48議席で40議席減。
 2012年ホセ・アントニオ・グリニャンが党首となる。総書記はアルフド・ペレス・ルバルカダが487票の22票差でカルメ・チャコンに勝利。

 PSOE内の分派

 社会主義左翼IS
 1979年、PSOE党会議でフェリペ・ゴンザレスの多数派に対しルイス・ゴメス・リョレント派(社会主義左翼IS)が対立した。
 ゴンザレスは1979年の選挙の敗北は過度な急進主義のせいで、これは選挙での勝利を遠ざけると主張。
 リョレント少数派は中立スペインでの他の左翼勢力との協力による左翼陣営による社会主義統治を主張。
 これは正統マルクス主義と68年危機の流れのリベルタリアの流れを結びつける仕事であった。
 かれらは選挙と指導者の人格に依存し大衆動員を放棄することの危険性を訴えた。
 アントニオ・サンテスマテスパブロ・カステリャーノらは1986年のNATO参加国民投票で反対を運動。
 フランシスコ・ブステロパブロ・カステリャーノ(1987年追放)らは1989年社会主義行動党に参加。
 アントニオ・サンテスマテスは党内でIUとの統一による複数左翼思想を守っている。
 現在はフアン・バリオ・デ・ペナゴスヴィンセント・ガルセスなど。

 ゲッラ派と革新派
 地下時代からの活動家アルフォンソ・ゲッラフェリペ・ゴンザレスが1991年と1994年大会で衝突、ゴンザレスの革新派勝利。

 2014年EU選は23.01%、14議席。
 ミカエラ・ナヴァロが党首、ペドロ・サンチェスが総書記となる。


カタルニア社会党

進歩・民主連合UPD〕
 2007年全国レベルでPSOEと人民党PPに対抗できる新党結成の第1段階としてプラットフォーム・プロPlataforma Pro結成。
 支持者はもうたくさん!Basta Ya!(ETAのテロリズム反対の草の根組織)のカルロス・マルティネス・ゴリアラン、哲学者
フェルナンド・サヴァテル(バスクでのテロリズムと民族主義反対の活動家)、以前のPSOEのEU議員ロサ・ディエス市民−市民党
(2005年カタルニアで結成されたカタルニア民族主義に批判的政党)特にそのアクカディ・エスパダアルベルト・ボアデラら、
カタルニア社会党の党内批判グループの積極的社会主義者Socialistas en Positivoのメンバー。
 さらにフォーラム・エルムア(バスクのテロリズム反対市民組織)の代表ミケル・ブエウサが参加表明。
 2007年9月党結成、劇作家アルベルト・ボアデラ、哲学者フェルナンド・サヴァテル、作家マリオ・ヴァルガス・リョサロサ・ディエス
新聞記者アクカディ・エスパダ、人類学者フェリックス・ペレス・ロメラ(二人はカタルニア市民、この組織から市民−市民党が生まれる)、
歴史家アントニオ・エロルサ、画家アグスティン・イバロラ、 市民−市民党アルベルト・リヴェラアントニオ・ロブレス、哲
学者カルロス・マルティネス・ゴリアランフォーラム・エルムアミケル・ブエウサ、哲学教授のアウレリオ・アレテタ・アイサ
ニコラス・レドンド(元PSOE)、フェルナンド・マウラ(人民党のヴァスク議員)、作家アルヴァル・ポンボ、スポーツマン
アルヴァロ・デ・マリチャラルらが参加。
 指導的メンバーの核はバスク自治区から来ている。
 2008年選挙では306078票(1.2%)獲得し1議席確保(マドリドのロサ・ディエス)。
 2009年EU選は2.85%で1議席獲得。
 2011年選挙は4.7%、5議席獲得。
 2014年EU選は6.51%、4議席獲得。

〔社会主義行動党PASOC〕 Partido de Accion Socialista
 1972年、スペイン社会労働党(歴史)PSOE(h)ロドルフォ・リョペスが形成。
 1977年、裁判に負け、社会党PSと名を変える。選挙で21242票、0.12%、1979年、133869票、0.74%。
 1982年、社会主義行動党PASOCと名を変える。
 1986年、PASOCは反NATO市民綱領に参加しIUに加わる。
 1989年、パブロ・カステリャーノが加入(1987年PSOEから追放)すると、PSOEでゴンザレス路線と会わない
活動家がPASOCに加わった。
 2001年、IU離脱。離脱反対派(マドリドとアンダルシア−2002年左翼社会主義イニシアチブとなる)はIU内で社会主義派を形成。
 2004年、国会選挙は共和主義左翼と共和主義・社会主義連合を組んだ。
 2004年のEU選挙は独自に闘い13810票。

新左翼民主党PDNI
 フェリペ・ゴンザレス政権に対し、アンギタ率いるIUは保守の人民党と手を組もうとし、これにPCE外のIU内左派グループから
批判が起こりPSOEとの協力を目指す新左翼が1992年形成された。
 かれらは数は少なかったが著名な人物が多く、マスコミを通して影響力をもった。
 1996年、人民党が政権を握ってもアンギタは考えを変えなかったため、1997年、新左翼は新左翼民主党PDNIとなり、
IUから離脱した。
 2000年、PDNIはPSOEへの合流を決めた。(2001年、65%の賛成投票となる。)

サンディカリスト党
 1932年、穏健派のアンヘル・ペスタニャCNTの指導者)によりサンディカリスト党が設立されている。
 これはCNT内でのFAIの成長の影響であった。
 1936年当時3万のメンバーを数えた。
 1937年、ぺスタニャが死亡し、その影響でまもなく消滅。
 1974年、サンディカリストの伝統から再度サンディカリスト党が結成され1985年まで続いた。
 1979年、選挙で9777票、0.05%獲得。

緑連合
 1984年全国政党緑として結成、1988年欧州緑連合(2004年欧州緑党となる)の承認を得る。
 1990年代初めのスペインの環境運動での深い危機から1995年連合に転換。
 1988年には環境平和主義・緑が、1994年には緑・緑グループが結成される。
 2004年選挙はPSOEと提携し2議席獲得。2008年は多くの地域では単独だが、IUに緑の候補が参加するが議席0。
 2006年環境政党の統一のため緑・緑グループ緑統一委員会mesaを推進するが事前交渉がなかったため緑連合は参加せず。
 2009年EU選はガリシア民族主義者ブロック、カタルニア共和主義左翼、アララール(ヴァスクとナヴァラのバスク独立派組織)と
人民ヨーロッパ−緑を結成し2.53%、1議席獲得。
 2011年にエコ EQUOが結成され総選挙に参加。
 エコは0.89%で0議席。

緑・緑グループ


15−M運動、怒れるものたちindghadosの運動
 15−M運動あるいは怒れるものたちの運動は2011年5月15日からのスペインの市民抗議運動から形成された
2党体制と銀行・企業支配に反対しより参加的民主制を推進する市民運動。
 異質な種々のグループの種々の主張をもつ。
 政治階級の特権廃止、失業との闘い、居住権推進、

ポデモス:我々はできる
 ポデモスは怒れるものたち運動の余波から来た。
 起源はデジタル出版”プブリコ”に2014年1月12−13日に出た”コマ(牌)の移動:怒りの政治変革への転換”にある。
 これにはマドリード大学UCM教授フアン・カルロス・モネデロ、俳優アルベルト・サン・フアン、作家サンチャゴ・アルバ・リコなどが署名した。
 宣言にはEUの経済危機政策に左翼の立場から反対してEU選に候補をたてる必要性が述べられていた。
 14日にUCM教授でTV政治解説者のパブロ・イグレシアスが運動の指導者と発表された。
 初期の運動は反資本主義左翼(第4インター統一書記局派)によって組織された。
 運動は公式には1月16日に現れ、パブロ・イグレシアス、フアン・カルロス・モネデロ、教育労働組合USTEA活動家、
マレア・ヴェルデ:緑の潮流(教育切捨てに抗議する2011−2012年学期に始まったマドリドを中心とする抗議集団)活動家、
反資本主義左翼活動家テレサ・ロドリゲス、評論家イニゴ・エレホンなどが出席。
 計画実行のためWEBを活用し、また統一左翼、人民統一候補(1979年頃から選挙参加のカタロニアとヴァレンシアの左翼、独立主義者組織)、X党、
アンダルシア労働組合、アノヴァ:刷新(EU選では複数左翼に参加)、(ガリシア民族主義組織)、市民派などとの提携を模索。
 5月25日のEU選では7.98%で5議席獲得、統一左翼などの複数左翼の10.03%、6議席についで第4位。
 10月党大会ではルイス・アレグレ、カロリナ・ベスカンサ、イニゴ・エレホン、パブロ・イグレシアス、フアン・カルロス・モネデロらの議案が80.71%、
パブロ・エチェニケ、テレサ・ロドリゲス、ロラ・サンチェスらの議案が12.37%獲得。
 EU議会では統一左翼・北欧緑左翼に所属。
 EU議会でのフラシスコ法皇演説をパブロ・イグレシアス、パブロ・エチェニケは歓迎したが、複数左翼(統一左翼・北欧緑左翼に所属)は退場。
 2015年地方選には参加せずバルセロナではアダ・コラウ(市長に就任)のバルセロナ共同体(エン・コム)、マドリドではマヌエラ・カルメナ(市長に就任)の
今(アオラ)マドリドなどを支持。
 地方議会選はアンダルシア14.84%で第3位、マドリド18.59%で第3位、ヴァレンシア11.23%で第3位、カスティリア・レオン12.10%で第3位、
アラゴン20.51%で3位など。

2011−2012スペイン抗議
 今新の民主主義やその他の集団の呼びかけで2011年5月15日からスペインの58都市で始まった抗議行動。
 ATTAC、アノニマス、ノーレスヴォテス未来なき青年などの政党や労働組合を除く諸グループがそれぞれの主張で参加。
 背景には経済問題のほかにインターネット規制とその根底にある人民党と社会主義労働党の2党体制および政治経済体制
への反発があった。

今新の民主主義
 2011年3月から出発した市民組織。
 2011年5月15日からのスペインの市民抗議運動の火付け役。
 政治階級の特権廃止、失業との闘い、居住権推進、教育・健康・公共輸送での公共サービス改善、銀行への規制強化、
新財政政策実施、市民的自由と参加民主制の推進、軍事支出削減を政策として要求。
 運動は種々の個人や約200の組織からなるが主なものは
  ノーレスヴォテス
  住宅融資に影響されたものたちのプラットホーム
  失業者全国協会
  未来なき青年
  スペインATTAC
  行動するエコロジスト
 など。

未来なき青年
 2011年2月、マドリドの大学の種々のグループが結成。

ノーレスヴォテス(やつらに投票するな)〕
 人民党、社会主義労働党、収束と統一によるネットワーク規制(シンデ法)に反対するスペインのサイバー活動家運動。

<スペインの共和主義者Republicano>

 1868年9月革命で連邦主義者と共和主義者の党として連邦民主共和党Partido Republicano Democratico Federalが結成
されフランススコ・ピ・イ・マルガルが中心人物となる。
 1868−1872年の議会で数十人議員を擁する。1874年のブルボン王朝復古で組織崩壊し指導者がいなくなる。
 1880年以降カタルニアを中心に再建される。

 1903年分散した共和主義者の統一のため1903年共和連合Union Republicana(1903年)結成され、ニコラス・サルメロン
アレハンドロ・レロウックスらが指導者となる。
 カタルニア問題でニコラス・サルメロンの地域主義とアレハンドロ・レロウックスのカタルニア主義反対派に分裂。
 1908年アレハンドロ・レロウックスが急進共和党PRR Partido Republicano Radical結成。

 共和連合はカタルニアの党として存続、1910年連邦民主共和党、共和主義国民センターCentre Nacionalista Republicaなどと
共和主義国民連邦連合Union Federal Nacionalista Republicana結成。これは斜陽し1917年カタルニア急進党となり、1931年
他のグループとカタルニア共和主義左翼ERCとなり1936年人民戦線参加。以後も存続。

 急進共和党PRRは何度かの分裂を経験する。1929年進歩的なグループprogresistaのマルセリーノ・ドンミンゴらが
社会主義急進共和党PRRS結成。このうちのドンミンゴのグループは最終的にマヌエル・アサーニャ共和主義左翼に合流。
 1934年ディエゴ・マルティネス・バリオが急進共和党PRR多数派の右翼路線(カトリック右派CEDA接近)に反対し穏健派と
民主急進党を結成。

 急進共和党PRRはアルフォンソ13世統治倒壊でサン・セバスチャン協定を締結、社会主義急進共和党PRRSと
最初の2年間Primer Bienio(1931−1933年) のマヌエル・アサーニャの左翼政権に参加。
 急進共和党PRRは右派になりアサーニャの左翼政権と対決、1933年選挙ではCEDAと手を組み1933−1935年政権参加。
 1936年選挙に際しアレハンドロ・レロウックスは闇取引を行い急進共和党PRRは没落、人民戦線勝利に道を開く。

 1931年選挙結果はPSOE24.5%、115議席、PRR20.2%、94議席、PRRS12,5%、59議席、ERC6.5%、31議席、
共和主義行動5.9%、28議席など。

 1933年選挙結果はCEDA24.3%、115議席、PRR22.0%、104議席、PCOE12.2%、58議席、共和主義行動1.1%、
5議席、PCE0.2%1議席など。
 1936年選挙結果はPSOE20.9%、99議席、CEDA18.6%、88議席、共和主義左翼18.4%、87議席、共和主義連合
8.0%、38議席、カタルニア共和主義左翼7.8%、38議席、PCE3.5%、15議席など。

 社会主義急進共和党PRRSは何度か分裂を経験、1932年フアン・ボテラ・アセンシが社会主義急進左翼
Izquierda Radical-Socialista 結成。翌年社会主義者との協力問題で右派のフェリックス・ゴルドン・デ・オルダスレロウックス
急進共和党に近いグループと、PSOEとの連合支持のマルセリーノ・ドンミンゴアルヴァロ・デ・アルボルノスの左派に分裂、
左派は1934年共和主義行動自治ガルシア共和組織共和主義左翼結成。他のグループは共和主義連合(1934)結成。

  共和主義左翼IR Izquierda Republicanaは1926年のマヌエル・アサーニャManuel Azanaによって設立された共和主義行動
後継組織。1931−1933年にアサーニャは首相を務めた。 
 1934年、マルセリーノ・ドンミンゴ社会主義急進共和党および自治ガルシア共和組織と統合し共和主義左翼と名を変える。
 1936年人民戦線に参加し、内戦の最後まで政府に参加。アサーニャは1936−1939年まで大統領。
 メキシコに亡命して1946−1977年まで亡命共和国政府の中心となった。

 共和主義連合UR Union Republicana(1934)はディエゴ・マルティネス・バリオの民主急進党、フアン・ボテラ・アセンシ
社会主義急進左翼、フェリックス・ゴルドン・デ・オルダスのグループが結成。1935年人民戦線に参加し、事実上共和主義左翼と
連合を組む。内戦後、共和主義左翼と亡命政権の主要共和主義者組織となる。


首相
1977−1979年 アドルソ・スアレス(UCD) UCD
1979−1981年 アドルソ・スアレス(UCD) UCD
1981−1982年 レオポルド・カルヴォ・ソテロ(UCD) UCD
1982−1996年 フェリペ・ゴンサレス(PSOE) PSOE
1996−2004年 ホセ・マリア・アスナール(PP) PP
2004−2011年 ホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ(PSOE) PSOE 
2011−      マリアノ・ラホイ(PP) PP


AP、PP バスク民族 カタロニア
CiU
UCD、CDS ERC PSOE 統一左翼
1977年 8.21(16
1.62(8 2.82(11 34.44(166
29.32(118 9.33(19
1979年 6.05(10 1.65(7 2.69(8 34.84(168 0.69 30.40(121 10.77(23
1982年 26.36(107 1.89(8 3.67(12 9.64(13 0.66 48.11(202 4.02(4
1986年 25.97(105 1.53(6 5.02(18 9.22(19 0.42 44.06(184 4.63(7
1989年 25.79(107 1.24(5 5.04(18 7.89(14 0.41 39.60(175 9.07(17
1993年 34.76(141 1.24(5 4.94(17 1.76 0.80(1 38.78(159 9.55(18
1996年 38.79(156 1.27(5 4.60(16 0.67(1 37.63(141 10.54(21
2000年 44.52(183 1.6(7 4.19(15 0.84(1 34.16(125 5.45(8
2004年 37.7(148 1.6(7 3.2(10 2.5(8 42.6(164 5.0(5
2008年 39.94(154 1.19(6
3.03(10 1.19(1
UPD
1.16(3 43.87(169 3.77(2
2011年 44.6(186 1.33(5 4.2(16 4.69(5 1.05(3 28.7(110 6.9(11

 1976年フランコ体制の人物(マヌエル・フラガら)によって人民連合APが結成され、1977年選挙後左右分裂、小中道右派グループと
民主連合CD結成。
 1982年からはPDP、PL(1983年結成)と人民連合CPを結成し成功、1989年人民党PP結成。

 民主中道連合UCD(1977−1983年)はキリスト民主、社会民主、リベラルの寄せ集めでアドルフォ・スアレスにより1977年連合
として形成される。
 1982年まで政権維持。1982年に分裂、他党参加者が続出、更に民主人民党PDP、民主社会中道CDSが結成される。
 1982年選挙ではPDPはAPと提携し、CDSはUCDと競合し、UCDは大敗。UCDの選挙基盤はAP−PDP連合に移る。
 UCDは多くがAPに移り1983年UCD解散。
 AP−PDP連合は1982年から人民連合を結成し、1989年人民党となる。人民党は1996−2004年政権維持。

 民主社会中道CDSは1982年アドルフォ・スアレスにより結成される。スアレス引退により1993年選挙で大敗。2006年人民党PPに合同。