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〔左翼(ディー・リンケ)〕
Die Linke
YUO・TUBE
2007年6月、PDSとWASGが統合して結成。
指導者は
ロタール・ビスキー
(1941−)と
オスカー・ラフォンテーヌ
(1943−)。
2008年4月で党員約7万3千人。
2003−2005年
ドイツ学生団体自由連合fzs
執行部の
コルネリア・ヒルシュ
(1980年生)は2001−2002年関西外大で学び2005年から
リンケの国会議員。 →
YOU・TUBE
2007年5月
ブレーメン州選挙
で8.4%と躍進、2008年1月ニーダー・ザクセン(7.1%)、ヘッセン(5.1%)、2月ハンブルグ(6.4%)
でも
躍進
した。ヘッセンでは選挙結果によりSPD州党首
アンドレア・イプシランティ
がリンケを含む連立政権を結成しようとして党内造反にあい辞任。
2009年再選挙
でSPD大敗(13%減、13議席減)、リンケは5.4%獲得。緑とFDP大幅増。
2009年連邦議会選挙は党名簿11.9%と3.2%増で76議席の22議席増と上昇。
党内流派
反資本主義左翼
連立政権参加に批判的。議会内外の運動を結合。
サラ・ヴァーゲンクネヒト
(1969−)、
トビアス・プフリューガー
(旧WASG)、
コルネリア・ヒルシュ
、
ウッラ・イエルプケ
など。
共産主義綱領
KPF PDSに由来するグループでマルクス主義派、
ネットワーク改革左翼
に批判的。DKP、KDP、
赤い狐
(1998年ベルリンのDKPグループ
創設の独立共産主義・社会主義雑誌、2001年党と衝突し独立)、特にDKPと協力、MLPDとは協力しない。
サラ・ヴァーゲンクネヒト
、
マティアス・ベルヴォルフ
など。
社会主義左翼
2006年結成、ケインズ左派、改革共産主義、オランダ社会党などを手本、主に旧WASG、
ディーター・デーム
(1950−)、
トーマス・ヘンデル
、
ユルゲン・クルー
ト、
ヒュゼイン・アイディン
(1962−、トルコ系)など
ネットワーク改革左翼
2003年PDSのグループとして結成、SPDと緑との連合支持。
ペトラ・パウ
(1963−)、
ヴルフ・ガラート
、
ヤン・コルテ
、
シュテファン・リービッヒ
、
ハリナ・ヴァヴツィニアク
など。
解放(自由)左翼 自由と社会主義が両立すると考える。
カーチャ・キッピング
(1978−)、
カレン・レイ
(1972−)、
ユリア・ボンク
など。
民主社会主義フォーラム
PDS由来、ネットワーク改革左翼に近く、社会主義左翼とも関係、市民権や女性積極的差別是正などに焦点、
シュテファン・リービッヒ
(1972−)、
インガ・ニッツ
、
カレン・レイ
など。
クリスティーヌ・ブホルツ
→
YOU・TUBE
1971年ハンブルク生。1990年早期から学生運動で活動。1994−1999年SPD参加。当初から反グルーバリズム運動に積極的。
2005年WASG結成で執行部に参加。2007年合同からリンケ党執行部入り、
左翼移行
の旧メンバーで
マルクス21
グループ支持。
2005−2006年議会のリンケ・メンバー。
カーチャ・キッピング
→
YOU・TUBE
1978年ドレスデン生、1997年ロシアで過ごす、1999−2003年ドレスデン市議、1999−2005年ザクセン州議員。
2003年PDS副議長、2005年から国会議員。
カレン・レイ
→
YOU・TUBE
1972年ノイヴィート(ラインラントープファルツ)生。マールブルク、フランクフルトアムマイン、ペンシルヴァニア、ベルリンで社会学を学ぶ。
ベルリン自由大学で助手となり2000−2003年PDSのザクセン議会専門助言者となる。2004−2009年PDSザクセン州議員、2009年から
国会議員。2006年
カーチャ・キッピング
と解放左翼結成、2007年
民主社会主義フォーラム
結成参加。
サラ・ヴァーゲンクネヒト
→
YOU・TUBE
1969年イェーナ生。1989年社会主義統一党参加。1990−1996年イェーナ、ベルリン、グロニンゲン(蘭)で哲学を学ぶ。
1999年PDSのEU議員となる。2009年国会議員となる。
共産主義綱領
グループ中心代弁者。フィデロ・カストロ、フーゴ・チャヴェスを支持。
ペトラ・パウ
→
YOU・TUBE
1963年ベルリン生、1979年ピオネール指導者となり、1983年社会主義統一党参加、1985−1988年カールマルクス党学校で学びその後
1990年まで自由ドイツ青年指導者となる。1998年、2006年ー国会議員。2006年国会副議長となる。
ウッラ・イエルプケ
→
YOU・TUBE
1951年ハンブルク生、理容師、事務員、書籍販売員としての訓練を終えてから刑務所で働き、第2教育で社会学・経済学修士を得る。
1968年から独立女性政治、環境、平和運動に参加。1971年共産主義者同盟KB結成参加。1980年代ハンブルクで緑選択名簿で議員となる。
1990−2002年、2005年からPDS国会議員。
ディーター・デーム
1950年フランクフルト生、15歳で
ドイツ社会主義青年同盟(鷹)
に参加しSPD加入。1994年国会議員となる。
この選挙でCDUの対抗候補
エリカ・シュタインバッハ
から東ドイツ国家保安省Stasi情報員と名指され、裁判に訴えるが、
シュタインバッハ
は
ヴォルフ・ビールマン
の証言を得、
デーム
敗北。1996年党内で
デーム
の1977年からの東スパイ行為が追求される。
ビールマン
やその他の告発者によって疑惑が挙げられた。
更に
デーム
は1960年末から1970年初めのDDRの文化催しに公然参加していた。1980年代末には
ヴォルフガング・ニーデッケン
、
カーチャ・エプシュタイン
、
ハインツ・ルドルフ・クンツェ
らとDDRを訪問していた。・・・・
そもそも
デーム
は1960年代末からプロテスト・ソングを書き、発表していた。以降音楽・文化活動を幅広く活発に行い、1983年には自分の
レコードラベルも創設、TV番組の著作、1989年からはカタリナ・ヴィット、デニゼ・ビールマン等のマネジャーなども行っていた。
1997年ユーゴスラヴィア戦争問題で党指導部と衝突し1998年デームはSPDを他のフランクフルトのSDOの党員と離党。
1999−2003年PDS全国副委員長となる。2005年国会議員となる。
トビアス・プフリューガー
1965年シュツットガルト生、1980年代から平和・反核(兵器、原発)運動で活動。
1989−1993年バーデン・ヴュテンベルク地域議会緑メンバーの個人的助手となる。
1996年軍備情報事務所創設。2002年からATTACメンバーとして活動。
2002年から欧州社会主義フォーラムに参加、講義。
2004年PDSの支援でEU議員となる。2008年リンケ加入。2009年EU議員再選。
シュテファン・リービッヒ
1972年ヴィスマール(旧東ドイツ)生、DDR時代ピオネール、自由ドイツ青年参加。1990年PDS参加。
1995、1999、2001年ベルリン州議員当選。2002年からのベルリンでのSPDとの連立政権樹立に努める。
2007年
民主社会主義フォーラム
結成。2009年初めてSPDの候補を敗り国会議員となる。(2002、2005年には敗北)
(左翼党(民主社会党)PDS)
Partei des Demokratischen Sozialismus
1989年12月、東ドイツのドイツ社会主義統一党SEDがドイツ社会主義統一党−民主社会党SED−PDSと改名し、
1990年2月、民主社会党に、2005年7月、左翼党PDS(Linke.PDS)と改名。
2007年7月、WASGが合流し、左翼(ディー・リンク)が発足。
2006年12月で党員約6万人。党員が高齢化しているという問題がある。
ヨーロッパ左翼党
の共同設立者であり、EU議会では
ヨーロッパ統一左翼・北欧緑左翼
グループ最大党。
1990年1月の最初の自由国会選挙では18.4%獲得。
1990年3月の最初の全ドイツ統一選挙ではグレゴール・ギジ
Gregor Gysi
のもとPDSは2.4%しか獲得できなかった。
1994年にはキリスト教民主党の反共キャンペーンにもかかわらず4.4%獲得。
1998年には5.1%獲得し5%条項を達し、議会内党の地位を獲得した。
2002年の選挙は4.0%となる。
PDSはギシの同盟者で議長のロタール・ビスキー
Lothar Bisky
のもと再建を計った。
2004年のEU議会選挙では6.1%獲得。
東ドイツではキリスト教民主党と社会民主党と並ぶ3大政党となっているが西ドイツではメンバーも支持も少なく、
2005年の選挙では
労働と社会正義−選挙選択
と選挙連合を組み8.7%獲得。
ギシ、
ゲジーネ・ローツッシュ
、ペトラ・パウ
Petra Pau
の3人が東ベルリン選挙区から選出され、比例代表としてビスキー、
カーチャ・キピング
Katja Kipping
(1978年生まれ)、オスカー・ラフォンテーヌ
Oskar Lafontaine
(元SDP議長)、
ポール・シェフェー
(元DKP
メンバー)、
ハック・ケスキン
(トルコ系)などが選出された。
1999年EU選挙ではPDSから22才のヤジード派議員
フェレクナス・ウカ
(1976年生まれ)が選出されている。
党内潮流
左翼反資本主義派
サラ・ヴァーゲンクネヒト
、
トビアス・プフリューガー
、
コルネリア・ヒルシュ
、
ウッラ・イエルプケ
など。
社会主義左翼 ケインズ左派、改革共産主義、オランダ社会党などを手本、旧SPDの
ディーター・デーム
など
改革左翼
ネットワーク改革左翼
、SPDと緑との連合支持。
ペトラ・パウ
、
ヴルフ・ガラート
、
ヤン・コルテ
、
シュテファン・リービッヒ
、
ハリナ・ヴァヴツィニアク
など。
解放(自由)左翼 自由と社会主義が両立すると考える。
カーチャ・キッピング
、
カレン・レイ
、
ユリア・ボンク
など。
研究集団 種々の政策集団、思想集団がある。
共産主義綱領
(
サラ・ヴァーゲンクネヒト
)、
マルクス主義フォーラム
(
ウヴェ・イエンスホイアー
、
ウヴェ・ヒクッシュ
)、
エコロジー・フォーラム
、
キューバ・シ
、
フェミニズム系集団
など。
(
労働と社会正義−選挙選択
WASG)
2004年、赤緑連合の
アジェンダ2010
に対して”選挙選択・労働と社会正義”として出現、彼らは赤緑連合を
新自由主義と見なした。
2004年11月は約4千人のメンバーであった。
2005年1月、社会民主・緑政権に不満な活動家が結成。
同年6月、元SPD大物政治家
オスカー・ラフォンテーヌ
参加。
2005年の選挙ではPDSと選挙連合を組み8.7%獲得。54議席獲得しうち12議席はWASG。
2007年、
左翼党(社会民主党PDS)
と統合し
左翼
を結成。当時約1万1千人のメンバー。
ヨーロッパ左翼党
と、EU議会では
ヨーロッパ統一左翼・北欧緑左翼
に参加。
WASGは広範囲な政治基盤をもった左翼政党で、SPD、緑、PDS、DKPからCDUまでからも来ている。
更に知識人、労働組合活動家、
ATTAC
(金融取引課税運動)などの社会運動活動家なども参加。
その他
社会主義選択
SAV(トロツキスト)、
左翼移行
(トロツキスト)、
西ドイツ共産主義者同盟
KBW(K−グループ)など。
ローザ・ルクセンブルク財団
や
教育団体SALZ
などが理論面での支援をしている。
主な人物
オスカー・ラフォンテーヌ、
ウルリッヒ・マウラー
、
クラウス・エルンスト
、
アクセル・トロースト
、マンフレット・コッピック、
ピーター・フォン・オルゼン
、
エルマール・アルトファーター
、
クルスチーヌ・ブッフホルツ
(トロツキスト、左翼移行)、
ルーシー・レドラー
(トロツキスト、SAV)など。
ルーシー・レドラー
→
YOU・TUBE
党内潮流
左翼反資本主義 WASGとPDSのグループ、2006年3月結成。
サラ・ヴァーゲンクネヒト
(1969−)、
ウッラ・イエルプケ
など。
社会主義左翼
WASGとPDSのグループ、2006年8月結成。
ネットワーク左翼反対派NLO WASG内グループ、2006年10月結成。 主に社会運動を行う。
レファークゼン・サークル
WASG内グループ、2005年選挙でのPDSとの協力反対派、小政党に分離・分裂。
統合反対派は2007年、
選択社会正義
SAGを結成。
トロツキスト傾向(
ルーシー・レドラー
:
社会主義選択
SAV所属)も連帯と正義のベルリン選択BASG設立。
(
民主社会主義者
DS)
1980年代初め、シュミット政権(自由民主党FDPとの社会リベラル連合、1982年まで)のNATO政策に反対した
SPD内左派として成立。
1982年11月公式結成。中心人物は
カール・ハインツ・ハンゼン
とマンフレット・コッピック。
主に平和運動に関与。選挙連合の
平和名簿
にも参加。
1982年の社会リベラル連合の崩壊とコール政権成立でSPDが政権反対派になり、支持がSPDに回帰、更に
緑
が支持を集め始め、DSは分裂と孤立化の傾向を示す。
1991年解散。
(独立社会民主党USPD)
Unabhangige Sozialdemokratische Partei Deutschlands
,
USPDは1914年のSPDの第1次世界大戦と城内平和路線支持に反対するグループから生じた。
1914年12月
カール・リープクネヒト
がこれ以上の戦争予算に反対、1915年12月、19人の議員がこれに続き、SPD指導部の
フルードリッヒ・エーベルト
と
フィリップ・シャイデマン
は1916年3月彼らを党から追放した。
彼らは社会民主主義活動グループSAGを結成、1917年4月ゴータでUSPDが結成された。
フーゴ・ハーゼ
、
ヴィリアム・ディットマン
が議長となった。
これにスパルタクス同盟が参加したが比較的自主性を保っていた。
党には種々のメンバーが参加していた。
SPD左派
ハーゼ
、
クルト・アイスナー
からマルクス主義理論家
カウツキ
ー、改良主義者
ベルンシュタイン
までいた。
USPDの主目的は
スパルタクス
や革命的労働者と共に戦争を早期に終わらせることにあった。
議会のUSPDグループは比較的自主性を保ち、戦争の3年まで
MSPD
のように乱暴なストライキは避けたがだんだん
党と労働組合の
革命的指導者
(オプロイテ、調整者:労働組合から独立して選ばれた活動家)は独立の抗議行動を組織し始めた。
ロシア十月革命の影響で党は50万の党員までになりほとんどMSPDに匹敵するようになった。
1918年11月革命ではUSPDは重要な役割を果たした。
USPDはSPDと1918年11月人民委員会協議会を結成した。
人民委員協議会
は
SPD
の
フリードリッヒ・エーベルト
、
シャイデマン
、
オットー・ランズベルク
とUSPDの
フーゴ・ハーゼ
、
ヴィルヘルム・ディットマン
、
エミール・バルト
(
革命的指導者
)で結成された。
エーベルト
は革命に反対し、臨時政権から離脱した。
1918年12月、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトのスパルタクス同盟が分離しドイツ共産党を結成。
1919年1月革命ではUSPDと
スパルタクス
は敗北した。
選挙では7.6%、22議席しか獲得できなかった。SPDはブルジョアとの連合を選び、
中央党
と
DDP
との
ワイマール連合
が成立。
1920年の選挙では18.8%、81議席でSPDは21.7%、113議席となった。
レーニンの
共産主義インター
結成で1920年10月USPDは分裂、
エルンスト・ドイミッヒ
らの多数派は共産党と統一し、
統一共産党
VKPDを結成。
2年後後残りの多数派
アルトゥール・クリスピーン
、
ヴィルヘルム・ディットマン
、
ロベルト・ディスマン
(
ドイツ金属同盟
議長)、
カール・カウツキー、エドワルト・ヒルファーディング及びKPDから分裂した
ポール・レヴィ
、
エルンスト・ドイミッヒ
、
アドルフ・ホフマン
、
ベルンハルト・デュヴェル
の
共産主義活動グループ
KAGは1922年再びSPDに戻った。
ゲオルク・レーデブール
・と
ポール・ヴェグマン
、
テオドル・リープクネヒト
(
カール
の兄)が残った。
クルト・ロ−ゼンフェルト
は反対したが結局SPDに移った。
1924年
ゲオルク・レーデブール
が社会主義者同盟結成。
テオドル・リープクネヒト
とエルザ・ヴィーマンが残る。
USPDは1931年
SAPD
に参加。
(戦前のドイツ共産党KPD)
Kommunistische Partei Deutschlands
歴史(トロツキスト観)
1914年SPDの左翼反対派として国際主義者グループが
ローザ・ルクセンブルク
、
カール・リープクネヒト
、
フランツ・メーリンク
、
ユリアン・バルタザール・マルクレヴィスキー
、
エルンスト・メイヤー
、
ヘルマン・ドゥンケル
、
ヴィルヘルム・ピーク
、
レオ・ヨギヘス
、
クララ・ツェトキン
によって結成され、回覧スパルタクスを発行(これによりスパルタクス・グループと称され1918年
スパルタクス同盟
となる)。
1914年、
カールリープクネヒト
が、1915年、
オットー・ルーレ
が議会で戦争予算に反対。
1917年
SPD
内の
城内平和
反対派が成長し1917年4月
独立社会民主党USPD
が結成された。
スパルタクス・グループもこれに参加。ローザやリープクネヒトら多くのメンバーが投獄された。
1917年3月、更に
1918年1月のストライキ
は労働運動大きな衝撃を与えた。
ベルリンの
リヒャルト・ミュラー
、
エミール・バルト
、
ゲオルク・レーデブラー
らの
革命的指導者
(オプロイテ)は評議会(レーテ)運動を
強力に支援した。
ロシア10月革命
が大きな衝撃を与えた。
敗戦を目の前に1918年9月
マックス
内閣が結成され、SPDの
フィリップ・シャイデマン
が参加。
1918年10月
多数派SPD
(MSPD)の入閣(マックス内閣へ
シャイデマン
参加)にスパルタクス同盟はデモで存在と反対を示した。
1918年11月キール軍港
から反乱が始まり、
労兵協議会(レーテ)
が結成され、瞬く間に全国に広がった。
やがて
ミュンヘンで革命
(1918年11月7日USPDの
クルト・アイスナー
がバイエルン自由国家宣言)が起こった。
ベルリンの
マックス
は11月皇帝退位宣言を行い、
フリードリッヒ・エーベルト
に権力を渡した。
皇帝
はオランダに逃亡。
独立社会民主党
の
エミール・バルト
、
リヒャルト・ミラー
の革命的指導者と
スパルタクス同盟
は共和国評議会結成をめざしたため
、1918年12月9日
フィリップ・シャイデマン
のSPD多数派はドイツ民主共和国を宣言。
1918年12月末から1919年1月初めの会議で
スパルタクス同盟
から
ヘルマン・ドゥンケル
、
ケーテ・ドゥンケル
、
フーゴ・エーベルライン
、
レオ・ヨギヘス
、
ポール・ランゲ
、
ポール・レヴィ
、
カールリープクネヒト
、
ローザ・ルクセンブルク
、
エルネスト・メイヤー
、
ヴィルヘルム・ピーク
、
アウグスト・タイルハイマー
が参加、ドレスデンから
オットー・ルーレ
、
ブレーメン左派の
ドイツ国際共産主義
IKDから
ヨハン・クニーフ
、
ポール・フローリッヒ
が参加し共産党が結成された。
その後
人民委員協議会
が
SPD
の
フリードリッヒ・エーベルト
、
シャイデマン
、
オットー・ランズベルク
とUSPDの
フーゴ・ハーゼ
、
ヴィルヘルム・ディットマン
、
エミール・バルト
で結成されやがてUSPDが追放され1919年2月SPD(
多数派SPD
)の評議会は
ワイマール国民議会で選出された
シャイデマン
政府に権力を渡した。
12月の労兵協議会全国大会はSPDが多数派を占め国民議会選挙とその後の権力譲渡を決定。
1918年革命
で
エーベルト
は共産主義者に反対する帝国軍指揮官に味方し、新政府の首脳となった。
フリードリッヒ・エーベルト
は帝国軍により革命を押さえ込むつもりだった。間もなく左派はSPD指導部の暴力を体験する。
1919年1月ベルリンで
リープクネヒ
と
レーデラー
は
革命政府樹立
を宣言、(1月蜂起、スパルタクス蜂起)これらの動きは
グスタフ・ノスケ
が
義勇軍
を使用し鎮圧。
このなかで
エドワルト・シュタットラー
により
リープクネヒ
と
ローザ・ルクセンブルク
、間もなく
レオ・ヨギヘス
(
ポーランド社会民主党
を
ローザと結成)も殺された。
1919年、スパルタクス蜂起以降、KPD主導の
労兵協議会
がベルリン、ミュンヘン、ハンブルク、ブレーメン、ルール等各地で増加した。
1919年春、
ブレーメン
、マンハイム、
ブルンスヴィック
、ヴルツブルク、
ミュンヘン
で
レーテ共和国
が宣言された。
4月
バイエルン(ミュンヘン)評議会共和国
が成立、ミュンヘンでは1918年11月7日USPDの
クルト・アイスナー
が2月政権を
握ったが4月左派が
評議会共和国
を宣言やがて共産党が権力奪取したが5月崩壊させられた。
KPDの
オイゲン・レヴィン
など指導者が処刑される。
SPDは1919年の初期防衛大臣
グスタフ・ノスケ
が
義勇軍
により共産主義者と左派スパルタクスの反乱を弾圧するのを支援した。
8月
ワイマール憲法
採用によりワイマール共和国成立。
共産党は新政府制度に強く反対し、
SPD
は
ワイマール連合
(SPD、
民主党
、
中央党
、1919年2月〜1932年)に参加した。
1919年1月の選挙結果はSPD37.9%、165議席、
中央党
(カトリック)19.7%、91議席、
民主党
18.6%、75議席、
民族人民党
10.3%、44議席、USPD7.6%、22議席、
人民党
4.4%、19議席となった。
1920年3月右翼と軍の一部により
カップ一揆
が発生、軍首脳部
ハンス・フォン・ゼークト
は鎮圧を拒否したが
総ドイツ労働組合同盟
ADGBの
カール・レギーン
指導下の労働者ストライキにより粉砕。
このあと5月ルールでは
赤色ルール軍
(アナーキスト
FAUM
の影響が強かった)が結成され軍・義勇兵との戦闘が起こった。
(
ルール蜂起
)
1920年7月の選挙はSPD21.7%、113議席、USPD18.8%、81議席、DKP2.1%、2議席(
国家人民党
14.4%、66議席、
人民党
13.9%、62議席
中央党
13.6%、67議席、民主党8.5%、45議席など)でSPDがー50議席でUSPDが+59議席となった。
1919年10月の
ハイデルベルク党会議
で
ポール・レヴィ
は国会選挙参加を決めた。これにより内部分裂が生じ
オットー・ルーレ
、
ポール・マティック
らの
評議会共産主義
の
共産主義労働党
KAPDが1920年4月分裂した。
10月
国家ボルシヴィズム
の
ハインリッヒ・ラウヘンベルク
と
フィリッツ・ヴォルフハイム
が追放される。
1920年末USPD多数派は共産主義インターに加盟し、ついで共産党に参加したため
ドイツ統一共産党
VKPDを名乗った。
マティアス・ラコシ
、
ベラ・クーン
らがコミンテルンからドイツに派遣され
ポール・レヴィ
らとの意見相違を生じる。
1921年3月
ベラ・クーン
の指導のもと
マックス・ホルツ
、
カール・プレットナー
、
フランツ・ユンク
らの
マンスフェルト蜂起
(
中独蜂起
、
3月蜂起)が起きたが粉砕される。
これら一揆主義を
ポール・レヴィ
は批判し、
ジノヴィエフ
指導のコミンテルン幹部に批判される。
これにより
ポール・レヴィ
と
エルネスト・ドイミッヒ
らが追放され
共産主義労働連合
KAGを結成やがて
SPD
に参加。
1923年10月、
エルンスト・テールマン
、
フーゴ・ウルバーンズ
らにより
ハンブルク蜂起
(
10月敗北
)発生。
このあと
ハインリッヒ・ブランドラー
と
アウグスト・タールハイマー
、
ヤコブ・ヴァルヒャー
の右派指導部が解職される。
1923年11月、党は
ハンス・フォン・ゼークト
将軍により
国家社会主義ドイツ労働党
、
ドイツ・チェコ自由党
とともに禁止されが
数週間後取り下げられる。
1924年7月最初のKPDの戦闘組織
赤色戦線闘争者同盟
が結成され1925年2月
エルンスト・テールマン
が指導者となる。
1924年レーニンが死亡、スターリンが跡を継ぎ、KPDに大きな影響を与える。
1925年8月
ヴェルナー・ショレム
、
ルート・フィッシャー
と
アルカディ・マズロー
、
アルトゥール・ローゼンベルク
の極左党指導部が
解任されのちに追放となり
エルンスト・テールマン
と
フィリップ・デンゲル
と交代。
エルンスト・テールマン
(
ハンブルク蜂起
に参加)は1927−1928年、中間派の
アルトゥール・エーヴェルト
、
ゲルハルト・アイスラー
とついで組織官僚の
ヴァルター・ウリブリヒト
やスターリン主義の
ヘルマン・レンメレ
、
ハインツ・ノイマン
、
ポール・メルケル
らと手を握った。
1928年
ポール・フルーリッヒ
が共産党反対派
KPO
の
ハインリッヒ・ブランドラー
と
アウグスト・タールハイマー
と結び追放される。
(
ハインリッヒ・ブランドラー
、
アウグスト・タールハイマー
、
ポール・フルーリッヒ
は
共産党反対派
KPO結成。)
排除された左派、極左派は1928年
レーニン同盟
を結成。
カール・コルシュ
は1925年極左反対派の結集に向かい、1926年
エルンスト・シュヴァルツ
、
ハインリッヒ・シュラーゲヴェルト
らと
断固左翼Entschiedene Linkeを結成し、党から追放され共産主義者国際グループを結成し、議会では
左翼共産主義者
グループに参加。
1928−1930年にKPDに仲裁グループから党内グループの
調停者
グループ(
エルンスト・メイヤー
)が出現したが、スターリン主義化
で追放される。
大恐慌の間に党は成長、1928年5月に党員13万、320万票、1932年11月に25万2千、600万票、16.9%、100議席となる。
KPDはよりモスクワに従属するようになり、社会ファシズム論が出てきた。
ヒットラーの首相就任直後、1933年2月
国会議事堂放火事件
が起き、共産主義者のせいにされ
ゲオルギー・ディミトロフ
らが
逮捕された。このあと人身保護令が中止された。
1933年5月の選挙
では公然活動は禁止されたにもかかわらず12.3%、81議席獲得、しかし国会放火令により取り消された。
1933年5月26日KPDの国内活動は停止した。
1933年までに多くの支持者とその分裂者は逮捕され収容所に閉じ込められ、
エルネスト・テールマン
、
ヴェルナー・ショレス
などの
ように殺されたものも多い。
ヴィルヘルム・ピーク
、
ヴァルター・ウリプリヒト
らはソ連に亡命した。
KPDは1933−1945年までファシストとの戦いで大きな損失を蒙った。
KPDは地下組織を維持したが中心メンバーの損失は大きく、弱体化した。
国外亡命しなかった
レジスタンス・グループ
は
ベルンハルト・ベストライン
、
アントン・サエフコヴ
、
フランツ・ヤコブ
(
KPD国内指導部
)
らである。
赤い登山者
、
オットー輸送隊
などもKPDメンバーが中心となったレジスタンス組織である。
1934−1935年に社会ファシスト論を誤りとし
人民戦線
路線を打ち出した。
スターリンの1937−1938年の
大粛清
で
フーゴ・エーベルライン
、
ハインツ・ノイマン
、
ヘルマン・レンメル
、
フリッツ・シュルテ
、
ヘルマン・シューベルト
らは処刑され、
マーガレット・ブーバー・ノイマン
はソ連の労働収容所に送られ、ついでナチスに手渡された。
1939年のドイツ・ソ連不可侵条約は他のコミンテルン・メンバー諸党同様支持した。
ソ連の亡命KPDがモスクワに
自由ドイツ国民委員会
(1943年、
エーリッヒ・ヴァイネルト
)NKFDを設立。
パリの
ルテシア・サークル
、ニューヨークの
民主ドイツ評議会
などでも共産党員は活動した。
(戦前のKPDに関係する組織・グループ)
<
ドイツ左派
>
1920年、
ポール・レヴィ
指導のKPDから
オットー・ルーレ
、
ポール・マティック
の
評議会共産主義
のKAPDが分裂し結成される。
1920年代初期
ハインリッヒ・ブランドラー
と
アウグスト・タールハイマー
、
ヤコブ・ヴァルヒャー
、
エルンスト・メイヤー
の右派指導部に対し
ルート・フィッシャー
、
アルカディ・マスロフ
らは左派を形成。
1921年
ポール・レヴィ
と
エルネスト・ドイミッヒ
らが追放され
共産主義労働連合
KAGを結成。
1923年
ハインリッヒ・ブランドラー
と
アウグスト・タールハイマー
指導部ハンブルク蜂起失敗で失脚し、1924年
ルート・フィッシャー
、
アルカディ・マスロフ
が党指導部を握る。
1925年8月
ヴェルナー・ショレム
、
ルート・フィッシャー
と
アルカディ・マズロー
、
アルトゥール・ローゼンベルク
の極左党指導部が
解任されのちに追放となり
エルンスト・テールマン
と
フィリップ・デンゲル
と交代。
1924−1925年に
マスロフ
、
ポール・シュレヒト
、
アントン・グリレヴィッツ
、
フーゴ・ウルバーンズ
らが逮捕・投獄される。
1926年、出獄の
フーゴ・ウルバーンス
に同じく出獄の
アルカディ・マスロフ
とロシア帰国の
ルート・フィッシャー
に合流。
ルート・フィッシャー
、
アルカディ・マスロフ
は
カール・コルシュ
・グループなどの極左に接触。
ウエディング
・グループとコルシュ・グループがロシア反対派に連帯を示す。KPD内にこれの支持が広がり、指導部が圧殺に努める。
1926年左派の
ヴェルナー・ショレム
、
ルート・フィッシャー
と
アルカディ・マズロフー
、
アルトゥール・ローゼンベルク
、
フーゴ・ウルバーンズ
、
アントン・グリレヴィッツ
、(以上レーニン同盟結成)極左派の
カール・コルシュ
(国際共産主義者結成)らが追放される。
ロシア反対派がロシア党から追放される前にドイツ反対派がドイツ党から追放されてしまう。
1930年
調停者(フェアゾーンラー)グループ
の
ハインリッヒ・スターマー
、
アルベルト・サンネック
らが追放される。
追放された
フィッシャー
、
アントン・グリレヴィッツ
、ショレム、ウルバーンスらと党残留の
ポール・シュレヒト
らが参加し
1927年
KPD左翼反対派
を結成。
1928年4月レーニン同盟が結成される。これは1927年結成のウェディング反対派と対立。
ウェディング反対派は1927年からロシア反対派と接触、ジェニヴィエヴ派のレーニン同盟よりトロツキーに近かった。
1928年選挙結果は悲惨でレーニン同盟の反対派名簿は80230票、0.26%、これに対しKPDは3262986票、10.5%であった。
1929年レーニン同盟多数派フーゴ・ウルバーンと少数派アントン・グリレヴィッツに分裂、1930年少数派追放される。
1930年アントン・グリレヴィッツとクルト・ランダウのウェディンガー反対派がKPD
統一反対派
結成。
中心人物は
アントン・グリレヴィッツ
と
オスカル・ザイポルド
。
アントン・グリレヴィッツ
、ヤーコ(ジョゼフ・コーン)、
オスカル・ヒッペ
、
フリッツ・ベレヴィレ
、
ゲオルク・ユンククラス
、ルヴィムとアヴラム・ソボレヴィキウス
(ローマン・ヴェル、アドルフ・セニン) 、
エルヴィン・アッカークネヒト
及びウェデェング・グループ。
1931年
統一反対派
でクルト・ランダウがローマン・ヴェルと衝突し分裂。
クルト・ランダウ
は
ヨゼフ・フレイ
、カール・トマンらと1926年KPOから追放されオーストリア共産党反対派を結成。
1928年
クルト・ランダウ
らはオーストリア共産党反対派から追放され雑誌”新しい訴えDer neue Mahnruf”グループ結成。
ランダウはトロツキーの要請でドイツの左翼反対派統一のため1929年ドイツに渡り、ベルリンで赤いウェディングに参加。
1930年KPD統一左翼反対派が結成されるが、
ランダウ
とローマン・ヴェル (
ルビン・ソボレヴィキウス
、GPUスパイ)、アブラム・ソボレヴィキウスの
喧嘩でトロツキーはローマン・ヴェルを支持、1931年ランダウは分裂(
火花
グループ、1931−1937年)、コミンテルン左翼反対派国際労働グループ
(1933年から国際主義マルクス主義者)を結成。
1933年ランダウはパリに移住。1936年ランダウはスペインに渡りNKVDにより暗殺される。
カール・コルシュ
は1925年極左反対派の結集に向かい、1926年
エルンスト・シュヴァルツ
、
ハインリッヒ・シュラーゲヴェルト
らと
断固左翼Entschiedene Linkeを結成し、月刊誌共産主義政治を発行。党から追放され共産主義者国際グループを結成し、議会では
左翼共産主義者
グループに参加。
カール・コルシュは国際的には左派スターリン主義批判派の
アマディオ・ボルディガ
、
ティモフェイ・サプロノフ
らと接触。
1927年議会で独ソ協定批判。やがて
エルンスト・シュヴァルツ
と別れ1933年頃にはコルシュ・グループは緩いグループとなりレーニン同盟
やKAPD、
赤い戦闘者
などと接触するようになった。
また独立労働組合の
ドイツ産業同盟
と協力。1936年にはアメリカ亡命。米国では
ポール・マティック
らと研究活動に専念。
○
ドイツ国際共産主義
IKD(1918年)
IKDはブレーメン急進左翼とハンブルク、ベルリン、ドレスデンなどのいくつかの地域の独立革命グループの名称。
1918年スパルタクス同盟とともに共産党結成。
1917年USPDが結成され、これらのグループはスパルタクス同盟の路線には従わず、全国的組織を結成しようとしたが、
警察の弾圧によりできず、1918年12月これら地域グループの緩い連合が結成された。(半月後には共産党結成。)
ベルリンでは雑誌”光線”の
ユリアン・ボルハルト
、
ブレーメン市民新聞
のちに
労働者政治
の
ヨハン・クニーフ
、
カール・ラデック
、
アントン・パンネクーク
、
ポール・フルーリッヒ
、ハンブルク左派(雑誌”闘争”)の
フリッツ・ヴォルフマン
、
ハインリッヒ・ラウフェンベルク
、
などが存在。
ブレーメン左派
の中心は
ヨハン・クニーフ
でその周辺には
ポール・フローリッヒ
、
カール・ラデック
(1918年モスクワから帰国)、
アントン・パンネクーク
(オランダ人共産主義者、
評議会共産主義
理論家)がいた。
多くはSPD城内反対派のドイツ国際社会主義者ISDグループであった。
1919年10月の
ハイデルベルク党会議
でスパルタクス同盟の民主集中制に反対しIKDの大部分は追放され、
ポール・レヴィ
により
サンディカリスト
と非難される。
オットー・ルーレ
、
ハインリッヒ・ラウヘンベルク
らは1920年4月
共産主義労働党
を結成。
ポール・フローリッヒ
の少数派が党にとどまった。
○
共産主義労働党
KAPD
1920年4月、KPDから分裂。このグループにはオランダ人共産主義者
アントン・パンネクーク
、
ヘルマン・ホルテル
が影響を
与えていた。
1920年
国家ボルシェヴィズム
のハンブルクの
ハインリッヒ・ラウフェンベルク
、
フィリッツ・ヴォルフハイム
と創設メンバーの
オットー・ルーレ
が追放される。
1921年、
フランツ・プフェムフェルト
、
オスカー・カネール
らが分裂し
オットー・ルーレ
と
総労働連合統一組織
AAUE結成。
1922年には
アレクサンダー・シュヴァブ
、
アルトゥール・ゴールドシュタイン
、
ベルンハルト・ライヘンバッハ
、
カール・シュレーダー
らの
エッセン・グループと
アダム・シャラー
らのベルリン・グループに分裂。
エッセン・グループは1922年
共産主義労働者インター
(
ヘルマン・ホルテル
の
オランダ共産主義労働党
や
シルヴィア・パンクフルスト
の
英国共産主義労働党
など参加)を結成。
1926年KPD追放の
エルンスト・シュヴァルツ
と
カール・コルシュ
の断固(エントシーデネ)左翼グループとベルリン・グループが短期間
合同。これは別の分裂を惹き起こす。
いくつかのグループがブルンスヴィック、ルール、ライプニッツ、クーニッヒスベルクなどでファシズムへのレジスタンス活動に参加。
主な人物は
フランツ・ユンク
、
アダム・シャラー
、
ハインリッヒ・フォルゲラー
、
ヨーン・グラウデンツ
、
マックス・ホルツ
、
カール・プレットナー
、
フリッツ・ラッシュ、
ポール・マティック
、
ヤン・アペル
、
アウグスト・メルゲス
(
ブラウンシュヴァイク社会主義共和国
議長)。
○
共産主義労働連合
KAG
ポール・レヴィ
は1921年の
3月蜂起
を批判し、ジノヴィエフのコミンテルンと党指導部から批判され党から追放された。
議会グループの多数派は
レヴィ
を支持したが、レーニンとトロツキーは
レヴィ
の意見に賛成したが公表を批判した。
レヴィ
は
エルンスト・ドイミッヒ
、
アドルフ・ホフマン
、
ベルンハルト・デューヴェル
、
オットー・ブラス
、
リヒャルト・ミラー
らとKAGに参加、
クララ・ツェトキン
は
レヴィ
と同意見であったがKPDに留まった。
1922年春KAGの大部分はUSPDに合流、1922年末にはSPDに参加(
レヴィ
も)。
ポール・ヴェグマン
、
オスカル・ルッシュ
ら少数がUSPDに残った。
ゲオルク・ベルテレ
、
エミル・アイクホルン
、
ハインリッヒ・マルツァーン
、
ヘルマン・ライヒ
らはKPDに戻った。
○
共産党反対派
KPO
KPOはトロツキストの左翼反対派と区別される1929年結成の
右翼反対派
。(右翼、左翼はトロツキーがつけたもの)
エルンスト・テールマン
、
フィリップ・デンゲル
、
ハインツ・ノイマン
らKPD指導部に対抗して
ハインリッヒ・ブランドラー
と
アウグスト・タルハイマー
によって率いられた。
1928年、
ポール・フローリッヒ
がKPD議員名簿から追放されて参加。1932年
ポール・フローリッヒ
はKPOから追放され仲間とSAPDに参加。
コミンテルン
の指示でKPD指導部の
エルンスト・テールマン
、
フィリップ・デンゲル
、
ハインツ・ノイマン
は1928年、極左転換を行い
SPDを主敵として闘争を集中させた。(
社会ファシズム論
)
前の指導者の
ハインリッヒ・ブランドラー
と
アウグスト・タルハイマー
はこれを拒否。彼らは従来の労働組合に対し
革命労働組合反対派
RGOを形成する路線も批判。彼らは3千から4千でKPD反対派結成。
拠点はザクセン、チューリンゲン、ノイハウス・アム・レンヴェーク(
オットー・エンゲルト
が市長)、オルスニッツ(
オットー・カール・バッハマン
が市長)、ヘッセン、ヴュルテンべルクなど。
KPOはスウェーデン、米国、フランス、スイスのグループと
共産主義者反対派国際連合
IVKO(1930−1939年、
国際共産主義反対派
ICO)に参加。
1931年秋、
ポール・フローリッヒ
、
ヤコブ・ヴァルヒャー
、
アウグスト・エンデルレ
、
ハインリッヒ・ガルム
、
アウグスト・ツィール
らの
KPO少数派がSAPDに参加。
1933年からKPOは非合法活動にはいり、多くの活動家は多くは社会民主主義者や共産主義者とともにナチス体制の終焉までレジスタンス活動
を行った。
ハインリッヒ・ブランドラー
、
アウグスト・タルハイマー
の指導部は亡命し、スペイン戦争でPOUMとともに戦ったものもいる。
1933年
ハインリッヒ・ブランドラー
と
アウグスト・タルハイマー
はシュトラスブールついでパリへのがれ亡命指導部形成。1941年2人は
キューバへ逃れる。
亡命中はデンマークの仲間や、当初は米国の
ジェイ・ラヴストン
らの支援を受けた。1938−1939年ソ連は改革できるかどうかの問題で
ジェイ・ラヴストン
と衝突。衝突により少数派の
エーリッヒ・ハウゼン
、
ハンス・ティテル
らの国際主義マルクス主義グループの分裂を招いた。
1940年以降KPOの独自の存在は困難になった。
その他著名な関係者は
エドワルト・フックス
、
ヴォルフガング・アーベントロート
、
リヒャルト・ロヴェンタール
、
ハンス・メイヤー
(文芸学者)、
アドルフ・エーラース
など。
*
右翼反対派
はソ連で1920年代
ニコライ・ブハーリン
、
アレクセイ・ルイコフ
とその支持者より構成されたグループに与えられた名称。
レーニンの死後、
ブハーリン
は
新経済政策
NEPを支持し、トロツキーから小農の影響をうけ資本主義復帰の危険がある右派とトロツキー(自称
左派)から批判された。米国では
ジェイ・ラヴストン
、
ベルトラム・ウォルフェ
ら、スウェーデンでは
社会党
の
カルル・キルボム
、スペインでは
農民・労働者ブロック
の
ホアキン・マウリン
。
1938年パリの革命的社会主義者会議で国際共産主義者反対派ICOは
ロンドン・ビュロー
(英国
独立労働党
率いる)と革命的社会主義者
統一国際ビュローを結成。第2次世界大戦でICO消滅。米国やスウェーデンでは反共主義や親ナチス化した。
○
調停者(フェアゾーンラー)グループ
調停者は1920年代中期KPDの
エルンスト・メイヤー
周辺の仲介者グループとして出現し、
エルンスト・テールマン
のグループと1926−1928年
にKPDを率いた。このグループの他の主要メンバーは
アルトゥール・エーヴェルト
、
フーゴ・エベルライン
、
ハインリッヒ・ズュスキン
ト、
ゲルハルト・アイスラー
と労働組合幹部の
ゲオルク・シューマン
。
アウグスト・タルハイマー
、
ハインリッヒ・ブランドラー
の右派同様にSPDとの統一戦線を支持し
総ドイツ労働組合同盟
ADGBで活動し、1928年、
極左路線(
社会ファシズム論
と
革命的労働組合反対派
RGO路線)に反対、しかしコミンテルンのソ連共産党支配は批判せず、党からの分裂は拒絶。
1928年秋の
ヴィットルフ事件
と1930年初期の
エルンスト・メイヤー
の死で影響力を失い
ハインリッヒ・スターマー
と
アルベルト・サンネック
らは追放され、
ハンブルクの
ハンス・ヴェスターマン
は独立調停者グループを形成し、ハノーヴァーのグループと
エドワルト・ヴァルト
が結成した
プロレタリア統一委員会
に参加、、
ハインリッヒ・スターマー
はSAPDに参加、
アルベルト・サンネック
はSPDに参加。
1933年
カール・フォルク
、ゲオルク・クラウス、
ハインツ・ブラン
トのベルリン反対派と独立調停者グループは反ファシスト抵抗運動に入る。
亡命し雑誌火花を発行したグループもいる。
フーゴ・エベルライン
と
ハインリッヒ・ズュスキント
はスターリンの粛清の犠牲となった。
○
ドイツ社会主義労働党
SAPD
1931年秋SPDの左派(
クルト・ロ−ゼンフェルト
、
マックス・サイデヴィッツ
、
アウグスト・ジーメンス
、
ハインリッヒ・ストローベル
、
ハンス・ジーグラー
、
アンドレアス・ポルトゥン
)が分裂結成。これにSPD左派の
アンナ・ジームゼン
、
ケート・フランケンタール
らと
青年同盟
社会主義労働青年
SAJが参加。同年USPDの残党が参加。
クルト・ロ−ゼンフェルト
と
マックス・サイデヴィッツ
が議長となる。
1932年
ポール・フローリッヒ
、
ヤコブ・ヴァルヒャー
、
アウグスト・エンデーレ
、
ロージ・ヴォルフシュタイン
、
ハインリッヒ・ガルム
、
アウグスト・ツィール
らの
共産党反対派
と、
調停者グループ
の共産党分裂者
ハインリッヒ・スターマー
参加。
更にUSPD残党の
テオドル・リープクネヒト
、社会主義者同盟の
ゲオルク・レーデブール
、
フリッツ・キュスター
(
ドイツ平和グループ
の平和主義者、1925年雑誌
別のドイツ
発行、1933年抜ける)の左翼社会主義政治活動グループ、
ベルンハルト・ライヘンバッハ
(1932年抜ける)の
赤い闘争者
(KAPDエッセン・グループ)、マルクス主義知識人
フリッツ・シュテルンベルク
が参加。
テオドル・リープクネヒト
は
アンナ・ジームゼン
、
赤い闘争者
の
ベルンハルト・ライヘンバッハ
と非レーニン主義グループに属し、
党内のレーニン主義グループに対抗した。
1932年選挙では0.2%となり突破口を見出せなかった。
SAPDはSPD、KPD、労働組合、他の労働運動の大衆組織とともに統一戦線を組み反ファシスト運動に入ったが成功しなかった。
1933年
ロ−ゼンフェルト
・
サイデヴィッツ
多数派はSPDとKPDのため党の解散をしようとし分裂が生じた。
左派はこれに反対し、
ポール・フローリッヒ
、
ヤコブ・ヴァルヒャー
、
フリッツ・シュテルンベルク
、
クラウス・ツヴァイリンク
の新しい
指導部を選出。
1933年からメンバーはナチスに対し非合法で活動。リューベックではのちの
ウィリー・ブラント
が参加。
1934年、SAPDは
革命的青年組織国際局創設
に参加。ブラントは書記局員としてスウェーデンで活動。
SAPDは
国際革命的マルクス主義センター
に加盟したが
英国独立労働党
と
統一戦線
(革命派)か
人民戦線
(ブルジョア含む)か
で分裂。
反ナチス運動参加者の割合は大衆党のSPD、KPDより多く、ドイツにとどまって収容所に送られたり
エルンスト・エックシュタイン
、
フランツ・ボブツァサイン
のように殺されたものもいる。
1937年
エルヴィン・アッカークネヒト
、
ヴァルター・ファビアン
、
ペーター・ブラッハシュタイン
らは党のKPDとモスクワ裁判に対する
無批判を非難し離党し”新しい道”グループを結成。
1939年亡命グループと地下グループの関係は絶たれ、亡命グループは分散化(
ヤコブ・ヴァルヒャー
と
ポール・フローリッヒ
の
グループに分裂)、スウェーデンと英国のグループはSPDに近づいた。
戦後多くは西ドイツではSPD、東ドイツではSED(
クラウス・ツヴァイリンク
、
ヤコブ・ヴァルヒャー
、
エディット・バウマン
)に参加。
ハインリッヒ・ガルム
、
アウグスト・ツィール
は地域左派政党結成、
フリッツ・ラム
は1950−1960年代に活躍。
○
レーニン同盟
と
左翼共産主義者
レーニン同盟
はエルンスト・テールマン指導部に共産党から追放された極左、左派の約6000のメンバーが1928年初め結成。
国会とプロシア議会では1926−1928年
左翼共産主義者
と名乗る。
左派の
ルート・フィッシャー
、
アルカディ・マズロー
、
ヴェルナー・ショレム
(1940年ブッヘンヴァルド収容所で死亡)、
ポール・シュレヒト
、
フーゴ・ウルバーンズ
、
グイド・ハイム
、
オットー・ヴェーバー
ら、極左派の
イヴァン・カッツ
、
カール・コルシュ
、
エルンスト・シュヴァルツ
、
ハイリンッヒ・シュラーゲヴェルト
(以上国際共産主義者グループ)ときには
カール・ティート
らが参加。プロイセンでは
アントン・グリレヴィッツ
が率いた。
左翼共産主義者
の一部は
レーニン同盟
結成に際し
評議会共産主義者グループ
となった。
トロツキー
と
ジノヴィエブ
の
統一反対派
と結ぶ。
1928年の選挙前に(ジノヴィエフと
カーメネフ
の降伏により)主要な分裂があり
フーゴ・ウルバーンズ
以外の著名な政治家が組織を離れた。
(
ルート・フィッシャー
、
アルカディ・マズロー
らは再びKPDへ)
その結果選挙は0.26%、80230票と失望的。
フリッツ・シマンスキー
はKPDに、
グイド・ハイム
はSPDに参加、メンバーは約1000になった。
ラインラントとベルリンでは
カール・コルシュ
のグループが参加。
1930年真性のトロツキスト、
アントン・グリレヴィッツ
がし
共産党左翼反対派
結成。
1933年の国会議事堂放火事件以降秘密活動にはいる。1939年の開戦でかれらの消息は不明となる。
フーゴ・ウルバーンズ
のグループはストックホルム亡命。
ウルバーンズ
は1946年ストックホルムで死亡。
マスロフとフィッシャーは1933年パリに逃れ、マスロフは1934−1936年までトロツキーと協力するがやがて衝突し、フィッシャーと
マルクス・レーニン主義国際グループを結成。(−1939年)フランス陥落で1940年キューバに逃れるが1941年死亡。(NKVDによる暗殺?)
フィッシャーは1941年米国へ。
○
共産党左翼反対派
KPDの左翼反対派(ボルシェヴィキ・レーニン主義)としての国際左翼反対派LO支部は1920年代終わりから1933年末まで
組織され、1933年
ドイツ国際共産主義者
IKDとなった。
組織は公式には1930年3月、
アントン・グリレヴィッツ
の
レーニン同盟
少数派と
クルト・ランダウ
の
ウェディング
反対派残存メンバーの統合
によって結成された。
ファシストと闘うための社会民主主義者との統一戦線形成のためSPDの改革を目指した。
この点で新党結成のウルバーンズらのレーニン同盟と異なった。
左翼反対派はまず新聞”共産主義者”を発行、ついでクルト・ランダウのグループ(
グループ火花
)の分裂後、週刊
”永続革命”を1931年6月発行。発行は約5000部。左翼反対派の拠点はブルッフザル、オラニーンブルク、ディンスラーケンなど。
著名な人物は
エルヴィン・ハインツ・アッカークネヒト
(1930年
国際左翼反対派
ILO国際書記となる)、
ゲオルク・ユンククラス
、
オスカル・ヒッペ
、
アントン・グリレヴィッツ
、
ヴァルター・ヘルト
、ヘルムート・シュネーヴァイス、
オスカル・ザイポルト
、
マリア・バッケネカー
、
オットー・キリアン
、
カール・ヤーンケ
、ローマン・ヴェル(後GPU手先)。
1932−1933年に600−1000人が約50のグループで活動。
アントン・グリレヴィッツ
はプラハへ逃れ、1937年亡命指導部を形成できず、政治から退き、最終的に1941年キューバへ。
エルヴィン・アッカークネヒト
(オイゲン・バウアー)は1928年KPD内でローマン・ヴェル、
オットー・シュスラー
(1932年トロツキー
個人秘書
となり1940年暗殺まで一緒)らとボルシェヴィキ統一グループを結成。1929年レーニン同盟参加。
1930年KPD統一左翼反対派(後KPD左翼反対派)を結成、1932−1933年ベルリンでトロツキーの息子
レフ・セドフ
の助手を務め、
国内指導部と国際左翼反対派の国際書記となる。
ナチス政権掌握でドイツ国際共産主義者IKD国外委員会を指導、我々の声編集。
ヤコブ・ヴァルヒャ
のSAPDと接触、結局提携失敗。
トロツキーのルート・フィッシャー、アルカディ・マスロフのIKDとの統合提案にエルヴィン・アッカークネヒトは反対。
1934年フランスの転換(フランス共産主義者同盟のSFIO加入)でアッカークネヒトはIKDを離れ、1935年SAPDに参加し
ヴァルター・ファビアン
、
ペテル・ブラッハシュタイン
と左翼反対派を結成。
1937年SAPDから離れ”新しい道”グループを結成し
ロンドン・ビュロー
に参加。1941年米国に移住。
グループ・フンケ(火花)
は1931−1937年までドイツと亡命で存在。ランダウのグループはパリ、ついでスペイン戦争とともに
バルセロナに移り、POUMと活動。ランダウは1937年9月失踪、ソ連により拉致されたと思われる。
国際左翼反対派は1938年第4インターナショナルとなる。
○
ドイツ国際共産主義者
IKD(1933年)
トロツキスト
(
1930
)
1930−1945
LO
ドイツ・トロツキズム運動はヒットラー政権掌握までは小運動でしかなかった。1932年には約700メンバーとされる。
新聞”永続革命”が5000部程度発行されていた。ランダウ、ローマン・ヴェル、エルヴィン・アッカークネヒト、グリレヴィッツの文が載り
トロツキズムを示唆していた。永続革命は1933年2月ドイツでの発行を終えた。
1933年3月パリで亡命新聞”我々の言葉”を発行。責任者はハインツ・エッペ(
ヴァルター・ヘルド
)。
1933年ドイツでの最後の全国的協議会で
エルヴィン・アッカークネヒト
(オイゲン・バウアー)、
オスカル・フィッシャー
(
オットー・シュッスラー
、
ユリアン・サウレス
、トロツキーのドイツ人秘書を勤め、最後はメキシコ同行)、
エルヴィン・ヴォルフ
、
ヨゼフ・ヴェーバー
、
ヤン・フランケル
、
ルドルフ・クレメント
ら8人の亡命委員会を選出。
1936年まで600−1000のメンバーが左翼反対派ないしIKDに所属したがゲシュタポにより粉砕され、ベルリン−シャルロッテンブルク、
ドレスデン、ライプツィッヒ、ルール、ハンブルクなどでグループが再組織化され、SAPDやレーニン同盟と協力。
ブッヘンヴァルト収容所のIKDグループにはオーストリア、ポーランドからのメンバーや
ヴェルナー・ショレム
らが含まれていた。
ほぼすべての国内指導者(
ハンス・ベルガー
、
ハインツ・ライデンドルフ
)を含む多くのIKDメンバーがナチスにより殺された。
KPDの崩壊で
マリア・レーゼ
、
エリヒ・ヴォレンベルク
、
カール・グロール
らがIKDを支持。
IKDは亡命し1933年プラハ、1941年ニューヨークで新聞”我々の言葉”を発行。
1933年のSAPDとの提携は失敗。
1934年、レーニン同盟を去った
ルート・フィッシャー
、
アルカディ・マズロー
の国際主義者グループが参加。
1934年のフランスの転換でエルヴィン・アッカークネヒトの多数派は分裂しSAPDに参加。
1937年ルート・フィッシャー、アルカディ・マスロフ支持者の
ヴァルター・ネッテルベック
が分裂。
ヨゼフ・ヴェーバーの後退理論(労働者と革命と反ファシズムへの悲観論、
民主制の内実運動
へ展開)の影響で1937年の亡命会議は分裂。
ヨゼフ・ヴェーバーと
オスカル・フィッシャー
は1938年秘密会議で第4インター結成に賛成。
ナチスの拡大で亡命グループはプラハからフランス、イギリスに亡命。
我々の言葉編集部は1938年ニューヨークへ、コペンハーゲンのゲオルク・ユングクラスはナチスのデンマーク占領で秘密活動へ。
ゲオルク・ユングクラス
はデンマークの第4インター・グループを支援。
ヴァルター・ヘルド
(
ハインツ・エッペ
)はノルウェーでトロツキストを組織化。
他のグループはスウェーデンへ。オランダ、ベルギー、フランス亡命グループはナチスの直接的脅威に陥る。一部はロンドンへ逃げ
ロンドンIKDに参加。パリIKDの多くが逮捕され収容所送りとなる。
ヴェンツェル・コツレツキーはナチス下で抵抗運動を行い、後にメキシコに渡りトロツキー秘書となる。
1941年ヨゼフ・ヴェーバーの影響で亡命IKDは路線転換。
ヨゼフ・ヴェーバーの亡命IKDはニューヨークでトロツキズムから離れ1947年に雑誌”
時勢の事
”ディンゲ・デア・ツァイトを発行。
アントワープには1935年からIKDに批判的な
ヨゼフ・ヴェーバー
に近い亡命ドイツ人トロツキスト・グループの有力なグループ(
フランツ・メイヤー
)
が存在し唯一の道を発行Der Einzige Weg。
戦後ドイツのグループは
ゲオルゲ・ユンククラス
や国内生き残りの
オスカル・ヒッペ
らが再建。
ソ連占領地区では弾圧され、
オスカル・ヒッペ
は1948年逮捕・投獄された。
1951年、IKDは以前のKPDのメンバーとドイツ独立労働党を結成、これはユーゴスラヴィアの支援を受けたがすぐ消滅。
IKDは1953年の第4インターの多数派の決定に従い、その国の社会民主主義および共産主義大衆政党で左派、革命グループ
形成のために加入活動を行う。
主な人物はSPDの
ペータ・フォン・オルツェン
、社会科学者の
テオ・ピルカー
、SPDの
エーリッヒ・ゲルラッハ
(
コルシュ
支持者)、
学者の
ヴォルフガング・アーベントロート
、
ヤコブ・モネタ
は
IGメタル
の雑誌メタルの編集長となった。
グループはアルジェリアやモロッコの植民地解放闘争で重要な役割を果たす。
ゲオルゲ・ユンククラス
は雑誌自由アルジェリアの
編集者となる。
1968年のヴェトナムのテト攻勢、パリ5月、プラハの春、学生運動展開、SDS急進化、青年の総体的急進化でドイツ・トロツキストは
公然組織として再形成され
国際マルクス主義・グループ
(第4インタードイツ支部)となる。
○
評議会共産主義者
1918年の
11月革命
から評議会(レーテ)民主主義の思想が展開された。
1919年末
ポール・レヴィ
により
KAPD
と総ドイツ労働者連合AAUDが結成され創設時にはKPDよりメンバーが多かった。
1921年KAPDからAAUDが分離され
総労働者連合統一組織
AAUEが存続し続けた。
ワイマール共和国末期のファシズム抵抗組織は
赤い戦闘者
、
共産主義評議会連合
、
ドイツ共産主義労働者連合
KAUDである。
KAUDは1931年、総労働者連合AAUの一部と、AAUEとKAPDが結成。創設には
ヤン・アペル
がかかわり、オランダの国際共産主義者グループ
GICと関係をもった。
世界産業労働者
IWWドイツ支部とも連携した。1933年以降メンバーは
赤い戦闘者
や
共産主義評議会連合
で活動。
共産主義評議会連合
はブラウンスヴァイクを拠点とし、1934年まで活動、20人ほどがナチスに逮捕された。
アウグスト・メルゲス
(1945年ナチスの悪待遇が原因で死亡)、
ミンナ・ファスハウアー
などが参加。
評議会共産主義思想はオランダ、英国、ブルガリア、デンマークの社会革命運動に影響した。
重要な理論家は
アントン・パンネクーク
(オランダ)、
ポール・マティック
、
カール・コルシュ
、
オットー・ルーレ
、
ヘルマン・ホルテル
(オランダ)、
ヴィリー・フーン
、
カホ・ブレンデル
(オランダ)、
シルヴィア・パンクハースト
(英国)など。
○
赤い戦闘者
赤い戦闘者はSPDに加入した旧KAPDの
アルトゥール・ゴールドシュタイン
、
ベルンハルト・ライヘンバッハ
、
アレクサンデル・シュヴァブ
、
カール・シュレーダー
らのサンディカリズム評議会共産主義組織とヒットラー・ファシズム抵抗グループ。
1931−1932年に約400人のメンバーで結成。
フランツ・ユンク
(作家)、
ハロ・シュルツェ・ボイゼン
、
ハインツ・クーン
らも含む。
1936−1937年に組織崩壊、150人が逮捕され多くは強制収用所行き。
ゴールドシュタイン
はナチス親衛隊により亡命地フランスで殺され、
シュヴァブ
は収容所で死亡。
○
統一登山部門
(赤い登山者)
ザクセンの自然愛好者の旅行組織として創設。労働運動活動家から発生したドイツのナチス抵抗組織。
多くはKPDメンバー(エーリッヒ・グラーザー、
クルト・シュロサー
)だがヴェンツェル・コツレツキー(後にメキシコでトロツキー秘書)は
トロツキストのIKD。
登山の知識を生かし、チェコからドイツの連絡などに従事。
○プロレタリア統一委員会
ハノーヴァーを中心とする100人以上の共産主義反ナチス抵抗グループ。KPD内の
調停者グループ
やSPD、KPD−O、SAPDなどから参加。
組織は1930年頃ハノーヴァーの
エドワルト・ヴァルト
周辺のKPDグループから発展、ハンブルクの
ハンス・ヴェスターマン
の
調停者グループ
、
ハノーヴァーの
オットー・ブレンナー
のSAPDグループと接触。1935−1936年に消滅。
ヴァルト
は1936年ゲシュタポにより逮捕され収容所送り。
ブレンナーは1933年に逮捕、
ヴェスターマン
は1935年に逮捕、収容所で殺される。
(
国際社会主義闘争同盟
ISK)
ゲッティンゲンの新カント派哲学者
レオナルト・ネルソン
と助手
ミンナ・シュペヒト
がアルベルト・アインシュタインらの支援で国際社会主義青年同盟ISJ
を結成、ISJメンバーのほかに、1922年KPD、1925年SPDからのメンバーを加え1926年ISKを結成し、雑誌”公衆生活”を発行。
ナチスの拡大に対し
ヴィリー・アイヒラー
(後に
ゴーデスベルク綱領
に関係)が指導し新聞”火花”を発行。
1932年7月の国会選挙
に
緊急アピール
を
ハインリッヒ・マン
、
エルンスト・トラー
、
アルノルト・ツヴァイク
、
エーリッヒ・ケストナー
、
クルト・ヒラー
、
アルトゥール・クロンフェルト
、
ヤンケル・アドラー
、
ケーテ・コルヴィッツ
らの支持で発表。
1933年ナチスにより禁止され、抵抗活動に入る。1938年まで活動を続け多くの逮捕・犠牲者を出す。
亡命で英国の社会主義者前衛グループ、フランスの国際社会主義者戦闘者と連携。
(
ドイツ自由労働者連合
FAUD)
1878−1890年の社会主義者法時代は社会民主主義者とアナーキストは統一行動をとっていたが、(地域レベルの活動しかできなかった)
社会主義者法の終わりとSPDの再結成、特に1981年のエルフルト綱領により地域主義者
ロカリスト
のグループは1897年
ドイツ労働組合自由連合
FVdGを結成。同時ににSPDから青年グループが分裂。かれらは
ロカリスト
同様1878−1890年はSPDで活動していた。
1891年独立社会主義者連合VUSを結成。これには反議会主義社会民主主義者とアナーキストグループがいた。
1893年VUSが分裂、アナーキスト・グループは
サンディカリズム
から
クロポトキン
の共産主義アナーキズムに移行。
2つのグループは徐々に接近しアナルコサンディカリズムのドイツ変種に発展、1919年FAUDの会議と自由労働組合の一部が
ルドルフ・ロッカー
の
サンディカリズムの原理宣言を基本綱領としてドイツ自由労働組合・アナルコサンディカリズムFAUD/ASを名乗った。
FAUDは1919−1923年に最盛期となった。FAUDはルール地域を拠点とし、カップ一揆のときに赤いルール軍と共に闘った。
FAUDは何回かの分裂を経て、最盛期の15万から1920年代中期1万、1932年には4千300にまでメンバーが低下。
1933年のナチス権力掌握でFAUDは消滅、非合法活動を組織。
1937年までにアナルコサンディカリズムのナチス抵抗青年グループの
黒い大衆
が存在。
スペイン戦争ではCNTと一緒に闘ったものもいる。
〔ドイツ共産党DKP〕
Deutsche Kommunistische Partei
西ドイツの
ドイツ共産党
Kommunistische Partei Deutschlands KPDは1949年の連邦議会選挙で5.7%、15議席を獲得した。
冷戦の開始と東ドイツが共産主義国家となって、1953年の選挙では2.2%となり議席を失った。
1956年8月、KPDは禁止された。
1968年、
ドイツ共産党
DKPDeutsche Kommunistische Parteiとして再建された。
同年設立の党に近い
マルクス主義学習研究所
の助言グループには
ヴォルフガング・アーベントロート
やマールブルク学派などが参加。
結成時は9千人、1978年には4万2千人、1981年には4万9千人のメンバーがいた。
1972年から1983年まで国会選挙の参加したが最高0.3%しか獲得できず。
1980年以降反軍拡の平和運動に注力を注いだ。
1980年代中期には
平和名簿
に参加した。
1985年からのソ連のゴルバチョフ政権はDKPに議論を起こし、また平和運動への注力は労働者党としての
不鮮明さをもたらし批判を生じた。
1986年党大会で反対意見が生じSPDやPDSへの移行者が生じた。
1987年選挙には参加できなかった。
1986年の党員5万7千から1989年以降は4万2千になった。
1989年以降は千人以下となった。
ドイツ統合で多くのDKPメンバーは
PDS
に参加した。
2005年の選挙でDKPは
左翼党
を支持した。
〔ドイツ共産党KPD(1990−)〕
Kommunistische Partei Deutschlands
1990年、ベルリンで
ドイツ共産党
KPD(1990−)が結成された。
2005年の選挙に対し、この党は
ドイツ共産党
DKPと左翼党との選挙連合を主張した。
このあと分裂がおこり、ドイツ共産党(ボルシェヴィキ)が結成された。
(ドイツ共産党マルクス・レーニン主義KPD/ML)
Kommunistische Partei Deutschlands/Marxisten-Leninisten
1968年、禁止された西ドイツKPDの真の後継として
ドイツ共産党マルクス・レーニン主義
KPD/MLが結成された。
これは反修正主義の親中国派である。中国・アルバニア対立でアルバニアについた。
1983年アルバニアとの関係冷却。
1986年、トロツキストのGIMと
統一社会党
VSPを結成。
〔ドイツ・マルクス・レーニン主義党MLPD〕
Marxistisch-Leninistische Partei Deutschlands
1982年、
ドイツ共産主義者同盟
KABD(1972−1982、1931年設立の
評議会共産主義者
組織
ドイツ共産主義労働組合
KAUDを中心とする)のメンバーにより設立された。
MLPDは長い間ドイツの極左の最大のグループであった。
MLDPは1960年代の学生運動の毛派に起源を発する。
マルクス・レーニン主義諸党諸組織国際会議
に属する。
1998年の連邦選挙では0.01%であったが、2005年は0.1%獲得した。
→
K−グループ
(
平和名簿
)
1984年、左翼政党と個人の選挙同盟として設立。
DKPとこれに近いドイツ平和連合
DFU
が支配。DSなども参加。
1984年EU選挙で1.3%獲得。1987年連邦選挙では第1回0.5%、2回はSPDと緑支持。
(
ドイツ平和連合
DFU)
1956年のKDP禁止後、SPDで共産主義者と社会主義者の統一が試みられた。
1960年には
ドイツ同盟
、統一独立社会主義者、
ドイツクラブ1954
、フランケン・サークル
といくつかのKPDの代わりに活動していたグループが参加した。
共産主義者の強く支配されていたがキリスト教平和主義者も参加した。
軍拡に反対し、中立政策と軍縮をもとめ陣営対決の緩和を要求した。
参加者は1961年の約1万2千から1980年代には約千まで低下。
1961年連邦選挙で1.9%、1965年は1.3%。
1969年は
民主進歩行動
に属したが失敗だった。
1985年は平和名簿に参加。1989年以降は連合に参加していない。
(
民主進歩行動
)
1968年に結成。共産主義者の影響が強い。
ドイツ同盟、統一・平和・自由のための党
BdD、DFU、SDAJ、フランケン・サークル、
VVN
(反ファシスト同盟)、
西ドイツ婦人平和運動
、統一独立社会主義者が参加。
1969年の選挙では0.6%獲得。選挙の失敗で活動停止。
(
統一左翼
VL)
東ドイツ末期の社会主義者党。種々の潮流(キリスト教社会主義、トロツキズム、独立派、ユーゴ自主管理支持派)の左翼
反対派よりなる。1989年10月のベルリンの壁崩壊の数週間前に結成。指導的メンバーには
ゲーゲン・シュティメン(反対投票)
グループ
から来た人もいる。1989年末にはベルルンとハレを主に1500人のメンバーという。
1990年の選挙では
ネルケン
(カーネーション、1990年東ベルリンで設立されたマルクス主義党)と
統一左翼行動同盟
AVL
を形成し0.18%獲得。
1990年以降はメンバーはPDSや
90年連合・緑
などに参加。
〔
国際マルクス主義グループ
GIM〕
ドイツ国際共産主義者
IKD(KDPの左翼反対派:トロツキスト)は1950年代
独立労働党
UAPDに加入した。
独立労働党
は1950年、ドイツ共産党からチトーの支持者が分裂してできた。これは1952年禁止されトロツキストは
社会民主党に加入した。
1969年第4インター支部の公然継続として
国際マルクス主義グループ
GIMが結成された。
第4インター支部は
ドイツ国際共産主義者
IKDの社会民主党への加入戦術によりそれまで独立組織としては存在してなかった。
GIMは1970年学生運動と青年急進化により
社会主義ドイツ学生同盟
SDSの分派(革命的共産主義者青年RKJ)として生き延びた。
RKJは1972年に約400のメンバーとなった。
著名なメンバーは
ヴィリー・ヴォッペ
、彼はSEDに参加し後これを批判し
独立労働党
に参加。
ゲオルク・ユンクラス(1902−1975年)はKPD左翼反対派の生き残り。
GIMは1970年代初期
議会外反対
(
ルディ・ドゥチュケ
ら)運動に巻き込まれた。
GIMは1986年、
ドイツ共産党マルクス・レーニン主義
KPD/MLと
統一社会党
VSPを結成した。
これに参加しない少数派は緑に参加。
ドイツ統合によるPDSの出現でVSPの多くのメンバーはPDSに加入した。
1993年、VSPは連帯展望連合VsPと名を変えた。
VsPのトロツキストの一部は1994年分裂し
革命的社会主義者同盟
RSBを結成した。
RSBはVsPと反対に左翼党に批判的で
国際社会主義左翼
とともに
統一書記局派
である。
VsPにとどまったトロツキストは
国際社会主義左翼
ISLを結成した。2005年選挙でVsPは左翼党を支持した。
主なメンバー経験者は
ヴィンフリート・ヴォルフ
(民主社会党PDS)、
アンドレア・フィッシャー
(緑)、ハラルド・ヴォルフ(PDS)など。
(
左翼移行
)
国際社会主義傾向
所属のトロツキスト。起源は
社会主義労働者グループ
SAGにあり、これは1970年代、
英国の国際社会主義者ISの支援によりフォルクハルト・モスラーらが結成。
国際社会主義者傾向
参加。
1991年アンティファ運動を始める。このころメンバーは200前後。
1993年一部がJusosに加入し始め雑誌左翼移行発行。これはトニー・クリフの承認を得ていたが、SAG幹部の容認を得ていなかった
ので内部に反対が起こり1994年亡命トルコ人グループらとノルベルト・ネルテが国際主義社会主義組織ISO結成。
1990年代、左翼移行は成長したが2002年分裂が起こる。
2007年には解散しディー・リンケ内部の
マルクス21
グループ結成。
クリスティーヌ・ブホルツ
はリンケ全国委員会メンバー。
〔
社会主義選択
SAV〕
1996年設立。2005年でメンバー400人。
労働者インター委員会
派トロツキスト。
SAVは1973年の雑誌前進Voranに起源する。前進グループはJUSOS加入。1980年代初期50から250のメンバーに成長。
ドイツ再武装やNATO活動や原発反対運動を行う。緑党には中間階級運動として両義的態度を示す。1990年ドイツ再統合でアンティファ運動
に入る。1994年前進グループはSPDから分裂し社会主義選択となる。2005年のWASG分裂でこれに参加。
ルーシー・レドラー
は2006年ベルリン州選挙でWASG名簿に入る(PDSと競合)。2007年リンケ結成で多くのSAVメンバーもリンケ参加。
ルーシー・レドラー
のリンケ参加は2006年選挙問題で紛争となっている。
〔90年連合・緑〕
Bundnis 90/Die Grunen
1970年代末
新社会運動
(労働運動のように経済中心でない、環境、女性、ゲイ、平和運動など)、市民イニシアチヴ(発議)、保守なども参加
する広い政治的色合いから発生。
種々のエコロジー運動の新党の緑名簿は地方や州選挙では5%を超えることができなかった。
1979年EU選挙に
ペトラ・ケリー
(SPD離党)と
ヘルベルト・グルール
(CDU離党)が参加3.2%獲得。
1980年連邦党緑結成。
1982年
ヘルベルト・グルール
の右派が
エコロジー民主党
結成。
1983年選挙で5.6%、27議席獲得。この時期中距離弾道ミサイル・パーシング2のドイツの米国とNATO基地配備が争点となる。
翌年原理主義(
フンディ
、
深い緑
と
エコ社会主義
)と現実主義(
レアロ
)とで論争が起こる。
レアロは
ヨシュカ・フィッシャー
、
ダニエル・コーン・ベンディト
らかつての
スポンティ
。
フンディは
ユッタ・ディットフルト
、
エコ社会主義
の
トーマス・エーベルマ
ン、
ライナー・トランペルト
。
ユッタ・ディットフルト
らは1991年
エコロジー左翼
結成。
1985年エッセンでは最初の赤・緑連立が形成され、
ヨシュカ・フィッシャー
が環境大臣。
1987年選挙では8.3%、42議席となる。この時期
ヨシュカ・フィッシャー
が事実上の指導者となる。
1990年選挙はドイツ再統一での選挙で緑は5%条項を突破できなかった。西では3.8%で東では
90連合
を結成1.2%獲得、これが
一緒であれば5%となっていた。90連合は東ドイツの
新フォーラム(集会)
、
民主主義イェッツト
(今)、
自由・人権イニチアティフェ
が結成。
1994年には全国で7.3%、49議席獲得。
1998年には6.7%、47議席でシュレーダーのSPDと連立、
ヨシュカ・フィッシャー
が副首相・外相で入閣、(シュレーダーはJUSOSの旧極左で
旧極左転向者連合を意味する)。ドイツのNATOのコソヴォ参加で危機が訪れる。
2001年米国のアフガニスタン侵攻支援派兵で緑議員の一部が政府支持を拒否。
党の危機にもかかわらず2002年選挙では8.6%、55議席と上昇。
2004年EU選挙では11.94%獲得。
2005年選挙では8.1%%、51議席となるがSPDの敗北で赤緑連立は終焉、SPDとCDU/CSUの大連合が成立。
2008年4月ハンブルクの緑はCDUとの連立に入った。(
黒緑連立
)
〔ドイツ社会民主党SPD〕
Sozialdemokratische Partei Deutschlands
・黎明
1863年、
フェルナンド・ラッサール
により
ドイツ労働総同盟
ADAVがライプニッツで結成される。
1871―1975年まで
ヴィルヘルム・ハーゼンクレヴァー
が指導。
1869年、
アウグスト・ベーベル
と
ヴィルヘルム・リープクネヒト
によりアイゼナッハで社会民主労働党SDAPが結成される。
アイゼナッハ綱領
を採用。
・ビスマルク時代
1875年、ゴータの会議でSDAPとADAVが合流、ドイツ社会労働党となる。
ゴータ綱領
を採用、
マルクスの批判
を受ける。
親革命的、反君主的なため
オットー・フォン・ビスマルク
の反社会主義者法により1878年非合法化される。
しかし1890年には再び合法化される。同年ドイツ社会民主党と名を変える。
党が非合法化されたため社会民主主義者は名簿のない候補として選挙で選ばれ、議会で成長し、1912年最大の党となる。
1871年、3.2%、2議席、1874年、6.8%、9議席、1877―1887年は6―10%で10議席前後(1984年、9.7%、24議席)、
1890年には19.8%、35議席で徐々に上昇、1912年には34.8%、110議席となった。
・改良主義と急進主義
1890年反社会主義者法をめぐって急進反対派
青年
(ディー・ユンゲン)が展開してきた。1891年には彼らは追放され独立社会主義者連合
が結成された。これには
ルドルフ・ロッカー
らが参加。
弾圧の反発として1891年の
エルフルト綱領
(
カール・カウツキー
と
エドワルト・ベルンシュタイン
作成)はより急進的となり、改良主義
を拒否しマルクス主義に傾斜、ドイツ主要産業の社会化を要求する。
19世紀は他のヨーロッパの社会主義政党同様、労働組合と密接で、革命的マルクス主義に傾斜。
ビスマルク
との対決で党は鍛えられ発展、有能な党となる。
19世紀末から20世紀初めに
エドワルト・ベルンシュタイン
は改良主義になり、革命的傾向の党内多数派と対立。
1913年の
アウグスト・ベーベル
の死後、党は改良主義派の
フレードリッヒ・エーベルト
と革命派の
フーゴ・ハーゼ
が指導を共有
した。
ベルンシュタイン
の改良主義と、党既成集団のツァーリ・ロシアへの反発と帝国皇帝への忠誠の向上により
ベーベル
の後継者
の
フレードリッヒ・エーベルト
下の党はドイツの第1次世界大戦での戦争国債承認を支持する。
カール・リープクネヒト
だけが反対、
オットー・ルーレ
がそれに続いた。
興味深いことに戦争の間
エドワルト・ベルンシュタイン
と
カール・カウツキー
は党を離れ、どちらも共産党には参加せず、戦後、
1920年代初期に党に戻った。
1915年以降党内の議論は議会での第1次世界大戦支持を正当化しようとする
ハインリッヒ・クノー
、
ポール・レンシュ
、
コンラット・ヘニッシュ
らによって主導され、このグループは
パルヴス
に接近した。
クルト・シューマッハー
、
ヨハン・プレンゲ
らの学者たちにより党内に
シューマッハー
の秘書
アンネマリー・レンガー
によって右派
ゼーハイマー・サークル
が結成された。
ローザ・ルクセンブルク
、
カール・リープクネヒト
ら左翼反対派は11914年国際グループを結成、1916年
スパルタクス同盟
となった。
これらの戦争反対派は1917年追放され
独立社会民主党
をUSPD結成した。これには
カウツキー
と
ベルンシュタイン
、
ヒルファーディング
も参加したが、
カウツキー
と
ベルンシュタイン
は1919年USPDを離れ、SPDに戻った。
ヒルファーディング
は1992年のUSPDと共産党の統合に反対、SPDとの統合を主張しSPDに加わった。
・ワイマール共和国
敗戦を目の前に
マックス
内閣が結成され、SPDの
シャイデマン
が参加。
しかし
1918年11月キール軍港
から反乱が始まり、
労兵協議会(レーテ)
が結成され、やがて
ミュンヘンで革命
(1918年11月7日
USPDの
クルト・アイスナー
がバイエルン自由国家宣言)が起こった。
ベルリンの
マックス
は皇帝退位宣言を行い、
フリードリッヒ・エーベルト
に権力を渡した。
独立社会民主党
の
エミール・バルト
、
リヒャルト・ミラー
の革命的指導者と
スパルタクス同盟
は共和国評議会結成をめざしたため
シャイデマンは共和国宣言を行った。
その後
人民委員協議会
がSPDの
エーベルト
、
フィリップ・シャイデマン
、
オットー・ランズベルク
とUSPDの
フーゴ・ハーゼ
、
ヴィルヘルム・ディットマン
、
エミール・バルト
で結成されやがてUSPDが追放され1919年2月SPD(
多数派SPD
)の評議会は
ワイマール国民議会で選出された
シャイデマン
政府に権力を渡した。
12月の労兵協議会全国大会はSPDが多数派を占め国民議会選挙とその後の権力譲渡を決定。
12月共産党を結成。
1918年革命
でエーベルトは共産主義者に反対する帝国軍指揮官に味方し、新政府の首脳となった。
社会民主党と共産党は厳しい対抗相手となった。
1919年1月ベルリンで
リープクネヒ
と
レーデラー
は
革命政府樹立
を宣言、(1月蜂起、スパルタクス蜂起)これらの動きは
グスタフ・ノスケ
が
義勇軍
を使用し鎮圧。
1919年1月の選挙結果はSPD37.9%、165議席、中央党(カトリック)19.7%、91議席、
民主党
18.6%、75議席、
民族人民党
10.3%、44議席、USPD7.6%、22議席、
人民党
4.4%、19議席となった。
共産党は新政府制度に強く反対し、SPDは
ワイマール連合
(SPD、
民主党
、
中央党
)に参加した。
4月
バイエルン(ミュンヘン)評議会共和国
が成立、ミュンヘンでは1918年11月7日USPDの
クルト・アイスナー
が2月政権を
握ったが4月左派が
評議会共和国
を宣言やがて共産党が権力奪取したが5月崩壊させられた。
党は1919年の初期防衛大臣
グスタフ・ノスケ
が
義勇軍
により共産主義者と左派スパルタクスの反乱を弾圧するのを支援した。
1920年3月
ヴォルフガング・カップ
、
ヴァルター・フォン・ルートヴィッツ
ら右翼と軍の一部により
カップ一揆
が発生、軍首脳部
ゼークト
は鎮圧を拒否したが
カール・レギーン
指導下の労働者はストライキにより粉砕。
1920年7月の選挙結果はSPD21.7%、113議席、USPD18.8%、81議席、DKP2.1%、2議席(
民族人民党
14.4%、66議席、
人民党
13.9%、62議席
中央党
13.6%、67議席、民主党8.5%、45議席など)でSPDがー50議席でUSPDが+59議席となった。
共産党の脅威がSPDを困難な状況にした。急進的立場をとるか穏健なままでいるかの選択を迫られた。
1921年
ゲルリッツァー綱領
採用、実質的にベルンシュタインが作成。
1925年
ハイデルベルク綱領
採用、カウツキーにルドルフ・ヒルファーディングが協力して作成。ヨーロッパ合衆国を要求。
同年KPD離党組も含めSPD離党者が
国際社会主義闘争同盟
ISK結成。
ワイマール共和国の初期、1919−1925年のSPDは
エーベルト
の大統領もと1920年までは
エーベルト
、
フィリップ・シャイデマン
、
グスタフ・バウアー
、
ヘルマン・ミュラー
が政権を維持した。
1920年以降首相はカトリック
中央党
が主に握り、1928―1930年
ヘルマン・ミュラー
が
民主党
、
中央党
等との5党
大連立
内閣形成。
1930−1932年までは中央党の
ハインリッヒ・ブリューニング
政権が成立。議会SPDはこれに寛容政策で臨み党内に批判が生じ、
1931年
ドイツ社会主義労働党
が分裂する。
1919年2月37.9%、以降20%台で1924年12月26%、1928年5月29.8%、1933年3月までに18.3%にまで低下。
・抵抗と亡命
1923年の右の
ヒットラー・ルンデンドルフ一揆
と左の
ハンブルグ蜂起
に対抗するためSPD、中央党、民主党、労働組合は1924年、
共和国防衛のため準軍事組織
国旗黒赤金
を結成した。90%以上はSPDメンバーであった。
メンバーは基礎部隊(Stafo)と選抜防衛部隊(Schufo)よりなりSchufoは1931年冬には25万であったが1933年2月には47人まで落ちた。
1931年、
国旗黒赤金
、
総ドイツ労働組合同盟
ADGB、
総自由従業員同盟
AfA同盟、
労働者体育運動同盟
とSPDはナチス対抗組織
鋼鉄戦線
を結成。
共和国末期には
総ドイツ労働組合同盟
ADGB、
総自由従業員同盟
AfA同盟、
総ドイツ公務員同盟
ADBなどの労働組合も準軍事組織
金槌の柄(ハンマー・シャフテン
)を結成し一緒に行動した。
1933年受任権法通過のあと人身保護令が放棄されこれらは組織は禁止されメンバーの多くは以降強制収用所に送られた。
1931年、
ハンス・フォーゲル
、
アルトゥール・クリスピーン
、
オットー・ヴェルス
が指導者となる。
1932年、SPDが主導する
オットー・ブラウン
のプロシア政府が大統領令により新首相
フランツ・フォン・パーペン
(中央党)によって
放逐された。この展開はワイマール共和国の究極的崩壊の重要な要因となった。
1933年の
ヒンデンブルク
の
ヒットラー
の首相指名、SPDは最後の自由選挙で18.25%、120議席を得た。
これは受任法阻止に必要な議席に十分でなかった。共産党はすでに非合法化され議会代表は逮捕、死亡、追放されていた。
1933年7月14日党は受任権法通過のあとナチスにより禁止された。
メンバーの多くは投獄されナチス収容所に送られた。
亡命組織
Sopadeは最初プラハに設立され、チェコスロヴァキア併合後1938年パリ、
フランス敗北後1940年ロンドンに移った。
SPDの少数が一部は非合法活動を指導する党あるいは
国旗黒赤金
により、一部は党執行部に批判的な
新開始(ノイ・ベギネン)
、
ドイツ革命的社会主義者
RSD、
社会主義者戦線
、
赤い突撃隊
などによりナチスへの抵抗運動を行った。
国旗黒赤金
の
テオドル・ハウバッハ
、
ユリアス・レーバー
らは
1944年のヒットラー暗殺
に関わって処刑された。この事件では他に
アドルフ・ライヒマン
、
ヴィルヘルム・ロイヒナー
らが処刑された。
社会主義者戦線
の
ヴィルヘルム・ブルーム
は強制収容所で死亡、
新開始
では
ヴェボ・ヴァーグナー
、
ヘルマン・フリーベ
らが処刑された。
オットー・ヴェルス
、
フリードリッヒ・スタンプファー
、
エーリッヒ・オレンハウアー
、
ポール・ヘルツ
、
ハンス・フォーゲル
が亡命指導部を形成。
亡命指導部の
ルドルフ・ヒルファーディング
はドイツのフランス占領時にゲシュタポにより殺された。
ロンドンで多くのSDP亡命メンバーはイギリス労働党と関係をもった。
1936―1939年には党員にはスペインで共和国政府側で戦ったものもいる。
1936年2月パリで
ヴィリー・ミュンツェンベルク
(KPD)、
ルドルフ・ブライトシャイト
(SPD、収容所で死亡)、
ヤコブ・ヴァルヒャー
(SAPD)
、
ジークフリート・アウフホイザー
(RSD)、
ヴィリー・アイヒラー
(ISK)、
ハインリッヒ・マン
(作家)と弟
クラウス
、
リオン・フォイヒヴァグナー
、
エルンスト・トラー
、
エミール・ルードヴィッヒ
、
ルードヴィッヒ・マルクーゼ
らのKPD、SPD、SAPD、RSD、ISK諸政党と知識人らによりナチス
抵抗指導組織
ルテシア・サークル
(ドイツ人民戦線準備委員会)が結成された。これは1937年4月に活動を終えた。
これに対応し
ヘルマン・ブリル
を中心に1936年12月
人民戦線
が結成された。
他に
オットー・ブラス
、
フランツ・ペトリッヒ
(収容所で死亡)、
ジョーン・クラインスペーン
(収容所で死亡)らが参加。
フランス占領後一部のメンバーはニューヨークで1944年5月、福音派神学者
ポール・ティリッヒ
が議長とする
ドイツ民主主義評議会
CDG結成した。
ヤコブ・ヴァルヒャー
、
ジークフリート・アウフホイザー
、
ベルトルト・ブレヒト
らが参加。
これは1943年7月のモスクワの
自由ドイツ国民委員会
NKFD結成への反応によるものであった。
NKFDはドイツ兵士捕虜と亡命ドイツ共産主義者によって結成された。
1944年
ブッヘンヴァルト強制収用所
で
ヘルマン・ブリル
、
ヴァルター・ヴォルフ
らにより
ブッヘンヴァルト人民戦線委員会
が結成された。
・新生
戦後党再建の中央委員会が1945年7月ベルリンで開催され、中央委員会議長には
オットー・グローテヴォール
が選ばれ、
グスタフ・ダーレンドルフ
、
アンネドーレ・レーバー
、
エーリッヒ・クニフケ
、
マックス・フェフナー
らが幹部に選出された。
ハノーヴァーの
クルト・シューマッハー
はこれを認めず、西側のSPDだけに働きかけ、ソ連占領地域の社会民主主義者には接触しなかった。
シューマッハー
は中央委員会はソ連占領地区にだけ権限があり西側は自分が代理人であるとした。
シューマッハー
は
オットー・ブレンナー
の
SAPD
と
ヴィリー・アイヒラー
の
ISK
をSPDに参加させた。
モスクワから戻ったKPD幹部は当初統一には反対だったが1945年末方針転換した。
オットー・グローテヴォール
は統合しようとしたが
シューマッハー
は拒絶した。
シューマッハーは1920年代末から指導層となり、1933年から1945年までほとんどナチス収容所ですごした。
1946年4月ソ連占領地域でのKPDとSPDの統合によるSED結成(
オットー・グローテヴォール
と
ヴィルヘルム・ピーク
が議長)のあと
5月西側のSPDが結成され、244対245で西側占領3地区のSPD議長に
シューマッハー
が選ばれた。
エーリッヒ・オレンハウアー
、
ヘルベルト・クリーデマン
、
アンネマリー・レンガー
、
エゴン・フランケ
、
アルフレッド・ノイ
、
ヘルタ・ゴットヘルフ
が幹部
となった。
・
連邦国会反対派
1949−1966年
1949―1966年までは新連邦共和国の最初の選挙からSPDは議会反対派であった。
1949年選挙
は
クルト・シューマッハー
で
コンラート・アデナウアー
の
CDU/CSU
の遅れをとった。
アデナウアー
が
CDU/CSU
と
FDP
、
DP
の連立政権結成。
CDUのアデナウアーの1949―1963年の首相のあと、
ルードヴィッヒ・エアハル
トが1966年まで首相となった。
SPD6934975票、29.2%、131議席、
CDU
25.2%、115議席、
FDP
11.9%、52議席、
CSU
5.8%、24議席、KPD5.7%、15議席。
1952年シューマッハーの死で
エーリッヒ・オレンハウアー
が指導者となった。(1952―1963年)
(SDPの議長はシューマッハーが1946―1952年、
オレンハウアー
が1952―1963年
ブラント
が1964―1968年)
オレンハウアーは
SOPADE
とともに亡命生活を送り最後はロンドンでイギリス労働党と密接な関係をもった。
1955年NATO加盟。
1953年(28.8%)と1957年(31.8%)の選挙結果でSPDは政策を変更した。
SPDは
社会市場経済
に反対で全基幹産業の国有化を要求、アデナウアーの西側同盟政策と異なり、SPDは1955年当初は西ドイツの
1955年再軍備とNATO参加に反対し、中立政策と東ドイツとの再統合を支持したが、今はドイツの西側同盟を強く支持。
1959年の
ゴーデスベルク綱領
でSDPは労働者党の概念とマルクス主義原則を放棄し、国民政党となり、社会福祉計画は強調し
続けた。
この結果は1961年(36.2%)と1965年(39.3%)選挙結果であった。これはベルリン市長
ウィリー・ブラント
が首相候補になったことにもよる。
1949年29.2%―1957年、31.8%まで漸増、1961年、ブラントで36.2%、1965年には39.2%までに。
1949年CDU/CSU 31.0%、139議席(CDU25.2%、CSU5.8%)、FDP 11.9%、52議席 KPD 5.7%、15議席。
1961年CDU/CSU 45.3%、242議席(CDU35.8%、CSU9.6%)、FDP 12.8%、67議席。
・
大連合
(
キージンガー
政権) 1966−1969年
1966年、
キリスト民主連合
と
自由民主党
FDPの連立が崩壊し、CDU/CSUとSPDの
大連合
がCDUの
クルト・キージンガー
首相の
もと形成された。
ウィリー・ブラント
が外相となった。
キージンガー
はナチス党員であった。キージンガーは1966―1969年の首相を務めた。
このような大人のあり方に学生は反発を覚えた。
SDS
が主導する社会主義革命志向の学生運動議会外反対派が特に1967―1968年に展開した。
・ブラント・シュミット時代 1969−1974年 (
FDP
との連立時代 1969−1982年)
1969年選挙結果はSDP42,7%、224議席、CDU/CSU、46.1%、242議席、FDP 5.8%、30議席。
1969年の選挙結果によりもっと民主制に挑戦を標語に
FDP
と社会リベラル連合を形成し
ウィリー・ブラント
が首相となった。
ブラント
は若い頃SPDから
SAPD
に移っていた。1933年ノルウェーに逃れ1934年革命的青年組織国際局(ロンドン・ビュローの
青年組織)創設に参加した。1940年にはスウェーデンに逃れ、1945年までいた。そこで
ブルーノ・クライスキー
と知り合った。
1937年ブラントはジャーナリストとしてスペインにいた。1957―1966年まで西ベルリン市長を勤めた。
SDPはFDPと連立を形成し、
ウィリー・ブラント
(1969―1974首相、1964―1987年党議長)とグラントが
ギョーム事件
で退陣した後、
ヘルムート・シュミット
首相(1974―1982首相)のもと1969―1982年まで連邦政府を率いた。
この間、
東方外交
でワルシャワ条約諸国と緊張緩和政策を行い、司法、教育、家族政策などの広範囲な改革を行った。
東方政策は政権内で議論となり1972年不信任が提出されたが否決された。
1972年選挙
は、SPD45.8%、230議席、CDU/CSU44.%、225議席、FDP8.4%、41議席。
ヘルムート・シュミット
最初の選挙の1976年はSPD42.6%、214議席、CDU/CSU48.6%、243議席、FDP7.9%、39議席。
1980年はSPD42.9%、218議席、CDU/CSU44.5%、226議席、FDP10.6%、53議席。
SPDは1972年には45.8%、以降1980年まで42%台。
・反対派(
コール政権
) 1982−1998年
1982年、SPDは経済危機などにより政権を失い1982―1998年の間、再び反対派となった。
CDUの
ヘルムート・コール
の下、CDU/CSU−FDP連合が4期続いた。
1983年
は
ハンス・ヨヘン・フォーゲル
でSPD38.2%、193議席、CDU/CSU48.8%、244議席、FDP7.0%、34議席。
1987年には
ヨハンネス・ラウ
でSPD37.0%、186議席、CDU/CSU44.3%、223議席、FDP9.1%、46議席、緑8.3%、42議席。
1989年ベルリンの壁崩壊、共産主義支配の崩壊で東ドイツにも別にSPDが再建され西ドイツの党と再統合。
ベルリン綱領
採用、脱物質主義と環境主義の1980年代の新社会運動が刻印。
1983年には38.2%から低下、1990年33.5%、これから上昇1998年には40.9%、
1989年の共産主義支配崩壊で東ドイツではSEDの残党から独立した別のSDPが結成され西ドイツの党と統合した。
1989年緑党創設者の
オットー・シリー
が参加。
1990年
オスカー・ラフォンテーヌ
でSPD33.5%、239議席、CDU/CSU43.8%、319議席、FDP11.0%、79議席。
1993年最初の党員直接投票で
ルドルフ・シャルピング
が
ゲルハルト・シュレーダー
と
ハイデマリー・ヴィーツォレク・ツォイル
に勝利。
1994年
シャルピング
、
シュレーダー
、
ラフォンテーヌ
のトロイカ体制。
1996年
アンゲリカ・バルベ
(旧東SPD)がSPDと
PDS
の協力に抗議しCDUに移る。
・シュレーダー政権 1998−2005年(赤緑連合)
1998年SPDの
ゲルハルト・シュレーダー
が勝利、SPDは
緑
と連合し16年ぶりに政権につき、コールは政権を失った。
1998年選挙
はSPD40.9%、298議席、CDU/CSU35.1%、245議席、FDP7.4%、47議席、緑6.7%、47議席、左翼5.1%、36議席。
シュレーダーの失業対策を強調した穏健な政策でSPDは1998年選挙では40.9%の強い党として出現。
1996年11月、
オスカー・ラフォンテーヌ
がSPD議長に選ばれ
シュレーダー
との軋轢が生じ始めた。
1998年の選挙勝利でラフォンテーヌは財務大臣として入閣した。
2人の間の確執は増大し1999年
ラフォンテーヌ
は党と政府のすべての地位を辞職した。
ラフォンテーヌ
はシュレーダー政権の新自由主義、反社会主義路線を批判した。
シュレーダーがラフォンテーヌの党議長の地位を継いだ。
2002年選挙ではSPDは38.5%を獲得し、緑の支援で政権を形成した。
2002年選挙はSPD38.5%、251議席、CDU/CSU38.5%、248議席、FDP7.4%、47議席、緑8.6%、55議席、左翼4.0%、2議席。
2004年のEU選挙は悲惨で第2次世界大戦後最悪の21.5%しか獲得できなかった。
アジェンダ2010はSPD支持者には不評であった。
2004年、左派の一部、労働組合派は分裂し選挙選択・労働と社会正義を結成、2005年1月新党
WASG
となった。
これはSPDの新中道(1998年選挙標語)に対する左派となった。
5月
ラフォンテーヌ
がWASGに参加、秋の選挙でWASGが
PDS
と連合を組む。
・大連合 2005年ー
同年初めSDPの指導権はシュレーダーから
フランツ・ミュンテフェリング
に移った。
SPDと労働者階級の利益防衛問題は1918年以来問題になってきているが、
シュレーダー
政権ほどその立場を伝統的社会主義
から離れたことはなかった。
強い自由主義政策と社会福祉予算削減は劇的に支持者喪失につながった。
ここ長い間SDP党員は減少してきていた。1976年初めには百万を越えていたが、1998年選挙時には77万5千で、2008年2月
には53万8千に減少した。
2005年党議長
フランツ・ミュンテフェリング
はドイツ市場経済の過剰な暴利を批判し、連邦政府の経済正義推進への関与を提案。
これは大衆の支持を受けたが批判も招いた。
2005年選挙はSPD34.2%、222議席、CDU27.8%、180議席、CSU7.4%、46議席、FDP9.8%、61議席、緑8.1%、51議席、
左翼8.7%、54議席。
1998年の40.9%から2002年、38.5%、2005年、34.2%と低下。
CDUの
アンゲラ・メルケル
を首相とし2005年からCDU、CSUとSPDの2度目の大連合。
ミュンテフェリング
が労働社会問題相と副首相になったが党の選挙で総書記に支持候補の
カホ・ヴァッサーヘヴェル
が左派の
アンドレア・ナーレス
に破れ(
ナーレス
は党の分裂を避けるため辞任)党首辞任、2005年11月
マティアス・プラツェック
が党首になったが5ヵ月後
健康を理由に
クルト・ベック
に代わった。
2007年11月
フランク・ヴァルター・シュタインマイアー
が副首相・外相となった。
2008年ヘッセン州では
アンドレア・イプシランティ
が躍進した
左翼党
との連立政権を試み
党内からの反発で失敗した
。
これを容認した
クルト・ベック
は辞任せざるを得なかった。
シュタインマイアー
の臨時議長のあと10月
フランツ・ミュンテフェリング
が再び党首となった。
2007年
ハンブルク綱領
採用。自由、正義、連帯を目標、市場経済思想によりEUの
リスボン戦略
を基に減税と社会福祉削減を中心
とする
アジェンダ2010
を基調とする。
2009年連邦議会選挙
は党名簿23.0%と前回11.2%減の戦後最低で146議席、76議席減。
党首
ジグマール・ガブリエル
と交代。副委員長に
マヌエラ・シュヴェジグ
らがなる。 マヌエラ・シュヴェジグ→
YOU・TUBE
1949年
、29.2%、131議席から1972年、45.8%、230議席、1957年に31.8%、169議席、1961年ブラントのもと36.2%、190議席、
シュミット時代は42%台を確保、1983年
ハンス・ヨヘン・フォーゲル
で38.2%、193議席となり、1990年(ドイツ再統合)
オスカー・ラフォンテーヌ
の33.5%、239議席まで低下、以降再上昇、1998年の
シュレーダー
で40.9%、298議席、これからまた低下2005年には34.2%、222議席。
党員
は1950年代には60万台で、1960年代後半から上昇し、1970年台急成長し1977年には100万を超え、以降低下し始め、1990年代に
低下が加速され、最近は戦後の最低を記録している。
党内グループ
左派
民主左翼21フォーラム
2000年結成。
フランクフルト・サークル
(1966年結成)の後継組織、これは68年代の
制度を通しての行進
の影響で設立された。
ビヨルン・ボーニング
(代表)、ラインホルト・リュンカー(組織指導者)、
ニールス・アンネン
(副代表)、
フランツィスカ・ドローゼル
(JUSOS委員長、
1980年生まれ)、
エルンスト・ディーター・ロスマン
(議会左翼代弁者)、
アンドレア・ナーレス
(党副議長)など。
議会左翼
経済政策ではケインズ主義を取る。
エルンスト・ディーター・ロスマン
が代弁者、
ニールス・アンネン
、
クリスティヌ・ランブレヒ
ト、
アンドレアス・シュテップーン
、
エルケ・フェルナー
、
ガブリーレ・ヒラー・オーム
、
マイケル・ミュラー
、
レネ・ロスペル
、
アンドレア・ナーレス
、
ハイデマリー・ヴィーツォレク・ツォイル
など。
右派
ゼーハイマー・サークル
ニュルンベルク・ミッテ(中道)
ベルリン・ネットワーク
1992年、40歳以下の議員により結成、伝統的・保守的左派と右派ゼーハイマーグループを批判。
シュレーダーの
アジェンデ2010
を支持。
ドイツ労働組合連合
DGBは1949年結成で8組合連合、700百万加盟。統一サービス組合約246万、金属労働者産業組合242万、
鉱山・化学・エネルギー産業組合77万、建設・農業環境産業組合42万が主要組合。
代々委員長はすべて社民党員である。
ドイツ公務員連合
は1918年結成で127万組合員で委員長は主に
キリスト民主連合
員である。
ドイツ・キリスト労働組合連合
は1959年結成の30万組織。
〔
JUSOS
〕
→
フランツィスカ・ドローゼル
→
YOU・TUBE
1968年秋から議会外反対運動、学生運動は停滞に陥り、1970年3月内部抗争の結果、SDSが解散され、これらは
Kーグループを形成し、一方DKPに近いスパルタクスが興隆する。
議会外反対運動、学生運動のグループの一部は
制度を通る行進
(
ルディ・ドゥチュケ
)と称して社会民主党系や
自由民主系の青年組織に関係していく。
それまでSPDに忠実であったJusosは1969年にミュンヘン大会で左翼転換してから最早SPDの青年組織
であるだけではなく、SPD内の社会主義者、フェミニスト、国際主義者的傾向の連合組織となった。
一般的にSPDより左翼的であり、指導的政治家に批判的である。
1969年、Jusosの左翼転換が起こった。
委員長に左派のカルシュタイン・ヴォワト
Karsten Voigt
(1969−1972)が選ばれた。
Jusos左派はやがて
改革社会主義
Reformsozialisten
(Refos)派、シュタモカップ(国独資)派
Stamokap
、
反修正主義派Antirevisionistenの3派に分解していく。
シュタモカップはハノーヴァー・サークルから形成された。特にハンブルク、ベルリン、オストヴェストファーレンーリッペ
で強かった。その理論家はデトレフ・アルバース
Detlev Albers
などで西ドイツを
国家独占資本主義
と考えた。
反修正主義はゲッチンゲン・サークルによって1975年結成された。
改革派多数派は1977年、マレンテ・サークルによって結成された。
1970年、ヴォワトはノルベルト・ガンゼル
Norbert Gansel
と争い勝利し、この二人がJusos主流派Refosを形成していく。
Refosはこのあと、ヴォルフガング・ロート
Wolfgang Roth
(1972−1974)、ハイデマリー・ツォイル
Heidemarie Wieczorek Zeul
(1974−1977)と委員長を握るが、1977年、オットマール・シュライナー
Ottmar Schreiner
が
反修正主義派の支持を受けたシュタモカップのクラウス・ウヴェ・ベネター
Klaus Uwe Benneter
に敗北する。
ベネターはDKPをSPDの潜在的連合相手とし、CDUを階級敵とする発言によりSPDの猛反撃をくらい、失脚する。
そのあとを1978年、
ゲルハルト・シュレーダー
(1978−1980)がシュライナーを破る、シュレーダーは当初、
反修正主義派であったが、やがてRefosと手を組んだ。
後年ベネターを救い上げたシュレーダーは当時我々は理論だけに関心があった、彼は腹から政治を悟ったと述べた。
Refosは2段階戦術によって資本主義を構造改革していく路線をとった。
彼らは党・議会の過程(そのためには党の改革)と議会外運動の過程の2段階戦術採用した。
東ドイツの西ドイツへの統合とともに、シュタモカップは消えRefosと統合されていった。
Jusosの幹部は西ドイツでは数少ないエリートの大学生たちであった。
ガンゼルは1972年、ヴォワト、ロートは1976年に国会議員に、ツォイルは1979年にEU議会議員となり、
1987年に国会議員に、シュライナーとシュレーダーは1980年に国会議員となって党内に統合されていく。
シュライナー、ツォイルは党内左派となっている。
その他のRefos出身者は
ルドルフ・シャルピング
(1974−1976副委員長)、ヨハノ・シュトラッサー
Johano Strasser
(1970−1975副委員長)など。
Refosメンバーは速やかにSPD内に統合されていったが、ベネターは1977年、除党され、1983年にシュレーダー
の支援で復党し2002年に国会議員となっている。
1985年以降は
左翼ネットワークセンター
NWLZ(2002年、ハノーヴァー・サークルから生じたJusosの左派から誕生)
と正統派Tradisが左翼を自称し、SPD路線を大衆批判していき、第3勢力
イプシロン
(ヘッセン・サークル)は実践的と称した。
アンドレア・イプシランティ
はシュレーダーの赤・緑連合を批判している。
国家独占資本主義
特に第二次大戦後の先進資本主義の様相を指すが、日本では主に東ドイツのツィーシャンク
Kurt Zieschang
の議論が
紹介されている。
ツィーシャンクは国独資を資本主義の新しい段階としたため特に宇野学派の段階論規定とかかわるためであった。
なお当時のJusosのシュタモカップは東ドイツの理論よりフランスのポール・ボッカラ
Paul Boccara
の理論に主に
拠っているとしている。ボッカラの理論はレギュラシオンに続くものとなっている。
(
社会主義ドイツ労働者青年同盟
SDAJ)
マルクス主義傾向のDKP(1968年設立)と関係のある青年組織。
1968年(マルク誕生150周年)、禁止されたKDPの青年たちが結成。
SDAJは1980年代には緑と後にはPDSと関係をもった。
1978年から1988年までは1年おきにスパルタクスとドルトムント祭りを開催。
東ドイツ崩壊前には東ドイツの自由ドイツ青年同盟FDJと関係があった。
東ドイツ崩壊で後退していった。
<
ドイツの学生運動
>
⇒
詳しくはこちら
(
議会外反対派
APO)
議会の外で発生した議会で代弁する政党をもたない反対派、西ドイツの1960年代中期に学生運動として発生。
中心となったのはSDS。
1966年のクルト・キージンガーのCDUとSDPでの大連合への反対派として発展した。
タラール(大学儀式用マント)の下には千年来の黴のスローガンで大学政策の民主化も求めた。
経済再建ばかり追い求めるナチ世代の親の社会的抑圧の罪を批判もした。
ベトナム戦争に反対し民族解放戦線に連帯し、第三世界革命指導者(ゲバラなど)などもホーチミンらと偶像となった。
フランスと異なる点は労働者の参加がほとんどなかったことである。
転機は1967年6月のイランのパーレビ訪問反対闘争での警官による学生ベンノ・オーネソルクの射殺であった。
これにより学生運動は急進化していった。
1960年代の左翼とりわけ議会外反対派と学生運動に
フランクフルト学派
とその批判理論、特に
ヘルベルト・マルクーゼ
は
大きな影響を与えた。しかし
テオドル・アドルノ
は1960年代左翼の反知性的傾向を厳しく批判した。
エルンスト・ブロッホ
も学生運動や
解放の神学
に影響を与えた。
<
ドイツの新左翼の色合いと展開
>
新左翼は教条主義左翼と非教条主義左翼に分けられる。
教条主義左翼には普通トロツキストを含むK−グループがいる。
非教条主義左翼にはアナーキスト、
自主管理主義
などの種々の色合いの
スポンティ
(自由意志主義者)がいる。
(
教条主義新左翼
) K−グループの分裂と統合
Kグループ
(毛・スターリン主義)はSDSの崩壊と1960年代学生運動ないし
議会外反対派
の衰退の過程に起源的に
関係し、特に1970年代に東ドイツが新左翼にある程度の役割を演じている毛派傾向の数多くの小
幹部党
である。
全国的影響をもつ議会外政党としては1968年結成の
KDP/ML
がある。これとトロツキストのGIMは1986年
統一社会党
VSPを結成した。両者からは多くのグループが分裂し連合が試みられた。
SPDから分裂した
民主社会主義者
(1980年代)と
西ドイツ共産主義者同盟
BWKの連合は不成功に終わった
これらのメンバーからドイツ共産党再建組織
KPD−AO
(1970−1980)後の
KPD
(1990−)や
西ドイツ共産主義者同盟
KBW(1973−1985)、
共産主義者同盟
KB(1971−1991)などが組織され、その一部は
緑
(1980−)とともに
活動し始めた。
1990年代以降は全国的規模の教条主義新左翼は少なく、1982に
ドイツ共産主義者同盟
KABD(1972−1982)から
結成された
ドイツ・マルクス・レーニン主義党
MLPDや
KDP/ML
、KPD再建労働者同盟
KPD(AB)
(1973−)などの
残存メンバーがいる。
これらの組織出身者としてはSPD議員の
ウッラ・シュミット
(1949年生、1983年SPD入党、元BWK)、PDS議員の
アンドレア・ギシ
(1957生、ギシ妻、元KB)、緑議員では元BWKの
ラルフ・フックス
、
ヴィンフリント・ナッハトヴァイ
、KBの
ユルゲン・トリッティン
、
アンジェリカ・ベーア
、元
KPD−AO
の
アンチェ・フォルマー
(1943年生)元KBWの
ラインハルト・ブティコファー
などがいる。
西ドイツ共産主義者同盟BWK
1980年KBWから分裂。1995年解散。
ドイツ共産党再建組織
KPD−AO
1970年西ベルリンで設立、1980年解散。
西ドイツ共産主義者同盟
KBW 1973年ブレーメンで設立、1985年解散。
共産主義者同盟KB
1971年ハンブルクで設立、1991年解散。
ドイツ共産主義者同盟
KABD 1972年シュトゥットガルトで設立、1982年MLPDとなる。
ドイツ共産党再建労働者同盟
KPD(AB)
1973年ミュンヘンで設立。
(非教条的新左翼)
自由労働婦人・労働者連合
FAUは伝統的アナーキスト組織で
国際労働者連合
IAA参加、
スポンティ
Sonti(自発意志主義者)ないし
自主管理派
には種々の色合いがある。
これらは主に1970年前後に活発だった。
1960年代の学生運動の
議会外反対派
APO(1966年のCDUのクルト・キージンガーのCDU−SPD大連合の
反対派から発展)から生じ、
コミューンI
K1や
愉快ゲリラ
、
プッツ・グループ
が発生した。
スポンティの先駆者は
コミューンI
の周囲から生じた。
これらの出身者には
革命闘争
RK出身の緑の
ヨシュカ・フィッシャー
などがいる。
1970年代晩期から1980年代の
革命的細胞
や
赤いゾラ
などの左翼テロリストもこれらの色合いに含めうる。
○
コミューンI
K1
非常に保守的な生活共同体思想をもとにする社会を基礎とする小さな中流家庭への反発を意図して1967年2月に
西ベルリンでの共同生活が始まった。
ウルリッヒ・エンツェンベルガー
、
ディーター・クンツェルマン
(のちKDP参加)、
フリッツ・トイフェル
、
デトレフ・ミッチェル
、
ライナー・ランクハンス
などが参加した。
彼らは家庭的共同生活の退屈さから風刺と挑発を揺れ動く異様な挑発という行動にでた。
これはスポンティの運動や他の左翼グループを刺激した。
最初はプディング暗殺と呼ばれる、米副大統領ハンフリーへの嫌がらせ計画で逮捕者が出た。
教会の塔から数百冊の毛沢東選集を放り投げるようなこともした。
イランのシャーの西ベルリン訪問に際し逮捕者がでた一方で住居者の裸の写真が出た。
1967年6月、百貨店への放火を主張するチラシ事件で告訴される。
このような行動はブルジョアだけでなく政治的左翼をも分極化した。
SDSはとりわけこのような行動を好まなかった。政治的関心はなくただ利己主義にふけっているだけと批判した。
女性問題で追放された
フリッツ・トイフェル
は後に
6月2日運動
に参加した。
1968年夏、居を変えた第2期は性、薬、音楽、
ウッシ・オベルマイアー
の時期であった。
1968年11月、ロッカーたちが入り込み、残っていた将来へ信念を失った居住者は去っていった。
○
愉快ゲリラ
スパス・ゲリラ
フリッツ・トイフェル
に代表されこれは
ルディ・ドゥチュケ
(都市ゲリラを語った)などと対照的である。
伝統尊敬欠如、ブルジョア的・抑圧的形態の権威・儀礼の皮肉や滑稽による反抗などが典型である。
市民的不服従、象徴的暴力、権力の挑発などの戦術たとえばカスタード・パイによる警察・警官攻撃で特徴つけられる。
愉快ゲリラやスポンティ場面から自主管理主義者の活動的場面が生じ、自主管理主義者から
アンティファ
(反ファシズム)、
住居占有運動、平和運動、反原発運動が発生した。
○
プッツ・グループ
1970年初期、フランクフルト・アム・マインで約20人の若者グループがヘルメットと棍棒で警察と街頭闘争を行った。
主な参加者は
ヨシュカ・フィッシャー
、
ダニエル・コーン・ベンディット
、
ハンス・ヨアヒム・クライン
、
トム・ケニッヒス
。
○
革命闘争
RK
1968年の反権威主義的学生運動から生じたフランクフルト・アム・マインの非公式・非教条主義左翼組織。
イタリアの労働者派にならって、工場での活動家グループ結成を目指した点がKDP/MLなどの学生運動中心の
グループと異なるが成果はほんどなかった。(リュッセルハイムのオペル工場で働きかけた)
主な参加者は
ヨシュカ・フィッシャー
、
ダニエル・コーン・ベンディット
、
トム・ケニッヒス
など。
○極左テロリスト
6月2日運動
(1972年設立、アナーキスト)、
赤軍派
RAF(1970年設立、初期は
バーダー・マインホフ・グループ
)など。
ドイツの秋
1977年の一連の誘拐・殺人事件。
○新左翼と緑
1970年代になって多くの新左翼は路線を変更し、
制度を通る行進
(
ルディ・ドゥチュケ
)と称して議会に参加していった。
種々の共産主義者グループが政党を結成したが成功しなかった。
1979/1980年の緑結成に参加したしグループが成功を収めた。
緑では
フンディ
(原理主義派)と
レアロ
(現実主義派)が対立している。
○1989年以後の新左翼
1990年のドイツ統合により社会主義統一党から出現したPDSが以前のK−グループや緑連合に失望した人々を
吸収している。
〔
マルクス主義グループ
MG〕 1971−1991年、ゲーゲン・シュタントプンクト・グループ 1997年−
1968年、ミュンヘンの学生運動から赤い細胞が顕れそれらによってMGが構想され1970年代前半後期に結成される。
絶えず権力の監視化におかれそのため1991年解散、当時約1万のメンバー。
解散でも組織は維持されたが出版組織や行事制度(討論集会、支持者集会)は解散された。
1992年雑誌反対派
GegenStandpunkt
発行、1997年ゲーゲン・シュタントプンクト・グループが討論集会などを組織し公然登場。
〔
アンティファ
〕
〔
オールタナティヴ
〕
〔
自主管理運動
〕
〔
住居占有運動
〕
⇒
ヨーロッパの左翼