航海少女マリアンヌ

1ST LOGBOOK 〜ビール編:#3  中央大陸海域へ

 航海13日目の10月21日。
  東大洋は北緯28度の海域をインフィニティ号は順調に航海している。この日の天候は晴れだった。
  北東の風に乗って順調に航海してはいたが、前日まで五日間ずっと雨が降り続いており、時化とはいかなくても荒れ模様の状況になった日もあった。そのため船員たちの顔にも疲労の色が濃くなってきていた。この日は久々に太陽が出たため、作業している船員たちもどことなく気分が良さそうだった。
  マリアンヌは船尾にある司令室で、セレウコスと今後の航海の打ち合わせをしていた。そこへ船員のひとりが入ってきた。
「船長、厨房と食糧庫にネズミが出ましたぜ」
「ネズミか。ネズミ取りはしているのか」
「へい。調理班の人間でやっているんですが、なにぶんすばしこいし、数もかなりいるようなので、全部捕まえるとなるとやっかいでやすね」
  ネズミの発生は長距離航海ではほぼ付き物のやっかいなアクシデントだ。ネズミは食糧を食い荒らし、船体をかじり、場合によっては伝染病を持ち込むことがある。船室や船倉の管理が不十分で、不潔な状態になっていたりすると発生しやすい。
  しかもこの船は先頃の嵐で船倉に浸水し、食糧が一部台無しになっている。あとに残った食糧をネズミに食い荒らされたら航海を続けられる状態ではなくなる。
「ふむ。お嬢ちゃん、どうしますか?」
  セレウコスがマリアンヌのほうを見た。
  ネズミが発生したと聞いたとたん、マリアンヌの顔色は青くなっている。 「やだ。決まってるじゃない。乗組員全員でネズミを追い払ってよ」
「全員でですか」
「そ」
  乗組員全員でとは無茶なことを言うとセレウコスは思ったが、報告に来た船員のほうを振り向いて言った。
「甲板員や手の空いている船員たちにも手伝わせるから、ネズミ取りを優先してくれ」
「へい、わかりやした」
  船員は二人に一礼して司令室から出ていった。
「あー、やだやだ。何でネズミが出て来るんだろ。全部捕まえてくれるといいけど」
  ちょっと落ち着いたマリアンヌがぷうっと頬を膨らませてつぶやいたとき、彼女の足下をさっと横切る小さな影があった。
「っ!」
  彼女はびくっと身震いし、おそるおそる影の通り過ぎた先に目をやった。
  視線の先に一匹、豆大福のような色をした大きなネズミがいた。彼女と視線があったネズミは、ちゅうと鳴いた。
「きぃやあああああああああああああああぁぁっ!」
  部屋中、いや、船じゅうどころか周辺の海域に響きわたるほどの悲鳴を上げて、彼女は続きにある自分用の個室に逃げ込んだ。
  彼女は幼いときにネズミに耳をかじられて以来、ウルトラ級のネズミ嫌いなのだ。
  司令室に残されたセレウコスは黙って立ち上がると、ネズミを捕まえようと手を出した。ネズミは素早く逃げた。
「おーい。嬢ちゃんの悲鳴が聞こえたけど、何かあったかね」
  ドアが開いて、カッサンドロスが顔を出し、セレウコスに尋ねた。ネズミは開いたドアから逃げようとした。
「ネズミが出た」
「ネズミか。道理でのう」
  セレウコスがカッサンドロスの足元を見ると、さっきのネズミはカッサンドロスにしっぽを踏んづけられて、動けなくなってもがいていた。カッサンドロスはそのネズミをつまみ上げた。
「これが嬢ちゃんを驚かせた張本人(ネズミ)じゃな」
「そうだ。そいつを捕まえるとはなかなかやるな、じいさん」
「日頃の鍛錬の賜物じゃよ。さて、こいつは捨ててこようかの」
  カッサンドロスは司令室をあとにし、甲板に出ると、捕まえたネズミを海の中にぽいっとなと捨てた。哀れなネズミは魚の餌になるか、おぼれてから魚の餌になるのだが、船の中にいてもらっても困る存在なので致し方ない。
「それはそうとの、セルさんよ、ちとやっかいなことになっとるぞ」
  ネズミを処分して司令室に戻ってきたカッサンドロスが言った。
「何かあったのか」
「うむ。さっき船員がひとり腹痛でわしのところに来たのじゃが、診察してみたら水あたりじゃった。船倉に降りて水の樽を調べたら、腐った水や虫のわいた水もあってのう。どこかで飲料水を入れ替えんと大事になるぞ」
「そうか」
  セレウコスは渋い顔でうなずくと、マリアンヌの個室のドアをノックした。中からの反応はなかった。
「お嬢ちゃん、ネズミは捕まえたから出てきてください」
  セレウコスは呼びかけてみたが、それでも反応はなかった。
「まさか失神したというわけじゃなかろうが。ちょっとおじゃまするぞい」
  今度はカッサンドロスがドアをノックし、個室の中に入っていった。
  マリアンヌはベッドの中で、頭からすっぽりと毛布をかぶってふるえていた。
「嬢ちゃん。ネズミはもう捕まえたから、安心して出ておいで」
  カッサンドロスがマリアンヌに優しくそういうと、彼女はやっと体を起こし、毛布の中から頭を出した。相当怖かったのか、涙目になっている。 「ほんとにもうネズミはいないの?」
「うむ。もうおらんよ」
  彼女の念押しにカッサンドロスがうなずくと、彼女はやっと安心してベッドから出てきた。
「ごめんね。取り乱しちゃって」
「かまわんよ。人間どうしても苦手なものが二、三個はあるもんじゃて」
  彼女は司令室に戻り、席に座ると、テーブルを挟んで彼女と対面するようにセレウコスとカッサンドロスも席に着いた。
「さっきじいさんから報告があったんですが、飲料水が傷んで、船員に病人が出たそうです。どこかで水を入れ替えなければなりません」
「本当なの?じいさん」
  マリアンヌがカッサンドロスのほうを向くと、彼は一つうなずいた。
「本当なんじゃ。それにこの前の嵐で船員船室に浸水したせいで、船室が湿気っておって、船員が休息をとろうにも環境が悪すぎる。おまけにここのところの荒天で船員たちも疲労しておる。この状態じゃと伝染病が発生しかねんのう」
「それはたいへんだわ。何とかしなきゃ」
「加えて、どこかに上陸してネズミを追い払わなければなりません。それと、この前の嵐で受けた損傷を修理できればしておきたいですが」
「そうね…、じいさん、どこかに緊急上陸できるかしら?」
「そうさのう…」
  カッサンドロスは東大洋の地図を開くと、その一点を指さした。
「ここにサモス島という孤島がある。どこの国にも帰属していない無人島じゃ。わしらの現在地から南西に80海里ほど行ったところじゃ。ここなら上陸にも適しておるのう」
「わかったわ。じゃあ、船の針路をそこに向けて」
「了解」
  セレウコスとカッサンドロスは席を立って甲板に戻ろうとした。
「あ、待って」
  彼女は二人を呼び止めた。
「上陸したら、特別食を出したいんだけどいいかしら。船員もみんな疲れているみたいなんでしょ。宴会したらちょっとは元気が出るかなって思うの」
「ですが、今のところ食糧にあまり余裕はありません」
  セレウコスが難色を示した。
「そうなのよね…。じゃあ、上陸したら狩りをして、食糧も集めたらいいんじゃない。それで獲物が獲れたら宴会をするの。どうかな」
「わしは賛成じゃな。宴会で慰労してやれば船員たちも喜ぶじゃろうて。もっとも、一番喜ぶのはプットじゃろうが」
「了解しました。問題は獲物が獲れるかですが」
「大丈夫だよ。あたし運がいいんだ。きっと大猟だよ」
  現実的な問題点を挙げたセレウコスに対して、マリアンヌは自信たっぷりに答え、えへへと笑い顔を見せた。もっとも、彼女の自信には何の根拠もない。
「獲物が獲れんかったら、今大量発生しているネズミを料理するというのはどうかね」
  カッサンドロスがにやにや笑って彼女に言うと、とたんに彼女は青くなった。
「いや、いや。絶対いや。絶対やめてよね」
「かっかっか。冗談じゃよ」
「もう、そういうたちの悪い冗談はやめてよ」
  頬を膨らませて抗議する彼女を見て、カッサンドロスはからから笑いながら司令室を出ていった。
「では、進路をサモス島に向けます」 「うん。お願いね、セル」
  セレウコスは甲板に出ていった。

 
インフィニティ号は10月21日の夕方前にサモス島の沿岸海域に入った。
  島の沿岸に入ったからすぐに上陸ができるかというとそうでもない。測量して上陸に最適なポイントを探す必要がある。調査もせずに上陸しようとすると、誤って暗礁や砂州に座礁する危険があるためだ。
  その日の晩はサモス島の島影に投錨し、夜が明けてからカッサンドロスと数人の船員がボートに乗って海中の測量を始めた。そして、島の南西側にある砂浜の入り江に船を停泊させることができたのは、10月22日の正午頃だった。
  サモス島は周囲13マイルほどの小さな無人島だ。島の中心部に釣り鐘型の小高い火山があり、島全体がこんもりとした森に覆われている。
「ああ、久しぶりの陸地だわ」
  マリアンヌは島に上陸すると、砂浜をブーツで強く踏みつけた。常に揺れ動く船の上と違い、全く揺るがない地面の感触が気持ちよかった。
  インフィニティ号は修理の必要があるので、セレウコスの指示のもと、船員たちが船にロープを掛け、砂の上に引き揚げていった。屈強な海の男が三十人ばかりかかってもなかなかたいへんな作業だが、百人力の豪傑、人間起重機のプトレマイオスが、これこそ俺様の出番と張り切って引っ張るので、作業はすんなりと進んだ。普段は酒を飲んで寝ているだけだが、こういうときは頼りになる男だ。
  陸揚げされたインフィニティ号の船体に支柱が架けられ、修理の準備が整った。
「みんな、ご苦労様」
  作業がそこまで終わったときにマリアンヌが船員たちに声をかけた。
「では、自分は今から修理にかかります」
  セレウコスがマリアンヌに近づいてきて言った。船の修理は造船の知識が必要とされる。セレウコスはプロの船大工ほどではないがそれなりの知識と経験を持っているので、彼に修理を任せるのが無難だ。
「うん。何人ぐらい手伝いがいる?」
「そうですね。十人ほど回してもらえればありがたいです」
「わかったわ。じゃあ、セルのとこに十人。じいさんと一緒に探索する班が十人。プットと一緒に狩りをするのが十人でいいね」
「いいと思います」
  マリアンヌは早速十人の船員を選んで、セレウコスの班に組み入れた。彼らは早速船体の修理にかかる準備を始めた。
「おーい、嬢ちゃん。どうやらいい水が手に入りそうじゃよ」
  海岸付近を散策していたカッサンドロスが彼女のところにやってきた。
「入り江の南側に川が流れておっての。その水を調べてみたが、虫も毒気もないいい水じゃったよ。源流にさかのぼればもっときれいな水を汲めるかもしれんのう」
「へえ。じゃあ水の問題は解決したようなものね。じゃあ、じいさんは十人の船員を連れて水の交換をしてちょうだい。それが終わったら、キャンプの準備をして」
「わかったわい。じゃあ、早速行こうかの」
  カッサンドロスと彼に従う十人の船員は、水をくむための空の樽を用意し始めた。
「おう、お嬢。俺様はなにをすりゃいいんでぇ」
  プトレマイオスが腕を振り回しながらのしのし歩いてきた。船を陸揚げする大仕事を、中心になってやっていたにもかかわらず、全然疲れている様子がない。まだ力が有り余って仕方がない様子をしている。
「プットには大事な仕事があるのよ」
「おう。俺様は今気分がいいんだ。何だってやるぜ」
「あのね、宴会をしようと思ってるのよ」
「宴会?いぃやっほう!酒盛りだぜぇ!うおぉう!ぃやっほう!」
  宴会と聞いてプトレマイオスは小躍りしながら歓喜の雄叫びをあげた。
「ちょっと、耳元で叫ばれると耳が痛くなりそうだからやめて。あのね、宴会をしたいんだけど、食糧がちょっと心許ないの。だから、プットには食糧を探してきてほしいのよ」
「狩りをすりゃいいんだな。おう、任せとけ。たくさん捕まえてやるぜぇ」
「うん。宴会もこのあとの航海もプットにかかってるからね。あと、あんまり捕まえても船に乗り切らなくなると困るし、食べる分だけ捕まえてくればいいわ」
「よっしゃ。おーい、野郎ども。狩りの支度をしろぉ」
  プトレマイオスは残った十人の船員たちに呼びかけた。彼に従う船員たちは弓矢や槍を手にしてやってきた。
「狩りに行くぜ、狩りに行くぜぇ。いやっほう、いやっほう!」
「いやっほう、いやっほぅ!」
「酒盛りが待ってるぜぇ。ぃいやっほう、いぃやほうぅ!」
「ぃいやっほう、いぃやほう!」
  土手っ腹で響かせるプトレマイオスの歓喜の叫びに船員たちが声をそろえて合いの手を入れる。叫びとも歌ともお囃子ともつかない合唱をしながら、彼ら狩猟部隊は森の中に消えていった。
「さてと、あたしも行ってこよっかなぁ」
  狩猟部隊を見送ってから、マリアンヌは自分の荷物を取りに上陸用ボートに向かった。いつものショルダーバッグに着替えの服が入れてある。
「嬢ちゃんよ、樽を運ぶのにボートを使いたいがいいかの」
  水の補充交換に出発する準備を進めていたカッサンドロスが彼女に訊いた。海岸では船員たちが樽の水を海に流して、次々に空樽を作っている。空の水樽が100樽ばかり、山と積み上げられていた。
「うん。いいよ」
  マリアンヌはうなずいて、自分の荷物をボートから取りだした。これでボートは空になった。
「ところで、嬢ちゃんはどうするのかね」
「水浴びできるところを探してくるわ。航海中はお風呂にも入れないからね」
  彼女はバッグを肩に掛けながら答えた。 「この島は未開の土地じゃて、一人歩きは危険じゃよ。わしらと一緒にいかんかね」
  カッサンドロスが提案した。彼のいうとおり、小さな無人島といえど、猛獣や毒獣、毒草に出くわさないとも限らないし、密林の中で道に迷ったらキャンプまで帰れなくなる危険もある。
「そうね、そのほうが安心して歩けるかも…、あっ!」
  彼女は何か思い当たるものがあって、首を横に振った。
「やっぱりいや。じいさん、あたしの水浴びのぞく気まんまんだもん」
「嬢ちゃんの水浴びシーンを見るほうが慰労になると思うがのう。目の保養にもなるし」
  悪びれもせずにいうカッサンドロスの喉元に彼女はひとつ突きを入れた。彼は「ぐえ」とつぶれた蛙の鳴き声のような声をあげた。
「そういうことばっかり言うと本気で怒るからね。あたしはあっちの川をさかのぼって水浴びできるところ探してくるわ。ついてきたらただじゃすまさないからね」
  彼女はそういって入り江の北側を指さした。そちらにも川が流れている。川幅は南側を流れる川の半分くらいで、深さも南側の川がボートで遡上できるだけあるのに対し、こちらはせいぜい人間が腰までつかる程度の深さだ。 「川に沿って探索すれば道に迷うこともないわ」
「そうじゃが、水辺は生き物が群れるとこじゃ。人に害を与える動物も棲んでおるのう。これを持っていくといいじゃろう」
  カッサンドロスは用意していた探索道具から、何本かの布ひもと、カウベルのような大きな鈴から猫に付けるような小さな鈴まで、何個も鈴を付けた杖を彼女に渡した。
「なあに、これ」
「こっちのひもは分かれ道の目印にするものじゃ。分かれ道にさしかかったときに木の枝などにくくりつけるといいじゃろう。こっちの杖は猛獣除けじゃ。野生動物はたいがい人間の気配を感じると道を避けるものでの。鈴の音を常に鳴らしておけば、猛獣も毒蛇もそうは近づいてこないじゃろう」
「ふーん、そうなんだ。ありがとね」
「毒虫がいるかもしれんから、肌を出さんようにするんじゃよ。あと、必ず靴を履いておくことじゃ。土の中に虫がおることもあるでの」
「わかったわ。気を付けるから。じゃ、明るい内に戻るからね」
  マリアンヌはカッサンドロスから渡された杖を握って、森の中の探索に向かった。杖についた大小の鈴がじゃらじゃらとにぎやかな音を奏でた。

  道無き道を歩いて川をさかのぼること三十分あまり。マリアンヌは島の奥へと突き進んで、川の上流域、谷間の渓谷にさしかかった。ここまでは薮の生い茂る場所がそこかしこにある森だったが、この地点は木がまばらに生えているちょっとした野原になっていた。川も中流域から上流域のやや速い流れになっていて、角を削られて滑らかになった石が河原を埋めていた。
  ここまで薮をかき分け進み、低い枝に髪が引っかかったり、何回かぬかるみに足を取られて転んだりしたため、彼女の服はあちこちに木の葉や泥をくっつけて薄汚くなっていた。後ろで一つ編みにした髪に木の枝が刺さっているし、顔にも泥が跳ねかかっている。けれど、カッサンドロスが渡してくれた装備が良かったためか、ここまで一度も猛獣や毒獣に出会うことがなかった。
  彼女は髪にくっついた木の枝を抜き取って、ふっと吹き飛ばした。
  この野原から歩いてきた方角を振り返ると、森の頭越しに海を見渡すことができる。彼女は実感していなかったが、ここまでの道はずっとなだらかな上り坂で、この地点で海抜300フィートの高さがあった。中心部にある島の最高峰は、頭を上げて見上げるほど迫っている。ここから先の道はここまでより急な坂になる。   彼女は一息つくと、渓谷に向かって歩き出した。
  谷間の地点は日の光も薄くなり、またこんもりとした木立になっているため薄暗い。一人歩きには寂しいところだが、じゃらんじゃらんとリズムよく鳴る鈴の音と、それに負けないくらいの大きな鳥の鳴き声が彼女の周囲をにぎやかな雰囲気にしていた。
  翡翠色の羽をした、鳩ぐらいの鳥が何羽か、枝から飛び立った。瑠璃色の鳥が枝に並んで、珍しいものを見るように彼女のほうを眺めていた。
  そんな風景を目にしながら歩くことさらに二十分ばかり。川に支流が合流する地点にさしかかった。支流は走り幅跳びで飛び越えられる程度の川幅で、流れは速かった。
  彼女は立ち止まり、鼻をひくつかせた。そして、支流の方向に足を向けた。
  奔流をさかのぼる河原の道に比べて、支流の側は急な山道の上に大きな岩なども転がっている。そんな悪路を彼女は何とかがんばって登っていた。どうもこちらのほうに何かがあるような気がしてならなかったのだ。
  しばらく登っていると、木立の向こうからかすかに瀧の音が聞こえてきた。彼女は急ぎ足で坂を駆け上がり、うっそうとした木立を抜けた。
  木立から抜けた先は、樹木がまばらに生えている岩場になっていた。そこには落差10フィートほどの小さな瀧と、周囲20フィートほどの淵があった。
  彼女は淵に手を入れてみた。淵の水は温かかった。
「ラッキー。温泉を見つけるなんて、今日はすごくついてるわ」
  大発見に彼女は大喜びして、その場で軽やかにダンスした。 たとえ火山島とはいえ、天然温泉、それも適温になって自然に湧いている温泉を発見できることは極めてまれだ。しかも温泉ファン垂涎間違いなしの、天然の温泉の瀧だ。自然の露天風呂である滝壺の淵は広さ、深さも申し分ない。ここまでおあつらえ向きの温泉が見つかる確率はいったい何万分の一だろう。
  きれい好き、風呂好き、温泉好きの彼女にとっては、海賊の隠し財宝を発見する以上の大発見だった。
  彼女は服を脱いでそれを無造作に岩の上に投げ散らかすと、温泉の中に飛び込んだ。
  船の上にいる間は風呂にはいることはおろか、水浴びをすることもできない。シャワーなんてしゃれたものはインフィニティ号にはついていない。だから航海中は、濡れタオルで体を拭くぐらいで我慢しなければならない。航海者とはいえ、マリアンヌだって女の子だ。なるべくならいつでも身体をきれいにしておきたいと思う。
  だから、マリアンヌは上陸したら真っ先に水浴びできる場所を探そうと心に決めていた。温泉を探し当てるとはまるで予想していなかったが。
  彼女は肩まで湯につかりながら、上機嫌で鼻歌をならしていた。
  紅色の羽を持つ雀くらいの小鳥が、十羽くらいの群れになって彼女の上を通り過ぎ、崖の向こう側に飛んでいった。近くの木の枝の上には、翡翠色の羽の鳥がとまっていて、彼女を見ていた。何か変わったものがいるぞと思っているのか、しきりに首を傾げている。
「こんな露天風呂を独り占めできるなんて、あたしってなんて幸せなんだろ。あー、極楽極楽」
  彼女はしばらく幸せの中にどっぷり浸かっていた。
「そういえば、じいさんがここはどこの国のものでもないって言ってたっけ。いっそのことこの島ごとあたしのものにしちゃおうかな。そんでこの温泉のあたしのものにしよっと」
  カサリ
  幸せに浸っている彼女のそばで、草むらをかき分ける音がした。その音で彼女は夢心地から目が覚めた。
「のぞきかな…?誰かはだいたいわかってるけど」
  彼女は温泉の底から、握りこぶし大の滑らかな石を拾い上げると、音のした方向に向かってそれを投げた。
  ごちん
「いでっ」
  草の陰から紫色のトルコ帽がはじけ飛び、額を押さえたカッサンドロスが転がり出てきた。
「まーたじいさんだったのね。いい加減にしてよ!」
  マリアンヌは怒ってカッサンドロスにそう言い、また石を拾い上げた。
「すまん嬢ちゃん。ほんの出来心なんじゃ」
  カッサンドロスは痛む額をさすりながら弁解するが、彼女は聞く耳を持たない。拾い上げた石を彼に向かって投げつけた。
「向こうに行ってよ」
  彼女の投げた石は彼の脇腹あたりに命中した。
「あいたたた。別に見せて減るもんじゃないからいいじゃないか」
「とっとと失せろ!このスケベじじい!」
  彼女は人の頭ほどもある大きな石を両手で持ち上げると、オーバーハンドでカッサンドロスに向かって放り投げた。
  彼女の投げた石は、あわてて逃げ出そうとしたカッサンドロスの背中に重くのしかかり、彼は地面にべったりのされてしまった。
  ちなみに、彼女はさっきの投石の時、少女の裸体をあらわにしてしまったのだが、幸いだれも見ていなかった。
「とほほ、何でわしだけがこんな目に遭うんじゃ…。ほかの船員どもも一緒になって見物してたというに」
  カッサンドロスはぶつくさぼやきながら、ほうほうの体で逃げていった。
  ちなみに、彼とともにマリアンヌの入浴をのぞき見していた船員たちは、彼女の一投目の時に、すたこらさっさと蜘蛛の子を散らすように逃げてしまっていたのである。

 10月23日にサモス島から出帆し、三日後の10月26日、インフィニティ号はニート海の海域に入った。
  サモス島で予定していた船の修理と水の交換補給、ネズミの処理は無事に終了した。また、島で狩猟をしていたプトレマイオスたちが、見事に野豚を四頭捕まえたので、宴会もすることができた。野豚の肉の一部は薫製にして船の食料として積み込んだ。ほかにも、島で見つけた芋類を食料として積み込んでいる。食料と水の問題もある程度解消したので、マリアンヌたちの艦隊は安心して航海に臨むことができた。
  ニート海は、北は緑豊かな大地である中央大陸、南は灼熱の砂漠が広がるゲレイ大陸、この二つの大陸に挟まれた内海である。外洋に比べると波も静かで、風も穏やかなこの海域は、古くから海運が盛んであり、沿岸には古い港町が数多くある。
  この海域には南東の風が吹いていた。西から北西に進路を向けているインフィニティ号にとっては都合の良い追い風だ。
「この分だと、明日にはニート海を縦断して白ゼナガ河の河口に着けるでしょう。その後、上げ潮に乗って河に入り、レグラーン港までさかのぼります。あと一週間で目的地に到着できるだろうと思います」
  当直甲板上でセレウコスがマリアンヌにこれからの航海を説明した。
「あと少しで着けるのね」
  マリアンヌは風になびいて顔にまとわりつく長い髪を手で払いながら、空を見上げた。
  ニート海海域と周辺地帯は安定した温暖な気候だ。春を思わせる明るい青の空が広がっている。心地よい暖かな風がマリアンヌたちをなでていった。
  ふと、彼女は空の一点に目を留めた。
「あら。ねえ、じいさん。あれはなにかしら」
「なにかあったかね」
  額の膏薬を貼り直していたカッサンドロスが彼女のほうに近づくと、彼女は西の方角、船の進行方向から見て十時の方角の空を指さした。
  空に浮かんだすじ雲が、渦を巻いて反時計回りにぐるぐると回転しているのがわかった。その回転はかなり速い。
「あのようなものは初めて見るのう。空気の渦じゃなかろうか」
「空気の渦というと、竜巻か?」
  セレウコスがカッサンドロスのほうを向いて尋ねた。
「そうかもしれんし、そうでないかもしれん。わしには何とも言えんが、とりあえずあれには近づかないほうが無難じゃろうな」
「でも、あの雲の渦、こっちに近づいてきているみたいよ」
  マリアンヌの言うとおり、雲の渦はインフィニティ号のほうに少しずつ近づいてきていた。
「心配はいらんよ。我々の進行方向に向かって動いているわけではないし、雲の渦自体まだ遠くにあるから影響は受けんじゃろう」
  三人が話し合っていると、メーンマスト上の見張り台に立っていた船員が呼び子笛を吹いた。この笛は、見張りが敵艦や危険な状況などを見つけたときに吹くものだ。
「何かあったの?」
「後方に怪しい船がいます。ディカルト国旗を掲げていますが、どこの所属船なのか不明です」
  見張りの報告を受けて、マリアンヌは望遠鏡を手にして船尾に向かった。
  船尾から後方を見ると、ディカルト連邦国旗を掲げた二隻の船を確認できた。
「確かに怪しい船だわ。なんなのかしら」
  二国以上の領海をまたいで航海する艦隊の旗艦には、船籍をおく国の国旗と、司令官旗と呼ばれる、提督の所属を表す旗を掲げることが国際協定で定められている。軍艦であれば国旗と将官旗(司令官の階級を表す旗が一般的)を、商船であれば国旗と所属する商会の旗を掲げる。
  ちなみにマリアンヌの船であるインフィニティ号には、上半分は白、下半分は水色、中央に紅色の太陽と純白の水鳥を重ねて染め抜いたディカルト連邦国旗と、緑地に錨のマークがついたティシュリ航海者ギルドの旗を掲げている。マリアンヌのような、船一隻で細々と商売する航海者は、ギルドに所属してその斡旋で仕事をすることが多い。一応マリアンヌもティシュリ航海者ギルドに所属しているのだが、この組織はあまり構成員を拘束していないので、ギルドを通さず個人で仕事を請け負うことも許される。
  インフィニティ号を追尾するように航行している二隻の船は、ディカルト連邦国旗を掲げてはいるが、どちらの船にも司令官旗が掲げられていない。
  二隻のうち先頭に立つ船は、キャラック船という大型の貨物船だが、船体は黄色と紫できれいに塗られている。全開になっている帆には大輪の薔薇が鮮明な赤で染め抜かれている。マストを支えているロープには金銀のモールが飾られ、船首には王者の船首像が、金をかぶせて据え付けられている。宝船のように派手に飾られているのでとにかく目立った。
  後方に続く船は、マリアンヌたちの船インフィニティ号と同じ三本マストの中型船のようだが、武装が施されているようだ。こちらは何の飾り気もない船なので、前方の船と比較してみすぼらしく見えてしまう。
「海賊船じゃないよね」
  マリアンヌは望遠鏡で後方の二隻を見続けながらつぶやいた。
  司令官旗を掲げない船は、たいていの場合違法操業をしている。その多くは海賊行為だ。海賊が偽の国旗を掲げるなどして商船に偽装することは決して珍しいことではない。
「どうしたね」
  カッサンドロスが船首の当直甲板から船尾のマリアンヌのところにやって訊いた。彼女はカッサンドロスに望遠鏡を渡した。
「ディカルト船っぽいんだけど、海賊船かも」
「どれどれ」
  カッサンドロスは渡された望遠鏡をのぞき込み、しばらくして「海賊ではなさそうじゃのう」と言った。
「後方の船は武装船のようじゃが、あの派手な船は純粋な貨物船じゃ。喫水が深くて船足は鈍いから、あれでは海賊はできんよ。第一、海賊が船を派手に飾ることは考えられんよ。あれだけ派手に飾った海賊がいたら、目立ってしょうがない。ほかの海賊連中に襲ってくださいと言っているようなものじゃからのう」
「じゃあ、あれの正体はなんなのかしら」
  マリアンヌの問いかけにカッサンドロスは首をひねった。
「さあて。司令官旗を掲げていないことからすると、密貿易船かほかの違法操業船だと思うんじゃが、それにしても目立ちすぎじゃ。なにがしたいのかいまいちわからん」
「追いついてこないよね」
「その心配はないじゃろう。船足はこの船が勝っておるからのう」
  船尾で話し合っている二人のところに、後方から近づいてくる不審船に気がついたプトレマイオスが、拳でぼんぼんと胸を叩きながらやってきた。
「お嬢、あの船に一丁暴れ込んでやろうぜえ。正体を隠してる奴はだいたい悪い奴に違いねえんだ」
  酒と昼寝と戦闘をこよなく愛する怪力戦士は、鼻息を荒くして彼女に言った。
「だめよ。そんな時間はないわ」
「ちぇ、つまんねえの」
  プトレマイオスは明らかにがっかりした顔をした。
「こんな時は酒に限るぜぇ」
  そう言って彼はふところに手を突っ込んで、超強力ラム酒ネルソンズブラッドのボトルを取り出し、ぐびぐびと酒を飲み始めた。
  おそらく、彼の懐は、酒瓶の詰まった四次元ポケットなのだろう。
  マリアンヌとカッサンドロスは船首に戻り、後方からついてくる不審船についてセレウコスに話した。
「こちらに敵意を示してきたわけではないでしょう。なら、無視しましょう」
「そうじゃの」
「でもさ、もしあの船があたしたちに近づいてきたらどうするの」
  マリアンヌは不安げに訊いた。後方の不審船が、どうも自分たちの後を付けてきているような気がするのだ。今は遠くにあるから何の反応もないだけで、近づいてきたら攻撃をしてくるかもしれない。
「決まってるじゃねえか。返り討ちにしてやるまでよ」
  半分あいたラム酒の瓶を握ったままプトレマイオスが当直甲板までやってきて言った。
「戦闘になる前に振り切るようにします。プットの言うことは無視しましょう。ただの考えなしの馬鹿だから」
  セレウコスの言葉にプトレマイオスが反応し、顔を真っ赤にしてむしゃぶりついてきた。
「おうおうおう、考えなしの馬鹿とはどういうことでえ、セル!」
「事実を言ったまでだ。お前こそよく考えて見ろ。ジョゼフの旦那の船と違ってこの船は商船仕様だから戦闘力が低い。お前は戦闘戦闘としか言わないが、あえてこの船で戦闘させてお嬢ちゃんを危険にさらすのか」
  セレウコスは口調は冷静だが鋭く反論した。
「けっ、ご託並べやがって。黒坊のくせに偉そうにしてんじゃねえぞ」
  プトレマイオスのののしりにセレウコスが反応し、彼の顔を鋭くにらみつけた。
「お前、自分たちの民族を侮辱するのは許さんぞ」
「お、やんのかコラ。俺様は前からてめえを一度ぶちのめしてやろうと思ってたんだ。いつでもやってやんぞ」
「ちょっと。二人ともやめてよ。お互い同じ船に乗り込む仲間じゃない。こんなところでけんかしないで」
  マリアンヌがあわてて二人の間に入った。
「少なくとも、ここでけんかはしないで。お願い」
「…わかりました。申し訳ない、お嬢ちゃん」
「ちっ。お嬢の顔に免じて、今日のところは勘弁してやらあ」
  まだ険悪な空気が残っていたが、とりあえずけんかを回避させることができて、マリアンヌはほっとした。
  そのとき、急に突風が船の中に吹き込んできた。風にあおられてよろけたマリアンヌはプトレマイオスの土手っ腹に顔から突っ込んだ。
「なに。なにがあったの」
「どうやら空気の渦に巻き込まれたようじゃのう。渦の範囲がここまで大きいとは思わんかったわい」
  カッサンドロスが、風に飛ばされないようにトルコ帽を右手で押さえながら答えた。
「この風だと下手をすると船が転覆するかもしれません。すぐにこの海域から出ましょう」
「待って。この風を利用しようよ」
  マリアンヌの言葉を聞いて、仲間たちと船員たちが一斉に彼女の顔を見た。
  彼女はメーンマスト上に翻るディカルト連邦旗と、コンパスの針を見比べ、
「南南東の風が吹いているから追い風になるわ。この風に乗れば後ろの不審船を振り切ることもできるし、目的地に早く到着できる。一石二鳥じゃない」 「おもしれえじゃねぇか。この風に乗ってぶっ飛ばそうぜぇ」
  プトレマイオスがいち早く賛成した。
「ふむ。かなり危険じゃが、やってみる価値はありそうじゃの」
  カッサンドロスも了解し、ひとつうなずいた。
「わかりました、やりましょう。よし、横帆を限界まで開け。面舵をとれ、進路を北西に向けろ」
  セレウコスが命令を飛ばし、船員たちは一斉に動き出した。
  幾人かの船員が、帆を広げるためにマストに登っていった。
「風に飛ばされないように気を付けてね」
「へいっ」
  マリアンヌに声を掛けられた船員たちは、風にあおられて飛ばされそうになりながら、高所での作業を続けた。
  強風を受けて帆がはち切れんばかりに膨らんだ。帆を支えるロープがみしみしと音を立てた。マストとヤードを支えるロープが風に鳴いている。
「ロープを足してマストを補強しろ」
  セレウコスが素早く命令を出した。船員たちはそれに従い、マストの補強に取りかかった。
「ほっほう。南南東の風が95フィート毎秒か。これはほぼ嵐じゃのう」
  気象観測をしていたカッサンドロスが感嘆の声をあげた。
  嵐のような強風だけあって、波は高く、船は上へ下へと激しく揺れている。
  だが、耐波性も安定度も高いディカルト製クリッパーだけあって、横揺れは少なく、転覆の恐れも感じない。
「現在24ノットで南東に航行。もはや帆船の限界を超えておるのう」
  船は文字通り波を切って進んでいた。船首から潮が霧のようになって甲板の上に降り注いでくる。
「きゃあ、速い速い。まるで海の上を飛んでいるみたい」
  マリアンヌは船首に立って海を眺めながら、まるで子どものようにはしゃいでいた。
  そして、この風に乗ってニート海を縦断したインフィニティ号は、その日の夕方には白ゼナガ河口の地点にたどり着いたのである。
 いいことは連続して起こるもので、強風地帯をうまく切り抜けて河口に到達したときにちょうどよく上げ潮に乗ることができ、インフィニティ号はすんなりとゼナガ河川上りに入ることができた。
  10月28日。川上りを始めてから三日目になる。
  インフィニティ号の右舷方向に険しい岩山が連なっている。トッドリーの岩脈帯と呼ばれる山脈で、この麓の地点からゼナガ河は東に流れる青ゼナガと南に流れる白ゼナガに分岐する。
  この岩山の麓に位置する渓谷からゼナガ河の分岐点のあたりまでは流れが速く、また複雑であるため、交通の難所として知られている。
  セレウコスの巧みな操船で難なく難所を突破したインフィニティ号はゆっくりと川をさかのぼっている。ここからは川の中流域なので、流れこそ幾分速くなっているが、川幅も深さも十分あり、外洋航海船も安全に航行できる。   ここまで来ると、目的地であるコスバイア皇国の都レグラーンはもうすぐだ。
  世界でも指折りの大河で、世界一の流域面積を持つゼナガ河は、千年以上昔から主要な交通路として利用されてきた。今でも、中央大陸東部最大の大国であるこの国の交通の大動脈である。
  また、このゼナガ河の流域には広大な平野が広がっていて、そのほとんどが耕地として開発されている。非常に肥沃な土地であり、世界でも一、二位を争う農業生産力を誇っている。
  まさに、ゼナガ河は母なる川なのだ。
  マリアンヌはインフィニティ号の上甲板の上で大きく息を吸い込んだ。
「潮の香りがしないね」
「そりゃそうじゃよ。ここは淡水の川じゃ」
「でも、川幅はすごく広いし、上流にも下流にも水平線が見えるから、川って言う感じがしないわ。ディカルトの川とは大違いね」
「大陸の大河はそう言うものじゃよ。特にゼナガ河はの」
「ふーん」
  マリアンヌは物珍しそうに、川岸のほうなどを望遠鏡で眺めていた。
「あれ。ねえ、じいさん。あれはなんて言う動物なの?」
  彼女は岸辺で水を飲んでいる生き物を指さして、カッサンドロスに訊いた。野牛のようだが、普通の牛より二周り以上は大きな体をしている。
「あれはオーロックスじゃな。中央大陸最大の草食動物じゃ。見てのとおり、身体はでかいし、力も強い。おとなしい性格をしとるが、一度暴れ出すと街ひとつ破壊すると言われておる」
「へえ。そうなんだ」
「人間が土地を開発して行くにつれて住みかを追われ、今では数が減って、ほとんど見かけなくなったと言う。あそこで水を飲んでいるオーロックスも、いつまで平和にここで暮らせるのかのう」
  カッサンドロスがしみじみ言った。
「ふーん、強そうなのになんだかかわいそう。…あっ!」
  マリアンヌは突然大きな声をあげた。
  彼女の目の前を、淡いピンク色をした何かがはねたからだ。
「ほう、カワイルカに出会うとはのう」
「きれい…」
  淡いピンク色の身体をしたゼナガカワイルカは、6匹の群れをなして、インフィニティ号のすぐそばをジャンプしながら泳いでいる。ジャンプするたびに飛び散る水しぶきが、太陽の光を受けて、ダイヤモンドのようにきらめいていた。
  この優美なイルカショーをマリアンヌはうっとりして見ていた。
「カワイルカか。ぶつかってこないといいが」
  当直甲板上のセレウコスが相変わらずの冷静な口調でつぶやいた。
「イルカがぶつかってくるの?」
「ごくたまにですが。そう言うときは、鳴り物をならしたり、棒などでつついてやれば逃げますが、やむを得ず殺してしまうこともあります」
「殺してしまうなんていやよ。あんなに楽しそうに泳いでるのに」
  マリアンヌはつい大声になった。
「やむを得ないときだけです」
「嬢ちゃん。イルカやクジラといった海の動物は案外と頭がいいものでの。船のそばまで来てもあえてぶつかってくることなどほとんどないものじゃ。中には例外もあるがの。だから安心していいわい」
「そうなの。だったらいいのよ」
  カッサンドロスの言葉で安心した彼女はイルカショーの見物を再開した。
「それにしても、ほんとに楽しそう」
  優美なカワイルカの連続ジャンプなどを眺めていると、それだけでつい楽しくなって、時間の経つのも忘れてしまう彼女だった。彼女だけでなく、船員たちもイルカショーを目にして気分が和んでいる様子だ。
「おっ、ウミブタがいるぜえ」
  ネルソンズブラッドのボトルを片手に、プトレマイオスがのしのしやってきた。
「イルカよ、イルカ。海豚と書くけどイルカと読むの」
  プトレマイオスはネルソンズブラッドをぐびりと一口飲んだ。
「お酒ばかり飲んでないで、プットも一緒にイルカを見ようよ」
  マリアンヌは彼の手から酒瓶を取り上げてから、手を引っ張って促した。
「それにしても、イルカって奴は…」
  彼は懐に手を突っ込んで新しい瓶を取り出すと、一口飲んだ。
「まるまるしていてうまそうだぜぇ。なあ、お嬢」
「…節操のない食いしん坊って嫌いよ。気分が壊れるじゃない」
  マリアンヌは頬を膨らませてそっぽを向いた。
  カワイルカの群れはしばらくの間インフィニティ号に併走するようにジャンプしながら泳いでいたが、夕方までにはどこかに行ってしまった。
 ゼナガ河をさかのぼって行くにつれて、視界に山地や丘陵地帯も見えてくるようになる。上流のほうに目を向ければ、水源であるリッド山脈の山々がうっすらと姿を現す。
  翌日の10月29日。マリアンヌは夜明けとともに目を覚まし、朝の涼しい空気が流れる甲板に出てきた。カッサンドロスが、「このぶんなら明日の朝にはレグラーンが見えてくるかもしれん」と言っていたので、待ち遠しくなって早起きしたのだ。
  当直甲板ではセレウコスが進行方向を監視しながら、タオルで頭を磨いていた。
  二年以上同じ船に乗って航海をしているのだが、マリアンヌはセレウコスが頭の手入れをしているところを、数えるほどしか見たことがない。
「おはよ、セル」
「おはようございます。早いですね」
「じいさんが、明日の朝にはレグラーンが見えてくるって言ってたから、待ち遠しくて目が覚めちゃったの」
「到着まではまだ少しかかりますよ。あと三、四時間といったところでしょう」
  そう答えながら、セレウコスは手鏡で自分の頭を映して見た。なんだか納得がいかない様子で、渋い顔で首をひねった。
「どうしたの?」
「実はワセリンが切れてしまって。それでいまいち頭の照り具合が良くないのです」
   「・・・そう?いつもと変わらない気がするけど」
  彼女はそう答えたのだが、セレウコス自身は自分の身だしなみへのこだわりにどうも沿わないので納得がいかない様子だ。
  それよりも、マリアンヌはセレウコスの顔色が疲れ気味なのが気になった。
「セル、疲れてるんじゃない?寝てないの?」
「はい。夜間は特に向かい風になるので、タッキングして進ませなければならないのです。常に監視していなければならなくて、ここ数日あまり睡眠していません」
  タッキングというのは、向かい風に向かって船を進ませる方法で、斜め前に進路を取ってジグザグに前進する。当然、普通に前進する場合よりも横の空間を必要とする。外洋ならば問題ないが、川を遡上するとなると、狭い水路の中で対向して下ってくる船や、川の浅瀬などにも気をつけなければならず、より細心の注意が必要になる。
「ごめんね、寝る間を削ってまで働かせて。寄港したらゆっくり休ませてあげるから」
「そうさせてもらいます」
  セレウコスは頭の手入れをやめ、船首に立って進行方向の監視を続けた。
  まだ朝食まで時間があったので、マリアンヌは上甲板の船縁近くに腰掛けを起き、その上にあぐらをかいて川の風景を眺めることにした。
  晩秋の早朝なのでだいぶん涼しい。その清涼な空気は新鮮な味がした。
  川も近くに、ディカルトにはいないような魚が群れをなして泳いでいた。
  川の上を水鳥がすーっとなぐように飛んでいった。急降下してくちばしに魚をくわえ、またどこかへ飛んでいく鳥もいた。
  水のある風景を見ていると、飽きることがない。
  空の色が白から青へとだんだん移り変わっていった。
  食事の時間になって、彼女はパンをかじりながら、ゆっくりと移り変わる風景をずっと眺めていたが、思い出したかのように、ベストのポケットから銀製の懐中時計を取り出した。
  時計は九時を指していた。
「九時、か」
  彼女がそう口にするやいなや、見張りの船員が大声を上げた。
「港だ!提督、港が見えますぜ!」
「どこ?」
  マリアンヌはすぐに当直甲板に走ると、望遠鏡を手にした。
「あそこに見えます。目的地のレグラーンですよ」
  隣でセレウコスが指を指した方向を彼女は望遠鏡でじっと見た。
  大きな町並みが見えた。桟橋と、停泊している多くの船舶が見えた。港の目印である灯台の塔が見えた。
  ただ、その街全体がうっすらともやに包まれていて、何とも不思議な雰囲気を醸し出していた。
「とうとう着いたのね。さあ、寄港命令を出して」
  彼女は望遠鏡から目を離して、セレウコスに言った。セレウコスはうなずき、船員たちに命令を出した。
「総員、寄港準備開始。回頭用意、進路を西南西に取れ!レグラーン港に寄港する!」
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