笑うカウンセラー

五章『笑うクリアカウンセラー』

 

 二階の窓辺に置かれたコンテナから、青々とした葉をつけた観葉植物が伸びている。薄い窓ガラス一枚を隔てた外では、雪が降りしきっているというのに、それはまるで夏の陽光を浴びているかのように心地よさげだった。
 植物の向こう、八の字に開いたカーテンの奥は、暗くてよく見えない。だけどきっと、そこは夏なのだろう。明るくて、躍動的な、夏なのだろう。
 その部屋の主は、数ヶ月前まで停滞していた。冬を耐えるために冬眠していた。外から見える窓辺の観葉植物は、いつも元気がなくてしおれていた。
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 だけど数ヶ月前から、植物は活気を取り戻していた。その部屋にくすぶっていた冬は去って、春が訪れたのだ。
 カーテンが揺らいだ。季節の境界の向こう側に、女の子が立っていた。長い黒髪の、どこか人形を思わせる整った顔立ちの彼女は、眼下に立つ人間をじっと見つめていた。彼女の深い黒色の瞳には、彼女の家の門前で傘をかたむけ、窓を見上げている御崎邦弘が映っていた。しばらくして、人形の少女はため息をつくような仕草を見せた。
 カーテンが閉じて、それほど時間を空けずに玄関のドアが開いた。
「チャイム押しなよ。どこのストーカーかと思った」
 出てきたのは山内杏里だった。生地の厚い、学園の冬服に身を包んでいる。首にはその長い黒髪にからまらないように丁寧に、マフラーが巻かれている。
 邦弘は軽く片手をあげて返事をした。
「いや、感慨にふけっていてさ」
「どんな」
「あの植木鉢、ずっとほったらかしにしてただろ? ようやく水をもらえるようになったんだなって」
 邦弘がうんうんと何度もうなずく。杏里は目を逸らして、不快げに呟いた。
「……邦弘には関係ない」
 ずいぶんと冷たい言い草だった。邦弘はすこし肩を落とした。二人の仲違いはすっかり氷解したと思っていたのだが、もしかしたらそれは勘違いだったのかもしれない。
 杏里はくるりときびすを返すと、家のなかへと引き返そうとした。慌ててそれを引き止める。
「待て待て。学校はどうするんだよ?」
 彼女は半身をかたむけて横顔を見せると、単刀直入に答えた。
「遅刻する。お腹が痛いから」
 平然と冷然と粛然とそんなことを言い切ってくれた。嘘だ。あきらかに嘘だ。
「待ってくれよ。ちょっと気になることがあってさ。訊きたいことがあるんだ」
 わざわざ杏里の家を訪ねたのはそのためだった。
 杏里は一瞬、ぴたりと動きを止めた。しかしすぐにドアの取っ手をつかんだ。
 邦弘は呼び止めたが、しかし彼女は振り向きもせずにドアの向こうに消えてしまった。おそらく最初から邦弘と登校する気すらなかったのだろう。彼女は傘もカバンも手にしていなかったのだから。質問に答えてくれることなど、期待できるはずもなかった。
「まだまだ冬は終わらない、か」
 邦弘は肩を落として、白く柔らかい雪道を歩き始めた。

 その日の放課後、邦弘はいつものように保健室にやってきた。もちろんカウンセリング同好会に参加するためである。
 保健室の窓際には観葉植物が置かれてある。日光を取り入れることができ、室内の定常温度を享受できるという、至れり尽くせりのポジショニングだ。生き延びるには管理者の細やかな気配りが不可欠である観葉植物は、心優しい主を持ったことを感謝するべきだろう。かつての杏里のずさんな管理下に置かれてしまった、哀れな同胞もいるのだから。
 おそらく感謝が足りなかったに違いない、と邦弘は思った。
 窓際の観葉植物は、一週間ほど前から徐々に葉の色を失っていき、いまや葉緑体の実験には使えないほど、くたびれた茶色に成り果ててしまっていた。
「あら、豆が切れちゃってるわ」
 給茶スペースのほうで声がした。そちらを見ると、陽子先生が空っぽのコーヒー豆のビンをぷらぷらと振っていた。
 邦弘は小さくため息をついてから、座る場所を探した。いつも腰かけるベッドの周囲にはカーテンがかかっていた。どうやら誰かが使っているらしい。仕方ないので椅子を使うことにする。すぐに陽子先生が戻ってきて、目の前のデスクに腰かけた。彼女は足を組むなり、困ったように眉尻を下げながら言った。
「先生がいかに火元責任者としての責任を果たしていないか、よくわかったわ」
 邦弘は返事をしなかった。窓の外に目をやる。まっしろな雪が音もなく、緩やかに舞っている。一月だった。邦弘が学園に入学してから、カウンセリング同好会に入会してから、もうかなりの月日が経っていた。光陰矢のごとしとはよく言ったものだ。
「ゆりあさん、どうしちゃったのかしら」
 陽子先生が力のない声で呟いた。邦弘が視線を戻すと、ぼんやりと眠たげな目がそこにあった。数ヶ月前までの、目覚まし時計を見つめていた彼女の表情を思い出し、邦弘はすこし嫌な気分になった。が、すぐに頭を振って、考えを追い払った。デスクにはもう時計は置かれていない。それに陽子先生の憂鬱の原因は、以前に彼女が抱えていた問題とは別のものであることを邦弘は知っていた。
「一週間、でしたっけ――ゆりあがサボるようになってから」
 一瀬ゆりあが保健室に顔を出さなくなってから、もうそれくらいになる。最初の日は、風邪かなにかで学校を休んでいるのだろうと思った。あのゆりあがまさか同好会をサボタージュするだなんて、思いもよらなかったのだ。
 しかし彼女は、三日続けて顔を見せなかった。風邪にしては長いな、と不審に思った陽子先生は彼女のクラス担任に話を聞くことにした。そして、ゆりあは学校を休んでいないということが判明したのだ。
 学校には来ている。なのに同好会には顔を出さない。これはあきらかなサボり行為だった。
 ゆりあは真面目で優等生タイプの女の子だ。きっと活動に参加できないよほどの事情があるに違いない。少なくとも邦弘はそう思っていた。もしそうだとしたら、いったいどんな事情なのだろうか。すこし心配だった。
 杏里に訊こうとしたのも、そのことだった。校内での、ゆりあの目撃情報を集めようと思ったのだ。まあ、それはにべもなくはねつけられてしまったわけだが。
「植物は乾いて枯れちゃったし、コーヒーが飲めないから、喉まで渇いて枯れちゃうわ」
 悲壮な表情をする陽子先生。邦弘は呆れたように言った。
「自分で買い出しに行ったらいいじゃないですか」
「教師はこう見えても忙しいのよ。水やりはしてあげてたけれど、適量がわからなくて……ほら、観葉植物って敏感だから、水をあげすぎるとすぐにしおれちゃうでしょう? 冬場なんて特に注意しないと」
 語尾が小さくなっていく。邦弘はもしやと思って、彼女の目をじっと見据えた。
「あれが枯れたのは、水の供給過多のせいですか」
「ちょっとマーケティングリサーチを誤っただけよ」
 哀れな観葉植物である。
 そのとき、保健室のドアがノックされた。邦弘は一瞬、答えようかどうか迷った。ゆりあのいない同好会になにができるだろうか。陽子先生は職務で忙しい。邦弘は実動専門で、人間の心の機微にはむしろうとかった。まともに依頼を受けられるとは思えない。
 しかしそんな彼の悩みは一瞬で解決した。
「どうぞ」
 陽子先生があっさりとドアの外へ声をかけたのである。目をぱちぱちさせる邦弘に対して、彼女は柔らかく微笑みつつ言った。
「困っているひとを助けるのが、あなたたちの仕事でしょう?」
「そりゃあ、そうですけどね」
 反論しようと身を乗り出しかけたとき、「失礼します」という声とともにドアが開いた。
 保健室に足を踏み入れた人物へと反射的に目をやって、邦弘は言葉を失った。
 そこには非常識な女性がいた。いや、彼女の所作はいたって常識的である。ノックも挨拶も如才なくこなしていたし、背筋もピシっと伸ばしていて、凛とした魅力さえ漂わせている。内面のすばらしい人間であると、ひと目でわかった。
 しかし問題はそこではない。内面ではなく、外面が問題だった。
 彼女はふわふわとした細かいひだのくっついたメイド服を着ていた。清楚で可愛らしいデザインだが、どこか機械的な印象をも抱かせる。それは彼女の長身と、切れ長の凛とした瞳のせいかもしれなかった。
 ともあれ、彼が非常識と感じたのはまさにそのメイド服だった。その服装が、内面からあふれ出る諸々の美点をことごとく蹂躙していた。
「わたくし、大神侍美(おおがみ ひとみ)と申します。侍女の美と書いて侍美」
 メイドになるべくして名づけられたとしか思えない名前だった。怪しい。名前も見た目も、なにもかもが怪しい。どうにか口実を見つけてお帰りいただく他にあるまい。邦弘はめまいをぐっと堪えつつ、なるべくじろじろ見ないように気をつけながら、空々しい感じで問いかけた。
「学園関係者の方ですか? 申し訳ありませんが、外部の方の相談は承りかねるので……」
「関係者です」
 彼女はきっぱりと答えた。ショートヘアを揺らして、保健室をぐるりと見回した。視線が動くにつれて、彼女は表情を歪めていく。焦りや失望がありありと顔に浮かんでいるところを見ると、どうやら彼女は心中が顔に出やすい人種のようだった。
 感情を隠そうともせず、いらだたしげな口調で彼女は、とんでもないことを言った。
「一瀬ゆりあはどこでしょうか」
「ゆりあさんを知っているの?」
 陽子先生が身を乗り出していた。邦弘も思わず椅子から立ち上がって、メイド服の、盛り上がった肩を掴んでいた。
「知り合いなんですか? ゆりあはいま、どこにいるんですか?」
「わたくしが訊いているのですが」
 いらいらしているのはあきらかだったが、あくまで丁寧な口調を心がけているようだ。彼女は邦弘の手をやんわりと押し戻すと、落ち着かない様子でまた室内を眺め回した。そして、ふうと疲れたように椅子に座り込んだ。
「いったいどこに……」
「侍美さん。失礼ですが、ゆりあさんとはどういったご関係でしょうか」
 陽子先生は座りなおしながら尋ねた。
「失礼。自己紹介が不十分でした」
 そう言って丁寧に頭を下げたメイド服の女性が、次に発した言葉に、邦弘は凍りつき、陽子先生は納得したようにうなずいたのだった。
 曰く。
「わたくしは、大神侍美――一瀬家の住み込み家政婦ですわ」

 

 株式会社一瀬科学という名前を知らない国民はいない。傘下に製薬会社、紳士服メーカー、おもちゃメーカーなど多数の会社を抱えている大企業である。おいおい、科学とは関係のない企業がわんさか含まれているではないか、と思う人間も多いのだが、『科学』というのは会社創立当初の名前をいまだに引き継いでいるだけであり、現在の活動とはあまり関係がないらしい。創立者である一瀬剛健(いちのせ ごうけん)は、十年前から多方面へと積極的に網を伸ばしていき、それぞれの事業において見事に成功を収めていた。もはや科学メーカーというよりは、総合会社と呼んだほうが近い。現在では自動車やインターネット事業、プロ野球球団にも興味を示しているらしい。一瀬科学は日に日に拡大を続けているのだった。
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 ところで一瀬剛健には娘がいる。若くして総帥となり多忙となったため、たった一人しか作れなかった子供だ。母親は彼の秘書を務めている旧姓仁科早百合(にしな さゆり)で、こちらも総帥のスケジュールに準拠するため剛健と同じく忙しかった。当然のことながら、自宅に帰ることも少なかった。
 そこで剛健たちは数人のハウスキーパーを雇うことにした。自分たちが留守にしている間、娘の面倒を見てもらったり邸内の掃除をしてもらおうと考えたのだ。
 一瀬家は閑静な住宅街にある。誰が見てもあきらかな豪邸だった。仕事にプライドを持っている家政婦ならば、一度は世話してみたいと思えるような家である。おまけに一瀬科学の総帥が雇い主となれば、労働側がこれ以上求めるものはなにもなかった。募集すればすぐに人員は集まった。
 大神侍美もそのときに採用された家政婦だった。
 美しく、ひとに尽くせるような人間になってほしい。侍美という名前にはそんな願いがこめられていると、彼女の母親は言っていた。彼女は自分の名前が好きだったので、子供のころからずっと母親の願いに応えられるように生きてきた。中学生のときは生徒会役員となり、生徒のために尽くした。高校生になってからは、生徒会だけではなく、清掃委員会や文化祭実行委員会などをかけ持ちした。学習能力の高いほうだった彼女は、同級生から教えを乞われることが多かったが、もちろん快く教えてあげた。掃除も当番制にかかわらず、毎日のように侍美が引き受けた。
 そんな彼女のことを、当時、大人たちは『偉い』と誉めていた。だけど、それはすこし違う。
 他のひとたちが自分を優先したいと思うことと、彼女が他人を優先したいと思うことは、本質的には同じだった。結局、自分が気持ちよくなれる選択肢を選んでいるだけなのだから。
 だから家政婦という職業を知ったとき、彼女はそれを天職だと思った。家事労働というやつは、それをしない人間には軽視されがちだが、実は心身ともにかなりの労力を必要とする。専業主婦が家事の苦難を耐え忍ぶことができるのは、ひとえに家族のためと思えるからだ。しかし家政婦は家族のためではなく、他人のために家事を行う。その苦労に耐えられる人間は、そうはいない。現に、侍美以外の一瀬家の家政婦たちは皆、終業後にぶつくさと文句をたれている。侍美のように、家事労働に快感を見出すことのできる人間は稀有なのである。
 自分には才能がある。そう思っていた――つい最近までは。
 侍美はその学力を買われて、家事だけでなく、剛健の娘の教育をも任せられた。娘の名前はゆりあといって、素直で心優しい『いい子』だった。そこはかとなく自分に似ている気がする、と侍美は思ったことがある。ゆりあもまた、いつでも他人のことを第一に考える人間だった。
 そんなゆりあの部屋に、夜食を持っていったときのことだった。
 刻々と近づきつつある大学受験に向けて勉強している彼女を応援しようと、侍美はお茶菓子とコーヒーを用意した。もちろんガムシロップは三つだ。
 ノックをしてドアを開けると、そこにゆりあの姿はなかった。トイレにでも行ったのだろうかと思った。夜食をのせたトレイを勉強机の上に置いたとき、一冊のノートが彼女の目に入り込んだ。開かれたまま置かれてあったそのノートには、上半分にびっしりと英文が書かれてあった。その英文の途切れた先に続いていた文章に、侍美の目は釘づけになった。英語ではなく日本語で、そこにはこう書いてあったのだ。
『しばらくお友達の家に泊まってきます。一人でじっくりと考えたいことがあるので、できれば捜さないでください。ああそうだ、侍美さん。お菓子は帰ってから食べるんで、取っておいてくださいね。――ゆりあ』
 この手紙はどう前向きに読み解いても、一つの事柄――ゆりあの『家出』を示していた。
 旦那様のご息女を家出させてしまった。家政婦にとってこの上ない失態である。自分には才能があるだなんて、とんだ思い上がりだった。
 しかし侍美が落ち込んだのは一瞬だった。
 彼女はすぐに気を取り直すと、まずはゆりあを連れ戻すことを考えた。捜さないでくれと言われて捜さない家族はいないのである。もちろん名誉挽回したい気持ちもあった。
 侍美はさっそく、ゆりあにとって身近な人物たちとコンタクトを取ることにした。
 それがつまり、カウンセリング同好会だったというわけである。

 そんな話を侍美の運転する乗用車の助手席で聞きながら、邦弘は一瀬家へと向かっていた。車は制限速度をしっかり守って、のろのろと街の中心部から離れていく。
 侍美がゆりあの捜索を依頼したわけではなかった。邦弘のほうから申し出たのだ。ゆりあが行方不明となれば、放っておくわけにはいかない。
 邦弘は侍美に頭を下げて、ゆりあの部屋を見せてもらえるように頼んだ。そこになにかしらの手がかりがあるかもしれないと思ったのだ。侍美は、最初は他人を邸宅のなかへ通すことに難色を示していたが、目的のためだと諦めたのか、しぶしぶながらうなずいてくれた。
 車が高級住宅街に入ったところで、邦弘は運転席に顔を向けた。
「ほんとに俺なんかがお邪魔していいんですかね? もうすでに圧倒されてるんですけど」
 窓の外を流れていく家々の立派なこと立派なこと。どうやらここは邦弘とはまったく別種の人間の群棲地らしかった。
「お帰りいただいても一向に構いませんが」
 あっさりとした物言いだった。
 途中下車させられてはたまらないと、慌てて言い繕った。
「人間は順応できる生き物だと思うんですよ」
「そうですね……わたくしも、最初に旦那様のお宅を拝見したときは驚きましたわ。それでも住んでいるうちに慣れましたし」
 そこまで言うと、彼女はいきなり眉根をくもらせた。
「ゆりあお嬢様とも最初は距離を測りかねていましたわ。けれどだんだん仲よくなることができて……ああ、でもそれは勘違いだったんですけれどね。わたくしとしたことが思い上がってばかりですね。お恥ずかしいかぎりです」
 そんなことはないと口元まで出かかった言葉を、邦弘は飲み込んだ。もちろんゆりあは侍美を避けるために家出したわけではないはずだ。カウンセリング同好会の創立者はそんな身勝手な人間ではないことを彼は知っている。しかし、侍美にとってはどちらにせよ同じことなのかもしれなかった。
「着きましたわ」
 彼女の声にはっと顔を上げる。いつのまにか車はアイドリングしていた。侍美が右手で示した家門へと目をやって、邦弘はみっともなく口を開けてしまった。
「……本当に家なんですか、ここは」
「どう見ても家ですわ」
 鉄が複雑に絡み合うような趣向の門は、目測で五メートルほどの高さがあった。その先には雪で覆われた広大無辺な庭。庭の中央には濡れた道路があって、その延長上に薄ぼんやりと本邸らしきもののシルエットがうかがえる――この高級住宅街のなかでも際立って絢爛な豪邸だった。
「ん?」邦弘はくいと首をかしげた。
 なにか違和感がある。その正体を探るべく、視線を左から右へと動かしてみる。高い壁、高い門、そしてまた高い壁。壁が三叉路で直角に折れ曲がっているところを見ると、どうやらこの高さの壁が敷地をぐるりと囲っているらしい。
 ――なにもおかしいことはない。たぶん。
「こちらは見た目だけでなく、機能もなかなかのものですわ。家政婦たちに支給された、このリモコンがないと門は開かない仕組みになっているので、不審者をよせつけませんの」
 彼女はリモコンのボタンをぽちっと押した。鉄のきしむ音を立てて門が開いていく。その様子に驚嘆しながら邦弘は、しかし一方で、頭のすみに妙なしこりを感じていた。
(なんか……変だな)

 ゆりあの部屋は意外と普通だった。どんな華美な装飾を施しているのかと思えば、室内のレイアウトはいたってシンプル。シンプルだけど綺麗だった。薄桃色の壁紙が目を引く。棚の上や窓際に飾られてある観葉植物が、自然な空気を作り出している。木製の勉強机はよく磨かれているのが見ただけでわかった。富豪らしいものといえばベッドぐらい。天蓋つきのベッドなんて庶民とはまったくの無縁だ。そのベッドには数体のアンティークドールが並んでいた。そのなかにゆりあマークツーの姿を見つけて、すこしだけ懐かしい気分になった。
「それで、これがゆりあの手紙ですね」
 邦弘は英語ノートをぺらぺらとめくり、件のページを開いた。
「ええ」
 侍美は頬に手を当てながら弱々しく返事した。
「クラスメートにも片端から連絡したのですが、どなたもご存知ないそうで。同好会の方も知らないとなると、一体どこに……」
「まあ、そんなに心配することもないですよ。ゆりあのことだから、馬鹿な真似をしたり、なにかの事件に関わったりはしないでしょうし」
「自分からではなく、巻き込まれていることも考えられますわ」
「ああ……」
 言われてみればそうだ。ゆりあの素性を知ったいまとなっては、誘拐の二文字が非現実的とは思えない。邦弘はすこし表情を引き締めた。
「それじゃさっそく質問したいんですけど……そのまえに、ちょっといいですか」
「はい」
 邦弘は目だけをドアのほうへ向けた。開けっ放しのドアの向こうで、ささっと慌しい衣擦れの音がした。一瞬、フリルのスカートが死角へ逃げていくのが見えた。しかしまだ去ったわけではなさそうで、廊下にはまだいくつかの人間の気配が残っていた。
「あれはなんですか?」
 邦弘が尋ねると、侍美は呆れたようにため息をついてから、深々と頭を垂れた。
「すみません。まったくあのひとたちったら、大人げない」
「やっぱり家政婦の方々なんですね。パンダになった気分ですよ」
「若い来客は珍しいんです」
「はあ……」
 この邸内には自分の他には女性しかいないと思うと――しかも自分が彼女たちの注目の的になっていると思うと、なんだか落ち着かない。さっさと本題に入ってしまうことにした。
「オーソドックスですけど、衣類やシャンプーなんかは確認しましたか」
 侍美は記憶を探るような間を空けてから答えた。
「シャンプーはありましたわ。服は……パジャマと普段着が数着、消えていましたわ」
「学園の制服もないですよね」
 ゆりあが同好会に来なくなったのと、ゆりあが家出をしたのは同じ日のことだった。それからもゆりあは学園に通っていたはずである。邦弘はそこでふと思いついた。
「学園には連絡しましたか? ゆりあは学園を休んでないそうですから、取り次いでもらえますよ」
「その手が。思いつきませんでしたわ」
 侍美は目を見開いていた。
 基本的なことではないかと突っ込もうとしたとき、開けっ放しのドアがノックされた。
「失礼します」
 若い女性の声だった。侍美と同じメイド服の、こちらは二十歳そこそこの家政婦がお菓子と飲み物を運んできた。手馴れていない様子で、お盆を持つ手がぷるぷる震えていた。とても危なっかしい。彼女は四苦八苦して勉強机にたどり着き、ふうと汗をぬぐった。
「どうぞ」にっこり笑った。邦弘が「どうも」と声をかけると、彼女は顔を一気に紅潮させて、逃げるように廊下へ走っていってしまった。
「きゃー! 会話しちゃった」
 本当にパンダである。邦弘はなんだかいたたまれなかった。
 たったいま置かれたお盆には、湯気を上げている日本茶とひよこ型のおまんじゅうがのっていた。全国的に有名な和菓子だ。
「ゆりあに運んだお茶菓子って、これですか」
 なんとはなしに訊いてみた。
「ああ、いえ」
 侍美はちょっと歯切れの悪い返事をした。
「あのお菓子は、もうありませんわ。その、食べてしまったので」
 雇い主への忠誠心あふれる、すばらしい家政婦だった。

 ゆりあの部屋にはほとんど手がかりがなかった。
 これ以上ここにいる理由もない。家政婦たちの好奇の視線から逃げる意味もあって、邦弘はすぐに帰ることにした。その旨を伝えると、侍美は車を出すと申し出てくれた。
 車を取りにいった侍美を玄関で待っていると、若い家政婦が小走りに近づいてきた。さっきお菓子を運んでくれたひとだ。
「ねえキミ、ゆりあお嬢様について調べてるんだよねぇ」
 彼女はやけにフレンドリーに話しかけてきた。
「なにか知ってるんですか?」
「参考になるかどうかはわからないけどぉ、侍美さんが隠してるはずのことがあるんだよねぇ」
 にやにやと笑いながら、もったいぶった口調で言った。
「ゆりあお嬢様の受験する大学のこと、知らないよねぇ?」
「聞いたことないですね……って、受験?」
 邦弘は初めておかしいことに気づいた。刻々と近づきつつある大学受験? ゆりあはまだ二年生ではないか。たしかに真面目な生徒ならば、翌年の受験に向けて勉強するかもしれない。だけど、『刻々と』なんて言葉をつけるからには、その受験日はそれなりに近いのではないだろうか。
「入試があるんだよねぇ。来月の下旬に」
 邦弘の思考に相づちを打つように彼女は言った。
「来月!」
 目と鼻の先である。
 ――どういうことだ。どうして二年生のゆりあが入試を受けるんだ。
「もし本当に家出したとするなら、きっとそれが理由だと思うんだよねぇ」
「受験はゆりあの意思じゃないんですか?」
「決めたのは旦那様だねぇ」
「ゆりあは嫌がってるんですか」
「うーん、だってこれってつまり飛び級ってことでしょ? 高卒を飛ばして大学生になるなんて、一般的じゃないよねぇ。ゆりあお嬢様って、自分が特別になることを嫌うから。それに」
 彼女はあっけらかんとした口調でこう続けた。
「その大学って、外国にあるんだよねぇ」

 

「そう……やっぱりそれが理由なのね」
 一瀬家を訪れた翌日、邦弘がゆりあの大学受験について話すと、陽子先生は納得したようにそう呟いた。放課後の保健室は静かだった。窓の外ではまだ雪が降っている。
 ベッドの周囲にはまたもやカーテンがかかっていて、誰かが使っているようだった。起こしてしまうのは悪いと思い、邦弘は小声で陽子先生に話しかけた。
「知ってたんですか。ゆりあの受験のこと」
「ゆりあさんの事情については、以前から聞いていたのよ」
 そういえば侍美が自己紹介をしたときも、陽子先生はたいして動揺していなかった気がする。ゆりあの家を知っているなら、当然の反応だったかもしれない。
「ゆりあって成績いいんですか」
 邦弘は訊いた。
「もちろんよ」陽子先生は、彼女の親友である久恵のように大げさにうなずいた。「入学してから現在まで、定期テストの点数は全教科百点。模試でも大きな失点をしたことはないはずよ。外国語は英語だけでなく、ヒンドゥー語や中国語など多岐に渡って喋れるわ」
 邦弘は唖然とした。陽子先生が平然と並べ立てたゆりあのデータは、彼の想像を遥かに超えていた。修めている言語からして、おそらく父親の意向で習わされたのだろう。インドや中国は、これからビジネスの要になっていくと言われている国である。
「でも、ゆりあのお父さんはどうしていま受験させるんですかね? 二年生なんだから、急がせなくてもあと一年で卒業なのに」
 気を取り直した邦弘が疑問を口にすると、陽子先生は忌々しそうに口を開いた。
「これはゆりあさんから聞いた話だから、真偽は不明だけど。ゆりあさんのお父様は、計画的に子育てをしているそうなのよ」
「計画的? つまり、ゆりあはスケジュールに沿って育てられているってことですか」
 陽子先生は真剣な面持ちでうなずいた。
「近いわ。幼少のときには保育園などには通わせず、家で家政婦たちに育てさせる。大人だけと関わらせて、他の子供を寄せつけないようにしていたらしいの。最初からある程度、大人に近い視点を持つように調整していたみたいなのよ」
 邦弘は、賀茂久恵の人形事件のときのことを思い出した。あのとき、信子の代弁のようにしてゆりあは言っていた。『保育園とか幼稚園に通った経験がなくて、周りにはいつも大人ばかりで。おとぎの国から友達が来るなんて、信じているわけじゃない。信じていたいだけ』と。
 天蓋つきのベッドに居座っていた人形たちは、なんのためにあそこにいたのだろう。
「でも、だったらもっと早く、外国の学校に行かせようとするんじゃないですか? そんな無茶をやる父親なら」
「義務教育から高校までは日本で学ばせて、日本社会に順応できるようにしたのね。だけど、他人よりもスタートが早くなくてはいけないから、卒業を待たずに大学へ行かせる……ゆりあさんは、そう説明を受けたらしいわ」
「でも」邦弘は陽子先生の言葉をさえぎった。「どうして海外に?」
「会社をより発展させるには、海外の経営を勉強する必要があると判断したんだそうよ」
 お父様が、と彼女は付け加えた。つまり一瀬剛健は自分の跡継ぎをじっくりと時間をかけて煮込んでいたということだ。そしていよいよ食卓に並べようというつもりらしい。
 陽子先生はため息をついた。
「仕方ないと言えば仕方ないのよね。生前に太陽も言ってたけれど、会社組織のトップは世襲制で交代していくのが一番なのよ。最初から跡を継ぐ予定で生きてきた人間なら、そうでない人間よりは確実に会社を発展させてくれるから」
「……そこに当人の意思がなくても?」
「優先すべきは個人ではなく法人よ」
 邦弘は唇を噛んだ。理屈はわからないこともない。だけどわかりたくない。
「邦弘さんには納得できないわよね。あなたのフィルターはまだ新しいから。けどね、先生たち大人の錆びついたフィルターは、その程度の汚れなんて平気で通してしまうものなのよ」
 その程度、という言葉に彼はかちんときた。
「その程度だと?」
「ゆりあさんは」邦弘の厳しい声音にかぶせるように、陽子先生はすこしだけ上ずった声で言った。「ご両親のことは苦手みたい。だけど、跡を継ぐことに関しては納得していたわ。一瀬科学の商品やサービスが多くの人間に影響を与えていることは、彼女も知っているから……そのひとたちのためになるならって、言っていたわ。自分のためでも、両親のためでもなくてね」
 それがゆりあの価値観なのだろうか。それがゆりあの天秤なのだろうか。だとしたら、それはなんて主体性のない心なのだろう。
「でも、じゃあどうしてゆりあは家出したんでしょうね。跡継ぎの話に納得していたなら、家を出る理由なんてなさそうですけど」
「どこかで心境の変化があったのかもしれないわね」
 陽子先生が静かに言った。
 それから、保険室は水を打ったような静寂に包まれた。運動部員の声が外から聞こえてくることはない。ここ最近はずっと雪が降っているので、彼らの熱気あふれるかけ声とはしばらく出会っていなかった。
(……いや)
 保健室に満ちる寂寥感は、きっとそのせいじゃない。観葉植物に水をあげるのも、飲み物の買い出しに行くのも、笑顔で場を盛り上げるのも、すべて彼女だった。彼女は保健室という観葉植物に欠かせない新鮮な水だった。
「ゆりあは意外と近くにいるのかもしれませんね」
 邦弘はいきなり言った。陽子先生の眉がぴくりと動く。
「どうしてそう思うの」
「俺たちの行動が筒抜けになってる気がするんですよ――今日、学園を休んだそうじゃないですか、ゆりあ」
 侍美に学園への電話を勧めた翌日に欠席するなんて、いくらなんでも都合がよすぎる。聡明な彼女ならあるいは、こちらの動向を完全に見切っているのかもしれないが。
 陽子先生は難しい顔をして下を向いてしまった。化粧の薄い美顔にしわを作り、思案に暮れている。ふと、彼女は目だけを上げて邦弘の顔を見た。
「誰かこない?」
 と、彼女が言った瞬間だった。ノックもなしに、激しい音を立ててドアが開かれた。
 視線を転じると、そこには二人の生徒がいた。ハリネズミのように逆立った髪の男子生徒と、セミロングの女子生徒だった。女子のほうは左右の毛先がぴょこんと跳ねているところや、眉尻の上がった大きめの瞳がどことなく猫っぽい。
 邦弘は二人のことを知っていた。
「久しぶり。一瀬さんはいる?」
 海野絵梨は片手をびしっと上げると、快活な笑顔を浮かべてそう言った。

 絵梨と武雄に事情を説明すると、能天気だった二人の表情が引き締まった。二人は互いに顔を合わせると、同時にうなずいた。そして、絵梨が口を開いた。
「今週の頭にね、一瀬さんが会いにきたのよ」
「絵梨さんに?」邦弘はびっくりして訊き返していた。
 絵梨は神妙な表情でうなずいた。
「ミッチェルの――あ、これあの猫の名前ね――世話をしてたら、いきなり訪ねてきたのよ。相談事があるって。『相手に遠慮するのはどんな気分か』って訊かれた」
「オレはその逆だったぜ」武雄が我こそはと言わんばかりに積極的な感じで口を挟んできた。
「野山さんのところにも?」
「部活の休憩時間にな。『相手に価値観を押しつけるのはどんな気分か』ってさ」
 早口ではあったが、以前のようにまくし立てるような喋り方ではなくなっていた。
「そのときの一瀬さん、なんか元気なかったから、励ましてあげようと思って。それで武雄と話し合って、ここに来たんだけど」
 絵梨が猫のような跳ね毛を指でいじりながら、弱々しい声で言った。
「話し合ってねえぞ。お前がむりやり引っ張ってきたんだろうが」
「うるさい。当然でしょ。一瀬さんにはお世話になったんだから」
 さっきのか弱い声はどこへやら、絵梨は牙をむいて食ってかかった。
 唸りながらにらみ合う二人。一触即発の空気である。しかしそれは以前よりどこか心地いい仲違いだった。どちらか一方が言いたいことを言っているわけではなく、お互いに意見をぶつけているからかもしれない。
 陽子先生がいさめると、二人はしぶしぶ臨戦態勢を解いた。すると今度は二人そろって、暗く沈んだ表情になってしまった。良くも悪くも感情が共鳴する二人らしい。
「あたしたちにできることって、なにかない?」
「行方不明なんて聞いて、黙ってられねーだろ」
 邦弘は首を横に振った。
「いまのところはなにも。ただ、もしもまたゆりあが接触してきたら、取り押さえてくれると助かります」
「わかったぜ。絵梨もこう見えて運動神経はいいんだ。地獄の底まで追いかけてやる」
「……お願いします」
 そう言いながら邦弘は、しかしゆりあはもう絵梨たちのもとには現れないと確信していた。ゆりあが自分たちを避けるように行動しているのだとしたら、すでに接触した人間にもう一度会うなんて危険は冒さないはずだ。
(しかし……ゆりあはどうしてそんなことを訊いたんだろう?)
 質問の意図がまったく理解できない。保健室を辞去する絵梨たちを見送りつつ、邦弘はずっとゆりあのことを考えていた。
 ゆりあとの知恵比べ。なんて無謀な戦いだろうと彼は内心で苦笑いを浮かべた。

 翌日もゆりあは学園を休んでいた。
 保健室の観葉植物は相変わらずしょぼくれていた。相変わらずと言えば、今日もまたベッドの周りにはカーテンがかかっていて誰かが使っているらしかった。
 ただいつもと違うこともあった。邦弘の姿を見るなり、陽子先生が駆け寄ってきたのだ。
「いますぐに図書館へ行って」
 彼女はそう切り出してきた。
「読みたい本でもあるんですか」
「ふざけている場合じゃないわ。昨日、久恵から電話があったのよ」
 両肩にしっかりと手を置いて、低い声で彼女は言った。
「ゆりあさんが信子ちゃんと接触したらしいの」
 信子というのは久恵の一人娘だった。数ヶ月前まで久恵に連れられて、図書館の司書室に通っていた女の子だ。いまは保育園に通っていて、顔を合わせることはほとんどなかった。
 予想外だった。たしかにゆりあは信子と接点があるけれど、まさか会いに行くだなんて思わなかった。ただこれはチャンスかもしれない。新しい目撃情報が得られたのだから。接触した相手が園児というのが少々心もとないが、わらにもすがりたい現状では大いに助かる。
 邦弘は無言で陽子先生にうなずくと、弾かれたように保健室を飛び出した。

「一瀬さんのことは陽子から聞いてたからさ。のぶちゃんが保育園で彼女と話したって言ったときは、心臓が皮膚を突き破るかと思ったわよ」
 大げさを通り越してもはやグロテスクである。水色のカチューシャと水色のワンピースで飾った彼女は、身振り手振りをふんだんに用いて、信子から聞いたらしい話を力説してくれた。
「――で、ゆりあは『保育園は楽しいか』と訊いたんですね」
 やけに派手な修飾語が用いられた説明を、邦弘は要約した。
「そう。そうなのよ。のぶちゃんが言うには、一瀬さんはすごく寂しそうだったって。ああ!あたし心配で心配で、ピーマンも喉を通らないのよ!」
 それは単なる好き嫌いでしょう、という言葉はさすがに口に出さず、邦弘はひそかに肩を落とした。いま聞いたゆりあの一番新しい情報は、しかしあまり決定的な手がかりではなかった。むしろゆりあの行動の不思議さが再認識されて、よけいにわけがわからなくなった。
「御崎くん」
 横合いからいきなり声をかけられた。邦弘は慌てて脇にどいた。久恵とはカウンター越しに会話していたので、返却や貸し出しの邪魔になるかと思ったのだ。しかし声の人物はどうやら久恵ではなく邦弘に用事があるらしく、彼の目の前にぴょこんと顔を出した。
 黒い髪を肩口できっちりと切りそろえた女生徒だった。制服についたリボンは、三年生の学年カラーである。彼女は大きめの澄んだ瞳で邦弘を見上げていた。
 ――はて、誰だろう?
 邦弘が首をかしげていると、女生徒はくすくすと笑った。そして両手の指で円を作り、両目に当てて見せた。目の周りが指で縁取られ、まるでメガネをかけているように――。
 そこで邦弘はようやく思い至った。
「栗原さん?」
「やっと気づきましたね」
 栗原佳美は満足そうに笑った。彼女は邦弘がカウンセリング同好会に入ってから最初に訪れた相談者だった。彼女は黒縁メガネの印象が強かったのだが、どうやらコンタクトレンズに替えていたらしい。
「どうしてこんなところに?」
「図書館は新生文芸部の活動場所ですから」
「受験勉強は?」
「一夜漬けで充分です」きっぱりと言い切った。しかし邦弘が目をぱちぱちさせているのを見て、彼女は慌てて訂正した。「実はもう、推薦で合格してるんです」
 なるほど、と思った。彼女ほど真面目な生徒なら推薦がもらえてもおかしくない。彼女は記憶力が良いらしいから、定期テストも好成績だったはずだ。大学なんてよりどりみどりだっただろう。
 邦弘がうんうんとうなずきつつ一人で納得していると、佳美はぽんと両手を合わせた。
「あ、そうだ。ちょうどお話ししたいことがあったんですよ。えっと、和也くんも呼ぶんで、ちょっと待ってくださいね」
 丸井和也とは新生文芸部の部員の一人である。佳美は以前は『丸井くん』と呼んでいたはずだが、いつのまにか『和也くん』に変わっていたらしい。メガネがコンタクトレンズになったように、時間の流れは佳美を変えていったのだろう。
 奥のテーブルに座っていた丸井を伴って、佳美が戻ってきた。
 丸井が会釈してきたので邦弘もつられて頭を下げた。
「どうも。それで、話って?」
 邦弘は促した。丸井はきょろきょろと周囲を見回してから、低い声で言った。
「一瀬さんのことなんだけど」
 邦弘は驚かなかった。話があると言われたときから、なんとなく予想できていた。
「ゆりあになにかを訊かれたのか?」予想できていたから、そんな質問を投げかけてみた。
 すると丸井と佳美は大きく目を開けた。
「ど、どうしてわかったんですか」佳美がうろたえたように言う。
 その質問に邦弘は、曖昧な笑みを浮かべるだけで答えなかった。彼にとってはわからないはずがないのだが、その理由を説明するのは億劫だった。
「『したいことを全力でするのはどんな気分か』って訊かれたよ」丸井は言った。「それが昨日の話。なんだか具合が悪そうに見えたから心配してたんだけど、やっぱり体調がよくないのかな。今日彼女、欠席だったから」
 丸井とゆりあはクラスメートだった。
 佳美の視線が先ほどからせわしなく丸井の横顔と地面とを行ったり来たりしていた。ごく控えめにだが唇がとがっているような気がする。
 やがて彼女は両手をぎゅっと握り、しぼり出すような声を出した。
「い、一瀬さんが悩みを抱えているなら、御崎くんがなんとかするべきだと思います」
 意味がわからずきょとんとしていると、彼女はおどおどした様子で続けた。
「か、カウンセリング同好会員なわけですし」
「え、先輩。僕たちもなにか協力を――」
「あたしは協力する。でも和也くんは駄目」
 それはか細い声であり、かつ有無を言わせぬような断言だった。
「どうしてですか」
 わけがわからないというふうに彼は声を上げた。佳美は視線をあちこちへさまよわせた。やがていままで自分たちのいた奥のテーブルに目を止めて、ぽんと手を打った。
「原稿がまだ終わってないでしょう」
「そうですけど……それ、たったいま思いつきませんでした?」
「そ、そんなことない」
 そんな二人のやりとりに、邦弘はぷっと吹き出した。なんとなくだけど佳美の心が透けて見えたような気がして、おかしくなってしまったのだ。
 すこしは女の子の気持ちを理解できるようになってきたのかもしれない。邦弘はそう思うと、無駄に誇らしい気分に浸ることができた。
 新生文芸部員たちのやりとりを見ながら邦弘は、この二人にはゆりあの行方不明については教えないでおこうと思った。神経質だったり臆病だったり、心の細い彼らにショッキングな事件なんて吹聴しようものなら、気負ってしまいかねない。二人には伸び伸びと創作活動に励んでもらいたかった。捜索するのは邦弘一人で充分である。
「ゆりあに会ったら、サボりはよくないと叱ってやってください」
 とりあえずそれだけは言っておくことにした。

 邦弘は佳美たちと久恵に別れを告げて図書館を後にした。保健室に戻ると、陽子先生が待ちかねたように、組んだ足の膝をとんとんと指で叩いてリズムを刻んでいた。
「なにかわかった?」
 彼は図書館で聞いた話をかいつまんで説明した。保育園に現れたゆりあ。新生文芸部と接触したゆりあ。陽子先生はこめかみに指を当てて眉をひそめた。
「なにを考えているのかしら、ゆりあさんは」
「それがわかれば状況も好転するんでしょうけど」
 言いながら座ろうとして、邦弘は気づいた。
 ベッドの周囲にはまだカーテンがかかっている。仕方なく椅子を使おうとしたとき、ふとある疑問が浮かび上がった。
 ――なかには誰がいる。カーテンに囲まれたベッドで、寝ているのは誰だ。
 カウンセリング同好会に入会してからいままで、保健室のベッドを本来の用途で利用している生徒を見たことがない。なぜなら邦弘は放課後にしか保健室に訪れないからだ。具合の悪い生徒は、放課後にベッドを利用する意味がない。帰宅すればいいだけなのだから。
 では、どうしてベッドが使われている? カーテンに囲われている?
 情報が筒抜けになっているような気がしていた。ゆりあの動きは、あまりにも的確に邦弘たちの先手を打っていた。
 ゆりあは友達の家に泊まってくると書き置きを残していた。彼女の交友関係はわからないが、数ヶ月間一緒に行動してきて、部屋を貸してくれるほどの親友がいるなんてことは聞いたことがなかった。広く浅く、ところにより深く。それが彼女の人付き合いの仕方だと思う。
 深い部分で思い当たる人物は少ない。うぬぼれていいのなら、同じ同好会に所属する邦弘も深い部分に当たるだろう。そしてもう一人。邦弘よりもずっと長く彼女と付き合ってきた人物がいる。ゆりあがもっとも深く信頼している人物がいる。
 彼の目の前に。
「そこには誰がいるんですか」
 白いカーテンを指さして、陽子先生に尋ねた。彼女はしばらく逡巡したあと、首を左右に振った。
「いまはそんなことを話している場合じゃないわ」
「やっぱり。彼女はそこにいるんですね」
 養護教諭はこれでもかというほど大きく目を見開いた。そして、ふうとため息を吐くと同時に肩の力を抜いた。
「ばれてるらしいわよ」陽子先生はカーテンの向こうへ声をかけた。「そろそろ出てきてあげたら? 邦弘さんだって仲直りしたいはずよ」
 その声に反応したのか、はたまた眠りの世界にいた彼女が寝返りをうっただけなのか。ベッドがみしりときしむ音と、シーツの擦れる音とが聞こえた。それから、ややためらうような間を空けて、白くて細い指が向こう側からカーテンの端を掴んだ。音を立てて、ひらひらと舞う布のひだが横にスライドされていく。
 そこにはずっと捜し続けていた少女の姿が……なかった。
 ベッドのシーツには長い黒髪が広がっていた。半身を起こしていたのは、整った顔立ちの女生徒だった。制服についたリボンの色は邦弘と同じである。
「なんでお前がここに?」
 完全に虚をつかれた邦弘は、口を半開きにしたまま馬鹿みたいな問いかけをした。
「お腹が痛いから」
 平然と冷然と粛然とそんなことをのたまったのは、他でもない山内杏里だった。

 

 コーヒー豆が切れていたことに気づいた日のことだった。
 昼休み、陽子は学生食堂でビーフシチューとサラダを食べ、職員トイレで歯みがきをしてからすこし急ぎ足で保健室に戻った。早く戻らないと生徒が待っているかもしれない。いわゆる保健室組の生徒たちと会話するのは自分の仕事だという自負があった。今日は何人くらい来るだろう。いつもなら六人以上は集まる。複雑な気持ちだった。人数が多いのはにぎやかでいいのだが、それは決して手離しで喜べることではなかった。
 そんなことをぼんやりと考えながら保健室に足を踏み入れて、陽子は自分の目を疑った。
 保健室には一人の生徒がいた。一人しかいなかった。
 長い黒髪の女生徒はその端整な顔を上げて、陽子を見た。切れ長の鋭い目つき。一瞬、どんな問題児だろうと思った。しかし彼女は意外にも折り目正しく頭を下げた。
「お久しぶりです。妹尾先生」
「杏里さん」
 彼女は山内杏里だった。カウンセリング同好会に所属している御崎邦弘と、子供のころからの仲だという少女である。
「他の子たちは?」
 陽子は室内を見回しながら言った。
「追い出しました。うるさかったんで」
「……あのね」
 杏里のマイペースな発言に、陽子は呆れ返った声を出した。
「わたしは病人。最優先されるべきは彼らでなくわたしのはずです」
 もっともである。陽子は返す言葉がなかったので曖昧にうなずいた。保健室組の生徒たちには、一日中保健室にいてもおとがめなしということにしてあげよう。
 杏里がここに来たのは腹痛のためらしい。しばらく安静にしていれば治ると言うので、ベッドの一つを貸してあげることにした。女の子の寝姿をむやみとさらすのはどうかと思い、カーテンをかけてやった。
 それからしばらく彼女は大人しく眠っていたのだが、六時間目になるともそもそと起き出した。杏里はカーテンの隙間から顔を出し、ささやくような声音で陽子に話しかけた。
「もし邦弘が来たら、わたしがいることは黙っていてください」
「どうして?」
 陽子は杏里が放課後までに目覚めなければ、邦弘に彼女を自宅まで送らせようと考えていた。
 問われた杏里は切れ長の目をきゅっと細めて思案していた。
「喧嘩でもしているのかしら」と陽子が助け舟を出してあげると、杏里の無機質な顔にほんのりと安堵が浮かんだ。困らせた本人が船を差し向けるのも妙な話だったが、ともかく杏里は、困難な問題の模範解答を見つけたような表情でこくりとうなずいた。
「顔を合わせたくもないんです」
 陽子は特に疑いもしなかった。聞いた話では二人の仲違いは解決しているはずだったが、男女の恋愛観の差異による衝突などさして珍しいことではない。陽子自身、かつて太陽とは幾度となくののしり合い、時には平手という武力行使に出たこともあった。もちろんそういった場合、無差別に爆弾を落とすのは女のほうである。いつだって男は受け身なのだ。
 ともあれ陽子は杏里の話を信じて、彼女に肩入れすることにした。
 幸いというかなんというか、もともと邦弘と話し合いたいことがあったので、話題を誘導するまでもなくベッドから意識を逸らせることができた。
 翌日も杏里は保健室にやってきた。しかしそのころにはゆりあを取り巻く状況が芳しくないことに気づき、陽子の心には余裕がなくなっていた。特に病状の確認もしないままに杏里がベッドを使うことを認めるようになった。
 事実、邦弘に指摘されるまで陽子は、杏里の存在をすっかり忘れていたのである。

 陽子先生が話を終えると同時に、邦弘はたまらず杏里に問いかけた。
「俺、なにか気に障るようなことでもした?」
 彼には喧嘩した覚えなどまったくもってなかった。誤解があるなら解こうと確認の意味合いで尋ねたのだが、しかし杏里にぎろりと睨みつけられて、彼はすくみ上がり言葉を継げなくなってしまった。彼女は怖ろしい視線を外すと、目を閉じてふるふると首を振った。長い黒髪が優雅に揺れる。
「喧嘩は言い過ぎだった。でも邦弘のせいでストレスが溜まってるのはたしか」
 そう言ってから彼女は、うっ、と呻いた。下腹部に手を当てて、柳眉を歪めている。
「おい、大丈夫か」
 邦弘は慌ててベッドに駆け寄った。陽子先生も近づいて、杏里の起きていた上半身をそっと横たえた。人さし指を立てながら彼女はすこしきつめの口調で言った。
「病人は無理しちゃ駄目よ」
 額に滴るほどの汗を浮かべながら、杏里は小さくうなずいた。ストレスによる軽度の胃潰瘍といったところだろうか。どうやら腹痛は仮病ではなかったらしい。邦弘は杏里の手を握った。
「またなにかを抱えているのか。俺のせいで」握る手に力がこもった。「だったらはっきり言ってくれよ。お前を苦しめるのも、俺が苦しくなるのももうたくさんなんだ」
 夏休みの屋上の光景が目の前に広がった。杏里の独白。なにも書かれていない白紙にクレヨンで滅茶苦茶に模様を書き殴ったように、表情に乏しい彼女が感情を爆発させた。杏里には、二度とあんな顔をしてほしくなかった。
 きゅっと手が握り返された。人形のような形のいい唇がゆっくりと動いた。
「……ごめん」
 人形の口が紡いだのは謝罪だった。
「わたし、嘘をついてた。邦弘のせいじゃない」
「どうしてそんな嘘を?」
 彼は杏里の目を覗き込みながら尋ねた。彼女はしばらく逡巡して、首を左右に振った。
「言えない。でも嘘をついていたことは、本当。嘘じゃない」
 なんとも微妙な言い回しだった。そこにある真意を、邦弘には読み取ることができなかった。もしもこの場所にゆりあがいたら、即座に読んでしまったに違いないのだが。
 結局、杏里が胸の内を明かすことはなかった。
 杏里は、一人で帰りたいから先に帰ってくれと邦弘を追い出した。彼は腹痛の杏里を案じながらも、彼女の断固たる主張に負けて帰宅することにしたのだった。

 頭上を覆いつくす雪雲は停滞していて、いつになったら青空に席を譲り渡すのか見当もつかなかった。舞い落ちる雪の塊が、邦弘にくっつこうと巧みに傘を避けていた。彼は自宅の門前にたどり着くと、ふと思いついて隣家へ目をやった。そこには山内家がある。二階にある杏里の部屋を見上げてみる。
 真四角の額縁に杏里の部屋という絵画が収まっている。窓辺にはのびのびとした観葉植物が置かれてあり、その脇にちょこんとじょうろが鎮座していた。見たことのある形だった。じょうろなんてどこででも見られるだろうけど、それはすこし違った。『いつか見たことのある』なんてレベルではない。『いつも』見ていた。
 ――その瞬間、いくつかの事柄が頭のなかで結びついた。
 考えるよりも早く身体が動いていた。邦弘は傘を投げ捨てると、自宅に駆け込みリビングの壁掛け時計の側面を開いた。なかにはキーホルダー付きの鍵がたくさんぶら下がっている。御崎家の家族共用の時計は鍵を収納できるようになっていた。そのなかから辞書をモチーフとしたキーホルダーのくっついた、やや錆びついた鍵を取り出した。そして再び雪のなかへ飛び出し、傘を拾うこともせずに隣の家へ。あとから思えば完全なる不法侵入だったが、このときの邦弘にはそんなことを配慮している余裕なんてなかったのだ。鍵穴に先ほどの鍵を差し込み、無造作に扉を開け放った。
 家のなかは薄暗く、ひとの気配はなかった。
 しかし邦弘は、確信を持って叫んだ。
「ゆりあ!」
 薄い膜を張ったようなぼやけた暗闇の奥で、かすかになにかが身じろぎした気配が伝わってきた。小さく深呼吸してから邦弘は、薄闇の廊下へと足を踏み出した。

 

 ゆりあは透明なグラスだった。それがどんなに奇抜な色だろうと、どれだけ奇天烈な味わいだろうと、注がれるワインに注文をつけたりはしない。ワインというカテゴリに当てはめることなく、『そのもの』として受け入れる。この上なく大らかなグラスだった。
 汚れのない、綺麗に磨かれたグラスはとても美しい。クリアな表面から覗ける内面には、一切の不純物を排除した空間があるのだ。
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 しかしグラスには個体としての価値がない。他者を受け入れて初めて意味を持つ。どれだけ表面が透き通っていようと――いや、だからこそ、空っぽなグラスのなかはすかすかなのだ。
「お前の天秤はどこにあるんだ?」
 邦弘は、少女の形をしたグラスをぴんと弾いてみた。もろい表面がぶるぶると共鳴する。
「どこまで推測できているんですか?」
 長い黒髪の人形がサイドボードの上に飾られている。その視線の先にあるベッドのシーツは花柄で、そこに腰かける少女はまるでその模様の一部であるかのように思えた。花の少女。植物の手入れが大好きな彼女にはふさわしい形容かもしれない。
「そこにある観葉植物」邦弘は窓辺を指さした。それを見て、最初は杏里の部屋から冬が去ったのだと思っていた。杏里の心境が変わったから、植物にも陽気が伝染したのだろうと。しかし実際は違った。杏里が上手く育てられないのは気持ちではなく知識の問題だった。ではなぜ植物が元気を取り戻したのかと言えば、それは単に優秀な園芸職人が現れたからだった。「ゆりあが水をあげてたんだな」
 この観葉植物が活気を取り戻したのは、人形の事件が解決した辺りからだ。ゆりあと杏里とが出会ったのも、ちょうどそのころだった。たぶんそれをきっかけに仲良くなったのだろう。
「お腹ぺこぺこの子を見殺しにはできませんから。それが植物だとしても、ね。それで、みさきちゃんはどこまで推測できているんですか」
 ゆりあは同じ質問を繰り返した。
 邦弘は考えていたことをゆりあにぶつけてみることにした。それは『ゆりあ失踪』という事件の真実だと、少なくとも彼はそう思っている。
「ゆりあを誘拐した犯人と、その動機までは推測できてる」
 ゆりあがにこりと微笑んだ。
「犯人は?」
 どこか楽しげですらある口調に、邦弘はすこしむっとした。ひとが心配していたというのにゆりあときたら。だから間髪いれずに言った。
「家政婦の侍美さん。そして杏里」
 ゆりあの家を間近で見て、邦弘は疑問を覚えた。ゆりあ単独での家出は不可能なのではないか、と。周囲の壁はとてつもない高さを誇っていたし、入り口の門は家政婦が持っているリモコンで開閉するようになっているらしい。となると、ゆりあは邸内で協力者を作らないと邸宅を脱出できないことになる。もともとゆりあもリモコンを持っていたとしても、車の物音も珍しい閑静な住宅街において、巨大な門の動く音は凄まじい騒音に違いない。住み込みの家政婦が気づかないわけがないのだ。
 ゆりあの家出を、侍美が手伝ったという根拠は別にもある。それは、彼女が保健室を訪れたということだ。彼女はどうして保健室に来たのだろうか。
 答えは明白だ。『邦弘を一瀬家へ連れていくため』である。
 閑静な住宅街において、巨大な門の動く音は凄まじい騒音に違いない。家政婦たちが気づかないわけがない……そう、侍美とゆりあの行動は気づかれないわけがないのだ。不可解な音。そしてその前後で見られたはずの、侍美の不審な挙動。そしてゆりあの失踪。侍美以外の家政婦たちは、ほぼ間違いなく侍美のことを疑っただろう。
 だから侍美はカウンセリング同好会を訪ねてきたのだ。侍美はなにも知らず、心底からゆりあの身を案じていて、具体的な行動まで起こしたのだ……そう、他の家政婦たちにアピールしていたのだ。あのとき、一瀬家の家政婦が邦弘を観察していたのも、きっとゆりあの失踪への興味によるところが大きかったのだろう。
 しかしここで、その推測に待ったをかけてくる事実が一つ浮かび上がってくる。
 途中まで推測を語っていた邦弘は、言葉を止めて、それを口にした。
「でも、ゆりあの家へ行くことになったのは俺が頼んだからなんだよな。侍美さんは嫌そうでさえあった。俺を邸宅に誘うような言葉は、一言も吐かなかった」
「それじゃあ、その推測は間違いですね」
 しかし邦弘はあっさりと首を振った。
「いや。俺が一瀬家訪問を申し出ることも、すべて計算ずみだったんだ。というよりも、俺をそういう行動に出るように誘導したんだ。侍美さんの話術で、いや、ゆりあの策略で。『手紙を残した』設定にしたのはそのためなんだろ。そういうのって、実物を見れば手がかりが掴めそうな気がしてくるからな。実際にはそんなこと、ないけれど」ふうっと、大きく息を吐いた。まっすぐな栗色の瞳を見つめて、邦弘は低い声で続けた。「ゆりあのことだし、俺なんかを操るのは簡単だったろう」
 もしかしたら、ゆりあは、自分がいなくなれば邦弘がいてもたってもいられなくなることを、決して自意識過剰ではなく気づいていたのかもしれない。それを利用して、侍美に家出の手伝いをさせるとともに彼女へかかる疑いを払拭できるよう手回ししたのだとも考えられる。
 そして、潜伏先には杏里の部屋が選ばれた。杏里の嘘つきな性質が心強いから、というよりも、これは純粋にもっとも仲のいい女友達だったからだろう。
 仲のいい、という条件だけならば邦弘や陽子先生も当てはまる。しかし、男の部屋に泊まるのはさすがに問題があるだろうし、陽子先生はなんだかんだ言っても大人の女性である。諭された上で自宅に送り返される恐れがあるのだ。
 そもそもカウンセリング同好会の人間に頼れば簡単に足がついてしまう。生徒の所属部活動は学園のデータベースで容易に検索できるので、父親や家政婦の誰かが、捜そうと思えばあっと言う間に現行犯逮捕である。
 そんな話のところどころで、ゆりあは小さくうなずいている。
「どうして家を出たりしたんだ? やっぱり大学受験が原因なのか」
 ゆりあは露骨にびっくりしたような顔をした。まるで想定外の発言だったのだろうか。
「侍美さんがそれを?」
 彼女の問いに、邦弘は首を振った。
「別の家政婦さんから。来月、海外の大学を受験することになってるんだってな……両親の予定どおりに。ゆりあはそれでいいのか。ワインが注がれるのを待つだけの、グラスのままでいいのか」
 ふいに微笑みがくずれた。笑顔の仮面が剥離して、哀しみと虚しさをたずさえた素顔があらわになる。ゆりあは降り積もる雪のように白い、きれいな肌をしていた。そう、降り積もる雪のように遠目には純白だけれど、よくよく観察してみれば灰色を多分に含んでいる。
 邦弘は、もう一度先ほどの言葉を繰り返した。
「お前の天秤はどこにあるんだ?」

 

 家が大好きだった。
 窓から見える庭木は青々としていて心地いいし、住み込みの家政婦さんたちも優しくて、まるでお菓子の家みたいに甘くまろやかな空間だった。保育園というものが存在することは、本からの情報で知っていた。そこには自分と同じような子供がたくさんいるのだということも。だけどうらやましくなんてなかった。自分にはお菓子の家があるのだから。
 ゆりあは忘れていた。
 お菓子の家には魔女が住んでいることを。天国と地獄は表裏一体であることを。プラスとマイナスはいつだって入れ替わることができることを。
 ゆりあが同年代の他人に初めて出会ったのは、小学校の入学式の日だった。汚れの目立つ教室、ひしめく生徒たち。目に入るすべてのものが新鮮で、目が回りそうだった。新しい生活への不安もあったが、期待がそれを遥かに上回っていた。
 他の子たちと仲良くなれるかな。仲良くなりたいな。
 大人しか知らなかったから、自分と同じ年齢の子供にすごく興味があったし、親近感も湧いた。子供と会話するのは初めてだったが、天賦の性格のおかげか、ゆりあはクラスメートに明るく話しかけることができた。また、話しかけられることも多かった。
 だけど、会話は成立しなかった。
 ――昨日のテレビ、みた?
「うん。地球温暖化が深刻化してるんだってね」
 ――サンタってほんとにいるらしいぜ。地図のうえのほうの、さむい国とかに。
「うん。でもサンタクロースってオランダ語なのに、どうしてオランダにいないんだろうね」
 ――先生に怒られちゃった。やだな。
「それはとっても幸せなことだよ。愛されてる証拠だもん」
 ゆりあの言葉はいつだって大人と同じ高さから発せられ、背の低い子供の頭上を素通りしてしまう。ゆりあが大人だったからこうなったわけではなかった。子供と視線を合わせるということを知らなかったから、他の子たちとの会話は、使い慣れないコンパスのようにいびつな円を描いてしまうのだった。
 他の子たちが不思議そうな顔をしたり、うっとうしそうに顔をしかめたりするのを見るたびに、彼女はなんだかもやもやとした違和感を抱いていた。新学期が始まってしばらくすると、彼女の席の周りには誰もいなくなっていた。話しづらい子として認定されてしまったらしい。悲しかった。ふと、読んだ小説のことを思い出した。きんぴかの宝石をたくさんつけて、それよりたくさんの使用人を抱えているようなお嬢様が登場する話だった。彼女は箱入りで、それゆえに世間知らずで周囲から呆れられていた。
 ああ、これと同じなのかな、と思った。ゆりあの家にもお手伝いさんは大勢いたし、宝石だってお母さまの化粧棚をひっくり返せばごろごろ出てくるだろう。
 ただ、その物語には共感できない部分があった。終盤のエピソードで、彼女は自分の家柄を悲観した。彼女以外の登場人物たちも、彼女は大金持ちの家で閉鎖的に育てられていたからこうなったのだ、と口を揃えて言った。
 自分はそうありたくなかった。たしかに他の子と上手く会話できないのは、お父さまのせいだ。仕事にかまけてまったく遊んでくれないし、正直、父親としてどうかと思う。
 だけど、それはそれ。そんなことを嘆いていてもなにも始まらないのだ。ゆりあはどうにかして周囲に溶け込もうと考えた。ぼんやりとクラスメートを眺めながら、妙案が降ってくるのを待っていた。
 そして気づいた。つい数秒前まで楽しそうに談笑していたクラスメートたちが、一瞬でつまらなそうな顔をすることがあるのだ。どうやら彼らにはスイッチがあるらしかった。もっと観察すると色々なものが見えてきた。ひとによって、言われて嬉しいことと嫌なことがあるらしい。彼らはなにか言葉を投げかけたとき、相手に特定の返答を期待しているらしいこともわかってきた。言葉のお尻に「イエスと答えて」という見えないタグをくっつけたときに、ノーと言われるとがっくりしてしまうのだ。
 そこまで理解できれば、あとは簡単だった。九九と同じである。計算式を、頭のなかの表と照らし合わせて対応すればいい。
 ――昨日のテレビ、みた?
「うん。やっぱり魔法使いリリーちゃんはかわいいよね」
 模範解答だった。話しかけてくれた女の子は、嬉しそうな顔で続けて言葉を投げてくれた。もちろんそれに対しても九九の表を使い、受け止めて、投げ返してみせた。会話はすごく弾んだ。机の周りにはいつの間にか、たくさんのクラスメートがいた。
 しかしゆりあの悩みは、そこで終わらなかった。友だちとの関係が順調に進むようになると、今度は家庭に疑問を抱き始めたのだ。父親は遊びに行くことを許してくれなかった。家政婦のひとたちは、勉強を教えてくれたり身の回りの世話をしてくれたりしたけれど、遊び相手にはなってくれなかった。初めは優しいと思っていた彼女たちの態度も、観察力を備えたゆりあには、空々しいものにしか見えなかった。
 家が大嫌いになった。
 家にいるとき、遊び相手はいつも人形だった。本来ならば保育園に通っていたころからの、古い友達である。貴族のようなふわふわの服を着た人形は、澄んだ瞳を彼女の栗色の瞳へと向けていた。瞳……。ふと、一人の家政婦のことを思い出した。
 学習指導役の大神侍美は、他のひととはどこか違っていた。
 彼女は率先して仕事をするひとだった。きっと裏があるに違いないと、一日中観察してやったこともあるのだが、彼女は嘘をついていなかった。心底から家事を楽しみ、ゆりあと親しく接していた。
 ――このひとは信用できる。侍美とだけは、距離を置かずに関わることに決めたのだった。
 中学校に入学したころのことだった。ゆりあは、思い切って侍美に尋ねてみることにした。
「どうして、楽しそうに仕事をするんですか」
 侍美はあっさりとこう答えた。
「楽しいからですわ。お嬢様」
 いつわりのうかがえない笑顔をほんのりと浮かべながら、彼女は続けた。
「誰かに喜んでもらえるのが嬉しいのです」
 侍美はそこはかとなく自分に似ていた。ゆりあは、侍美のように滅私奉公の精神を持っていないが、他人のことを第一に考えるという点では共通していた。他人の心を見抜き、もっとも喜ばれる答えを探し出す。多くのひととは正反対な考え方。
 このとき、ゆりあは思った。ひとはそれぞれ天秤を内包していて、それは絶対的な重さを弾き出す道具ではないのだと。ゆりあの観察はたしかに相手の内心を見透かしていただろうが、その内面の価値を自分自身の秤で量っていた。家政婦たちは心のうちではゆりあを好いておらず、両親も真に愛してくれているとは思えない。だから家が嫌いだった。けれど、彼らにしてみればゆりあを心底から敬愛することを強制されるいわれなんてない。
 容姿端麗な女性は、男性からは性的なシンボルとして見られることが多い。その女性が性的に魅力的であることは男性からすれば『本当』だけれど、女性にしてみれば『本当』ではないことがほとんどなのである。その女性にも心があり、人格があるのであって、外見だけで自分の価値を決めつけられるなんて不快極まりないのだ。
 人間の『本当』は、本人にしかわからない。
 その曖昧模糊な人間の真意に近づき、触れることを仕事とする人間がいることを、ゆりあは本で読んで知っていた。
 臨床心理士。よく知られている名に言い換えると、カウンセラー。
 彼らは、人間の心を治療する。それはつまり、天秤の傾きを相談者の望むとおりに修正するということだ。それは万人に共通する治療法ではなく、まずは天秤の性質を調べ、それに合わせておもりを一つずつ取り除いていくのである。
 将来の夢について侍美に訊かれたとき、ゆりあはこう答えたことがある。
「カウンセラーって素敵だと思いません?」
「そうですか……わたくしは、おすすめしません。失礼を承知で申し上げますが、ゆりあお嬢様には適性がないと思うのです。不特定多数の人間の心に精通していなければならない職業に就くには、ひととの付き合いが圧倒的に不足していると思われます」
「侍美さんは」ゆりあはいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。「家政婦という職業に誇りを持っていますよね。そして、しぶしぶ仕事をしている同僚に不満を抱いていますよね」
 侍美ははっと胸を突かれたような顔をした。そして、数秒ののちにため息をついた。
「前言を撤回いたしますわ。むしろ天職かもしれません」
 それから口元を手で隠して、ふふっと笑って、
「けれどもうすこし心の触れ方を覚えるべきかもしれませんわ。いまのままでは、鷲づかみにされて痛いくらいですもの」
 と言った。
 父親の剛健から大学とその後の進路についての話を聞いたのは、その翌日のことだった。

 

「――だから、せめて気分だけでも味わいたいなぁと思いまして」
「同好会を作った……と」
 邦弘は終いを引き取った。
 ゆりあはベッドから飛び降りると、両腕を目一杯に広げた。まるで広々とした草原で深呼吸しているようだった。杏里の部屋はゆりあのそれと比べるとひどく狭かったが、彼女にとっては逆なのかもしれなかった。
「考える時間が欲しかったんです。家にいるとどうしても、お父さまの考えに影響されてしまいますから。自分だけの……私だけの答えを探してみたかった」
「……でもゆりあには、自分の考えというものが希薄だった」
 邦弘は言った。彼がたびたび感じていた、ゆりあの透明感。透明で、不可視の真意。彼女は自分の主義主張を隠していたのではなかった。持っていなかったのだ。小さいころから、他人に合わせることばかり考えていたから。
 草原の少女はにこりと微笑んだ。
「わかっていました。だからこそ、色々なひとの話を参考にしたんですから」
 彼女はいままで出会ってきたひとの考え方に触れた。これから、自分の主張を作っていく糧にするために。
 ゆりあは窓辺の観葉植物へと歩み寄り、その青い葉を指先で撫でながら言った。
「お水をもらったんです」
 成長するために。青々とした葉を伸ばすために。
「決めたのか」
「はい」ゆりあは振り返り、邦弘の視線を正面から受け止めてうなずいた。「受験します」
 邦弘はなにも言えなかった。言えるはずがなかった。ゆりあの天秤が弾き出した結果に、つける難癖なんてなかった。
 それでも複雑な思いは隠しきれない。いいのか、それで。大学へ行くのは、父親の意思ではないのか。そんな内心はやはりゆりあにはお見通しのようで、彼女はくすくす笑った。
「なんて顔してるんですか」
「いや、だってさ」
「勘違いしてますね」
 ゆりあはくすくす笑いをさらに大きくした。肩が小刻みに震えていた。
 なにがおかしい、と反論しようとしたとき、彼女の顔にぱっと明るい笑顔が咲いた。
「私は、受験します。心理学部に……ね」

 二階の窓辺に置かれたコンテナから、青々とした葉をつけた観葉植物が伸びている。薄い窓ガラス一枚を隔てた外では、雪が降りしきっているというのに、それはまるで夏の陽光を浴びているかのように心地よさげだった。
 植物の向こう、八の字に開いたカーテンの奥は、暗くてよく見えない。
「まったく、ひとの部屋で」
 杏里は電柱に背中を預けながら、自分の部屋を見上げていた。不満げに唇をとがらせている。
 隣に気配を感じて振り向くと、そこには大神侍美が立っていた。彼女は窓を見上げて言った。
「冬は過ぎたみたいですわ」
 見ると、侍美は傘をさしていなかった。杏里は傘を傾けて上空へ目をやった。先ほどまで降っていた雪は姿を消して、灰色の雲のなかにわずかに空の色がうかがえた。
 杏里は肩をすくめると、さも呆れたような口調で言った。
「どっちも、ね」
 それから、二人はなんとなく顔を合わせて、小さく笑い合った。
 陽光を喜んだのだろうか、観葉植物の葉が一ミリだけ伸びたような気がした。

                                       《了》
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