笑うカウンセラー

三章『笑うライアードール』

 
 
 御崎邦弘には女の子という生き物がいまいち理解できない。トイレへ行くのにパーティーを 編制したり、他人の色恋沙汰に一喜一憂したり、彼女らの行動理念は謎に満ちている。お人形 さんを愛好するという奇異極まりない性質などはもう彼にとって宇宙の神秘に等しかった。
 日本人形やアンティークドール、マトリョーシカをはじめ、マネキンやぬいぐるみ、果ては わら人形まで。人形の種類は枚挙にいとまがないが、そのいずれもがどこか冷たい瞳を持って いて、いかにも「呪いますよ」と言っていそうな顔立ちをしていると思うのだ。もちろんそれ はあくまで邦弘個人の印象であって一般論ではない。しかし、人形を題材にしたホラー作品や 怪談話が世にあふれているところを見ると、どうやら似たようなことを考えているのは自分だ けではなさそうだった。
 そんな恐怖の権化であるところの人形を、どうしてか女の子は愛しげに胸に抱く。山内杏里 (やまうち あんり)もそうだった。まだ幼いころ、邦弘はよく彼女の部屋へ遊びに行った。 そしてそのたびに、髪の長いお人形でままごと遊びなどをさせられたのだ。
「この子たちはわ たしのお友達」
と言いつつ、人形の夫婦を容赦なく離婚の憂き目にあわせるのだから、ますま す女の子というやつはわからない。
 杏里の場合は、あるいは人形に自分と近しいものを感じていたのかもしれない。整った目鼻 立ちといい、艶やかな黒髪といい、彼女はどこか人形めいた雰囲気をまとっていたから――。 「みさきちゃーん、帰ってきてくださーい」
 女の子の声に呼びかけられて、邦弘ははっと我に返った。華奢な手のひらが、鼻先一ミリの 場所をぶんぶんと往復している。
 ぱちぱちと瞬きして視覚を整えると、すぐ近くに一瀬ゆりあの顔があった。その背景は白い カーテンと白い壁の保健室である。
「ごめん。これを見てたら、色々と思い出してさ」
 これ、と言って邦弘が手に取ったのは、どこの貴族だと訊きたくなるようなフリルの服を着 こなしたアンティークドールだった。ふわりとふくらんだ栗毛は、どことなくゆりあを思わせ る。ペットは飼い主に似るというが、もしかしたら人形も同じなのかもしれない。
「可愛いでしょう? 夏休みに入ったから、久しぶりにお掃除したんですよ。そしたら、クロ ーゼットの奥で冬眠してたのを見つけて……むりやり起こしてきちゃいました」
「冬眠って」
 ゆりあの発言に、邦弘は思わず笑ってしまった。
 なんせいまは、点々と設置されたクーラーの室外機が唸りを上げ、セミが声高に命の唄を熱 唱する季節である。学生たちにとっては、熱気あふれる期末試験と背筋の冷えるテスト返しを 終えて、ようやく待ちに待った夏休み、という時期でもある。冬眠だなんて、季節はずれもい いところだ。
「季節はずれと言えば……」
 邦弘はゆりあの目をまじまじと見つめた。
「なんですか?」
 見つめられたゆりあは、きょとんとしている。
「俺たちがここにいることも、季節はずれと言えば、季節はずれだよな」
 いまは夏休みである。学生諸子は日頃の学習活動から解放され、海へ山へ街へと繰り出す季 節なのだ。だから、邦弘とゆりあが学園の保健室でまったりと茶をすすりつつ会話しているな んてことは、本来ありえないことだった。
「そうですか? 部活動も委員会も、熱心なところは活動してますよ」
「熱心なところは、な」
 その言葉に多分に含まれた他意に気づいて、ゆりあは頬をふくらませた。
「私だって本気ですもん。やる気がないのはみさきちゃんだけです」
 彼らが所属しているのは、カウンセリング同好会だった。部活ですらなく、校内の知名度も 高いとは言えない。とてもじゃないが、夏休みにまで活動するような精力的な同好会とは思え なかった。
 邦弘が今日学園に足を運んだのだって、午前の補習を受けるためだった。それを終えて帰ろ うとしたところで、同好会活動のために登校してきたゆりあとばったり出くわしたのだ。帰っ てもすることのない邦弘は、せっかくだから保健室でだべっていくことにした。そして現在に 至るというわけである。
 そのとき、「ふあぁ」と眠たげな声が上がった。邦弘の声ではない。
「もう、陽子先生まで……夏バテですか?」
「たぶん、寝不足だと思うわ」
 デスクに書類を広げたまま、陽子先生は眠たげに目をこすっていた。いつも眠たそうな彼女 だが、今日はまた一段とぼんやりしている。無防備に背もたれによりかかる姿は、とても色っ ぽかった。
 邦弘はすこしどぎまぎしながら言った。
「夜も頑張ってるんですね」
 言ってから、しまった、と思った。『仕事を』という大切なセンテンスが抜けている。
 しかし陽子先生は特に気に留めた様子もなく、あっさりうなずいた。
「ええ……一晩中、相手をさせられちゃってね」
「は?」
 邦弘はあんぐりと口を開けた。ゆりあがくいと袖を引いて、「なんの話ですか?」と尋ねて きても、彼は答えることができなかった。
「ああ、違うわよ」邦弘の反応に気づいて、陽子先生は柔らかく微笑んだ。「そうじゃなくて、 電話の相手をしていたの。お友達のね。ちょっとしたお悩み相談」
 ――そういうことか。邦弘は納得した。考えてみれば、彼女がその手のあけすけな話をする はずがなかった。
「ある意味、公私混同ですね」
 ゆりあはアンティークドール――邦弘はひそかに『ゆりあマークツー』と呼ぶことにした― ―を窓際のテーブルに座らせながら言った。
「そのことなんだけど、ゆりあさん」
 唐突に、陽子先生は表情を引き締めた。
「はい?」
 ゆりあは首をかしげた。マークツーの首をちょこんと傾けて、同じポーズを取らせている。
「今日あなたを呼んだのは、そのことについて協力してほしいからなの」
「つまり、そのお友達が依頼人としてここへ来る、ということですか?」
 察しのいいゆりあに、陽子先生は満足そうにうなずいた。
「……あのー」
 邦弘は控えめに挙手して話に割り込んだ。
「俺、呼ばれてないんですけど?」
 戦力として見られていないのかと思うと、すこし悲しかった。
「ああ、それはね」陽子先生は繕ったようなことを言った。「電話番号がわからなかったから よ。邦弘さんは、ここにきてまだ日が浅いし、入会届けの記載事項にもなかったから」
 とは言うが、彼女は教師なのだから、その気になれば生徒を含めた学園関係者のデータベー スを検索できるはずだ。つまり、そこまでして呼び出す価値はないと判断されたのである。
「考えすぎですよ」そんな邦弘の心を読んだかのように、ゆりあが笑った。「陽子先生は、私 がここに来る理由を作ってくれただけなんです。そうですよね?」
「……察しがよすぎるのも問題ね」
 陽子先生は珍しく困ったような笑みを見せた。
「ゆりあ、それって一体どういう……」
 と邦弘が尋ねようとしたとき、陽子先生が顔を上げた。
「とりあえず、おしゃべりはおしまい――お客さんよ」
 そのとき、保健室のドアがノックもなしに、しかし不躾でない程度にゆっくりと開いた。

 

 勝手知ったる、といった風情で入ってきたのは、小柄な女性だった。ゆりあと同じくらい華 奢な体躯を水色のワンピースで包んでいる。カチューシャも水色で統一していた。邦弘にはフ ァッションというものがよくわからなかったが、少なくとも大人っぽくはないな、と思った。 彼女の幼げな顔立ちがその印象を抱かせるのかもしれない。おそらく二十七、八歳で陽子先生 と同年代なのだろうが、それよりもずっと幼く――と言って悪ければ、若いように見える。
「この子たちは?」
 さっと椅子を運んできたゆりあに一礼してから、水色の女性は言った。口調や入室の仕方か らして、彼女が例の電話相手なのだろう。
「カウンセリング同好会の生徒よ。とっても優秀な、ね」
「へえ、ちゃんと活動してるんだ?」
 女性は驚いたように言った。給茶スペースのほうへ向かっていたゆりあが「もちろんですよ」 と答えた。邦弘はすぐに首肯することができなかった。なにを隠そう補習のついでである。
「同好会のことを知ってるってことは、学園関係者なんですか?」
 邦弘は水色の女性に尋ねた。
「あらあら、あたしを知らないなんて……若者の読書離れは深刻だぁ」
 彼女は大げさな口調でそう言うと、ふざけたように左手をひらひら振った。薬指できらりと 輝くものがあった。
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「彼女は賀茂久恵(かも ひさえ)さん。学園の司書教諭よ。ほら、離れに大きい図書館があ るでしょう?」
 邦弘の疑問に陽子先生が答えた。
「図書館、か」
 邦弘は呟いた。だったら久恵さんのことを知らなくても無理はない、と心の中だけで続けた。 なんせ入学してからいままで、図書館を利用したことがないのだから。べつに彼は読書嫌いと いうわけではない。むしろ読書量は多かった。しかし彼には、この学園の図書館に通いたくな い理由があったのだ。
「昨夜話してくれた現象も、図書館で起きたんだったわね」
「ああ!」久恵は唐突に叫んだ。「そうよ、そうそう。助けて陽子ぉ、呪われちゃう!」
 彼女はずいぶんと不穏な単語を発して、取り乱したように陽子先生の白衣にすがりついた。
「ダージリンが入りましたよ。香りが消えないうちにどうぞ」
 まるで計ったかのような絶妙のタイミングで、ゆりあがカップを盆に載せて運んできた。
「あ、ありがとう」
 久恵は顔を赤らめてカップを受け取った。甘い香気に癒されたのか、彼女は落ち着きを取り 戻した。こほんと咳払いをする。そして、口を開いた。
「図書館のカウンターにはね、人形が飾ってあるのよ」
 なんてタイムリーな、と邦弘は思った。ゆりあも同感だったらしい。「偶然ですね」と彼に 笑いかけながら、ベッドの隣に腰かけた。
「続きを」
 言葉を止めてしまった久恵を陽子先生が促した。
「その人形がね、なんて言うか、増えるのよ。わさわさと湧いてくるの」
「湧く……」
 邦弘は想像してみた。壁の隙間から天井裏から排水溝の奥から、わらわらわらわらと這い出 てくる人形たち……。ぶるりと背筋が震えた。
「大げさね。昨日と言っていることが違うじゃない」陽子先生は苦笑した。「二人とも、信用 しちゃ駄目よ。久恵の天秤はね、ちょっとの重さですぐに傾いちゃうんだから」
「また遠まわしなことを言う……素直に大げさって言いなさいよ」
「ふふっ、お二人は仲がよろしいんですね」
 ゆりあがおかしそうに笑った。そういえば、陽子先生が相談者相手にここまでしゃべるのも 珍しい。陽子先生は基本的に『聞き』に回ることが多いのだ。しかし久恵に対しては、そうし ない。邦弘は、陽子先生の別な一面を見たような気がした。
 久恵は頬をかいて「腐れ縁だからね」と呟いてから、言葉を続けた。
「わさわさっていうのは言いすぎたわ。でも、人形が増えるのはたしかなの。一日につき一体 のペースなんだけど、日に日にカウンターを占拠していくのよ……ああっ、鳥肌!」
 両手を擦り合わせながら、ぶるぶると震えている。
「誰かが寄付してくれている、とは考えられませんか?」
 ゆりあが人さし指を立てて言った。久恵は強く首を振った。
「そんな話、聞いてないわ。たとえそうだとしても、人形なんて単体でも気味の悪いものを、 たくさんもらったって……どうせなら育児グッズとかにしてくれればいいのに」
 ――まったくだ。自分と同じ感性を持つ女性がいることに、邦弘はすこし驚いた。
「話を通さないでこっそりと置いているひとがいるかもしれませんよ? もしかしたら、その ひとは、久恵先生が嫌がるだなんて思ってないのかも」
「ああ、ゆりあさん。それはありえないのよ」
 ゆりあの仮説を、陽子先生はやんわりと否定した。
「どうしてですか?」
「人形が増えるのは、図書館が閉館して、図書委員を含めた生徒たちが全員帰宅したあと…… つまり、久恵の他に誰もいなくなってからなの。もちろん、閉館後はロックがかかるから、館 内には入れないわ」
 陽子先生は右手の親指以外の指を使って『四』を作った。
「最初は三体だったのが、ある日突然四体になっていた。不審に思った久恵は次の日、閉館後 にしっかり数をかぞえたの。その時点では、まだ人形は四体しかいなかった」
 陽子先生は残っていた親指をすっと立てて続けた。
「カウンターでの仕事が終わると、司書室に戻って残務整理をしなきゃならないのよ。その作 業を終えて、ようやっと一日が終わる。最後に鍵のチェックをして帰宅するわけだけど……そ のとき、ふと目に入ったカウンターには、五体の人形が車座になっていた」
 ごくり、と邦弘の喉が鳴った。
 こういった話にも耐性があるのか、ゆりあはわりと落ち着いていた。久恵の顔の左側をじっ と見つめている。
「ああ!」久恵がヒステリックな声を上げた。「描写しないで! 思い出しちゃうじゃない!」 「久恵先生が帰る時間には他に誰もいないんですか? 本当に?」
 と、ゆりあが尋ねた。
「ええ。まあ、他にもいると言えばいるんだけど、あの子は数に入れても仕方ないし……」
 久恵は曖昧な言い方をした。それに気づいたゆりあが質問を重ねようとしたが、それよりも 早く邦弘が疑問を口に出していた。 「おかしいな……図書館には司書教諭の他にも、図書館部の教員がいるはずですよね? ほら、 生徒指導部とかと同じ、校務分掌で」
「よく知ってるわね。司書の顔も知らないのに」
 久恵は感嘆したように呟いた。
「まあ、その……」邦弘は言いよどんだ。「調べる機会があったんですよ」
「キミの言うとおり、図書館部の先生もきちんといるわ。でもね、彼にも人形を置くことは不 可能なのよ。だって――」
「――彼が図書館に来るのは人形が増えた後だから、というわけですね」
 ゆりあが久恵の言葉を引き継いだ。
「え、ええ」
 彼女はことさら怪訝な顔でゆりあを見やった。どうやら先読みされることを不快に感じてい るらしかった。
「さて、以上の話を踏まえて」陽子先生が両手を鳴らすと、一同の視線が白衣の養護教諭に集 中した。「ゆりあさんたちには、『増える人形』について調べてほしいの。いいわね?」
「もちろんです。困っているひとを助けるのが、私たちの仕事ですから」
 ゆりあは可愛らしく胸を張って、そう言い切った。
「ほんとは陽子が来てくれると心強いんだけど」久恵はちらりとゆりあを横目で見やってから、 ふっとため息をついた。「養護教諭も意外と忙しいのよね」
 話がまとまりつつあるなか、邦弘だけは黙りこくっていた。彼は、青ざめた自分の顔を想像 できるような気がした。
「みさきちゃん?」
 彼の様子に気づいたゆりあが、心配そうに見上げてくる。
「……なんでもない」
 邦弘は小さく首を振った。
 ――いまは夏休みだ。さすがにあいつはいないだろう。
 彼は口の中だけで、自分に言い聞かせるように呟いた。

 

 学園の図書館は、色々な意味で、いまが夏休みであることを忘れさせる場所だった。まずは 室内温度。クーラーで適度に保たれた冷気が、心地よく汗ばんだ肌を癒してくれる。皮膚への 配慮などかけらも感じられない、外の陽光とは大違いである。次に生徒の数。補習までの時間 つぶしや受験勉強のために利用しているのだろう。実はまだ学期中だったのでは? と疑って しまうほど多くの制服姿が館内を埋め尽くしていた。
 そして最後に、気分。これは完全に主観的な問題だったが、図書館に入った途端に邦弘は気 分が悪くなった。それはひとえにカウンター席に座っている図書委員のせいだった。
 薄く透明な自動ドアから館内に入ると、まず左手にコンピュータや印刷機の置かれたカウン ターがある。右手の本棚には『童話』と書かれたプレートが貼ってあり、その上にちょこんと サボテンの植えられたコンテナが座っている。カウンター脇のドアはどうやら司書室へ続いて いるらしい。火元責任者を示すプレートには『森田誠一』とある。おそらく図書館部の教師な のだろう。
 ――と、初めて訪れる図書館には色々と目新しいものがあったのだが、邦弘の意識はそれら よりもその図書委員に向いた。入館したばかりのときは、大きな印刷機にさえぎられて姿が見 えなかったのだが、数歩歩いて左手を見ると、ばっちり目が合ってしまったのだ。
 その鋭い切れ長のまぶたに包まれた冷たい瞳は、どこか人形めいている。中学のころから伸 ばし始めた髪は、いまではもう腰元に届かんばかりの長さになっている。飾り気もオリジナリ ティもない制服姿の彼女は、しかしそんなマイナス要素さえ打ち消して魅力的だった。
「幸せそうね。両手に花で」
 感情の介在していない、素っ気ない声で彼女は言った。
「……杏里」
 邦弘は彼女の名前を呟いた。
「えっと……元気してるか?」
 彼はさしさわりのない言葉をかけた。
「まあね」
 投げやりな態度で返事をすると、杏里は返却されたらしき本にバーコードリーダーをあてが った。もう興味がなくなったのか、邦弘には目もくれない。わかってはいるが、邦弘はやりき れない思いだった。
「お知り合いですか?」
 ゆりあが横からひょいと顔を出してきた。
「これが例の人形ですね」
 邦弘は印刷機の脇に積まれた人形たちを指さして言った。話を逸らされても、ゆりあは特に 追求しなかった。単にそれほど興味がなかったのか、それとも邦弘の心中を察して、あえてな にも聞かなかったのだろうか。彼女の性格を考えるとたぶん後者だろう。
「ええ。気味悪いでしょう」
 久恵は顔をしかめつつ答えた。
「すごい数ですね……十、いえ、二十ぐらいですか」
 山積された人形はいずれも意匠の凝らされた、洋風の人形だった。ゆりあの言うとおり、そ の数はぱっと見ただけでも二桁に及んでいる。ぞっとする光景だった。不気味さでは、数十分 前に想像した地獄絵図にも匹敵していた。
「さっきの話からすると、何十日間も増え続けてるってことになりますよね? よく飾ったま までいられますね」
 邦弘がそう言うと、久恵は大げさに首を振って叫んだ。
「そんな! 下手に触って呪われたら大変じゃない!」
 だいたい彼女の性格がわかってきた。彼女は本当に、なんでもかんでも、極端に考えるらし い。いままでは、見て見ぬふりを通してきたのだろう。しかし夏休みに入ってもまだ増殖を止 める様子がないから、ついに耐え切れなくなって陽子先生に泣きついたのだ。
 そのとき、パリーンだかガシャーンだか、とにかくなにかが破損する高らかな音が鳴り響い た。久恵ははっとして司書室のドアを見た。
「ああ! あれほど大人しくしてなさいって言ったのに!」
 両頬に手を添えて悲鳴を上げると、彼女は転がるようにカウンター脇のドアへと飛び込んで いった。
 突然の出来事に邦弘とゆりあは首をかしげた。杏里は相変わらず無表情に返却処理をしてい る。図書委員にとっては日常茶飯事なのだろうか。
「あーあー、また割っちゃったんだ」
 傍らで声がした。いつの間にか、隣には男子生徒が立っていた。校章の色は邦弘と同じだっ た。彼は数度瞬きすると、ようやくその存在に気づいたかのように、邦弘たちに目をやった。
「えっと、カウンターになんか用?」
 不機嫌を隠そうともせず、じろっと二人を睨みつける。その手には数冊の文庫本が握られて いた。すぐ近くには台車があって、生物学やら物理学やら理系の本が積んであった。どうやら 彼は図書委員で、これから蔵書整理を始めるらしかった。
 やや失礼な態度に邦弘がむっとして口を開こうとしたとき、
「カウンセリング同好会の方々。人形の件で」
 と、杏里がぼそりと呟いた。
 説明する手間が省けたと感謝する反面、他人行儀を前面に押し出したような紹介に邦弘は胸 の奥がじんと痛んだ。
「……人形の?」図書委員は眉間にしわを寄せた。「犯人は俺が捕まえるって言ったじゃない かよ!」
「麻生くん。図書館では静かに」
 杏里はとがめるように睨みながら、唇と鼻先とを人さし指でつないだ。声を荒げた男子生徒 の名前は、どうやら麻生というらしい。麻生はふんと鼻を鳴らすと、停めてあった台車の上に 文庫本を放った。あまりにぞんざいな本の扱い方に、ゆりあと杏里が同時に顔をしかめた。
「歴史関連と新書、それから童話に雑誌類は山内さんの仕事だからな。忘れるなよ」
 八つ当たりするように強く言いつけると、彼は憤然とした歩調で台車を押していった。
 ふと足を止めて、振り返った。
「お前らの力なんかいらない。俺が久恵さんを助けるんだ。忘れるなよ!」
 悪役とも正義の味方ともつかない捨て台詞を吐いて、彼は今度こそ行ってしまった。お前み たいな奴は物語の中盤で降板するんだ、と言いそうになる自分を、邦弘はぐっと抑えた。
「彼、苛立ってるみたいね。当番の期間が夏休みをまたいで一ヶ月だからかな」
 麻生の悪態にも杏里は平然としていた。誰にともなく言うと、彼女は無表情で貸し出し処理 に戻った。
「二人とも!」麻生の姿が見えなくなったとき、司書室から久恵が顔を出した。「悪いんだけ ど、閉館時間までテーブルで本でも読んでてくれない? いま、忙しくって」
「そうですね。人形だけ眺めてても、増えてくれるわけじゃないですもんね」ゆりあは爛漫な 笑みを浮かべて言った。「久しぶりにゲシュタルト心理学でも学ぼうかしら」
 まるで漫画を読もうとしているような反応だが、タイトルからしてそれはなさそうだった。
(ゆりあって……何者だ?)と思わずにはいられない邦弘だった。

「心理学って面白いんですよ」
 窓際のテーブルに陣取り、分厚い書物に目を落としていたゆりあが、ふとそんなことを言っ た。木の葉にさえぎられた陽光がゆりあの背中に描き出すまだら模様を、ぼんやりと見つめて いた邦弘は我に返った。
「ははっ、よくそんな本が読めるな」
 邦弘がそれを読んで得られるものなんて、せいぜい睡眠時間ぐらいである。
「面白いですよ。ひとの心理は。たとえば、今日だけで、嘘をついていそうなひとを三人ほど 見つけましたし」
「嘘?」邦弘はばっと身を乗り出した。「それは人形の謎に関わることなのか?」
「さあどうでしょう?」
 ゆりあは小首をかしげた。
「まだ関係性ははっきりしませんけど、とりあえず嘘をついてるひとリストを挙げてみますね ……まずは久恵先生」
「あのひとが? どうして?」
「わかりません。だけど、大げさな素振りを見せたり、それから顔が……なんだか、嘘をつい ているように見えるんです」
「顔って、そりゃあなんて根拠の薄い」
「あら、顔は正直なんですよ? よくあるじゃないですか、『顔に書いてあるわよ』って台詞。 もちろん真意なんてものは読めないですけど……でも、相手の心を知る参考にはなるんです」
「参考、ね。前にも訊いた気がするけど、心を読むコツってあるの?」
 ゆりあは本を閉じて、邦弘を見上げた。くいと小首をかしげる。栗色の瞳がななめ下から覗 き込んでくる。
「ひとの顔って、左右非対称なんですよ。で、基本的に左側に本性が出やすいんです」
 そういえば、ゆりあは保健室で久恵の左側面をじっと見つめていたような気がする。
「嘘をついてるひと、二人目――みさきちゃん。なにか隠していますか?」
「あっ」
 彼女がいたずらっぽい笑みを浮かべたことで、ようやく彼は気づいた。
(いま、俺のことを観察してたのか)
「嘘をついてるわけじゃありません。でも、あえて言わないでいることがある」そこまで言う と、ゆりあは肩をすぼめた。「ごめんなさい。誰にだって、言いたくないことはありますよね」
「いや、いいよ」
 申し訳なさそうに謝る彼女を、邦弘はさえぎった。
「ちょっと前に話したよな? 俺が、ふられたって話」
「雨の日ですね」
 邦弘はうなずいて、先を続けた。
「あのカウンターに座ってる図書委員が、その相手」
「麻生くんが?」愛らしい唇に手を添えて、彼女は驚きの声を上げた。邦弘ががっくりと脱力 する姿を見て、ゆりあは慌てて取り繕った。「冗談ですって。でも、彼も図書委員ですから」
「そりゃそうだけど、普通はさ……」
「普通というのは他人が決めるものじゃありませんよ?」彼女はことのほか真面目な顔でそう 言った。しかし、すぐに相好を崩した。「冗談ですって。そんな顔しないでください」
「まあ、とにかくあいつが俺の初恋にして初失恋の相手。読書好きな奴でさ、司書になりたい ってずっと言ってたんだ」
 彼に図書館部の教師などについての知識があったのも、杏里の就職のために寝る間も惜しん で司書の業務内容を調べたことがあるからだった。
「そうですか、杏里さんが……実は、三人目の嘘つきさんは彼女なんですよ」
「杏里が? まあ、あいつはたしかに読めないところがあるからな」
「それだけじゃありません。もしかしたらきっと、その嘘はみさきちゃんにとって……いえ、 やめておきましょう」
「なんだよ、気になるな」
「やめておきます。私の天秤で量った結果が、正解とは限りませんから」
 それはカウンセリング同好会に入会してから、もう何度も聞いた言葉だった。決まり文句と いう刀は使われるたびに錆びていくものだけど、どうしてか彼女のそれはいまだに鋭利な輝き を保っているように感じられてならない。しかしそれは、ゆりあの心というとぎ石をすり減ら すことで保たれた輝きなのではないか――邦弘にはそんな風に思えた。その逼迫したイメージ が、言葉に重みを持たせているのかもしれない。
 そのときだった。司書室のほうでバチンと、電気機器の破損する音がした。そして、女性の 「ああ! なんてことをするの!」という怒鳴り声が続く。さらに、「びえええん!」と幼い 子供の泣き声が続いた。
 邦弘とゆりあは顔を見合わせた。
 激しい音を立てて司書室のドアが開け放たれ、久恵がずかずかと出てきた。小脇には大きめ の人形を抱えている。彼女はまっすぐに邦弘たちのいるテーブルに近づいてきた。
「仕事が終わるまで、この子を預かってて」
 ぐいっと突き出してきたのは、人間の子供くらいの大きさの人形だった。
 いや、人間の子供そのものだった。

 まだまだ事例は少ないが、子連れ出勤をしている女性はたしかにいる。保育園に入園させる のが不安だったり、一緒に過ごしていたい親心からだったり、その動機は様々だが、いずれの 母親もそれが必要であると判断した上で選択している。とはいえ子供を職場に連れ込むリスク は大きく、周囲の関係者にも迷惑になるとのことで、世間からはまだ理解されていない。こと 公務員ともなると、子連れ出勤を実現するのは、プリンをつまようじで食べることぐらい難し い……はずなのだ。
「おにんぎょうさん、おにんぎょうさんっ」
 その極めて貴重な実例が、邦弘の目の前で長い黒髪の人形をいじって遊んでいる。年齢は四、 五歳といったところで、まだ日本語はおぼつかない。行動理念も滅茶苦茶だ。お昼ご飯のお皿 を割ったり、電子レンジに入れちゃいけないものを入れたりと悪行を繰り返した彼女は、とう とう母親の怒りを買ってつまみ出されてしまったという次第だった。
 彼女はよほど人形がお好きらしい。カウンターで山になっていた人形たちを両腕一杯に抱き かかえると、うんしょうんしょと、一生懸命この窓際の席まで運んでいた。
「のぶちゃんは、お人形さん好き?」
 ゆりあが保母さんのように優しく語りかける。
「うん。おにんぎょうさんはね、みんななかよしなんだよー」
 賀茂信子(かも のぶこ)は屈託のない笑顔を見せた。彼女の傍らには人形のピラミッドが 築かれている。かぞえてみたところ、信子の持っているものを含めて、人形は全部で十七体い るようだった。
「みんなみんななかよしで、夜中にぱーてぃーをするの。おいしいお食事をたべて、たのしい ダンスをおどって、なかよくあそぶの」
「この子たち皆でパーティーですか? ふふっ、本当に仲がいいんですね」
「ううん」信子はふるふると小さな頭を振った。さくらんぼを象った髪どめが可愛らしく揺れ る。「まだだよ。おともだちは、もっと、もっとたくさんくるんだよ」
 邦弘とゆりあは思わず顔を見合わせた。ゆりあはしばらく言葉を選ぶような間を空けてから 信子に尋ねた。
「お友達はどこから来るんですか?」
 信子は人形を胸に抱くと、瞳を輝かせて言った。
「おとぎのくにから。とおくて、ちかい、たのしいせかいから」

 

 夕方になると、館内には人っ子一人いなくなった。
 図書委員も仕事を終えて帰宅している。麻生は最後まで「俺は残って、犯人を捕まえる」と 言って聞かなかったが、久恵がいさめると、すごすごと引き下がった。杏里などは端から協力 するつもりはないらしく、気づいたら姿が消えていた。
 
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邦弘は複雑な思いでカウンターの席に座っていた。数分前まで、ここには杏里が座っていた。
 印刷機の側で山積みになった人形の内の一体と、ふと目が合った。無機質な瞳が邦弘を見つ めている。長い黒髪のそいつは、いかにも「呪いますよ」と言っていそうな顔立ちをしていた。 邦弘は首を振って、その考えを払拭した。
 ゆりあはなにやら興味深げにカウンターのコンピュータをいじっている。ちらりと見ると、 モニターにはリストらしきものが映っていた。
 そのとき、自動ドアの開く音がした。なんとはなしにそちらの方を見て、邦弘はぎょっとし た。そこには誰もいなかった。
『人形がやってくる』という信子の言葉を思い出して、背筋が冷えた。しかし、すぐにそれは 思い違いだったと気づいた。ぱたぱたと軽快な足音が聞こえたからだ。
「おにんぎょうさん、おにんぎょうさんっ」
 信子の声だった。五歳児の身長は、カウンターの高さと印刷機に隠れてしまって、ここから では見えないらしい。自動ドアも、信子に反応したらしかった。
「そういやこの席って、意外と視界が狭いよな」
 邦弘は傍らでキーボードを打っているゆりあに話しかけた。
「そうですね。印刷機やコンピュータがありますし、返却されたばかりの本が積んであります から……入り口の自動ドアと、その周辺、あとは司書室のドアが見えづらいですね」
「ゆりあは、さっきからなにやってるんだ?」
 邦弘は横からモニターを覗き込んだ。するとゆりあは、いたずらっぽく笑った。
「すごい発見をしちゃったんです」
 画面の、彼女が示した部分を見て邦弘は目を見開いた。
「生徒のデータベースじゃないか」
「そうです。名前、クラス、学籍番号、生年月日、住所、電話番号、所属部活動などなど、生 徒のパーソナルデータをこのパソコンからも検索できるようになってるみたいなんですよ」
 嬉しげに言ってくれるが、これは生徒が勝手に閲覧していいものではないような気がする。
 そのとき、司書室のドアが開いて久恵が出てきた。邦弘はびくりと飛び上がったが、ゆりあ は澄ましてコンピュータの電源を落としていた。女の子はしたたかだ。
「そろそろ帰る時間よ。なにか変わったことは?」
「ずっとここにいましたけど、人形が増えた様子はありませんでしたよ」
 ゆりあの言うとおり、カウンターに積まれた人形は十七体。増えても減ってもいなかった。
「あなたたちがいたからかもね」久恵は左手を差し出した。「大感謝! なんて言ったら、ま た陽子に『大げさだ』って言われちゃうかしら」
「えっと?」
 邦弘が差し出された手に戸惑っていると、「握手よ握手。感謝の表現は抱擁か握手よ」など とよくわからない持論を展開されてしまった。
 よくわからないまま、邦弘も手を出して握手した。柔らかく、温かい手だった。ふと、彼は 違和感を覚えた。なにかがおかしい気がした。
「あなたも、ね」
 続いてゆりあと握手する。
「ままー、かえるのー?」
 そのとき、無人の館内を駆けずり回っていたらしい信子が、母親を見つけて近寄ってきた。
「のぶちゃーん」
 甘ったるい声を出して、愛娘を抱き上げる久恵。きゃっきゃとはしゃぐ信子。仲のいい母娘 なんだな、と邦弘は温かい気分になった。
「それじゃ、二人とも。鍵を閉めなきゃだから」
「はい」
 久恵に促されて、邦弘とゆりあは荷物をまとめた。
「あ、まってまって」
 信子が母親の背中をなにかで叩いた。そのなにかは、長い髪をだらりと垂らしていた。
 邦弘は今度こそ、ぞっとした。カウンターに置かれた人形は十七体。ということは。
「このおにんぎょうさんも、なかまにいれてあげるの」
 信子の手に握られているのは、十八体目の人形だった。

 

 翌日の正午、邦弘が保健室を訪れると、陽子先生が机に突っ伏して眠っていた。
 ゆりあによると「徹夜で電話の相手をしていたそうです」とのことだった。なるほど、と邦 弘は思った。昨日の帰り際、信子の持っていた人形に気づいた久恵は、ヒステリックな断末魔 を上げて卒倒してしまった。たまたま図書館にやってきた図書館部の森田先生に介抱してもら い、事なきを得たのだが、それでも久恵のショックは消えなかったようだ。
「昨日の件で判明したのは『人形が増えるのは閉館後』という前提が間違ってた、ってことだ よな」
 邦弘はいつものベッドに腰かけた。ゆりあのいれてくれた紅茶を受け取って、口に含む。花 のような香りが鼻腔を柔らかく撫でた。
「そうですね。久恵先生がかぞえたのは、カウンターの人形だけですから。のぶちゃんが持っ ていたとなると……」
「でも、あの子はどこから持ってきたんだろうな? 誰かが渡したのか? だとしたら、どう してそんなことをしたんだ?」
「その、動機のことなんですけど」ゆりあは『マークツー』を抱いて、隣に腰を下ろした。ふ わりと女の子の匂いがして、邦弘はどぎまぎした。
「久恵先生の気を引くため、とは考えられないでしょうか」
「気を引く、ねえ。むしろ嫌われるんじゃないか? 現にあれだけ嫌がってるわけだし」
「そこが狙いなんですよ」
 つん、とゆりあマークツーの丸い手が邦弘の胸をつついた。
「久恵先生が大げさで怖がりだと知っている彼は、彼女を怖がらせることにした。で、最後に 自分自身で事件を解決して、彼女の好意を得ようとした……ありえない話じゃないと思います けど」
 邦弘は、あの麻生とかいう図書委員の顔を思い浮かべた。
「麻生って奴がいたな。あいつ、やけに俺たちを敵視してたっけ」
 ゆりあは真面目な顔でうなずいた。
「陽子先生も昨日、電話で色々と訊いてみたらしいんです。のぶちゃんは図書委員の生徒たち と仲がよくて、麻生くんが当番になってからは、特にはしゃいでるんだそうです」
「ゆりあは、麻生が犯人だと思っているのか?」
 邦弘はなにげなく、ゆりあマークツーをゆりあの手からそっと奪った。
「まだ確信しているわけではありませんけど」
「そうか……麻生も報われないな」
 邦弘はぽつりと呟いた。小首をかしげるゆりあに、彼は小さく笑いかけながら続けた。
「久恵さんって、旦那さんいないよな」
 ゆりあは驚いた顔をした。
「みさきちゃんも気づいてたんですか?」
「握手したときに、指輪の感触がなかったんだ。つけてなかったんだろうな」
「私もそこで気づきました。それでさっき陽子先生に確認してみたんですけど、久恵先生はシ ングルマザーなんだそうです」
「どうして普段は指輪をつけてるんだ?」
「男性に言い寄られないためですって」ゆりあはくすっと笑った。「ああ! こんなに可愛い あたしには、たくさん男が寄ってくるわ。いちいち断るのも面倒だし……そうだ、指輪をつけ ていれば誰もこないんじゃないかしら――っていう考えらしいですよ。言うなれば彼女は、常 に嘘を身にまとっていたんです」
「ほんとに極端なひとなんだな」  邦弘は苦笑した。
「じゃあやっぱり、俺の思ったとおりだ。久恵さんはいま、森田先生と付き合ってるんだな」
 ゆりあがこくりと首肯した。
「昨日も二人は会う約束をしていたんですね。久恵先生は森田先生に会うときだけは、指輪を 外していたわけです。もしかしたら、子連れ出勤が認められたのも、図書館部の森田先生の計 らいのおかげなのかもしれませんね」
 マークツーの冷たい瞳が、邦弘の複雑な表情を映していた。
 ――麻生も報われない。いくら気を引こうとしても、久恵が振り向くことはないのだから。 彼に同情する気持ちもなくはなかった。自分もまた、振り向いてもらえなかった人間なのだ。
「子連れ出勤……のぶちゃんは、お友達がいないんですよね」
 ふいにゆりあが話題を変えた。
「保育園とか幼稚園に通った経験がなくて、周りにはいつも大人ばかりで。おとぎの国から友 達が来るなんて、信じているわけじゃない。信じていたいだけ」
 気のせいだろうか。その言葉が信子の代弁ではなく、ゆりあ自身の訴えに聞こえるのは。
 邦弘は言葉を差し挟むことも忘れて、ゆりあの声に聞き入っていた。
「おとぎの国……」ゆりあはもう一度繰り返した。そして、はっと顔を上げた。
「なにかわかったのか?」ゆりあの反応に気づいて、すかさず邦弘が訊いた。
 聡明な少女は大きくうなずいた。
「もしかしたら、あの人形たちは本当におとぎの世界から来たのかもしれません」

 

 犯人は周囲の目から隠れるように、本棚と本棚の隙間に屈み込んだ。おやつの時間をほんの すこし回った時間である。あと二時間もすれば閉館となり、この広い図書館には、自分も含め て誰もいなくなるのだ。司書教諭である賀茂久恵と、その娘――人形の案内人である、賀茂信 子を残して。
 
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自分はなにをやっているのだろう、と思うこともある。愛しい異性へのアプローチは、果た してこんな形で行われるしかなかったのだろうか。もっと素直に、正面から、ぶつかっていく ことはできなかったのだろうか。
 犯人は首を振った。そんな問いはいまさらだった。
 目の前の棚に目を向ける。久恵は不可解だと言ってひどく怯えていたが、人形の増える原因 なんていくらでも考えつきそうなものだ。たとえばマトリョーシカ。人形の中に人形が入って いる。一体だと思っていたらあら不思議、一瞬で何体もの仲間が生まれるのだ。
 真実も、マトリョーシカの増殖と大して変わらないほど味気ない。こんなものは、もはやト リックとは呼べない代物だった。
 人形たちはおとぎの世界からやってくる。ただそれだけのことだ。
「え?」
 犯人は息を呑んだ。本棚の一番下、その列の一番端。そこにはあるはずのないものがあった。
「そんなはずは……」
 喉の奥からかすれた声が出た。
 見たことのない人形が、澄ました顔で鎮座している。まるで、卑怯で卑屈な自分を嘲笑うよ うな冷たい瞳をたずさえて。
「ない、かな?」
 頭上で男の声がした。犯人は恐る恐る顔を上げた。
「こうやって、顔を突き合わせて話すのは久しぶりだな……杏里」
 彼は――御崎邦弘は、犯人の名前を呼んだ。

「誰の入れ知恵?」
 遼遠まで広がる茜色の街を見渡していた山内杏里が、邦弘を振り返るなりそう言った。
 学園の屋上は清掃されていない足元が放つ、なんとも形容できない臭いが立ち込めていて、 お世辞にもドラマにふさわしい場所ではなかった。視覚的演出はばっちりだが、嗅覚的にはま ったくお話にならない。そんな場所を告白の舞台として設定してしまった自分は、なんて考え の浅い男だったのだろうか。数ヶ月前の自分を、邦弘は胸の内でそう罵った。
「俺が自分で犯人に行き着いたって可能性は考えてくれないの?」
「大方、あの栗毛の女の子といったところね」
 ずばりと的の中心を射抜いてくる。彼女はいつだって話の核心を突いてくるのだ。さながら、 百発百中の射手のように。
「ご名答。ゆりあマークツーに先回りさせるってアイデアは俺のオリジナルだけどね」
「趣味悪いね……あれはびっくりした」
 と言う口調は平坦で冷静だったが、現場を押さえられた瞬間の表情は、その言葉が真実であ ることを端的に表していた。彼女の驚いた顔なんて見るのは数年ぶりだった。
「どうして……」背中越しの夕陽が杏里の顔に影を作った。「わたしにたどり着けたの?」 「決定的な証拠があったわけじゃないんだ」
 邦弘は杏里の隣に並んだ。金網越しに眼下の駐車場を見下ろす。ミニカーのような黒のワゴ ンが白線の内側にきっちり納まっている。
「信子ちゃんがもっと大きな、嘘をつける年齢の子だったら、永遠にわからなかったかもしれ ない」
「あの子がしゃべったの?」
 彼女は迂闊だったとでも言いたげに顔を歪めた。しかし邦弘は首を左右に振った。
「杏里の名前は出さなかったよ。ただ、『人形はおとぎの国からやってくる』とだけ。犯人に 『本の世界から、お人形さんの友達がやってくる。おいしい食べ物や、楽しいダンスをおどる ために。でも彼らはこっちの世界のことは知らないから、あなたが仲間のところに案内してあ げて』とでも言われたんだろうな。あの子は、人形はおとぎの世界――つまり童話の棚から現 れると聞かされていたんだ」
「そんな夢物語、信じるかな? いくら五歳児とはいえ」
 杏里は試すような口調で切り返した。邦弘は迷いなくうなずいた。
「あの子には同年代の友達がいない。より早く子供に現実を教えてくれるのは、親じゃなくて 友達なんだ。幼稚園や保育園の友達。サンタなんていないんだぜって教えてくれるのはたいて い、ちょっと生意気な同い年のお子様だろ?」
 信子はまだ虚構と現実の区別がついていない。皿を割って、電子レンジを壊して、信子はな にをしようとしていたのだろうか?
 人形の食卓に並べる料理を作るだなんて、ばかばかしい。 でもそれは、現実を知っている大人の理論。現実を教えられた子供の理論。
「で、わたしがそれを利用したって? 人形を童話の本棚の端に隠して、あとで信子ちゃんに 回収させて……でもそれは、わたしだけじゃなくて麻生くんにもできるよね」
「ああ、初めはそう思ってた。信子ちゃんは麻生が当番になってから、特に嬉しそうに帰宅す るらしいしな。仲がいいなら、信子ちゃんが素直に言うことを聞くのもうなずける。でも、こ ういう委員会活動っていうのは、基本的に当番のペアが決まっているよな。麻生の当番の日っ てのは、つまり杏里の当番の日でもあるんだろ?」
「そうね。でもそれだけじゃ根拠としては弱い」
「それだけじゃない。童話の棚を整理するのは、杏里の仕事だった」
 杏里の顔がすこしだけ歪んだ。
「……誰かが人形を見つけたらどうするの?」
「高校生にもなって、童話を読みたがるひとは少ないんじゃないかな。ましてや夏休みだぜ。 わざわざ童話を読むためにこの炎天下、学園まで来るとは考えづらい。仮に誰かが人形を見つ けても、事情を知っているひとじゃなければ気にしないだろうし。麻生か久恵さんか、どちら かに見つからなければ問題ない」
 杏里は肩をすくめて首を振った。
「本棚に納めるところを、カウンターから見られたら?」
「自動ドア付近の本棚はほとんど見えない。印刷機とカウンターの高さそのものが目隠しにな るんだ。俺の座高でも見えなかったんだ。俺よりも背の低い久恵さんや、注意力のなさそうな 麻生には気づけないと思うけどな」
「いい観察力してるね、栗毛の女の子」
 杏里は皮肉っぽい口調で言った。冷たそうな白い手が、金網を強く握りしめている。
「でも、一つだけ根本的な見落としがある」
 そう言って、杏里は邦弘の横顔を見つめた。
「そんなことをする理由がない」
「異性の気を引きたかったから」
 間髪いれず邦弘が言った。
 杏里の黒色の瞳が大きく見開かれた。
「ここから先はゆりあの推測じゃない。全部、俺のオリジナルだ」
 邦弘は大きく息を吸った。心臓が小刻みに鳴っていた。
 ゆりあは、杏里が犯人であると推測した。だけど、動機については言及できなかった。いや、 あえてしなかったのだ。彼女は最初から杏里の嘘に気づいていたのだから。
「最初に会ったとき、杏里は俺たちのことを『カウンセリング同好会の方々』って紹介したよ な。どうして俺たちが同好会の人間だとわかった? あの日以来、俺はお前と話したことなん てなかったのに」
「それは……久恵さんから聞いてたから。同好会に相談しに行くって」
 杏里は小さな声で反論した。
「嘘だな。あのひとが保健室に来たのは、陽子先生に会うためだ。俺が保健室にいたのは偶然 だし、彼女は最初、同好会がちゃんと活動していることも知らなかった」
「……くっ」
 杏里の奥歯がきしんだ。邦弘は言葉を止めない。
「カウンターのパソコンからは、学生のデータベースに接続できる。そこでは、名前や住所、 生年月日はもちろん、所属部活動も検索できるんだ……調べたんだろ? 俺のことを」
「……だからって、人形を増やすことにどんな意味があるって言うの」
「久恵さんを怖がらせて、俺を図書館に連れてこさせるため」
 杏里の視線はもはや、邦弘の視線から逃げるように、足元へ向いていた。
「杏里は久恵さんが怖がりだってことを知っていた。だから、不可解な状況を作り出して、彼 女を追い詰めた」
「……そんなの、蓋然性が低すぎる。彼女が同好会を頼るとは限らない」
 もっともだった。邦弘も初めは、こんな迂遠な方法を取るなんてありえないと思った。だけ ど彼女はたしかにオッズの高い賭けをしたのだ。失敗したならそれでいい。上手くいけば大儲 け。そんな、投げやりな気持ちで――だけど明確な意思をもって、今回の謎を生み出した。
「俺の勝手な妄想だけど、あの人形は、昔に戻りたいっていうメッセージだったのかもな。懐 かしかったよ、あの長い黒髪のいかにも『呪いますよ』って言ってそうな人形」
「……わからない」
 杏里の声は震えていた。肩も震えていた。
「意味、わからないよね……自分から拒絶したくせに、求めるなんて」
 わからないなんて当たりまえだ、と邦弘は思った。
 彼はここ数ヶ月で、一瀬ゆりあと妹尾陽子から学んだのだ。天秤は誰もが持っていると。物 事の価値、重さを決めるのは各々の天秤なのだと。邦弘はふられるはずがないと思っていた。
しかしそれは、あくまで邦弘の秤が弾き出した重量だった。杏里が別な価値観を持っているな んて、わかっている気になっていたけれど、実感として捉えることができていなかった。
 いまはどうだろう? いまも杏里の真意はわからない。でも、知りたいと思っている。
『ごめん、好きになれない』
 あの言葉の裏に隠れた、人形の心に触れてみたいと思っている。
「怖かったの……また、壊されるんじゃないかって」
 杏里はかすれた喉を酷使して、言葉をつむいだ。瞳は黒ずんだ泉のように危うく揺れていた。
「中学に入ったばかりのころ。邦弘に振り向いてほしくて、わたしはずっと努力してた。髪を 伸ばして、綺麗にブラッシングして、たまにお化粧なんかもしてみたり……勉強も運動も頑張 った。邦弘に好かれるためだと思えば、なんだってできた」
 邦弘は内心、驚かずにはいられなかった。彼が杏里を好きになるずっと前から、彼女は邦弘 に好意を寄せていたのだ。
「ある日、邦弘に屋上に呼び出された。夕方の屋上。わたしはどきどきした。やっと邦弘が振 り向いてくれた。いままでよく頑張ったねって、自分を誉めてあげた。『好きです、つきあっ てください』邦弘はそう言った。心臓が止まるかと思った。不安そうな顔をする邦弘に、わた しは慌ててうなずいた。『わたしも好き』もっと長い台詞を用意してたのに、それしか出てこ なかった」
「え……?」
 邦弘の記憶の最奥で、なにかが身じろぎした。泉の底に沈殿していた記憶が、ぷかりと水面 に浮き上がってきた。
「邦弘はきょとんとした。そして、慌ててこう言ったの」
 杏里は柄にもなく笑おうとして、失敗した。両の瞳からぼろぼろと落ちるものがあった。
「『ごめん嘘。罰ゲームだったんだ』って。あはは、笑えるよね」
 邦弘は胸をかきむしりたくなった。浮かんできた記憶の中でもたしかに彼はそんな言葉を吐 いていた。罰ゲーム。それは、幼なじみのいる中学生が避けては通れない通過儀礼だった。仲 のいい男女は、いつだってからかいの対象になる。当時の邦弘は冗談で済ませるつもりだった。 そのときの杏里の気持ちなんて、考えもしないで――。
 杏里はくしゃくしゃの顔を上げて、彼に鋭い視線を投げかけた。
「怖い。邦弘からの告白が、すごく怖い」
 その肩は相変わらず震えていたけれど、邦弘は手を伸ばさなかった。そうすることは、許さ れていないような気がした。
「好きだけど。いまでも大好きだけど。駄目なの。もう壊されたくないの!」
 彼女が『好きじゃない』ではなく『好きになれない』と言った意味が、ようやくわかった。
「いまさら信じろって方が無茶だと思うけど」
 邦弘は口を開いた。今度は自分が誠意を見せる番だった。
「人形に先回りさせたのは、あのころに戻りたいっていう、お前に対する返事のつもりだよ」
「……駄目」杏里は小さく呟いた。「いますぐは、信じられない……でも」
 気づけば、腕の中に杏里がいた。あごの下に彼女の長い黒髪があった。ブラッシュアップを 怠らない、流れるような黒髪。腕にすっぽりと包まれた、均整の取れた体つき。漂う甘い香気。 彼女はいつだって、全身でアピールしていたのだ。
「もう一度、頑張ってみたい……頑張れるかな?」
 そっと呟いた杏里の問いに、邦弘はその体を強く抱きしめることで答えた。

 7

 三つの影が手をつないで歩いていた。森田誠一、賀茂久恵、信子の三人だった。
 そろそろ日が落ちようという時間帯。場所は学園の駐車場。
 ゆりあは、黒のワゴンの陰からすっと姿を現した。
「あれ? どうしたの、こんなところで」
 久恵は目を丸くした。
「こんばんは」ゆりあはにこりと笑った。「ちょこっと、のぶちゃんをお借りしますね」
 ゆりあはしゃがみ込んで、信子と目線を合わせた。五歳の少女は不思議そうに小首をかしげ ている。ゆりあは小さな頭を優しくすきながら、同じように首を傾けた。
「杏里さんは、大切なお友達ですか?」
「おともだちっ、おともだちっ」
 両手をぱたぱたさせて喜んでいる。ゆりあはさらに続けた。
「彼女はいつも寂しそうでしたか?」
「ん……いっつも、ひとりだったから」
 しょんぼりとしてしまった。
「だから、のぶちゃんはお手伝いをしたんですね? のぶちゃんの大事なお友達が、寂しくな いように。お人形が――お友達が、たくさん集まるように」
 さくらんぼの髪どめが小さく上下した。ゆりあは大きくうなずいた。
「一瀬さん」
 声に呼ばれて顔を上げると、そこにはぽりぽりと頬をかく久恵がいた。
「のぶちゃんね、保育園に通わせることにしたの。昨日の騒動で痛感したわ。このままだと、 仕事場が埋め立て地になっちゃう」
 相変わらず大げさな女性だった。
 そんな彼女に、ゆりあはくすりと笑って、
「それがいいと思います」と、大いに首肯した。
「ゆーあ、ゆーあ」
 小さな手がちょいちょいとスカートを引っぱっていた。
「なあに?」
 ゆりあは保母さん顔負けの猫なで声で応じた。
「あんり、ひとりになっちゃうけど、さびしくない?」
「もちろんです」
 健気な少女の体を、ゆりあはぎゅっと抱きしめた。
「杏里さんは――うそつきなお人形さんは、もう一人じゃありませんから」
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