笑うカウンセラー

二章『笑うチアフルキャット』

 

 大きめの雨粒がコンクリートの地面にしたたかに弾ける音が、夕方の繁華街に響いている。 夕方といっても灰色の雲のおかげで朱の太陽は出番を失い、周囲は暗かった。もしもいますぐ 夜になったら、道行くひとの誰がそのことに気づくだろうか。
 青、赤、紫、黄色、橙色、黒、透明……文字どおり、色々の傘が入り乱れて歩いている。ま るでカラフルなキノコが街を埋め尽くしているみたいだ。行き交う無数のキノコ。それらはど こか幻想的な所感を抱かせる。
「今年の梅雨は長いですね」
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 ぼんやりと都会の万華鏡に見入っていた御崎邦弘を、現実に引き戻したのは、隣に立ってい た青いキノコだった。
「この時期って憂うつになるんだよなぁ。なんかこう、じめじめしててさ」
 邦弘は苦笑しながら答えた。
「私は好きですよ」青い傘がすこし傾くと、一瀬ゆりあの朗らかな笑顔が現れた。「景色がい つもと違う顔を見せてくれるし、絶え間なく音が聞こえますから。ほら、晴れてる日って、と ても静かじゃないですか」
「晴れの日もうるさいと思うけどな。車の音とか」
「私の家は静かなんですよ。いわゆる閑静な住宅街ですから」
 ゆりあは、どこか遠い目をしてそう言った。
「本当に静かな、静かな……ね」
 彼女が小さな声でそう繰り返したときにはもう、その顔は傘の中に隠れてしまっていた。け れどなぜか邦弘は、ゆりあの沈んだ表情を思い浮かべることができた。珍しく抑揚のない口調 だったからかもしれない。もうこの話題はよそう、と彼は思った。
 視線をふたたび雨中の雑踏へ向ける。ゆりあの呟いた言葉とは正反対な街の姿が、そこにあ った。無数の足が水溜りを踏む音、制限速度ぎりぎりの車のタイヤが飛沫をあげる音、そして もちろん雨粒の音。
 そんな雑音を隠れみのにするように、ひっそりとたたずむ建物があった。そこは隠れている ように目立たない立地だが、それでいて存在を主張するように桃色の華やかな看板を掲げてい る。社会経験のない邦弘にも、そこがどんな店だかわかった。
 要するに、クラブというやつだ。
 にぎやかな若者たちの集う場所と言ってしまえば聞こえはいいが、それはつまり、『未熟な 人間がハメをはずす場所』ということだ。店内では、合法非合法を問わず、薬の売買がおこな われている場合もあると聞く。
 邦弘とゆりあは、その店を数メートル離れた電柱の陰からじっと眺めていた。
 この場所に来たのは、けっして二人で堕落するためではない。もちろん放課後にデート、な どという胸焼けしそうな理由でもない。
「ゆりあ」
 邦弘は、自分の目線と同じ高さにある、青い傘に話しかけた。 「ゆりあは、どう思う? 今回の依頼」
 つまりは、そういうこと。これは『カウンセリング同好会』の活動の一環だった。
「もし、あのひとの言っていたことがほんとなら大変ですね」
 ゆりあは俯いていた顔を上げて答えた。その表情は予想に反して、そして言葉の内容に反し て笑顔だった。
「そうなると俺たちの手に負えないぞ」邦弘はため息をついた。「なあ、どうしてあんな依頼 を受けちまったんだよ」
「どうして受けちゃいけないんですか?」
「いや、あのな。どう考えても今回の話はやばいだろ」
「だったらなおさらじゃないですか」
 きっぱりと言い切る。
「困っているひとを助けるのが、私たちの仕事なんですから」
 ぱちんと可愛らしくウインクした。
 それから、栗色の瞳を何度か瞬かせて、
「けど、みさきちゃんが心配するのも当然ですね」と言った。
 みさきちゃん、というのは邦弘の愛称だった。数週間前に邦弘がカウンセリング同好会に入 会してからずっと、この呼び方である。可愛らしいことこの上ない呼称だった。
「私もびっくりしましたから。まさか生徒のなかに……」
 ゆりあは口をつぐんだ。その先を言ってしまっていいものか、判断しかねているようだ。
 かわりに、邦弘が口を開いた。
「――クスリをたしなむひとがいたなんて、ね」
 さすがのゆりあも真剣な面持ちでうなずいた。
 そのとき、黒い猫が目の前を横切った。
 ――黒猫が前を通るのは、不幸の兆し。
 背筋がぶるりと震えた。雨はまだまだやみそうになかった。

 

「素行調査?」
 その依頼内容に真っ先に反応したのは邦弘だった。
 放課後の保健室。部屋には、ぱちぱちと雨粒の弾ける音が響いている。いつもグラウンドか ら届いてくる運動部のかけ声が聞こえないぶん、この日はいくらか静かだった。
 ――この依頼人がやってくるまでは。
 陽子先生の目の前の椅子にだらしなく座る男子生徒の姿があった。ハリネズミのように逆立 った黒髪が特徴の、活発そうな男子生徒だ。彼は入室するなり、椅子にどっかりと腰かけて、 こう言い放ったのである。素行調査をしてくれ、と。
「そうそう、素行調査。実はさ、いま、すっげえ大変なんだよ。オレんちの近所にさ――あ、 オレは野山武雄っていうんだけどさ、野の山に武士の雄たけびって書くんだぜ、カッコいいだ ろ? バスケ部でレギュラーなんだけどさ、こう見えてスリーポイントが上手いんだよね。そ れでさ、近所に住んでる奴がいるんだけど、そいつが……えっと、なんつったらいいかな」
「武雄さん」
 陽子先生が上手く言葉を差し挟んだ。
 邦弘はホッとした。このままでは、いつしゃべり終わるかわからなかった。
 そのあまりに突然の乱入ぶりと、あまりの早口に、ゆりあでさえ観葉植物に水やりをしてい るポーズのままぽかんとしていた。珍しくじょうろを捨てることも、居住まいを正すことも忘 れているらしかった。
 そんななか、陽子先生だけは柔らかな微笑みをたたえて武雄を迎えていた。この白衣の養護 教諭は、いつもは机上の目覚まし時計をぼんやりと眺めているだけなのだが、来客があると、 まるでスイッチを押したようにしゃきっとするのだ。
「あなたがなにを悩んでいるのか、先生に教えてくれる?」
 陽子先生は、泣きぼくろが艶っぽい目尻を下げてそう言った。
 さすがのハリネズミも、陽子先生の雰囲気に飲まれたように大人しくなった。武雄は照れた ように頬をかくと、腰を動かして座りなおした。そして、いきなり頭を下げた。
「頼む!」ぽかんとするカウンセリング同好会一同に構わず、彼は続けた。「近所に住んでる 友達……まあ、いわゆる幼なじみってやつだな。そいつの素行調査をしてほしいんだ」
「待った待った」邦弘は慌ててさえぎった。「悩みでもなんでもないですよね、それは。だい たいそんなこと、ここみたいな一同好会に頼むことじゃないでしょう?」
 武雄のブレザーの胸に刺繍された校章の色は二年生のものだったので、邦弘は一応丁寧語を 使った。
「ここにしか頼めねーんだよ。大人なんかに知られたらヤバイし」
 その言い方にひっかかるものを感じた。それは邦弘だけでなく、ゆりあも同様だったらしい。 ゆりあはさりげなくじょうろを鉢のかたわらに置いてから言った。
「なにか知られて困ることでもあるんですか?」
 あきらかに武雄は顔をしかめた。それから、彼は陽子先生の顔をまっすぐに見つめた。 「妹尾先生。オレは、あんたは信用できるひとだって聞いたんだ。この相談の内容と、調査の 過程で知ったことは、オレ以外には洩らさないって約束してくれるよな?」
 陽子先生は微笑んでうなずいた。
「先生は養護教諭よ。闇を抱えた学生をたくさん知っている。あの子たちは他の誰にも頼れな くて、ここに来るの。その信頼を踏みにじるようなことはできないわ」
 邦弘にはなんの話だかわからなかった。そんな彼の様子を察して、ゆりあが耳打ちしてくる。
「保健室には、放課後こそ私たちしかいませんけど、授業中はけっこうひとがいるんです」
「授業中に?」
「授業中、休み時間、昼休み……不安や悩みを抱えていたり、周囲に溶け込めないひとたちが、 自然と保健室に集まるんだそうです。それで陽子先生も交えて、おしゃべりしたりして」
 なるほど、と邦弘は思った。元々、陽子先生は、学生たちの間ではセラピストのような位置 づけだったのだ。だからこそ、ゆりあの同好会を支持してくれるのだろう。
 武雄に陽子先生のことを話したのも、そんな『保健室組』の生徒なのかもしれない。
 正直、邦弘には彼らの気持ちはわからない。授業をエスケープしたり、昼休みの時間を削っ たりしてまで、保健室でだべることにどれほど価値があるんだろう? そんなことをするぐら いなら、教師のありがたい子守唄で眠りの世界へ旅立ったり、学生食堂で素うどんをすすって いるほうが単位にも傷がつかないし、よほど生産的だと思うのだが。
 ――ゆりあなら、彼らの考えも無条件で受け入れるんだろうな。
 ゆりあは透明だ、と邦弘は思う。他人の価値観を素直に受け入れる、透明なグラス。底が深 くて、どんなワインでも受け止めてしまうのだ。
 ぼんやりと考えていると、きいと音が鳴って、邦弘は我に返った。武雄が座りなおした際に 椅子がきしんだ音だった。
「信用するぜ、妹尾先生。お前らもな」
 武雄は邦弘とゆりあのほうを向いて言った。
「もちろんです」
 と答えたのはもちろんゆりあである。
 なにやら危険な香りがするが、大丈夫なのだろうか……邦弘は心配になって、ゆりあと陽子 先生を見たが、二人ともすでに話を聞く体勢に入っている。予想どおりの反応ではあったが、 それでも邦弘はため息が出るのを止められなかった。
「オレんちの近くにさ、海野絵梨(うんの えり)ってやつが住んでるんだけどさ」
 そして彼はいらだたしげに足を踏み鳴らしながらしゃべり始めたのだった。

 

「あんたには関係ないでしょ」
 電話口からの声が、ぴしゃりと言った。
 野山武雄は耳の奥がじーんとして、思わず携帯電話を耳から離していた。
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「だいたいねえ、高校二年にもなって、なんだってあんたの干渉を受けなきゃなんないわけ」
 海野絵梨は、声にうんざりした成分を含ませて言った。絵梨とは小学生のときからの付き合 いで、それぞれの家も近い。歩いて一分かかるかかからないかという距離である。要するに、 幼なじみというやつだった。昔はなにをするのも一緒で、二人で風呂に入ったことさえあった。 武雄の母親なんかはよく「あらあら、我が家は少子化とは無縁かしら」などときわどいことを 言っていた。絵梨の母親も「絵梨は将来安泰だわ。青田買いで永久就職ですものね」と冗談と も本気ともつかないことを言って笑っていた。それがだいたい八年前のことである。
 しかし八年の歳月は、あどけない愛情でさえ風化させてしまうらしい。
「うるっせえな。耳がイカれちまうだろうが!」
「ひとのプライバシーに首つっこんでくるからよ。いい加減にしてよね!」
 これが無垢な夫婦の八年後の姿だった。
 風呂を一緒しようなどと言い出そうものなら、たちまち警察沙汰である。
「これでも心配してんだよ、オレは。オレはほら、バスケ部じゃん? 大会も近いし、かなり 遅くまで練習してるんだぜ? そんなオレが家に帰ってさ、おふくろから『絵梨ちゃんがどこ に行ったか知らない? 絵梨ちゃん、最近体調が優れないらしいのよ。あちらのお母さんがす ごく心配してるから、連絡あったら教えなさい?』なんて言われてみろよ。心配だろ? だっ てオレが家に着く時間って七時くらいだぜ? 運動部のオレはともかく、帰宅部の絵梨が七時 帰りなんて――」
「うるさい!」
 ぐだぐだ続く武雄の言葉を、絵梨のたった一言が両断した。
「二度とかけてこないで!」
 怒声とともに通話は切れた。
「……くそっ」ツー、ツーと単調な音しか発しない携帯電話をベッドに叩きつけた。「いつか らあんなじゃじゃ馬になったんだあいつは」
 自分もベッドに飛び込む。枕にあごを乗せて、バタバタと水泳選手気取りで足を動かしてみ た。ふとあるものが目に入った。ベッドの脇に置いてあるラックの上に、写真立てがちょこん と鎮座している。写真そのものはすこし色あせて古めかしいが、埃が積もっていたりはしてい なかった。それよりも、べたべたとくっついた指紋のほうが目立つくらいだ。武雄はなにげな く、それを手に取った。
「帰宅部にしたのは、勉強に専念するためだったよな?」
 ぺらっぺらの紙の中で猫を抱いて笑っている、無邪気なフィアンセに話しかける。我ながら 女々しいことを、と思う。けれど、やめようとは思わない。そうすることでいまの距離感が埋 まったような感覚に浸っていられるから。もちろんそれは蜃気楼のオアシスで、近づいてみれ ばぱっと霧散してしまうほどに頼りないものなのだけど。
 武雄は写真を見ながら、ぼんやりと当時のことを思い出した。
 この写真のことを知っているのは、武雄と絵梨と……絵梨に抱かれた猫だけだった。ごわご わした黒い毛並みと、抱いたら折れてしまいそうな細身が特徴の黒猫。小学校五年生のときだ ったか、絵梨がいきなり武雄の部屋に連れ込んできたのである。
「あたしたちの子だよ。がんばって育てていこーね」
 あれは雨の日だった、と思う。
 分厚いレインコートを着た絵梨が、窓からこそこそと部屋に上がり込むなりそう言ったとき、 武雄は心臓が止まりそうになった。そのころはちょうど『新婚夫婦ネタ』で友達からからかわ れていた時期だった。幼なじみのいる小学生が避けて通れない道だとわかってはいたが、それ でも武雄には苦痛だった。新婚ネタだけならまだ、いい。しかしそれが『子作りネタ』にまで 発展すると、はいはいそうですかと受け流すわけにはいかなくなる。なんせ小学校高学年とい うやつは、子作りとは如何なものかをしっかり理解していて、コウノトリさんが運んでくると 信じている生徒のほうが少数派だったりするのだ。否定しなければ、たちまち子作りに励んで いることにされてしまう。もちろん武雄と絵梨は、幼なじみ以上の関係ではない。それなのに やたらと関係をねつ造されるのは嫌だった。
 だから、あたしたちの子、と言われたとき、武雄は驚くと同時に戸惑った。自分は子供ので きることなんてなに一つしていないのだ。
 他に子供ができる理由といったら……。 「まさかコウノトリさん?」小学生の知識を総動員して武雄は訊いた。
「そういう意味じゃないって。出ておいで」
 レインコートの胸元から、黒い塊が飛び出した。武雄はびっくりして身構えたが、すぐにそ の正体に気づき、肩の力を抜いた。
「どこで拾ってきたの?」
 それは黒い猫だった。すごい速さで部屋のすみまで走ると、カリカリと壁をひっかき始める。
「びしょぬれで寒そうだったから」
 答えになっていない。武雄はすこし眉をひそめた。
「自分の部屋に連れていきなよ」
「お母さん、猫アレルギーだから」
 絵梨がダンボールに入った猫を連れ帰るのは、これが初めてではなかった。以前もたしか雨 の日だったと思う。彼女が捨て猫を意気揚々と自宅に連れ込んで、母親にかんしゃくを起こさ れてしまったことはまだ記憶に新しい。
「でも、うちだってお父さんが動物嫌いだし、無理だよ」
「だからこの部屋で飼うの。こっそり。ね、ね、いいでしょ? バレないって。ごはんもあた しが持ってくるから。ね?」
 絵梨は床に転がっていたクッションを三つほど一ヶ所にまとめて、その中央にぐいぐいと猫 を押し込めた。きっと即席の巣を作ったつもりなのだろう。彼女はえさと住処さえあればどう にでもなると思っているに違いない。トイレのこととか、壁のひっかき傷のことなんてまった く考えていないのだ。
 絵梨はいつでも楽観的だった。優しくて、それでいてアクティブなものだから、困っている 動物を助けずにはいられないのだが、たいていの場合、助けたあとにどうするかを考えていな いのだ。そして、色々と試行錯誤を繰り返したすえに武雄のところへ回すのである。
 ――まったくいい迷惑だぜ。あの猫を育てることに、どれだけ苦労したことか。
 苦労と言っても、それほど長い期間のことではなかった。黒猫との同居生活はたった一週間 ほどしか続かなかったのだ。ある日突然、窓から出ていってしまい、それきりあの猫の行方は 知れない。部屋はしばらく動物臭かったが、それも数日経てば消えてしまった。両親には最後 までバレなかった……と当時は思っていたが、買った覚えのないキャットフードが台所に置い てあったところを見ると、おそらくバレていたのだろう。そもそも学校へ行っている間、母親 はいくらでも武雄の部屋に侵入できるのだ。
 武雄は写真を元の場所へ戻した。
「あいつ……なにやってんだよ。遅くまでさ」
 武雄は呟いた。絵梨は変わってしまった、と思う。当時は飽きるほど笑顔を見せてくれたの に、いまでは会うたびに顔をしかめられる。猫を拾ってくることだってない。相変わらず動物 好きで、獣医を目指して勉強しているようではあるが、それでも昔のような無邪気な優しさは 失われているのだろう。八年という時間は、絵梨を成長させるとともに劣化させたのだ。
「ほっとけるワケねえよな」
 それでも武雄は、幼なじみを見限ろうなんて思わなかった。
 彼はごろんと転がって天井を見た。
 どんな口実で部活をサボろうか……武雄はぼんやりと考えていた。

 翌日の放課後。
 武雄は頭痛と腹痛と筋肉痛と法事が同時にやってきたという理由で部活を休んだ。三年生の 部長に殴られそうになったが、武雄が正直に事情を説明すると「そうか。今日だけだぞ」と納 得してくれた。こうやってひとの話をきちんと聞いてくれるひとだからチームメイトから慕わ れるんだろうな、と思った。だからこそ、武雄も正直に話すことができたのだ。最初の言い訳 は、あくまで顧問の教師へ宛てたものだった。
 部長に感謝しつつ部室を飛び出し、昇降口へ急いだ。幸いにも彼女はまだくつを履こうとし ているところだった。廊下の角に身をひそめて様子を見る。肩にかかるくらいの、薄茶色のセ ミロング。左右の毛先がくるんと外側へ跳ねているところが、なんとなく猫っぽい。眉尻の持 ち上がった、大きめの瞳も猫っぽさを演出している。
 彼女こそ幼なじみの海野絵梨である。絵梨は片足を軽く上げて、土でよごれた革靴につま先 を差し入れている。丈の短いスカートの裾がめくれて、真っ白なふとももが覗いている。
 ――いいふとももしてんなぁ。などと不埒なことを考えていると、絵梨はさっさと昇降口を 出ていってしまった。彼女は激しく泣いている空を見上げて小さく肩を落とすと、青色の傘を 広げた。昔は黄色だったっけな、と思いながら武雄は後を追った。
 校門を出て、しばらく人家が連なる道を歩く。絵梨がふと足を止めた。慌てて電柱の陰に隠 れた武雄だったが、大きな傘がにょっきりとはみ出ていて、むしろ怪しかった。さて絵梨はな にをするのだろうと見てみれば、なんのことはない、自販機のボタンを押しただけだった。紙 パックの飲み物を購入すると、ふたたび歩き始める。道幅がだいぶ広くなり、それなりに車と すれ違うようになった。車道から離れるように、心持ち道路の端っこに寄る。絵梨も同じこと をしていた。車のタイヤが巻き上げる飛沫を警戒してのことだろう。しかし、車側もなかなか 手強い。一台の乗用車が絵梨の脇を通り過ぎると、「きゃっ」と声が聞こえた。見れば、絵梨 の制服や肌のむき出しになっている部分が土と水でぐっちょぐちょになっていた。彼女は遠ざ かっていくバックナンバーを睨みつけてなにかを叫んだ。「バカ」とか「横見て運転しろ」と か、そんな感じの内容だ。横を見てたら危ないだろ、とは思うが、絵梨の気持ちもわからなく はなかった。
 それにしても、ちょっと機嫌が悪すぎないか? 泥をかけられていい気分じゃないのはわか るが、それにしてはあまり制服に気を遣っていない。汚れた部分をぬぐうこともせず、どこか イライラした様子で足を踏み鳴らしている。さっきから、やけにきょろきょろと周囲に注意を 払っているのも気になる。武雄が首をかしげていると、青い傘をさした絵梨は雑木林に囲まれ た都営公園に入っていった。この公園は、ぐるりと円を描く散歩道が二つの出入り口をつない でいる。中央の池で悠々と泳ぐアヒルを眺めながらウォーキングを楽しむことのできる、なか なかのスポットだ。しかし、今日みたいな雨の日には、誰もがこの場所を避けて歩く。砂でで きている散歩道は足場がかなり悪くなってしまうためだ。
 そんなことはどうでもいいと言わんばかりに、絵梨はずんずんと泥の上を歩いていく。相変 わらず首を四方八方に巡らしている。武雄はすこし迷ってから、絵梨とは反対回りの道を行く ことにした。あれだけ警戒されると、人気のないこの場所ではすぐに見つかってしまう。池を 挟めば、顔は見えないがシルエットは見える。尾行するにはそれで十分だ。逆に、絵梨には顔 さえ見られなければいいのだから、武雄のシルエットが見られてしまおうとかまわない。
(オレって頭いいかも)
 などと調子のいいことを考えながら、小さな青い傘を追いかけた。
(それにしても)絵梨を観察していて、ふと思った。(街中をふらふら歩いて、きょろきょろ と周りを警戒して……ほんとに猫みたいな奴だな)
 青い傘は公園の出口に着くと、あっさりと道路へ出てしまった。その先は繁華街だ。武雄は、 見失ったら大変だと急ぎ足で青い傘を追いかけた。
 繁華街は雑音にまみれていた。
 色々な傘が入り乱れていたが、武雄はすぐに青い傘を見つけた。ちゃんと制服のスカートと 白いふとももが見えるから間違いない。
 青い傘は右へ左へふらふらしながら雑踏のなかを歩いていく。さっきよりも周囲への注意を 緩めている。足取りは怪しいが、まっすぐにどこかへ向かっているようだった。
(ひとが多いから逆に安心したってことかぁ? ま、オレとしても追いやすくなったけどさ)
 そのとき、車道を高速で駆け抜ける車があった。水しぶきはガードレールを超えて歩道にま で及んだ。しかしターゲットは、もはやそんなことなど気にしていないようだった。ただふら ふらと、それでいて一心に目的地を目指している……そんなふうに見えた。
 そして。
「お、おいおい」
 青い傘は、その店の前で止まった。表通りからちょっとだけ外れた場所にある店。彼女は傘 を閉じると、迷わず派手な電飾の横を通りすぎ、店内へと入っていった。
 ――マジかよ。武雄は息を呑んだ。そこはどう見ても真面目な学生が立ち入る場所じゃない。 見間違いだろうか。いや、違う。たしかに遠目ではあったが、彼女が店に入ったのは間違いな かった。
 武雄が呆然としていると、その店の入り口ドアがふたたび開いた。なかからやけにハイテン ションな男女が出てきた。露出度の高い服を着た女が、片手でなにかをひらひら振っている。 透明の小さなビニール袋だ。それに気づいた男が、慌てて彼女からそれを取り上げ、手提げカ バンに押し込んだ。女のほうはけらけらと笑っている。
 武雄の胸にもやもやとしたものが流れ込んできた。いまのはなんなんだ?
 ――駄目だ。早合点するな。クラブに通っているからといって、イコール薬というわけじゃ ない。あくまでそういった場所が狙われやすいだけだ。ただはしゃいでいるだけ、という学生 もいるはずだ。けれど、そこへ通うことそのものが危険なのだから、つまり――。
 絵梨の体調が優れないらしいという母親の言葉が脳裏をよぎった。そういえば、最近の絵梨 は、すこし顔色がよくない。肌色というよりも、なんだか白いように見えるのだ。  武雄は頭を抱えた。なにがなんだかわからなかった。
 気づいたときには、その場から逃げるように走り出していた。

 絵梨が部屋にやってきたのは、その日の夜だった。
 子供のときみたいに窓から侵入するのではなく、きちんと玄関から入ってきた。数時間前に 見たことのショックでベッドに突っ伏していた武雄は、絵梨のいきなりの登場に思わず飛び起 きた。
「ひ、久しぶり」絵梨は視線を泳がせながら言った。「暇そうね」
「よ、よお……今日も遅かったんだな」武雄もぎこちなく返事する。
 どうして絵梨が来たのか武雄にはわからなかった。ここ数ヶ月間、お互いの家には出入りし ていないし、なによりつい先日電話で大喧嘩をやらかしたばかりなのだ。
「色々あったのよ」絵梨は顔を赤らめてうつむいた。「その、昨日はごめん。あたし、イライ ラしてて」
「イライラ……」不安が現実味を増したような気がした。訝るような目で絵梨の顔を見つめる。 その顔は不自然なほど白かった。武雄は強く頭を振って、その考えを追い払った。「べつに、 気にしてねえよ。でも、なんでこんな時間まで」
「お願いがあるの」武雄の言葉をさえぎって、絵梨は言った。「昨日あんなこと言っておいて、 図々しいってわかってる」そして、いきなり頭を下げた。「だけど、お願い。いますぐ……お 金、貸してくれない?」
 武雄のなかで、なにかが壊れるような音がした。
 その言葉は、彼のぎりぎり崖っぷちに留まっていた絵梨への信頼を、奈落へと突き落とした。
「ちょっと使いすぎちゃって、今月ピンチで……あんたにしか頼めるひといないのよ」
 絵梨は、無意識ではあるだろうが、結果的に武雄の怒りを煽った。
「……ざけんな」
「え?」絵梨は目を瞬かせた。
「ふざけんじゃねえ!」
 武雄が怒鳴りつけると、彼女はびくりと身をすくませた。
「金だと? ぶらぶらと夜遊びして、オレや両親に心配かけさせて、あげくの果てに金を貸せ だ? ふざけんな。オレはなあ、お前のこと信用してたんだぜ。見ちまってからも、そんなこ とあるわけねえって信じてたんだよ。なのに金って……そりゃあねえだろうが!」
「な……」
 絵梨は目を見開いて固まった。
「どうしてオレがお前なんかのために金を出さなきゃなんねえんだ。ふざけんな、ふざけんな よ。もう知らねえ。勝手にやってろ! 昨日の言葉、そっくり返してやる。二度とオレに電話 すんな。うちにも来んな!」
「ま、待って武雄。電話のことで怒ってるなら、あたし謝るから。昨日はほんとに落ち着かな くって、それで……ごめん。ごめんってば!」
 絵梨は武雄の胸にすがりついた。目のふちには涙が盛り上がっていた。
 武雄は絵梨の体を乱暴に突き放した。強い力に押されて、なすすべもなくしりもちをついた。 腰を打ちつけたのか、絵梨の顔が苦しげに歪む。すでに大粒の涙が幾筋も頬を伝っていた。
「出て行け!」
 怒りに任せて叫んだ。
「うっ……く」絵梨は唇を噛みしめて、武雄を睨み返した。「あんたなんかに頼るんじゃなか った……最低よ!」
 立ち上がって、部屋から出る。最後に侮蔑に満ちた視線を武雄に投げかけると、叩きつける ようにドアを閉めた。そして、どたどたとフローリングの床を走る足音が遠ざかっていった。
 武雄はベッドに座り込んでうなだれた。考えるべきことはたくさんあるのに、頭がまったく 働かなかった。

 しかしそんなことがあろうとも、武雄には幼なじみを見限ることなんてできなかった。
 翌日、頭を冷やした武雄は、とにかく絵梨を更正させるべきだと考えた。
 問題は具体的にどうするか、だ。本人に問い詰めても、素直に証拠品を差し出すとは思えな い。色々考えたあげく、例の店に入ったところをカメラで撮って、証拠写真を目の前に突きつ けてやることにした。証拠があれば絵梨だって悪あがきはしないはずだ。
 ただそれには問題があった。武雄は部活に出なければならない。もちろん、こんな一大事な のだから、武雄が休んでも誰も責めたりしないだろう。けれど大会が近いのだ。バスケットボ ールは団体競技だから、レギュラーが一人でも休むとチーム全体に迷惑がかかる。昨日だって 部長は、むりして認めてくれたのだろう。本当なら一日たりとも休んでもらいたくないはずな のに。
 思案に暮れながら学園の廊下を歩いていると、ふとあるプリントが目に入った。学生掲示板 に貼りつけられた、B5サイズのプリントである。
「カウンセリング同好会?」
 活動場所は保健室とある。同好会については知らなかったが、保健室――というよりも、そ こにいる養護教諭のことは知っていた。クラスメートが彼女についてよく語っていたのだ。
 嬉しいことにプリントには『お悩み相談、雑用、子守り、なんでも承ります。なにかにお困 りでしたら、どうぞ遠慮なくお声かけください』とある。
「部長にはこれ以上迷惑かけたくねえし……かと言って、絵梨をあのまんまにはできねえし」
 写真のなかの笑顔が目前に浮かんだ。その笑顔をこれ以上劣化させたくなかった。
 武雄は強く拳を握りしめた。
 彼が保健室を訪ねたのは、その日の放課後だった。

 

「で、俺たちはこうしてカメラを構えているわけだが……」邦弘はため息をついた。「いつに なったらシャッターチャンスがくるんだ?」
 カラフルなキノコの行き交う夕方の繁華街で、邦弘たちはかれこれ一時間ほど立ち往生して いた。さっきから例のクラブを観察しているが、いまのところ絵梨の出入りはない。
「やっぱり見失ったのはまずかったかな」
 ぼそりと呟いて、邦弘は肩を落とした。
「携帯電話で呼び出してみるのはどうですか?」
 ゆりあが言った。
「それで素直に出てきてくれるなら警察は大いに携帯を活用するだろうな」
 絵梨の携帯電話の番号は武雄から聞いている。しかし、赤の他人である邦弘たちからの電話 などまともに取り合ってくれるわけがなかった。こちらが正直に事情を説明して、武雄の関係 者であることを伝えれば可能性はなくはないだろうが、心にやましいところのある彼女が素直 に呼び出されるとはとうてい思えなかった。
「行き詰まり、ですね」
 ゆりあは小さくため息をついた。

 邦弘とゆりあが海野絵梨の尾行を始めたのは、武雄が保健室を訪れた翌日から――つまり今 日からだった。今日もここ数日の例にたがわず雨の強い日だった。
 放課後、絵梨は青い傘をさして学園から出ていった。二人も追いかける。武雄にもらった絵 梨の顔写真ときちんと照らし合わせたので、尾行対象を間違えているなんてこともない。二人 は順調に後をつけていった。
 途中で、いきなりゆりあが言った。
「野山くんが言っていたルートとおんなじですね」
 言われてみれば、と邦弘は思った。自販機で紙パックの飲み物を買って、住宅街を抜けて都 営公園へ。『びしょぬれ事故』を除けば、武雄の証言そのものである。まるでリプレイ映像を 観ているかのようだった。
「それにしても驚いたな。あのひと、思ってた以上に警戒してる」
 絵梨は落ち着きなく周囲を見回していた。公園に入ってからは特に神経質で、その様子は、 なにかに怯えているようにも見えた。
「本当にそうなんでしょうか?」ゆりあは小首をかしげた。栗色の瞳が邦弘を見上げる。「た しかに私にもそう見えます。でも、それは私たちが傍から見てそう感じるだけですよね。それ もこんなに遠くから」
「なにが言いたいんだ?」
 邦弘は訊いた。聡明なゆりあが言うからには、なにかしら意味があるはずだった。
「私たちの見解とウミネコさんの真意とは、だいぶずれてるんじゃないかって思えるんです」
「ウミネコ?」
 またもやヘンなニックネームができている。ゆりあはこうして他人を愛称で呼ぶのがお好き のようだった。
「そこに反応するんですか?」ゆりあはくすくすと笑った。「だって彼女、猫みたいじゃない ですか」
「髪型が?」
「それもそうですけど、こうしてぶらぶらと街を歩き回って、家族を心配させるところとか」
 ああたしかに、と思った。猫というやつは決まって気まぐれで、ふらりとどこかに消えたと 思ったら、いつの間にかこたつのなかで丸くなっていたりするのだ。
「それで名字の海野と合わせてウミネコ……ね」
 邦弘はようやく合点がいった。
「なかなか可愛い名前だと思いません?」
「……馬鹿か」
 邦弘は遠くを見て呟いた。ゆりあの頬がわずかにふくらんだ。
「馬鹿だなんて、ひどいじゃないですか」
「あ、悪い。そうじゃないんだ」
 邦弘は慌てて弁解した。
「自分に言ったんだ。くそっ……目を離してる隙に、いなくなっちまった」
「え?」
 ゆりあも慌てて前を向いた。そこに絵梨の青い傘はなかった。
 公園から出るとそこは人通りの激しい繁華街。もはや傘の色だけでは個人を識別できない。 いまから追いかけても、絵梨を見つけることは至難の業だろう。
 ゆりあの顔がみるみる青ざめていく。
「ごめんなさいっ。私がヘンな話をしたから」
 勢いよく頭を下げた。
「いやこれは俺の注意不足で……いや、よそう。責任を問うのは時間のむだだ。それよりも先 を急がないと」
「例の店に直行するんですね?」ゆりあは表情を引き締めていた。
 話が早かった。海野絵梨を尾行していたのは入店する瞬間を撮るためである。それが無理な ら、店から出てくるところを撮るまでだ。店の場所は聞いているから、その入り口が見える場 所で待機していればおのずとシャッターチャンスは訪れる。
 もちろん、彼女が店に立ち寄ればの話だが。ただ、武雄が尾行したときとまったく同じルー トを辿っていることから、絵梨が店に行く可能性は高いと思われる。待ち伏せする価値は十分 にありそうだった。
「急ごう」
 邦弘がそう言うと、ゆりあは力強くうなずいた。

 それが一時間前の話だった。  絵梨はいっこうに出てこない。そうしている間にも雨足は激しくなっていき、夜は密度を増 していく。かたわらで青い傘の先端がぶるりと震えた。
「着るか?」
 邦弘はブレザーの襟に手をやった。
「ありがとうございます。でも、大丈夫」
 大丈夫なわけがなかった。横なぐりの雨は傘の防壁を免れて、ゆりあを襲っていた。制服は 重たげに湿っていて、肌にぴったりとくっついている。彼女の華奢なボディラインがほとんど 浮き彫りになっていた。
「俺ならこの下にも着てる。半裸の変質者にはならないから安心しなよ」
 邦弘が冗談めかして言うと、ゆりあは小さく笑った。心なしか、いつもより弱々しい笑顔だ った。
「優しいんですね。けっこう女の子にもてるんじゃありません?」
 すこしだけ間が空いた。
「そんなことない」それは両方の言葉に対する返事だった。「言ってなかったっけ?」邦弘は おしゃべりになっている自分に気づいた。けれど止まらなかった。「俺、一度こっぴどくふら れてるんだ」
 ゆりあは気まずそうな顔をした。
「あのっ、すみません、私ったらなにも考えないで……」
「いいっていいって」邦弘はつとめて陽気に笑ってみせた。「入学したころのことなんてもう 忘れたよ」
 半分は嘘だった。同好会の活動に追われている間、痛みを忘れられるのはたしかだ。けれど、 ふとした瞬間に、胸の奥が疼痛に襲われる。それは一度や二度じゃない。
「幼なじみだったんだよ」今日はほんとに口が滑らかだ。「仲がよかったんだ。正直、ふられ るなんて思ってなかった。ハハッ、女の子ってのはなにを考えてるかわからないよな」
 邦弘が自嘲気味に笑ったとき、ゆりあははっと顔を上げた。
「心を読むコツってやつがあるなら、教えてほしいな」
 その場のノリで、邦弘は尋ねていた。
「――そう、ですね。男の子のほうが鈍感さん、なんですよね」
 おとがいに指を当てて、ゆりあはぽつりと呟いた。
「それって、俺のこと?」
「いえ、依頼のことです」
 きっぱりと、ゆりあは言った。
「お話し中なのにすみません。でも、邦弘さんの言葉で気づいたんです」
「……真実に?」
「私の考える、真実に」
 邦弘はもう、さっきの話のことなど忘れていた。同好会の活動に追われている間は――とり わけゆりあと接している間は、たとえ束の間だとしても、痛みを忘れることができるのだ。
 ゆりあの、栗色の瞳に聡明な色が宿った。
「携帯電話でウミネコさんを呼び出しましょう」
「取り合ってくれないんじゃないか?」
 だからいままで絵梨の番号を持て余していたのだ。
 しかし、ゆりあは自信満々にこう言い切った。
「大丈夫です。ウミネコさんには、なにもやましいことなんてなかったんですから」

 

「――どういうつもりだよ」
 野山武雄は苛立った声でそう言った。
 ここは放課後の保健室だった。武雄の目の前では妹尾陽子が椅子に座っている。相変わらず 雨の音が響いているが、それでも二人きりの
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室内は以前よりもずっと静かで落ち着かなかった。
 数分前。きれいな弧を描いてシュートを決め、ガッツポーズを決めたまさにそのとき、校内 放送が武雄の名前を呼んだのである。
「放送のとおりよ。大事な話があったの」
 彼女はさっと足を組んだ
。  武雄は、タイトスカートからにょっきりと生えた白い足に目を奪われた。しかしすぐに目を 逸らした。
「し、試合が近いって言ったろ。そのためにあんたらに依頼したんだぜ? 練習中に呼び出さ れるんじゃ、アレだ。本末転倒ってやつだろ」
「いますぐ伝えたほうがいいと思ったから」
 陽子は柔らかく微笑んだ。
 その言葉に、武雄は思わず身を乗り出していた。
「まさか、もう写真が撮れたのかよ!」
「いいえ」陽子はあっさりと否定した。「邦弘さんもゆりあさんもまだ帰っていないわ。もっ とも、あなたの望む写真は永遠に撮れないと思うけど」
「どういう……意味だよ?」
 含みのある言い方に、武雄は戸惑っていた。この養護教諭はいったいなにを言っているんだ ろう?
「最初に話を聞いたとき、疑問に感じたことがあってね。それで、ゆりあさんたちとはべつに 先生も調べてみたの」
 彼女はデスクに置いてあった折りたたみ傘を手に取ると、それを武雄に向けて開いた。  バン、という重たい音に驚いて、武雄は思わず飛び上がってしまった。
「な、なんだよいきなり!」声が裏返っていた。
「武雄さんには、なにが見えるかしら?」陽子が言った。
 紺色の大きな傘は、白衣の上半身をほとんど隠してしまっていた。あの柔らかな微笑みも見 えなくなっている。組まれた足くらいしか見えるものはない。
「あなたから見て、いま、ここに座っているのは誰かしら?」
 彼女の声が言った。
「妹尾先生……あんたオレをからかってるのか?」
「どうして『妹尾先生』と呼びかけることができたのかしら。顔なんて見えないのに」
 武雄は黙り込んでしまった。陽子の行動が理解できなかった。
「そうね、先生ならこう答えるわ。妹尾先生の足が見えているから……って」
 武雄の顔が一気に紅潮した。彼女は自分の視線に気づいていたのだろうか。
「けれど、それは傘をさす前の先生を見ているから言えることよね。もし、先生が最初から傘 をさしていたら?」
「あ、足が見えてることには変わりないだろ」
 武雄はどもりながら言った。
「もしもそのひとが、同じスカートをはいた、同じような体型の別人だったとしたら?」
 間髪いれず、どこかいたずらっぽい口調が返ってきた。
「ちょ、ちょっと待てっての!」武雄は叫んだ。「この話が、今回のこととなんの関係がある っていうんだ?」
「関係があるどころか核心じゃないかしら」陽子は傘を閉じた。ふたたび現れた彼女の顔は、 意外にも悲しげだった。「武雄さんはとても鈍感なのね。もちろんそれは純粋の裏返しだから、 必ずしも悪いことではないけれど」
「鈍感? オレが? まさか。こう見えてもバスケ部のレギュラーなんだぜ。感覚はいつでも 磨いてる。むしろ野犬なみに敏感だろうよ」
 鼻にかけた口調に、陽子は苦笑を浮かべた。
「そういうことじゃないのよ」小さく首を振った。「女の子の変化に気づけるかどうかってい うお話。たとえばあなたは、昇降口で絵梨さんのふとももが真っ白できれいだな、と思ったで しょう? そのイメージが強かったのかしらね、繁華街で青い傘を見つけたとき、あなたはス カートと白いふとももを見ただけで彼女が絵梨さんだと決めつけてしまった」
 陽子はすこし間を空けた。
「――たった数分前に、むき出しのふとももが泥水でよごれてしまったところを目撃したはず なのに、ね」
「そんなの、よごれが落ちただけだろ?」
「ぬぐった様子もないのに、自然に泥が落ちるなんてありえないわ。少なくとも、白さを保つ ことなんてできない」
「それじゃスカートは? スカートは印象に残ってないから、よごれてるかどうかなんてわか らなかった。でもたしかにこの学園の制服だったぜ? それに傘の色だって……」
「青色の傘なんてありふれているもの。それにスカートだって、この学園内ではありふれてい るわ」
「それは、そうだけどよ……」
「ぜんぜん関係ない話かもしれないけれど、今日の昼休み、ある女の子がここへ来たの。いわ ゆる『保健室組』の子よ。夜遊びばかりしてる子でね、寝不足でふらふらとおぼつかない足取 りだったわ。新しくできた彼氏に誘われて怪しげな店に行ったんだけど、ヘンな薬を渡されそ うになって、怖くなって逃げたって……自分はどうしたらいいかって。先生は、いたって教師 らしく対応したわ」
 武雄の顔が青くなっていく。すがるような目で陽子を見た。陽子の顔は嘘をついているよう には見えなかった。
「誤解……だったってのか? いや、でも絵梨の帰りが遅いのは事実だ。それにいきなり金を 貸してくれって……あいつだって小遣いはもらってるはずなのに」
 まるで自分自身に言い聞かせるかのように、武雄は呟いた。
「あなたは、絵梨さんのことを知ろうと思ったことはある?」あくまで静かな声で、陽子は言 った。「オレは、オレは、オレは……あなたは、そうやって自分を前面に押し出すわよね。こ こに来たときもそうだったし、絵梨さんとの携帯電話でのやりとりでもそうだった。ねえあな た、もしかして、いつもそうやって話すのかしら?」
「い、いや、意識してるわけじゃないけど」
 いつもそうやって話すのだと暗に認めていた。
「絵梨さんともそんな調子で会話してきたのね? ひたすら自分のことをしゃべる。そして、 相手の話はろくに聞かない」
「なんで……」
 そんなことがわかる、と続く言葉を彼は飲み込んだ。
「それが悪いとは言わないわ。多くのひとは、聞くよりも話すほうが大好きなんだもの。ただ 問題なのは、多くのひとのなかには絵梨さんも含まれているっていうことなの」
 陽子は立ち上がると、茶葉一式の完備されたテーブルに近づいた。急須にお湯を注ぎ始める。
「絵梨さんだって、もっと自分を知ってもらいたかったはずよ。だけど、顔を合わせても電話 をしても、あなたは自分のことばかり話す。だから絵梨さんはアピールする機会を失い、あな たは成長した絵梨さんのことが、なに一つわからなくなってしまった」陽子は逆さに立ってい た湯呑みを五つ、ひっくり返した。「あなたは、いまの絵梨さんを知らないのに、絵梨さんの 行動を疑ってしまったの」平たい皿を取り出してテーブルに置いた。「冷静に考えれば別解が 出てくるはずなのに、あなたは最初に出した解を唯一解としてしまった」簡易冷蔵庫を開けて、 牛乳パックを取り出す。「どうして体調が優れなかったのか。どうして顔が白く見えたのか。 どうして周囲に注意を払って歩いていたのか。どうしてお金を借りる必要があったのか。どう して借金する相手にあなたを選んだのか……わからないでしょう?」淡々と言いながら、陽子 は皿に牛乳を流し込んだ。「絵梨さんは、劣化してなんていなかったのよ」
 武雄の椅子が大きな音を立てた。彼は立ち上がって、目を見開いていた。
「妹尾先生……オレ、いま、すんげえ嫌な可能性を考えちまった」
「きっとそれが答えよ」
 陽子は微笑んだ。
「たとえばやけにきょろきょろしてたのは、警戒しているんじゃなくて、ちょろちょろ動き回 るなにかを捜していたから。体調が優れなかったのは、雨のなか何時間もそのなにかを捜し歩 いていたから。お金に困っていたのは、そのなにかのために出費してしまったから。顔が白く 見えたのは、あなたに会うために薄く化粧をしていたから。あなたを頼ったのは、かつてあな たが協力者だったから」
 陽子は並べ立てるように言った。
「あいつは……絵梨は、猫を拾ったのか?」
 武雄の顔はもはや蒼白だった。 「これは、あくまで想像。本当の答えは本人に聞きなさい――お客さんよ」
「え?」
 陽子の言葉に武雄が振り返るのと同時に、保健室のドアが開いた。
 そこには、邦弘とゆりあに挟まれて、気まずそうな顔をして立ち尽くす海野絵梨がいた。
 それから、もう一人。いや、もう一匹。
 絵梨の腕に抱かれた黒い塊が、にゃあ、と間の抜けた声を上げた。

 

 ――数日後、邦弘とゆりあはある自販機の前に立っていた。
「本当に牛乳だらけなんだな、ここ」
 邦弘は苦笑した。雨はすっかりやんでいたが、自販機のボタンには名残りの水滴がくっつい ていた。
「もっとバリエーションがあってもよさそうなものですけどね」
 さすがのゆりあも苦笑いだった。
 これは海野絵梨がたびたび利用していた自販機だった。そこには紙パックの牛乳やコーヒー 牛乳、フルーツ牛乳が並んでいた。
「絵梨さんは毎日ここで牛乳を調達してたわけだな。あの猫に飲ませるために」
 ゆりあは百円硬貨を投入口に入れて、フルーツ牛乳のボタンを押しながらうなずいた。
「体調を崩すのも当たりまえですよね。ここ最近ずっと雨が降ってたのに、泥水だらけの散歩 道を歩いたりして……尾行してたときの私みたいに服がびしょびしょになるだけじゃなくて、 ソックスもひどく湿っていたと思うんです。足元を冷やすと、風邪もひきやすいですよね…… みさきちゃんも飲みます?」
「いや、いいよ」
 ゆりあがもう一枚百円玉を取り出そうとしたが、邦弘は断った。べつに喉が渇いているわけ でもなかったし、なによりおごってもらうのは気が引けた。
「遠慮しなくてもいいのに」ゆりあはすこしだけ不満そうな顔をしたが、すぐに爛漫な笑顔を 取り戻した。「ウミネコさんも、野山くんに遠慮していたんですよね。助けた捨て猫を、自分 だけの力で育てようとした」
 二人はのんびりと歩き出した。
「幼少の楽観的だったころと比べると、かなりの成長だよな」
「ええ。でもあるとき、予算っていう最大の壁にぶつかってしまった……ずいぶん散文的な壁 ですけど。ウミネコさんは悩んだでしょうね、きっと。でもやっぱり最後には野山くんを頼る ことにした」
 そこまで言うと、ゆりあはストローに口をつけて、ぺこりと頬をへこませた。
「それなんだけど……」邦弘は口を挟んだ。「陽子先生は、絵梨さんはそのとき化粧をしてい たって言ってたけど、なにを根拠にしてたんだ? 絵梨さんもそのことは語ってくれなかった し」
「それこそ想像なんじゃないですか?」ゆりあがストローから口を離すと、紙パックがじゅっ と音を立てて元の形に戻った。「きっとみさきちゃんにはわからないんでしょうね。女性が、 どんなときにお化粧をするのか」
「女性って……まだ高校生なのに」
「あら、早熟なんてことはありませんよ。中学から紅を差してる子だっていますもん」化粧っ 気のない、それでいて精白な顔が朗らかに笑った。「女の子は、よりきれいな顔を見てもらい たいものなんですよ。相手が幼なじみならなおさら、見飽きられた顔をどうにかして印象づけ なきゃならないですし」
「はあ」
 相づちを打ったものの、その辺りの女性心理はまったく理解できない邦弘だった。
 右手に都営公園が見えたが、今日はそちらへは行かず、住宅街をまっすぐに進んだ。途中、 虎毛の太った野良猫が悠々と石塀の上を歩いているのを、ゆりあが見つけた。
「可愛いですね」空になった紙パックをマニュアル通りに折りたたみながら言った。「野良猫 の行動範囲って、けっこう広いんですよね。あの黒猫さんも、公園はただ寝床にしているだけ で、昼間はあちこちうろついてたわけですし」
「そのおかげで、怪しい怪しい絵梨さんができ上がったんだよな」
「猫は塀の上だとか電柱の裏だとかにさりげなくいたりするから、探そうと思ったら四方八方、 ぐるぐる首を回さないとですからね」
「まぎらわしいな」
「ほんとにそうですよね。あのですね、私」ゆりあのくりくりした瞳が邦弘を見上げた。「小 さいころ、ウミネコのことを『海に住んでる猫』だと思ってたんです。本当はカモメの仲間だ から、全然違うんですけどね」
「ああ、なんだかわかる気がする」邦弘はうなずいた。「俺なんか、カマドウマを馬の仲間だ と思ってたからなぁ」
「それはいくらなんでも」ゆりあはくすくす笑った。「でも、知らない動物の姿を想像するに は、知っている情報をつなげるしかないんですよね。たまたま名前にネコとかウマとか、わか りやすい単語が含まれていたから、それを参考にした……でもそれは間違っていた」
 さっきとは別な自販機があった。その脇に設置されたごみ箱に空のパックをえいと投げ入れ ながら、ゆりあは続けた。
「目に見える行動だけでも、印象的な言動だけでも、相手の『本当』はわからない。今回のこ とは、つまりそういうことだったわけですね」

 しばらくして、二人は足を止めた。目の前には、赤い屋根の一戸建てがあった。ゆりあの背 丈ほどの高さの門がある。表札には『野山』とあった。
「――あれから、あの二人はうまくいってるかな?」
「どうでしょう……誤解とはいえ、野山くんはウミネコさんにかなりヒドイことを言いました からね。そう簡単に円満、というわけにはいかないと思いますけど」
 ちなみに今日はカウンセリング同好会の活動の一環としてここまでやって来た。その後の武 雄と絵梨とが傷ついた心を癒していく過程を、後学のために観察しておこうという崇高な目的 があるのだ。表向きは。実際は単なる好奇心である。
 邦弘はチャイムを鳴らした。数秒待ったが、誰も出てこない。家中にひとの気配も感じない。 「留守かな」
「あら、どちら様かしら?」
 その声に邦弘とゆりあが振り向くと、そこには片手に買い物袋を提げた女性が立っていた。 どぎつい化粧と派手な服装で着飾った、四、五十歳くらいの女性だ。
「どこかで見た制服ねえ……ああ」彼女はぽんと膝を打った。「息子と同じ学園の子ね。お友 達かしら? ああでも、あの子は今日、試合なのよ。部活動のね。ごめんなさいね、わざわざ ここまで足を運んでくれたのに。でも知らなかったわ。息子に、あなたみたいな可愛い女の子 の友達がいたなんて。絵梨ちゃん一筋かと思ったら、まったくあなどれないわねえ。ああでも、 あなたはそちらの男の子と付き合っているのかしら。そうだ、お茶でもいかが? お茶菓子も たっぷりあるわよぉ」
 邦弘は唖然とした。まだ自己紹介をされていないが、このひとは間違いなく野山武雄の母親 だった。
「それはなんですか?」
 ゆりあが買い物袋から上半分だけはみ出ている箱を指さしながら言った。猫の耳らしきイラ ストがぴょこんと覗いている。
「ああ、これね」武雄ママは、よくぞ聞いてくれました、とでも言いたげにうなずいた。「最 近、家族が増えたのよ。これはその子のごはん」
「その子、可愛いんですか?」
 ゆりあは小首をかしげて尋ねた。
「当たりまえよぉ、だって……」
 すると武雄ママは、喜色満面でひどくきわどいことを言ったのだった。 「息子とガールフレンドの、愛の結晶だもの」
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