昨日までの一言


◆◆ 目次 ◆◆

ペイオフは盗人の論理だ
甲山はどうなった
テレビの推理ものの貧しさ
国旗国歌法の行方と厳密なる論理
没メールのサンプル
ビールかけについて考える
優勝
昨日の収穫
これが茶番だ
はじめての批判メール
原点に立ち戻って
12,500は一万二千五百の代わりになるか
エセ科学と社会防衛論の距離
勝った!勝った!勝った!
ぽっくりと死ぬための技術
雑感
「ミシシッピの幽霊」を見た
機能性食品の胡散臭さ
薬害問題から何を学んで欲しいか(続き)
薬害問題から何を学んで欲しいか
雑誌SPAの漫画はフライングだ
悪化する東チモール情勢と日本の政治
勝ちました
東チモール問題に見る日米の二重基準
こんな歌をご存じありませんか
東ティモールの情勢に注目!
リスクというものを考える
消費者運動は迷信から決別せよ!
高橋晄正著「自然食は安全か」をおすすめする
増長慢
はーッはっは、愉快、愉快!!!


ペイオフは盗人の論理だ

話は急に変わるが、今朝の毎日新聞の経済面に、また腹のたつ記事が載っていた。

2001年の4月から、銀行に預金した金は、その銀行がつぶれると、1000万円までしか戻ってこなくなる。これを「ペイオフ」というのだそうな。この制度、我々零細業者には、血も凍るような制度になる。

ふつう中小・零細業者の取引先との決済は、銀行を通じてということになる。職員の給料も銀行振込だ。

こうした商取引のための普通預金や当座預金を「決済性預金」という。ペイオフではこれまでが消えるということになる。へたをすれば連鎖倒産だ。

冗談ではない。なぜ放漫経営でつぶれた銀行のせいで、顧客が倒産しなければならないのか。預金者は顧客であって、銀行と取り引きしているわけではない。取引先の連鎖倒産とはわけが違う。その上、一方で銀行に残った借金は別の銀行に移って、これは払えという。これではやらずぶったくりではないかと思う。

ところが大蔵大臣の諮問機関である金融審議会は、我々の反対に、品は悪いが、ケツをまくった。

曰く。

金融機関の破たん時に資金決済が滞らず円滑に行われるようにすることは必要だが、円滑な決済と決済性預金の保護は同義ではない

曰く。

預金が一定率でカットされても、資金決済が混乱しなければ、企業の要望は満たせるのではないか。

よくもまあ、こんな途方もないことをいって、恥ずかしくはないのか。

銀行がつぶれて、月の収入のかなりの部分がなくなる。その上金のないところで、取引先には金を払わなければならない。何せ銀行がつぶれたときに当座引き出せる限度が20万だという。200万じゃありませんぜ。

どこが喜ぶか、わかりますね。その通り、消費者金融だ。

あとは出来るだけ小口に分けて、あちこちに預金を分散するぐらいしか自衛手段はない。喜ぶのは、これまた余分に手数料が入る銀行とタンス預金をねらう泥棒ということになる。

その一方で破たんした長銀を売るために、税金を4兆円だけつけて持参金として「差し上げる」のだそうな。

この国は本当に資本主義の国か。ペイオフは盗人の論理だ!!!こんな政府、早くつぶせ!!!

(9月30日記)

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甲山はどうなった

昨日の朝甲山裁判で、またまたまたまた、無罪判決がでた。もちろん有罪判決がでる根拠などかけらもない裁判だったから、これはいいんだが、テレビではこれにほとんど触れていない。午後のワイドショウは、相変わらず芸能ネタとオウムのこと。

その上夕方のニュースは、下関で起きた通り魔(というのだろうか、何だろうか)事件で緊急特集。

今朝の朝刊にも一言も記事がない。

あわてて各新聞のサイトを検索したが、どこにもやはり載っていない。

甲山の裁判のことは、支援の頁があるのだが、ここも長く更新されていない。

とにかく判決の内容を詳しく知りたい。検察側はどう反応したのか。又上告して国民の税金を無駄にしようというのか。等々。誰か教えて下さい。(9月30日記)

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テレビの推理ものの貧しさ

考えてみると10年ほど前は結構夜更かしだった。最初のうちは「ニュース・ステーション」も欠かさず見ていたし、よく2時間ドラマも見ていた。それが、おそらくアフリカから帰ってぐらいから、まるで興味を失った。

その中で、「これは悪食(あくじき)かな」と思いながら、気になる役者のものは、それでも目の開いている限り見る。

その一つが、藤田まこと主演のシリーズ「京都殺人案内」。そろそろ主演をはるには年を取りすぎたかと思う彼だが、初老の刑事役はそれでもまだ見ていられる。

しかし先日見たのはひどかった。やくざが宝石店を強盗に入り、主役=音川音次郎が、やくざの情婦にくっついて、犯人が戻ってくるのを待つという筋。推理も何もないが、この情婦と音川のやりとりですすむ。結局音川を殺そうとしたやくざが、情婦によって射殺されるという結幕になる。

私はびっくりしたのは、主人公が自分の生命の恩人(やくざの情婦)に手錠をかける=逮捕するというシーンだ。

こんなことするか。暖かい血の通っている人間なら、自分が射殺の責めをきないか。彼女が殺さなければ自分の生命がなかったことを忘れて、連行することに痛痒を感じない主人公。これはただの頭の固い官吏だ。

もともとこんな血も涙もないのが、日本の推理ものにでてくる主人公の、一つの特徴だ。

私はこの筋立ての源流は、時代劇の中にあるのではないかと思う。時代劇では、改心した悪人の手先は、必ず最後の場面で正義の主人公を助けようとして殺される。逆に途中から敵に寝返ったものは、比較的早い段階で必ず惨めな死を迎える。

今回の筋も時代劇の定型の変形だ。途中から主人公に協力して、恋人の逮捕に協力した女は、「改心した悪人の手先」にあたる。彼女も罪を償わぬままにはすまない。ふつうなら主人公をかばって殺されるところを、逆に恋人を殺すと変えたところに工夫があるというなら、あまりに発想が貧しい。

(9月29日記)

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国旗国歌法の行方と厳密なる論理

今半ば押し流されそうな気分で、ヘーゲル「法の哲学」をよんでいる最中だ。

俄学生のとりあえずの感想は、ヘーゲルはこの本で、何者にも左右されない自由な精神と論理で、市民社会と国家をうち立てようとしたのだということ。

もちろんその論理には、いくつものほころびがあったことは、若き法学生=マルクスによって批判されているところではある。

その目で例の国旗国歌法を眺めてみると、これは法というよりは、単なる作文である、あるいは法という名の国会決議である。

法で決められた国旗なり国歌なりを誰が守るのか、誰が尊重するのか、何も決めていない。ということは、この法が宣言したことは、国民と国家官僚の間のせめぎ合いが、今から始まるということである。

あの条文のどこを見ても、国民に国旗国歌を尊重することを強制は出来ない。要は例の運用と行政指導という名の拡大解釈で、言葉が言葉としての固有の威力を失うという、それこそ憲法第9条のたどった道をすすむのか、それとも厳密な解釈で、強制も押しつけもさせないのかということになる。

その上からすると、くだらない事件が多すぎる。まず今場所優勝した横綱武蔵丸にNHKのアナウンサーが「君が代」を歌うように強制したという話。こいつは馬鹿だ。馬鹿の大相撲があれば横綱をはれる。個人の精神生活に土足でずかずかと入って許されると思う阿呆を生み出した、NHKという組織の怖さを感じた。

それから天皇在位10年式典で、学校や企業にまで日の丸を飾るように官房長官がお願いをしたという。我が零細企業=西村くりにっくはきっぱりとお断りする。え!数のうちに入っていないって?

天皇制についてはもっと考えなければならないと思うが、少なくとも今の天皇が10年間勤め上げたことで、日の丸を屋根に上げなくてはならない理由はない。

訳の分からないことはお断りするしかない。

(9月28日記)

昨日は渡辺雄二を糾弾する文章の作成に追われた。これは前後編に分けて「草の根通信」に連載される。宣伝です。

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没メールのサンプル

先日中身のない批判メールのことを取り上げたが、今回又別のメールが届いた。しかし何ともはや。ため息のでるようなものだ。

なすびさんからのメールは以下のようなものだ。

週間(まま)金曜日は御用マスコミが多い中で貴重な存在です。

>ここに公表する文章の著作権は、西村有史に属します。
>無断転載、無断引用はお断りします。
>又何らかの形で批判をなされる場合も、
>西村有史宛てに、ご連絡をお願いします。

週間(まま)金曜日に連絡はしてあるのでしょうね?

おいおい、こんなことを言って私をぎゃふんといわせたつもりなら、とんだお門違いだ。

「週刊金曜日」が貴重であることは私も認めよう。しかしそれはだからといって、書かれていることに厳密な検討も加えずに、むやみにありがたがることとは別だ。

なすびさんに逆に質問する。あなたは名物コラムの「買ってはいけない」で書かれていることを、あたまから信用しますか。牛乳が発ガン物質で、コーラを飲むとカルシウムが体からなくなり、子供がキレルという類のおとぎ話を信じますか。もし信じるのなら、それはなぜですか。

もしその理由が「週刊金曜日」が反権力で正しいことを書いているからというなら、それは画にも描けない没論理、同義反復でしかない。

なすびさんには一度マルクスの「共産党宣言」を読むことをおすすめする。そうすれば、マルクスの社会主義理論が、様々な俗流的社会主義理論の厳しい批判のうえに成り立っていることがわかる。さらに彼マルクスが、一度足りといえども、自らの「階級的立場」(本多勝一氏の「殺される側の論理」とはこの借り物)をもって、自己の理論の正当性の証明に代えなかったことがわかる。

よろしいか。テレビで宣伝しているからいい商品だというのと、「週刊金曜日」が買うなというから悪い商品なんだというのは、自分の頭を使っていないという点では、全く同じレベルなのだ。なぜか。それはテレビコマーシャルも「週刊金曜日」も、同じように一方的な情報の垂れ流しであり、批判を黙殺するところに成立しているからだ。

渡辺雄二が性差別主義者であり、薬害つぶしの「エイズ予防法」のお先棒を担いだことは、動かしようのない事実だ。このことは「週刊金曜日」にきちんと伝えている。問題はこの批判を黙殺している彼ら「週刊金曜日」の体質にこそある。

又かつてエイズ医療の確立のために闘ってきた我々に敵対する内容の虚報を書いた丸児何とかについても、「週刊金曜日」には厳重な抗議を申し込んだが、いまだに沈黙したままである。

このことについては、以前広島大学読書会でも問題にし、そちらから「週刊金曜日」編集部に問い合わせが行ったが、これにもだんまりである。

第三者からの批判で検証されない「殺す側の論理」「殺される側の論理」などという都合のいい論理は存在しない。人は誰でも間違いを犯す。要はその間違いにどう向き合うかだ。

いいか、お若いの。あなたのいっていることは「自分にとって都合がいい雑誌だから、批判するやつは悪いやつに違いがない」ということではないのか。そんなあほくさい論理は

みんなは悪い人だというが、私にはいつもいい人だった(再会)

という歌のせりふとどう違うのか。よく考えてみる必要がありはしないか。

最後に「週刊金曜日」編集部が私の頁のことを知っているかどうかについては、すでに本多勝一氏との議論でもメールのアドレスもホームページの住所も伝えてある。その気になればいつでも読めるはずである。本多勝一氏には私が自分の本で批判していることまでも伝えてある。私は一度も「週刊金曜日」に対する自分の立場を隠したことはない。

ここであらためて呼びかける。本多教のみなさん。この頁はあなた達にも開放してあるので、もう少し骨のある批判をして欲しい。いくらでも時間の許す限りお相手申し上げる。ただし、このメール程度のものでは、今後はそのままゴミ箱にいくので、是非参考にしていただきたい。とまるで最後はNHKの「生活笑百科」の仁鶴みたいになったが、これまで。

(9月27日午後記)

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ビールかけについて考える

おととい、優勝を決めたホークスの選手たちは、恒例のビールかけをやった。冷静な第三者には、これだけくだらないものはない。

酒は飲むものであり、シャワー代わりに浴びるものではない。そんなばかばかしいことを、大の大人が嬉々として楽しんでいる図は、おかしくないはずはない。ところがこれをテレビで見ているファンの多くは、選手と一緒にこの愚行を楽しんでいる。正直に告白すると、私も大いに楽しんだ。

それはおそらく私たちファンが、優勝までの選手の苦労を知っているからであり、それを弱小球団を今まで応援してきた我が身のつらさ・切なさと重ね合わせているからに他ならない。

実際福岡のファンは、選手よりもっとばかばかしいことをやった。酔ったあげく繁華街の川に飛び込んだのがそれだ。私もテレビの前で大声を上げて叫び、娘から

お父さんが壊れた

といわれてしまった(^_^;)。

毎年資源の無駄遣い、食べ物を粗末にすると「ビールかけをやめるように」と投書が新聞に載るのに、いまだにこの奇妙な風習が続いているのは、それを許し、それに輪をかけた愚行をするファンの存在があるからだろう。ようやく私たちも、阪神ファンが騒いだ気持ちが理解できる幸運に恵まれたのだ。

実際私たちは、愚劣なことが嫌いではないし、ある時期それをすすんですることもある。世界中に奇祭と呼ばれる奇妙な風習の祭りがある。その中には、せっかく収穫したばかりのトマトをあたり構わず投げまわる祭りもある。私はこれが収穫祭であることに意味があるように思う。

一年間、苦労して働いて収穫を得て、その特殊な日に、思い切り愚かしいことをすることで、私たちは精神の平衡を保ってきたのではないか。

これは選手がよく働いたからこそ許される特権であって、野球選手がコメディアンになることとは違うと思う。

(9月27日記)

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優勝

ホークス優勝!!!!!!!!!!

ホークス優勝!!!!!!!!!!

ホークス優勝!!!!!!!!!!

ホークス優勝!!!!!!!!!!

ホークス優勝!!!!!!!!!!

今日はこれ以外になし。昨日の勝ち方は本当に尋常でなかった。文句なし。私も生まれてはじめて野球中継を録画した。

今までさんざっぱら文句も言ってきたが、結果がでたからよしとしよう。

久しぶりに夜中過ぎまでテレビの特番を見て眠い。今日はここまで。

(9月26日記)

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昨日の収穫

おとといから福岡に出かけた。18年前からの友人と飲むためだ。台風がくる前の南風で異様に蒸し暑く、夕方までは日が射していた。

相変わらずホークスは適時打がでず、苦しんだが、ようやく延長で松中の一発で辛勝。ライオンズも息切れしたのか負けて、マジックが2に減った。

夜遅くまで通院して、朝には暴風雨の中にいた。ホテルから川が見えたが、まともに流れていない。海側から山側に流れるように見えた。大潮に台風からの北風が加わって、水嵩が増してきていた。雨風ともに強く、昼までホテルに閉じこもりテレビの台風特番を見て過ごした。

昼からは時間つぶしで映画館へ。「エリザベス」を見た。大英帝国の基礎をつくったといわれるエリザベス女王の物語である。

当時のイングランドは、国際的にはフランス・スペインの覇権争いに巻き込まれ、国内的には旧教徒と新教徒の宗派争いで引き裂かれていた。

か弱い女王として登場した彼女は、陰謀と裏切りの渦巻く現実政治に巻き込まれ、ついには敵国の女王を暗殺し、クーデターを起こして政敵を一掃する、鉄のような絶対君主に変貌する。

正直言って、よくできた歴史劇という印象しかない。残念ながら、スピノザのいう絶対君主の恐怖と孤独が描けていないと言う点が、少々喰い足らなかった。

反論や意見もあるだろうが、映画では「イングランド」に「イギリス」という訳を当てていたが、私はこれはきわめて誤訳に近いと思う。

もともと「イギリス」という言葉は、「イングランド」のことであったが、慣習的に「大英帝国」全体を指す言葉として受けとられている。しかし映画の中でもスコットランドとの紛争が描かれているように、イングランドはまだスコットランドも北アイルランドも占領していない。このような国に「イギリス」という訳を当てては、この映画そのものの背景を誤解される可能性もある。

そのあと博多駅でうろうろしているときに、本屋で渡辺雄二の「検証 エイズの常識」(時事通信社)を見つけた。本の奥付にはこの本を執筆した1993年当時彼はエイズ問題の専門家・評論家として活躍していたと書かれている。この前の年の「エイズは怖くない?」(時事通信社)を併せて見ると、一つだけはっきりしてくることがある。それは、彼の本には「薬害エイズ」という言葉が一度も登場してこないということである。

「エイズは怖くない?」には輸入血液製剤によるエイズという項目がある。ところがこの節全体が、厚生省と製薬会社の言い分を引き写した代物だ。冒頭次のようなうそを平気で渡辺は書いている。

当初、日本でホモセクシャルと並んでエイズ患者が多かったは、血友病患者である。

これがうそであることは今ではすべての日本人が知っているが、当時は厚生省の薬害隠しで、同性愛者のHIV感染が大きく取り上げられていた。この路線に当時の渡辺も乗っていた。さらに渡辺はこうもいう。

やがて、日本でも薬剤メーカーが血液製剤を製造するようになった。これらは、主に売血で得られた血液からつくられていた。

ところが、輸血による肝炎が流行し始めたことから、売血制度はとりやめられ、献血制度が採用されることになった。このとき、献血は日本赤十字社の血液センターが一括して行うことになったため、薬剤メーカーが手に人れられる血液は少なくなり、血液製剤をつくることが出来なくなってしまった。日赤は、献血で得られた血液のほとんどを、手術などの輸血用に回したからだ。

このため、血友病の治療には輸入血液製剤を使うしかなくなった。しかし、輸入血液製剤はアメリカから十分な量が供給され、また効果も非常に優れていたので、医師たちはこれを積極的に使った。

これで終わりだ。ここには、厚生省の情報操作(日本でホモセクシャルと並んでエイズ患者が多かったは、血友病患者であると言うのが、その典型である)も、製薬会社による非加熱製剤の売り逃げも、血友病専門医の犯罪も、血友病患者の苦悩も、何も書かれていない。確かにこの節の最後に「差別される血友病患者」という文章があり、差別はいけないとは書いてあるが、その程度のことは当時の厚生省もいってはいた。

では1992年当時、血友病患者は何をしていたのか。被害者が沈黙していたから、ジャーナリスト・評論家は、彼らの主張を知る機会がなかったのか。そんなことはない。

東京・大阪で薬害エイズの裁判が提訴されたのが1989年。大阪訴訟では赤瀬さん、石田さんがカミングアウトし、東京訴訟でも大分でエイズと人権を考える会が発足し、草伏さんを中心に活動を開始していた。

かつて日垣氏に対する反論で

私たち著者四人の 「モノ書き」としての姿勢と、日垣氏のそれとが根本的に違うということだ。私たちは一消費者として、「疑わしきものは使わない」との立場から、消費者の利益につながるような記事を書くことに努めている

と、さかんに立場、姿勢を強調した渡辺氏は、ではこの当時どのような立場・姿勢だったのか。本多勝一氏と渡辺雄二の好きな「殺す側の論理」「殺される側の論理」を援用すれば、ここで渡辺雄二のたっていた立場は、間違いなく薬害で被害者を殺す側の論理である。彼の本のどこにも、感染告知も受けずに放置された血友病患者の声も、薬害で子供を亡くした親の嘆きも、差別に負けずに立ち上がった被害者の姿も描かれていない。

こんな恥ずべき過去にほうかむりして、消費者運動の専門家であるようなフリをする、渡辺雄二を許していいのだろうか。

帰りのJRはダイヤが乱れて混乱していた。満員の車内には、他の乗客がたっているのに、荷物を座席において平気なあほの姿が見えた。自分さえよければいいという態度に、渡辺の過去に無関心を装う「週刊金曜日」とその読書会の姿がだぶって見えた。

(9月25日記)

マジック2で地元に帰ったホークス。来週までには、優勝が決まるだろう。

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これが茶番だ

ミドリ十字昨日、ミドリ十字改め吉富製薬がやってきた。何の話だかと思っていたら、なんとこの会社が出しているd4Tという抗HIV薬を売らなくなったという話である。

もともとこの薬には胡散臭い話が付き物だ。もともとアメリカに本社のあるブリストル・マイヤーズ・スクイブという会社が売り出す予定で、承認申請もそこがやったのだが、いざ販売という段階になって、「ミドリ十字が売るんだそうな」という話が飛び込んできた。

私もたいがいの話には驚かなくなっていたのだが、これにはびっくりした。ミドリ十字の営業はあるとき「厚生省の命令で売ることになった」といったが、公式には「薬害エイズの加害企業として、社会的責任を果たすためにやった」と大見得をきった。

川田龍平君のように「なぜ加害企業の薬を飲まなければいけないのか」という疑問も出された。また私のような立場では、ミドリ十字の不買運動にも参加できなくなった。他に代わりになる薬がない状態で、まさか「患者が悪くなってもミドリ十字の薬は使わない」とはいえないからだ。

そのあげく、薬害エイズのほとぼりも冷めた、社名も吉富製薬にかわり、来年からさらに新社名になる。

もういいだろうというのが、彼ら(旧ミドリ十字と厚生省)の判断だろう。これこそ画に描いたような茶番だ。

忘れてはならない。あのミドリ十字が、原告とテレビカメラの前で土下座した日を。すでにあのときから今日に至る茶番を企んでいた気配が濃厚だ。

こんな茶番劇で、加害企業の社会的責任問題を終わらせてはならない。


昨日の批判メールのことで、言い忘れたことが一つだけある。YAMAKAWA Kazukiさんについては厳しい注文を出したが、私が基本的に大歓迎していることはわかって欲しい。以前広島大学読書会の掲示板上で意見を述べたとき、私への反論はことごとく匿名で、メールのアドレスも書いていない、何とも情けないものだった。これらの品性下劣な誹謗に比べれば、YAMAKAWA Kazukiさんの批判は立派なものだ。これだけは理解して欲しい。

(9月23日記)

ホークスのマジックはいよいよ4。福岡ドームで胴上げだ。明日は私が嵐の福岡に飲み会で出かける関係で、更新は100%ない。

あさっては渡辺雄二のエイズ本の批判を書きまくる予定である。

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はじめての批判メール

このペ―ジを開設して1年以上になるが、私の間違いや論理の飛躍を指摘して下さったり、意見を書いて下さるメールは多くちょうだいしたが、正面から批判する内容のメールは、これは掛値なしに本当だが、今まで一通ももらわなかった。

もっとも別のサイトでは、いろいろ当てこすりはやられているようだが、これは無視することにしている。宗教団体はその教義や教祖を問題にすべきで、信者のいちいちの妄動にまでは立ち入らなくてもいいものだと思うからだ。

もちろん改めて書くほどのことでもないが、私がここで発表したものについての反論・批判は大歓迎で、出来るだけこの頁上で論争が出来ればいいと思う。

さて今日「何が目的なんでしょう」というメールが届いた。送り主のYAMAKAWA Kazukiさんというかたは、全く存じ上げない。これが私がもらったはじめての批判メールなのだが、正直困っている。とりあえず内容を改竄、加筆、削除なし(笑)に掲げる。

週間(まま)金曜日に対する「愚痴」を書いておられますけど「有益」な論はほとんどないと思いました。

ボツにしない編集者がいたら、クビにすべきとさえ思いますよ。

 あなたのような虚栄心と自己顕示欲の権化のような人間ってたまにいますね。死んだけど、私の父もそうでした。

恥ずかしかった。

これだけ? そう、これだけ。

YAMAKAWA さんとやら。これは反則だよ〜〜。私は本多勝一氏が書いてきたこと、いってきたことを具体的に指摘して、それに私の意見を加えてきた。

ところがあなたの感想には、具体的な中身が何もない。もっと具体的に、私が書いてきたことが、「愚痴」であり、私の原稿を「ボツにしない編集者がいたら、クビにすべき」ものであるかを指摘して欲しい。

確かにYAMAKAWA さんがいわれるように、私も「虚栄心と自己顕示欲の権化」かもしれない(その程度の煩悩は正直ある)が、もしそれが、こうして自分の頁を運営し、人のではない自分の意見を公表することを意味しているなら、それは大変な勘違いだ。自由な言論こそが私たちが守るべきものであって、偉い人、有名な人の意見をありがたがってはいけないと、私は思う。

一部には、私が保守反動であり、本多勝一氏を攻撃することのみを目的とする右翼思想の持ち主であるかのような議論も見受けられるが、私の日々の活動のどこが保守反動であり、右翼なのかも、これはYAMAKAWA さんではなく、陰口をたたくしか能のない人たちに答えて欲しいところだ。

最後にメールの表題にお答えしておく。「何が目的なんでしょう」と言われれば、「週刊金曜日」の創刊趣旨であるとお答えする。すなわち「タブーを設けない」「真のジャーナリズムを目指す」と言うことである。もちろんこの排除されるべきタブーには「週刊金曜日」の内容も含まれるし、渡辺雄二の差別主義者としての忌まわしい過去も含まれると考えるが、いかがでしょうか。

(9月22日記)

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原点に立ち戻って

ここのところずっと、「週刊金曜日」と「買ってはいけない」で振り回されてしまった。「くだらない」と思えばほうっとけばいいではないか、何も関わることはないじゃないかといわれるかもしれないが、性格上それが出来ない。特に「買ってはいけない」のほうは、私の専門領域である健康問題につながっているし、途中から執筆者のひとり=渡辺雄二=がエイズ患者を差別排除する下劣漢であることまでわかった。これを放置は出来ない。

ただあまりに愚劣なことばかりに神経を使っていると、いささか空しくもなる。確かに食品化学や薬理学の勉強にはなったが、もう少し本質的な問題、たとえばなぜ社会主義というものが自壊したのかとか、なぜこの世紀末に宗教とは名ばかりの迷信がはびこるのかとか、私たちが主権者であるということは、突き詰めていえばそもそも何なのかとか、私の頭の中にわき起こる一つ一つの疑問を見つめる時間を作りたいと切望するようになった。

天候が不順なせいか、稲狩りの季節なのか、ちょうど患者数が激減し、とてつもなく暇になったので、経営者としてはとてもつらいのだが、いささかまとまった読書の時間がもてるようになった。

古典を読もうという気持ちで、最初はスピノザの「国家論」に手を着けた。どうも私は古典というやつが苦手で、こういう本は途中で投げ出すのだが、何とかつまずかないで読み終えて自分でもびっくりしている。つぎに、これも数年にわたって本棚の肥やしになっていたヘーゲルの「法の哲学」を読み始めた。

まず私たちが常識だと思っている基本的人権だとか、法の下での平等というものが、そもそも何なのかということから、考えてみたいと思う。

コソボや東チモールで起きている事態を原点から考え直してみたいと思うのだ。

最新号の「週刊金曜日」で、佐高信氏が、私が大好きな五味川純平の小説の一節を引用している。

「信じるなよ、男でも、女でも、思想でも。ほんとうによくわかるまで。わかりがおそいってことは恥じゃない。後悔しないためのたった一つの方法だ。威勢のいいことを云うやつがいたら、そいつが何をするか、よく見るんだ。お前の上に立つやつがいたら、そいつがどんな飯の食い方をするか、他の人にはどんなものの言い方をするか、ことばやすることに、裏表がありやしないかよく見分けるんだ」

これは特定の何か、誰かへの妄信を諫めているし、さらにこう忠告する人間への妄信もとがめている。根本は自分自身を対象的存在として認識する理性ということになるのだろう。何とかやり遂げたいと思う。

(9月22日記)

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12,500は一万二千五百の代わりになるか

私がよく分からないのが本多勝一氏や「週刊金曜日」を「応援」すると称する人たちである。そもそも本多勝一氏とは何者か。彼を一言で言えば朝日新聞社に長く籍を置いた新聞記者である。もっとかっこよくいえば「ジャーナリスト」ということになるが、私の考えるジャーナリストの資格を満たしていないので、この「尊称」は当てはまらないと思う。これはあくまで私の判断。

この定義からすれば、彼は社会の動きを記録・解釈する人間ではあっても、社会の動きをつくる人間ではない。

また同じことは「週刊金曜日」にもいえる。社会の動きで飯を食っている商業雑誌であって、社会運動の機関誌ではない。言い換えれば、本多勝一氏なり「週刊金曜日」が、何かの運動に肩入れをする、応援をすると言うことはあっても、逆は成り立たないと思う。ところがこの逆立ち現象を少しもおかしくないと思うのが、各地の「週刊金曜日」読書会と言われているもの。

古くさい話で恐縮だが、30年前私たち市民運動家、学生運動家は、ほとんどみな「朝日ジャーナル」をよんでいたし、「都市の論理」の羽仁五郎やベ平連の小田誠の名前はよく知っていた。しかしどこのどんな素っ頓狂な暇人も、「朝日ジャーナル」読書会や羽仁五郎を応援する会をやろうなどと思いつきもしなかった。

それはだいいちに私たちは、いささか若気の至りという側面はあるにしても、自分たちこそが実践家であり、運動をつくる側であると言う矜持をもっていたし、雑誌や評論家は、どんなに良心的であっても、自分たちの実践の参考にすぎないと考えていたからであった。

私たちは、朝から晩まで議論をやっていたし、その中の一部は、マルクス、エンゲルス、レーニン、毛沢東、宇野弘蔵、梅本克己、滝沢克己、梯明秀などの硬派の社会科学、経済学、哲学に取り組んでいた。とてもではないが、進歩的小説家や新聞記者の書いたものをバイブル視する間抜けはなかった。

ところが、30年の月日はすべてのものを変えてしまった。まず急進的左翼運動は、分裂と内ゲバにより、政府から圧迫を加えられるまでもなく、影も形もなくなった。ほとんど自滅というていたらくであった。

また戦後左翼陣営の論客の多くは死んでしまったし、彼らの跡を継ぐべきものは、社会主義圏の総崩壊という事態の前に沈黙してしまった。いまだに元気のいいのは、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のスポークスマンに転落した鎌倉孝夫という名の自称経済学者ぐらいだ(何せ彼は、北が対外債務不履行になったとき「ちょっとした政策の間違い」であるなどという、マルクス経済学者にあるまじき驚天動地の発言をした勇気の持ち主である)。

斯くして、一昔前は、社会主義運動の同伴者=シンパサイザーにすぎなかった作家、評論家、新聞記者、文筆業者が、時代の前衛、前景に登場した。彼らは社会主義運動家ほどには、社会主義にもマルクス主義にも依存していなかったため、ベルリンの壁にも天安門広場の虐殺にも衝撃を受けなかった。

では一躍時代の全面に登場した彼らに、弱みはないのだろうか。残念ながらある。少なくとも彼らの多くがマルクス主義を受け入れなかったのは、彼ら自らがマルクス主義の内在的批判をしたからではなかった。

たとえば本多勝一氏は、1960年代には文化大革命を賞賛したし、社会主義の未来を信奉したが、あくまでそれは、彼が急進的民族主義者であったから、毛沢東流の民族主義に共鳴しただけであり、その立場を超えようとしたことはなかった。だから彼は社会主義が崩壊した理由を、「偽物の社会主義」であったからと述べているが、何をもって偽物というのかについて説明することが出来ない。

又彼はマルカム・Xの思想にも共鳴したことを隠さないが、本多氏には、マルカム・Xが急進的民族主義を超えた以降の思想をくみ取ることが出来ていない。

かくして本多氏などのインスタントリーダーには、農本主義、民族排外主義、裏返しの人種差別思想、昔はよかった式の反動的社会主義、反共主義、迷信、反科学思想など、あらゆる非主流派の思想、感情、怨念が渾然一体になっている。さらに彼らの多くは、実地の運動をくぐっていないがために、自らの思想を実践と社会のせめいぎあいの中で検証することがない。

なぜこんなものがもてはやされるのかと思うが、先頭集団がみんなこけて、突然トップにたたされた周回遅れの走者だと思えばいい。

ところで今週号の「週刊金曜日」の巻末におもしろい記事が載っていた。金曜日へと言う読者からの質問クレームに答えるコーナーであるが、

数字の表記のことで質問します。本多勝一さんは三ケタごとに点(コンマ)を打つのは良くない。四ケタごとに点を打つべきだと言っています。ところが週刊金曜日から送られてくる振込用紙や、毎週次ページに載る定期購読料金表は三ケタごとに点が入っています。なぜ?

この尤もな質問に対する答えがふるっている。

今でも「三ケタ区切りは反対」ですが、『週刊金曜日』は本多編集委員の考え方をすべてその通り実行するわけではありません。慣習化していない四ケタ区切りをすることで、定期購読料の一ケタ間違いがあったら大変です。そこで、混乱を避けるため「慣習化した三ケタ区切り」を使っています。

これはおそらくはじめて公表された「週刊金曜日」の本多氏離れを象徴する記事として記憶されるべきである。どうよんでも本多勝一氏のいう四桁区切りが実践的でないという意味にしかとれないからだ。

ご存じない方のために本多氏のいう「四桁区切り」論を説明しよう。かれはアラビア数字で数を表記するとき、12,500と書くことに噛みつく。これは西洋の数が三ケタごとでまとまるから付けられた点(コンマ)であり、東洋は4桁毎でまとまるからあわないのだというのだ。つまりここは12,500ではなく1,2500でなければならないと言うのが本多氏の主張である。ところがこの本多氏の長年の主張が、こともあろうに「週刊金曜日」編集部から、まちがいを起こす危険性を指摘されてしまった。

私にはそもそもこの議論自体がじつにくだらないことだと思えるのだ。最初に数をアラビア数字で書くことを認めておきながら、ケタ区切りに異を唱えることそのものが不徹底ではないか。

12500は12,500でも1,2500でもなく一万二千五百でないのか。

漢数字で数を表示できるのに、わざわざアラビア数字を用いる。これは復古主義の立場からすれば、間違いなく西洋かぶれだ。ところがこの西洋かぶれは認めながら、コンマの付け方という枝葉末節に噛みつくのは、おかしくはないか。

尤も漢数字をもっぱら使うとしても、それでも中国からの借り物の数・文字を、まるで自分たちがつくったもののように主張し、誇る、植民地根性は抜けてないが。

この程度の文明批評が鋭いと思えるのなら、私たちはもう少し自分たちの批評精神を鍛え上げなければならないのではないだろうか。

今日は本多勝一論の作者=佐佐木氏から、本多勝一氏とマルクス主義の関係について疑問が出されていたので、それに個人的にお答えした。

本来はスピノザの「国家論」の読書感想文を載せたかったのだが、後日。

(9月21日記、加筆22日)

今日からホークスは神戸でオリックスと試合があるが、天気が心配だ。

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エセ科学と社会防衛論の距離

昨日の朝、仕事中に激しい腹痛におそわれた。いえ、いえ、胆石の再発ではない。知人からのメールで、あの、「週刊金曜日」や文芸春秋でおなじみの、「買ってはいけない」の著者のひとりである渡辺雄二が、1992年に途方もない差別本を書いているという情報が届いた。渡辺雄二を呼び捨てにすることについてはすでに書いた。とにかく内容を読みすすむうちに、怒りのあまり腹が痛くなってきた。

16/媒介役となったハイチ人20/ホモの女役に多い患者22/薬物乱用者にエイズが広まった
エイズを広めた「性革命」と「ゲイ解放運動」 31アメリカは性的抑圧の強い国であった31/迫害され続けてきたホモセクシャル35/同性愛は人間特有の行為37/十人に一人はホモセクシャル41/「ゲイ解放運動」が乱交をもたらす44/乱交を許したアメリカ社会55
/身体中をカビに侵され死亡した男性64/ホモの五%がエイズに感染!66/ホモは自粛すべし70
『エイズは人類を滅ぼすか』時事通信社

目次だけを書き抜いたが、性的少数派に対する性差別と人種差別にあふれる内容であることは明白である。SPA!がすっぱ抜いた本は1986年であるが、今度の本は1992年である。意味が違う。

もともと私と「週刊金曜日」あるいは本多勝一氏との因縁は、「週刊金曜日」による差別記事が発端である。この発端を忘れたことはないが、最近はあまりに問題が多すぎて、「週刊金曜日」と差別のことが、いくらか後景に下がる格好だった。

しかしこれはひどい。こんなやつが、薬害エイズがどうしたこうしたなどと、話すだけで許しがたい。

ここに宣言する。渡辺に対して断固とした行動にでる。

もともと、渡辺が依拠しているエセ科学と、社会防衛論はきわめて近い関係にある。彼が繰り返しあおっている遺伝子障害の危機論は、ナチの民族衛生論の焼き直しである。だからこそ彼は、「ホモ」「ハイチ人」が平和な一般家庭にエイズを「媒介」する恐怖をあおったのである。

しかも彼がこの汚らしい本を書いたのは1992年、つまり私が「新潮45」に載った差別記事に怒った年である。当時私が闘ったのは、屁理屈の天才=職業的ほら吹き=柴田二郎だった。

いま柴田二郎とは別の顔をした別の扇動屋が、あたかも進歩派でもあるかのような顔をして、全国を演説してまわっている。考えてみれば、柴田もホモフォビアであり、社会防衛論でもあった。これは単なる偶然の一致ではない。

(9月20日記)

ホークスはバットがしめったままで、ふらふらになりながら、何とか3連勝。マジックが5。5は変換しだいでXになる。

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勝った!勝った!勝った!

「かった」と入力すると「借った」と変換された。縁起でもない。今使っている辞書は、もう15年ぐらい使い込んでいるATOKで、たいがいは間違いはないのだが、ときどき妙な間違いをして苦笑する。今売り出し中の辞書はずいぶん頭が良くなったそうだが、こんな間違いはしないのだろうか。

とりあえず、昨日はホークスの快勝で、とても気分がいい。なにせホークスが福岡に来て以来のファンで、それこそ、負けても、負けても、負けても、負けても応援しつづけた。最初のうちは、西武戦などは、3塁側から客席が埋まる始末で、ずいぶん悔しい思いをしたが、それでも地元球団がなくなったときのことを思いだして応援をつづけてよかった。いよいよ優勝の日が近づいた。

今日はこれ以外の話題が浮かばない。ただ日程の関係で福岡ドームでの胴上げはなさそうだ。それだけが残念だが、仕方ない。

今日はこれまで。

(9月19日記)

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ぽっくりと死ぬための技術

ここ2〜3年、市内のいくつかの公民館で開かれる「ふれあい学級」で話をする機会がある。これは、町内の婦人会や老人会に呼びかけた成人学級のようなもので、いろいろなテーマで講師が話をする。昨日もわが西村くりにっくは休診で、午後からこの「ふれあい学級」に出かけた。

私に与えられるテーマは、いつも「元気で長生き」というものなのだが、私はこれを勝手にぽっくりと死ぬための方法

と改変してしまう。これは世間に流布する「健康観」に疑問を呈したいというつもりもある。

私たちが健康を一つの価値であると考えるとしても、それは一人一人の社会的な意味、あるいは社会的な責任と切り離しては考えられないはずだ。30〜40台で、養うべき家族がいて、社会的にも責任のある仕事をしている人間と、60台、70台で、現役を引退し老後の生活をしている人間とでは、健康観に違いがあるのが自然ではないか。

極端な話をすれば、天涯孤独で、社会的な責任もない。死んでも悲しむ人間もない人は、自分の命を自分でどのように処理しようと、それはその人の自由だ。

では高齢者にとって健康であることの積極的意義はどこにあるのか。その答えはおそらく一人一人別々だろうと思う。私は、問題点を整理する意味で、ぽっくりと死ぬということを一つの目標にしてみた。

どうせ死は免れないのだから、出来ることならぽっくり死にたい。長患いをせず、苦しまず、家族にも迷惑をかけずに死にたいという願望は強い。

しかしお寺参りをする、お札を買うという単なる願望から、具体的な科学的な方策という話になれば、ものはそう簡単でなくなる。

とりあえず、癌にならない、脳卒中にならない、ぼけないというのが、三つの必要条件であり、しかもその上に長生きであるという条件が加わると、ぽっくり死ねる確率が高くなる。

もう一つ私がこのような話をするのは、一人一人に避けられない死を出来るだけ明るく積極的にとらえることを呼びかけたいという思いがある。癌告知、終末医療もこの流れの中にあると思う。癌になったからといって、苦しい思いをしなくてもすむ。告知を受ければ、最後の最後に孤独になる必要はなくなる。こうした具体的な方策が、死の恐怖を克服する手段になる。これは多くのHIV感染者がくぐってきた道でもある。

(9月18日記)

ホークスは最終回に救援投手が乱調で追いつかれたが、最後は井口のヒットでさよなら。いよいよマジックが8になった。もう大丈夫だ。

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雑感

今朝の毎日新聞に統一協会関連企業と被害者の間で和解が成立したという記事が載っている。例の霊感商法を巡る民事訴訟だが、今回も統一協会の法的責任は問われないままである。

提訴から5年だというから、裁判のあまりの長さに心身共に疲れた原告側が、和解を飲まざるを得なくなった構造なのだろうと思う。

民事、刑事を問わず裁判に関係した人は、とにかく裁判官も弁護士も忙しすぎることに驚く。アメリカの映画の裁判ものは、せいぜい2〜3週間で判決がでるが、日本では若者が初老に達してようやく判決がでることも少なくない。とにかく人が少なすぎる。

今手元に「日独裁判官物語」という映画のチラシがある。それに載っている資料によれば日本の裁判官の総数が2850人、対してドイツでは22100人。さらにドイツでは裁判官にも社会的発言をする自由も、政党や組合に参加する自由もある。

この差は大きいと思う。ついでながらこの映画が19日日曜日に東京の大泉勤労福祉会館である。お近くのかたは、是非参加を。連絡先は03-3928-4094、久慈さんまで。

それにしてもオウムと統一協会の違いは何だろうか。結局それは権力との距離ということだろう。

統一協会は霊感商法でためた金の一部を自民党に献金し、選挙の時は末端の反共活動家をかってでて、自民党との間に深いパイプをつくった。

一方オウムはハルマゲドンにはまり、反社会的な姿勢を強めていった。統一協会はそのため権力の庇護の元にあったが、オウムはついに破滅への道を歩んだ。これをどう考えるのか、勿論だから権力の陰謀だという馬鹿話には乗れないが。

さて話は変わる。同じく毎日新聞の社会面に奇妙な記事が載っている。高松市の教育長が市議会で生徒や教師には君が代を歌わぬ自由はないと言うびっくりするような答弁をしている。これはとんでもない話だ。

国旗国歌法の審議の中で有馬文部大臣は

説得はしても、無理やり歌わせるようなことはしない。

と、答弁したはずだ。文部大臣の答弁を、国民から選挙で選ばれたわけでもない小役人の分際で、勝手にひっくり返せると思いこむ。この勘違い。この驚くべき夜郎自大。

国旗国歌法は双刃の刃だと、私は思う。確かにこの法律は君が代日の丸を国民に押しつけるものであるが、逆にこの法律を廃止しさえすれば、国旗も国歌も法的な根拠を失うことになる。何が国の旗であり、国の歌であるかを決めるのは国会であって、官僚ではないことが定まった意味で、私は一歩前進だと思ってきた。

この足元を掘り崩そうとしているのが、官僚の本能だということに、私たちはもっと神経を使いたい。

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「ミシシッピの幽霊」を見た

昨日は入院中の患者さんを見舞いに行くつもりだったが、台風の余波で海が大荒れで、中止した。かわりに福岡で開かれていた「ヒロ ヤマガタ展」に出かけた。来日記念と銘打って展示されている、20点ばかりの新旧の作品を見て、目の保養をさせてもらった。

最近はよくこうした展示会に行く。もちろん作品を売る展示会だけども、ギャンブルや車に金を使うよりは、こうしたことに時間を使うほうがすこしはましだと思っている。

会場になったところは、百道といって、一昔前は海だったところ。それが博覧会場用に埋め立てられて、今では各放送局のビルや、福岡ドーム、それに国立九州医療センターなどの施設の並ぶ大きな町になっている。ちょうど神戸のポートピアと同じ作り方である。

私には福博の町が近年ますます非人間的になっていく、その象徴のような町に見える。

隣が福岡タワーで、はじめて入ってみたが、ここは修学旅行など、観光客相手の建物という感じである。

いい加減ぶらぶらして帰り、夕方からは「ミシシッピの幽霊」という映画を見た。見るまでは特に何も考えなかったのだが、なかなかおもしろかった。

これは実話だと最初に断りがでる。30年前ミシシッピ州で、ある公民権運動家が射殺される。犯人は人種差別主義者で、KKKのメンバーでもある人物。裁判は、陪審員が評決で割れて、二度も中止になる。白人至上主義が力を持っていたため、被告がまるで英雄扱いをされたこと。それに複数の警察官がうその証言をしたことがその原因だった。

この裁判が25年ぶりに遺族からの申し出で再審になり、主人公である判事補が中心となって、証人の発掘から、証拠の掘り返しまでやり、様々な妨害や脅迫にもめげず、ついに有罪に持ち込むというストーリーである。

いつもは三枚目役のウーピー・ゴールドバ−グが、殺された活動家の妻の役をやり、主人公の判事補と絡む形で、いい味を出していた。

日本では決して大手の映画会社が取り組まない地味なテーマだが、山あり谷ありのサスペンス調にうまく仕上がっている。これは「評決の時」でも感じたことだが、ハリウッド映画の貪欲さなのか、それとも日本の映画人にそこまでの想像力がないと言うことなのか。

(9月16日記)

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機能性食品の胡散臭さ

私が契約しているプロバイダーが2000年対策とやらで、ホストコンピューターの改変をやっている。それは結構なのだが、困ったことにホームページの更新が出来ないでいる。

昨日読みに来た人はごめんなさい。これはただ私がさぼっているわけではなく、HTML文章は出来ているのだが、アップロードできないでいるだけ。だからこの文章もいつ公開できるやらと、いささか心許ない思いである。

さて昨日は(誰もよんでいないのだがとひとりでつっこみを入れる)薬害・医療被害について、長い文章を書いた。そんな私が一番嫌いな人間は、薬害・医療被害を告発するフリをして、ちゃっかり自分の宣伝をやるやつである。

「買ってはいけない」でおなじみの三好基晴医師もそんな類のようだが、先週の「週刊金曜日」は、、珍しくすこしまともなところがあった。今回やり玉に挙がっているのは、機能性食品の一つ「アミールS」(カルピス)である。会社が「血圧が高めの人に適した食品」と売っているあれである。

三好医師(臨床環境医っていったいなんだろう、いつも疑問だ)は、この飲み物を飲んでも血圧が下がるわけではないことをつく。もちろん降圧効果を唱っていいのは薬品だけだから、それは正しい。あたかも血圧が下がるような書き方をするのは詐欺だ。

とすると、これはそもそも機能性食品というものの胡散臭さであることがわかる。ちょうどそんなときに最新号の「ランセット」(9月4日号)が届いた。それに機能性食品についての総説(794頁)が掲載されていた。

それによるとそもそも機能性食品という概念は、アメリカでの規制緩和から始まっているらしい。1994年に規制が緩和され、食品会社は、食品医薬品局(FDA)の許可を得ないでも、ある食品や添加物に体の構造や機能、あるいは健康にいい影響があるという宣伝をしていいということになったという。

もちろんあの「おもっきりテレビ」よりはよほど科学的であるが、特定の食品に単なる栄養補給以上の効果が本当にあるかどうかについては、まだよく分からない。もちろん、ナトリウムの少ない食品は血圧を下げるのに効果がある。また魚の脂に心筋梗塞や脳梗塞を防ぐ効果があることは、すでに証明済みである。

しかしそれ以外に健康増進や病気の予防に、明らかにいい効果を示しているものはないのが現状である。

何より専門家である医師や栄養士に指導されない食事療法が、生兵法になり、逆効果を来す可能性もある。機能性食品には注意した方がいい。

しかしあの三好医師がそれだけですむはずはない。今回も我々の期待を裏切らない(笑)。

 高血圧といえばすぐに減塩と考えがちだが、そんな単純なものではない。塩分の過剰な摂取がよくないのは当然であるが、少なすぎても問題がある。塩の質も考えねばならない。

ここは三好医師に塩分が少なすぎて悪いという病気のことを教えてもらいたいところである。アマゾンには、塩分を全く取らない民族がいる。かといって彼らが病気をしているという話はない。

さらに塩の質とは何のことか。例の日本たばこがつくる食塩が悪くて、天然塩がいいというおとぎ話なら勘弁して欲しい。子供の健康を考える親ならば、決して口にしてはいけないのが、不純物だらけの「天然塩」だからである。

(9月14日記)

さてこれがいつ上梓できるか不安だらけで、稿を終える。

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薬害問題から何を学んで欲しいか(続き)

昨日の一言は、少し書き足らない部分があった。それは結論に関わる部分である。

誰もが期待する魔法の治療が存在しないのはなぜか?それは医療を巡る行為は、本質的に不確実なものだからだ、というのが私の結論である。

これこれの病気に何々という治療を施すと、次のような効果が得られるとは、まともな医療の教科書には書かれていない。

せいぜい「○○という効果が期待できる」としか書かれていないのである。

この、一言で言えば、不確実性が、医療行為の特徴の一つである。もう一つの特徴は独占ということになるのだが、これについてはいつか別の機会に述べよう。

不確実性が発生するのはなぜか。一つは診断の間違いがあるだろう。ただの風邪だと思ったものが、より重篤な病気、たとえばエイズや肺癌や、白血病であるという場合である。もちろん逆の場合はもっと重大な結果を招く。

つぎに治療方針の間違いということがある。虫垂炎(いわゆる盲腸であるが)は、抗生物質を使う内科療法と、外科的に患部を取る方法があるが、どちらかを選択しなければならない。治療方針の選択は、患者の状態を見ながらしなければならないが、ここで判断を間違えて、切らなくてもいい患者の虫垂を取ってしまうということも起きる。

しかし最も多いのは、うえに並べた判断がすべて正しくても、期待する結果(症状が消える、、病気が治る)が得られないことがあるということである。これを我々は患者の個体差と言って済ませてきた。今この領域に遺伝しレベルでの解析などが精力的に加えられてきているが、いまだにこの目に見えない不確実の領域が消えることはない。

これは皮肉なことを言えば、インチキ医療の生きる領域でもある。患者の個体差がある以上、どんなにめちゃくちゃな医療をやっても、たまたま患者が治ることがおこりうる。とてもはやる医者が、じつはニセ医者だったと言うことがあるのは、このせいである。

時にはいい医者にかかっているという期待感だけで病気が治ってしまうことまである。これを私たちは、偽薬=プラセボ効果という。

あらゆる病気をうそのように治す魔法の治療は、だから原理的に存在し得ない。常に100%正しい診断を下し、決して判断も間違えない、その上予想される副作用や、治療がうまくいかなくなる可能性を、あらかじめすべて考慮に入れるなどと言うことは、神ならぬ人間のできることではない。

ところが、現代医療批判をする人たちは、えてしてこの不確実性の領域を認めないで、現代医療で期待出来ない、また約束もできない100%の治癒を魔法の治療に求める。これは残念ながら薬害・医療被害を正しく学んだものとはいえない。

薬害・医療被害は、何も悪徳製薬会社、悪徳医師によって引き起こされる、社会的背景をもたない、真空で起きたことではない。不完全な人間が、不完全な診断技術を持って、確実な効果生むことの出来ない技術・薬を使用して、社会的にも制約のある中で人を治療する。ある確率で間違いは起こる。

言い訳をするつもりは更々ないが、そもそも一日30人以上の患者を見なければ経営が成り立たない日本と、一日5〜10人の予約患者を見れば十分な収入のあるアメリカで、開業医の質を比較することに意味があるように、私は思わない。

私は薬害・医療被害との闘いは、それを生み出すシステムの改革に結びついて、はじめて意味があると思っている。

またいわゆる代替医療による薬害・医療被害といえるものは、現在のところ目立たない。しかしそれはこの代替医療に間違いがないからではないはずだ。もしそのようなことを主張するものがいれば、それはほとんど詐欺師だ。

少なくとも今の日本では、代替医療は主流ではないから、被害が見えてこないからでしかないと、私などは思ってしまう。

げんにもっぱら漢方医しかいなかった江戸時代、その医師に対して「藪医者」「診たて違い」という非難があったことが、そこの事情を物語っていると思う。

現代医療は、科学として、自分の出来ることと、出来ないことの限界を知っている。私は、自己完結しない不完全性そのものが、現代医学の一番の強みだと思う。ただ個々の医師がそのことをどこまで認識しているかは、又別の問題であるが。

私が薬害・医療被害に関わるのは、医療者が過ちから学ばなければ、私たちが過ちを犯す存在であることを認めなければ、現代医療が生き残る道はないと思うからだ。

薬害・医療被害は本質的に社会問題だ。医療行為が、社会的な行為であり、社会からの制約の中で起きたことであるからこそ、医療の社会的責任という問題が生じる。

私は医療行為は三重の意味で開かれたものであると考えている。

一つは社会に対して開かれていると言うこと。ただし、だからといって規制緩和のかけ声にのせられて、営利企業が病院チェーンをつくるのを認めるという、安直な解決策は、営利主義と医療費の高騰を招くだけだと思うが。

二番目には、、患者に対して開かれていると言うこと。診療録の公開を渋るのは医療者の自殺行為であると思う。

最後には、過ちに対して開かれていると言うこと。これは、本質的に過ちを排除できないと言う限界を認識することを迫るし、それを克服することを通してさらに発展する可能性をもつと言うことでもある。

漢方薬に副作用があることを認めないで、中国3000年の知恵を信奉するだけの俗流漢方医は、それゆえ自己完結し、他からの検証を拒絶している点から、科学から最も遠い存在であるといえる。

さて、現代医学を対症療法であると揶揄し、返す刀で漢方薬にも副作用があるという、例の「買ってはいけない」の著者のひとり=三好医師は、ではどのような本質的治療を患者に約束しているのか、一度是非見てみたいと思うのだが。

(9月13日記)

ホークスは貧打に苦しみながら、大阪近鉄に連勝して、マジックを一つ減らした。

西武には14勝した松坂がいない。ここは我慢比べだ。

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薬害問題から何を学んで欲しいか

私のところには様々な団体から機関誌や資料が送られてくる。薬害、医療被害から健康食品まで様々だ。先日から立て続けに二件、困ったことを書き連ねている資料に出くわした。

一つ目はルーマニアでエイズにかかった子どもたちを支援している団体からのものだ。そこには自分たちが提唱する自然医学が、エイズを相手に赫赫たる戦果をあげていると書いてある。これは反則だ。

多くの人は孤立するエイズ患者を救済するために、この団体に寄付をしたはずである。ところが彼らは、善意で集めた金ではじめたプロジェクトを、自分たちの商売のショーケースにしようとしている。

似たようなことが、その翌日「患者の権利法をつくる会」から送られてきた会報にもあった。

そこには「医療と福祉を考える会」の副表世話人の鹿島昭太郎氏が書いた「この不思議な『神の水』」と題した文章が掲載されていた。これは早い話が、鹿島氏が販売する「アロマ水」なるものの宣伝である。肺癌が治った、多発性筋炎が治った、糖尿病、高血圧が治った。中身は新聞のチラシで入ってくる健康食品の宣伝と全く同じだ。

情けなさとともに、沸々と怒りがわいてきた。健康食品のまがい商法(薬ではないといいながら、薬効を主張する薬事法すれすれの商法)はいくらでも見てきたが、さすがに薬害、医療被害関連の団体にそのような宣伝が載ったのは見たことはない。

健康食品を売るのは自由だ。又その薬効を主張して、詐欺や薬事法違反で検挙されるリスクを負うのも個人の自由である。どこかの馬鹿が人には法を犯す権利があるなどと暴論を吐いたこともあったが、法を犯しそうな人間を予防拘束することは、原則的に出来ないという意味では正しい。

しかし、すでに医療問題で被害の経験を持つ人間の声を大事にしようという趣旨で始められた会の会報を、このような宣伝に使う人物の勘違い、又そのような原稿を載せてしまう会のガードの弱さ。

ここで考えるのは、現代医療をどう批判するかという立脚点の問題である。ややもすれば、現代医療の妄信への反動が、東洋医学の妄信、自然医学の宣伝に流されてしまう。現代医療で癒えない障害を受けた人が、こうした怪しげな医療に走る。

その大本には、どこかにあらゆる病気を治せる魔法の医療があるのではないかという誤った期待がある。

一方その期待に応えようとする商売人も多数存在する。彼らはあらゆるものの価値を否定しながら、かわりに「ホリスティック」とか「活性酸素説」とかの、怪しげな理論を持ち出して、そこにしか救いはないのだと脅かす。

現代医療の妄信を厳しく批判するフリをして、そのじつ別の偶像を拝むことを強要する。

「買ってはいけない」が消費者運動に注入しようとしていることも大本は同じだ。

オカルト医学を跳梁させた大きな責任は、確かに現代医学の弱さにある。しかしだからといって、オカルト医学に易々と負けていいということにはならない。

(9月12日記)

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雑誌SPAの漫画はフライングだ

昨日雑誌SPAに「買ってはいけない」のことを話題にした漫画が載っているというので、本屋に買いに行った。

雑誌SPA9月15日号、63頁に掲載された「リスペクター」という漫画がそれ。そこに「買ってはいけない」の筆者のひとり渡辺雄二が書いた「エイズは人類を滅ぼすか」(時事通信社)が引用されている。曰く。

ゲイ解放運動で不自然な性行為が世間で弾圧されなくなり乱交が始まった、それを戒めるようにエイズが登場した。

ついでに薬物中毒者、ハイチ出身者に対する差別表現を書き連ねているらしい。私は心に誓った。以後渡辺雄二は呼び捨てにする。「氏」という敬称はつけない。

自分がゲイが嫌いだというならばまだ許せる。だからといってそれをエイズ問題に結び付けて、自業自得論を展開するのは、差別のばらまきでしかない。

あわてて雑誌SPAの編集部に電話をかけて事実関係の確認をした。ところが編集部の担当が気合いが入らないことおびただしい。

聞いてみると漫画で引用された本は、なんと1986年発行だという。とたんに気力が萎えた。渡辺の書いた内容は13年前だとしても間違いだし、その当時としてもきわめて不適切だ。渡辺を呼び捨てにする十分な理由になると考える。しかし今まさにそんな本が流通しているというのと、すでに絶版になり図書館でしか読めない、いわば昔の過ちでは、意味が違うだろう。

もちろん出版元にいまでも在庫があるかどうかは確認する必要があるだろうが、まるで昨日今日書いた本でもあるかのような記述は世間の目を集めるためのフライングだろう。

念のため渡辺雄二に現在の心境を聞きただす必要はある。それでもし昔の「自業自得論」に固執するならば、小林ヨシリンと同じレベルということになるが。

(9月11日記)

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悪化する東チモール情勢と日本の政治

東チモールの情勢はいよいよ内戦の一歩手前に来たようだ。

インドネシア政府は和平維持軍の派遣を拒否したし、国連安全保障理事会もインドネシアを押し切って派兵を決めるほどのつもりはやはりない。

これ以上の犠牲を出さないためには、なんとしてでも国際的な圧力をかけなければならないのだが、日本政府や政治家は何をしているのか。

民主党も自民党も総裁選挙が忙しい。自由党と公明党は、どちらがより自民党の恩恵を受けるかの綱引きで夢中だ。

日本政府はアメリカの顔色をうかがいながら、「慎重に事態の推移を見守る」という例の不決断の態度であるのだろう。

なんとしてでも内戦の危機は避けなければならない。なぜなら今回の選挙には、民主的な住民投票によって軍事占領が解消されるという、前代未聞の実験がなるかならないかというきわめて重大な意味があるからだ。

もちろん、チベットや台湾の情勢にも影響がある。むしろだからこそ、周辺国も見て見ぬ振りをしているのだし、インドネシア政府はだからこそ無法を繰り返してもいるのだ。

何とかしないといけないと思うのだが、こんな無力な人間。どうしたものだろうか。

(9月10日記)

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勝ちました

今日も駅の売店でスポーツ紙を4紙買って帰ったところ。もちろんホークス(私はダイエーなんて縁起の悪い親会社の名前では呼ばないことにしている)の昨日のさよなら勝利のためである。

もう安全圏だと思っていたのだが、それでも途中までいらいらした。

たいがい私は夜も8時過ぎには寝てしまうし、月初めは保険請求の仕事があり、寝不足。結果は朝のニュースで確認したが、よく頑張ってくれたものだと感心する。

これでマジックが15。これは本気でこもだるの注文をしなくてはいけなくなったぞ。

もう一ついいニュース。昨日あの「買ってはいけない」で時流に再び乗った格好の本多勝一氏から、雑誌が送られてきた。最近書いていることが「自由」に似てきたという噂のある「潮」である。巻末に載っている「私のカンボジア報道について」という一文は、この頁に寄稿して下さった佐佐木さんが指摘した改竄問題に答える形で書かれているが、完全なすれ違いに終わっている。何よりあきれるのは、

このころは私に限らず、ベトナム戦争を現地取材してきた記者たちは、ほとんどカンボジアの解放勢力に「理解」を示していました。

と、目の前で何万もの難民が流出し、彼らが口々にポルポトによる虐殺を証言していたのを無視した責任にほうかむりしている厚顔無恥さである。

とりあえず逃げ切れなくなったことはけっこうなことだ。彼が口を開けばぼろが出てくる。魯迅の言葉にもおぼれる犬を打てという。

(9月9日記)今日は救急の日だそうな。駄洒落ですな。

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東チモール問題に見る日米の二重基準

東チモールの情況は先日私が描いた最悪のシナリオにますます近づいている。戒厳令下で民兵が虐殺を繰り返し、夜間外出禁止令も結局住民の抗議運動を抑圧することにしか働いていないようだ。

ここで注意を喚起したいのは、コソボ紛争との対比である。

コソボでは独立派の民兵が組織的な反政府活動をし、内戦状態になったところで、NATOが空爆をした。

ところが東チモールでは民主的に行われた住民投票の結果を反古にしたい民兵組織とインドネシア国軍が、意図的に騒擾状態を作りだしている。

しかし事態がこれだけ危険な段階に来ているというのに、日米の政府は、なんの公式の声明も外交的圧力をかけることもしていない。

コソボ紛争の時、ユーゴの大統領を「危険な独裁者」と口を極めて非難した国際政治学者たちも、沈黙を守ったままだ。

この違いは何か。何よりも日米の政府の利害にとって、インドネシアの現政権が都合がいいことがあげられる。

実際インドネシアによる東チモールの違法な占領を黙認してきたのは日米だ。今回の問題では、日米は国連の陰に隠れて、具体的な行動にはでていない。おそらく和平維持軍の派遣はアメリカが乗り気でない以上結局は行われないだろう。

報道で見るだけなのだが、民主党、社民党、共産党も何か声明を出したという話を聞かない。日本の政治家のこの危機感のなさは絶望的だ。

(9月8日記)

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こんな歌をご存じありませんか

私が小学校か中学の時、おそらく約30年前に聴いた歌がある。31回目の誕生日を迎えたと書いておきながら計算が合わないではないかというつっこみはしないように。

それはこんな歌詞だった。

友よ苦しいときあなたに会いたい。いつも心に夢と希望を抱きつづける私たち……

私の記憶では吉永小百合が歌っていたように思うのだが、彼女のCDにも収録されていない。このころは青春歌謡といって、こんな種類の、いわば勤労青年向けの歌謡曲がはやっていた。

もちろん背景には農村からの集団就職があったのだろう。何せ「新聞少年の歌」などという歌が、けっこう売れた時代だった。

今から思えば大した歌ではないが、くだらない歌詞に励まされることもある。開業当時によく思い浮かべた歌の一つは、この曲だし、もう一つは

空が泣いたら雨になる、山がなくときゃ水がでる。俺が泣いても何にもでない

という、渥美清の「泣いてたまるか」である。

ずっと、いわば心の奥に小骨が引っかかる形で、気になっている。どなたか、この曲の題名や歌手をご存じの方がいらっしゃれば、お教えいただきたい。

昨日の夜中、つまり6日の午前であるが、3時過ぎに目を覚まして、テレビをつけてみた。NHKの衛星放送で韓国のドラマをやっていた。あとで確かめると「太白山脈」という題だった。

ドラマの舞台は朝鮮戦争直前の韓国。南朝鮮労働党が、農民運動を基盤に山岳パルチザン闘争をやっている時代。不十分な農地改革や当局の弾圧で組織は壊滅状態になるが、そのとき北から軍隊がなだれ込んでくる。朝鮮戦争である。

しかし北からやってきた朝鮮労働党の官僚は、苦労して闘ってきた南の共産主義者を同志として扱うのではなく、日和見主義者、スパイ、インテリとして、査問にかける。

官僚主義的圧制と農作物の強制的徴発で、人心は離れ、そこにアメリカ軍が大反攻を起こし、南朝鮮労働党の残った党員は北に逃げる。おおよそこんな筋書きである。

私が驚いたのは、韓国でつくられたものでありながら、共産主義者、左翼の描き方が、決してステロタイプではないということだ。いやもちろんこんな感想を持つのは私の偏見だろうが、アメリカのハリウッドなどでは、いまだに共産主義者は機械のような冷酷無比な感情を持たない人間と描かれているのとは、対照的である。

悩み苦しむ人間として左翼が描かれているだけではない。ここには妊婦を拷問にかけ流産させる憲兵も登場する。農地改革をすり抜けようとずるく立ち回る地主もでてくる。命惜しさに仲間を売った転向組の惨めな姿もきちんと描かれている。

その上で南朝鮮労働党の闘いと敗北が、確かにやや左翼に酷には仕上がってはいるが、かなり客観的に描かれている。何よりも北からやってきた党官僚が、仲間をまず査問にかけたのは、何もここだけでのことではない。ソ連軍が東欧になだれ込んだときに、ソ連のスターリニスト官僚と、現地のパルチザンの間で、あちこちで実際にあったことだ。

そしてこのドラマのあとの時代北に逃げ込んだ南朝鮮労働党は金日成の党から徹底的な粛正にあう。

そのあげくが今の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のていたらくである。

人を人として遇することの出来ない国に、未来はない。東チモール、パレスチナ、コソボ、気が重くなるが、気を取り戻して、今日もがんばろう。

(9月7日記)

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東ティモールの情勢に注目!

昨日は半ドンで、午後にJRの特急で北九州市まで出かけた。「デートで」といえばいいたいのだが、実は色気のない話で、図書館に勉強にいった。

目当ての本は「第6版 食品添加物公定書解説書」。あの「買ってはいけない」でおなじみの渡辺雄二氏がバイブルのように扱う本である。

この頁の読者には少ないと思うが、もしまだ「買ってはいけない」の話を信じている人がいれば、是非この本を実際に手にとって欲しい。きちんと読めば「買ってはいけない」のいっている一見科学的な主張のほとんどが、ただの言いがかりにすぎないことがわかるからだ。

たとえば、「買ってはいけない」の中にこんな記述がある。

OPPを飼料に1.25%混ぜ、ネズミに食べさせた。その結果、83%に膀胱がんを発生し、腎臓障害も認められた。

ここでいうOPPは、アメリカから輸入されるオレンジにカビが発生するのを防ぐために添加されている添加物である。

では実際にオレンジにはどれくらいのOPPが含まれているのだろうか。柑橘類に残留するOPPはおおよそ10ppm以下である(「第6版 食品添加物公定書解説書」Dー207)。つまりオレンジにはOPPが10万分の1含まれるだけである。もしOPPを10ミリグラム食べるとすれば、オレンジを1キロ以上食べなければいけなくなる。これでも実験に使われたネズミが食べさせられたOPPより少ない量だろう。もし一日にオレンジを1キロ食べる人がいれば、そんな食生活のほうがOPPよりもずっと怖いと思う。

それでもどうしても危険だという人もいるだろう。この時代にも幽霊を信じる人もいることだし、理屈はともかく危険だといわれると怖いという人もいるかもしれない。それならばオレンジの皮をむけばいい。果肉にはOPPはほとんど含まれていないからである。

こんなあほな話はほらかホラーかどちらかである。なるほど「学校の怪談」という映画がシリーズ化されるはずだ。

むしろ気になるのは東ティモールの情勢である。住民投票が終わり、独立が決まりそうなときに、インドネシアの国軍と国軍から武器供給を受けた民兵が白色テロを繰り返している。

最悪のシナリオは、内戦状態→戒厳令の施行→独立派の集団検束→民族和解政府のでっち上げ→住民投票の結果が反古にされる、というものである。何しろインドネシアの選挙が終わったといっても、大統領の選出までは今の政府と国軍が実権を握っている。何がおこるかわからない。ミッチーなどにうつつを抜かさずに、この情勢に目を向けて欲しい。

もう一つ気になるのは、イスラエルで再びテロが頻発しているというニュースである。せっかくパレスチナとイスラエルの暫定合意が再び動き出したというのに、なぜ平和に反対するのだろうか。

テロが頻発すれば、イスラエルの右派が力を盛り返す。その結果和平が後退する。これはすでに一度ラビン首相(?)の暗殺以来の時代として経験したことだ。

和平がすすむと困る人間がいる。これは残念だが確かだと思う。

昨日夜中に見た韓国の映画の感想も書きたかったが、もう時間がない。

では又明日。

(9月6日記)

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リスクというものを考える

私が開業してほぼ6年になる。開業するときに一番に考えたことは、医療過誤にどう対処するかということだった。

インターネット上で医療過誤などを議論するサイトもいろいろあるが、たとえば直訴状などをのぞけば、悪徳医ばかりが医療過誤を起こすのではないことは容易に理解できる。交通事故を起こすのは、何も性格の悪いドライバーばかりではないのは常識である。そして交通事故以上に医療行為は危険と隣り合わせである。

当然、ひとりで自立して医療行為をしようというときに、保険なしで済ませるとは思わなかった。何しろ日本医師会が会員に提供する医療過誤事件対策がどれだけ不十分なものかは、ここで詳しくは述べないが、以前勤めた病院で起きた事件で身にしみてわかっていたからである。

ところがある裁判で、この医療過誤対策の立ち遅れに、非常な情熱を傾けて取り組んでいる人物を知った。

この人は医師免許証をもっていて、その限りでは私の同業者といってもいい人なのだが、実は現役の弁護士なのだ。

彼は医療過誤裁判の被告側、つまり患者から訴えられた医師の側の弁護士として、医者を勝たせることに命をかけているようだ。

彼の主張はこうだ。

医療過誤はある確率で起きる。これを防ぐのは訴訟ではない。過誤がおこらないシステム作りでしかない。一方医療過誤訴訟に備えるシステムは今の日本の医療機関には存在しない。過誤訴訟で被告が負けると、ついには日本の医療そのものが崩壊しかねない。

もちろん彼の主張に、自らの責任でもないのに被害を受けた患者の立場が少しも反映されていないことを指摘するのはきわめて簡単だ。ただそれだけではすまない。

日本の医療が、過誤のもみ消しや、患者側の泣き寝入りの上にあぐらをかいていたことは、この求道者のような弁護士の主張そのものが雄弁に物語ることでもある。このままでは医療という、患者と医師の信頼関係の上に成り立つべき行為そのものが崩壊しかねない。

何が「悪徳医」「算術医」の賤称・罵倒を生み出したか、まず医者が考えなければならないと思う。

大事なことはリスク管理という考えだと思う。もちろん医療過誤を起こさない努力も必要だが、万が一起きたときにそれをきちんと取り扱える体制づくりも欠かせないと思う。

「買ってはいけない」で因縁のような批判を浴びせられている企業は、なぜ損害賠償請求や発行の差し止め訴訟などの法的な措置をとろうとしないのだろうか。もしアメリカで同じような本が出版されれば、間違いなく訴訟が起きるだろうし、発行元=「週刊金曜日」は、天文学的な損害賠償を命じられて破産するだろうに。

抗議の出来ないのは、本当のことを書かれたからだと「週刊金曜日」側が喜んでいるというのに、なぜ沈黙を守るのだろうか。おそらく一つは「買ってはいけない」の社会的影響力を過小評価したことがあるだろう。そのうち流行も終わり、又商品も売れるようになるだろうという楽観的な観測があるのだろう。

もう一つは日本の企業に、社会に向かって自らの主張を公開する姿勢がないことがあげられる。株主総会も怖くない。PL法もざる法で消費者からのクレームも怖くなければ、企業は対外的にはただテレビコマーシャルを打っていればいいとしか思わないのだろう。

こうしてあの東芝事件ぐらいで大騒ぎするリスク管理の思想を置き忘れた体質が作られてきたのだ。なるほど、右翼や総会屋に簡単にしてやられるはずだ。

どこまで本当かは知らないが、「週刊金曜日」に広告を載せようとした会社まであったそうだ。

金でインチキメシアを黙らせることは出来ない。何せあの役どころもけっこうな金になっているからだ。ライオンや味の素にはモノ作りとしてのプロの誇りはないのか。

(9月5日記)

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消費者運動は迷信から決別せよ!

昨日の高橋晄正氏の「自然食は安全か」という本の話の続きである。この本を読めば、今まで日本の消費者運動がばらまき、半ば日本人の間に常識として流布してきた「常識」が嘘であることが明らかになる。

まず砂糖をとると骨がぼろぼろになるという説は、以前私が「ネズミいじめ」であり、動物実験としての価値のないものと批判した田村豊幸氏の著書が唯一の根拠であり、それ以外に国内外に砂糖とカルシウムを結び付けるような科学的根拠は存在しない。

また有機肥料が自然であり、化学肥料が危険であるというのも、全く根拠のない俗説にすぎない。

白米が体に悪く玄米が体にいいというのも間違いである。

あるいは「買ってはいけない」によく書かれている「食品添加物である亜硝酸ナトリウムは体内でニトロソアミンという発ガン物質を作る」という宣伝は、ゆがんでいる。実は有機、化学を問わず肥料には大量に亜硝酸塩が含まれているし、塩辛や明太子などの中のアミン類と結びつくことでニトロソアミンが作られるのだ。

だから無添加の明太子を推奨するのは大間違いなのだ。

また超高温殺菌牛乳が悪いというのは、意図的なデーター隠しをやって作りだした完全なほら話であり、消費者運動が騒動師に乗っ取られた恥ずべき歴史を意味するものなのだ。

だから「買ってはいけない」がついに一度も高橋晄正氏の名前を挙げないのも、少しも不思議ではないのだ。

このような戦後消費者運動が生んだあだ花、クズのよせあわせこそが、「買ってはいけない」だ。

「買ってはいけない」と対決するということは消費者運動の発展のために避けて通れないことだ。

(9月4日記)

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高橋晄正著「自然食は安全か」をおすすめする

ここ一月以上、後藤文彦氏、Uneyamaさん、I氏などと交流しながら「買ってはいけない」に関わってきたが、心の底に「これで本当に正しいのか、消費者運動のためには『買ってはいけない』を批判しない方がいいのではないか」という不安感がわだかまっていた。

この不安感は高橋晄正著「自然食は安全か」(農文協、1989)を読んで、ようやく私から抜けていった。

高橋晄正といってもぴんと来ない方もいらっしゃるだろうから、簡単に紹介する。彼は戦後すぐに東京大学医学部を卒業し、内科医として臨床に従事するとともに、日本ではじめて統計学的な考えを医学に導入する仕事を始めている。

薬の効果を科学的に確認するためには、偽薬を対象にした二重盲検法というものをしなければならないという、今ではどこの製薬会社も厚生省も否定できない(これを否定しているのは、一部の漢方妄信派や本多勝一氏ぐらい)常識を、日本ではじめて主張したのも高橋晄正氏だった。

その中で高橋氏は、日本が世界に先駆けて作りだした「アスパラギン酸」の薬効に科学的根拠がないことを厳しく批判した。この批判は当時の医学界の主流派の不評を買い、以来高橋氏は一貫して反薬害、消費者運動の旗手の道を歩んだ。もちろん私も彼から実に多くのことを学んだ。

ところがある時点から高橋氏の科学精神が、何が何でも自然食、化学物質はすべてダメ、反科学、反近代という消費者運動の中の素朴自然派と齟齬を生むようになった。

あたかも10年後にこうした偏向がグロテスクに肥大して「買ってはいけない」という愚劣な作品を生むことを予想でもしていたように、高橋氏は「自然食は安全か」の中で、次のように厳しく素朴自然派の「つまみ食い」ぶりを批判している。

わが国の自然回帰を志向する人びとは、ここに挙げたような実現可能な生活要素の″自然化”にはあまり目を向けようとせず、もっぱら食の中に″自然″を導入することを志向しているのはいささか恣意的に過ぎると思うのだが、なぜ彼らは縄文人のように山麓に広がる広葉林に分け入ってドングリの実を主食としようとしないのだろうか。

(中略)自然主義者たちの生活を見ていると、彼らは穴居生活をしているのでもなく、たて穴式住居に住んでいるのでもない。彼らの住んでいる瀟洒な近代住宅には行燈や囲炉裏や掘り抜き井戸は見られず、ガス、水道、電気のためのパイプやコードが張りめぐらされ、明るくそして温かい快適な雰囲気が醸し出されている。

もちろん、食べているのは無農薬有機農法の″自然食″であるが、電子レンジまではないにしても、食中毒の危険を避けるために、電気冷蔵庫を欠くことはないし、文化のシンボルとして電話とテレビも欠くことはなく、毎日新聞や郵便の配達は受けている。

前掲書37頁

いささか手前味噌になるが、同じことを私は以前「俗流老荘思想家」として批判したのでもある。

この本をすべての方に、特に「買ってはいけない」の信者に辟易している方すべてにおすすめする。私も怯懦を捨てる。今ルビコン川を渡る決意をしたところである。

(9月3日記)

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増長慢

昨日、夜7時過ぎにF銀行の営業がやってきた。先日この銀行から借りている借金の一部を返済する手続きをしたのだが、改めて判子が欲しいというのだ。

話を聞いたら、何のことはない。この営業が計算を間違えていたというのだ。だから返済期日も返済額も間違っていたから、訂正印がいるという。ここまではいいのだが、こいつが無茶苦茶礼儀知らずなのだ。

平気で上座に座る。こちらが座布団も敷かないのに、黙って座布団を敷いて、まるでお客のつもりだ。

口先だけは謝罪の言葉を言ったが、態度は金を貸してやっているといわんばかりだ。そもそもこちらが判をついた一部返済の書類の頭にはF銀行御中と印刷されていて、

貴行にはいっさいご迷惑はおかけしません

などという馬鹿なことまで平気で書いて、おかしくないと思っているらしい。

もともとこの銀行は福岡県や県内の自治体、それに大手の企業が主要な決済銀行にしているから(こう書けばもちろんなんていう銀行かはすぐわかるだろうが)、まるで虎の威を借る狐で、お上意識が隅々まで行き渡り、鼻持ちならない。

数年前私を「おとといおいで」と門前払いを食らわせ、貸ししぶりをしたのがこの銀行だ。私としては一刻も早くここと手を切りたくて仕方がない。

彼らの増長慢に対して心密かに爪を研いでいる状態だ。

(9月2日記)

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はーッはっは、
愉快、愉快!!!


今日は見出しを大きくした。理由は二つ。

理由1 ホークスにとうとうマジック20が
転倒、もとい点灯!!!!!

今朝私は、最寄りの駅に走った。もちろんスポーツ紙を全部買うためだ。思い起こせば30年前、あの黒い霧事件以来、福岡県民は地元球団が優勝争いをする図なんて、見たくてもできなかった。何しろ西武がライオンズを買い、所沢にもっていって以来、福岡には地元球団というものがなかったのだ。

ホークスがやってきても超弱小球団、それにもってきて指揮官に恵まれず、長らくパリーグのお荷物の地位に甘んじてきた。

こっちだって、優勝パレードを見たいぜ。馬鹿騒ぎやりたいぜ。30何年かの鬱憤晴らしだ。

昨日は11時に帰宅して、全部のテレビ局のスポーツ番組を、ビール片手に見た。あと少しだ、がんばれホークス。

理由2 脱ゴー宣言裁判完全勝利!!!

上杉聡氏が書いた「脱ゴーマニズム宣言」が、著作権法違反で小林ヨシリンから訴えられていた裁判の判決が昨日あり、上杉氏側の勝利判決になったようだ。

このことは以前待合室におく雑誌のことに触れて書いたこともある。

上杉聡氏は小林ヨシリンの「ゴーマニズム宣言」が、如何にくだらないかを立証するためにきゃつの書いた漫画を引用したのだが、これが著作権法違反になると馬鹿なことを言ったのがヨシリンなのだ。これは漫画に対する自由な評論を封殺するものであり、漫画という表現の自殺行為なのだが、思い上がったちんぴら=小林よしのりには、それがわからなかったのだ。

小林の代理人曰く。

小林さんの人気に便乗したのは明らかなのに裁判官に理解されず誠に遺憾だ

ぷ!ぷ!ぷ!ぷ!ぷ!ぷ!大笑いだ。

今月はいい月になる予感がするね。

(9月1日記)

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