【いかなる修行によって...】

この世には、人を安らぎに導く手続き的な修行法など何一つ存在していない。 しかしながら、もし

 『人は、いかなる修行によって覚りに至るのであるか?』

と敢えて問われたならば、その問いには次のように答えなければならない。

・ 人は、正しい修行によって覚りに至るが、間違った修行を行なっているゆえに覚りに至れないでいるのではない。

・ 人は、正しい修行によって覚りに至るが、正しい修行と言うべき(具体的な)何かを履修することによってその成果として覚りに至るのではない。

・ 人は、「我は知り得たのである」と言うような何かを知って、それによって覚りに至るのではない。 それは、迷妄の所産に過ぎないからである。

・ 人は、善なるものであろうと善ならざるものであろうとそれらいずれでもなかろうと、何かを行為してその行為の果報として覚りに至るのではない。 覚りは行為の帰趨ではないからである。

・ 人は、運命や宿命などと名づけられるような何かの必然によって覚りに至るのではない
。 覚りは、最初から最後まで因縁によるものであるからである。

・ 人は、偶然に覚りに至るのではない。 もちろん、必然でもない。

 人は、知らぬ間に覚りに至るのではない。 そして、覚りは覚ったという認知とともに至るのではない。 覚りの認知は、事後のことであるからである。

 人は、「これで覚りの境地に至る」と知って覚りに至るのではない。 まさしく覚った瞬間には、何の実感も伴わないからである。

 人は、知識によっても見識によってもその他いかなる伝承の学問によっても、それらによって直接に、あるいは間接に、また超越的にさえも覚りに至るのではない。 けだし、仏智は人智の範疇を超えているからである。

ところで、もしも人が修行と名づけ得る(手続き的な)何かによって覚りに至り得るのであるならば、その特定の何かを如実に知る人(=師などの)から仔細漏らさず聞き及び、理解して、その修行と言うべきそれを履修すれば良いであろう。 あるいはまた、師無くして自ら修行に勤しむ人が、そのようにして自ら学習するその修行の間違いを知るにつけ、それを適宜に正すことによって漸次に正しい修行を修めることを得て、そのようにしてついには覚りに至ると希望されるであろう。 しかしながら、それはかなわぬことである。 なぜならば、覚りに至る修行の真実は、人が正しい修行と称すべき手続きとして予め知られ得るところの何かを履修することによって達成されるのではなく、人が正しく覚りに至ったとき、その時に限り、それ以前のかれの修行と称すべきそれが結果論的に正しかったのであると(後づけで)認知される性質のものだからである。

人は、いかように思慮考研しても覚りに至る正しい修行と称すべき真実の「それ(=<修行>)」の正否を識ることはできない。 また、人は覚りの境地に至ることを目指すその途中において、自らの修行の真偽、正邪、多寡、優劣、深浅、段階、虚実などを識ることはできない。 それだけでなく、それらについて論議することさえ何ら意味を為さない。 それどころか、たとえ覚りに至ることの全貌とその真実を完全に理解し把握している如来によっても、覚りに向けて修行にいそしむ他の人の、敢えて<修行>と名づくべきそれぞれの行為そのものについて、その正否や真偽、正邪、多寡、優劣、深浅、段階、虚実などを断じる(=認定する)ことはできないのである。 つまり、<修行>の具体的なことは、道を歩むそれぞれの人の明知によってこころに見い出されるものである。

それゆえに、もろもろの如来は、もし修行法について問う者があっても修行と称すべきいかなる行為の方法をも敢えて語らないのである。 もろもろの如来は、相手に応じて対機の理法を説くだけである。 しかし勿論、もろもろの如来が説く理法は空疎な言葉なのではない。 なんとなれば、人が解脱して覚りの真実を知ったとき、かれはそれ以前に耳にした如来の言葉について次のように語ることになるからである。

 『見よ、 ── (如来の)教えが真理に見事に即応せることを。』

人は、

 『いかなる修行によって覚りに至るのであるか?』

というその問い自体を恥じる必要はない。 しかしながら、人はその自らの問いを他ならぬ自分自身の修行によって解決しなければならないのである。 そして、もしも問いの正しい答えを見い出し得たとしても、そのことだけで自分が浄らかになったと考えてはならない。 修行は、為し遂げられてこそ人を浄らかしめ、かれをして不滅のやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至らしめるものであるからである。 覚りに至るまでは決して油断してはならない。