【文字】

人は、経典の読誦や公案への取り組みなどによって直接に覚りの境地に至るということは無いが、それらの取り組みを機縁として覚りの境地に至り得るということは確かな事実である。

また人は、戒律を守るというそのことによって覚りの境地に至るということは無いが、戒律をこころに保ち護っている人こそが覚りの境地に至るのであると言ってよい。

すなわち、経典であろうと、戒律であろうと、論典であろうと、公案であろうと、他の何であろうと、人は文字で表される何かによって直接に、あるいは間接に、はたまた超越的にも覚りの境地に至ることは無いが、文字を機縁として覚りの境地に至るのは間違いないことである。 もし、文字が無ければ、誰ひとりとして覚りの境地に至ることは無いであろう。

それゆえに、覚りの境地に至ることを目指す人は、文字を正しく使うことを常に心がけ、少なくとも文字を使う行為によって後悔することが無いように自ら配慮を怠らず、しかし他の人が文字を正しく使えないことを非難することなく、ただ自らの行為の可否にこそ留意して、何を為そうとも事後には省察をつとめて為して、文字の形を伴って、あるいは文字の形を伴わずに予め想起されるところのあらゆる思惑を(こころに)排し、こころの動揺を制し、想いを落ちつけ、文字ということにまつわる拭い難きこだわりを捨て去って、こころを文字(=名称(nama))の束縛から解き放ち、よく気をつけて日々を過ごすべきである。

そのように(正しく)日々を過ごす人は、ときに明示的に、ときに暗示的に、文字という形式をとりつつも世間の文字を超えて発せられる出世間の文字、すなわち法の句を聞き及び、ついにその真実を理解して、まごうことなき覚りの境地に至るのは間違いない。

この虚妄ならざる安穏(=ニルヴァーナ)を自らの身に体現するために、また奇しくも他の人の身にこの安穏を顕現するためにも、もし何かを語るときには、自分を含めたあらゆる人々の耳に好ましい四種の<見事に説かれた言葉>をこそ語るべきなのである。

こころある人は、文字にまつわる一切の束縛を離れて、文字を超えて文字で表されるその言葉を、見事に発し、それにもまして見事に聞き分ける人であれかし。