【教判】

過去に生きたとある人々、あるいは現在に生きるある人々は、世に存する数多の経典の真偽・関連・優劣を判じて、よりすぐれた経典を見いだし、それによって周到に覚りの境地に至ることを願っている。

例えば、ある人々は法華経を最高であると見なし、別のある人々は般若経を最高であると見なし、さらにまた他の人々は原始仏典こそが真実を語り最高のものであるなどと見なし、それぞれがそれぞれにその優位を主張している。

法華経には確かに正法の記述があり、それによって覚りの境地に至る人がいることは間違いないことである。 法華経によって覚りの境地に至った人は過去に居たし、現在にもあり、未来にも現れるであろう。

しかしながら、ただそれだけであるならば、維摩経や勝鬘経、金剛般若経などに代表される他の多くの大乗経典にも正法の(あるいは正法に準じた)記述が確かにあり、それどころか、スッタニパータ、ダンマパダ、ウダーナヴァルガなどを初めとする数多の原始仏典にもその記述が明快に見られるのである。  そして、それぞれの経典に縁有った人々は、かれ自身縁有る経典によって覚りの境地に至ったのであり、現在にも至り、未来にも至るであろう。

実のところ、それぞれの経典には優劣は無い。 それぞれの経典は、等しくただ一つのことを言っているのであるからである。

したがって、聡明な人は、特定の経典へのこだわりを正しく捨て去るべきである。 そして、人が特定の経典へのこだわりを捨て去ったとき、その人は経を正しく判じたのである。

こころある人は、経典を転じ、決して経典に転じられてはならない。


[補足説明]
例えば、親達が子供に向けて発するさまざまな躾の言葉について、その真偽・優劣・関連を判じても何ら意味は無いことである。 なぜならば、躾の言葉は、子供がその真意を(自ら)理解して立派な大人になるために役立つ対機のことばであるからである。 数多の経典の言葉も、そのようなものであると理解しなければならない。