【方法論】

以下では、平等観について方法論を説明する。

 @ 先ずは、自分の実際の境涯に基づいて、より悲惨な境遇を想像し観じる(○○が××だったら)

 A そのような悲惨な境遇を現実の境涯とする人が、世の中には実在するであろうと観じる

 B そのような悲惨な境涯の人と、自分は立場が入れ替わっても構わないと思い切ることを観じる

 C さらに悲惨なる境遇を順次観じ、@〜Bを繰り返し観じる(充分な観を行ったらDへ)

 D 自分の現実の境涯を脇において、世の中に起きるであろう最も悲惨なる境涯を想像し観じる

 E そのような最も悲惨なる境涯の人と、自分は立場が入れ替わっても構わないと思い切ることを観じる

 F そのような最も悲惨なる境涯の人に、やさしく手を差しのべることについて観じる

 G しかし、実際にはそのような最も悲惨なる境涯の人と、自分は入れ替わることは出来ないのだという現実を観じる

 H Gであるならば、自分はそのような最も悲惨なる境涯の人に対して、どのように接するべきかについて観じる

このような観を順次行うことは、平等観を深めることに役立つ。

意識的にせよ無意識的にせよ、人々(衆生)は恐れている。 自分のことをわずかでも大事に思ってくれる人が、もしかしたらこの世には一人として居ないかもしれないということをである。 本当は、自分は完全なる孤独に生きているのかも知れないという恐怖に苛まれているのである。 しかも、この恐怖心は自分の手で積極的に取り除くことはできない性質のものである。 なぜなら、誰もがそうしているように、恐らく周りの人々もそのようなデリケートな問いに対しては無難な「社交辞令」で対応するに違いないという疑いが拭いきれないからである。 結局のところ、このことについては、誰からも本音は聞けないだろうと諦めざるを得ないであろう。 そして、ある意味では、そのようにきっぱりと諦めた方が、本当のことを知るよりもましだとさえ思えるに違いない。 つまり、このことについて本当のことを知ることは、実は何よりも怖いことである。 もし、それを本気で告げられたら...。 その瞬間に、自分の居場所が無くなってしまうかも知れないからである。 それは、あらゆる悪口や非難よりも怖いことなのだと、人々(衆生)は心の奥底で知っているのである。

したがって、覚りに向かう観を行う人は少なくとも自分は人々を心から思いやる人でありたいと考えるべきである。 なぜならば、人は誰しもそのように自分のことを思いやってくれる人を心の奥深くから求めているに違いないからである。 ただ、そのことを自覚している人(衆生)は誰もいないであろう。 なんとなれば、それこそが人々(衆生)がかかえる無明の本質であり、苦の根元(煩悩の根)であるからである。 それゆえ、覚りに向かって観を行う人はせめて自分だけでもそのような人々(衆生)のことを心から思いやる人でありたいと考えるべきである。 そのように、決心すべきである。 覚りに向かう観を行う人は、人々(衆生)が心の底から望んでいることに過不足無く応えてあげるということについて、とことん突き詰めるべきである。

そもそも、人々(衆生)が心から欲しがるものを正しく与えてあげるとはどのようなことなのか、自らの観を突き詰めなければならない。