将門の負因は低気圧?

過去1300年の気温変化 西暦700年前後から再び気候温暖になり始めます。特に800年〜1300年の期間
は,世界的に比較的温暖であったらしく,気候小最適期とよばれています。
図1に過去1300年間の,世界の平均気温がどのように変化していったかグラフに描か
れている。
小最適期の出現は世界同時に起きたのではなく,地域によっては時期的に100年程度
の位相のずれがあったようです。
また温暖の程度もおそらく地域によりまちまちであったことは想像にかたくありません。

日本では気候小最適期にあたるのは平安時代といえます。11世紀前後は藤原氏全
盛時代で,源氏物語に代表される宮廷文化が開花しました。
気候が温暖で,日本の歴史上,人の気持ちが最も和らいだ時期の一つであったと考え
てもよいのではないかと思う。
事実,将門の乱までの100年間は,国家による死刑が執行された記録がない。

桜といってもソメイヨシノではないのですけど,開花時期は今と比べてどうだったので しょうか。
ところで図1を見ると,百年から数百年の時間スケールで気温の変動があったとこが分かる。
気候小最適期や小氷期の出現を説明できる仮説はまだありません。
坂東八国 時期のずれはあるものの世界的に起こった現象ですから,大気大循環などの地球
規模の気象の変動だったと考えられる。時期のずれは,地理的な環境の相違による
ものと思われる。
ここでは小最適期の気候の考察はしないで,歴史の一こまを気象の観点から眺めて
みようと思う。

春の低気圧はどっちの味方?
平将門の乱が935年〜940年に起きました。清少納言や紫式部が活躍する60年も前
の事件です。桓武天皇の末裔は、東国(坂東)に下って平の姓を名のって勢力を
拡大し,一族の間で争いが絶えませんでした。

図2に坂東平氏の勢力範囲であった坂東八国の関係図が示されている。将門の
本拠地は下総国豊田郡の鎌輪宿にあったらしいが,のちに猿島郡の石井営所を
本拠地にしていたようだ。
一方,将門の敵手,平国香の本拠地は,常陸国真壁郡の石田にあった。図3には将門と
国香の本拠地の場所が載っている。

詳しい事件の経過はここでは述べないことにして,将門は戦が上手だったが,最後は
天慶3年(940)旧暦2月14日の戦いで貞盛・秀郷の連合軍に敗れてしまいます。
負けた原因はどうも春の低気圧のせいだったようです。
図3にこのときの合戦地のおおよその位置が書き込まれている。

以下「日本の歴史」(小学館D古代豪族 青木和夫著)を参考して話します。 将門軍は猿島郡の北山に陣を,貞盛(国香の嫡子)・秀郷(朝廷から下野押領使に 任ぜられていた)の連合軍はその北側に陣を張って機を待っていた。 2月14日の未申のとき(午後3時ごろ)に合戦がはじまった。将門は順風を得て風上に たち、貞盛・秀郷は風下にたった。
合戦の様子を次のように述べている。
この日はごうごうと大地をゆるがす烈風が,木の枝を鳴り響かせ,土くれを吹きとばした。
中略。将門の従兵は馬にのってむかえ撃ち,八十余人を打ちとってなおも逃げる敵を
追撃すると,貞盛・秀郷・為憲らの伴類2千9百余人はみな逃げ散ってしまった。

合戦地
この記述から合戦が始まった頃,おそらく日本海で発達した低気圧から延びる
寒冷前線が関東地方を通過するところであったと推定されます。しかし,南よりの
強風は吹いていたが,雨は降っていなかった。
このときの寒冷前線は,図2のAのように関東地方を北北東から南南西に延びて
いたと想像できます。
そして合戦地一帯は低気圧の暖気側であったと思われる。もしかしたら前線はもう
少しAより西側だったかもしれません。というのは雨が降りだす時刻は寒冷前線に
伴う雨雲の分布に左右されるからです。

ここで将門軍はいったん本陣にひきあげたが,そのあいだに風向きが逆転して将門方
は風下にたってしまったとその本に書かれています。
さらに著者は
春さきの関東地方は,日本海に発達した低気圧があると猛烈な南風が吹く。
中略。ところが低気圧が北海道のほうへ抜けて寒冷前線が通過すると,風向きが
一転して強い北風となる。中略。天は将門に味方しなかったのである。

と述べている。

ここで疑問がでてきます。戦いが優勢な風上のときに将門は何故いっきに攻めなか
ったのか。そこに将門の人間性たるものを感じます。
他の節を読むと将門には人をおもいやる一面があったことが記述されているからで
す。あるいは寒冷前線の接近であまりにも風雨が激しく,落雷や突風もあったかも
しれない。ともかく戦闘続行が不可能になったのかもしれません。

いずれにせよ本陣にひきあげている間に寒冷前線(図2のB)は通過してしまった
ようです。そうなると北よりの風が吹き付けるので,将門方が風下になってしまった
というわけです。
戦闘再開するまでの時間はどのぐらいだったのでしょうか。将門は優勢に戦ってい
たのだから,多少の雨でも戦闘可能であれば,打ってでたはずです。
ここらへんのところは「将門記」にどのように書かれているのか分かりませんし,
判断できません。
寒冷前線の後ろの雨雲の広がりにもよりますが,いっとき(今で言うと2時間程度)
であったとしましょうか。
仮に,低気圧が25ノット前後の速さで移動したとすると,寒冷前線はいっときの間に,
図2のAからBまで移動したことになります。これはあくまで想像です。
将門の首塚
上記の本にはさらに以下のような記述が続く。
貞盛・秀郷らはこの機をのがさず決戦にでた。将門もまた駿馬に鞭打ち,みずから
陣頭にたって戦った。ところがとつぜん天罰がくだり,風のごとく飛びまわっていた
駿馬が歩みをとめ,将門も武神の加護を失った。その直後「神鏑」(神のはなった矢
じり)が将門をつらぬいた。中略。

「将門記」は英雄の死をこのように記している。

「とつぜん・・・駿馬が歩みをとめ・・・」のくだりから突風にあったものと推定でき
ます。要するに,春の低気圧は将門に味方しなかったというこになります。
将門の乱を気象に左右された人間模様と捉えることができると同時に,気象が歴史を
変えてしまった一例といえるでしょう。

図4の平将門首塚(東京都千代田区)は気象庁のそばにあるそうです。戦死した将門
の首は京都四条河原にさらされたが,ある夜突然東国をめざして飛び帰ったという
伝説がある。それだけ都の人々は将門を恐れていた証といえよう。首塚は首が落ちた
とされる場所に建てられいる。
気象に振り回された将門の首塚が,気象庁のところにあるのは何かの縁かもしれない。

ここで用いた図は,次の書物から拝借しました。
   図1:「気候変動」日経サイエンス社
   図2,3:「日本の歴史」小学館
   図4:「地図で訪ねる歴史の舞台ー日本ー 帝国書院 

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