※ 市内にある飯塚市歴史資料館にも白蓮と伊藤伝右衛門のコーナーが併設されています。

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柳原白蓮と伊藤伝右衛門

旧伊藤伝右衛門邸

 市民の保存運動により、日鉄鉱業が所有していたものを2006年に飯塚市が買い取り、2007年4月より一般に公開されました。明治30年代に建てられたもので、広大な回遊式庭園とともに、大正ロマンを彷彿とさせる和洋折衷の粋を凝らした2300坪にもおよぶ豪邸です。
 邸内にある伊藤商店の事務所を改装した「白蓮館」では、白蓮に関する資料展示のほか、関連グッズの販売もしています。

所在地
  
 福岡県飯塚市幸袋300  TEL 0948-22-9700
 

長屋門

福岡の別邸「銅(あかがね)御殿」から移築したもの

 柳原白蓮ことY子(あきこ)は、明治18年(1885年)伯爵「柳原前光」の妾の子として生まれました。大正天皇の従妹にもあたり、明治31年(1898年)に「華族女学校(後の女子学習院)」に入学、14歳で子爵「北大路随光」と女中の間に生まれた資武と結婚し、一児をもうけますが、五年後に離婚、明治41年「東洋英和女学校」に入学して佐々木信綱に師事、『心の花』に短歌を発表しました。
 明治44年(1911年)27歳の時、九州の炭鉱王と称されていた伊藤伝右衛門と結婚しました。大正4年(1915年)処女歌集『踏絵』を発表し、号を、信仰していた「日蓮」にちなんで「白蓮」としました。歌人として活躍する中で社会運動家で弁護士でもあった宮崎龍介と出会い、12年間に及ぶ伝右衛門との結婚生活に終止符をうちます。その後「龍介」との間に一男一女をもうけます。晩年は歌を詠みながら平和活動家としても活躍し、昭和42年(1967年)に81歳の生涯を閉じました。

 

旧伊藤伝右衛門邸(飯塚市内マップ)

白蓮と伝右衛門と龍介

 明治43年(1910年)、正妻であった「ハル」を亡くした伝右衛門は、翌年の明治44年(1911年)に大正天皇の従兄弟(いとこ)にあたるY子(あきこ)後に白蓮と再婚した。時に伝右衛門52歳、Y子27歳でした。Y子は伯爵家「柳原前光」の妾で柳橋の芸妓「おりょう)の子として生まれ、14歳で結婚し、既に離婚暦のあるY子とは共に再婚同士でした。当時は、Y子の兄「柳原義光」が貴族院に出馬するための資金調達と伝右衛門が名門の家柄を必要とした両家の思惑が一致した策略結婚ともいわれていました。
 現在の「飯塚市幸袋」にある伝右衛門邸では、その当時、妾の子、父の妾の子、妹の子、母方の従兄妹などのほか、数十人の使用人がいたとされ、その上、もともと何人もの妾がいた好色な伝右衛門でしたが、幸袋の屋敷に女中見習いとして住まわせていた京都妻の妹(ユウ)にまで手をつけたため、白蓮は伝右衛門に「ユウ」をあてがう形となったようです。
 華族育ちのY子にとっては、そのような生活とともに、幸袋の屋敷に飛びかう粗野とも感じる筑豊弁にも馴染めず、それらの懊悩を歌に託すようになっていきました。大正3年(1915年)処女歌集『踏絵』を自費出版します。この時に号を白蓮としました。その後も浪漫的な作風は多くの読者を引きつけ、当時の白蓮は、九条武子(くじょうたけこ)江木欣々(えぎきんきん)とともに大正三美人の一人としても知られるようになりました。
 伝右衛門は、白蓮のために別府や福岡に銅板葺きの「あかがね御殿」ともいわれた(のちに白蓮と歌人仲間のサロンとしても使用された)豪華な別荘を建てています。こうした中で、当時の白蓮は「筑紫の女王」とも呼ばれるようになりました。
 白蓮は、大正7年(1818年)戯曲『指鬘外道(しまんげどう)』を発表、これが縁で労働運動に打ち込んでいた黎明会の機関紙の記者で7歳年下の宮崎龍介(中国革命の父と称される孫文とも親交のあった革命家で浪曲師でもある宮崎滔天の息子)と知り合い、別府の別荘で会った龍介は情熱を込めて社会変革の夢を語りました。上京の度に「龍介」と逢瀬を重ね、やがて彼の子を宿すことになります。姦通罪のあった当時としては、命がけだったかもしれません。
 白蓮は、大正10年(1920年)伝右衛門と上京した折に姿を消し、同年の10月22日の朝日新聞夕刊に伝右衛門との絶縁状を公開します。「私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます。」というものでした。国粋主義や国体観が幅を利かせる当時としては、当然世論の強い批判を浴ることになりました。
 兄の柳原義光は貴族院を辞職、白蓮は実家(柳原家)に幽閉を余儀なくされた中で男児「香織」を出産、関東大震災の後、大正12年(1923年)白蓮は華族から除籍され、財産も没収されたのち伝右衛門との離婚が成立、やっと親子3人の生活が実現しました。やがて長女「蕗苳(ふきこ)」が誕生しますが、龍介が結核を患い生活は苦しく、白蓮は歌を発表しながら必死で生計を支えました。
 昭和20年(1945年)鹿児島県の鹿屋基地で学徒出陣の長男「香織」が戦死したことがきっかけで戦後は〈国際悲母の会〉を結成、世界連邦婦人部の中心となり活躍し、熱心な平和活動家としても知られています。
 その後、緑内障で両眼を失明し,龍介の介護を受けながら昭和42年(1967年)に82歳(享年83)で生涯を閉じました。白蓮が龍介とともに過ごしていた東京池袋の家では、今も子孫の方が暮らしています。
 

白蓮の居室から見た庭園

柳原白蓮

開館j時間
 9:30〜17:00まで (入館は16:30まで)
入館料
 高校生以上300円(240円)
 小中学生  100円(80円)
 カッコ内は団体料金
休館日
 火・水(祝日は開館)
 年末年始12月29日〜1月3日
駐車場
 旧伝右衛門邸駐車場・幸袋リサーチパーク内駐車場(無料)

柳原白蓮こと(Y子)

← 白蓮の手紙(複製)
   伝右衛門に宛てた絶縁状

 筑豊に眠る大正ロマンの残像 

左の画像クリックすると拡大表示されます。

「私はあなたの妻として最後の手紙を差し上げます。この手紙を差し上げると云ふ事はあなたにとって突然の事かもしれませんが、私にとっては当然の結果に外ならないのでございます。あなたと私の結婚は当初から本日までを回顧して」・・・・と、したためています。

 伊藤伝右衛門は、万延元年(1860年)に筑前の穂波郡大谷村(現在の飯塚市)に生まれ、苦労の末に、明治から大正・昭和に至るまでの間に大正鉱業株式会社をを設立し、筑豊の石炭御三家とも称されていた麻生・安川・貝島とも肩を並べる九州における石炭産業の一翼を担い、筑豊の炭鉱王として巨万の富を築きました。
 伝右衛門52歳の時、Y子(あきこ)、後の「柳沢白蓮」と再婚しますが、後に離婚、一時期、衆議院や貴族院議員としても活躍し、遠賀川の改修や筑豊に女学校の設立、「伊藤育英会」を創設のほか、十七銀行・嘉穂銀行の取締役など、筑豊の産業経済に多くの足跡を残しています。昭和22年(1947年)に87歳の生涯を終えました。

伊藤伝右衛門

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玄関

2階にある白蓮の居室

伊藤伝右衛門