空気を入れすぎた風船が、内側からの圧力に耐え切れず破裂するように、幼い頃から俺の中に溜まり続けていた鬱屈とした感情も、同じように容量の限界まで来ていたのかもしれない。
 そこへ来ての、俺の人生において完全にイレギュラーとも言える水賀湊の登場。
 今まで向けられたことの無い類の感情に触れることで、俺は錯乱し、そして同時に安心し、気を緩めたのだ。そのおかげで、俺の中に暗いものを押し留めていた殻に、ひびが入ったのだろう。
 その上で、破裂寸前だった風船に、さらに空気が吹き込まれた。結果など、子供でも分かる。


 ――爆発したのだ。


 今まで押し込めて見ない振りをしてきた感情が、俺の中でダムが如く決壊し、鉄砲水のように溢れ出す。理不尽な弾圧を受け続けてきたからだろうか、それは、俺自身でも抑えきれないほどに膨れ上がっていた。
 だからこそ、まず手始めに「水賀湊に近づくな」などという薄羽重成に歯向かって、水賀湊の要求に答えることにした。それだけで、もう何年も雲に覆われ続けていた空が晴れ渡ったかのように、酷く清々しい気分になる。
 だが、同時に、今まで試みたことも無い行動を取ったことによる恐怖もあった。

「相馬翔っ!!」

 そんなことを考えながら歩いていれば、急に背後から、聞きたくも無い声が響く。振り返れば、廊下の真ん中だというのに薄羽重成が仲間を携えて俺を睨んでいた。

「何か用か?」

 一応は聞いてみたものの、薄羽重成の言いたいことを先読みするのはそう難しいことでもない。
 今朝、俺が水賀湊に対して堂々と声をかけ、それに彼女が明るく応えたという情報は、風よりも早く全校に知れ渡ったという話だ。意味は違えど、俺も水賀湊も校内どころか市内でさえ有名人であって、だとすれば、その噂は悪評の如く広まっていったのだろう。
 つまり薄羽重成も、昨日屈服させたはずの人間が早くも手を噛んだことに、気付いているということだ。
 全く、こいつは他にやることが無いのかね。

「……お前、自分が何をしたのか分かってるよな」

 薄羽重成の金持ち面も、今日ばかりは暗い感情に彩られ悪鬼羅刹の如き……とまではいかなくても、それなりに迫力のある顔になっている。どうやら、随分とお怒りのようだ。
 他人が自分の思い通りにならないと腹が立つ、なんてのは、それこそ子供の意見と相違ないと思うのだが、どうやら甘やかされて育つとこうなってしまうらしい。

「さあ、俺が何かしたか?」

 どこから現れたのか知らないが、いつの間にか、俺は薄羽重成の仲間たちだと思われる、ガラの悪い集団に取り囲まれていた。
 その数六人。
 数は昨日と同じだが、それが同じ顔かどうかは知らない。

「じゃあ、お前が何をしたか、教えてやるよ。……おい」

 薄羽が声をかけると、取り巻きの一人が俺の肩を後ろから突いた。それを見た薄羽が、踵を返し歩いていく。どうやら、付いて来いということらしい。
 流石に、廊下のど真ん中で騒ぎを起こすわけには行かない。俺に与えられた選択は、そのまま大人しく付いて行くことだけだった。







 それから徒歩三分程度。
 着いたのは、昨日と同じく実習棟の北広場だった。
 俺はまたしても逃げ場をふさがれる形で壁に背を着け、薄羽たちに取り囲まれる。まるで昨日の再現のような状況に、俺は苦笑いを浮かべずにいられない。

「何笑ってんだてめぇっ!」
「ん? ああ、悪い。昨日と同じだなあってな。……まさに――」

 俺は言葉を切って、取り囲む一人一人の顔を見る。まあ見事に、悪いことしそうだなという顔ばかりだった。その顔を見ていると昨日のことを思い出す。殴られた腹が疼いた気がした。
 思えば、今まで生きてきた中で、同じように取り囲まれたことは両手足を使っても数え切れないほどあるが、そのほとんど全てで頭を下げてきた。
 そうすれば、歯向かうよりも確実に怪我が少なくて済むことが多いからだ。それに、どうせ抵抗したところで多勢に無勢では敵うはずも無い。だから、ただ嫌なことが過ぎ去るのをじっと待つのが最良なのだ。
 そう、今までずっと思ってきた。
 今から言おうとしている一言を、心の中で反芻する。
 ニヤリと、口元が歪むのを感じた。
 だが、俺はそれを隠しもせず、敵のボスである薄羽重成のイケメン面を睨んでやる。おそらく、不敵という表情を作れたはずだ。
 そして、ゆっくりと口を開き、

「――バカの一つ覚えだよな」

 そう、言ってやった。
 俺が何を言ったのか理解できなかったのか、ほんの数瞬、目の前の六人全員がポカンと口をあけ呆気に取られた様子だ。
 その様は酷く滑稽で、こらえきれずに俺が吹き出すと、それを皮切りに薄羽重成の顔が怒りに染まった。
 殺気。
 そう表現するのが一番的確だろう。六人分の威圧感が俺に殺到する。

「あーもう、駄目だ。地面に額つけて謝れば、靴を舐めるくらいで許してやろうとも思ったけど……お前さあ、もう死ねよ」

 それが合図か、左から二番目の薄羽ファミリーの男子生徒が、一足のうちに間合いを詰める。
 飛んでくるのは右の拳。
 もともに食らえば歯の二三本は折れるだろう一撃が、俺の顔面を狙う。
 だが、

「はっ……!」

 先に届くのは、俺の拳だ。
 真っ直ぐに突き出した一撃が、男子生徒の下顎を強かに打つ。
 骨と骨のぶつかる嫌な感触が嫌悪感を催すが、無視してそのまま思い切り振りぬいた。
 渾身の力を込めた甲斐あって、男子生徒は一メートルほど後ろに吹き飛ぶと、受身も取らずに落下し動かない。まあ、気絶させるつもりで殴ったのだから、動いてもらわれては困るのだが。
 なんにしても、あと五人。

「くっ……!」

 俺が一人倒したことが余程意外だったのか、五人は動揺したように一歩後退る。
 だが、それこそ好都合だ。
 俺は下肢に力を込め、割とがたいのいい一人と距離を詰めるべく地面を蹴った。
 相手は慌てたように、カウンターを狙うタイミングで上段に向けて足を上げる。
 その一撃が、違わずに俺の米神を狙ってきたのには感心するが、どうやらこいつは格闘術の授業の成績は良くないらしい。
 俺が、一歩下がった瞬間の体重移動を狙って飛び出したことに気付かず、そのままの体勢で蹴りを放とうとするのだから、重心が高すぎて振り上げた足に力が入りきっていない。ついでに腰も入っていなければ軸足の位置も悪いし、腕を使わないから上体がぶれて力が拡散している。目線に細工も無いから狙いもバレバレで、そもそもにして蹴り方が下手くそだ。
 そんなだから、顔を少しずらすだけで簡単に避けれてしまう。
 懐にもぐりこみ、膝を軽く曲げると、伸ばす勢いを乗せて真下から手の平で顎を打った。
 ゆっくりと後ろに倒れる男子生徒。綺麗に入ったから、少なくとも一時間は動けないだろう。

「お前……一体何をした!」

 薄羽が叫ぶように言うが、こいつは何を言ってるんだろうか。

「何って、見てただろ」

 俺が呆れながら言うと、薄羽は眉間に皺を寄せて睨んでくる。
 ……さて、あと四人いるわけだが、もう奇襲は通用しないだろう。流石に、こいつらも警戒してくるはずだ。
 それにしても、油断してくれているうちに二人倒せてよかった。欲を言えば三人は倒してしまいたかったのだが、それはこいつらを舐め過ぎというものだろう。こいつらだって、曲がりなりにもここの生徒なのだ。それなりに、格闘術は学んでいる。
 だがそれでも、俺は負けるわけにはいかない。

「お前らが今まで笑っていた間、俺がボーっと過ごして来たとでも思ってたのか?」

 誰も彼もに理不尽に嫌われているから、単位を与えるのも自分の裁量である教師たちを納得させるには、俺は何か突出したものを持たざるを得なかった。だから、勉強は好きではなかったから、ひたすらに身体を鍛えてきたのだ。
 誰もが遊んでいる間、笑っている間、楽しんでいる間、喜んでいる間、無為に過ごしたつもりは無い。
 怒りに震える四人を目の前に、俺は両足を開いて軽く腰を落とし、右手を腰だめに左手の平を真っ直ぐに突き出す。毎日繰り返してきた、小等部に入った頃、格闘術を習った誰もが初めに覚える基本の型。ここ数日は、色々と思うこともあってサボってしまっていたが、それでも、数年間一人でずっと鍛え続けていた型だ。

「くそ、舐めやがって! あと四人も、お前一人でどうにかできると思ってんのか!」

 怒りからか、薄羽の言葉遣いが僅かに乱れる。

「知るか、んなこと」

 確かに、俺は完全に不利だ。
 最初の二人は、不意打ちだからあれほど簡単に倒せたのだ。ここからは、四対一。まともにやって、勝てる数でもない。
 だが、そう簡単にやられてやるつもりはない。
 これは、格闘術だけは俺が自信を持てるものなのだ。
 一対一ならば、水賀湊にだって負けはしない。

「ほら、こいよ」

 俺が挑発すれば、四人はさらに怒りの表情を深くする。だが、その分冷静には動けなくなるはずだ。
 息を深く吸い、下腹部に力を溜める。
 ここが、俺の乗り越えるべき最初の壁だ。逃げているだけの酷く脆弱で臆病な自分を、ここで殺す。そうして初めて、俺は自信を持って生きていけそうだ。
 睨み付ければ、四人はじりじりと俺を包囲するように動き出す。
 俺は今一度、拳を強く握った。

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