朝のことがあってから、俺の表情は随分と優れなかったらしい。
 教室に着けばすぐに水賀湊がやってきて、どうかしたのか、大丈夫なのかと質問攻めだ。鬱陶しかったから追い払ってみれば、いつの間にやら帰ってきていたタマにまでからかわれる始末。
 それからの時間は、何とか平静に保つよう努めたから何事もなく過ぎていったが、ポーカーフェイスが特技であったはずの俺が表情を読まれるほどに感情を乱してしまったことはかなりの屈辱でもあった。そんなことをタマに話すと、

「何を言うておるのじゃ、ようく見ればお主ほど読みやすい顔もあるまいて。格好をつけおるな。映画とやらの見すぎじゃのう」

 さらに屈辱だった。







 実習棟は、数学や科学、国語や外国語などの一般教養から外れた、いわゆる特殊な勉学を主に行う施設が集う場所だ。それは美術や技術だったり、精霊を相手にする場合の無手での格闘技術を磨く武道場だったりと多岐に渡る。
 そんな、いろいろな部類の教室が集まる場所だから、放課後であろうとも人は大勢いる。だが、どういうわけか実習棟の北側に当たる広場だけは、どの教室からも死角になっていて人通りもほとんどないのだった。
 そんな広場に、今日に限っては数人の男子生徒が集まっている。言うまでもなく、俺と、薄羽重成ウィズその仲間たちだ。

「はは、ホントに来たんだな。てっきり逃げると思ってたけど」

 俺は校舎の壁を背に、薄羽重成とその仲間たち、計六人に囲まれていた。六人は二メートルほどの距離をもって俺と向かい合っているが、さすがに逃げられそうもない。
 仕方なく、俺は半円に広がった包囲網の頂点の位置に立つ、嫌味な笑いを浮かべる男子生徒を睨むことに専念する。
 そいつこそが、薄羽重成。
 背は高くすらっとした体躯で顔もいいが、その笑い方に性根の曲がり様がありありと表れていた。おそらく、普通の友達はいないだろうタイプだ。この仲間たちも、家の権威を振りかざすか金を撒いて集めているんだろう。

「おいおい、そう睨むなって。別に、お前に喧嘩を売りたいわけじゃないんだ」
「へえ、じゃあなんだってんだ。用があるならさっさとしてくれ、早く家に帰りたいんでね」

 俺が半ば挑発のつもりでそう言うと、ぴくりと一瞬、薄羽は笑みを崩し怒りを露にしたが、それを俺以外に気付かせた様子もなく、すぐにまた酷薄な笑みを顔に貼り付ける。
 その雰囲気から察するに、どうやらこいつは、俺如きに意見されることそのものに腹が立つようだ。典型的な勘違いタイプか。自分で稼いだわけでもなく、生まれたときから家が金持ちなことが、一体どれほど偉いって言うんだろうな。

「今日は、お前に忠告をしたいと思ってね」
「……忠告?」
「ああ、最近、お前はあの水賀湊と仲がいいようじゃないか」

 薄羽の言葉を聞いて、その瞬間、様々なことに気付いた。
 そうだ、水賀湊がただの一学生には有り得ないほどの人気者だっていうのは、初めから分かっていたのだ。いくら珍しい出来事の連続で混乱していたとはいえ、そこに思いが至らなかった三日前の俺を殴ってやりたい。
 目の前の薄羽には、決して動揺を悟られるような愚行は起こすまいが、俺は内心、忸怩と歯噛んだ。
 人気者と嫌われ者。その二人が、傍目には仲が良さそうにしていたら、周りの人間はどう思うか。


 ――――そんなもの、嫌われ者をさらに嫌うに決まっている。


 俺が一瞬、思考の海へと潜りかけたそのとき、その隙を見抜いたのか、はたまた偶然かは知らないが、薄羽重成の取り巻きの一人が一足のうちに俺との間合いを詰める。
 しまった。
 そう思ったときにはもう遅い。

「がっ……!」

 腹部への強烈な拳打。
 背後が壁だったこともまずかった。思ったよりもダメージがでかい。
 気を抜いた一瞬に、上手いこと入り込まれてしまったため、防御も何もできず、腹筋に力を入れることもままならなかった。
 僅かに膝が揺れる。

「はは、俺は優しいからね。お前がこのまま水賀と仲良くし続ければどうなるか、先に教えといてやろうと思ってさ。言っとくけど、彼女の信者連中に目を付けられればこれだけじゃ済まないよ? 例えば……」

 ニヤニヤと、嫌な笑いを浮かべながら薄羽が近づいてくる。さっき俺を殴った野郎が、俺の肩を押さえていた。
 ……逃げられないか。
 腕で防御するのはまずい。そんなことをすれば、確実にこいつは逆上する。そうなれば、この人数が纏めて掛かって来かねない。俺は別に武術の天才でもないし、なんとか流の免許皆伝でもないから、そんなことになればまず確実に大変なことになるだろう。
 仕方ない、覚悟を決めるしかないようだ。

「ぐっ……」

 そう思い、腹筋に力を入れた瞬間に放たれた薄羽のヤクザキックが、寸分違わず殴られた部分を襲った。

「こんな風に、ボコボコにされるかもしれない。あと、こうとかっ、こうとかっ、こうとかねっ!」

 連続で繰り出される薄羽の執拗な打撃が、俺の体力を削っていく。顔を狙わないのはさすがといったところだが、それにしても、同じ場所ばかり狙うのは止めてくれと言いたい。
 幸いにして、薄羽の腕力や脚力はそれほど強いわけではないらしく、重心の移動やら腰の入れ方やらが甘すぎたから一発一発のダメージはそれほどでもない。正直、最初に取り巻きからもらったパンチの方がよほど効いた。
 だがそれでも、塵も積もれば山となるとはよく言ったもの。蓄積にしていくダメージに、俺は堪らず膝をついた。

「ぐ……ぅ……」
「ふう……ま、優しい俺だからこの程度だけどね。調子に乗るのも程々にしといた方がいい、ってことさ。お前はもっとよく、自分の立場を考えるべきだね」

 ……確かに、ここ数日の俺は自分の立っている位置を見誤っていたかもしれない。正直に言って、浮かれていたのだろう。
 普通の生活、普通の人間関係。
 そんなものが、砂漠で蜃気楼を見た旅人のように、あと少し頑張れば手に入れられるもののように見えていた。
 無論、そんなものは全くのまやかしに過ぎず、オアシスは決して届かないところにあるのだ。

「さあ、分かったらもう出すぎた真似はしないと誓え。分相応に、誰の目にも入らないところで蹲ってるとね」
「……っ」

 だが、なんなのだろうか、この煮え切らない感情は。
 理性は、さっさと頷いてしまえと呟いている。
 喉元過ぎれば熱さを忘れる。辛さは短いほうが良いに決まっているのだ。

「ほら、どうしたっ!」

 蹲った俺に向けて、蹴りが放たれる。避けられはしない。強烈な痛みが腹部を襲う。
 胃液が競り上がってくる。堪らず口を開けると、僅かに赤みの混じった胃液が地面に染みを作った。

「……わ……」
「ん? なんだって?」

 気付かないうちに、痛いくらい拳を握っていた。

「……分か……った」

 痛みからか上手く声は出せなかったが、俺の絞り出すように苦しげな声は、目の前のクソ野郎にとっては逆に嗜虐心を満たすものだったらしい。ニンマリといった言葉が似合いそうな笑みを浮かべ、薄羽重成はゆっくりと俺から離れた。

「くく、もっと早くそう言っておけば良かったな。いや、むしろ生まれたときからそう思って生きてきていれば、こんなことにもならなかったかもしれないね」

 癪に障るいくつもの笑い声が重なって、ここから離れていく。
 俺はその間、じっと、地面を見つめていた。

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