< 創 価 学 会 と は ?>

 


< マインドコントロールシステム >


 


「そうかがっかい」とは 仏教を名乗る新興宗教です。

 

「日蓮を信じ念仏を唱えればご利益がある、逆らえば不幸になる」という なんともご都合主義の典型的カルト宗教ですが

 

釈迦は、

呪文による神通やご利益、あるいは根拠の無い妄想を捨てて ありのままを観ること。そこからはじまり「自己を整えて行くこと」こそが仏道だ、

と説いたはずなのですが、日蓮さんの仏教というのは、本来の姿から随分と変わり果てた「新興宗教」ということでしょう。

 

 

現在では「折伏」(勧誘)は、時代に合わせてソフト路線となっているようですが、その実際は如何でしょうか。

 

体験談から解析してみますと

 

入信すれば出世できるとか、海外へ行けるとか言いますが、実際それは真実でしょう。しかし、その代償として、奪われるものが多いために

深刻な社会問題となります。

 

信者が、にこやかな世間話から「あなたが良い給料を得られるように祈るよ!!!」と言います。

 

私としては、それよりも、「世の正しく貧しい者たちの為に祈って欲しかった」のですが、やはり「ご利益宗教」ですから、金儲けに言及し、

 

自分と、その周りの人間が幸せになればいい、そして、「票や勧誘実績」が欲しいのでしょう。

ウッちゃんナンちゃんのウッちゃんは、舞台裏で信者の勧誘を継続する出演者たちに対し、「信仰の押し付けはよくない」と諭しましたが、

その結果、番組を下ろされてしまったようです。 そして海外にも繁殖している組織ですから、信者は海外にも行けるでしょう。

 

 

何か辛いことがあった場合に、このような宗教は必ず勧誘して来ますが、

それを利他的行為と思うのは分かりますが、組織内出世すればその献金額は実際に莫大ですし、

人と金を集めていると言われても反論は出来ないでしょう。

 

そして、オウム真理教と同様に、反対分子は殺します。 参考:YouTube

 

 

 

信者は暴露や批判をされると「本部に直接行って言え」と言いますが、被洗脳者で埋め尽くされたカルトの懐に出向いてもしょうがない。

 

「インターネット上や身近な人々に、その真実を着々と訴え続けることこそ」 

世を浄化する菩薩行と言えるでしょう。

 

しかも信者は 本部に出向き批判する際の時間や交通費を支払おうとしません。その程度のことにすら、気付かないのです。

 

症状としては、創価組織の、「殺人」や「独裁者との癒着」や「マインドコントロール手口」を、どんなに分かり易く説明しても、

 

信者はそれを受け入れることができない。なぜならば

「批判を聞いたり信じたりすれば 地獄に落ちると言われ脅されているから」です。

 

上記はカルトの「恐怖の原理」と言われる常套手段ですが、たとえば ゴルバチョフ元大統領と会見したり、名誉教授称号をもらったりするのは

「権威の原理」と呼ばれますね。

ゴルバチョフ元大統領は誰とでも簡単に会見したため、日本のカルト集団の教祖で 、会見することにより利用しなかった方が稀であると言っても過言ではありません。

 

 

ルーマニアの独裁者であり、自国民を大量虐殺したチャウシェスク国家元首と会談する池田大作

 
しかし、そのような霊的脅しよりも厄介なのは、人の「信じたい」という欲求です。 それが嘘であっても「信じたい」

そう思わせるためにはその教団や教義が魅力的である必要があります。 だからこそ、オウムも創価学会も、すばらしい救世志向を説きます。

そう、信者とは、「それが真実ではなくとも信じたい方々」なのです。

 

それゆえに、彼らの言葉には説得力が無いのです。

 

そしてそのような、何かを盲信し思考を固定する有様、または権威を鵜呑みにする愚かさ、

などから解脱しましょうと言うのが仏教だったはずですが

 このような新興カルトには本来の仏教はもうその片鱗すら存在しないのでしょう。

 

* 仏 教 入 門  http://sky.geocities.jp/sonnna_ahona4649/bkn.html

 

 

* * *

 

 

さて、それでは創価の首領・池田ダイサクさんの発言を参照してみましょう。

 

「広宣流布(広宣流布とは、国民のほとんどが学会員となる状態)の時には、

参議院議員、衆議院議員もいてさ、皆な財布の中には少なくとも十万や二十万入れて、洋服も月賦じゃないの着てさ、

ひとつ国会議事堂やプリンスホテルや帝国ホテルで会おうじゃないか。要所要所を全部ね、学会員で占めなかったら広宣流布できゃしませんよ」

(『聖教』昭和32年9月6日)

 

 「天下をとれることが少し私には見えて来た。天下をとらない党なら、やる必要はない。私がひかえているから心配するな」

(公明党議員との記念撮影・昭和51年11月16日)

 

 「私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。そのときには創価学会を解散してもいい」

(『現代』昭和45年7月号)

 

 「広布(※広宣流布)の闘いで、政党、学校、文化、民音等もできた。最後に残ったのは経済だ。これから、この社長会を中心に経済革命をする」

(第1回社長会・昭和42年6月25日)

 

 「目立たないように枝を伸ばし、産業界に網の目を張りめぐらして、最後に総合商社を作って決戦だ。

(第6回社長会・昭和42年11月25日)

 

 「口八丁・手八丁でよ、なんでもうまくやるんだ。社会(社会党)だって方便を使っている。共産(共産党)だって目的のためならみんな謀略じゃないか。一般社会だって利益のためならあらゆる手段をつかう。うちは信心のため、信心を守るため、学会を守るためだ。」

(扶桑研修所での指導・昭和51年6月1日)

 

 

仏教では、心の修養がその要諦でありますが、↑ このように、創価では「繁栄戦略」にその目的を置いています。

しかも、「日蓮を信じ念仏を唱えればご利益がある、逆らえば不幸になる」というのならば

 

信者に、裏から手を回して「都営住宅」を当ててあげたり

否カルトのタレントを降板させたり 票集めをさせたり 久本の好感度を上げたりする必要も無いはずですので 可笑しい。

 

「目立たないように枝を伸ばす」このセリフにもとにかく苦笑してしまいます。 信仰というよりも単なる「野望」ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

* * *

 

* 創価学会は、なぜ悪いのか? わかりやすく解説しました! http://jp.youtube.com/watch?v=rXGRPfsrgPQ&NR=1

 

* あるカルト*その実態と対策 http://sky.geocities.jp/sonnna_ahona4649/arucult.html

 

* わたしのカルト体験 http://www.geocities.co.jp/Berkeley/4549/watasi01.html

 

* 「カルト宗教」創価学会批判 http://www.toride.org/asami/cult.htm

 

* 「マインドコントロールへの落とし穴@〜F」  http://jp.youtube.com/watch?v=MtUoMgY223I

 

* * *

 

 

 

 

チベット人虐殺の張本人と笑顔で握手する池田 

 

残念なことに、池田犬作先生が日蓮の生まれ変わりであることはあまり知られていない。 それについてこんなエピソードがある。

昭和52年に池田先生が千葉の清澄寺(日蓮が幼少の頃に修学した寺)

を訪れた際、千年杉に向かい木肌を撫でながら、「久しぶりだね。700年ぶりだねぇ」と呟いた。

 

(※ちなみにこの千年杉の樹齢はまだ約250年であった。)

 

E N D

 

 


刈人宗教解析倶楽部




***


自らを灯火として生きる事の出来ない人たちは、

灯火を求めて集まってくる虫達のように群がり、似たもの同士の集団に埋没する事で安心を得る。

 しかし、その代償として灯火によって自らの羽を焼き、もはや自分の意志で自由に飛ぶ事は出来ない・・


自らを灯火とする人をたとえるならば太陽のようなものだ。

どんな暗闇の中にいてもけして彼は、光を失う事がない。

自らを灯火として生きる事の出来ない人をたとえるならば月のようなものだ。


光っているように見えてもそれはただ太陽の光を反射しているだけで

 けして自ら輝く事はない・・

 光るものを見つけては、ただその周りをぐるぐると回りつづけるよりほかすべがない・・


***

  

  


 

 


 

< マインドコントロールシステム >

 

 

この論文はとある識者がとある掲示板で発表したものです。 

この論文は創価学会用に書かれたものですが、○○○でも充分応用が効くと思います。 

カルト教団とマインド・コントロール(更にアダルト・チルドレンも絡めた)に関するものです。

  

カルトのマインドコントロール手法というのはどこも大差ありません。


目的は「組織(教祖)依存」信者を、いかにつくるか。

そのために教団は、まず自我の確立を徹底的に抑制します。

自分の頭で考えることを否定し、また自己への自信をなくさせ、

かわりに教団への自信を植え付けるような指導をするわけですね(教団=自分となることを目指すわけです)。

信者が最初に奪われるのは、「論理的思考能力」「理性的批判能力」「客観性」です。

教団内では、個々人の論理的思考や教団批判は徹底的に糾弾されます。

「頭でなく心で受け止めなさい」とか「教えの素晴らしさは理屈ではない」

「あなた(の批判)は教えの深さがまだ分かっていないだけ」「素直に聞きなさい」などと言われてね。

  

そしてここで働くのが、人間の持つ適応能力(マイナスの作用)。

 

こういう環境に放り込まれると、(新しい環境への順応が必要ならば、人間はいかようにも適応しようとする本能があるため)

その環境で生き延びるために害となる 「頭を使う」ことを簡単に放棄してしまうのです。

そして教団は、それにかわって徹底的に信者の「感情」に訴えはじめます。

感情を煽る過激な言葉(征服、闘争、勝利、克服etc)を連発し、また「わざと敵をつくって」

怒りと憎しみを煽り、外部を「悪魔・卑しき者の世界」などと規定して教団が悪から迫害されているかのように装って

(当然情報操作が行われます=外部の情報はすべて信じるに値しないもので、真実の情報は教団内にしかない

と教えるわけです。あとは勝手に信者が自分に都合の良い情報のみを取捨選択してくれます)

信者の団結心と教団への依存心を高めようとします。

これらはいずれも理性(論理的思考・批判能力・客観性など)を奪うと同時に、

論理よりも強力に人を動かす力を持つ「感情」に直接訴え、

教団のメッセージを信者に理性ではなく感情の部分で受け入れさせ、心深くまで浸透させる効果を持っています。

ちなみに「体験でしか分からない」というセリフは、教えを無批判に(理性=大脳新皮質を使わず)、

感情(動物的感情=大脳辺縁系を使って)のみで受け止めなさいという意味と考えてよいでしょう。

こうなると信者は教団のメッセージを、そのままに受け入れ信じるほかに道はありません。

・・・もはや批判精神も客観性も働きません。 それを働かせることは「悪」なのですから。

もちろん教団の教えを、咀嚼することも自分なりに解釈することも「悪」です。

信者は教えられたとおりの言葉を、素直にそのまま頭の引き出しに収めなくてはなりません。

しかも教団の教えは、世の中や信者の日常に起こるあらゆる事に対しての、教団なりの答えを用意しています。

一旦それを受け入れたなら、

信者はカルトの体系の中で物を考え、世界を見るようになり、「すべてをカルト的枠組みで解釈」するようになります。

彼の行動はこの新しい現実感とは矛盾しないものとなり、

すべての言動を理性的・自発的に行っていると意識(錯覚)するようになってしまうのです。

 

こうなると彼はすべてカルトの枠組みでしか考えられなくなり、また教団は 信者を完全にコントロールできるようになります。

一方、感情の部分では扇動的な言葉で心は「高揚」させられ、

信者同士がお互いに依存し合う関係によって情緒的な安心感が得られます

(健全な人間関係ではありません。あくまでも依存・共依存による人間関係で、

自他の区別がない〜自分がないのですから当然です〜のはそのためです)。

また常にノルマや修行という名の、過大すぎるほどの勤労・労働が教団から課せられ、

忙しさと疲れ、活動による充足感(空想の世界の満足感)によって 理性を使う暇も与えられません。

こうして信者は教団(教祖)なくしては生きてゆけないかのような錯覚にとらわれ、

その恐怖心が潜在意識で働いて、教団への献身と活動への没我を無意識に求めるようになる わけです。


――ということで、カルト信者の「一丁あがり!」というわけですな。


こういうカルト信者の特徴は、論理的思考能力と咀嚼能力の著しい低下にみられます。

また外部と自分の世界とのずれにまったく気づかず、奇妙な言動で人を驚かせもします。

本人は、教団の教えや難しい言葉を無批判・無条件に覚え込んでいることに気づかず、

あたかも自分の言葉のように錯覚していて (「難しい言葉を使うこと=論理的説明」だと勘違いしていますし)、

それを覚えている(本人的には「理解している」)自分が優れた人間であるとさえ思っています。

教団の教えを無条件に「究極・絶対・完全・崇高」なものと信じ込んでいるので、

それを引用することが自分たちの優秀さを示す素晴らしい行為だと思い、

また批判が返ってくることさえ予測していません

(批判があるとすれば、それは中傷・偏見・無理解・悪意でしかないのです。なぜなら自分たちに非があるはずがないのですから)。


こういった「カルト眼鏡」をかけて生きている人たちは、

自分たちが歪んでいるにもかかわらず、外界の方が歪んで見えるものですし、

また世界のすべてが自分たちの「カルト色」に染まって見えるのだと考えてよいでしょう。

ですから外部の発言はすべて彼らの頭の中で、「カルト言語」に変換され、

彼らの世界観の中で「都合よく」解釈されてしまうわけです。

もっとも彼らの多くが、外部の批判にいとも簡単に「切れてしまう」のは、

自分が実は経験による根拠も論理的根拠も持ち合わせていないという弱点を本能的に知っているため、

怒ってカルトのレトリックを使って「感情を高ぶらせながら一方的にしゃべりまくる」ほか手がないからです。

本気でこちらを心配してくれているのなら、怒りの対象ではなく、哀れみの対象になる はずなのです。


だから彼らが意図的に論点のすり替えをしているのではなく、彼らがその言葉しか 頭の引き出しに持ち合わせてなく、

かつ論理的思考能力が低下していて(使い慣れていないため)自分で応用できないためなのです。

もちろん教団から「応用=悪」とも教えられていますしね。

こうなるとあとは 自分可愛いの自己正当化(実は負け犬の遠吠え)して、

すべてを外部のせいにして逃げるほかなくなります。もちろんその屈辱感を打ち消す理屈も、教団には用意されています。

 

実際彼らの心の中は不安定です。自我の確立を阻害されているため

「自分がない」という不安感を常に心の奥底に持ったまま生きてゆかざるを得ないからです。 でも、逃げられません。

なぜなら彼らは心の奥底まで、「やめたら不幸になる」「裏切ったら地獄」などという恐怖心を刷り込まれ、

そして教団への疑問や否定的感情を一寸でも抱くことが、教団に依存しなくては生きてゆけない

(と錯覚させられている)自分にとって自己崩壊をもたらすと本能的に考えているためです。

つまり彼らは恐怖心によって心をがんじがらめに縛られているわけで、

「自分は幸せ!」と叫びながらも、実は彼ら自身は「心の牢獄」につながれているのです。

(「幸せ!」は、そうやって自己肯定化することが唯一の生きる道だからにほかなりません)

もちろんそんなカルトの世界を、「夢の世界」と捉える人がいてもよいでしょうね。

その夢の世界にいる限りは、自分は安全で、素晴らしく、自信が持て、責任感も必要なく、

そしてあらゆることが自己正当化できるわけですから、逃げたいとも思わないんじゃあないでしょうか??

それを「夢の世界の住人」ととるのも「心の牢獄につながれた囚人」ととるのも、人それぞれ。

 

ま、以上のことを十分に分かった上でなら、いずれを選ぶも自己責任ということで・・・。(^^)


ちなみにカルト・マインドコントロールの最初の段階である「自我の確立の抑制」は、

1世では「過去の自我の否定&破壊」と考えられます(2世の場合は、子供の頃からの自我の抑制)。

自我の破壊は、自己と他人(社会)との境界線を破壊します(自我がない=境界線の引きようがない)。

こういう人は、精神医学の世界では「境界性人格障害」「自己愛人格障害」に分類されます

つまりカルトは、意図的に「自我を破壊し(あるいは自我の確立を抑制し)人格障害者をつくる」

ことを目的としてマインドコントロール手法を使うのです。

こういう症状の人は、個の自立ができないため、

他者(もの・教団・教えなど)によって自己の存在を確認しようとすることで「依存&共依存症」の症状を引き起こします

(カルトの狙い=組織依存 は、まさにここにあります)。

 

ですからもともと強固な自我を確立している者(それに論理的思考能力・批判精神・情報分析能力をもちあわせていれば、

言うことはありません)は、カルト・マインドコントロールにはかかりにくく、

一方で幼少時のトラウマや家庭環境などが原因でもともとアダルト・チルドレン&依存・共依存症

(自我の確立ができず、自分への自信がないため、生きにくさを感じている人。愛情に飢えて、心に空洞や傷を持っている人)

の兆候を持っている人はかかりやすいということになります。

(つまり2世などはアダルトチルドレン→依存・共依存症の方が多くなる可能性があるということです)

 

実際重度の症状の人は、やはり進んで・喜んでカルトを受け入れさえすることも多いようですし・・・。

そういう方ほどカルトに入って自我の確立をしたような気になり、心の病も治ったかのように思うものですが、

しかし実体は違います。

 

彼は望んで「カルト人格」を植え付けられ、それをそのまま借りて自分の心の空洞に詰めたのですが、

それは本来自分の力で癒し、自分の力で埋めるべき「心の傷・空洞」をカルトへの依存行為で詰め物し、

借り物の自我を身につけただけのことです。

だから一時はそれで症状も改善したように見えますが、心の傷や空洞が本当に埋まったわけではなく

(借り物を詰めて穴をとりあえず見えなくしただけ=その借り物をとったら穴は以前と同じ状態)、

カルト=借り物の自我 に依存しているだけなのです。それは本当の自我でも自信でもありません。

ですから教団を否定することは、自分の心の傷を直接抉られるような強烈な痛みをもたらしますし

(だから批判にあうと簡単に切れる=これこそ自己愛性人格障害&境界性人格障害者の特徴的症状)、

まして自分で教団を否定することなどできません。 「心の詰め物」をとられたら自己崩壊するのです。

依存対象あってこそ、生きてゆけるという状態なのです。

しかも本能的には自分の傷が埋まっていない ことを分かっていますからね。

自分が脆く弱いということを自覚することから逃れるために、教団へより一層のめり込むという図式になるわけです

 

・・・いや、実に上手く仕組まれているのですよ。


例しに、下に紹介するHPをあなたのよく知っている誰かさん(あるいはご自分)と比較して検証してみて下さいませ。

きっと何かの心当たりがあると思いますよ。

境界性人格障害:
http://homepage1.nifty.com/eggs/borderline.html
自己愛性人格障害:
http://homepage1.nifty.com/eggs/narcis.html
 

論理的思考は大脳新皮質が司っています。

一方で前に書いたとおり、カルトの教えは主に大脳辺縁系

(古皮質&旧皮質の総称。動物が人間まで進化する以前の部分。感情を主に司る)に訴えかけるようにしむけられています

(記憶の部分だけ、大脳新皮質に「並立情報」として収められます。

相互に情報が絡み合って新しい情報を生み出す=応用・相転移などという作業は行わないようにブロックされてね)。

脳は使えば使うほど、その部分が発達(成長)するものですが、

しかしだからといって2倍にも3倍にも大きくなるわけではありません。

まったく使わないとしてもフルに使っている者との脳の違いは、

少なくとも日常生活上で支障をきたすほどの差が出てくるまでにはならないでしょう。

しかし「使い方」「慣れ」という面で、日常的に論理的思考をしている者と、まったく使わない生活

(どんな方のことかはあえて言いませんが・・・笑)をしている者とで、実際に差が出てくるだろうことは、

ご自身の経験上でも納得ゆく話ではないかと思います。

で、理系などの仕事や勉強で普段論理的思考を使っている者はどうなのかというわけですが、

これは心理的プロセスとして説明されます

(もっともアメリカでは実際にカルト信者に脳障害が多く見られるという研究もあるようですが、カルトMCとの因果関係はまだ解明されていません)。 

つまりこと教団関係の情報に対しては大脳新皮質で処理しないように、条件反射的にスイッチが切られてしまう(ブロックされる)ということです。

 

原因としては、

1:論理的思考を禁じられることの繰り返しによって条件反射になってしまうということ。

2:論理的思考・批判精神を持つと組織への疑問を持ちかねないことを本能的に感じてその情報が

  大脳新皮質に行くスイッチを切って、大脳辺縁系に送ってしまう(疑問を持つ事への恐怖心が

  深層心理で働いたことによって、あらかじめ危険性を察知したところで切ってしまう)。

3:大脳新皮質で論理的に考え、疑問を持った瞬間に恐怖心によって心理学でいう「否認」あるいは

  「解離(記憶そのものを解離して消し去ってしまう)」が働いて、表層意識では「見て見ぬふり」をしてしまう。


などといったことが考えられます。

脱MCされた方の意見もこの点様々ですが、僕の経験では「3」の方が多いように思います。

(「今まで自分自身に嘘をついてきたことに気づいた」「おかしいと思ったことはあったけど、

それ以上考えることをやめて、忘れるようにしてきたように思う」などという経験談)

ただこれは母数として「3」が多いのか、

「3」まで行っている人だから脱MCできた(論理的思考を使うところまで行っているような人だったから、という意味です)のか、いずれかは判断できません。

ちなみに僕の感覚で言えば、カルトMCにかかっている人は、教団関係以外の場面でも往々にして

理性的な批判能力や客観性に欠ける(脳の問題ではなく「慣れ」だと思いますが)方が多いようで、

簡単に人を信じて騙されたり、マルチビジネスにはまってしまう人を沢山見かけるのですが

・・・これって偏見?(それを純粋でお人好し、世間知らずだと片付ける方が適切でしょうが・・・笑)

 

>カルトの信者が目覚めることは出来るのでしょうか?目覚めた後、数年は人格破壊が起こる気がするのですが。

不可能ではないですが、非常に大変なことは間違いないでしょうね。

まして恋人は思い入れが強いためすぐに喧嘩になって(正面攻撃は御法度なのに)逆効果になることが多いようです。

ただ問題は、カルトMCにかかっている人は、

それ以前に精神医学的な問題点(アダルトチルドレンや共依存症、鬱症など)を持っていることが多いことでしょう。

まして2世となると幼い頃から自我の確立がまったくできていないことが多い(1世と違って「戻るべき人格」がない)

と思われます。

しかし1世でもカルトMCと精神医学上の症状が絡み合っていて、その相乗効果が「バリバリ化」をもたらしているとすれば

厄介であることには変わりありません(おそらくほとんどが大なり小なりそういう傾向をもつと思います)。

仮にカルトMCが解けたとしても(これだけでも大変ですが)自我の確立ができていないと

心の空洞を埋めるため他の対象への依存症(カルト・サーファーといってカルトを渡り歩く人も多数います)

や鬱病などでやはり苦しむことにもなりかねませんからね。

ただしプロのカウンセラーは、基本的に脱MCは受け付けてくれませんし、例えば学会員だと心の病の方から直そうと思っても、そもそも病気を認めないか(学会員たる者、心の病にかかるはずがないとか頑張っちゃってね)、

「カウンセラーなんか駄目。題目で直す!

(本当は 心の病に題目は逆効果なんですが=題目・勤行・活動で分泌される「脳内麻薬」がかえって病を進行させることが多い

ですから)」なんて叫び出すのがオチですから、現実問題としてはどうしても最初にMCから解く必要があると思いますが。

いずれにせよ脱MCをしたところで(恐怖心やら人間不信などを克服し健常な生活を送れるまでの)

リハビリには入会していた年数と同じだけの時間がかかるというのが専門家の経験則ですし、

その上(同時に)心の病まで抱えているとすれば、なお治療に時間がかかることにもなりかねません。
そういう意味で、実に厄介な問題なのです。

脱MCを目指すなら、彼女さんの今後の人生をすべて背負い込む覚悟で臨む必要があると思いますよ。


参考のために以下の本などを読まれることをお勧めします。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4765230716/ref=sr_aps_d_1_1/250-2963402-2333063
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4314007133/qid=1015003896/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/250-2963402-2333063
あやつられる心―破壊的カルトのマインド・コントロール戦略

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4571250177/qid%3D1015003930/250-2963402-2333063
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4313720650/qid=1015003994/sr=1-2/ref=sr_1_0_2/250-2963402-2333063
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4313720480/qid=1015004039/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/250-2963402-2333063

 

カルト信者でも内部批判を一見論理的思考で行う人もいます。もともとは「不満」から端を発してのものが多いのですが・・・。

そういう人のために、教団が用意しているのは「幹部が悪い」「一部の信者が分かっていない」などといって

「スケープゴート」をあらかじめつくっておくこと(統一教会などは意図的にそうやって不満を解消させているようです)。

でも「幹部」「一部の〜」というのは、実は顔がない。具体的に誰々とはなっていないわけ。

 

そんな抽象的な批判でその人が納得してしまうところが、カルトMCたるゆえんでしょうか。

ま、そうやってガス抜きをさせ、逆に「そういった人たちを改善させ、教団をもっと素晴らしいものにする!」

というのを修行だと思わせることで、不満を教団への献身に転化させてしまうわけです。

しかし・・・ある意味そういう不満を持っている人ほど厄介だとも言えますね。というのも、

当人は批判精神を持っているということで「俺は他の(盲信してる)連中とは違う」という優越感や、

「俺だけが教祖を理解してる」という自己陶酔、「組織を改善するのは俺の使命」という使命感、

「俺は教団を客観視できる人間だ」という自負心を、ただの盲信者よりも強烈に抱いているわけですから。

でもそういう人も、

「教団そのものは正しい(ちょっと問題があるだけ)」「教祖は正しい(周囲が無能で教祖の意志を理解していない)」などと、

やはり問題を本当の意味で直視・客観視できていない。

にもかかわらず、「俺こそ客観視できている」「俺は理性的に判断してる」「俺は教祖と直接つながっている・教祖を理解しているのは俺だけ(組織無視)」なんて

、かえって凝り固まった信心をして、それで満足している・・・。

この種の人のプライドは、盲信者よりもずっと高いだけに、脱MCはよけいに大変です

(当人が「客観視してる」「外部の感覚と同じ」と錯覚しているだけにね)。

論理的思考を使う職業(学生)の方や、自称インテリなどの信者はこういうパターンにはまることが多いようにも思えます。

 

要するに批判精神・論理的思考が中途半端なところで終わってしまい、「教団(教祖)そのもの」の直前で

論理的思考のスイッチが切れて(切って)しまうわけです。

結局この人も、「正しいと信じている=まず最初に正しいありき」(カルト信者の思考法)からは一歩も出ていないわけです

(本当に論理的思考ができるなら「正しい」から「信じている」になるはずですがね)。

結局、とりあえず分かって頂きたいことは、カルト信者の心を縛っているのは「二つの恐怖心」であるということです。

 

すなわち、

1:カルト・マインドコントロール特有の恐怖心で、「やめると不幸になる」「裏切ると地獄墜ち」など、

  様々な会合や信者同士のうわさ話などで 刷り込まれた恐怖心。

2:精神医学で依存症患者などに見られる「自己崩壊・自己喪失の恐怖心」。 つまり自らの存在を確認する

  対象(依存対象)を失うことで、自分の存在そのものがなくなってしまうような強迫観念。

  心の空洞を埋めていた「詰め物(借り物)」がなくなる事への恐怖といってもよいでしょう。

 

両方とも当人にあまり自覚はなく、むしろ潜在意識下の恐怖心となっていることが多いから厄介です。

「1」は明らかに後天的に教団から刷り込まれたもの。

「2」は誰もがある程度持っている人間の心の病巣に直接作用するもので、教団の教えではなくそもそもその人の持っている心の問題に起因するもの(もっとも意図的に教団によって自我が破壊され、そういう心の病をもたらされたという場合は教団の責任といってもよいでしょうが)。

しかし「2」の傾向を多く有するものほど、「1」のような超自然やオカルト的情報の影響が大きいと言われていますから、そういう意味で両者は密接に絡み合っていると考えることもできるでしょう。

 

また、カルト信者のモチベーションとして

(恐怖心ほどの拘束力はないですが)「使命感」というのも大きな力を発揮します。

「俺は神(教祖・宗祖)に選ばれた人間だ」「世の中を変える使命を持って生まれてきたのだ

(それに気づかせてくれた教団に感謝)」といった使命感・義務感です。

これは特に自我の確立されていない人(自分に自信がないですから)にとっては大きな意味を持ちます。

「自分はこの世に存在してて良いんだ!」「このために俺は生まれてきたんだ!」という自覚は、

心を高揚させ、自己存在を確認させてくれるわけです。 だからこそ「教団なくして生きられない」のです。


ですから脱MCには「二つの恐怖感」を克服させるためにも、「使命感」に替わる新たな人生の価値を自覚するためにも、

カルトの価値観に替わる新たな価値観(人生観、社会観)を呈示し、生きる目標を見つける手伝いをしなければ、

最終的にその人をいたずらに混乱させるだけでしょう。

そういう意味で、精神医学的な「心の病」の治療とリハビリなくして本当の脱MCにはならないと思います。

さて自我の確立について、もう一つ考えなくてはならないのが、教団の「共同体意識」「同志」です。

一般に自我が不鮮明で、自分に自信のない者ほど、他者によって自分の存在(価値)を確認しようとします。

また元々そういう人は人間関係を築くのが苦手だったりします。

そういう意味で教団のもたらす人間関係は心地のよいものなのです。

 

同じ使命を持ち、同じ方向を見て 共に手を取り合って生きてゆく仲間(同志)であり、皆、自我が不鮮明なものですから

依存・共依存的な密接な付き合いでお互いがお互いの存在を確認し合っているというわけです

(境界線がない者同士なので、健全な自立した大人同士の付き合いではありません)。

しかし外部から見ると、その付き合いは実は極めて脆くはかないものに見えます。

なにしろ教団を辞めた途端に「敵・裏切り者」になってしまうのですから・・・つまり「条件付きの友人関係」というわけです。

しかしそういう自己の確立できない人ほど、そんな「分かりやすい関係

(教団にいる限り同志でいられる点、煩わしさがなく、簡潔明瞭)」を求めるもので、

また逆にそういう関係だと無意識に分かっているからこそ教団を辞めることができないわけです。


彼らの関係は、お互いの心を見つめあう関係ではなく、皆が教祖(トップ)を見ているという関係です。

しかも依存・共依存関係では、所詮他人は自己確認のための存在にすぎません。

だから同志の面倒を見るのもそれで感謝されたり誉められたり、「あの人のためになっている」「あの人は私がいなきゃ」

と思えることで自分自身の存在の大きさを確認しようとしているわけで・・・これも条件付きの親切ですね。

ですから相手の心の中まで平気で土足で上がって、親切(慈悲・・・涙)の押し売りをすることもよくあります。

元々他人との境界線がないですからね・・・。で、たまに相手も土足で踏み込んでくることをかえって喜んだりして

(相手も境界線がないので、むしろあちらはあちらで自分の存在確認となるわけ)。

学会で言えば、折伏の強要や深夜のアポなし家庭訪問など、明らかに社会マナー・ルールに反する行為でも、

教団によってそれを「正当化」してくれるので、よけいに「親切の押し売り」がまかり通ってしまうわけで、

まったく弱ったものです・・・それが「社会で通用する」と勘違いしてしまうだけにね。

 

そういう意味でも、「そういう人間関係が健全なものではない」ことを頭と身体(体験)で教えることが必要ですし、

根本の原因である「自我の確立」を図らなければ、自己の喪失感ばかりが募ることにもなりかねません。

ですから「無条件の友情・愛」を身をもって示し、自信を持たせることが大切です。

・・・ま、「無条件の愛」は外部にとっても「言うは易し」ですけどね。。。(汗)

 

いずれにせよここのあたりの対応も、精神医学や心理学の手法が参考になると思います。

  

 

 

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