
< 宗 教 の 正 体 >
「宗教」とは「信仰」をその根幹と成す物だが では「信仰」とは何でしょうか。
「信仰」とは
信じないと成り立たないものであって、要するに「根拠がない」ということ。
真実には根拠があり、矛盾もなく、信じる必要すらないほど明らかで確か。
それを「真理」という。
「信仰という迷信」、つまり迷いから解脱し真理に至ることが 本来の仏教が言う「悟り」です。
「ありのまま」を知り得るから、物事に正しく対処でき、そして苦の除去が可能となるという論理的な教えが 仏教です。
つまり 多くの宗教組織が言う「イエスは必ず復活する」とか「亡き教祖の子供が霊界から護ってくれる」
などは
その宗教だけのドグマであって、「真理」ではなくそれ独自の「信仰」ですから
まったく「真理」ではないのに、「我々は真理を知っています」という時点で 大きな勘違いなのです。
妄想は 論理と言うにはあまりにもお粗末なので 信者同士で「真理だ」と思っているのは自由ですが
世間でそれを語ると 「騙り」と成ります。
「真理」という言葉に威厳があるから つい使っちゃうのでしょう。
ですが「信仰」を否定する仏教にも「信仰」の要素はあります。
それは「善きことをすれば 善き結果が得られる」という部分で、いわずもがなそれは 現実的な見解ではありません。
しかし釈迦はそれを「信仰」として「推奨」しました。
しかし釈迦は その善き概念についても 執着すべきではない。捨て去れ。と述べました。
「カルト」とは「信仰」を基としたマインドコントロールを使う悪質な新興組織
を指すようですが「伝統宗教」にもそれは見られます。
「伝統」と聞くと人は安心する場合もありますが、大事なのは歴史の永さではなくその中身であって
「看板」は どうでもいいのです。
カルトは「正統な流れに沿わないと悟れないんだよ」「伝統だ」と言い張り その中身は詐欺の集積の場合が多いですから、
外面や謳い文句ではなく ちゃんとその構造中身を見ましょう。
「宗教セレクション」
生物の至上命題は言うまでもなく「生」だが。
人間は 頭でっかちの薄ら馬鹿になってしまったので どうも勘違いが多いようだ。
人生の意味??? 生物の至上命題は言うまでもなく「生」である。
「巨石」を投げつけてみれば答えはすぐ出る。彼らは死にたくないから 考ぇもせず「さっ」と避ける。。
生きて、やりたいことが 在るからだ。
生きる意味が分からないなら 彼らは巨石の下敷きになり死ねばよいだけ。
「宗教は生きる意味を教えてくれる」などと言う馬鹿も居るが
そんな基本を 自ら知り得ないような低脳は マインドコントロールされ妄想に沈んだまま一生を終えるのが似合いだろう。
人生の意味。それを阿呆に与えてあげるのが、コントロールの秘訣でもあるわけです。
科学が未発達の大昔に、弱肉強食の現実が辛いために、
愚かな人類はどうしようもなく 依存やご利益欲しさで 勝手に「「神」」なるものを造り出し、
さらに人民のコントロールのため 都合のよい装飾を施した。。
捧げ物をすれば台風が収まる、毎年生贄を捧げれば豊作になる、しかも生贄は15歳未満の処女、
祈れば雨が降る(雨乞い)、病気が治る、信じれば永遠に生きられる など。
しかも実際にたまたま治ったりするから 迂闊にもそれを信じる、それが阿呆な人類の阿呆な思考である。
生贄は、15歳未満の処女?? 人類の罪を消すため死んだ?? それは誰が 決めたのでしょうか。
「日本神道」
万物に神が宿る、という日本の「神道」は中々いい所を突いていて、
それを突詰めれば「相互慈愛」の「調和」が生産されるだろうし清々しいと感じるが、
それを「権威」に結びつけたら、一気に醜い宗教、「日本神道」の出来上がりだ。
太平洋戦争では 大いに侵略戦争(国家の営利事業)のためのマインドコントロールに貢献した。
「信じなければ永遠の死」
その宗教の言い分を信じなければ、永遠の死に至る、という恐ろしい宗教がある。
教祖の名前は 「キリスト」という。 「隣人を愛せ」と言うが、経典には堂々と、「異教徒は殺せ」と書いてある。
直ちに、子供たちのうち、男は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。
女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。 民数記 31章14〜18節
ひどい神様です。 悪魔と呼ぶのが正しいでしょう。
わざとその人間が罪を作るように罠を作って、みごとに罠に落ちると「ほら見ろひどい目に合うのは不信心のせいだ」
と、裁く。何様のつもりでしょうか。(あ、神様でした)
これだとやらないわけにはいきませんね。侵略。 侵略を正当化するために、誰かが書いたのかな。
イスラム教。
「ムハンマド」という人が「最終預言者」らしい。そのために現在でもイスラム社会は 進歩する世界の流れから取り残されているらしい。
彼はある時「山を動かそう」と言うので 人々は固唾を飲んで見守っていたらしい。
いろいろな呪文を唱えたが、一向に山は動かない。
マホメットは少しも騒がず「山が動いてきたら危ない。それが神の慈悲なのだ。我々が山の側に行けば同じだ」
といって山に向かって歩き出した。らしい。
私だけでしょうか。 だったら初めから呪文など唱えず 歩けばいいのに、と思うのは。
ヒンズー教。
「カースト制度」という支配システムを磐石にするため
上階級に逆らわずその身分制度を受け入れ死ぬほど働けば、来世には少しはマシな階級に生まれ変わることができる、という勝手な教え。
ここでも「輪廻」が 支配ツールとして有効に機能している。
差別批判に対しては
悪口を言うのはココロが汚染されているから。批判者は可哀相。
有効な制度だから良い、差別など何処にでもある、と開き直るおめでたさ。
批判者は可哀相??? 邪まな物を邪まだ、と評するのは真っ当な思考だと思われますが如何でしょうか。
そんな理不尽さに納得がいかず、「ガウタマ・シッダールタ」という者が異論を唱えた。
生まれながらの身分階級などまやかしさ。 「真ごころ」 が大事なんだよ。善きことをすれば善き処へ生まれ変わるのさ。
まやかし、妄想、に依存しても事態は変わらないよ。
苦を除去するには 物事を正面からありのままに見て、悪い原因を無くせばいい。
欲が在るから争い、苦しみ、調和が無いのだろ?
「信仰」とは「思い込み」だから、結局は誤解や歪みに繋がる「迷い」である。
そんなものから解き放たれ、自分こそを整え、
「そのままの真理」と対峙し相互に慈愛を持って生きていこう。 との理想郷へ向かう方法論を説いた。
階級好きなヒンズーにとっては人類の平等を説く「ガウタマ」は邪魔だったので、
魔族を混乱させ力を失わせるため、わざと偽の教えを説いている、と位置付けられてしまう。
やれやれ。
「ガウタマ」は 死後の世界、世界の始まりと終わり、魂は常住か、
などについては 不可知領域であるゆえ 当然述べることは出来ないし、
述べれば言わずもがな「独断」となるのだから問題とせず、「苦の除去」や「調和」こそが 今ここで問題とされるべきであるから
まずは「ありのまま」を観ずるために自我と対峙し整え
「苦」の原因は「欲」にあると認めることを説き、その「あたりまえ」を 一生をかけて無一文で衆生に説いてまわった。
ありのままの真理こそ問題とすべきであり、教祖や神への崇拝なども「迷妄」である。
自己を燈明とし、自己を拠り所として、他人を拠り所とせず、真理を燈明とし、真理を拠り所として、
他を拠り所とせず、生きていきなさい。
(ディッガ・ニカーヤ 16:2.25-2.26)
ご利益を求めず饅頭を供える程度なら微笑ましくいい感じだが その程度の収益で組織が満足するわけもない。
そして「ガウタマ」の死後数百年すると そのような理由から彼の教えは曲げられていき、「信仰」を基盤とした「宗教」へと変貌していく。
それが 現在世界の大宗教の1つとして数えられる「大乗仏教」である。
今ではなんと 釈迦が明らかに廃棄した、まじないや霊視、祈り、ご利益占いまでが「付加」されてしまっている。
大乗仏教は釈迦の教えを汚した。 それも 勢力拡大金儲けのためには必須の改変 だったと言えるだろう。
勝手解釈の仏典を容のみを借りて作成し
「一心にお経を本尊に唱えれば神秘力が発現し救われる」などの 依存観念型の「宗教」として造り替え、
本来の 簡素な「縁起の理屈」は何処へやら。
「宗教マーケティング」
「宗教」は毒にも薬にもなる便利なツールだ。
もちろん聖を謳わないと儲からないから綺麗にみえるが 邪かどうか、を見極めるには
「方法」があるのだが 信者は「信じたい」から「信仰」へと逃げ、「真理」を見極めようという気は さらさら無いらしい。
生物の至上命題は言うまでもなく「生」だが。
言い換えれば「快感」だろう。さらに「金」とも言える。 「生」は「金」で買える。
よって、稼ぐわけだが、さらに儲けたい場合は「詐欺に詐欺を重ねる」ことになる。それは、より効率的に「生」を得る手法だ。
要素としては、粉飾、虚言、などと分類されるが、ここには「善人」の入る余地はない。
利他的な者ほど つまりは「効率が悪い」から、 むしろ「自然淘汰」される運命にある。
宗教依存者も、「生」のため「妄想」によって「快感」を得、生きながら得ている。
彼らは 生きるために 自分を騙し、「妄想」を貪り続ける。
そしてその「経営者」も儲かる=生が充実する、というすばらしい相互依存システム、それが「宗教」である。
信者は自らのココロの母体となっている「教え」に どんな不整合があってもそれを認めることはできない。
認めたら「死」に近付くわけであるから、生物の至上命題に逆らうことになる。
「宗教」は表向き「善」を謳うが 「効率が悪い」善人は、より効率良くしようとして「依存」し、哀れにも「鴨」になる。
「宗教は何故」
宗教が提供する「快感」には 「感動」があるが この部分は「キリスト教」などが上手く造ってある。
「人の罪を背負って磔にされたジーザス」などは 涙無しでは語れない。
また、「超能力」も依存対象として素敵だ。 「超人」に素直について行けば 途方もないご利益がありそうだ。
崇拝、依存、従属 は、まったく大船に乗ったようで、まさに極楽、安心だ。
しかも自分で考えずに済むから「楽」である。もちろん「奴隷としての献身」は重労働ではあるが。
そしてもう一つ、
「宗教勧誘の快感」がある。
勧めて入信させれば、その相手の思考を手中にする、つまり「心を奪える」
わけであり、それは人の「支配欲」を満たす。
生物の至上命題は言うまでもなく「生」であり、それはそのまま「他から奪う」行為となる。
ヒトラーさんや正日さんは 支配欲や虐待というその本能に正直に従ったに過ぎない。
信者は「表向き善」なる教えにより 合法的に被勧誘者のココロを強奪、つまり「レイプ」することができる、
更には「利他心」をも同時に満たすことができるので まったく堪(たま)らない。
しかしもちろんそこには 詐欺システム特有の「歪み」が表出してしまうわけであり
その意味で カルトの撒く害毒は、感染していない者にとってはまさに 「呆れた毒善だなあ」ということになる。
「宗教という名の虐待」 については「魔女狩り」が有名だろう。それは当時の民衆の「娯楽」だった。
仏教系新興宗教にも 下位の者に不幸があると、
「そらみろちゃんと○○しないから因縁に襲われるんだ」などと言い掛かりをつける「楽しみ」がある。
ソフトクリームを食べたい、と言うだけで「甘いものに依存している」などと吊るし上げられたりする。笑
信者の脳内では、宗教的快感によるドーパミンが出るわけで「いい気持ち」だろうが、
真実に気付けない、いや「真実から目を背け」る中毒患者のそのおめでたさに 我々一般人が迷惑を蒙る義務も無いはず。
もちろんご存知のように、「宗教」は人をコントロールするのにもってこいだから、「政治」
にも有効だ。 というよりも そのためのツールだと言えるだろう。
「宗教」を使えば、イラクの罪もない人々の上にいくら爆弾を降らせても、零戦で特攻させてもOKだ。
ただし、弱肉強食だから、負ければ戦犯として罰を受ける。
ようは「勝てばいい」というのが この世の仕組みである。
騙し、長い物に巻かれ、胡麻を擂る者が「官軍」となれるわけであるから、
こんな世の中になってしまうのも当然。と言えるだろう。
「神」とは単に「自然法則=宇宙」だと観ずるが、その法則、とは弱肉強食。 現代で言えば、頭の弱い者が 喰われる。
「善なる神は我々を愛している」と言う宗教もあるが、ならば何故、このように善人が喰われるのでしょうか。
「愛されてると思いたい」のでは?
そしてローマ法皇が金持ちなのは何故でしょう。
「宗教依存は最高」
宗教経営者も醜いが 宗教依存者もまた醜い。
依存者は本来善人が多いと言われるが 組織に属すると、献金、勧誘、献身こそが尊い、と言われるので
「本来の善行」はさっぱり行わず 上からの御高説だけは上手な者となってしまう。
「ご利益」で釣って「脅し」で辞めさせない。 「尊い」と自画自賛するのは朝飯前。
上の者に従属し、その反動で下の者を矯正しようとする。それもカルトの病だ。
高慢で周りの意見を聞かないから 成長もしない。
さらに自己正当化のためには 議論を攪拌したり言い掛かりをつけたり という行為も辞さない。
正当化するためなら何でもありだ。
教祖が勝手に造ったドグマを述べるが 言い訳が効かなくなると 「きみたちは真理を知らない」
との捨て台詞を残し
ご都合主義の 造られた妄想の中へと去ってゆく。
その割に彼らの言う「真理」とは、その教団内でしか通用しない「妄想信仰」に過ぎない。
「教会」とは、「自分と教団とその妄想」が全てである人の集合であり、依存欲を満たしてくれる場所なので、
家族や恋人が泣いて頼んでも 「自分が可愛い」ので霊感商法に荷担し続けてしまう。
とにかく信じなさい/やらなきゃ分からない/論理的思考を取りなさい/素直に疑問を持たず受け入れなさい
という カルトの悪質なマインドコントロールによって、信者の脳は 実質「破壊」されてしまっています。
「教義はとにかく絶対」 「組織や教義に疑問を持つことは悪」「悪は地獄逝き」
というのがカルトの核心ですから、「批判は見ざる聴かざる−盲信に沈むことは正しい精進である」というわけです。
* * *
「聖書」は誰が書いたのか。 殺人命令があったり愛の台詞があったりとご都合主義の物語だ、
という感想も多いですが イエス自身はどう関係しているのか。
イエスは新約聖書 ヨハネによる福音書5:39において
旧約聖書でさえも イエス・キリストを証明するものだと高らかに宣言しています。
『あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べている。ところが聖書はわたしについて証をするものだ。』
また、
イエスは出エジプト記、申命記、詩篇、イザヤ書、ダニエル書、ホセア書、ヨナ書等の旧約聖書から多く引用しているそうです。
おそらく世の多くの宗教者がそうであるように、イエスもまた「伝統宗教の権威を利用」したのでしょうか。
仏教において昨今では 多くの偽経の中から釈迦の意思は選別され明確化されていますが
キリスト教の場合もまた「新約」そのものが てんであてにならない物でしょうか。あるいはそもそも、イエス自身が 単なる詐欺伝道師だったのでしょうか。
いずれにしろ「聖書」には賛同できませんが。。
「信仰とは何か」
を別な角度から診てみようか。
オウム真理教は違法な行為に及び処罰されたが その後に組織を離れた信者は多いようだ。
「信仰」とは「違法かどうか」ではないはずなのに 彼らがそれを理由に「信仰」を放棄したのは 宗教者として未熟
であると言える。
オウムの教義によれば、殺人はポアという清浄行であり「善行」であるから、
信仰者にとって何ら問題は無い。
同時に 布教という侵略殺戮行為を行ったキリスト教にも「信仰」という理由付けがあるかぎり
非難されるいわれは無いはず。
神の意志は 人間には計り知れないのだから。善人が無惨な死を遂げるのも 我々には理解し難い思し召しなのだろう。
松本智津夫さんが 獄中で「なぜなんだあぁ〜」と叫んでいるらしいが
ローマ法皇がノウノウとワインをガブ飲みしているのにこの扱いとは やはり納得行かないのは当然だろう。
宗教依存者は どれだけ筋道立てて宗教の醜悪さや歪みを見せられても 信仰を曲げない阿呆が多いが
それこそが宗教者の 在るべき姿であると言えるだろう。
さて今日 日本ではカルト宗教が花盛りだが
先日も街角で 「信じないと無間地獄に落ちるぞ!」と言われて苦笑してしまったが
その方々は法華経を奉じているらしく ああ。あれ釈迦とは何の関係も無いよ。と教えてあげたが聞く耳は持てなかったようだ。
そういう使われ方を避ける為に
釈迦は「一切」について「眼や耳で感じ取れるもの」として 死後やご利益に関与する妄想的「信仰」
を戒めたが
日本に届くまでに 時と商魂によって大きく「曲げられてしまった」仏教の成れの果てが今の日本を蝕んでいるようだ。
「伝統仏教」ももちろん随分と「変な」仏教だが まあカルトよりは大分マシだろう。
「総 括」
日本には多くのカルト宗教組織があるが 言うまでもなくその問題は 組織の邪悪性にある。
カルトの本来の定義は「熱狂的信奉集団」であるが 盲信するように仕向けて 心をコントロールし搾取することが目的なのだが
信仰は自由なので そこに何ら問題は無い。
目的は「信奉」であり「献金」は手段であると 表向き組織は言うわけだが
実際は逆で
「集金」が目的であり「信奉」はマインドコントロールの手段として在るので 比較検証調査していくと 「ボロがボロボロ」出てしまう。
しかし「信仰」とは信じることだから、「信者はけして調べず」どんなにボロが出ても
信じ続けることが立派なわけだが 組織内で信者同士で褒め合う様は かなり滑稽である。
歪んだ組織の信者たちは ご利益欲しさと美辞麗句に釣られ「信じたい」という「欲で」 入信するわけだが
歪んだ組織に荷担しているので 本人自らも必ず 『歪んだ存在』になってしまう。
第一の営業手段である「勧誘」の際は 当然その「歪み」を隠す手法で行われる。
『やらねばわからない』 と言うのは 創価学会でも常套手段で まず綺麗に魅せて信じ嵌め、
後ほど 言い訳理由付けして 献金や勧誘を納得させ 更に深く嵌めて行く。 (認知不協和理論の悪用)
もちろん「結婚」の際にも情報は隠され、伴侶はどうしようもなく信者になる、という悲惨なケースも多い。
「素直に」聞きなさい「我」を取りなさいと言い 組織思想を流し込む。
それでも不幸があると 「組織の言い成りにならなかったから・・」
そして「懺悔」 も自己否定させ従わせるための カルトおなじみのツールだ。
7 222 家族の愛、カルトの愛
家族の愛は、その人が自立し成人へと成長し、自分自身で人生の決定をする権利を指示する。
カルトの愛は、もし本人がリーダーの命令と違う自分自身の決断をするなら「その愛を引っこめてしまう」とおどし、
その人をいつまでもだれかに頼る未成年状態にしておく。
参考サイト: マインド・コントロール達成の三段階 http://www.glo.gr.jp/3step.htm
そんな歪みの副産物が社会に撒き散らかされるわけだが
その発生元は言うまでもなく 「教祖や組織」なのだが 多くの粉飾を 粉飾で塗り固めた「情報操作」
により 信者の脳内ではその絶対性は保持される。
加えて 儀礼の荘厳さや、詳細な儀礼の手順、厳しい戒律、救われたという奇跡の物語、などなどの宗教システム
が神や仏の存在に関する確信を強化し、さらにもっともらしいものとする。
よって表出した不祥事は 「勝手な一部の者の仕業」となり 「教義に傷は付かない仕組み」である。
もちろん一般人にはそんな「粉飾」は効かないから、まずは参拝させるよう言われる。
そのようにコントロールされている者たちは もちろん悪に荷担している意識は無い。
「教祖」は自ら造り出した集金システムを自分で「信仰だ」と信じれば その瞬間に自分を正当化できるので 問題は無い。
※リーダーの印象
多くの「被害者」の証言によると、カルトのリーダーに出会った時の印象は、
「それまでに出会ったこともないようなカリスマ的な存在で、霊的で、優しく、情け深く、理解のある人物だった」というものです。
※信仰という名の虐待 まず愛のシャワーを注ぎ恐怖と罪責感と威嚇で服従へ
http://www2.ocn.ne.jp/~mind123c/sub10-1.htm#「3」2002年2月3日
そんな有様を 殺人犯よりも醜悪だ、と感じるのは不自然だろうか。
信者は口を揃えて 信仰活動を 『楽しい』 と言うが・・
☆ 騙 ま し 討 ち の よ う な 勧 誘 行 為
は困りますので、
とりあえずは「正直に生きてほしい」ものです。 よろしくお願いします。
E N D