「 尊 い エ ホ バ 」


「エホバの証人」と呼ばれる(宗教法人名:ものみの塔聖書冊子協会)組織は

「輸血拒否」で有名ですが、その実態は果して如何なるものか。

我が子に輸血をさせないとすれば 時には死に至ることもあり それは殺人ではないのか。

あるいは 「世界を救う尊い組織」なのでしょうか。

参考書籍: 「エホバの証人 マインド・コントロールの実態」 (ウィリアム・ウッド著、三一書房)






1.親子づれの訪問により、相手の警戒心を解き、同情心をあおる。実際、カルトにはまるのは、誠実な人が多い。


しかしながら、人間はそうたやすく自らの行動を人にコントロールされるのでしょうか。
言うまでもない事かもしれませんが、
誰もが意識して、自らの行動を第3者に支配させ、コントロールされるために差し出す人などはほとんどいません。
ですから、おおむねの破壊的カルトと呼ばれる集団は、通常、最初から行動のコントロールに入っていくのではなく、
まず 「感情のコントロール」から入っていくようです。

たとえばエホバの証人の場合、彼らの礼儀正しさや面倒見の良さ、あるいは良く躾られた子どもを見て感心し、いい人たちだというよう好感を与えます。

エホバの証人の方も、それを意識しているのかいないのか、ともかく自分達のよき行いということを強調します。
(その一端が「目ざめよ」という雑誌にあらわれています。)
そして、エホバの証人の集会に参加でもしようものなら、みんなに笑顔で迎えられ、
握手さえ求められたりする。
そういった一連の行動を通して、エホバの証人の人々に対して 「好感」 という感情的な結びつきが生まれてくるというわけです。

このような破壊的カルトの歓迎行為を、カルトと研究家の間では 「ラブシャワー」
と呼んでいるようですが、ともかくこうして、まずは感情的結びつきを作り、
その感情にもとづいた人間関係の環を作り、それから徐々に思想(考え方)や行動のコントロールに入っていくのです。

※「あんなに親切な人たちだから・・・」などと思ってはいけません。それはカルトの手口・常套手段なのです。



2.善意、また操作された、正しいような理論によりニュウシンする。


・・・さて、ここまで読んで、なんとなく不愉快になってしまった人がいる。 
過去にかかわった団体がそうか、あるいは現に所属している団体がそうだからである。

わたしは、そんな人が現在考えていることを言い当てることができる。
『でも、○○は違う。○○は正しい。』
その通り。 ○○は違う。○○は正しい。 ○○は実に正しいことを主張している。
たいていの場合、カルトの主張の大半はかなり正しい。
問題なのは、その主張なのではなく、不正にマインドコントロールを使い、不正な手段を正当化することにある。

(正しい理論を盾にして人を奴隷にし、金を集める)



3.その理論とは、例えば聖書に、血を食することを禁じている箇所があるから輸血を禁止するというもので、


とにかく何処から血を入れるか(口、または直接血管に)ではなく、とにかく入れるのはダメだという事らしい。
その割りにワクチン投与や臓器移植は何故か?OKなのです。 〈かつてはダメ。時代により変わる。それは何故か?〉

「輸血拒否による惨事」
1985年の6月、川崎市でエホバの証人の父親が輸血を拒否し、小学校6年であった自分の子供を死なせてしまったという事件はよく知られています。
しかし、今現在も、毎年、日本全国の病院で輸血を拒否して、
医師らを困らせたり、命の危険を冒したりするエホバの証人は5〜6000人もいると言われています。
彼らは、「輸血は聖書の教えに反する」と言っていますが、
2000年以上も前に書かれた聖書が、近代医学の処置に言及しているはずがありません。
聖書に書いてあるのは、「血を食べてはならない」(レビ記17章14節)ということです。
「ものみの塔」の教理は聖書の拡大解釈であり、曲解なのです。
そしてそれによって毎年、世界各地で、何千もの人々の尊い命が奪われているのです。
過去において、「ものみの塔」は、「神の律法に反する」ということで、ワクチン療法や臓器移植を禁止したことがあります。
そのために、数多くの犠牲者が出ましたが、後になって、ワクチン療法も臓器移植も受けてもよいと、「ものみの塔」はその方針を180度転換しています。

しかし、誤った教えを信じた人々に対しては、何の代償も謝罪もしておりません。
(彼らは今何を思うか)また、彼らは、臓器移植を受け入れることと、輸血を拒否することとの矛盾
に気付いていないようです。
人間の臓器は、血液のかたまりであって、臓器移植を受ける人は、他人の血液を体内に受け入れている訳です。



レビ記17章14節
http://www.is.seisen-u.ac.jp/~zkohta/bible/old_t/1/lev.html#lev17


17:10イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、
わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。
17:11生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。
血はその中の命によって贖いをするのである。
17:12それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。
17:13イスラエルの人々であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、食用となる動物や鳥を捕獲したなら、血は注ぎ出して土で覆う。
17:14すべての生き物の命はその血であり、それは生きた体の内にあるからである。
わたしはイスラエルの人々に言う。いかなる生き物の血も、決して食べてはならない。
すべての生き物の命は、その血だからである。それを食べる者は断たれる。
17:15死んだ動物や、野獣にかみ殺された動物を食べる者は、土地に生まれた者であれ、寄留者であれ、
その衣服を水洗いし、身を洗う。彼は、夕方まで汚れるが、その後は清くなる。
17:16もし、その衣服を水洗いもせず、身を洗いもしないならば、その者は罪責を負う。



4.組織の便利な奴隷とする為、もうすぐハルマゲドンが来るから結婚や進学しても意味が無いと脅し、
ひたすら伝導と呼ばれる勧誘に専念させられる。



この記事が書かれた当時、「ものみの塔」は、1975年の秋にハルマゲドンが来るという予言を掲げて、伝道の緊急性を訴えていました。
そこで、「この体制の差し伸べるいかなる立身出世の道をも決して全うすることができない」と信じて、
多くの若者は婚約を破棄したり、大学に行く夢を捨てたり、就職を蹴ったりしました。

予言が不発に終わって、既に20年になろうとしている今、彼らはどんな思いで人生を歩んでいるのでしょうか。

彼らに対して、「ものみの塔」は一切、謝罪も代償もしていません。
むしろ、組織のために人生を棒に振った若者が「得をし、益を得た」(???)と、鉄面皮で主張しているのです(「ものみの塔」誌、1976年10月15日号、633頁)。



5.エホバの証人として課せられる戒律や義務を、実際に守り行わせることによって、
その根拠となっているエホバの証人の教理や聖書解釈を正しいと思わせ、それを守り行うことで、自分はエホバの証人であるというアイデンティティが確立され、
そしてそれを守りながら生きていくことに、喜びや満足を感じるようになる。(行動コントロール)



初めはいやでも「認知不協和の理論」により、人は、感情を行動に合わせてしまう。
そうしないと行動できないからである。
たいてい人は意思があり行動がある。それを逆に行わせることで、意思を変える。
要は、誰でも、自分のやっていることは「正しい」と思いたい、思うようになってしまうということ。

例えば私の知り合いが、好きでもない友人の子供を身ごもってしまうが、組織の方針で堕胎を許されなかった、という事実があります。 彼女は恐らく一生組織の奴隷となるでしょう。

何故ならその行動の間違いを認めても、悲しい事実は変わらないし(だからより何かにすがろうとする)、
自分が騙されたと気付こうとしなければ、例えその事実が悲しいものでありつづけたとしても、
(代わりに)神の恩恵を受けられるから、脱会しようとしないからです。

それに対し、彼女が現実逃避をせず、真実を見つめる勇気を持つ事が出来るなら、その罠から抜け出る事ができますが、
騙された事を認める事からくる、死ぬほどの自己嫌悪という名の恐怖を乗り越え、莫大な労力を使わなくてはなりません。

結局は自分の心との勝負です。 しかしそれに勝つのは容易ではありません。

というのも組織は “逃げ道を造ってくれる” からです。
それは、こうすれば助かる、こうすれば幸せになれる、といったような、つまりは組織にとどまり活動することです。
そのまま信じていた方が「楽」なのです。

また、真実を知るには、情報を得る時間が必要ですが、破壊的カルトではそんな暇は与えられないので(勉強会など)、
情報を得ることはできません し、何より騙されつづけている方が、悲しくないし、手軽なのです。

☆命を掛けてやってきたことを、無駄だった、騙されていた、とは誰も思いたくないものです。

※他教団における行動コントロールには次のようなものがあります。
薬品を採らない。 鳥居をくぐらない。 純潔を守る。 など。



6.悪魔サタンが、友達や家族などを通じて、エホバの証人を辞めさせようとするかもしれないと警告される。


実際そうなると、やはり教えは真実だった・・・と思いこみ、家族や友人をサタンの手先とみなすようになる。



7.現代社会で希薄な、人のぬくもり、友情、 全体主義的一体感〈侵略戦争中の日本軍のような〉が、彼らを包む。


“楽しくないカルト”は存在しません。
破壊的カルトの生活は厳しいながらも、メンバーが助け合うなかで「暖かさ」「思いやり」「純粋な人」
といった対人魅力や、「われら」という仲間意識をもった集団の雰囲気が形成される。
こうした集団のまとまりの良さを示す概念を集団凝集性というが、それを高めるものは、自己愛(ナルシズム)に満ちた優越感や誇りである。



「仲のよいモルモン教会」


他のカルト脱会者の話を聞くと、やはりそうした暖かい教会の雰囲気に魅かれて入会したという話を聞きます。
ある統一協会の脱会者は、入門コースとして教会のビデオセンターに連れていかれたとき、
誘った信者がいつも入り口のところで自分のことを待っていてくれたのにとても感激して、とても世間で言われているようなカルトというイメージではなかったといいます。

これは、カルト特有の閉鎖的で密な人間関係がもたらしているもので、
外をサタンの世界、内を神の世界に二分する排他的思想が影響しているもので、
とてもキリストの説く普遍的愛に基づくものとはいえないでしょう。

モルモンが楽しいからカルトではないという主張をよく耳にしますが、それは正確ではありません。
むしろ社会心理学者たちは、現代社会にカルトが蔓延するのは、人間関係が希薄になっている社会の病理だと指摘しています。
人は人との強いつながりを求めて、むしろカルトに引き込まれるのです。

※ここではっきりと申し上げておきますが、カルトの個々のメンバーはとても親切です。
カルトは居心地がよいところなのです。しかし、それは上辺だけのものに過ぎません。
人間関係の心地よさからずぶずぶと深みにはまっていき、気が付くと、地下鉄でサリンを撒いていたりするのがカルトなのです。

「カルトが恐い」というのは、オウム真理教のように外の社会に対してテロ行為を働くといったことだけではなく、
実はメンバーをカルトの組織に縛り付けるといったところに現れるのです。
「エホバの証人」や「モルモン教会」は、「私たちは、テロなどしませんからカルトではありません」
などと釈明していますが、簡単に入れる一方で、辞めようとすると「地獄に落ちる」などと脅すわけで、
やはり立派なカルトといえるでしょう。
そんなことを繰り返しているから、当然、被害者団体も結成されるわけです。
カルトというところは、「行きはよいよい、帰りは恐い」という「とおりゃんせ」の世界を実践しているのです。

※モルモン教会と接触しているのであれば、例えば、エホバの証人の被害者団体のサイトを覗いてみましょう。
そして、そこに書かれていることを読んで下さい。
エホバの証人特有の用語があったりして少々読みにくいかも知れませんが、じっくりと読みましょう。
すると、「輸血拒否」の矛盾などエホバの証人の問題点について書かれているにもかかわらず、
何かモルモン教会にも当てはまるような話があちこちに出ているはずです。
ある意味、それは当然なのです。カルトという点においては、モルモン教会もエホバの証人も何ら変わるところがないのですから。

あからさまに、“組織を抜けると罰が下る、それも家族に”などと “ストッパー” が掛けられます。
それを振り切りやめたとしても、不幸が起こると、“やっぱり” と思い、舞い戻ったりしてしまいます。

(身内が死なない人はいません。 統計をとれば分かることなのです)



<輸血に関して>


もとより、輸血という医療行為にリスクが伴わないわけではありません。
また輸血を回避して代替的治療を施すことができる場合があることもまた事実です。
しかし、実際の医療現場では、まだまだ輸血を必要とする医療がありますし、代替治療の出来ないものもあるのもまた事実です。
ですから、輸血という医療にリスクが伴うことを承知で医者は輸血を行うのです。
もちろん輸血という医療行為を行う場合は必要最低限に押えることが必要ですし、ほとんどの医師は、そのような認識をもって輸血に臨みます。

エホバの証人の組織の発行する文書には、ほとんどが輸血の危険性と、代替治療の可能性のみが強調されており、
一見すると全ての領域の治療で輸血をしなくてもすむような錯覚を与えます。しかし、以前輸血しなければ命が危険にさらされる事は確実にあるのです。


実際に犠牲者が出ている。 つまり全ての領域の治療で輸血をしなくてもすむような錯覚は
まさに錯覚なのです。
輸血しなくても助かるのなら 何も問題にする必要さえない。

もし “血を塩水で代用できるんですよ” と言う事が真実なら輸血禁止する必要はない。
わざわざ輸血を禁止せずとも医者は輸血をしないでしょう。 塩水でOKなんだから。
塩水でOKならば犠牲者は出ない。 つまり必ずしも血は塩水で代用できない。
その場合について問題にしているのに “塩水で血を代用できる程度の場合” を持ってきて議論する。

“人は輸血しなければ死ぬ場合がある” ことを彼らは知っている。“血は塩水では代用できない”場合があることを彼らは知っている。
知っていて “血を塩水で代用できるんですよ” と伝導してまわる。

本人たちも “良い事を教えてあげている” 気になるが、イゼン本質的解決とは平行線である。


こういった医療に関する情報は、エホバの証人の組織の発行する文書の中で、
輸血が必要な治療があること、また輸血というリスクを承知の上で、どれだけそのリスクを回避できるような努力を医療側がしているか等について
書かれてある文書を、私は見たことがありません。

ちなみに、日本赤十字の某地域の血液センターの所長さんに、私が直接インタビューした時に、
その所長さんは「輸血に伴うリスクで、死亡したりトラブルに合う危険性があるから輸血を行わないというのであれば、
それは道を歩くと事故に遭うかもしれないから道を歩くなというのと同じ事だ」とおっしゃっていたのが印象的でした。

少なくとも、エホバの証人の発行する文書には、輸血は必要のない医療行為であり、
むしろ悪い医療行為であるという思考に、人々を向けていこうとする恣意性が感じられます。
その分、現状における輸血の必要性を知らせるような情報はまったくといっていいほど、知らされていません。
少なくとも、輸血に関する医学的情報は、一つの恣意性を持ってコントロールされた情報であると考えることが出来そうです。


また、輸血拒否に関して、エホバの証人の方は、
エホバの証人の組織が一貫して輸血拒否をしてきたかのような錯覚をもっている方がおられるようですが、
必ずしもそうではありませんでした。
実際、エホバの証人の組織で輸血という医療行為が問題視され、禁止されるようになったのは、1940年代半ばであるとか1950年代初頭であるといわれますが、

少なくとも1940年代前半までのエホバの証人の文献には、
今日命がけで守らなければならないタブーであり、エホバの証人の代名詞的な存在である輸血禁止は、まったくといっていいほど言及されていません。

むしろこの時代にエホバの証人にとって重要な問題だったのは、輸血拒否ではなく、
種痘の接種拒否の問題でした。
もちろん、当時禁止された種痘の接種は、今日はエホバの証人の方の間で問題ある行為ではなくなってます。
かわりに、当時は問題にされていなかった輸血拒否が、極めて重要な問題とされているのです。


これは一例に過ぎませんが、エホバの証人の輸血拒否という人の命に関わる教理について、
その歴史をエホバの証人文献は必ずしも正しくは伝えていません。
ましてや、エホバの証人の開祖とも言える、ラッセル牧師(エホバの証人の方は、牧師と言う称号は好ましからざるものとして使いませんが、
ラッセル氏に対しては牧師という称号を贈っています。)が、
血の教えに関して、彼らが邪悪な宗教であると非難するキリスト教会の理解と全く同じ理解をしていたなどとは、
知らされていないのです。

もちろん、積極的に教えないことや、あえて教えないということが積極的な情報のコントロールになる
というわけではありません。
しかし、過去の歴史と現在が大きく様変わりしている時に、あえてその過去の歴史の誤りにふれず、現在の正しさを強調し、
かつ、過去と現在画一貫性を持っているような理解に誤導しているとするならば、それは消極的な情報のコントロールであり、

またその消極性こそ、マインド・コントロールがひそやかな干渉として人をコントロールしていく恐ろしさの一面でもあるのです。



E N D



刈人宗教解析倶楽部