明治憲法実録

史料集

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目次

明治憲法前史

明治憲法発布

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明治憲法前史

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五箇条の御誓文(慶応4年3月14日)

解説 五箇条御誓文は、明治維新の初めに明治天皇が群臣を率いて天地神明に誓った国是である。その冒頭の「広く会議を起し万機公論に決すべし」は、立憲政体の樹立が明治維新の第一のスローガンであることを示している。これが日本の立憲政治の原点であるという認識は、政府側も民権派も共有していた。
 後に 昭和天皇曰く「民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入物ではない…」(1977年8月23日)。

御 誓 文

一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ

一 上下心ヲ一ニシ盛ニ經綸ヲ行フヘシ

一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

一 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

我國未曾有ノ變革ヲ爲サントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ニ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ

年號月日 御 諱

勅意宏遠誠ニ以テ感銘ニ不堪今日ノ急務永世ノ基礎此他ニ出ヘカラス等謹テ 叡旨ヲ奉戴シ死ヲ誓ヒ黽勉從事冀クハ以テ 宸襟ヲ安シ奉ラン

慶応四年戊辰三月

總裁  名印
公卿
諸侯
 各名印

出典:『法令全書』明治元年第百五十七(閲覧近代デジタルライブラリー

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民撰議院設立建白書(明治7年1月17日)

解説  民選議会の必要性は政府当局者も認識しており、廃藩置県の翌年から民選議会の検討を始めたが、明治六年の政変で中断してしまった。この政変で下野した板垣退助など前参議らは連署して「民撰議院設立建白書」を政府に提出。その趣旨は、官僚専制の弊害から国家を救うためには民選議会を設立して天下の公議を拡張する必要がある、という点にあった。この建白書を契機に自由民権運動が盛り上がることになる。

 某等別紙建言(けんげんたてまつり)候次第、平生の持論にして、某等在官中屡建言(けんげんにおよび)候者も(これあり)候處、歐米同盟各國へ大使御派出の上、實地の景況をも御目撃に相成、其上事宜斟酌施設相成(あいなるべし)との御評議も(これあり)。然るに最早大使御歸朝以來既に數月を閲し候得共、何等の御施設も拜承(つかまつらず)、昨今民心洶々上下相疑、動すれば土崩瓦解の兆 (これなし)とも(まうしがたき)勢に立至候義、畢竟天下輿論公議の壅塞する故と實以殘念の至に(ぞんじたてまつり)候。此段宜敷御評議を(とげらるべく)候也。

明治七年一月十七日

高知縣貫屬士族 古 澤 迂 郎
高知縣貫屬士族 岡 本 健 三 郎
名東縣貫屬士族 小 室 信 夫
敦賀縣貫屬士族 由 利 公 正
佐賀縣貫屬士族 江 藤 新 平
高知縣貫屬士族 板 垣 退 助
東京府貫屬士族 後 藤 象 二 郎
佐賀縣貫屬士族 副 島 種 臣

   左  院 御中

民 撰 議 院 設 立 建 白 書

 臣等伏して方今政權の歸する所を察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、而獨有司に歸す、夫有司上帝室を尊ぶと曰はざるには非ず而帝室漸く其尊榮を失ふ、下人民を保つと云はざるにはあらず、而政令百端、朝出暮改、政刑情實に成り、賞罰愛憎に出づ、言路壅蔽、困苦告るなし。夫如是にして天下の治安ならん事を欲す、三尺の童子も猶其不可なるを知る。困仍改めず、恐くは國家土崩の勢を致さん。臣等愛國の情自ら止む能はず、即ち之を振救するの道を講求するに、唯天下の公議を張るに在る而已。天下の公議を張るは、民撰議院を立るに在る而己。則有司の權限る所あつて、而して上下其安全幸福を受る者あらん。請遂に之を陳ぜん。

 夫れ人民、政府に對して租税を拂ふの義務ある者は、乃其政府の事を與知可否するの權理を有す。是天下の通論にして、復喋々臣等の之を贅言するを待ざる者なり。故に臣等竊に願ふ、有司亦是大理に抗抵せざらん事を。今民撰議院を立るの議を拒む者曰、我民不學無智、未だ開明の域に進まず、故に今日民撰議院を立る尚応さに早かる可しと。臣等以爲らく、若果して眞に其謂ふ所の如き乎、則之をして學且智、而して急に開明の域に進ましむるの道、即民撰議院を立るに在り。何となれば則、今日我人民をして學且智に、開明の域に進ましめんとす、先其通義權理を保護せしめ、之をして自尊自重、天下と憂樂を共にするの氣象を起さしめんとするは、之をして天下の事に與らしむるに在り。如是して人民其固陋に安じ、不學無智自から甘んずる者未だ之有らざるなり。而して今其自ら學且智にして自其開明の域に入るを待つ、是殆んど百年河清を待つの類なり。甚しきは則今遽かに議院を立るは、是れ天下の愚を集むるに過ざる耳と謂ふに至る。噫何自傲るの太甚しく、而して其人民を視るの蔑如たるや。有司中智功固り人に過ぐる者あらん、然れ共安んぞ學問有識の人、世復諸人に過ぐる者あらざるを知らんや。蓋し天下の人如是く蔑視す可らざる也。若し將た蔑視す可き者とせば有司亦其中の一人ならずや。然らば則均しく是れ不學無識なり、僅々有司の專裁と、人民の輿論公議を張ると、其賢愚不肖果して如何ぞや。臣等謂ふ、有司の智亦、之を維新以前に視る、必ず其進し者ならん、何となれば則、人間に智識なる者は、必ず之を用るに從て進む者なればなり。故に曰、民撰議院を立つ、是即人民をして學且智に、而して急に開明の域に進ましむるの道なりと。
〔中略〕

 臣等既に已に今日我國民撰議院を立てずんばある可からざるの所以、及今日我國人民の進歩の度 能く斯議院を立るに堪ることを辯論する者は、即有司の之を拒む者をして口に藉する所なからしめんとするには非らず。斯議院を立、天下の公論を伸張し、人民の通義權理を立て、天下の元氣を鼓舞し、以て上下親近し、君臣相愛し、我帝國を維持振起し、幸福安全を保護せんことを欲して也。請ふ、幸ひに之を擇び玉んことを。

出典:『自由党史』上巻p86-92(閲覧近代デジタルライブラリー
政府に提出された建白書原本は国立公文書館〔民撰議院設立建白書〕

(注)出典に返り点なし、振り仮名なし

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立憲政体の詔書(明治8年4月14日)

解説  明治8年、明治政府は「立憲政体の詔書」を発し、五箇条の御誓文の意義を拡張し漸次に立憲政体を立てる方針を明らかにした。官選の元老院を設立して上院に擬し、地方官会議を召集して下院に擬した。このとき独立の最高裁判所として設置された大審院は明治憲法下でも存続する。

別紙詔書之通被 仰出候條此旨布告候事

(別紙)

詔書冩

朕即位ノ初首トシテ群臣ヲ會シ五事ヲ以テ神明ニ誓ヒ國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ求ム幸ニ祖宗ノ靈ト群臣ノ力トニ頼リ以テ今日ノ小康ヲ得タリ顧ニ中興日淺ク内治ノ事當ニ振作更張スヘキ者少シトセス朕今誓文ノ意ヲ擴充シ茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ廣メ大審院ヲ置キ以テ審判ノ權ヲ鞏クシ又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ圖リ漸次ニ國家立憲ノ政體ヲ立テ汝衆庶ト倶ニ其慶ニ頼ント欲ス汝衆庶或ハ舊ニ泥ミ故ニ慣ルルコト莫ク又或ハ進ムニ輕ク爲スニ急ナルコト莫ク其レ能朕カ旨ヲ體シテ翼賛スル所アレ

明治八年四月十四日

出典:『法令全書』明治八年太政官布告第五十八号(閲覧近代デジタルライブラリー

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元老院議長に国憲起創を命じる勅語(明治9年9月6日)

解説  立憲政体の詔書により設立された元老院に対して、憲法起草の勅命が下された。この勅命では、日本の「建国の体」を基本にして「海外各国の成法」を参考にして起草すべきことが求められていた。  元老院は明治13年までの間に3回にわたって憲法案を作成したが、これらは欧州憲法の引き写しにすぎないものと批判され、結局採用されるに至らなかった。

朕爰ニ我建國ノ體ニ基キ廣ク海外各國ノ成法ヲ斟酌シテ以テ國憲ヲ定メントス汝等之カ草案ヲ起創シ以テ聞セヨ
朕將ニ之ヲ撰ハントス

出典:金子堅太郎「帝国憲法制定の由来」p5(国家学会『明治憲政経済史論』所収)


岩倉具視の憲法大綱領(明治14年7月6日)

解説  自由民権運動は大きな盛り上がりをみせ、国会開設の請願が相次ぎ、また多くの私擬憲法案が起草された。こうした動きを背景に、政府も急ぎ国会開設に向けて方針を固める必要に迫られた。明治14年、筆頭参議の大隈重信は国会を早期に開設し政党内閣制度を導入すべきという急進論の建議した。このような急進論は、漸進主義者の右大臣岩倉具視の受け入れられるものではなかった。岩倉は、政府の知恵袋である井上毅に憲法の大綱領を起草させた。これによって後の明治憲法の骨格が固まった。

憲法起草仰出(オオセダサルベキ)候ニ附、先ヅ大綱領數件聖斷(アラセラレ)、其ノ他ノ條目ハ此主旨ニ據リ起草(イタスベキ)旨、御沙汰(アラセラレ)(シカルベシ)ト存候事。

大 綱 領

一 欽定憲法之體裁(モチイラルベキ)

一 帝位繼承法ハ祖宗以來ノ遺範アリ別ニ皇室ノ憲則ニ載セラレ帝國ノ憲法ニ記載ハ要セサル事

一 天皇ハ陸海軍ヲ統率スルノ權ヲ有スル事

一 天皇ハ宣戰媾和及外國締約ノ權ヲ有スル事

一 天皇ハ貨幣ヲ鑄造スルノ權ヲ有スル事

一 天皇ハ大臣以下文武重官任免ノ權ヲ有スル事

一 天皇ハ位階勳章及貴號等授與ノ權ヲ有スル事

一 天皇ハ恩赦ノ權ヲ有スル事

一 天皇ハ議院開閉及解散ノ權ヲ有スル事

一 大臣ハ天皇ニ對シ重キ責任アル事

一 法律命令ニ大臣署名ノ事

一 立法ノ權ヲ分ツ爲ニ元老院民選院ヲ設クル事

一 元老院ハ特撰議員ト華士族中ノ公撰議員トヲ以テ組織スル事

一 民撰議院ノ議員選舉法ハ財産ノ制限ヲ用ウル事

一 歳計ノ豫算政府ト議院ト共同ヲ得サルトハ總テ前年度ノ豫算ニ依リ施行スル事

一 臣民一般ノ權利義務ヲ定ムル事

一 議院ノ權限ニ關スル事

一 裁判所ノ權限ニ關スル事

出典:(『岩倉公実記』下巻p1765-1766(閲覧近代デジタルライブラリー

(注)出典は振り仮名なし

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国会開設の勅諭(明治14年10月12日)

解説  岩倉具視と薩長諸参議は謀って、自由民権派と通じた大隈重信一派を政府から追放するとともに、国会開設の勅諭を布告した。これが明治十四年の政変である。
 国会開設の勅諭では、明治23年を期限に国会を開設すること、その前に憲法を天皇が自ら欽定することを示した。その一方で急進的な自由民権運動を弾圧する方針を明示した。弾圧は憲法発布の時まで続く。

勅 諭

朕祖宗二千五百有餘年ノ鴻緒ヲ嗣キ、中古紐ヲ解クノ乾綱ヲ振張シ、大政ノ統一ヲ總覽シ、又夙ニ立憲ノ政體ヲ建テ、後世子孫繼クヘキノ業ヲ爲サンコトヲ期ス、嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム、此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ歩ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ、爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン

顧ミルニ、立國ノ體、國各宜キヲ殊ニス、非常ノ事業、實ニ輕舉ニ便ナラス、我祖我宗、照臨シテ上ニ在リ、遺烈ヲ揚ケ、洪模ヲ弘メ、古今ヲ變通シ、斷シテ之ヲ行フ、責朕カ躬ニ在リ、將ニ明治二十三年ヲ期シ、議員ヲ召シ、國會ヲ開キ、以テ朕カ初志ヲ成サントス、今在廷臣僚ニ命シ、假スニ時日ヲ以テシ、經畫ノ責ニ當ラシム、其組織權限ニ至テハ、朕親ラ衷ヲ裁シ、時ニ及テ公布スル所アラントス

朕惟フニ、人心進ムニ偏シテ、時會速ナルヲ競フ、浮言相動カシ、竟ニ大計ヲ遺ル、是レ宜シク今ニ及テ、謨訓ヲ明徴シ、以テ朝野臣民ニ公示スヘシ、若シ仍ホ故更ニ躁急ヲ爭ヒ、事變ヲ煽シ、國安ヲ害スル者アラハ、處スルニ國典ヲ以テスヘシ、特ニ茲ニ言明シ爾有衆ニ諭ス

 奉


太政大臣三條實美

明治十四年十月十二日

出典:『法令全書』明治十四年詔勅(閲覧近代デジタルライブラリー

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伊藤博文を欧州憲法調査の特派理事に任じる勅書(明治15年3月3日)

解説  明治十四年の政変で大隈に代わって筆頭参議となった伊藤博文は、翌年憲法調査の勅命を受けて欧州に渡った。ドイツではグナイストやその弟子モッセ、オーストリアではシュタインといった学者の講義を受け、また欧州諸国の憲政の実際を調査して1年後に帰国した。その帰国直前に岩倉が病死したため、憲法制定の準備は伊藤が主導することになる。

參 議 伊 藤 博 文

朕明治十四年十月十二日ノ詔旨ヲ履ミ立憲ノ政體ヲ大成スルノ規模ハ固ヨリ一定スル所アリト雖モ其經營措畫ニ至テハ各國ノ政治ヲ斟酌シテ以テ采擇ニ備ルノ要用ナルカ爲ニ今爾ヲシテ歐洲立憲ノ各國ニ至リ其政府又ハ碩學ノ士ト相接シ其組織及ヒ實際ノ情形ニ至ルマテ觀察シテ餘蘊無カラシメントス茲ニ爾ヲ以テ特派理事ノ任ニ當ラシメ爾カ萬里ノ行ヲ勞トセスシテ此重任ヲ負擔シ歸朝スルヲ期ス

明治十五年三月三日

奉 勅

太政大臣從一位勳一等 三 條 實 美

出典:金子堅太郎「帝国憲法制定の由来」p15-16(国家学会『明治憲政経済史論』所収)

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枢密院で伊藤議長が憲法原案起草の大意を説明(明治21年6月18日)

解説  伊藤博文は、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎とともに憲法草案の起草に当たり、明治21年、憲法原案を天皇に上奏した。 憲法案審議のため天皇の諮問機関として枢密院が新設され、伊藤が議長に就任。憲法案は枢密院において天皇臨席のもと審議されることになった。
 憲法審議の初め、伊藤は演説して、人心を帰一する機軸を皇室に求め、君権を尊重することを憲法原案の大意として説明した。

各位、今日ヨリ憲法ノ第一讀會ヲ開クヘシ。就テハ注意ノ爲メ開會ニ先チ、此原案ヲ起草シタル大意ヲ陳述セントス。但シ此原案ノ逐條ニ渉テハ今日素ヨリ一々之ヲ辯明スヘキニアラス。
憲法政治ハ東洋諸國ニ於テ曾テ歴史ニ微證スヘキモノナキ所ニシテ、之ヲ我日本ニ施行スルハ事全ク新創タルヲ免レス。故ニ實施ノ後、其結果國家ノ爲ニ有益ナルカ、或イハ反對ニ出ツルカ、豫メ期スヘカラス。 然リト雖、二十年前既ニ封建政治ヲ廢シ各國ト交通ヲ開キタル以上ハ、其結果トシテ國家ノ進歩ヲ謀ルニ此レヲ捨テテ他ニ經理ノ良途ナキヲ奈何セン。夫レ他ニ經理ノ良途ナシ、而シテ未ダ效果ヲ將來ニ期スヘカラス。 然レハ則チ宜ク其始ニ於テ尤モ戒愼ヲ加ハヘ、以テ克ク其終アルヲ希望セサルヘカラサルナリ。已ニ各位ノ曉知セラルル如ク、歐洲ニ於テハ當世紀ニ及ンデ憲法政治ヲ行ハサルモノアラスト雖、是レ即チ歴史上ノ沿革ニ成立スルモノニシテ、其萌芽遠ク往昔ニ發セサルハナシ。反之我國ニ在テハ事全ク新面目ニ屬ス。 故ニ今憲法ヲ制定セラルルニ方テハ、先ス我國ノ機軸ヲ求メ我國ノ機軸ハ何ナリヤト云フ事ヲ確定セサルヘカラス。機軸ナクシテ政治ヲ人民ノ妄議ニ任ス時ハ、政其統紀ヲ失ヒ、國家亦隨テ廢亡ス。苟モ國家ガ國家トシテ生存シ、人民統治セントセハ、宜ク深ク慮ツテ以テ統治ノ效用ヲ失ハサラン事ヲ期スヘキナリ。 抑歐洲ニ於テハ憲法政治ノ萌芽セル事千餘年、獨リ人民ノ此制度ニ習熟セルノミナラス、又タ宗教ナル者アリテ之ガ機軸ヲ爲シ、深ク人心ニ滲潤シテ人心之ニ歸一セリ。然ルニ我國ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ、一モ國家ノ機軸タルヘキモノナシ。 佛教ハ一タビ隆盛ノ勢ヒヲ張リ上下ノ人心ヲ繋ギタルモ、今日ニ至テハ已ニ衰替ニ傾キタリ。神道ハ祖宗ノ遺訓ニ基キ之ヲ祖述ストハ雖、宗教トシテ人心ヲ歸向セシムルノ力ニ乏シ。我國ニ在テ機軸トスヘキハ獨リ皇室ニアルノミ。 是ヲ以テ此憲法草案ニ於テハ專ラ意ヲ此點ニ用ヰ、君權ヲ尊重シテ成ル可ク之ヲ束縛セサランコトヲ勉メタリ。或ハ君權甚ダ強大ナルトキハ濫用ノ慮ナキニアラスト云フモノアリ。一応其理ナキニアラスト雖モ、若シ果シテ之アルトキハ宰相其責ニ任スヘシ。 或ハ其他其濫用ヲ防グノ道ナキニアラス。徒ニ濫用ヲ恐レテ君權ノ區域ヲ狹縮セントスルガ如キハ、道理ナキノ説ト説ト云ハサルヘカラス。乃チ此草案ニ於テハ君權ヲ機軸トシ、偏リニ之ヲ毀損セサランコトヲ期シ、敢テ彼ノ歐洲ノ主權分割ノ精神ニ據ラス。 固ヨリ歐洲數國ノ制度ニ於テ君權民權共同スルト其揆ヲ異ニセリ。是レ起案ノ大綱トス。〔以下略〕

出典:国立公文書館蔵『枢密院会議筆記・一、憲法草案・明治二十一年自六月十八日至七月十三日』(アジア歴史資料センターから電子閲覧可能、リファレンスコード A03033488000 、画像4-7)

(注)出典は句読点なし

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枢密院で伊藤議長が立憲政体の本義を説く(明治21年6月18日)

解説  枢密院の審議において、「天皇は帝国議会の承認を経て立法権を施行す」という条文案に対して、保守派の枢密顧問官たちは「承認の字は穏当ならずと認む。承認の文字は下から上に対して認可を求むるの意なり」(元田顧問官)と反発した。これに対して伊藤は立憲政体の本意を次のように説いた。天皇は責任大臣を置いて行政権を制限され、議会の承認によって立法権を制限される。この2点が立憲政体の本意である、と。

承認ノ字ニ附テハ各員ノ異議モアレハ本日ハ未決トシテ預リ置カン。然ルニ爰ニ一言陳述スルコトヲ欲ス。抑立憲政體ヲ創定シテ國政ヲ施行セント欲セハ、立憲政體ノ本意ヲ熟知スル事必要ナリ。假令ヒ承認ノ文字ヲ嫌テ議會ニ承認ノ權ヲ與ヘル事ヲ厭忌スルモ、法律制定ナリ豫算ナリ、議會ニ於テ承知スル丈ケノ一點ハ到底此憲法ノ上ニ缺クコト能ハサラントス。議會ノ承認ヲ經スシテ國政ヲ施行スルハ立憲政體ニアラサルナリ。已ニ議會ニ承認ノ權ヲ與ヘタル以上ハ、其承認セサル事件ハ政府ト雖トモ之ヲ施行スルコト能ハサルモノトス。歐州立憲國ノ景況ヲ見ルニ、獨逸風ノ立憲政體アリ、英國風ノ立憲政體アリテ、其權限ノ解釋或ハ其組織ノ構成ニ至テハ多少差異アルモ、其大體要領ニ至テハ毫モ異ルコトナシ。又立憲政體ヲ創定シテ責任宰相ヲ置クトキハ、宰相ハ一方ニ向テハ君主ニ對シ政治ノ責任ヲ有シ、他ノ一方ニ向テハ議會ニ對シテ同ジク責任ヲ有ス。此二ツノ責任ヲシテ宰相ニ負ハシムルトキニハ、假令ヒ君主ト雖モ宰相外ノ人ヲシテ政治ニ參與シ、又ハ之ヲ施行セシムルコト能ハサルモノナリ。故ニ立憲政體ニ於テハ、君主ニシテ責任宰相ヲ置ク以上ハ、其人ヲ措テ他ニ謀ルコト能ハス。悉ク其人ノ奏問ヲ聞クヘキモノトス。是ニ由テ之ヲ觀レハ、立憲政體ヲ創定スルトキニハ、天皇ハ行政部ニ於テハ責任宰相ヲ置テ、君主行政ノ權モ幾分カ制限サレ、立法部ニ於テハ、議會ノ承認ヲ經サレハ法律ヲ制定スル事能ハス。此二ツノ制限ヲ設クルコト、是レ立憲政體ノ本意ナリ。此二點ヲ缺クハ、立憲政體ニアラス。又此二點ヲ憲法ノ上ニ於テ巧ニ假裝スルモ、亦均シク立憲政體ノ本義ニアラサルナリ。

出典:国立公文書館蔵『枢密院会議筆記・一、憲法草案・明治二十一年自六月十八日至七月十三日』(アジア歴史資料センターから電子閲覧可能、リファレンスコード A03033488000 画像44-45)

(注)出典は句読点なし

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枢密院で臣民権利義務を巡って論争(明治21年6月22日)

解説 枢密院において「第ニ章 臣民権利義務」を審議する冒頭、森有礼文部大臣が発言し、天皇に対して臣民は権利を持たないと主張。章名を「臣民の分際」に改めることを求めた。これに対し伊藤博文は、君権を制限し臣民の権利を保護することが憲法創設の精神であり、臣民の権利は憲法に欠かせないことを説いた。

十四番(森) 本章ノ臣民權利義務ヲ改メテ臣民ノ分際ト修正セン。今其理由ヲ略述スレハ、權利義務ナル字ハ、法律ニ於テハ記載スヘキモノナレトモ、憲法ニハ之ヲ記載スルコト頗ル穩當ナラサルカ如シ。何トナレハ、臣民トハ英語ニテ「サブゼクト」ト云フモノニシテ、天皇ニ對スルノ語ナリ。臣民ハ天皇ニ對シテハ獨リ分限ヲ有シ、責任ヲ有スルモノニシテ、權利ニアラサルナリ。故ニ憲法ノ如キ重大ナル法典ニハ、只人民ノ天皇ニ對スル分際ヲ書クノミニテ足ルモノニシテ、其他ノ事ヲ記載スルノ要用ナシ。

番外(井上) 分際トハ英語ニテ如何ナル文字ナルカ。

十四番(森) 分際トハ「レスポンシビリテー」、即チ責任ナリ。分ノミニテ可ナリ。

議長 十四番ノ説ハ憲法及國法學ニ退去ヲ命シタルノ説ト云フヘシ。抑憲法ヲ創設スルノ精神ハ、第一君權ヲ制限シ、第二臣民ノ權利ヲ保護スルニアリ。故ニ若シ憲法ニ於テ臣民ノ權理ヲ列記セス、只責任ノミヲ記載セハ、憲法ヲ設クルノ必要ナシ。又如何ナル國ト雖モ、臣民ノ權理ヲ保護セス、又君主權ヲ制限セサルトキニハ、臣民ニハ無限ノ責任アリ、君主ニハ無限ノ權力アリ。是レ之ヲ稱シテ君主專制國ト云フ。故ニ君主權ヲ制限シ、又臣民ハ如何ナル義務ヲ有シ、如何ナル權理ヲ有ス、ト憲法ニ列記シテ、始テ憲法ノ骨子備ハルモノナリ。又分ノ字ハ支那、日本ニ於テ頻ニ唱ヘル所ナレトモ、本章ニアル憲法上ノ事件ニ相當スル文字ニアラサルナリ。何トナレハ、臣民ノ分トシテ兵役ニ就キ租税ヲ納ムルトハ云ヒ得ヘキモ、臣民ノ分トシテ財産ヲ有シ言論集會ノ自由ヲ有スルトハ云ヒ難シ。一ハ義務ニシテ一ハ權理ナリ。是レ即チ權理ト義務トヲ分別スル所以ナリ。且ツ維新以來今日ニ至ルマテ、本邦ノ法律ハ皆ナ臣民ノ權理義務ニ關係ヲ有シ、現ニ政府ハ之ニ依テ以テ政治ヲ施行シタルニアラスヤ。然ルニ今全ク之ニ反シタル政治ヲ施行スル事ハ如何ナル意ナルカ。森氏ノ修正説ハ憲法ニ反對スル説ト云フヘキナリ。蓋シ憲法ヨリ權理義務ヲ除クトキニハ、憲法ハ人民ノ保護者タル事能ハサルナリ。

出典:国立公文書館蔵『枢密院会議筆記・一、憲法草案・明治二十一年自六月十八日至七月十三日』(アジア歴史資料センターから電子閲覧可能、リファレンスコード A03033488000 画像127-128)

(注)出典は句読点なし

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明治憲法発布


皇室典範及憲法制定の告文(明治22年2月11日)

解説 明治憲法の発布は明治22年2月11日、紀元節に当たっていた。発布当日の朝、明治天皇は宮中において紀元節御親祭を行い告文を奏し、歴代天皇の神霊に対して皇室典範と憲法を制定することを告げ、憲法を自ら遵守することを誓った。

告 文

皇朕レ謹ミ畏ミ
皇祖
皇宗ノ神靈ニ誥ケ白サク皇朕レ天壤無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ寶祚ヲ承繼シ舊圖ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ發達ニ隨ヒ宜ク
皇祖
皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト爲シ外ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ廣メ永遠ニ遵行セシメ益々國家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆
皇祖
皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス而シテ朕カ躬ニ逮テ時ト倶ニ舉行スルコトヲ得ルハ洵ニ
皇祖
皇宗及我カ
皇考ノ威靈ニ倚藉スルニ由ラサルハ無シ皇朕レ仰テ
皇祖
皇宗及
皇考ノ神祐ヲ祷リ併セテ朕カ現在及將來ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラムコトヲ誓フ庶幾クハ
神靈此レヲ鑒ミタマヘ

出典:「官報号外」明治22年2月11日版(閲覧東京大学総合研究博物館

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憲法発布の勅語(明治22年2月11日)

解説  明治22年2月11日、紀元節御親祭に続いて憲法発布式が宮中正殿で行われた。明治天皇は宮中正殿に出御し、憲法発布の勅語を読み上げ、憲法原本を総理大臣黒田清隆に授与した。この勅語では「不磨の大典」として明治憲法を発することを宣言。歴代天皇が臣民の協力輔翼を受けてきた歴史を語り、これからは君臣が「和衷協同」して国家を盛り上げいくことを求めた。

憲法發布ノ勅語

朕國家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣榮トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大權ニ依リ現在及將來ノ臣民ニ對シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス
惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝國ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト竝ニ臣民ノ忠實勇武ニシテ國ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル國史ノ成跡ヲ貽シタルナリ朕我カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ囘想シ其ノ朕カ意ヲ奉體シ朕カ事ヲ奬順シ相與ニ和衷協同シ益々我カ帝國ノ光榮ヲ中外ニ宣揚シ祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシムルノ希望ヲ同クシ此ノ負擔ヲ分ツニ堪フルコトヲ疑ハサルナリ

出典:「官報号外」明治22年2月11日版(閲覧東京大学総合研究博物館

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黒田清隆の超然主義演説(明治22年2月12日)

解説

憲法は敢て臣民の一辞を容るゝ所に非るは勿論なり。唯た施政上の意見は人々其所説を異にし、其合同する者相投して団結をなし、所謂政党なる者の社会に存立するは亦情勢の免れさる所なり。然れとも政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らさる可らす。各員宜く意を此に留め、不偏不党の心を以て人民に臨み、撫馭宜きを得、以て国家隆盛の治を助けんことを勉むへきなり。

出典:尾佐竹『日本憲政史大綱』

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国務大臣は議会を通じて国民に責任を負う(明治22年2月13日)

解説  黒田清隆の超然主義演説の翌日、伊藤博文も同様の演説を行った。これに対して、憲法起草メンバーの井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎は反発。「万機公論に決す」が帝国憲法の根本義であり、国務大臣は議会を通じて国民に対して責任を負うことを主張した。以下は金子堅太郎の回想。

此の演説を聞いて井上は驚いた。伊東も我輩も同樣である。然し演説中は如何ともする事が出來なかつたが宴終り客散うるを待ち三人口を揃へて攻撃の矢を放つた。

井上「閣下の御演説を承ると全然ビスマーク流の專制政治を我邦に施さんとするのである。是は果たして閣下の御眞意でありませうか、私共は從來閣下と屡大臣責任論を鬪はせましたが今日の御論は平素の御主張と聊か趣を異にする樣に存ぜられます」

伊藤「何處が違ふのだ」

伊東「全く相違して居ります。昨日黒田總理大臣の訓諭を拜して不信の念を懐きたる私共、閣下が之を繰返さるゝとは寔に意外千萬」

伊藤「決して相違して居らぬ」

金子「閣下は明治元年の五箇條の御誓文『萬機公論に決す』と云ふを引いて帝國憲法の根本義だと常に我々に訓示されたではありませぬか、然るに今日國務大臣は輿論と沒交渉で、只天皇に對してのみ責に任ずべきものと聲明されたるは何たることです」

伊藤「然らば君達は國務大臣は議會に對して責を荷うものと主張するのか」

井上「決して左樣ではありませぬ。希臘の先哲は『民の聲は神の聲也』と申し、支那の名君は『朕民の心を追つて朕の心とする』と云ひ、而して明治天皇は『萬機公論に決す』と宣うた、この三つのものは國の東西を問はず時の古今を論ぜず同一轍であります、天皇は國民の輿論を荷はない所の内閣を信任し玉ふ道理がない故に國務大臣の責任は法理上天皇に對して之を負ふと云ふも實は議會を通じて國民に對して負ふべきものであると存じます、然るに輿論とは沒交渉で議會から不信任を受けても天皇の信任ある間は進退すべきではないと公言するは民の聲を以て神の聲とし、民の心を以て朕の心とすとの玉ふ名君を貶し、萬機公論に決すと宣へる聖旨を裏切るものと存じます」

と激論し、伊東も我輩も口を極めて伊藤公の反省を求めた。

出典:金子堅太郎述(尾佐竹『日本憲政史大綱』より重引)

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大隈重信の政党内閣観測(明治22年2月21日)

解説  大隈重信は在京中の府県会議長らを招待饗宴し、次の通り演説した。
 これは明治憲法下で政党内閣の実現を予想したものであり、実際の歴史もその方向で展開した。

我憲法の事に就き世間では種々の説を爲すものあつて演説に新聞に不滿を訴へるか如き有樣なれと、一體憲法の妙は運用に在ることなれは、法文の規定か不充分なりとてさのみ不服を唱ふるに當らす。特に其の政黨内閣の制の如きは憲法中に規定すへき筈のものにあらされは固より明記しあらされとも若し政黨員にして 皇帝陛下の御信任を得併せて輿望の歸するところなりたらんには、政黨内閣の實を見ること難きにあらさるへし。現に英國の如きも歴史の發達に依て今日の状態を致せるものなれは、我國とても政黨の發達次第にて英國と同一の状態を見ること能はさるの理あることなし。

出典:『大隈侯八十五年史』(尾佐竹『日本憲政史大綱』より重引)

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高田早苗「帝国憲法を読む」(明治22年2月)

解説  民権派の多くは明治憲法を高く評価した。以下はその例。

余は大日本帝國憲法を良憲法と思ふなり、聞きしに優る良憲法と思ふなり、未だ憲法の發布さられざる日に當りて、世間に種々の風評を爲す者ありき、日本の憲法は君民同治の主義に基づく乎、覺束無しといふ者ありたり、日本の國會は發議の權を有する乎、心もとなしと説く者ありたり、余は心痛せり、憖に政治の學を志し、憲法が如何なる者かといふことを、少しばかり學しだけに、殊に心痛したりしが、今に至りて囘想し、杞憂に過ぎざりしを覺悟したり〔略〕

出典:高田早苗「帝国憲法を読む」『憲法雑誌第一号』1889年2月(稲田『明治憲法成立史』より重引)

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ベルツの日記(明治22年2月)

解説 お雇い外国人ベルツが日本の民衆の無知を嘲笑う有名な日記。明治憲法発布後は新聞が一転して満足の意を表していることを記している。

二月九日(東京)
 東京全市は、十一日の憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ、奉祝門、照明(イルミネーション)、行列の計画。だが、こっけいなことには、誰も憲法の内容をご存知ないのだ。〔略〕

二月十六日(東京)〔略〕
 日本憲法が発表された。もともと、国民に委ねられた自由なるものは、ほんのわずかである。しかしながら、不思議なことにも、以前は「奴隷化された」ドイツの国民以上の自由を与えようとはしないといって憤慨したあの新聞が、すべて満足の意を表しているのだ。

出典:『ベルツの日記』


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