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エッセイ


ご意見・ご批判・ご中傷は「mmuto@のあとにvaldes.titech.ac.jp」におねがいします(笑).


意味を含むシステムとしての社会 5/26 (2005)

1. 社会科学と自然科学の違い

意味の有無 自然すなわち物質や生命は,意味をもっていません.すくなくともそのようにみなされています.裏返せば,意味は人間に固有のものです.  だから,自然科学は「意味を欠いたシステム」を扱い,社会科学は「意味を含むシステム」を扱うといえます.典型的な意味を欠いたシステムは,機械です.だから生物学は生命を自己複製機械とみなすわけです.

意味を含むシステム 一方,意味を含むシステムである社会は,機械的な面と意味的な面が複合されています.

 社会の機械的な面を最もよく表現しているのは,今日の理論経済学でしょう.理論経済学は,意味的な面を「効用最大化」原理として限りなく矮小化しています.そのため,理論経済学は自然科学に漸近してきます.ここでは市場のような行為の連関メカニズムがモデル化されます.

 社会の意味的な面を最もよく表現しているのは,理論社会学でしょう.とりわけN. ルーマンの社会システム論は社会を,政治,経済,法,家族,学,宗教といった,それぞれが普遍的なコード(二項対立的価値基準)をもつサブシステム間の関係とみなします.政治は「従う/従わない」,経済は「支払い/不払い」,法は「合法/不法」,家族は「愛している/愛していない」,学は「真/偽」,宗教は「救済される/救済されない」といったように,コードは意味的(ある方向を規定)かつ価値的(+−を規定)にそこでのコミュニケーション(行為の接続)を方向づけます.

 そのようなコミュニケーションが行われることで,各サブシステムはシステムとしての自身の「境界」を,すなわち自己を遂行的につくりだします.たとえば,経済システムで起こることは,法システムに刺激を与え,それは法システム独自の言葉で解釈されます.つまり,各サブシステムは,互いに他のシステムをあくまで刺激として捉え,自己の言葉と文脈(専門用語)で内的に構成し直します.このようにして,各サブシステムは自律的に作動します.

システム境界と研究者 このようにシステム自身がシステムの境界をつくりだすと考えるので,研究者がシステムの境界を外部から設定してモデルとして取り出し,対象とモデルとの乖離が残るといったことはルーマンの社会システム論にはありません(自然科学では対象とモデルの関係は近似ですが,社会科学では対象自身が自身でモデルを作っており,観察者のモデルはこれを踏まえたものであるべきだということです).ルーマンはこのようにして,うまく自発的に意味を営むシステムを理論化しています.

行為と意味 もちろん,社会は意味だけで構成されているわけではありません.経済学の伝統でもある方法論的個人主義は,社会を個々人の行為の集積として考えてきました.しかし,ある身体の動作が,行為という社会的な意味をもつものとして規定されるのは,当の行為をめぐるコミュニケーションによってです.身体の動作は生じてはすぐ消滅しますが,それは社会的な意味をもつ行為として比較的安定的に残ります(「伝説」はこうして作られます).だから,今日の社会学では身体の単なる動作の含みをもつ行為ではなくて,意味が社会にとって最も重要であると考えられているのです.

2. 意味と意味の間にあるもの

意味の限界としての意図せざる結果 しかし,私は意味だけ考えていればいいとは思いません.私たちが社会の存在を実感するのは,おそらく自分の描いた期待や予期(という意味)が否定されるとき,すなわち「意図せざる結果」が現れるときです.意図せざる結果は,他者の意味世界や社会に対する理解(という自分の意味世界)を超えた事態で,しかもふつうはなんらかの「不利益」を伴います.こうして意図せざる結果は,意味世界の再検討を促します.このとき,私たちは基本的には経済学とか法学とか社会心理学のような学知を求めます(宗教や文学や友人からの意見なども機能的代替物でしょう).それらは個人的な意味世界ではなくて,意味と意味の間にある社会のメカニズムの理解に寄与するからです.

 社会学もまた,このメカニズムの理解に寄与すべきだと思います.たとえば,R. K. マートンが定式化した「予言の自己成就」はその典型です.銀行の取り付け騒ぎがその例です.経済学による市場や公共投資の理解もその一例です(市場均衡の効率性は正の意図せざる結果で,中古車市場のような逆淘汰メカニズムは負の意図せざる結果).特に数理社会学は,このようなメカニズムの理解に貢献すると思います.しかし以下では,もっと突っ込んで意味と利害の関係を考察してみます.

コード さて,経済や法などを特徴づけるコードは普遍的だとうえで言いました.コードが普遍的というのは,たとえば法的なコードは民法にみるようにあらゆることに適用できるし,それはどのコードでもいえる,ということです.だから,コードは動物と植物を物理的に分類するようなモノの分割の基準ではありません.私たちはあるコトの意味について,経済的にも法的にも政治的(マルクス主義など)にも問うことができます.つまり,コードは物事の見方・考え方の象徴です.そしてそういう複数のものの見方が社会という複合的な意味を含む世界をつくりだしています(ものの見方の複数性を自覚して,それを比較検討するところに社会学の科学性があると私は思います).

 このとき,なぜ私たちの社会が政治,経済,法,宗教,家族といった意味のサブシステムに「機能分化」されているのか,と問うことができます.そういう分化は自明ではなく,未開社会では一体です.

機能分化と道徳 M. ウォルツァーは,アメリカ社会を経済領域が,他の領域をドミネイトしていると言っています.また,先進国の多くの社会で,政治と経済や,政治と宗教や,性愛と経済は立前の上では,分離されるべきだと考えられています.このように,機能分化ないしコードは,単なる仕事の効率上の問題ではなくて,価値を孕む道徳の問題でもあります.

意味と利害 もっともこれは近代社会だけではなくて,賄賂が悪いということは古代から知られています.つまり政治的価値と経済的価値の交換が禁止なのは,交換すると社会全体でなんらかのメカニズムが働いて「うまくいかなくなる」のです.だから,政治とか経済の意味の独立性というのは,かならずしも意味だけで完結しているわけではなくて,そこには「うまくいかなくなる」というコンフリクトすなわち不利益が潜在しています.だから,社会は,意味と利害という両面から考えていかなければならないのです.

 このように,社会は意味を含むシステムであって,単なる意味システムではありません.自己の意味世界と他者の意味世界,あるいは政治の意味世界と経済の意味世界などの諸意味世界の間には,行為の連関があり,齟齬があり,コンフリクトの可能性があり,利害の一致と不一致があります.こういった「利害と意味の関係」を解明していくことが社会学の課題なのではないでしょうか.A. ギデンズがいうように,このことは隠れた制度とか権力の問題につながってきます.

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合理的選択理論のトートロジー 10/22 (2004)

 合理的選択理論では,通常,観察された行為は,複数の行為選択肢のうちで選好を最大化するものとされます.しかし,選好そのものは空虚で主観的であって,なんでもありです.だから,観察されるどんな行為も選好を最大化しているものとして説明できます.

 しかし,これはじつは説明ではなくて,言い換えにすぎません.だから,よく合理的選択理論はトートロジーなので説明力がないと言われます.しかし,これにはすくなくともつぎの2点から反論ができます.

1.行為連関の理論  第1に,合理的選択理論は,単一の行為を説明するものではなくて,複数の行為者による行為連関を主に分析対象とするものです.ゲーム理論が扱う対象(相互に自分の選択が他人の利害にも影響する状況)は行為連関ですし,一般均衡理論の扱う対象(完全競争市場)も,一種の行為連関です.しかし,単一の行為それ自体にかんしても規定しておく必要はあるでしょう.さもなければ砂上の楼閣になりかねません.

2.効用内容の特定  そこで第2に,最大化の対象である選好つまり効用の中身をちゃんと特定しておきます.経済学では,たとえば生産者の効用は,利潤つまり貨幣量です.このようにすれば合理的選択理論は単一の行為を説明するものとしても,有効であるといえます.

※ ゲーム理論では効用のことを利得(Payoff)といいます.したがって,利得はゲーム理論に特有の言い方です.ちなみに,選好は最も意味が広いです.また,選好が一列に並べられかつそれが強度(量)を伴っている場合に,選好は実数値として表現できますが,これが効用です(効用=選好の実数値表現).

3.効用内容の具体例  しかし,経済学では貨幣は自明に効用であり,かつ中心的な価値概念ですが,社会学では,中心的な価値概念はないため,効用の中身はケースバイケースです.たとえば,自由時間,安全(アンチとして犯罪の発生数,検挙率など),健康(生存率)などは数値であり,直接効用になりえます.

 意外にも,医療福祉のように切実な問題は,社会学的な合理的選択理論と相性がよいのです(小林盾. 1997. 「リベラルパラドクスとしての脳死問題」『ソシオロゴスNo.21』など).

 また,公害や環境問題など社会運動がテーマとするような身近で切実さを孕む問題でも,合理的選択理論はやはり相性がよいのです(船橋晴俊. 1989. 「「社会的ジレンマ」としての環境問題」『社会労働研究』35).

 しかし,生きがいとか,自尊とか,他者からの承認といった社会学がよく重視するのは,質的な価値あるいは文化的・社会的な構造に規定される価値です.このような価値は,量に置き換えることは難しくなります.しかし,数値まではわからなくても,順序さえつけば選好は定義できるので,合理的選択理論(ゲーム理論)での分析も不可能ではありません.

4.社会学的価値概念  というわけで,効用の中身を特定することは,それだけでなかなか大変です.見田宗介(1966)『価値意識の理論』とか作田啓一(1972)『価値の社会学』などは参考になります.

 作田(1972)を私なりに解釈してみます.たとえば,ある物・事に価値があるのは,まず,それが(持続的なものも含めて)なんらかの快(使用価値=効用)につながることは必要です.しかしそれだけでは価値ありとはいえなくて,さらにその物・事が作品であること,すなわちその制作がだれにでも簡単にはできるわけではないことが必要です.つまり物・事に価値があるのは,その制作に困難があるからです.

 その困難は,制作者が自身の複数の欲求のうち,いくつかを犠牲にしている点に由来します.つまり,「犠牲の大きさ↑,成し遂げることの困難さ↑,価値↑」ということです.たとえば,作品制作のためにはまず時間が必要なので,制作中はほかのことはできません.また,作品制作のための技術や知識の習得にも時間が必要で,つまり修行中はやはりほかのことはできません.

 そしてここでは,遊びたい欲求や休みたい欲求や投げ出したい欲求よりも,修行して作品を作りたい欲求を優先させるという欲求の選択が行われているのです.したがって,価値とは欲求の充足にもかかわるが,むしろより多くの「欲求の否定」にかかわっているのです.

 それでは,ある時と場所と場合での否定さるべき欲求を決めている「欲求選択の基準(システム)」は,なにが決めているのでしょうか.まずは自由意思による思考でしょうが,思考は言語という文化的・社会的なるものに規定されています.また,思考だけでなく慣習もまた欲求選択システムに寄与するでしょうが,慣習は社会的なるものです.結局,欲求選択システムは,言語的あるいは暗黙知的な規則の束(規範の束)といえます.以上から,価値は社会的な起源をもっているといえるのです.

 さらにいえば,どんな欲求を否定・排除すべきかについては,議論の余地が常にあるので,静的な文化的・社会的構造というよりもっと動的で生成的なコミュニケーションが価値を規定していると言い換えるべきかもしれません.なお,(文化的な)意味が価値を規定している,というふうによく言われるのはこういう事態のことで,単にある絵や音楽が現実の何を表現しているかということとは関係がありません.

 翻って,現実の分析では結局,分析対象の特定の人びとが何に価値を抱いているかという調査が必要になるでしょう.じっさい「〜の価値意識」というテーマでさまざまな調査研究がなされています.

 見田や作田だけでなく橋爪大三郎(1996)「「貨幣」と「言語」 : 価値の起源をめぐって」『岩波講座 現代社会学 : 贈与と市場の社会学 17』でも共通しているのですが,社会学では,価値を社会構造に規定されていると考えます.結局,価値は単なる個々人の好みや欲求充足には還元されないものなのです.

5.社会システムと心的システム  経済学では,効用(選好)の中身については問いません.しかし,社会学ではそれこそが問題になってきました.この伝統をふまえれば,社会学的な合理的選択理論(ゲーム理論)における効用概念も,構造に規定された価値を基底にすべきだということになるでしょう.これはルーマンにならって,社会学的分析では,選好という心的システム次元を持ち出すのではなくて,社会システム次元にとどまるべきだということです.

 究極的には,個々人の選好は人間の心の中のものなので完全には知りえません.しかし,人間を環境とする社会システム上では,個々人の選好(無制限な好み)に触れずに社会システムの理論(いうまでもなく社会学の中心的テーマ)を作ることが可能だし,むしろそうすべきなのです.これには,複雑な心を選好に矮小化してしまうのは,心に対して失礼だという理由もあります.

 社会システムは,さまざまな役割の選好をつくりだします.現実の人びとはそういった役割規範に答えることで満足を見出すホモソシオロジクス的な側面と,役割遂行に伴うコストを回避するホモエコノミクス的側面を面をもっています.この両者に対する重み付けや役割じたいが選択できるところ(役割距離)に,選好や役割に埋没しない人間の意味存在としての能動性を見出すこともできます.

 しかしここで重要なのは,社会システムと役割という集合的範疇(父親・恋人・教師・学生・会社員など)が言語という社会次元の意味であるからこそ,それらに付随する価値が社会的である点です.このような価値にもとづくことで,合理的選択理論(ゲーム理論)が説得力のあるものになるのです.

6.社会学的効用理論  このように,社会学的な価値に基づく社会学的な効用概念は,私たちの社会システム次元上の知識を通じた了解によって基礎づけられるでしょう.しかし,百歩譲って,このような社会システム上の効用概念が拒否されてもなお,つぎのようにして社会学的な効用概念を構成できます.

 まず,貨幣量のような効用の実体を括弧にくくって不問にしてしまいます.この実体は,適宜,調査すればわかるとします.それで,理論的には,そういった社会的な価値実体が利得として与えられたとします.このときに,自分の効用は,自分の利得だけでなく,他者の利得によっても影響されるとするのです.この影響のされ方は「社会的動機」とか「社会的価値志向性」として定式化できます(土場学.1995. 「社会的価値と合理性」 『理論と方法』10(2)).

 通常のゲーム理論では,自分の効用は,他者の行為によって影響を受けますが,他者の利得によっては影響を受けません.しかし,ここではそういう影響があるとするのです.もしも,ここで,自分の効用は他者の効用によって影響を受けるとするならば,互いに効用が影響しあって悪無限が発生してしまいます.しかし,ここでは社会的な利得,個人的な効用,という二層を設定しているので,このような悪無限は生じえません.

 こうしたフレームで私は研究しているわけですが,このようなフレームは,私のオリジナルなわけでは全然なくて,社会心理学の実験的ゲーム理論研究(Griesinger, D. W. and J. W. Livingstone, Jr. 1973. "Toward a Model of Interpersonal Motivation in Experimental Games." Behavioral Science 18など)や,最近の実験経済学(Fehr, E. and K. M. Schmidt. 1999. "A Theory of Fairness, Competition, and Cooperation." Quarterly Journal of Economics 114(3)など)でもほぼ同じフレームを用いています.

 社会的な利得/個人的な効用という区別は,社会システム内にとどまれというさきほどの話と矛盾するかといっけん思われるかもしれません.しかし,ここでの個人的な効用は,社会システム内部での人格のモデルにすぎず,人間そのものではけっしてないのです.裏をかえせば,ここでは人間がどうなっているかを問うているのではなくて,人びとの利他的志向や平等的志向が相互行為や社会システムに及ぼす影響を問題にするのです.

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2人社会的ジレンマ 9/30 (2004)

1.囚人のジレンマから社会的ジレンマへ 囚人のジレンマ:

3,3 1,4
4,1 2,2

は,「強支配戦略の組が(存在して)パレート非効率となるゲーム」です(下線はナッシュ均衡).この性質をもつn人ゲームを「社会的ジレンマ」と通常いいます.

 しかし,社会的ジレンマの本質は,個人的合理性と社会的合理性の乖離にあります.社会的合理性の表現として,パレート効率性は必要でしょう.その一方,個人的合理性の表現としては,強支配戦略は強すぎます(つまり,十分ではあっても必要ではないでしょう).

 むしろ個人的合理性の表現としては,ナッシュ均衡がふさわしいでしょう.ナッシュ均衡は個々人の合理性にもとづいて定常的に実現すると考えられるからです.このとき,社会的ジレンマは,「すべてのナッシュ均衡がパレート非効率であるようなゲーム」といえます(木村博邦『大集団のジレンマ』p23など).

2.囚人×調整  ところで,うえの意味での社会的ジレンマは,2×2ゲームでは囚人のジレンマ以外にはないのでしょうか.じつはあります.あまり知られてはいませんが,それはつぎの3つのゲームです.

3,4 1,3
4,1 2,2

3,4 1,2
4,1 2,3

3,4 1,1
4,2 2,3

 どのゲームでも行プレイヤーは囚人のジレンマと同じ利得関数をもっているところが興味深いところです.また,どのゲームでも列プレイヤーは調整ゲーム的な利得関数をもっています.つまり,協力には協力を,非協力には非協力を返すというものです(ここでの協力とはパレート優位な結果(3,4)を構成する戦略で,非協力とはパレート劣位な結果(2,2)と(2,3)を構成する戦略です)

 アバウトにいえば,囚人のジレンマ的な利得関数と調整ゲーム的な利得関数をもつ2人が相互行為しても結果はやはりパレート非効率ということです.イメージ的には,囚人>調整,といったところでしょうか.このような状況は,立場が非対称であるとはいえ,囚人のジレンマに劣らず多くみられそうです.

※ Rapoport&Guyer(1966)"A Taxaonomy of 2×2 Games."General Systems 11は,78個の2×2ゲームの利得表を載せています.うえの3つのゲームもそこに載っています.

3.非同時手番信頼ゲーム  さて,手番に時間的な順序のあるゲーム(非同時手番ゲーム)は,一般にナッシュ均衡が合理的であるとはいえないので,均衡概念としてはふつう部分ゲーム完全均衡を使います.

 また,同時手番ゲームでの部分ゲーム完全均衡は,ナッシュ均衡に一致します.したがって,非同時手番ゲームも含めるならば,社会的ジレンマとは「すべての部分ゲーム完全均衡がパレート非効率であるようなゲーム」というふうに定義し直すこともできるでしょう.

 さて,この非同時手番ジレンマの最も単純な例は,以下のゲームでしょう(奥野・鈴村『ミクロ経済学U』p245).下図の利得ベクトルは,(Aの利得, Bの利得)とします(青線が部分ゲーム完全均衡).

   A不信(1, 1)
信頼
   B不信(0, 3)
応答
  (2, 2)

 バックワードインダクションで考えてBは不信をとり,Aはそれを見越して不信をとります.この(不信, 不信)が部分ゲーム完全均衡ですが,結果は(1, 1)となってパレート非効率です.

4.ムカデゲーム  うえの非同時手番信頼ゲームをもっと先に延ばしていったものは「ムカデゲーム」centipedeとよばれています(D.クレプス『ゲーム理論と経済学』訳p81,奥野・鈴村『ミクロ経済学U』p397).本当は(100, 100)まであるのですが,途中で切ってみました.

   A不信(1, 1)
信頼
   B不信(0, 3)
信頼
   A不信(2, 2)
信頼
   B不信(1, 4)
信頼
   A不信(3, 3)
信頼
   B不信(2, 5)
信頼
   A不信(4, 4)
信頼
   B不信(3, 6)
応答
  (5, 5)

 ムカデゲームの唯一の部分ゲーム完全均衡は,AもBもすべて「不信」をとることです.ここでは,ゲームは最初のノードで終わり,(1, 1)というパレート非効率な結果となります.これもまた社会的ジレンマの一例なのですが,この場合は,むしろ「人間はそんな先の先のことまで考えて行動するのか」という時間性の側面が強くなります.

 以上みてきたように,囚人のジレンマ,囚人×調整,非同時手番信頼ゲーム,ムカデゲームというように,2人ゲームの社会的ジレンマにもいろいろあるわけです.

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繰り返しゲームの功罪 9/17 (2004)

1.繰り返しゲーム解析の困難 有名なアクセルロッドによる「しっぺがえし戦略」の有効性は,囚人のジレンマを繰り返す状況での議論です.このような「繰り返しゲーム」repeated gameは,ゲーム理論の中でも最も研究がさかんな分野のひとつです.たとえば,「繰り返し囚人のジレンマ」において,「しっぺがえし戦略の組やトリガー戦略の組がナッシュ均衡になる」(協力状態が成立する)という定理は有名です.

 さらにいうと,トリガー戦略の組は部分ゲーム完全均衡になりますが,しっぺがえし戦略の組は部分ゲーム完全均衡にはなりません(石原英樹・金井雅之『進化的意思決定』p50).また,最近の繰り返し囚人のジレンマ研究では,東大の松島斉先生などが,相手の戦略を観察するコストを考えた場合にどうなるか(モニタリング)などの研究をなされています(今井晴雄・岡田章『ゲーム理論の新展開』4章).

 しかし,「繰り返し囚人のジレンマ」上の戦略は,無限個あります.というのは,3回の繰り返しでは2×2×2=23個の戦略が論理的に可能なわけで,k回繰り返しでは2k個,無限回繰り返しでは2個となるわけです.しかも指数関数的に戦略の数は増大します.

 したがって,繰り返しゲームでのナッシュ均衡は,無限個の戦略の中から無限個の戦略の組合せを考えているのです.だから,しっぺがえし戦略の組がナッシュ均衡になる,ということがわかったとしても,それは可能な無限個のナッシュ均衡のひとつにしかすぎないわけです.(繰り返しゲームにおいてナッシュ均衡が無限個あることは,この分野で有名な「フォーク定理」で証明されています(岡田章『ゲーム理論』6章).)

2.繰り返しゲームのシミュレーション それでもしっぺがえし戦略が有名なのは,やはりアクセルロッドのシミュレーション研究によるところが大きいのです.アクセルロッドは繰り返し囚人のジレンマにおいて,多くのありそうな戦略が総当たり1対1対戦をしたときに,しっぺがえし戦略が他の多くの戦略に対して「大きくは負けず」,「平均すれば最も利得を稼ぐ」戦略であることを実証しました(R.アクセルロッド『つきあい方の科学』2章).

 このシミュレーションは世界中のゲーム理論家から戦略を募っておこなわれたもので,第1回目のトーナメントでは15戦略,第2回目のトーナメントでは63戦略がエントリーしました.そのなかで,しっぺがえし戦略が両方とも優勝しました.なお,第1回目は有限繰り返し,第2回目は無限繰り返しでした.

 興味深いのは,しっぺ返し戦略は直接対戦では他の戦略に一度も勝てなかったのに,「総合得点」では1位になったことです.これは,しっぺがえ戦略は,多くの戦略の混在状況において非常に有効であるということです.これを解析的に証明することはかなり困難で,シミュレーションでしか簡単にはわかりません.

 なお,純粋なしっぺがえし戦略がどんな戦略のプールにおいても総合1位になるわけではありません.たとえばノイズのある環境では,しっぺがえし戦略は,エコーとよばれる協力の「互い違い」がよく起こるため得点がそれほど伸びません.しかし,「寛容型しっぺがえし」や「改悛型しっぺがえし」など,やはりしっぺがえし的な戦略が上位を占めることがわかっています(R.アクセルロッド『対立と協調の科学』2章).ちなみにパブロフ戦略はこの論文によるとあまりよくなかったそうです.

3.one-shotの復権とナッシュ均衡解釈 というわけで,繰り返しゲームは非常に稔り豊かな知見をもたらしたわけですが,それが意図せざる結果として,繰り返しでないゲームの地位を相対的に貶めてしまった感があります.繰り返しでないゲームは,one-shotのゲームとして,あまり現実にはないものと思われるようになってしまったような気がするのです.

 しかも,繰り返しゲームは,うえでみたように戦略の複雑性がつきまとい,解析がたいへんです(もっともそれゆえシミュレーション研究の意味があるのですが).ということは,ゲーム理論的数理モデルでうまく解析できたとしても,現実の人びとはそんな超合理的な計算などできないのではないか,という疑問がつきまといます.繰り返しゲームはゲーム理論を机上の空論にしてしまう危険性をもっているということです(金子守『ゲーム理論と蒟蒻問答』p264-265参考).

 つまり,繰り返しゲームは,繰り返しでないゲームに対しても,繰り返しゲームそれじたいに対しても,ゲーム理論を非現実的なものだと思わせてしまっているような気がするのです.これはゲーム理論のリアリティ全体にかかわることなので,ゲーム理論家としては憂慮すべきじたいと思われます.

 この問題を解決するひとつの手は,「繰り返しでないゲーム」=同時手番ゲームの復権だと思います.つまり,one-shotのゲームと考えられている同時手番ゲームをもっと厚く解釈するのです.同時手番ゲームでのナッシュ均衡は,なにも1回限りの行動の組ではなく,頻繁に行動が行われていると考えます.これは試行錯誤と思ってよくて,進化ゲーム的な解釈ですが,進化ゲームと異なり試行錯誤の過程を明示しません.これは,慣習のような現象によくあてはまるでしょう(神取道宏「ゲーム理論による経済学の静かな革命」岩井克人ほか編『現代の経済理論』p37-38参考).

 つまり,ナッシュ均衡を,試行錯誤のすえに偶然ある行動の組が起こったら,そこからは合理的な個人は互いに自発的に行為を変えないという「釣り合い」の点として解釈するのです.ここでは相手の利得を必ずしも参照しなくてよいので,無限に開かれた読み合いの超合理性を必要としません.つまりこれは,ゲーム理論を「読みあい」の規範理論から,社会秩序を説明する記述理論へと解釈し直すことを意味します.これは「現実の人びとはそんなに合理的ではない」という周知のゲーム理論批判への応答でもあります.

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2つの利得概念 8/31→9/17(小見出しと海野文献つけました) (2004)

1.ゲーム理論の前提 ゲーム理論は,利得が与えられたものとして,相互依存状況にある行為者の合理的な行動,およびそれによってどのような社会状態が実現しそうかを考える学問です.だから,利得(=価値)そのものについては,それほど注意を払うわけではありません.社会を「諸価値の関係」と「諸行為の関係」に分析的に分けるならば,まちがいなく,ゲーム理論は後者についての理論です.

 社会学はどちらかというと,近代とは何かというような,より社会構造と関係の深い「諸価値の関係」のほうに興味があるために,ゲーム理論はいまだに社会学においてはマイナーな存在にあまんじているのかもしれません.また,社会学は,そもそも構造/行為という区別そのものを棄却し,もっと別の切り方で両者を扱おうとする視点をとっているともいえるかもしれません(たとえば言語ゲーム,エスノメソドロジー,ルーマンの社会システム論).

 しかし,そのようなゲーム理論でも,利得がなにかをはっきりさせる必要はあります.いうまでもなく,それはゲーム理論の前提だからです.そして,(経済学とは異なる)数学としてのゲーム理論の正統的な利得概念は,フォン・ノイマン=モルゲンシュテルンの「期待効用」概念です.これはvNM効用理論として扱われ,ゲーム理論の前提と考えられています(vNM効用理論については,岡田章『ゲーム理論』など参照).

2.vNM効用理論 ゲーム理論では,社会状態は行為の組に同一視できます(簡単のためここでは同時決定ゲームで考えます).つまり,行為者1, 2がそれぞれ行為s1, s2をとったならば,その社会状態は,s=(s1, s2)で表せます.したがって,行為者1, 2がそれぞれm, n個の行為選択肢をもっていたとすれば,起こりうる社会状態(sの個数)は,mn個です.

 vNM効用理論では,このmn個の社会状態に対して,それぞれの行為者1, 2が好ましさの順番(=選好)をつけると考えます.しかも,この順番のつけ方にくじ(確率)を用いることで,単なる順番ではなくて,賞金のような「強度」をもった順番をつけるところがvNM理論のエッセンスです.説明しましょう.

 ある社会状態A, B, Cがあり,ある行為者の選好がA>B>Cであるとし,またAとCが50%ずつの確率で実現するくじを0.5A+0.5Cとかくとします.このときこの行為者は,0.5A+0.5Cなるくじか,それともBのどちらを好むのかを問題にできます.つまり,0.5A+0.5C>Bなのか,それとも0.5A+0.5C≦Bなのか,この2つのうち事態はどちらかでしょう.

 いま,0.5A+0.5C>Bであったとしたら,つぎに0.4A+0.6C>Bであるか,0.4A+0.6C≦Bあるかのどちらかを検討します.こうして考えていくとじきに,ある混合比,たとえば(0.3, 0.7)を閾値としてこの行為者の選好は,

p=0.3のときは 0.3A+0.7C=B
p>0.3のときは pA+(1−p)C>B
p<0.3のときは pA+(1−p)C<B

ということになるでしょう.このようにして,たとえばAの効用を10,Cの効用0とすれば,Bの効用は3であるということになります(効用の絶対値に意味はなく,効用の差の相対比にのみ意味があります).ここではAが突出してこの行為者にとってよいわけです.

 このようにして,vNM効用理論は,複数の社会状態を強度付の選好によって順番に並べます.この強度付選好は,実数値で表現できるので,この値をゲーム理論では「利得」とよぶのです.それぞれの行為者の選好順序は必ずしも一致しない(というか一致することはほとんどない)ので,コンフリクトが起こりえます.だからこそこれをゲーム理論的に分析する意味があるのです.

3.役割で決まる利得 これがvNM効用理論のあらましですが,気になるのは,AとCの間にくるBがどの程度の間なのかという閾値(うえの例では0.3)は,ほぼ純粋に主観的であるという点です.もちろん,調べることは可能なのでしょうが,ゲーム理論を経験現象に適用する場合に,いちいちそんなことをやっていたら日が暮れてしまいます.だから,じっさいのミクロ経済学理論には,vNM効用理論を通さず,利潤=利得としたりできるわけです.

 だから,ゲーム理論における利得概念は,理論的にはvNM効用理論で導出されるけれども,じっさいにそれを経験現象にあてはめるときは,(多くの場合)違う論理を用いているわけです.よって,2つの利得概念がある,というわけです.それでは,このもうひとつの違う論理とはなんでしょうか?

 私は,それを「役割に対する了解」だと考えます.たとえば,生産者(という役割)は利潤を最大化しようとみなせるから,利潤=利得とみなせます.消費者(という役割)は財ベクトルに対する効用を最大化しようとみなせるから,財ベクトルに対する効用=利得とみなせます.

 このように経験的モデルでは,いちいち「利得とはなにか」を,了解という手法によって問うていく必要があるのです.

 さて,経済学では,だいたい生産者と消費者しか出てきませんか,社会学では多様な役割が登場します.教師,生徒,クラスメイト,友達,上司,部下,同僚,父親,母親,子供,兄弟,国民,市民,芸術家,学者,政治家,技術者,職人...細かく分ければ,役割はきりがないといってよいでしょう.教師には,生徒に学力をつけさせるという目標があり,その目標をどれだけ実現したかによって利得が決まります.生徒は点数をとる,あるいは単位をとる(合格する)という目標があり...

 注意すべきことは,海野道郎先生がいうように,この利得概念は,単なる行為者の主観的な選好ではなくて,「社会的に共通理解のある価値尺度」なのであり,当該の行為者は全員この利得を基本的には,共有知識にできるのです.これゆえに,vNM効用理論の主観性問題をクリアできるのです.(海野道朗. 1993. 「合理的選択理論の基礎概念」『社会的ジレンマに関する数理社会学的研究』文部科学省科学調査研究 あるいは有斐閣『新社会学辞典』の「利得」項目)

 なお,それぞれの役割は,規範の束によって構成され,それが役割固有の機能と価値を決定します.簡単にいえば制度的に決定されているわけですが,それは知識と規範に負っています.

 ある人に対して,ビジネスマンとして接するべきか,友人として接するべきかという役割葛藤(役割選択)に悩むこともあるでしょう.しかし,ひとたび役割がきまれば,利得はだいたい決定(了解)されるわけです.

 最近の数理社会学では,こういった役割概念とゲーム理論を接合する研究がみられはじめました(Montgomery, James. D. (1998) "Toward a Role- Theoretic Conception of Embeddedness." American Journal of Sociology104(1):92-125).社会を社会学的かつゲーム理論を使って分析していこうとするならば,このような方向性は非常によいのではないかと私は思います.

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契約の非契約的前提と囚人のジレンマ 8/18 (2004)

1.契約の重要性 会社と会社,会社と顧客,雇用者と被雇用者,依頼人と代理人などの取引関係は,「契約」によって結ばれます.したがって,契約は近代の経済社会の構造(取引ネットワーク)を作り出すと考えられます.また,ルソーやロールズによる社会契約論は,この考え方を政治領域にもちこんだものといえます(ルソーの思想は,現実の政治制度にも浸透しています).したがって,契約は近代社会の構造の根幹であり,契約の分析は社会科学にとってきわめて重要といえるでしょう.そこで,今回はこの契約について数理社会学的に考えてみます.

2.契約の非自明性 契約を守らない場合には罰されるので,合理的な行為者は契約を守ると考えられます.したがって,契約は人びとの合理性から説明がつきそうです.しかし,現実の契約を厳密に考えた場合,グレーゾーンなので罰されはしないが,それでも相手に迷惑をかける行為はいくらでも考えられます(たとえば相手にわからないことをいいことにテキトーに仕事をするなど).

 さらにいえば,考えつくかぎりの迷惑行為の禁止とそれへの罰則を契約文書に追記したとしても,やはり不測の事態はおこるもので,すべての迷惑行為に予め罰則を与えることはできません.法に詳しければ,法の網をすり抜けることができるように.

 にもかかわらず,ふつう近代社会では,契約は結ばれ,そして守られます.これはなぜでしょうか.

3.契約の非契約的前提 フランスの社会学者デュルケムは,上述したように契約を人びとの合理性に還元しようとすると説明がつかなくなると考えました.彼はこの「契約の非契約的前提」を合理性=計算には還元できない集合的感情や道徳や規範や信頼といった「社会的なるもの」と捉え,(経済学と区別された)社会学の主たる分析対象のひとつと考えました.あるいはそれを社会学的な分析枠組みのひとつと考えました.

 デュルケムのこの発想は,合理性の限界を合理的に考えた点できわめて正当でしょう.しかし,100年前のデュルケムの分析は今日の水準ではちょっと粗っぽくみえます.そこでここでは数理社会学的に,ゲーム理論を使ってもうすこし精緻に契約を分析してみましょう.

 以下の分析は,非同時手番ゲーム(展開型ゲーム)になるので,じつはちょっと厄介です.そこで,もっと単純なモデルをつくることもできます.それには,契約関係ではなく,売買のように一瞬で行為が終わってしまう「限定交換」を考えます.限定交換もまた,契約関係のひとつともいえましょう.
盛山・海野編1991『秩序問題と社会的ジレンマ』の山岸敏男論文(p227〜)は,限定交換が囚人のジレンマであることを明示しています.

4.契約成立後のゲーム理論的考察 さて契約が結ばれたと仮定しましょう.このとき,上の話から,両行為者には,つぎの2つの選択肢があると考えられます.

C=契約文書の記載事項を守るのはもちろん,相手に迷惑をかけないように配慮する
D=契約文書の記載事項は守るが,罰則がなければ可能なかぎり自己利益を追求する

 以下の利得表において常識的に考えれば,利己的である各行為者の社会状態に対する評価は,☆>◎>△>×という順序関係が成立するでしょう(( )'も同様).

i\j  C'     D'
C  ◎, ◎'  ×, ☆'
D  ☆, ×'  △, △'

 ここでは,行為者iがCをとり,行為者jがD'をとった社会状態(C, D')における(×, ☆')は,この社会状態に対するiの評価が×であり,jの評価が☆'であることを意味します.ここではiが「馬鹿を見る」ことになります.

 この利得構造は,いわゆる「囚人のジレンマ」です.よく知られているように,相手jがCでくれば☆>◎だからiはDをとり,相手jがD'できても△>×だからiはDをとります.つまり,jがどちらの手をとってもiはDをとったほうがよいのです(Dのような選択肢を「支配戦略」とよびます).

 立場は対等なのでjもそのように考えれば,結局(D, D'),利得でいえば(△, △')が実現し,互いに相手を搾取しあう望ましくない契約関係になってしまいます.つまり,この社会状態(D, D')は,お互い相手に配慮しあう(C, C'),利得でいえば(◎, ◎')なる社会状態に比べて,i, jともに望ましくないわけです((D, D')は(C, C')に対してパレート劣位)

5.契約成立前からのゲーム理論的考察 さて,以上は契約が結ばれたという仮定の下での話でしたが,各行為者には契約を結ぶかどうかの選択が事前にあるはずです.そこで,まず行為者i, jは契約を「結ぶ」,「結ばない」,という選択をするとします.また,どちらか一方でも「結ばない」という選択をすれば,契約は結ばれないとします.

 ここで,契約が結ばれない場合の社会状態に対する行為者i, jの評価を○,○'としましょう.このとき,もしも◎≦○であれば契約しても両行為者がともによくなることはないので,◎>○が成立しているとしましょう(互いの利益になる可能性のないような契約は契約とはよべないでしょう)

 さて,i, jの両者が「結ぶ」を選択した場合には,うえでみたような「囚人のジレンマ」のゲームに入ります.そこでの(部分)ゲームの結果における利得の組(社会状態の評価の組)は(△, △')でした. したがって,この契約成立状況のゲーム全体(縮約ゲーム)は,つぎのようになるでしょう.

i\j    結ぶ'  結ばない'
結ぶ    △, △'  ○, ○'
結ばない ○, ○'  ○, ○'

 さて,各行為者の社会状態への評価が○>△であったとすれば,さきの囚人のジレンマと同様に考えれば,この縮約ゲームにおいては「結ばない」が支配戦略なので,(結ばない, 結ばない'),つまり(○, ○')が成立し,契約は結ばれません.契約を結んだ場合にはうれしい結果(◎や☆)があるかもしれないが,相手の利己的な合理性を仮定すれば,契約を結ばないほうが得であるということになります.

 一方,各行為者の社会状態への評価が△≧○であったとすれば,今度は,(結ぶ, 結ぶ')が成立し,契約が結ばれ,i, jともに相手を搾取しあって(△, △')が成立します.それでも契約を結ばないよりはまし,ということにはなります.

 結局,このゲームでは,○>△であれば(○, ○'),△≧○であれば(△, △')が成立します.しかし,いずれにしても両行為者にとってよりよい(◎, ◎')なる社会状態は成立しません.だから,このゲーム全体は拡張された囚人のジレンマである「社会的ジレンマ」といえます.

 「社会的ジレンマ状況」とは,一般に「すべての均衡がパレート非効率」であるようなゲームのことをいいます.この分析では非同時手番ゲームの定石にしたがい,均衡概念に「部分ゲーム完全均衡」を使っています.このゲームでは,△と○の順序によらず,☆>◎>△>×かつ◎>○であれば,部分ゲーム完全均衡がパレート非効率になるということです.

6.デュルケムに対するゲーム理論的補足 このゲーム理論的分析では,○(非契約状態)と△(共搾取状態)に対する評価を場合分けして考えました(適宜,○を(○, ○')などと読み替えてください).このことで,利己的で合理的な行為者も,△≧○であれば契約を結ぶということがわかりました.ただし,この契約関係は両者にとってあまり望ましいものではなく,現実の契約関係においては,もっと望ましい◎が多数成立しているものと考えられます(しかし,△のような「望ましくない契約関係」もまた多く成立しているのでしょうが)

 このように,ゲーム理論を用いることで,デュルケムの分析は,○>△(⇔ 非契約状態>望ましくない契約関係)という前提条件を暗黙のうちに仮定していることがわかりました,これは,簡単ではありますが,ゲーム理論的分析による契約の社会学的知見といえなくもないと思います.デュルケムはおこりうる状況の半分しか考えていなかったということでしょう.

 しかし,デュルケムの分析の主題は,○と△の社会状態が多いのではなく,◎の社会状態が現実には多いではないか,ということでした.この批判は,今回のゲーム理論的モデルにもあてはまります.やはり,デュルケムがいうように,利己的な合理性の下では,望ましい契約関係は成立せず,それには道徳や規範や信頼といったものが介在する必要がありそうです.

 もっとも,もっと現実に即して考えるなら,部分ゲームに1回限りではなく繰り返し囚人のジレンマを仮定すべきでしょう.このときはもうちょっと議論がややこしくなります.しかしこの場合でもやはり支配戦略的な合理性だけでは契約は結べないようです(繰り返しゲームは,基本的には調整ゲームとして考えられるため,均衡選択の問題が入ってくる)

 また,現実には,「評判」(ブランド)の力は,多くの場合,以上にみたような契約のジレンマを解消しています(たとえばヤフーオークションやAmazon.comの古書サーヴィスなど).これは社会的なるものとしての信頼の一形態とも考えられますし,合理性の延長でも理解できます.いずれにしても,デュルケム的な視点を意識しつつ,ゲーム理論的に分析していくことは,数理社会学独自の視点のひとつといえるのではないでしょうか.

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数理社会学とは何か 7/25 (2004)

 数理社会学は,社会学固有の視点から,数学的論理を用いて,社会現象を記述し説明することを目的とします.社会学固有の視点に立つことで経済学と区別され,数学を用いることで他の社会学と区別されます.また,数理社会学は理論社会学の一形態です.

1.社会学固有の視点 社会学固有の視点とは,ひとことでいえば社会的関係なのですが,それは,集団・制度・構造・機能・役割(期待)・知識(暗黙知)・意味・規範・共属感情・愛情・合理性・行為・コミュニケーション・信頼・権力などの諸概念に分解できます.

 このなかの何を原理的な説明概念(公理)とするかは,研究者の理論的パースペクティブに依存します.たとえば,機能を出発点にとれば機能主義,構造であれば構造主義,意味であれば意味学派,行為であれば理解社会学といったように.数理社会学では行為論(合理的選択理論)とネットワーク研究がさかんですが,後者はむしろ構造主義に近いといえます.

2.理論社会学としての数理社会学 数理社会学が理論社会学の一形態であるのは,数学の抽象性のためです.理論は少数の公理から出発し,演繹的に導かれる命題の体系です.しかし,理論そのものが数学を基本的なモデルとしているので,数理社会学が理論的でないはずがないのです.

 また,命題は「Aという条件が整うと,Bが起こる」という形で,原理的には,いつでもどこでもAが成り立てばBが成り立つと主張します.この「いつでもどこでも」という同一性が,理論の特徴です.数理社会学においては,この条件Aを厳密に表現します.このために,他の社会学の命題に比べて(『社会学命題コレクション』を参照),その命題の適用範囲が明確に定まるのです.数理社会学からみれば,自然言語における命題は,甚だ曖昧なのです.

3.数理社会学の特徴 数理的方法の特長は,@仮定と推論の明確さ,Aメカニズムの解明,B表現の簡潔さ,C経験的テストのしやすさ,D比較研究のしやすさ,Eイデオロギーのなさ,F現象の予測力,G社会構想・制度設計力,などです.

@ 仮定・概念・推論の明確さ 数理社会学は,仮定・概念・論理展開が明快です.自然言語で説明すると,知らず知らずのうちに新しい仮定が入ってくることがよくあります.なにを仮定しているのかが曖昧だと,もう説明とはいえません.数学を使うことによって,この過誤を未然に防止できます.

 また,ナッシュ均衡,パレート効率性,社会的ジレンマなどのように,記述的,規範的,状況的概念が数式で表現されるので,これらをひとたび理解しさえすれば,確実に共通のプラットホームで議論するこができます.

 また,論理展開が演算と記号論理で書かれるので,それらの間違いは数学がわかる人にはすぐわかります.間違っていることがわかるのは,学問の発展にとって非常に重要です.自然言語では間違いがよくわからないから,ひとたび権威になってしまった人の文章を鵜呑みにしてしまったりするし,そもそも間違いがわからなかったら,論文の真偽や価値が曖昧になってしまいます.

A メカニズムの解明 自然言語で追えないような論理の連鎖も,数学を使えば比較的簡単に追えます.このことで,多くの変数が入り組む行為連関や複雑なシステム(これこそ社会!)において,どんな変数が効いているかが明らかになります.統計解析でも変数間の相関関係はわかるのですが,因果関係については基本的にブラックボックスです.一方,数理モデルはホワイトボックスであり,変数間の因果関係を予め仮定しておき,それが全体として,あるいは時間の中でどうなっていくのかを解明できます.

B 表現の簡潔さ 数学は,記号による情報の圧縮でもあります.たとえば,ナッシュ均衡やパレート効率的という概念は,数学的に表現すれば1行で済みますが,言葉で厳密に表すとかなり大変で,それを噛み砕いて説明しようとすれば,1節ずつ必要になるでしょう.このような情報の圧縮により,私たちは一度に多くの事柄をまとめて処理できるようになります.こうすることで認識の負荷が減り,学や理論という認識それじたいをより発展していくことができるのです.

C 経験的テスト可能性 数理的に書かれた命題は,条件が明確なので,経験的テストがしやすくなります.これにより,たとえば実験ゲームという分野が社会科学においても可能になるのです.これは経験科学にとって非常に重要でしょう.

D 比較研究のしやすさ 数学という共通言語のおかげで,比較研究がしやすくなります.自然言語では,同じ言葉による意味の違い,違う言葉による同じ意味ということが多く,理解の妨げになります.また,自然言語では,やはり用語系によって意味が微妙に変わってくるので,理論間比較はなかなか難しいわけですが,数理では同じものは同じだし,違うものは違うとはっきりしています.これによって,研究の無駄が省け,また諸モデルを統一するような理論もつくりやすくなってきます.

E イデオロギーのなさ 自然言語は,マルクス主義がそうであったように,やはりなんらかの特定のイデオロギーに囚われがちです.もちろん,数理社会学だって意味や機能にコミットせざるをえないのですが,そういうスタートラインの公理とは別に,行為連関のメカニズムを考えることができるのです.したがって,たとえばゲーム理論+マルクス主義,といったことができるのです.

F 予測性 数理モデルは,理論的言明であり,「いつでもどこでも」ある条件Aが整えば,Bが起こると主張するわけだから,現象の予測ができます.この予測力は,他の社会学理論にはあまりない特性です(マートンの「予言の自己成就」などを除いて).あとづけ的な説明になりやすい社会学のなかにあって,数理社会学の武器ともいえます.

G 社会構想と正義論 うえの数理モデルの予測力に由来するのですが,たとえば人びとが利己的に行動してもうまくいくような正負のインセンティブをルールとして与えることにより,制度を設計していくことができます.たとえば,経済学者たちは,ゲーム理論を用いてオークションの制度を設計したり,環境問題での排出権取引制度を分析したりしています.現在,ゲーム理論は法学分野にも進出しているので,近い将来,ゲーム理論を用いた政策が実現されるかもしれません.

 なお,かならずしも人びとが利己的に行動するという前提をもうける必要もないかもしれません.たとえば,人びとが平等を好むという仮定をおくとか,人びとが家族や仲間との関係を大事にするという仮定をおいたうえでの数理モデルによる制度設計も可能でしょう.

 また,ほとんど公共哲学になってくるのですが,「どんな社会状態が望ましいのか,それはいかにして実現できるのか」という議論において,社会的選択理論とゲーム理論は,非常に有効です.功利主義原理,マクシミン原理,ジニ係数などによって,数理は公共哲学に共通のプラットホームを与えることができます.

 もっとも私は,ハードな制度設計より,個々人の考え方が変わると,社会がどう変わっていくか,さらにそれによって個々人の考え方がどう変わっていくか,という自生的な社会変容のほうに興味があります.ふつうは,こういうものを社会意識の変化というのでしょうが,社会の条件を整えることで社会意識が変わるのなら,これもひとつの社会構想のあり方なのだと思います.

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社会学と他の社会科学との違い 7/11→7/13(文献などをつけすこし改訂) (2004)

 経済学が市場を主な研究対象とするように,経験科学は経験対象をもちます.それでは,社会学の対象はなんでしょうか.結論的にいえば,社会学の対象は社会すべてです.しかし,そうだとすれば,諸社会科学をすべて集めればそれですみます.では,社会学などという学問領域がなぜ存在できるのでしょうか.ポイントは,社会学はその対象によって規定される学ではなく,その研究方略によって規定される学だということです.

 まず,「社会学の対象」じたいが社会学の研究対象でもあり,議論の余地があります.有名な議論は,コント・スペンサーに由来する「総合社会学」とジンメルに由来する「形式社会学」の対立です(富永健一『社会学講義』1章).

 総合社会学は社会学を,政治学,法学,経済学,教育学,宗教学などを臣下にしたがえる社会科学の王様とみなします.

 一方,形式社会学は社会学を,それらの諸社会科学と対等な一平民とみなします.形式社会学の対象は,暴力的に単純化していえば,人間と人間の(一般的な)関係です.それはたとえば上位と下位,競争と協力,闘争,秘密,結社,集団の成員数の影響などです.たとえば企業でも政党でも大学でも,上下関係はあるので,その具体的内容と切り離して上下という形式だけを抽出して分析することができるわけです.

 しかし,総合社会学は社会学独自の領域を見出せないし,形式社会学は形式だけを研究しても空疎だから挫折を運命づけられています.結局,このどちらの極端な立場も,今日では否定されています.では,社会学とはなんなのでしょうか.

 社会学の対象は,総合社会学が主張するようにやはり社会全域に及びます.しかし,その分析の方略は,総合社会学のような百科辞書的なものではありません.政治学,経済学など諸社会科学は社会をいわば「縦割り」に見るものです.反対に,社会学(および社会心理学)は,社会を「横割り」に見るのです(塩原勉ほか編『社会学の基礎知識』p3).

 つまり,集団・制度・構造・機能・役割・知識(暗黙知)・意味・規範・共属感情・愛情・行為・コミュニケーション・信頼といった「社会学固有の視点」(形式)から,政治,経済,法,宗教,教育などの機能分化した社会(内容)を領域横断的につないでいくことが,社会学の社会に対する分析の方略といえます.これは「これまで関係のなさそうにみえたものに関係をみいだす」という発見的手法です(したがって歴史資料や人類学資料を用いた比較研究がよくなされます).だから,けっして社会学は政治学,経済学,法学,教育学,宗教学といった社会科学の研究対象の「残余」を研究するだけの学ではないのです.

 大げさにいえば,社会学がなければ諸社会科学はバラバラになってしまうのです.したがって,あえて社会学の視点を擬人化していえば,それは生活者(生活世界)の視点になります(生活には社会すべてがかかわってくるため).また,社会学においては研究対象の限定以上に,なにを問題とするかという研究者の問題意識がしばしば問われるのは,この領域横断性のためでもあるのです.また,この領域横断性により,社会問題を考えるときには,社会学(者)が中心的な役割を果たすことになるわけです(アメリカでは社会問題がありすぎて,それを扱う学として社会学が意義づけられているようです)

 もっとも,今日の社会学は,領域横断的な社会学固有の理論(ウェーバー,デュルケム,ジンメル,パーソンズ,エスノメソドロジー,ルーマン,ブルデュー,ギデンズなど)が発達したおかげで,この理論に沿って,既存の社会諸科学の分析対象(政治,経済,法,教育,宗教,福祉(医療看護)など)を直接分析することが可能になっています.だから,経済社会学,政治社会学,法社会学,教育社会学,宗教社会学,医療社会学などという○○社会学が社会学以外からも承認されているわけです.これは領域横断性を意識しないですむという意味で,社会学の通常科学化といえるかもしれません.
 しかし,社会学固有の対象というものもあります.それは「情報・メディア」「階層」「都市」「地域」「エスニシティ」「世代(子ども・青年・中高年)」「家族・ジェンダー」「差別・マイノリティ」「社会病理・逸脱」「社会運動」「サブカルチャー」などです.また,「文化・社会意識」は人文科学全般にかかわるものの,やはり社会学が中心的かもしれません.そのほかの対象領域には,「知識・科学」「情報」「人口」「産業・労働・組織」「農山漁村」「環境」「災害」「国際・エリアスタディ」「 歴史・社会史・生活史」があります(社会学会大会申し込み用紙の部会希望などを参考).


 結局,ジンメルの形式社会学の成果は,それが社会生活を「内容/形式」に区別したことで,社会学固有の視点(形式)としての社会学理論が自覚され自律したことにある,と私は思います.たとえば,ルーマンは,「システム/環境」という形式的な差異から出発し,法,組織,政治,教育,環境などほとんどあらゆる社会領域にわたって論を展開することができるわけです.また,橋爪大三郎は,「性・言語・権力」という質的に異なる社会的な力(形式と内容の中間)から出発し,やはりほとんどあらゆる社会領域を論ずることができるわけです.

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コールマン・ボード:文系的手法と数理モデルの補完関係 6/30 (2004)

 社会(科)学において数理モデルはどのように位置づけられるのでしょうか.

1.数理モデルの特徴と代表例 数理モデルは,人びとの【ミクロな行為の集積としてマクロ現象を説明する】ときにきわめて有効です.

(ミクロ→マクロという考え方は素直な考え方ですが,論理的にはマクロ現象を交換システムや法や資本の自己運動といったマクロ変数だけで考えることも可能で(マクロ→マクロ),たとえば構造主義や機能主義やマルクス主義はこのような発想をとります.いわゆるデュルケム流の社会を(あえて)実体視する考え方が典型です.しかし,今日の社会学理論(ルーマン,ギデンズ,ブルデューなど)ではこのようにマクロをマクロのままにせず,ミクロな行為やコミュニケーションにリンクさせています.とはいえ数理モデルに比べればそれらは非常にわかりにくく難解なものになっています.もちろん難解なものが悪いわけではないのですが.)

 このミクロ→マクロによる社会現象の説明は,経済学における「市場均衡理論」(需要と供給の一致メカニズム)が代表的ですが,数理社会学では「社会的ジレンマ」が有名です.これは「囚人のジレンマ」のN人版です.

 社会的ジレンマの経験的な事例としては,公害やごみ問題といった「環境問題」,一票の影響力の小さな「国政選挙」,今回の年金法案のように反対する人が圧倒的なのに大規模な国民的デモが行われず政策が通ってしまう問題(フリーライダー問題)などが挙げられます.

2.『プロ倫』とコールマン・ボード しかしここでは,ウェーバーの『プロ倫』を使ってミクロ→マクロを考えてみます.というのは『プロ倫』がきわめて解釈学的な方法すなわち文系的手法によっているので,逆に数理モデルの普遍的な補完性が明らかになるからです(選挙や環境問題は数理モデルが有効なのは論ずるまでもないでしょう).

 まず,前提として方法論的個人主義(ウェーバー)がとられます.といっても,個人の意図どおりに社会(現象)ができているわけではなく,<予言の自己成就>(マートン)のような意図せざる結果もありえます.

 だから,意図(内面)だけがわかれば社会がわかるわけではなく,【行為連関のメカニズム】(下図のAB)が問題になります.

 数理社会学では,「コールマン・ボード」(
佐藤嘉倫1998『意図的社会変動の理 論』p4-8,木村邦博2002『大集団のジレンマ』p16-20,J.Coleman 1990『Foundations of Social Theory』p8参照)が有名です.これで『プロ倫』を考えてみましょう.下図は木村(2002)のものです.

マクロ:P    M
    ↓    ↑
  @ ↓    ↑B
    ↓    ↑
ミクロ S→→→m
       A
M:説明すべき(マクロ)現象  例.資本主義
m:(複数の行為者の)行為  例.経済行動の選択
S:(行為者の取り巻く)状況  例.個々人の状況解釈
P:なんらかのマクロ社会学的変数  例.禁欲的プロテスタンティズム

上図は,現象=M(m(S(P)))

 上図は,社会現象が,ミクロな行為選択を通して,マクロな社会学的変数の関数でかける,というものです.私見では,PそれじたいもMでありうるので,時間を考えなければ,「循環」が生ずるわけです.

 @ABは,つぎの意味です.

@:マクロ→ミクロ:規範の内面化,制度的な知識,状況認識(構造)
A:ミクロ→ミクロ:行為選択(過程)
B:ミクロ→マクロ:行為集積

もちろん,n人では,S=(S1,S2,...,Sn)という関数です.

3.社会現象全体の説明における文理の役割  社会現象を説明するとは,@ABの全メカニズムを<理解>することです.それ には,@ABすべてを記述する<モデル>を構築することが肝要です(これが社会学 の主要な仕事だと私は思います).

 @〜A(行為の社会的背景)を理解するには,社会史や心理学や哲学といったいわゆ る《文系的》アプローチが有効です(これまでの社会学の伝統的な方法論である方法 論的集合主義).なぜなら,数理はそれじたいでは意味を語らないからです.

 たとえば『プロ倫』は,@Aはよく記述しています.しかし,Bはあまり明らかでは ありません.つまり,資本主義が狭い意味での禁欲的プロテスタンティズムを超えて 社会全体に普及していく過程が不明です.

 一方,A〜Bを理解するには,ゲーム理論や市場均衡理論などの【行為連関メカニズム】の理論,いわゆる《理系的》アプローチを用いるのが適切です.なぜなら,複雑な因果連関が数理的演繹によって厳密かつ比較的簡明に追えるからです.

 なお,『プロ倫』のBの過程,特に禁欲的プロテスタンティズムの衰退に関しては,七条達弘・小林盾「宗教倫理と資本主義の発達」『社会学の古典理論:数理でも蘇る巨匠たち』(三隅一人編)4章が進化ゲーム理論を使って説明しています.

4.方法論的関係主義としてのゲーム理論 行為連関メカニズムの理論では,よく人びとの「主観的合理性」が仮定されます.その内容は,主観的なので多様です.ですので,この合理性は,日本語のハードな意味での合理性よりはるかに意味が広いです.この合理性というのは,私たちがふだん「イラク日本人拉致事件」や「小泉訪朝」などの社会現象を理解するさいに無意識のうちに使っているものです.

 ただし,B行為集積の連関は,ゲーム理論では,利得関数と行為選択肢集合に集約されています.また,@の規範の内面化も,それらに影響しています.だから,ゲーム理論を使うときには,ゲーム理論内部では決まらない利得と選択肢集合(および共有知識)がどうやって決まっているか(=選択に先行する構造)を明らかにすることが,経験的分析のすべてと言ってよいのかもしれません.

 というのは,それができれば,あとは機械的にナッシュ均衡や部分ゲーム完全均衡を求める数学の問題になるからです(とはいえ,それらが絶対に実現されるという証明はないので,均衡として定常的に実現しているだろうというくらいのものですが).だから,ゲーム理論は,社会構造のマクロ理論と相互補完的なわけです.

 また,私見では,Aの行為選択過程におけるゲーム理論は,方法論的個人主義には還元できません.むしろ,方法論的関係主義(ジンメルorアリストレテス?に起源)というべきです.

 というのは,ゲーム理論では,自分の行為が他人の行為選択に依存するというダブルコンティンジェンシーが明示されているので,ここでは単純な最適化行動をとれず,ナッシュ均衡そのものが,個の合理性のみには還元されない集合的(関係的)な性質のものだからです(「調整ゲーム」,「チキンゲーム」など).

 ただし,「囚人のジレンマ」や「社会的ジレンマ」では,支配戦略があるので,これは単純な個の最適行動に還元できます.

 しかし,一般のゲームでは支配戦略はなく,ナッシュ均衡は,(混合戦略範囲では) 常に存在するので,ナッシュ均衡が分析に使われるわけです.

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社会を<モデル>でみることの意味 6/13 (2004)

 社会を<モデル>でみることは,社会科学の基本である.これは,脱構築的な思考をする場合にも前提となる.

 そもそも,私たちが社会現象を理解するときには,暗黙のうちにモデルが用いられている.たとえば,法律や銀行や学校や病院といった社会形象(安定的な社会現象)は,それを担っている当事者も含めて,生活のうちでそのイメージがだんだんと形成されてきたものだろう.このときこれらのイメージは,コミュニケーションや生活を円滑に保つために,齟齬がない形でなければならない.そのために,これらのイメージ(ピアジェがいうシェマ)はある程度の共通性をもち,他の社会諸形象と齟齬がない形での論理的構成物に漸近してくるだろう.このとき,これらのイメージは一種のモデルとみなすことができる.社会生活を送るうえで必要な「知識」というのはこういうモデルの総体だろう.このような社会成員がだいたい共通してもっている社会的な知識とかイメージを,(数理)社会学では「1次モデル」とか「1次理論」とよんでいる(経験的には出版物や法的規則で基礎づけられる).

 そして,社会学者の仕事は,基本的には,この「1次モデル」や「1次理論」(要は社会意識や規範)に言及することでそれらに対してメタな位置に立ち,それらの生成や変化を説明し,理解することである(社会学=2次モデル,2次理論).というのは,直接に社会のシステムとか制度というものは「もの」のようには存在していないから,人びとの頭の中を経由する必要があるのである.

 そしてこのとき,社会をモデルでみる,という方法がリアリティを増す.というのも,人びとが頭の中に市場や企業や病院や政治のモデルがあるのならば,そのモデルを記述するところからはじめるのは,最も素直なやり方だからである.そして,人びとがモデルによって物事を理解している以上,社会学的説明もまた,モデルを用いるのが素直である.というわけで,社会学的説明は,「モデルのモデル」,すなわち「2次モデル」という形式をもつのである.

 私はここで「2次理論」という言葉を使わなかった.このことを説明しておこう.ここでは,モデルといえば社会の局域をとりだしたものであり,理論といえば社会全域を見渡すパースペクティブをもつものとしよう.

 一方,本来的に,社会的な知識は,非常に構造的なもの,すなわち,要素をそれとして切り出すことが難しい,全体でひとつとなっている網の目である.というのは,知とか意味それじたいがそもそもそうであるからだ(ソシュール).したがって,本来的には1次理論という言葉のほうが適切かもしれない.

 しかし,社会的な知識においては,具体的には法律や企業や学校といった社会形象においては,それらの実体が(成文化して)自己規定を行っている.自己規定とは,すなわち自己言及であり,これはそこでの閉鎖的なコミュニケーション系(システム分化)を引き起こす.この閉鎖化により,それらの社会形象は相対的に独立する.この社会形象それじたいが引き起こす独立性により,私たちはだれもがにこれらの社会形象の関係する社会現象のモデルを,それ以外の社会的な文脈から(いったんは)切り離して構築することが可能となる.

 したがって,1次理論から1次モデルというものを取り出すことは妥当であるし,したがって,そのとりだされた1次モデルたちを分析する2次モデルも可能になる.このようにして,社会という,異質さを孕みながらも無限の因果関係をもつ構造体から,いくつかの社会現象を分析的に切り出してくることが原理的に可能になる.だからこそ2次理論だけではなく,2次モデルが可能になる.さもなければ,ひとつの現象を遡ることによって社会全体を説明しなければならなくなるのである(これはウェーバーのような怪物級の社会学者でなければできない至難の業だろう).

 このような遡る説明形式「一点突破→全面展開」は,社会学のむしろ特徴なのかもしれない.遡る説明形式は,無数の因果関係を明らかにすることで,より真理に近づきうるから.歴史的な手法がまさにそうである.しかしこのような思考は,分析的ではない.無数の因果関係をすべて遡るわけにはいかないのだ.どこかでそれを断ち切らなければならない.このとき,いかにしてその因果の鎖を断ち切るのかは,勘とかセンスのように思われる.しかし,本当はそうではない.2次理論家たる社会学者は,最初は漠然としたイメージかもしれないが,一種の2次モデルを描いていて,その2次モデルによって,そういう切断を行うのである(むろん,この2次モデルは,歴史資料やさまざまな文献に負うところが大きいだろう).だから,結局,歴史的なアプローチをしても,モデルからは逃れられないのである.このように,社会学でもモデルという方法は,必須なのである(物理学,化学,経済学などはあえてこんなことを言う必要がないくらいモデルという方法が普及している).

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リベラル・パラドクス(リベラル・パラドックス) 5/18 (2004)

 愛子と次郎は,とある集まりで,2人で幹事をやっていた.愛子はもともと世話好きだったので,この仕事を自分からすすんで引き受けていた.一方,次郎はもともと幹事なんてメンドウなだけだと思っていたが,愛子に好意を寄せていたので,彼女が幹事をやるとわかってすぐ名乗り出たのであった.ところが,愛子のほうでは,次郎を嫌っていた.これまでも次郎につきまとわれて嫌気がさしていたのである.とはいえ,一度幹事を引き受けた以上,やめるわけにはいかない.結局,2人は幹事の仕事をすることになった.

 次郎は愛子といっしょに会場に下見に行ったり,細かい打ち合わせをしたりできると思っていた.しかし,愛子のほうでは,できるだけ2人でいる時間を短くしたかったので,次郎が幹事の仕事に前向きなのをいいことに,うまく都合をつけてほとんど次郎ひとりで仕事をさせてしまった.

 あてがはずれた次郎にとって,ほとんどひとりでの幹事の仕事は辛いだけだった.一方,愛子は本来であれば幹事の仕事をすすんでやりたかったのに,できなかった.こんなことなら,次郎は幹事の仕事をせず,愛子だけが仕事をすることが,2人にとってよかったはずである.どうしてこんなことになってしまったのか.

 責任は,次郎だけにあるようにみえる.しかし,幹事をやろうとするのは,本人の積極的な自由意志なのだから,尊重されねばならない.では,責任は愛子にあるのか.つまり,愛子はガマンしていっしょに仕事すべきだったのか.しかし,あまりにも嫌であれば,そこから逃れる自由は尊重されるべきだろう(一応,愛子は幹事としての最低限の仕事はしているとして).ということで,愛子にもまた責任はない.つまり,2人がともに望まぬような結果になったのは,だれの責任でもない.

 結局,このようなケースは,行為の自由を尊重しようとすると,社会的な効率性が犠牲になるケースである.あるいは,社会的な効率性を尊重すると,個人の自由が犠牲になるケースである.これが有名な,A.K.センが証明したリベラル・パラドクスとよばれる現象である.

 セン以前には,アダム=スミスの見えざる手(市場メカニズム)のおかげで,市場という前提なしでも,自由と効率は仲がいいと思われていた.ところが,センは自由と効率がトレードオフの関係になりうることを証明した.しかもそれはうえの例にみるように,きわめてありふれているのである.

 また,社会的選択理論におけるリベラル・パラドクスは,論理構造的には,これまた有名なゲーム理論の「囚人のジレンマ」と同じである.ただ,リベラル・パラドクスのほうが,一般性がある(永田えり子1988「自由と効率」『理論と方法』3(1)).社会的選択理論は,必ずしも行為選択を伴わなくてもよいためである.つまり,リベラル・パラドクスは,囚人のジレンマにおける「個人的合理性→社会的非合理性」の個人的合理性が,自由の尊重に拡張されているのである.

 ちなみに,この例は,私の創作である.他の例は,センオリジナルの「チャタレー夫人」を使うもの(『合理的な愚か者』),脳死問題に絡めたもの(ソシオロゴスNo.21:小林盾),結婚問題に絡めたもの(『理解できない他者と理解されない自己』:数土直紀),マンションの例(『社会を<モデル>でみる』38章:金井雅之)などがある.

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今日における社会的なるもの 5/3 (2004)

 デュルケムは,社会的なるものに法や道徳といった社会規範を念頭においていたように思う.もっと根底的にいえば,言語や言説やそれに基づく集合意識といったものも社会的なるものである.これは今日でもおそらく変わりはない.

 しかし,今日的な状況においては,社会的なるもののヴァリエーションは増えていると思う.

 たとえば,テレビでの観戦が可能な(プロ)スポーツ,テレビで聞ける芸能人の歌や芸など(したがって今日の社会的なるものはマスメディアに多くを負う).

 だが,ここでは増大する知識の総体(=社会の知識)という社会的なるものにしぼって考えたい(テレビ番組も「試して〜」とか「タケシのテレビ〜」とか知識を売るものが多くなってきているし).

 具体的にはどこにでもある公共図書館.

 大学図書館でもよいが,これは社会の財産ではあるにしてもだれにでも利用可能というわけではない.(だれにでも利用可能であることが社会的なるものであるための必要条件というわけではないが,閉ざされた知識は,社会的な権力として作用し,また別種の社会的なるものになるので,ちょっと複雑だ.)

 また,新聞とか雑誌とか公共放送といったものは社会的なるものではあるが,一過的すぎて古い情報はアクセスしにくくなる.だから,公共図書館が社会的なるものの典型ではないにしても,社会の知識のイメージとしてふさわしいように思う.(いうまでもないが,ここでいう図書館とは建物のことではない.)

 そして公共図書館の最も今日的な形は,おそらくGoogleのような検索エンジンだろう.Googleはまさに社会の知識そのものなのではないか.「Google様に聞けば」といったネット上の文章をよくみかける.ここからわかるように,Googleは神のごとき扱いをされているのである(他ならぬGoogle様で検索してみてほしい).

 とすれば,私たちは「社会的なるもの」を非常に身近に感じられる世界に生きていることになる.なぜなら,今や多くの人が自宅のパソコンを介して,社会的なるもの=インターネットと日々接しているのだから(このウェブページを見ているあなたもおそらくそうだろう).

 デュルケムの社会分業論は,濃密な社会的なるものを原始社会の宗教に見出し,それが時代とともに希薄になっていくというものだったと思う.もちろん,それは今日でも刑法とか裁判とかに残っているのだが,全体としては希薄になっていく.

 しかるに,インターネットと検索エンジンという社会的なるものの登場により,私たちは再び,ある意味で濃密な社会的なるものへと回帰しているのではないだろうか.

 もちろん,力道山や巨人軍9連覇や東京オリンピックみたいに,日本国民が一体となっていた(ようにみえた)時期のほうが,デュルケム的な原始社会に近い気はする.

 しかし,その後は,宮台とか社会学でよく言われているように,大きな物語が崩壊し(マルクス主義の退潮・メディアの多チャンネル化),「一億総オタク化=島宇宙化」が起こった.島宇宙内部の社会的なるものはあるのだろうが,全体としてみればやはり,「仲間以外は皆風景」というリアリティなのである(だから道徳論議や憲法論議がおこる).

 もちろん,Googleという今日的な社会的なるものは,「なんでも屋」であってひとつの価値を押しつけることはしない.だから,原始社会のようにそれが集合的沸騰と生産組織をつくりだすこともないだろう.

 この新しい神は,個人主義なのだ.この点でキリスト教の,特にプロテスタントの神に似ている.例の神との一対一の関係だ(神を恋人のようにとか父のように思えという).しかし,司祭も牧師もここにはいない.真に一対一の関係なのだ.

 しかも,この神は個々の多種多様な知りたいという欲求に応えてくれる,いわば千手観音である(厳密には,千手観音は仏陀より位が低いし,仏陀もまた神ではなく仏だけれども,仏陀信仰より世俗的な観音信仰のほうが盛んだったのだから(?),実質的には神だろう).だから,それと私は私の好むようなどんな関係でももつことができる.こういう意味でも個人主義的な神である.

 また,即解答を与えるという意味で,コジャーブ=東浩紀がいうような<動物化>という時代に適合した神ともいえる.

 しかし,否,だからこそ,その神の万能は計り知れないのである.あらゆるネットユーザーの多種多様な欲求の総体を通時的にだれも観測することなどできはしないのだから.そしてこの不可測性がまた,Googleを神らしくさせるのである.

 しかし,Googleの正体は,結局のところ,インターネット上のウェブページという膨大なデータベースへの通路である.この意味では,むしろGoogleそのものはシャーマン(大いなるものと繋がることのできる者)であるにすぎない.そして,本当の神は,ネット上のウェブページの総体である.そしてその個々のページは,個人のタッチタイプの結果にすぎない.この神の正体は,結局は人びとの行為の集積=社会なのである.

 しかし,集積というのは特別な意味をもつ.チリも積もれば山となるどころか,量は質に転化しうるのだ.いうまでもなくシナジーとか創発といわれるあれである.これは,要素に還元できない集合的特性のことをいうが,それが社会全体になったときには,まさに新しい神が生まれるほどの創発が起こるのである.インターネットの到来は,このように新しい世界宗教の到来でもあるのだ.

 なんだかマクルーハンみたいになってきたが,地球村みたいな楽天的なタナトスのない神なのではなくて,Google等検索エンジンは,あくまで個への分断とか動物性を屹立させるような神なのである.じっさい,他人に聞けばその人との交流が深まるかもしれないが,Googleに聞いてもほとんどの場合,他者との交流はないだろう.もっとも非対面的なごく「弱い紐帯」ではあるようにも思えるが.

 べつに私はGoogleを批判したいわけでは毛頭ない.Googleは非常に便利だ.ただ私が言いたいのは,そういう便利さの影に隠れたものが云々ということではなくて,Googleという透明な共同性によって人びとの多種多様な欲求が全体としてはまったく不透明なままに束ねられ,なんとなく人びとがGoogleを介してつながっているというような意味での世界宗教が誕生しているのではないか,ということなのである.その神は,どこにもいなくてどこにでもいる.社会=汎神論の今日的な形がここにあるのである.

 すでにマスメディアの登場によって,社会的なるものは,復活してはいた.ただし,それは第3の権力だかなんだか知らないが,とにかく体制的なもの=管理者的なもののひとつであったことはまちがいない.つまり,テレビ・雑誌・映画等のマスな媒体では,スターが生まれ,ヒーローが生まれ,名キャスターが生まれたわけだ.彼らは言ってみれば,多神教における神々であり英雄であった.

 そして,時代はこの神々の神通力を単なる権力に格下げさせつつある.大きな物語の崩壊から,島宇宙へ,そしてデータベースへ(宮台=東).神々にとってかわって,唯一にして遍在する神=社会=顔のない超越者が君臨しようとしつつある.ここでは,権力=知はもはや出版社や一部の知識人のものではなくなり,フーコーがいうような無数の力の網の目という様相を見せつつある.なにがなににどんなふうに作用しているのか,そういったものの総体は皆目見当がつかないのである.

 こういうような時代がどこに行こうとしているのかは,じつはなんとなくわかるような気がする.歴史は繰り返す,である.無数の知=権力がざわめき,社会がデュルケムとマートンの両方の意味でのアノミー状態にあるとき,時代は中央集権を求める.われわれ人間は本質的に怠惰であるから,アノミーとか無制限の自由にたえられない(フロム『自由からの逃走』).救世主みたいな人が現れることを期待して,その人にこういうふうにしなさい,と言われたくなり,頼りたくなる.抽象的にいえば道徳が法になるのを期待してしまう.要するに社会が右傾化するのである.

 じっさい,いくつかの地方自治体でこういう道徳の条例化の動きがある.これはもう緊急措置なのだと思うけれども,それが緊急措置であることが忘れられ,制度が物神化することだけはやめてほしいと思う(往々にあることだが).

 私たちはネット社会では,汎神をいただきつつあるが,現実の社会では逆に,救世主か英雄を求めている.これをバランスをとっていると見てはならない.現実はネットに優越する.ネットに接続する者は一部の者にすぎない.そして,私たちは生身の身体をもっている.ネットは,そのアクセス(距離)の平等性・テクストやイメージの抽象性からむしろ社会の理念型(抽象型)に近いが,現実の社会は階層があり,男女という性があり,年齢があり,職業があり,法があり,要するに無数の属性をもった身体と,それらを統括するリヴァイアサンたる管理者=国家がある(ネットには管理者がいない).

 ネット社会は,起源である軍事的目的を別にして,当初,研究交流や言説の自由空間として生まれたように思うが,それにも政治や経済の力が浸食されはじめている(たとえばイラク人質事件で,政府関係者が情報操作目的で掲示板等に書き込んだり,yahooの検索ではじめのほうにヒットさせるのを金の力で買えたりする).M.ウォルツァーに言わせれば,これは複合平等の違反,つまり専制である.ヴァーチャル(仮想的)なものが,ヴァーチャルなもので完結しているはずがない.それは常に言葉の真の意味でヴァーチャル(実質的)なのである.

 それでもなお,私はネット社会という公共空間に,国家や市場に対抗できる社会の力があると思っている.それは,時代に合った緩い連帯(弱い紐帯)を可能にする.私はできる限り,私の望むリンクを張り,私の言いたいことを書く.みながそうすることで,リンクを張り合うことで,それは国家と市場に対抗できうるひとつのゆるい組織体(社会)へと成長していくはずである(村上龍みたいだけど).すくなくともそう思いたい.これが私たちにとっての新しい社会的なるものの希望的な側面だと思う.

 私たちはGoogle=データベースという顔の見えない神を使いつつ,顔の見えるホームページのリンク,すなわちリゾームを構築していくべきなのではないだろうか.ホームページのリンクこそ今日的な連帯のかたち,すなわち国家と市場に対抗できるものとしての社会(もちろん社会的なるもの)なのだと思う.社会の右傾化に抗して.

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対米軍事協力以外の可能性 4/25 (2004)

 「北朝鮮から日本を守ってほしいからイラクでアメリカに協力する」というのならば,なにか他にアメリカに対して非軍事面で協力できることはないのか?

 日本が,イラクに自衛隊を「派遣」したのは,イラク復興のためというよりむしろ,アメリカが困っているからここで恩を売って,お返しに北朝鮮から日本を守ってくれと強く頼めるからだ.

 これは現実的な選択であると思う.ただし,状況がここまで悪くならなければ,の話である.すでにイラクは事実上,戦場と化している.政府の「自衛隊しか今のイラクでは支援活動はできない」という論理はそもそも,自衛隊を非戦闘地域に対してのみ「派遣」するという約束と矛盾する.それで,「テロに屈しない」などという単なる意地,つまり感情で強弁している.もっと冷静沈着な判断が求められるのではないか.

 たしかにいったん「派遣」してしまった以上,撤退はさせにくい.しかし,イラク情勢が悪化し,人質も解放された今こそ,撤退させるチャンスなのではないか.今,撤退させれば,人質はすでに解放されたのだから,べつにテロに屈することにはなるまい.単に情勢が悪化して,憲法9条に大幅に抵触するからという理由で撤退すればよい.

 このとき問題になるのは,北朝鮮だ.しかし,これにはすでに日米安保で,日本はアメリカに「思いやり予算」で軍を駐留させているのだから,アメリカが日本を守るのは当然のことではないだろうか.それでダメだというなら,他にアメリカに対して経済的な優遇措置(農作物の自由化とか)をとるとか,いろいろな手があるだろう.

 もっとも私は政治の素人だから,この意見が正しいかどうかはわからない.もっと知識がある人に逆に聞いてみたい.

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「テロに屈しない」危険 4/25(2004)

 一度出してしまった以上,人質をとった相手の要求を飲んで自衛隊を退却させることはしがたい.それでは相手の思うつぼである.だから首相は,退却させない方針を即決した.この決断は一部では(男性を中心に)高い評価を受けているようだ.

 しかし,これは非常に危ういと思う.結果的に同じ結論に達したとしても,もうすこし悩んでもよかったのではないか.人質は殺される危険があった.首相の発言は,人命を軽視しているといわれても仕方がないのではないか.

 もっと怖いのは,この即決を世論が評価したことだ.3人の命より国家の威信をとるこの決断を国民は支持した.人命はずいぶん軽くなったように思う.

 加えて,この国の人びとは,悩むプロセスを「優柔不断」=マイナスととらえたのではないか.そして,即決をパフォーマンスとして軽くとらえた.今の社会は,どこでもスピード重視(特に経済で)だから,これが背景にあるのだろう.しかし,道義的な問題は,決断をすぐに下すことよりも,悩むプロセスにこそ価値がある場合が多い.そうでなければ,なぜ『ハムレット』が名作なのかがわからなくなる.この国の人びとは,ここ10年つづいた不況のために精神的に余裕がなくなって,悩むことそれじたいの道徳性を「贅沢品」のようにみなしはじめているのではないか.

 首相は相変わらず人気が高い.パフォーマンスとさわやかさが受けている.しかし,軽すぎやしないか.いろいろもっと考えるべきところを,感覚的に受けをねらって決断しているようにみえる.たとえば,彼のよくいう「テロに屈しない」という言い方.これはそうでなかった者をテロリストにし,敵を増やす言い方であり,日本を「テロとの戦争」=「アメリカ・イスラエルV.S. アラブ世界」に巻き込む最も危険な言動だ.なにか戦う姿勢を強調すればカッコイイとでも思っているのではないか.やはり受けねらいで,危険が意識されていない.

 靖国神社の参拝もそうだ.日中の歴史を軽視している.信念をつきとおすことが格好よくみえるからそうするにすぎない,というようにみえる.そのような信念が,刷り込みによって社会的に作られてきたものであることを意識しないし,自身の言動が,多くの日本人を含むアジアの人びとに対してどのような影響をもつかということが配慮されていない.なにか,我が強すぎる子どものような感じ.そして,最も驚愕すべきことに,それが「受けている」.パフォーマンス政治は,衆愚政治のはじまりだと思う.

 日本の民主主義とはなんなのだろうか.去年,民主党が自由党と合併し,自衛隊,年金,景気対策,構造改革,教育,憲法論議,マニフェストなどあれだけ争点が多かった国政選挙での,投票率の低さ(60%届かない).まあ2人に1人が投票しているからまだいいのかもしれない.しかし,あんなに面白い選挙は滅多にないと思ったものだが...

 小泉首相は,独裁者の素養がある.実績に比べて人気とりがうまい.自衛隊の戦地への「派遣」など,今までどんな自民党の政治家ががんばってもできなかったことをいとも簡単にできてしまう.野中さんが,去年,突然辞職したわけが今になってよくわかる.首相の軽さは,非常に危険だ.

 しかし,その軽さをこの国の人びとはたぶんあんまり気にしていない.日本人にとっては,法とか政治というのは,お上のやることで,下々はお上はちゃんと下々のことを考えてやってくれているだろう,という信頼があるのかもしれない.じっさいそれが政治ではなく経済中心の国民性を形成し,高度経済成長を可能にする一因であったようにも思う.

 しかし,もうそのようなお気楽な時代はとうに過ぎ去った.人びとは今こそしっかり政治を見つめるべき時代なのである.世の中は不安定であり,政治家のひとつひとつの決断が,重大な結果を生む.そういう重い時代に入っているのに,政治家のパフォーマンスや軽さを評価する政治的文化は,幼稚という段階を過ぎて非常に危険なのである.

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人質自己責任論の誤り 4/19 (2004)

 「人質」と「自己責任」で検索したら,いろいろ出てきたが,偶然みかけた江川尚子さんの意見草壁聖一さんの意見がまとまっているように思った.それらを私なりに解釈してみた.

@ 「危ないから行ってはいけない」という論理でだれも行かなければ,そこの状態をどのようにして正確に知ることができるのか?もしも自衛隊と政府関係者だけがイラクに行き,メディアを含む民間人がだれも行かなければ,政府に都合のいい情報しかわれわれにはとどかない.われわれには,知る権利がある.だからこそ危険を冒してでも複数のメディアは伝える義務がある(とメディア関係者なら考えるだろう).

 もちろん,民間人の情報が真実で,政府の情報が嘘であるということではない.複数のメディアが伝えることによって,全体として情報は公平なものになると言いたいだけである.

 そして,その公平な情報の価値と,人質をとられる危険とどっちのほうが大きいのかを秤にかける必要がある.さて,ここで情報の価値は,いうまでもなく,公共的な価値である(すくなくとも日本国民1億3000万人にとって価値である).したがって,すくなくともジャーナリストを含む彼らの行動に対して自己責任を問う論理は歪んでいる.

A 「みんなに迷惑をかけてはいけない」という論理の落とし穴.さしあたり金銭的な責任ではなく,「多くの人に心配をかけた責任」という論理を検証してみよう.「他者に迷惑をかけなければ,何をしてもよい」という論理がJ.S.ミルによって定式化された自由主義(リベラリズム)の倫理である.この文だけに着目すれば,論理的には,「他者に迷惑をかけることはしてはならない」ということは出てこない.論理的には,他者に迷惑をかける場合は何も言ってはいないのである.

 したがって,他者に迷惑をかけた場合には常に自分が責任をとる,ということは自由主義とは関係なく,単なる社会通念(しかしよく流通している)にすぎない.したがって,自己責任論=「自由な選択は自己責任が伴う」という一見自由主義的な発想は,「みんなに迷惑をかけてはならない」という「共同体」的な発想の裏返しにすぎない.

 加えて,あらゆる社会的行為は正負の外部性を伴う.私が起業すれば,周りの者は心配するだろう.その心配に対して私に責任があるのか?「みんなに迷惑(心配)をかけてはならない」という主張は,きわめて保守的なイデオロギーであり,この論理を貫徹すれば,あらゆる社会的行為が不可能になる.親が心配するのは親の責任である.心配はさせるほうではなくて,するほうが悪いのである.そうでなければリスクを伴うあらゆる試みが否定されてしまう.「心配させること」を悪のようにみなすことは,精神的に脆弱なだけにすぎない.

 もちろん,負の外部性しかもたらさないような身勝手な行為は,制裁の対象になる.今回の人質事件ではどうだろうか.彼らの行為(渡航)には,当初明らかに正の外部性(最初にみた情報の公平性,イラク人支援という直接の正の外部性)があった.そして,人質という負の外部性も最初から「リスク」(確率を伴う)としてあった.しかし,それは当初あからさまな「危険」ではなかった.イラクの治安の悪化と自衛隊の「派遣」によって,リスクが危険へと移行したのである.退避勧告は,この事情をふまえたものだ.しかし,完全な危険というものはない.事態はよりリスキーになったにすぎない.それに対して,正の外部性(貢献)は相対的に確実なのである

 退避勧告にしたがってすぐに日本に帰るべきなのか.すでに仕事は半ば遂行されている.このまま帰ったら仕事を投げ出さなければならない.彼らにしてみれば,自衛隊が来たおかげで仕事が邪魔されたのであり,自衛隊が来たから拉致されたのである.そして,日本政府のおかげではなくて,日本のデモのおかげで,解放されたのである.

 むろん,これは彼らからみた真実であって,政府関係者からみれば,事態は全く異なる.政府関係者にしてみれば,渡航禁止区域に自己決定によって入ったのだから,政府がなんで助けてやらなきゃいけないのか,ということになる.どちらも真実なのである.

 しかし,この政府の考え方は,理念のかけらもない.すくなくとも人質たちには,理念があった.それに自己陶酔していた面がマイナスであったとしても.そして,政府=国は,ホッブズが強調するように,リヴァイアサンなのである.これに対して,個人は無力である.その無力な個人が無謀ではあったかもしれないけれども,危険な異国に渡って公共的な福祉に貢献しようとしたのである.そのような勇気ある個人たちに対して,圧倒的な力をもつ者が自己責任を押しつけようとしているのである.

 そして,これが最も問題なのだが,それを世論が後押ししているのである.20億円といもいわれる金が使われた.その責任をとれ,という.しかし,私は,弱きをくじき強きを助けるようなことに加担することだけはしたくない.

 問題は金銭の問題ではなくて,品性の問題なのではないか.彼らのおかげで日本人の民間人がイラクで支援活動をしていることが全世界に明らかになった.なぜ,人質にとられることが日本人の品性を下げることになるのか.むしろ彼らによって,日本の民間人にもリスクをとって勇気ある人びとがいるのだということを世界に印象づけることだってできるはずなのだ.この勇気なる価値は,20億円の金銭に匹敵し,あるいはそれ以上の価値があるかもしれないのだ.それをなぜ,世論がとりあげないのか.これこそ「自虐」ではないか.

 そもそも首相は,アメリカとの友好関係を維持したいがために,あるいは日本の存在感をみせたいがために,自衛隊を「派遣」した.犯行声明文にしたがうならば,そのことによって,拉致がおこった.しかし,今のアメリカとの親密な友好関係を保つことと,それによって日本人をテロや人質の危険にさらすことのどちらを国民は望んでいるのか.当初,国民の過半数は,「派遣」を望んでいなかったはずである.それを既成事実を積み重ねることで,逆転させたにすぎない.なぜ,既成事実を許すのか?そこにもこの国の人びとの脆弱さを感じざるをえない.

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「今しかできないこと」と「今したほうがよいこと」 4/18 (2004)

 少女が「今しかできないから」といって深夜の渋谷の町にくりだす.少年が「今しかできないから」と犯罪を犯す.

 このような戦略は,じつは長期的な視点に立った合理的的な戦略である.歳をとったらもうできないことは,たしかに今しかできないのである.ある人は聞いて呆れるかもしれない.しかし,簡単には反論できないようにもみえる.だからこそ少女たちは,この文句を免罪符がわりに使うのだ.

 とはいえ,このような論法に引っかかりを覚える人は多いだろう.なぜだろうか.簡単なことである.若いうちしか「できない」ことは山のようにある.それなのに,なぜ彼らは他でもないそれを選んだのか.彼らがよくよく考えたうえで「それを本当にしたい」のなら,それは仕方ない.しかし,もしも彼らがそれをする理由が「今しかできないから」というものなら,彼らは周り(メディアや仲間)に流されているだけにすぎない.

 「今しかできないこと」は山のようにある.ここで「今」とは就職前とよみかえておこう.それらは,スポーツや文化の部活動,音楽活動,読書,勉強,恋愛,様々なアルバイト,旅行(放浪),ボランティアなどいくらでも挙げられる.今,何を選択すべきかは,合理的には,「今ここ」の真の欲求と,人生計画にもとづいて決定されるべきである.

 自分が本当にしたいことを見つけられた人は幸運だ.そういう人はその道をつきすすめばいい.しかし,たいていの人はなにが本当にしたいのかなんてわからない.そうであれば,それを見つけるために,いろいろなことをしてみるべきだろう.結局,いろいろなことをしてはじめて,自分に何が向いているのか,自分がどういうことを望んでいるのか,ということがわかってくる.そこではじめて人生計画が立ち,「今したほうがよいこと」がみえてくる.

 そうであれば,紋切り型の「今しかできないこと」(仲間と遊ぶ,犯罪を犯す)では,いつまでたっても「今したほうがよいこと」は見えてこないのである.

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発表しなかったら存在しないに等しい 4/12 (2004)

 論文を書くのは苦痛を伴う.すくなくとも私にとっては.なぜならその時点でもう研究じたいは終わっていて,あとは知識の整理であり,まとめるだけにすぎない,と思ってしまうから.でもそういうふうには思いたくない.そこで考えてみた.

−2.研究過程の高揚感 たぶん多くの研究者が共感してくれると思うが,研究は試行錯誤の連続であり,その軌跡はカオティックだろう.そういった混沌の中からいつしか一筋の光のようなものが見え始めたり,あるいはさっと見えたりする瞬間がある.これを閃きというのだろうが,閃いたあとの数時間,あるいは数日くらいは,一種の高揚感が持続し,研究が進む.これは励起状態とでもよべるもので,このあいだに一気に論文を書いてしまいたいところだが,そうそう研究ばかりもしていられない.よってだいたい後回しになる.そうすると高揚感はなくなり,書かなければという義務感だけが募っていく.

−1.執筆の困難 しかも,書き出すと,だいたいどこから書いてよいのかわからない.研究の過程では,他者は無視され,いわば「自分だけの世界」がオートポイエティックに展開している.しかし,論文では,いったんオートポイエティックに展開し,創発した個人的な思考回路をふたたび,社会的に共有されたコンテクストに結びつけなければならない.そもそも自分がどういうふうに考えてきたのかをトレースバックしていくのは,軌跡が錯綜としておりカオティックであるのだから,そこに新たな道をつくるようなものだ.だから研究それじたいよりも骨が折れるのではないかとさえ思う.しかも研究は新たなものが生まれる瞬間に立ちあうので,高揚を伴うけれども,書く作業はそういうものはあまりないので,たんに辛いだけである.だからどんどん後回しになり,発表が遅れる...では,いったいこの書くという作業にどのようなモチベーションを見出したらよいのだろうか?

0.執筆の位置と過程 いったん常識から浮遊し(研究),それを再び常識につなぎ合わせること(執筆).これが研究の大きな流れである.つまり,研究:社会→個人,執筆:個人→社会.後者では,他者(読者や学会の聴衆)が意識される.他者の既存の知識を推定し,自分の知識を整理して,どこから話をはじめるのかというスタートラインを決めなければならない.ついで,他者たちをどこへつれてゆくのかというゴールラインも決めなければならない.そして,スタートから出発し,同時にゴールから遡行して,両者をうまくつなぎあわせる.学会報告でも論文でもこの点は同じだと思うし,また授業や講義も同じだろう.では,そこには自分を喚起するどのようなモチベーションがありえるだろうか.

1.ゼロリスク 研究はきわめてリスキーである.研究のコストに見合う成果はだいたい返ってこない.しかし,研究がすすみ,ある程度の結果が出ればあとの作業すなわち執筆にはもうリスクはない.そこで,「あとは書くだけ!がんばりさえすればいい」というモチベーションはありだ.しかし,これでは書くことに消極的な価値しか見出せないとも思う.

2.芸術作品としての論文 唐突だが,学会報告・論文などの研究発表も【表現】なのである.つまり「芸術作品」なのである.文学や,演劇や,コントや,映画や,ドラマや,あるいは絵画や音楽やファッションと同じである.「芸術作品とは,他者を感動させるもの」だと思う.もっと弱めて,「芸術作品とは,他者の心を動かすものすべてである」とさえいえると思う.翻って,研究発表(論文)は,内容がしっかりしていてかつそれが理解されさえすれば,「ごちゃごちゃしたものが整理されたときの爽快感」や「発見の喜び」を与えることができるだろう.このようにして研究発表(論文)は他者の心を動かす芸術作品たりうるのだと思う.

3.<社会の側からの解釈>としての執筆 それには,当然,研究が理解されなければならない.ということで,【分かりやすく伝えること】が必要である.それに,分かりやすいというのは,それじたい爽快(=芸術作品としての価値)である.だから,その分かりやすさというものは,通常理解されているより高い価値があると私は思う.もちろん,単にわかりやすいだけではダメで,それが作品であるためには,やはり差異が,新しさが要る.しかしこれは研究の内容だから当然である.それでは,発表それじたいがそなえる作品性とはなにか.それはおそらく,社会の側からの【解釈】なのではないか.解釈は広い意味で内容を分かりやすくする.ここで重要なことは,執筆は,【社会的な共有知】による「個人の研究」の解釈という創造的な作業を含んでいるということである.だからこそ執筆は難航しがちなのである.「私が」研究を主張するのではなくて,「社会の側に立って」研究をどう整理し,受け止めるかという視点で,論文は書かれるべきなのである.

4.執筆による発見 したがって,執筆過程は社会の側からの創作なのだから,やはり多くの発見があるのではないか.頭の整理上のものだけでなく,研究上の発見もまたあるかもしれない.書くことによって,自分では理解していたつもりだったのに,じつはよく理解していなかったことが分かったり,またより深く理解できるようになる.また,頭が整理されることで,新たな解釈を思い浮かぶこともある.そこで,書くことは,発見することだと思いたい.それは研究内容と同等の価値があるのである.

5.論文のまとめ方 ところで最近,私は学会発表の準備や論文を書く前に,友人に自分の研究を説明することを心がけている.歩いているときとか喫茶店の中でとか食事中での雑談やおしゃべりなんかで気楽に.こうして具体的な他者,知ってほしい人の前で説明しようとすれば,いやがうえでも頭を整理して,研究内容という構造的なものを線形的なもの(tree)に変換して,時系列的(=文章や話)にしなければならない.いったんそうすると,論文の全体像が明確になり,論文を書く見通しもつく.

6.研究という仕事 そもそも研究なんてほかの人に伝わらなければ,存在しないに等しいのである.自分の中だけの研究は,社会的なgoodness(あるいはwelfare)を生むことはけっしてない.唐突だが,仕事とは,welfare(社会的によいもの,豊穣さ)を生むことだと思う.ここで,【社会的によいもの】」とは「潜在的にだれにとってもよい可能性をもつもの」である.したがって,仕事の本質は,「パレート改善」である.だからこそ,人は仕事をすることで自己の存在意義を見出す.仕事は承認を含意するのである.そして,皿洗いでも,掃除でも,料理をつくるでも,物をつくるでも,何かを運ぶでも,サービスをするのでも,通常の仕事はそれをするだけで同時にパレート改善をもたらす.しかし,研究者の場合,研究過程は研究者以外にとっては,なんの意味もない.つまり,研究者は書かなければ,発表しなければ,なんにも仕事をしていないのと同じなのである.つまり,自分自身の社会的な存在意義がないのである.だから,研究者は,多くの他者に自己の研究を知ってもらわないと,結局,存在しないも同然なのだ.

※ ただし,だからといって,研究者は常にアウトプットを出し続ける必要はないと思う.それは,結局,多くの場合,成果の出やすい目先の利益だけの研究のみをしつづけることになり,時間はかかるけれども影響力の大きい基礎研究を疎かにすることになるからだ.そして,成功した基礎研究ほど研究者としての大きな存在感を示せるものはないのである.

 しかし,「発表しなければ存在しない」という考え方は,強迫的であり,肯定的にこうしたほうがよいというものではない.では,肯定的にいえばどうなるか.それは,やはり【貢献】という言葉が適切だろう.研究過程だけにとどまっているだけでは,社会全体の<知>に貢献できない.ここでいう<知>とは,だれでも利用可能な公共財であり,具体的にはすべての図書館や本屋の蔵書やCD-RomやHPである.大学のゼミなどは濃密なコミュニケーションではあるが,だれにでも利用可能というわけではない.1回きりの学会報告も規模の差はあれ同類である.やはり,貢献には,論文がよく似合う.そして,<知>への貢献こそ,研究者にとって最大の「生きがい」なのではないか.だからこそ大学の評価システムも学会発表より論文を重視する.特に,<知>は日本だけのものではなく世界レベルであるから,英語論文が重視される.

 (私は英語で論文を書かなければならないと思う.しかし,見知らぬ他者のために書くよりも,具体的な他者たちのために書くほうが書きやすい.だから日本語で書いてしまう.早く私の分野の外国の研究者と友人になるべきだろう.)

7.友人に向けて書く <知>への貢献といったが,それほど大上段に構えることもないかもしれない.じつは,私を支えてくれている周囲の仲間の研究者たちに向かって書いてもよいと思う.たとえば,友人にメールを送るような気持ちで書くというのは楽な構えだと思う.むしろ,そのほうが自然だし,じっさいほとんどの読者は彼らなのだから.ただし,もちろん仲間内でのジャーゴンを使って公共性を閉ざすことだけは避けなければならない.モチベーションは友人に向けてであっても,表現は公共的でなければならないのである.

まとめ  論文執筆のモチベーションの作り方は,つぎの7点にまとめられる.
  1. 執筆は,がんばりさえすればいい.(リスクはない)
  2. 論文は,「整理による爽快感」&「発見の喜び」を価値とする芸術作品である.
  3. 執筆は,研究内容の,「社会の側からの創造的な解釈の試み」である.
  4. 執筆は,研究上の発見をも生む.
  5. 書く前に,友人に説明する.
  6. 論文は,<知>への貢献である.
  7. 執筆は,友人に向けて書くつもりで.ただし表現は公共的に.
特に,3点目(社会による解釈)と4点目(研究上の発見)がよいモチベーションとなると思う.

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出すぎた杭は打たれない 4/1 (2004)→4/12改訂 (2004)

 「出すぎた杭は打たれない」という言葉は,もう定着したのだろうか.もちろん,この言葉は「出る杭は打たれる」ということと矛盾するものではない.なにか変わったことをやるのなら,大胆かつ繊細に,つまり徹底してやれということである.

 私の前指導教官であり,今でもお世話になっている武藤滋夫先生の口癖は,「ちゃんとやれ」である.ゼミの発表なんかでちゃんとやらないと,他研究室の学生でもひどく怒られたものだ.

 「出すぎた杭は打たれない」という言葉は,この「ちゃんとやる」ということを含意していると私は思う.ちょっとだけ変わったことをやろうとすると,既存のものの権威の重力下にあるから,足をとられる.でも,他人と全く違うことをやれば,自身のロジックに内在して評価されるだけなので,シンプルである.

 たしかにキワモノ扱いされる可能性はある.しかし,キワモノかそうでないかは,だいたい局所的な多数決によるものだ.そのタコツボではキワモノでも,もっと広い世界では,正統的かもしれないのである.

 まあ,広い世界での正統性なんていうことは,中心-周縁的なフレームに囚われているようにも聞こえるので,おいておこう.多中心的という言葉がある.多中心とは,それじたい矛盾を孕んでいるけれども,あながち否定できないリアリティをもっていると私は思う.やはり現実的には,だれもが社会の中心であるわけではない.けれども中心は,複数あっていいし,そうあるべきだと思う.マルクス主義社会やイスラム社会では,その理論(宗教)に最も精通する人が,社会の中心(opinion-leader)であるといえるのだろう.しかし,自由主義社会では,中心が複数なのである.

 では,だれがいくつかの中心になりえるのか.この有限なポストをめぐる判断基準は,やはり,それなりにちゃんとやっているかどうか,ということになるのだと思う.私は,こういうものは,競争ではないと思う.むしろオンリーワンたろうとして(中心を作る),そうなれるかどうかという自己との戦いなのだと思う.本当はそうではないのかもしれないし,もっとシビアな現実があるのだろうが,すくなくとも私はそういうふうに思いたい.

 (私がなんで「中心」などという古臭い概念にこだわるかのかというと,それは人間の「認知能力の有限性」と「資源(ポスト)の有限性」のためなのである.認知能力が有限だから,「権威」や「信頼に足る」人や組織に物事をゆだねる.資源が有限だから,だれもが芸術家や研究者の職にありつけるわけではない.そして最近の歪んだ競争社会では,「二世」や「親戚」などの「コネ」が横行しているから,有限なポストはさらに少なくなって競争は激化している.)

 一方,社会にとって,つまりどの人にとっても重要なことは,どんなことをやってもちゃんとやりつづけてさえいれば,それなりに評価されるという漠然とした信頼をもつことではないだろうか.そういう信頼感がもてなければ,新しいことはやりにくい.だから,そういう信頼感は,閉塞感のない社会を目指すのであれば必要だろう.そしてこのような信頼感こそが,<寛容>の精神なのだと私は思う.

 寛容は,自由と深く結びついている.ここでいう寛容とは,出すぎた杭は打たないという非常に弱い意味での寛容だ.こういうミニマムな寛容だから,だらしなくなることもないと思う.自由主義社会とは,このような意味での寛容の精神をだれもがもつことなのではないか.

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青色ダイオード発明者に200億円の是非 2/1 (2004)

 サラリーマン時代に中村さんは,会社にかなり冷遇されながら,青色ダイオードを発明したそうです。もう自分の会社が嫌になってしまったので,最後に自分がやりたいことをやってやめようと意地を通した結果,開発に成功したのだそうです。人も金も物(研究設備)もないところでの研究で,社長の研究中止命令さえ無視したそうです。そういう中村さんの会社に対するいわばひとりきりの反乱が,皮肉にも会社の急成長という結果になりました。しかし中村さんは,その成功報酬に2万円しかもらえませんでした(学会でそのことを外国の研究者に話したら「奴隷」と言われたそうです)。そうなったのも会社の命令を無視したからなのでしょう。会社としても命令違反の業績に多額のボーナスをつけたら,会社の研究者のだれもが会社の命令を聞かなくなってしまうという懸念があったのかもしれません。しかし,そういう会社はやはり器が小さいと思います。会社を急成長させるという最大の貢献に対して,小さなことにこだわりすぎです。その結果,中村さんは,この会社を離れ,アメリカに渡ってしまい,結局のところ会社は莫大な二重の損害(人材と金)をこうむることになってしまったのです。

 しかし,それにしても個人が200億円を手にするというのは,ちょっと想像を超えています。イチローの年俸でも10億円くらいです。そこまでいくのにイチローは何年もかかっているから,おそらくイチローの生涯賃金をも上回るのではないでしょうか。東京地裁の判決は,1兆円市場といわれる青色ダイオードはその発明者には600億円余の配分があってしかるべき,とのものでした。それじたいは合理的で正しいように思われます。日本のサラリーマン研究者にとっても夢が与えられたのではないでしょうか。

 このことは,これまでの日本社会の仕組を根本から変わっていっているということを象徴しているように思えます。それは,集団重視→個人重視ということです。このことじたいは,とてもよいことです。個人のアイディアが新たな産業を生み出すことで経済社会全体を維持せざるをえない成熟社会に適合的ですし,個人が集団に対峙できるというのは,個人の自由の拡大ですのでよいことでしょう。また,私自身の価値観に照らしても,創造的な個が正当に評価されるというのは,むしろ当然のことに思えます。

 ですが,どうしても私には200億円(600億円?)をいっきょに個人が手にすることに違和感を覚えてしまうのです。たしかに,それほどの経済的価値があることは,裁判官の計算により正当化されるのでしょう。そして,業績的にもノーベル賞級と言われています(じっさいとるかもしれない)。そして,中村さん個人としては,会社に一矢を報いたのでしょう(というか会社を倒産させかねない)。しかし,果たしてそんなにお金があってどうするのでしょうか。会社でもつくるのでしょうか。あるいはノーベル物理学賞を受賞し,その副賞で研究教育の支援財団をつくるという小柴さんのように,中村さんは同じことをもっと大規模にするつもりなのでしょうか。だとすればよいのですが。というのは,個人がお金をどう使おうと勝手は勝手だと思いますが,そのような多額のお金には,いっしゅの社会性があると私は思うのです。その使いみちに関しては,法律でとやかく言うことは間違っています。でも,その使いみちに対して,倫理的にとやかく言うことは許されると思います。なぜなら,そのお金は,結局のところ,多くの人の汗水たらして働いたところの労働が反映されているからです。これはよく税金に対して言われることですが,べつに税金でなくてもいえることです。たとえば200億円を飲み食い代や,賭け事に使うこともできるでしょう。それじたいでも経済効果を生むのでタンス預金よりはましですが,でもそういうふうには使ってほしくないと思います。

 違和感を覚えるもうひとつの理由は,研究の価値が,お金に還元されて測られかねない,ということです。朝日新聞の記者も書いていましたが,お金にならない研究というのが研究の大半を占めると思います。基礎研究にいたってはほとんどお金にならないでしょう。研究の価値がお金で測られるようになれば,そういう研究がますます軽んぜられることになります。研究の価値は,お金とは独立でなければならないのです。

 M.ウォルツァーという人が,その著書『正義の領分』で《複合的平等》という正義論を打ち出していますが,彼にいわせると,今のアメリカ社会は,お金という価値が他のもろもろの価値を支配しつつあるようです。つまり,金持ちが,名声,政治,友人,恋人,家族,教育,健康,安全,自由時間,承認,仕事,チャンスなどすべての領域を支配する。これを「貨幣による専制」と呼びます。社会がこうなってしまったら,非常に閉塞的でしょう。貧乏人はあらゆる意味で敗者です。しかし,貨幣でなんでも手に入れられる資本主義社会は,それに近づきつつあるのです。あえて批判的にみるならば,中村さんは,このようなアメリカ的な「貨幣による専制」に加担しかねません。もちろんこれが危惧にすぎなければよいのですが。

 さらに,違和感のもうひとつの原因は,個人の力の過剰視です。中村さんは,じっさいに会社の支援を受けず,むしろ会社に反対されながらほとんど独力で青色ダイオードを開発しました。それは正当に評価されるべきです。しかし,そのような個人的な評価を合理的に貫徹していった場合,いわゆる社会の一部分の優秀な人のみが多額の収入を得て,それ以外の多くの人が,生きていくだけで精一杯の収入しか得られないのではないでしょうか。

 「2-8(にっぱち)の法則」というものがあります。これは,優秀な人はどの会社や組織でも2割で,残りはそれにぶら下がっているだけというものです(あるいは2割の熱烈なリピーター的ユーザーが会社の利益を生み出し,その他のユーザーは,ほとんど利益を生み出さない)。これは,人間社会だけでなくアリの実験などでも確かめられており,生物社会に普遍的にみられる現象と考えられます。しかも興味深いことに,このアリの実験では,よく働く2割のアリすべてを抽出して働かせても,やはりそのなかで分化が生じ,2割のアリ(全体でみれば0.4割のアリ)しかよく働かなくなるというのです。これは,遺伝や能力の問題なのではなく,2-8の法則というのが社会構造の問題であることがわかります。典型的なのは,東京などでは小学校のときによく勉強する優秀な2割くらいの人が私立の中学校(進学校)に入るのですが,そこでもまた2割くらいの人しかしっかり勉強しなくなるということでしょうか。

 おそらく,大組織であればあるほど,この割合は低下していくでしょう(大集団のジレンマ)。これは大企業病といわれます。だから,社内ベンチャーなどでできるだけ組織単位を小さくしていくわけですが。

 2-8の法則に戻りますと,この法則は,社会で活躍している少数の優秀な人というのは,じつは社会で活躍できる場が全体の2割しかなくて,運よく機会に恵まれてそこに選ばれているにすぎないということを意味しているように思えます。もちろん,選ばれるというところじたいに本人の努力と才能がかかわってきますが,そういう機会が与えられてはじめて努力できるし,その結果才能が開花する人もいるでしょう。してみると,業績で給与を完全に決定してしまえば,活躍できる機会のない8割の人たちは,業績も作れないので,生きていくだけで精一杯ということになるでしょう。もちろん,話を非常に単純にしているのですが,このように考えたとき,果たして業績だけで収入を決めてしまってもよいのでしょうか。じっさいには社会保障という考え方があるので,現実はこういうふうにはなっていないのでしょうが,日本社会も確実にこのような方向にシフトしているのです(青色ダイオードが象徴しているように)。個人の業績というのは,個人の力にすべて還元できるようなものではないということは,合理的に考えればわかることなので,忘れないようにしたいものです。

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リストカットについて 1/25(2004)

 今日NHKのクローズアップ現代でリストカット=RCについて特集していた.
印象に残ったこと:
  1. RCをする人=10代〜20代の少女,かつ親の監視が強い,かつ自己肯定感がない
  2. 少子化によって,親が子どもを監視する体制 → 子ども一人あたりの期待大 → 子どもにとって息苦しい社会
  3. ある少女はいう,自分がだれかを傷つけたたかもしれないと思って自分が嫌になったとき,RCで自分が罰されたような気がして,自己嫌悪から解放される=楽になれる.
  4. ある少女は,他人のために生きようとし(そのように教え込まれた?),自分の身体を感じることができなかったという.しかし,大学院を受けるときになって=自分で進路を選択するときに,自分のために研究するのだとわかったとき(友達に教えられた),自分が自分であることを
  5. アメリカでは,RCが日本より進んでいて,すでに専門家による対応システムができている.
RCといえば,うちの研究室の天野くんの修士論文のテーマだ.
RCもテレビでやるくらいだから,もうけっこう研究がすすんでいるのだろう.
以下は私の思ったこと.番号は上のものに対応している.
  1. いわゆるAC系.まったりのギャル系の反対.自己肯定感がないのは,他者のために生きようとしてきたから.他者にケアするのが当然視されてきたある種の女性は,自分より他人中心に考える規範意識を植えつけられる(じっさいにつねに他人中心というわけではない,なぜなら自分があなたのためにこんなにしているのにどうしてあなたは私になにもしてくれないの!という互恵規範が作動し,じっさいには身勝手に(=他人にさまざまな欲求をすること=自分中心)になりうる).
    これは他者が自己の生殺与奪権をにぎることを意味する.
    したがって,当然,自分が本当はなにをしたいのかという内省のエートスが形成されにくくなり,内的な確かさを欠く.
    と同時に期待に応えなければならないという義務感は強くなる.
  2. 娘と母のいわゆる連続性(母は娘を自分の一部のように感じてしまい,強くコントロールしようとする)も原因のひとつ?少子化によってこの連続性が強められている.
  3. 自分を罰することで,罪が償われる.罪の意識を感じるというのは,真面目な証拠.その真面目さは,やはり親の期待に応えようとし,ある程度応えられてきたがゆえに強化されたのだろう.
  4. 自分自身のまさに身体感覚を喪失していた彼女.
    やはり母-娘の連続性,女性へのケア役割の押しつけ,少子化などが原因か.
    それにしても原因には,親の歪んだ愛情がある.
    自分の夢を子供に託したり,子供のためにと思って,子供に内省を促さない(習い事,塾などで忙しくさせることで).
    じつは,これは社会全体にいえることなのではないか.
    内省する機会と自己表出の機会が与えられないことによってアイデンティティが他者依存的なものになってしまう.
    社会全体の構造がそうなっている.
    忙しさと他者を傷つけることを極度に怖がる規範.これこそ自己の肯定と成熟を妨げるのである.
  5. アメリカでは,多重人格なども多い.アメリカは,ストレスが多い社会なのだろう.成果主義,合理主義,個人主義などさまざまだが,根底にはプロテスタント的な神と自己の一対一関係(向かい合わせの孤独)と世俗的成功=聖という感覚があるのだろう.

    人間ってそんなに強くはないと思う.仲間うちだと落ち着くし.問題なのは,仲間の外に出ないことであって,仲間の存在じたいは,家(ホーム)のようなものであるべきなのだ.

    そしてもっと問題なのは,そのような仲間みたいなものがアメリカにはないんじゃないか,ということだ.アメリカ人はよくパーティをやって知り合い(友達)を増やしていくが,これは仲間という境界を壊すことである.結局は,個人単位のネットワークに還元される個人主義だ.安心して還れるような仲間うちがなければ,外に拡大していくしかない.十字軍のときからそうなんじゃないだろうか.だから社交の技術はアメリカ人はすごいある.でもたえず不安なのである.かえってこれるべき場所の不在ゆえ.

    しかし,仲間はときに,だれかを排除する.日本では,この排除の力学が強すぎて,みんなこれを怖れてしまう.他者を傷つける人は排除される=仲間はずれ.

    最も問題なのは,今の日本において,《還ってこれるべき場所の不在》というアメリカ的弊害と,《仲間はずれの恐怖》という日本的弊害が,同時にあって,しかもそれらが互いに強めあっているのではないか,ということだ.というのは,情報化がすすんだ現在では若い人たちにとって,仲間というものの範囲がどんどん狭くなってきている.しかし,アメリカ人のような社交の技術はない.そこで架空の仲間うちみたいなものを構想しようとする.本質的に理解しあえる仲間というのは,もはや幻想なのであって,リアルでなく,この他者との断絶は感覚的にある.にもかかわらずいわゆる日本人的な他者への甘えはひきずっているから,どうしても仲間はほしい.それで結局は,ノリによってヴァーチャルで一過的な仲間をつくりだす.しかしそれが常態化していく.じゃれあっているようなギャグの応酬は,深いコミュニケーションによって他者との断絶が露わになるのを避け,その場をうまくのりきるためである.このような浅いコミュニケーションによって共同体(真の仲間)ができるはずもない.狭くなった仲間でさえ,浅い.しかし,仲間はずれはもっと怖いので,浅いコミュニケーションしかできない.これが日本社会の息苦しさの正体なのではないか.

    もちろん,いわゆるものを考えない人はたくさんいて,ギャル系とかドキュン系の人である.彼らは深いコミュニケーションの存在じたいは知っていってもその体験がないのではないか.きっとそういう人もいるのだろう.問題は,一部のそういう幸せな人にひきずられて多くの人びとが浅いコミュニケーションの桎梏にからめとられてしまっている可能性である.これは少数派による専制であろう.

    いずれにしても,日本社会は,もっと自己表出の評価を高くするべきである.個人プレーなのではなく,パフォーマンスでもない.これらは自己表現である.自己表現は予め他者に対する効果を考慮した,計算されたものだ.計算されていない生の声.これが自己表出であり,それはおそらくかつて安い居酒屋がそれを可能にしていた.しかし,どこも小奇麗になってくると,自己表出はなんだかみっともなくて,みじめなものに思われてくる.じっさい,「酒の席」での盛り上げ方のハウツーや,語りモードのハウツーみたいなものがあって,すべてどんどん自己表出をさせないような仕組が整いつつある.

    定義上,自己表出より自己表現のほうが受けがいいにきまっているのだ.それに,自己表出は他者を傷つける恐れがある.だからこそ疎まれてきた.私はあえていいたい.他者は傷つけるべきものである.人は傷つくことによってのみ強くなる(内的に確かになる).互いに傷つけあうことこそ望ましいのだ.もちろん,これは言説上でのことであって,行動や態度でということではない.故意に傷つけてはならない.ただ,自己表出の結果,傷つくのであれば,それは傷つけるほうよりも傷つくほうに問題がある(精神的に脆弱)といいたいのだ.日本人(女性)はなぜこれほどまでに他者を傷つけることを嫌がるのか...?これは丸山真男の研究(全体主義)にも関係があるかもしれない.

    結局,日本人は他者を直視しようとはしていないのである.これが日本人の自信のなさの背景にある.なんとなくお茶を濁して,その場をやりすごす.そういうことばかりをしているのではないか.それは他者とはわかりあえないという諦念が根底にある.仏教的なのかもしれない.しかし,諦めからはなにも生まれない.真のコミュニケーションは,相互に自分の言語ゲームを教えあうことによって,相互に自身の言語ゲームを変容していくことである.これは,フロムにいわせれば精神の進化ないし存在の成長であり,人間にとって最高の価値をもつのではないだろうか.日本人が幼いといわれるのは,このようなコミュニケーションを回避してしまうからだ.「どうせ人間はわかりあえねえよ,だったらせいぜいその場を盛り上げて楽しくやればいいじゃん」みたいなコミュニケーション作法が常態化することはやはり人間と社会を貧しいものにしてしまうだろう.

    他者を傷つけることの忌避が結局,RCみたいな社会現象になっているかどうかはわからない.なぜならアメリカもそうだから.とすれば,アメリカと日本のRCの原因は異なるのかもしれない.
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