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エッセイ
ご意見・ご批判・ご中傷は「mmuto@のあとにvaldes.titech.ac.jp」におねがいします(笑).
意味を含むシステムとしての社会 5/26 (2005)
1. 社会科学と自然科学の違い
● 意味の有無 自然すなわち物質や生命は,意味をもっていません.すくなくともそのようにみなされています.裏返せば,意味は人間に固有のものです.
だから,自然科学は「意味を欠いたシステム」を扱い,社会科学は「意味を含むシステム」を扱うといえます.典型的な意味を欠いたシステムは,機械です.だから生物学は生命を自己複製機械とみなすわけです.
● 意味を含むシステム 一方,意味を含むシステムである社会は,機械的な面と意味的な面が複合されています.
社会の機械的な面を最もよく表現しているのは,今日の理論経済学でしょう.理論経済学は,意味的な面を「効用最大化」原理として限りなく矮小化しています.そのため,理論経済学は自然科学に漸近してきます.ここでは市場のような行為の連関メカニズムがモデル化されます.
社会の意味的な面を最もよく表現しているのは,理論社会学でしょう.とりわけN. ルーマンの社会システム論は社会を,政治,経済,法,家族,学,宗教といった,それぞれが普遍的なコード(二項対立的価値基準)をもつサブシステム間の関係とみなします.政治は「従う/従わない」,経済は「支払い/不払い」,法は「合法/不法」,家族は「愛している/愛していない」,学は「真/偽」,宗教は「救済される/救済されない」といったように,コードは意味的(ある方向を規定)かつ価値的(+−を規定)にそこでのコミュニケーション(行為の接続)を方向づけます.
そのようなコミュニケーションが行われることで,各サブシステムはシステムとしての自身の「境界」を,すなわち自己を遂行的につくりだします.たとえば,経済システムで起こることは,法システムに刺激を与え,それは法システム独自の言葉で解釈されます.つまり,各サブシステムは,互いに他のシステムをあくまで刺激として捉え,自己の言葉と文脈(専門用語)で内的に構成し直します.このようにして,各サブシステムは自律的に作動します.
● システム境界と研究者 このようにシステム自身がシステムの境界をつくりだすと考えるので,研究者がシステムの境界を外部から設定してモデルとして取り出し,対象とモデルとの乖離が残るといったことはルーマンの社会システム論にはありません(自然科学では対象とモデルの関係は近似ですが,社会科学では対象自身が自身でモデルを作っており,観察者のモデルはこれを踏まえたものであるべきだということです).ルーマンはこのようにして,うまく自発的に意味を営むシステムを理論化しています.
● 行為と意味 もちろん,社会は意味だけで構成されているわけではありません.経済学の伝統でもある方法論的個人主義は,社会を個々人の行為の集積として考えてきました.しかし,ある身体の動作が,行為という社会的な意味をもつものとして規定されるのは,当の行為をめぐるコミュニケーションによってです.身体の動作は生じてはすぐ消滅しますが,それは社会的な意味をもつ行為として比較的安定的に残ります(「伝説」はこうして作られます).だから,今日の社会学では身体の単なる動作の含みをもつ行為ではなくて,意味が社会にとって最も重要であると考えられているのです.
2. 意味と意味の間にあるもの
● 意味の限界としての意図せざる結果 しかし,私は意味だけ考えていればいいとは思いません.私たちが社会の存在を実感するのは,おそらく自分の描いた期待や予期(という意味)が否定されるとき,すなわち「意図せざる結果」が現れるときです.意図せざる結果は,他者の意味世界や社会に対する理解(という自分の意味世界)を超えた事態で,しかもふつうはなんらかの「不利益」を伴います.こうして意図せざる結果は,意味世界の再検討を促します.このとき,私たちは基本的には経済学とか法学とか社会心理学のような学知を求めます(宗教や文学や友人からの意見なども機能的代替物でしょう).それらは個人的な意味世界ではなくて,意味と意味の間にある社会のメカニズムの理解に寄与するからです.
社会学もまた,このメカニズムの理解に寄与すべきだと思います.たとえば,R. K. マートンが定式化した「予言の自己成就」はその典型です.銀行の取り付け騒ぎがその例です.経済学による市場や公共投資の理解もその一例です(市場均衡の効率性は正の意図せざる結果で,中古車市場のような逆淘汰メカニズムは負の意図せざる結果).特に数理社会学は,このようなメカニズムの理解に貢献すると思います.しかし以下では,もっと突っ込んで意味と利害の関係を考察してみます.
● コード さて,経済や法などを特徴づけるコードは普遍的だとうえで言いました.コードが普遍的というのは,たとえば法的なコードは民法にみるようにあらゆることに適用できるし,それはどのコードでもいえる,ということです.だから,コードは動物と植物を物理的に分類するようなモノの分割の基準ではありません.私たちはあるコトの意味について,経済的にも法的にも政治的(マルクス主義など)にも問うことができます.つまり,コードは物事の見方・考え方の象徴です.そしてそういう複数のものの見方が社会という複合的な意味を含む世界をつくりだしています(ものの見方の複数性を自覚して,それを比較検討するところに社会学の科学性があると私は思います).
このとき,なぜ私たちの社会が政治,経済,法,宗教,家族といった意味のサブシステムに「機能分化」されているのか,と問うことができます.そういう分化は自明ではなく,未開社会では一体です.
● 機能分化と道徳 M. ウォルツァーは,アメリカ社会を経済領域が,他の領域をドミネイトしていると言っています.また,先進国の多くの社会で,政治と経済や,政治と宗教や,性愛と経済は立前の上では,分離されるべきだと考えられています.このように,機能分化ないしコードは,単なる仕事の効率上の問題ではなくて,価値を孕む道徳の問題でもあります.
● 意味と利害 もっともこれは近代社会だけではなくて,賄賂が悪いということは古代から知られています.つまり政治的価値と経済的価値の交換が禁止なのは,交換すると社会全体でなんらかのメカニズムが働いて「うまくいかなくなる」のです.だから,政治とか経済の意味の独立性というのは,かならずしも意味だけで完結しているわけではなくて,そこには「うまくいかなくなる」というコンフリクトすなわち不利益が潜在しています.だから,社会は,意味と利害という両面から考えていかなければならないのです.
このように,社会は意味を含むシステムであって,単なる意味システムではありません.自己の意味世界と他者の意味世界,あるいは政治の意味世界と経済の意味世界などの諸意味世界の間には,行為の連関があり,齟齬があり,コンフリクトの可能性があり,利害の一致と不一致があります.こういった「利害と意味の関係」を解明していくことが社会学の課題なのではないでしょうか.A. ギデンズがいうように,このことは隠れた制度とか権力の問題につながってきます.
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合理的選択理論のトートロジー 10/22 (2004)
合理的選択理論では,通常,観察された行為は,複数の行為選択肢のうちで選好を最大化するものとされます.しかし,選好そのものは空虚で主観的であって,なんでもありです.だから,観察されるどんな行為も選好を最大化しているものとして説明できます.
しかし,これはじつは説明ではなくて,言い換えにすぎません.だから,よく合理的選択理論はトートロジーなので説明力がないと言われます.しかし,これにはすくなくともつぎの2点から反論ができます.
1.行為連関の理論
第1に,合理的選択理論は,単一の行為を説明するものではなくて,複数の行為者による行為連関を主に分析対象とするものです.ゲーム理論が扱う対象(相互に自分の選択が他人の利害にも影響する状況)は行為連関ですし,一般均衡理論の扱う対象(完全競争市場)も,一種の行為連関です.しかし,単一の行為それ自体にかんしても規定しておく必要はあるでしょう.さもなければ砂上の楼閣になりかねません.
2.効用内容の特定
そこで第2に,最大化の対象である選好つまり効用の中身をちゃんと特定しておきます.経済学では,たとえば生産者の効用は,利潤つまり貨幣量です.このようにすれば合理的選択理論は単一の行為を説明するものとしても,有効であるといえます.
※ ゲーム理論では効用のことを利得(Payoff)といいます.したがって,利得はゲーム理論に特有の言い方です.ちなみに,選好は最も意味が広いです.また,選好が一列に並べられかつそれが強度(量)を伴っている場合に,選好は実数値として表現できますが,これが効用です(効用=選好の実数値表現).
3.効用内容の具体例
しかし,経済学では貨幣は自明に効用であり,かつ中心的な価値概念ですが,社会学では,中心的な価値概念はないため,効用の中身はケースバイケースです.たとえば,自由時間,安全(アンチとして犯罪の発生数,検挙率など),健康(生存率)などは数値であり,直接効用になりえます.
意外にも,医療福祉のように切実な問題は,社会学的な合理的選択理論と相性がよいのです(小林盾. 1997. 「リベラルパラドクスとしての脳死問題」『ソシオロゴスNo.21』など).
また,公害や環境問題など社会運動がテーマとするような身近で切実さを孕む問題でも,合理的選択理論はやはり相性がよいのです(船橋晴俊. 1989. 「「社会的ジレンマ」としての環境問題」『社会労働研究』35).
しかし,生きがいとか,自尊とか,他者からの承認といった社会学がよく重視するのは,質的な価値あるいは文化的・社会的な構造に規定される価値です.このような価値は,量に置き換えることは難しくなります.しかし,数値まではわからなくても,順序さえつけば選好は定義できるので,合理的選択理論(ゲーム理論)での分析も不可能ではありません.
4.社会学的価値概念
というわけで,効用の中身を特定することは,それだけでなかなか大変です.見田宗介(1966)『価値意識の理論』とか作田啓一(1972)『価値の社会学』などは参考になります.
作田(1972)を私なりに解釈してみます.たとえば,ある物・事に価値があるのは,まず,それが(持続的なものも含めて)なんらかの快(使用価値=効用)につながることは必要です.しかしそれだけでは価値ありとはいえなくて,さらにその物・事が作品であること,すなわちその制作がだれにでも簡単にはできるわけではないことが必要です.つまり物・事に価値があるのは,その制作に困難があるからです.
その困難は,制作者が自身の複数の欲求のうち,いくつかを犠牲にしている点に由来します.つまり,「犠牲の大きさ↑,成し遂げることの困難さ↑,価値↑」ということです.たとえば,作品制作のためにはまず時間が必要なので,制作中はほかのことはできません.また,作品制作のための技術や知識の習得にも時間が必要で,つまり修行中はやはりほかのことはできません.
そしてここでは,遊びたい欲求や休みたい欲求や投げ出したい欲求よりも,修行して作品を作りたい欲求を優先させるという欲求の選択が行われているのです.したがって,価値とは欲求の充足にもかかわるが,むしろより多くの「欲求の否定」にかかわっているのです.
それでは,ある時と場所と場合での否定さるべき欲求を決めている「欲求選択の基準(システム)」は,なにが決めているのでしょうか.まずは自由意思による思考でしょうが,思考は言語という文化的・社会的なるものに規定されています.また,思考だけでなく慣習もまた欲求選択システムに寄与するでしょうが,慣習は社会的なるものです.結局,欲求選択システムは,言語的あるいは暗黙知的な規則の束(規範の束)といえます.以上から,価値は社会的な起源をもっているといえるのです.
さらにいえば,どんな欲求を否定・排除すべきかについては,議論の余地が常にあるので,静的な文化的・社会的構造というよりもっと動的で生成的なコミュニケーションが価値を規定していると言い換えるべきかもしれません.なお,(文化的な)意味が価値を規定している,というふうによく言われるのはこういう事態のことで,単にある絵や音楽が現実の何を表現しているかということとは関係がありません.
翻って,現実の分析では結局,分析対象の特定の人びとが何に価値を抱いているかという調査が必要になるでしょう.じっさい「〜の価値意識」というテーマでさまざまな調査研究がなされています.
見田や作田だけでなく橋爪大三郎(1996)「「貨幣」と「言語」 : 価値の起源をめぐって」『岩波講座 現代社会学 : 贈与と市場の社会学 17』でも共通しているのですが,社会学では,価値を社会構造に規定されていると考えます.結局,価値は単なる個々人の好みや欲求充足には還元されないものなのです.
5.社会システムと心的システム
経済学では,効用(選好)の中身については問いません.しかし,社会学ではそれこそが問題になってきました.この伝統をふまえれば,社会学的な合理的選択理論(ゲーム理論)における効用概念も,構造に規定された価値を基底にすべきだということになるでしょう.これはルーマンにならって,社会学的分析では,選好という心的システム次元を持ち出すのではなくて,社会システム次元にとどまるべきだということです.
究極的には,個々人の選好は人間の心の中のものなので完全には知りえません.しかし,人間を環境とする社会システム上では,個々人の選好(無制限な好み)に触れずに社会システムの理論(いうまでもなく社会学の中心的テーマ)を作ることが可能だし,むしろそうすべきなのです.これには,複雑な心を選好に矮小化してしまうのは,心に対して失礼だという理由もあります.
社会システムは,さまざまな役割の選好をつくりだします.現実の人びとはそういった役割規範に答えることで満足を見出すホモソシオロジクス的な側面と,役割遂行に伴うコストを回避するホモエコノミクス的側面を面をもっています.この両者に対する重み付けや役割じたいが選択できるところ(役割距離)に,選好や役割に埋没しない人間の意味存在としての能動性を見出すこともできます.
しかしここで重要なのは,社会システムと役割という集合的範疇(父親・恋人・教師・学生・会社員など)が言語という社会次元の意味であるからこそ,それらに付随する価値が社会的である点です.このような価値にもとづくことで,合理的選択理論(ゲーム理論)が説得力のあるものになるのです.
6.社会学的効用理論
このように,社会学的な価値に基づく社会学的な効用概念は,私たちの社会システム次元上の知識を通じた了解によって基礎づけられるでしょう.しかし,百歩譲って,このような社会システム上の効用概念が拒否されてもなお,つぎのようにして社会学的な効用概念を構成できます.
まず,貨幣量のような効用の実体を括弧にくくって不問にしてしまいます.この実体は,適宜,調査すればわかるとします.それで,理論的には,そういった社会的な価値実体が利得として与えられたとします.このときに,自分の効用は,自分の利得だけでなく,他者の利得によっても影響されるとするのです.この影響のされ方は「社会的動機」とか「社会的価値志向性」として定式化できます(土場学.1995. 「社会的価値と合理性」 『理論と方法』10(2)).
通常のゲーム理論では,自分の効用は,他者の行為によって影響を受けますが,他者の利得によっては影響を受けません.しかし,ここではそういう影響があるとするのです.もしも,ここで,自分の効用は他者の効用によって影響を受けるとするならば,互いに効用が影響しあって悪無限が発生してしまいます.しかし,ここでは社会的な利得,個人的な効用,という二層を設定しているので,このような悪無限は生じえません.
こうしたフレームで私は研究しているわけですが,このようなフレームは,私のオリジナルなわけでは全然なくて,社会心理学の実験的ゲーム理論研究(Griesinger, D. W. and J. W. Livingstone, Jr. 1973. "Toward a Model of Interpersonal Motivation in Experimental Games." Behavioral Science 18など)や,最近の実験経済学(Fehr, E. and K. M. Schmidt. 1999. "A Theory of Fairness, Competition, and Cooperation." Quarterly Journal of Economics 114(3)など)でもほぼ同じフレームを用いています.
社会的な利得/個人的な効用という区別は,社会システム内にとどまれというさきほどの話と矛盾するかといっけん思われるかもしれません.しかし,ここでの個人的な効用は,社会システム内部での人格のモデルにすぎず,人間そのものではけっしてないのです.裏をかえせば,ここでは人間がどうなっているかを問うているのではなくて,人びとの利他的志向や平等的志向が相互行為や社会システムに及ぼす影響を問題にするのです.
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2人社会的ジレンマ 9/30 (2004)
1.囚人のジレンマから社会的ジレンマへ 囚人のジレンマ:
3,3 1,4
4,1 2,2
は,「強支配戦略の組が(存在して)パレート非効率となるゲーム」です(下線はナッシュ均衡).この性質をもつn人ゲームを「社会的ジレンマ」と通常いいます.
しかし,社会的ジレンマの本質は,個人的合理性と社会的合理性の乖離にあります.社会的合理性の表現として,パレート効率性は必要でしょう.その一方,個人的合理性の表現としては,強支配戦略は強すぎます(つまり,十分ではあっても必要ではないでしょう).
むしろ個人的合理性の表現としては,ナッシュ均衡がふさわしいでしょう.ナッシュ均衡は個々人の合理性にもとづいて定常的に実現すると考えられるからです.このとき,社会的ジレンマは,「すべてのナッシュ均衡がパレート非効率であるようなゲーム」といえます(木村博邦『大集団のジレンマ』p23など).
2.囚人×調整
ところで,うえの意味での社会的ジレンマは,2×2ゲームでは囚人のジレンマ以外にはないのでしょうか.じつはあります.あまり知られてはいませんが,それはつぎの3つのゲームです.
3,4 1,3
4,1 2,2
3,4 1,2
4,1 2,3
3,4 1,1
4,2 2,3
どのゲームでも行プレイヤーは囚人のジレンマと同じ利得関数をもっているところが興味深いところです.また,どのゲームでも列プレイヤーは調整ゲーム的な利得関数をもっています.つまり,協力には協力を,非協力には非協力を返すというものです(ここでの協力とはパレート優位な結果(3,4)を構成する戦略で,非協力とはパレート劣位な結果(2,2)と(2,3)を構成する戦略です).
アバウトにいえば,囚人のジレンマ的な利得関数と調整ゲーム的な利得関数をもつ2人が相互行為しても結果はやはりパレート非効率ということです.イメージ的には,囚人>調整,といったところでしょうか.このような状況は,立場が非対称であるとはいえ,囚人のジレンマに劣らず多くみられそうです.
※ Rapoport&Guyer(1966)"A Taxaonomy of 2×2 Games."General Systems 11は,78個の2×2ゲームの利得表を載せています.うえの3つのゲームもそこに載っています.
3.非同時手番信頼ゲーム
さて,手番に時間的な順序のあるゲーム(非同時手番ゲーム)は,一般にナッシュ均衡が合理的であるとはいえないので,均衡概念としてはふつう部分ゲーム完全均衡を使います.
また,同時手番ゲームでの部分ゲーム完全均衡は,ナッシュ均衡に一致します.したがって,非同時手番ゲームも含めるならば,社会的ジレンマとは「すべての部分ゲーム完全均衡がパレート非効率であるようなゲーム」というふうに定義し直すこともできるでしょう.
さて,この非同時手番ジレンマの最も単純な例は,以下のゲームでしょう(奥野・鈴村『ミクロ経済学U』p245).下図の利得ベクトルは,(Aの利得, Bの利得)とします(青線が部分ゲーム完全均衡).
A―不信―(1, 1)
信頼|
B―不信―(0, 3)
応答|
(2, 2)
バックワードインダクションで考えてBは不信をとり,Aはそれを見越して不信をとります.この(不信, 不信)が部分ゲーム完全均衡ですが,結果は(1, 1)となってパレート非効率です.
4.ムカデゲーム
うえの非同時手番信頼ゲームをもっと先に延ばしていったものは「ムカデゲーム」centipedeとよばれています(D.クレプス『ゲーム理論と経済学』訳p81,奥野・鈴村『ミクロ経済学U』p397).本当は(100, 100)まであるのですが,途中で切ってみました.
A―不信―(1, 1)
信頼|
B―不信―(0, 3)
信頼|
A―不信―(2, 2)
信頼|
B―不信―(1, 4)
信頼|
A―不信―(3, 3)
信頼|
B―不信―(2, 5)
信頼|
A―不信―(4, 4)
信頼|
B―不信―(3, 6)
応答|
(5, 5)
ムカデゲームの唯一の部分ゲーム完全均衡は,AもBもすべて「不信」をとることです.ここでは,ゲームは最初のノードで終わり,(1, 1)というパレート非効率な結果となります.これもまた社会的ジレンマの一例なのですが,この場合は,むしろ「人間はそんな先の先のことまで考えて行動するのか」という時間性の側面が強くなります.
以上みてきたように,囚人のジレンマ,囚人×調整,非同時手番信頼ゲーム,ムカデゲームというように,2人ゲームの社会的ジレンマにもいろいろあるわけです.
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繰り返しゲームの功罪 9/17 (2004)
1.繰り返しゲーム解析の困難 有名なアクセルロッドによる「しっぺがえし戦略」の有効性は,囚人のジレンマを繰り返す状況での議論です.このような「繰り返しゲーム」repeated gameは,ゲーム理論の中でも最も研究がさかんな分野のひとつです.たとえば,「繰り返し囚人のジレンマ」において,「しっぺがえし戦略の組やトリガー戦略の組がナッシュ均衡になる」(協力状態が成立する)という定理は有名です.
さらにいうと,トリガー戦略の組は部分ゲーム完全均衡になりますが,しっぺがえし戦略の組は部分ゲーム完全均衡にはなりません(石原英樹・金井雅之『進化的意思決定』p50).また,最近の繰り返し囚人のジレンマ研究では,東大の松島斉先生などが,相手の戦略を観察するコストを考えた場合にどうなるか(モニタリング)などの研究をなされています(今井晴雄・岡田章『ゲーム理論の新展開』4章).
しかし,「繰り返し囚人のジレンマ」上の戦略は,無限個あります.というのは,3回の繰り返しでは2×2×2=23個の戦略が論理的に可能なわけで,k回繰り返しでは2k個,無限回繰り返しでは2∞個となるわけです.しかも指数関数的に戦略の数は増大します.
したがって,繰り返しゲームでのナッシュ均衡は,無限個の戦略の中から無限個の戦略の組合せを考えているのです.だから,しっぺがえし戦略の組がナッシュ均衡になる,ということがわかったとしても,それは可能な無限個のナッシュ均衡のひとつにしかすぎないわけです.(繰り返しゲームにおいてナッシュ均衡が無限個あることは,この分野で有名な「フォーク定理」で証明されています(岡田章『ゲーム理論』6章).)
2.繰り返しゲームのシミュレーション それでもしっぺがえし戦略が有名なのは,やはりアクセルロッドのシミュレーション研究によるところが大きいのです.アクセルロッドは繰り返し囚人のジレンマにおいて,多くのありそうな戦略が総当たり1対1対戦をしたときに,しっぺがえし戦略が他の多くの戦略に対して「大きくは負けず」,「平均すれば最も利得を稼ぐ」戦略であることを実証しました(R.アクセルロッド『つきあい方の科学』2章).
このシミュレーションは世界中のゲーム理論家から戦略を募っておこなわれたもので,第1回目のトーナメントでは15戦略,第2回目のトーナメントでは63戦略がエントリーしました.そのなかで,しっぺがえし戦略が両方とも優勝しました.なお,第1回目は有限繰り返し,第2回目は無限繰り返しでした.
興味深いのは,しっぺ返し戦略は直接対戦では他の戦略に一度も勝てなかったのに,「総合得点」では1位になったことです.これは,しっぺがえ戦略は,多くの戦略の混在状況において非常に有効であるということです.これを解析的に証明することはかなり困難で,シミュレーションでしか簡単にはわかりません.
なお,純粋なしっぺがえし戦略がどんな戦略のプールにおいても総合1位になるわけではありません.たとえばノイズのある環境では,しっぺがえし戦略は,エコーとよばれる協力の「互い違い」がよく起こるため得点がそれほど伸びません.しかし,「寛容型しっぺがえし」や「改悛型しっぺがえし」など,やはりしっぺがえし的な戦略が上位を占めることがわかっています(R.アクセルロッド『対立と協調の科学』2章).ちなみにパブロフ戦略はこの論文によるとあまりよくなかったそうです.
3.one-shotの復権とナッシュ均衡解釈 というわけで,繰り返しゲームは非常に稔り豊かな知見をもたらしたわけですが,それが意図せざる結果として,繰り返しでないゲームの地位を相対的に貶めてしまった感があります.繰り返しでないゲームは,one-shotのゲームとして,あまり現実にはないものと思われるようになってしまったような気がするのです.
しかも,繰り返しゲームは,うえでみたように戦略の複雑性がつきまとい,解析がたいへんです(もっともそれゆえシミュレーション研究の意味があるのですが).ということは,ゲーム理論的数理モデルでうまく解析できたとしても,現実の人びとはそんな超合理的な計算などできないのではないか,という疑問がつきまといます.繰り返しゲームはゲーム理論を机上の空論にしてしまう危険性をもっているということです(金子守『ゲーム理論と蒟蒻問答』p264-265参考).
つまり,繰り返しゲームは,繰り返しでないゲームに対しても,繰り返しゲームそれじたいに対しても,ゲーム理論を非現実的なものだと思わせてしまっているような気がするのです.これはゲーム理論のリアリティ全体にかかわることなので,ゲーム理論家としては憂慮すべきじたいと思われます.
この問題を解決するひとつの手は,「繰り返しでないゲーム」=同時手番ゲームの復権だと思います.つまり,one-shotのゲームと考えられている同時手番ゲームをもっと厚く解釈するのです.同時手番ゲームでのナッシュ均衡は,なにも1回限りの行動の組ではなく,頻繁に行動が行われていると考えます.これは試行錯誤と思ってよくて,進化ゲーム的な解釈ですが,進化ゲームと異なり試行錯誤の過程を明示しません.これは,慣習のような現象によくあてはまるでしょう(神取道宏「ゲーム理論による経済学の静かな革命」岩井克人ほか編『現代の経済理論』p37-38参考).
つまり,ナッシュ均衡を,試行錯誤のすえに偶然ある行動の組が起こったら,そこからは合理的な個人は互いに自発的に行為を変えないという「釣り合い」の点として解釈するのです.ここでは相手の利得を必ずしも参照しなくてよいので,無限に開かれた読み合いの超合理性を必要としません.つまりこれは,ゲーム理論を「読みあい」の規範理論から,社会秩序を説明する記述理論へと解釈し直すことを意味します.これは「現実の人びとはそんなに合理的ではない」という周知のゲーム理論批判への応答でもあります.
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2つの利得概念 8/31→9/17(小見出しと海野文献つけました) (2004)
1.ゲーム理論の前提 ゲーム理論は,利得が与えられたものとして,相互依存状況にある行為者の合理的な行動,およびそれによってどのような社会状態が実現しそうかを考える学問です.だから,利得(=価値)そのものについては,それほど注意を払うわけではありません.社会を「諸価値の関係」と「諸行為の関係」に分析的に分けるならば,まちがいなく,ゲーム理論は後者についての理論です.
社会学はどちらかというと,近代とは何かというような,より社会構造と関係の深い「諸価値の関係」のほうに興味があるために,ゲーム理論はいまだに社会学においてはマイナーな存在にあまんじているのかもしれません.また,社会学は,そもそも構造/行為という区別そのものを棄却し,もっと別の切り方で両者を扱おうとする視点をとっているともいえるかもしれません(たとえば言語ゲーム,エスノメソドロジー,ルーマンの社会システム論).
しかし,そのようなゲーム理論でも,利得がなにかをはっきりさせる必要はあります.いうまでもなく,それはゲーム理論の前提だからです.そして,(経済学とは異なる)数学としてのゲーム理論の正統的な利得概念は,フォン・ノイマン=モルゲンシュテルンの「期待効用」概念です.これはvNM効用理論として扱われ,ゲーム理論の前提と考えられています(vNM効用理論については,岡田章『ゲーム理論』など参照).
2.vNM効用理論 ゲーム理論では,社会状態は行為の組に同一視できます(簡単のためここでは同時決定ゲームで考えます).つまり,行為者1, 2がそれぞれ行為s1, s2をとったならば,その社会状態は,s=(s1, s2)で表せます.したがって,行為者1, 2がそれぞれm, n個の行為選択肢をもっていたとすれば,起こりうる社会状態(sの個数)は,mn個です.
vNM効用理論では,このmn個の社会状態に対して,それぞれの行為者1, 2が好ましさの順番(=選好)をつけると考えます.しかも,この順番のつけ方にくじ(確率)を用いることで,単なる順番ではなくて,賞金のような「強度」をもった順番をつけるところがvNM理論のエッセンスです.説明しましょう.
ある社会状態A, B, Cがあり,ある行為者の選好がA>B>Cであるとし,またAとCが50%ずつの確率で実現するくじを0.5A+0.5Cとかくとします.このときこの行為者は,0.5A+0.5Cなるくじか,それともBのどちらを好むのかを問題にできます.つまり,0.5A+0.5C>Bなのか,それとも0.5A+0.5C≦Bなのか,この2つのうち事態はどちらかでしょう.
いま,0.5A+0.5C>Bであったとしたら,つぎに0.4A+0.6C>Bであるか,0.4A+0.6C≦Bあるかのどちらかを検討します.こうして考えていくとじきに,ある混合比,たとえば(0.3, 0.7)を閾値としてこの行為者の選好は,
p=0.3のときは 0.3A+0.7C=B
p>0.3のときは pA+(1−p)C>B
p<0.3のときは pA+(1−p)C<B
ということになるでしょう.このようにして,たとえばAの効用を10,Cの効用0とすれば,Bの効用は3であるということになります(効用の絶対値に意味はなく,効用の差の相対比にのみ意味があります).ここではAが突出してこの行為者にとってよいわけです.
このようにして,vNM効用理論は,複数の社会状態を強度付の選好によって順番に並べます.この強度付選好は,実数値で表現できるので,この値をゲーム理論では「利得」とよぶのです.それぞれの行為者の選好順序は必ずしも一致しない(というか一致することはほとんどない)ので,コンフリクトが起こりえます.だからこそこれをゲーム理論的に分析する意味があるのです.
3.役割で決まる利得 これがvNM効用理論のあらましですが,気になるのは,AとCの間にくるBがどの程度の間なのかという閾値(うえの例では0.3)は,ほぼ純粋に主観的であるという点です.もちろん,調べることは可能なのでしょうが,ゲーム理論を経験現象に適用する場合に,いちいちそんなことをやっていたら日が暮れてしまいます.だから,じっさいのミクロ経済学理論には,vNM効用理論を通さず,利潤=利得としたりできるわけです.
だから,ゲーム理論における利得概念は,理論的にはvNM効用理論で導出されるけれども,じっさいにそれを経験現象にあてはめるときは,(多くの場合)違う論理を用いているわけです.よって,2つの利得概念がある,というわけです.それでは,このもうひとつの違う論理とはなんでしょうか?
私は,それを「役割に対する了解」だと考えます.たとえば,生産者(という役割)は利潤を最大化しようとみなせるから,利潤=利得とみなせます.消費者(という役割)は財ベクトルに対する効用を最大化しようとみなせるから,財ベクトルに対する効用=利得とみなせます.
このように経験的モデルでは,いちいち「利得とはなにか」を,了解という手法によって問うていく必要があるのです.
さて,経済学では,だいたい生産者と消費者しか出てきませんか,社会学では多様な役割が登場します.教師,生徒,クラスメイト,友達,上司,部下,同僚,父親,母親,子供,兄弟,国民,市民,芸術家,学者,政治家,技術者,職人...細かく分ければ,役割はきりがないといってよいでしょう.教師には,生徒に学力をつけさせるという目標があり,その目標をどれだけ実現したかによって利得が決まります.生徒は点数をとる,あるいは単位をとる(合格する)という目標があり...
注意すべきことは,海野道郎先生がいうように,この利得概念は,単なる行為者の主観的な選好ではなくて,「社会的に共通理解のある価値尺度」なのであり,当該の行為者は全員この利得を基本的には,共有知識にできるのです.これゆえに,vNM効用理論の主観性問題をクリアできるのです.(海野道朗. 1993. 「合理的選択理論の基礎概念」『社会的ジレンマに関する数理社会学的研究』文部科学省科学調査研究 あるいは有斐閣『新社会学辞典』の「利得」項目)
なお,それぞれの役割は,規範の束によって構成され,それが役割固有の機能と価値を決定します.簡単にいえば制度的に決定されているわけですが,それは知識と規範に負っています.
ある人に対して,ビジネスマンとして接するべきか,友人として接するべきかという役割葛藤(役割選択)に悩むこともあるでしょう.しかし,ひとたび役割がきまれば,利得はだいたい決定(了解)されるわけです.
最近の数理社会学では,こういった役割概念とゲーム理論を接合する研究がみられはじめました(Montgomery, James. D. (1998) "Toward a Role- Theoretic Conception of Embeddedness." American Journal of Sociology104(1):92-125).社会を社会学的かつゲーム理論を使って分析していこうとするならば,このような方向性は非常によいのではないかと私は思います.
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契約の非契約的前提と囚人のジレンマ 8/18 (2004)
1.契約の重要性 会社と会社,会社と顧客,雇用者と被雇用者,依頼人と代理人などの取引関係は,「契約」によって結ばれます.したがって,契約は近代の経済社会の構造(取引ネットワーク)を作り出すと考えられます.また,ルソーやロールズによる社会契約論は,この考え方を政治領域にもちこんだものといえます(ルソーの思想は,現実の政治制度にも浸透しています).したがって,契約は近代社会の構造の根幹であり,契約の分析は社会科学にとってきわめて重要といえるでしょう.そこで,今回はこの契約について数理社会学的に考えてみます.
2.契約の非自明性 契約を守らない場合には罰されるので,合理的な行為者は契約を守ると考えられます.したがって,契約は人びとの合理性から説明がつきそうです.しかし,現実の契約を厳密に考えた場合,グレーゾーンなので罰されはしないが,それでも相手に迷惑をかける行為はいくらでも考えられます(たとえば相手にわからないことをいいことにテキトーに仕事をするなど).
さらにいえば,考えつくかぎりの迷惑行為の禁止とそれへの罰則を契約文書に追記したとしても,やはり不測の事態はおこるもので,すべての迷惑行為に予め罰則を与えることはできません.法に詳しければ,法の網をすり抜けることができるように.
にもかかわらず,ふつう近代社会では,契約は結ばれ,そして守られます.これはなぜでしょうか.
3.契約の非契約的前提 フランスの社会学者デュルケムは,上述したように契約を人びとの合理性に還元しようとすると説明がつかなくなると考えました.彼はこの「契約の非契約的前提」を合理性=計算には還元できない集合的感情や道徳や規範や信頼といった「社会的なるもの」と捉え,(経済学と区別された)社会学の主たる分析対象のひとつと考えました.あるいはそれを社会学的な分析枠組みのひとつと考えました.
デュルケムのこの発想は,合理性の限界を合理的に考えた点できわめて正当でしょう.しかし,100年前のデュルケムの分析は今日の水準ではちょっと粗っぽくみえます.そこでここでは数理社会学的に,ゲーム理論を使ってもうすこし精緻に契約を分析してみましょう.
以下の分析は,非同時手番ゲーム(展開型ゲーム)になるので,じつはちょっと厄介です.そこで,もっと単純なモデルをつくることもできます.それには,契約関係ではなく,売買のように一瞬で行為が終わってしまう「限定交換」を考えます.限定交換もまた,契約関係のひとつともいえましょう.盛山・海野編1991『秩序問題と社会的ジレンマ』の山岸敏男論文(p227〜)は,限定交換が囚人のジレンマであることを明示しています.
4.契約成立後のゲーム理論的考察 さて契約が結ばれたと仮定しましょう.このとき,上の話から,両行為者には,つぎの2つの選択肢があると考えられます.
C=契約文書の記載事項を守るのはもちろん,相手に迷惑をかけないように配慮する
D=契約文書の記載事項は守るが,罰則がなければ可能なかぎり自己利益を追求する
以下の利得表において常識的に考えれば,利己的である各行為者の社会状態に対する評価は,☆>◎>△>×という順序関係が成立するでしょう(( )'も同様).
i\j C' D'
C ◎, ◎' ×, ☆'
D ☆, ×' △, △'
ここでは,行為者iがCをとり,行為者jがD'をとった社会状態(C, D')における(×, ☆')は,この社会状態に対するiの評価が×であり,jの評価が☆'であることを意味します.ここではiが「馬鹿を見る」ことになります.
この利得構造は,いわゆる「囚人のジレンマ」です.よく知られているように,相手jがCでくれば☆>◎だからiはDをとり,相手jがD'できても△>×だからiはDをとります.つまり,jがどちらの手をとってもiはDをとったほうがよいのです(Dのような選択肢を「支配戦略」とよびます).
立場は対等なのでjもそのように考えれば,結局(D, D'),利得でいえば(△, △')が実現し,互いに相手を搾取しあう望ましくない契約関係になってしまいます.つまり,この社会状態(D, D')は,お互い相手に配慮しあう(C, C'),利得でいえば(◎, ◎')なる社会状態に比べて,i, jともに望ましくないわけです((D, D')は(C, C')に対してパレート劣位).
5.契約成立前からのゲーム理論的考察 さて,以上は契約が結ばれたという仮定の下での話でしたが,各行為者には契約を結ぶかどうかの選択が事前にあるはずです.そこで,まず行為者i, jは契約を「結ぶ」,「結ばない」,という選択をするとします.また,どちらか一方でも「結ばない」という選択をすれば,契約は結ばれないとします.
ここで,契約が結ばれない場合の社会状態に対する行為者i, jの評価を○,○'としましょう.このとき,もしも◎≦○であれば契約しても両行為者がともによくなることはないので,◎>○が成立しているとしましょう(互いの利益になる可能性のないような契約は契約とはよべないでしょう).
さて,i, jの両者が「結ぶ」を選択した場合には,うえでみたような「囚人のジレンマ」のゲームに入ります.そこでの(部分)ゲームの結果における利得の組(社会状態の評価の組)は(△, △')でした. したがって,この契約成立状況のゲーム全体(縮約ゲーム)は,つぎのようになるでしょう.
i\j 結ぶ' 結ばない'
結ぶ △, △' ○, ○'
結ばない ○, ○' ○, ○'
さて,各行為者の社会状態への評価が○>△であったとすれば,さきの囚人のジレンマと同様に考えれば,この縮約ゲームにおいては「結ばない」が支配戦略なので,(結ばない, 結ばない'),つまり(○, ○')が成立し,契約は結ばれません.契約を結んだ場合にはうれしい結果(◎や☆)があるかもしれないが,相手の利己的な合理性を仮定すれば,契約を結ばないほうが得であるということになります.
一方,各行為者の社会状態への評価が△≧○であったとすれば,今度は,(結ぶ, 結ぶ')が成立し,契約が結ばれ,i, jともに相手を搾取しあって(△, △')が成立します.それでも契約を結ばないよりはまし,ということにはなります.
結局,このゲームでは,○>△であれば(○, ○'),△≧○であれば(△, △')が成立します.しかし,いずれにしても両行為者にとってよりよい(◎, ◎')なる社会状態は成立しません.だから,このゲーム全体は拡張された囚人のジレンマである「社会的ジレンマ」といえます.
「社会的ジレンマ状況」とは,一般に「すべての均衡がパレート非効率」であるようなゲームのことをいいます.この分析では非同時手番ゲームの定石にしたがい,均衡概念に「部分ゲーム完全均衡」を使っています.このゲームでは,△と○の順序によらず,☆>◎>△>×かつ◎>○であれば,部分ゲーム完全均衡がパレート非効率になるということです.
6.デュルケムに対するゲーム理論的補足 このゲーム理論的分析では,○(非契約状態)と△(共搾取状態)に対する評価を場合分けして考えました(適宜,○を(○, ○')などと読み替えてください).このことで,利己的で合理的な行為者も,△≧○であれば契約を結ぶということがわかりました.ただし,この契約関係は両者にとってあまり望ましいものではなく,現実の契約関係においては,もっと望ましい◎が多数成立しているものと考えられます(しかし,△のような「望ましくない契約関係」もまた多く成立しているのでしょうが).
このように,ゲーム理論を用いることで,デュルケムの分析は,○>△(⇔ 非契約状態>望ましくない契約関係)という前提条件を暗黙のうちに仮定していることがわかりました,これは,簡単ではありますが,ゲーム理論的分析による契約の社会学的知見といえなくもないと思います.デュルケムはおこりうる状況の半分しか考えていなかったということでしょう.
しかし,デュルケムの分析の主題は,○と△の社会状態が多いのではなく,◎の社会状態が現実には多いではないか,ということでした.この批判は,今回のゲーム理論的モデルにもあてはまります.やはり,デュルケムがいうように,利己的な合理性の下では,望ましい契約関係は成立せず,それには道徳や規範や信頼といったものが介在する必要がありそうです.
もっとも,もっと現実に即して考えるなら,部分ゲームに1回限りではなく繰り返し囚人のジレンマを仮定すべきでしょう.このときはもうちょっと議論がややこしくなります.しかしこの場合でもやはり支配戦略的な合理性だけでは契約は結べないようです(繰り返しゲームは,基本的には調整ゲームとして考えられるため,均衡選択の問題が入ってくる).
また,現実には,「評判」(ブランド)の力は,多くの場合,以上にみたような契約のジレンマを解消しています(たとえばヤフーオークションやAmazon.comの古書サーヴィスなど).これは社会的なるものとしての信頼の一形態とも考えられますし,合理性の延長でも理解できます.いずれにしても,デュルケム的な視点を意識しつつ,ゲーム理論的に分析していくことは,数理社会学独自の視点のひとつといえるのではないでしょうか.
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数理社会学とは何か 7/25 (2004)
数理社会学は,社会学固有の視点から,数学的論理を用いて,社会現象を記述し説明することを目的とします.社会学固有の視点に立つことで経済学と区別され,数学を用いることで他の社会学と区別されます.また,数理社会学は理論社会学の一形態です.
1.社会学固有の視点 社会学固有の視点とは,ひとことでいえば社会的関係なのですが,それは,集団・制度・構造・機能・役割(期待)・知識(暗黙知)・意味・規範・共属感情・愛情・合理性・行為・コミュニケーション・信頼・権力などの諸概念に分解できます.
このなかの何を原理的な説明概念(公理)とするかは,研究者の理論的パースペクティブに依存します.たとえば,機能を出発点にとれば機能主義,構造であれば構造主義,意味であれば意味学派,行為であれば理解社会学といったように.数理社会学では行為論(合理的選択理論)とネットワーク研究がさかんですが,後者はむしろ構造主義に近いといえます.
2.理論社会学としての数理社会学 数理社会学が理論社会学の一形態であるのは,数学の抽象性のためです.理論は少数の公理から出発し,演繹的に導かれる命題の体系です.しかし,理論そのものが数学を基本的なモデルとしているので,数理社会学が理論的でないはずがないのです.
また,命題は「Aという条件が整うと,Bが起こる」という形で,原理的には,いつでもどこでもAが成り立てばBが成り立つと主張します.この「いつでもどこでも」という同一性が,理論の特徴です.数理社会学においては,この条件Aを厳密に表現します.このために,他の社会学の命題に比べて(『社会学命題コレクション』を参照),その命題の適用範囲が明確に定まるのです.数理社会学からみれば,自然言語における命題は,甚だ曖昧なのです.
3.数理社会学の特徴 数理的方法の特長は,@仮定と推論の明確さ,Aメカニズムの解明,B表現の簡潔さ,C経験的テストのしやすさ,D比較研究のしやすさ,Eイデオロギーのなさ,F現象の予測力,G社会構想・制度設計力,などです.
@ 仮定・概念・推論の明確さ 数理社会学は,仮定・概念・論理展開が明快です.自然言語で説明すると,知らず知らずのうちに新しい仮定が入ってくることがよくあります.なにを仮定しているのかが曖昧だと,もう説明とはいえません.数学を使うことによって,この過誤を未然に防止できます.
また,ナッシュ均衡,パレート効率性,社会的ジレンマなどのように,記述的,規範的,状況的概念が数式で表現されるので,これらをひとたび理解しさえすれば,確実に共通のプラットホームで議論するこができます.
また,論理展開が演算と記号論理で書かれるので,それらの間違いは数学がわかる人にはすぐわかります.間違っていることがわかるのは,学問の発展にとって非常に重要です.自然言語では間違いがよくわからないから,ひとたび権威になってしまった人の文章を鵜呑みにしてしまったりするし,そもそも間違いがわからなかったら,論文の真偽や価値が曖昧になってしまいます.
A メカニズムの解明 自然言語で追えないような論理の連鎖も,数学を使えば比較的簡単に追えます.このことで,多くの変数が入り組む行為連関や複雑なシステム(これこそ社会!)において,どんな変数が効いているかが明らかになります.統計解析でも変数間の相関関係はわかるのですが,因果関係については基本的にブラックボックスです.一方,数理モデルはホワイトボックスであり,変数間の因果関係を予め仮定しておき,それが全体として,あるいは時間の中でどうなっていくのかを解明できます.
B 表現の簡潔さ 数学は,記号による情報の圧縮でもあります.たとえば,ナッシュ均衡やパレート効率的という概念は,数学的に表現すれば1行で済みますが,言葉で厳密に表すとかなり大変で,それを噛み砕いて説明しようとすれば,1節ずつ必要になるでしょう.このような情報の圧縮により,私たちは一度に多くの事柄をまとめて処理できるようになります.こうすることで認識の負荷が減り,学や理論という認識それじたいをより発展していくことができるのです.
C 経験的テスト可能性 数理的に書かれた命題は,条件が明確なので,経験的テストがしやすくなります.これにより,たとえば実験ゲームという分野が社会科学においても可能になるのです.これは経験科学にとって非常に重要でしょう.
D 比較研究のしやすさ 数学という共通言語のおかげで,比較研究がしやすくなります.自然言語では,同じ言葉による意味の違い,違う言葉による同じ意味ということが多く,理解の妨げになります.また,自然言語では,やはり用語系によって意味が微妙に変わってくるので,理論間比較はなかなか難しいわけですが,数理では同じものは同じだし,違うものは違うとはっきりしています.これによって,研究の無駄が省け,また諸モデルを統一するような理論もつくりやすくなってきます.
E イデオロギーのなさ 自然言語は,マルクス主義がそうであったように,やはりなんらかの特定のイデオロギーに囚われがちです.もちろん,数理社会学だって意味や機能にコミットせざるをえないのですが,そういうスタートラインの公理とは別に,行為連関のメカニズムを考えることができるのです.したがって,たとえばゲーム理論+マルクス主義,といったことができるのです.
F 予測性 数理モデルは,理論的言明であり,「いつでもどこでも」ある条件Aが整えば,Bが起こると主張するわけだから,現象の予測ができます.この予測力は,他の社会学理論にはあまりない特性です(マートンの「予言の自己成就」などを除いて).あとづけ的な説明になりやすい社会学のなかにあって,数理社会学の武器ともいえます.
G 社会構想と正義論 うえの数理モデルの予測力に由来するのですが,たとえば人びとが利己的に行動してもうまくいくような正負のインセンティブをルールとして与えることにより,制度を設計していくことができます.たとえば,経済学者たちは,ゲーム理論を用いてオークションの制度を設計したり,環境問題での排出権取引制度を分析したりしています.現在,ゲーム理論は法学分野にも進出しているので,近い将来,ゲーム理論を用いた政策が実現されるかもしれません.
なお,かならずしも人びとが利己的に行動するという前提をもうける必要もないかもしれません.たとえば,人びとが平等を好むという仮定をおくとか,人びとが家族や仲間との関係を大事にするという仮定をおいたうえでの数理モデルによる制度設計も可能でしょう.
また,ほとんど公共哲学になってくるのですが,「どんな社会状態が望ましいのか,それはいかにして実現できるのか」という議論において,社会的選択理論とゲーム理論は,非常に有効です.功利主義原理,マクシミン原理,ジニ係数などによって,数理は公共哲学に共通のプラットホームを与えることができます.
もっとも私は,ハードな制度設計より,個々人の考え方が変わると,社会がどう変わっていくか,さらにそれによって個々人の考え方がどう変わっていくか,という自生的な社会変容のほうに興味があります.ふつうは,こういうものを社会意識の変化というのでしょうが,社会の条件を整えることで社会意識が変わるのなら,これもひとつの社会構想のあり方なのだと思います.
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社会学と他の社会科学との違い 7/11→7/13(文献などをつけすこし改訂) (2004)
経済学が市場を主な研究対象とするように,経験科学は経験対象をもちます.それでは,社会学の対象はなんでしょうか.結論的にいえば,社会学の対象は社会すべてです.しかし,そうだとすれば,諸社会科学をすべて集めればそれですみます.では,社会学などという学問領域がなぜ存在できるのでしょうか.ポイントは,社会学はその対象によって規定される学ではなく,その研究方略によって規定される学だということです.
まず,「社会学の対象」じたいが社会学の研究対象でもあり,議論の余地があります.有名な議論は,コント・スペンサーに由来する「総合社会学」とジンメルに由来する「形式社会学」の対立です(富永健一『社会学講義』1章).
総合社会学は社会学を,政治学,法学,経済学,教育学,宗教学などを臣下にしたがえる社会科学の王様とみなします.
一方,形式社会学は社会学を,それらの諸社会科学と対等な一平民とみなします.形式社会学の対象は,暴力的に単純化していえば,人間と人間の(一般的な)関係です.それはたとえば上位と下位,競争と協力,闘争,秘密,結社,集団の成員数の影響などです.たとえば企業でも政党でも大学でも,上下関係はあるので,その具体的内容と切り離して上下という形式だけを抽出して分析することができるわけです.
しかし,総合社会学は社会学独自の領域を見出せないし,形式社会学は形式だけを研究しても空疎だから挫折を運命づけられています.結局,このどちらの極端な立場も,今日では否定されています.では,社会学とはなんなのでしょうか.
社会学の対象は,総合社会学が主張するようにやはり社会全域に及びます.しかし,その分析の方略は,総合社会学のような百科辞書的なものではありません.政治学,経済学など諸社会科学は社会をいわば「縦割り」に見るものです.反対に,社会学(および社会心理学)は,社会を「横割り」に見るのです(塩原勉ほか編『社会学の基礎知識』p3).
つまり,集団・制度・構造・機能・役割・知識(暗黙知)・意味・規範・共属感情・愛情・行為・コミュニケーション・信頼といった「社会学固有の視点」(形式)から,政治,経済,法,宗教,教育などの機能分化した社会(内容)を領域横断的につないでいくことが,社会学の社会に対する分析の方略といえます.これは「これまで関係のなさそうにみえたものに関係をみいだす」という発見的手法です(したがって歴史資料や人類学資料を用いた比較研究がよくなされます).だから,けっして社会学は政治学,経済学,法学,教育学,宗教学といった社会科学の研究対象の「残余」を研究するだけの学ではないのです.
大げさにいえば,社会学がなければ諸社会科学はバラバラになってしまうのです.したがって,あえて社会学の視点を擬人化していえば,それは生活者(生活世界)の視点になります(生活には社会すべてがかかわってくるため).また,社会学においては研究対象の限定以上に,なにを問題とするかという研究者の問題意識がしばしば問われるのは,この領域横断性のためでもあるのです.また,この領域横断性により,社会問題を考えるときには,社会学(者)が中心的な役割を果たすことになるわけです(アメリカでは社会問題がありすぎて,それを扱う学として社会学が意義づけられているようです).
もっとも,今日の社会学は,領域横断的な社会学固有の理論(ウェーバー,デュルケム,ジンメル,パーソンズ,エスノメソドロジー,ルーマン,ブルデュー,ギデンズなど)が発達したおかげで,この理論に沿って,既存の社会諸科学の分析対象(政治,経済,法,教育,宗教,福祉(医療看護)など)を直接分析することが可能になっています.だから,経済社会学,政治社会学,法社会学,教育社会学,宗教社会学,医療社会学などという○○社会学が社会学以外からも承認されているわけです.これは領域横断性を意識しないですむという意味で,社会学の通常科学化といえるかもしれません.
しかし,社会学固有の対象というものもあります.それは「情報・メディア」「階層」「都市」「地域」「エスニシティ」「世代(子ども・青年・中高年)」「家族・ジェンダー」「差別・マイノリティ」「社会病理・逸脱」「社会運動」「サブカルチャー」などです.また,「文化・社会意識」は人文科学全般にかかわるものの,やはり社会学が中心的かもしれません.そのほかの対象領域には,「知識・科学」「情報」「人口」「産業・労働・組織」「農山漁村」「環境」「災害」「国際・エリアスタディ」「 歴史・社会史・生活史」があります(社会学会大会申し込み用紙の部会希望などを参考).
結局,ジンメルの形式社会学の成果は,それが社会生活を「内容/形式」に区別したことで,社会学固有の視点(形式)としての社会学理論が自覚され自律したことにある,と私は思います.たとえば,ルーマンは,「システム/環境」という形式的な差異から出発し,法,組織,政治,教育,環境などほとんどあらゆる社会領域にわたって論を展開することができるわけです.また,橋爪大三郎は,「性・言語・権力」という質的に異なる社会的な力(形式と内容の中間)から出発し,やはりほとんどあらゆる社会領域を論ずることができるわけです.
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コールマン・ボード:文系的手法と数理モデルの補完関係 6/30 (2004)
社会(科)学において数理モデルはどのように位置づけられるのでしょうか.
1.数理モデルの特徴と代表例 数理モデルは,人びとの【ミクロな行為の集積としてマクロ現象を説明する】ときにきわめて有効です.
(ミクロ→マクロという考え方は素直な考え方ですが,論理的にはマクロ現象を交換システムや法や資本の自己運動といったマクロ変数だけで考えることも可能で(マクロ→マクロ),たとえば構造主義や機能主義やマルクス主義はこのような発想をとります.いわゆるデュルケム流の社会を(あえて)実体視する考え方が典型です.しかし,今日の社会学理論(ルーマン,ギデンズ,ブルデューなど)ではこのようにマクロをマクロのままにせず,ミクロな行為やコミュニケーションにリンクさせています.とはいえ数理モデルに比べればそれらは非常にわかりにくく難解なものになっています.もちろん難解なものが悪いわけではないのですが.)
このミクロ→マクロによる社会現象の説明は,経済学における「市場均衡理論」(需要と供給の一致メカニズム)が代表的ですが,数理社会学では「社会的ジレンマ」が有名です.これは「囚人のジレンマ」のN人版です.
社会的ジレンマの経験的な事例としては,公害やごみ問題といった「環境問題」,一票の影響力の小さな「国政選挙」,今回の年金法案のように反対する人が圧倒的なのに大規模な国民的デモが行われず政策が通ってしまう問題(フリーライダー問題)などが挙げられます.
2.『プロ倫』とコールマン・ボード しかしここでは,ウェーバーの『プロ倫』を使ってミクロ→マクロを考えてみます.というのは『プロ倫』がきわめて解釈学的な方法すなわち文系的手法によっているので,逆に数理モデルの普遍的な補完性が明らかになるからです(選挙や環境問題は数理モデルが有効なのは論ずるまでもないでしょう).
まず,前提として方法論的個人主義(ウェーバー)がとられます.といっても,個人の意図どおりに社会(現象)ができているわけではなく,<予言の自己成就>(マートン)のような意図せざる結果もありえます.
だから,意図(内面)だけがわかれば社会がわかるわけではなく,【行為連関のメカニズム】(下図のAB)が問題になります.
数理社会学では,「コールマン・ボード」(