桜子ちゃんと小麦粉くん
* プロローグ *

 

 上手に結んであげようと思ったんだ。上手に結んであげられると思ったんだ。だって僕は着物の本を読んだばかりだったんだから。ちゃんとそれを覚えていたんだから。なのに、どうしてもうまく結べなくって、結局その人は他の人の所へ行ってしまったんだ。
 ガラスの椅子に腰掛けて、ガラスのチェスで遊んでいる人たちを僕は見ていたんだ。だけど、おかしいんだ。だってあそこは硝子細工のお店だったんだから。どうしてみんなチェスをしているの? 僕はこのお店に来たことがあるんだ。なのに、どうしてみんなチェスばかりしているの?
 隣の建物をのぞくと、星空みたいにキラキラした天井の下で、女の人が歌っていたんだ。僕はその歌声を聞きながら、ガラスの槍が降ってくるんじゃないかと思って、ビクビクしていたんだ。恐くて、天井ばかりを見上げていたんだ。だって、僕の目には天井の槍が光って見えていたんだ。
 嵐の夜に僕は逃げ出したんだ。投げ出されて、冷たい海に浸りながらずっと船の縁につかまっていたんだ。お家が遠くなるのが分かったけれど、振り落とされてしまっては死んでしまうだけだから、だから僕は手を放せなかった。嵐が去って船は港に泊まったけれど、僕はそのまま帰れない。帰り道がわからない。僕は帰りたい。僕は帰りたいんだよ、桜子ちゃん。

 常に靄に包まれているかのように白んだ家の中で、小麦粉くんは悲しげに呟く。小麦粉くんはいつの間にかそこに居て、白い靄の中に立っていた。私は台所の床に膝をついて、小麦粉くんを見上げていた。けれど、本当は小麦粉くんは靄の中にいたんじゃないんだ。私が落とした袋から、舞い上がった砂塵の中。だから、小麦粉くんは小麦粉くんなんだ。
 家の中は違うけれど、家の外が靄のような何か、決して小麦粉なんかではない何かに包まれているのは本当だ。手入れもされず、生えるがままの庭の草いきれ。土を掻き、ミミズを探す鶏。蔦に埋れた、スカイブルーの車。裏庭の老木は枝を垂らし、幹の中を桜色に染めだしている。
 家を囲む木々は林なんかではなく、正真正銘の森で、それ等全てが何か白い空気というか雰囲気というか、とにかくそういった目に見えないモノを立ち込ませ、それが視覚化されて靄のような何かに成っている。それが本当。
 そんな白い靄に囲まれた家の中で、私と小麦粉くんは出会ったのだ。

 

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